お話 黒田オサム
戦後、間もなくの山谷へ
小見 黒田オサムさんです。パフォーマーで画家という、今年喜寿を迎えました。さっそく、時間もありませんので始めたいと思います。実は三年前に黒田さんの、その時はパフォーマンスと話という形をとったんですが、今日はそれ以来の二度目の黒田さんの話を聞きたいと思います。このあいだ、黒田オサムさんの七〇歳を祝う会というのをやりまして、いろいろな人が集まって、いろいろな自分勝手なことをやったり、黒田さんの話やパフォーマンス、あと黒田さんは画家でもありますので、絵を展示したり……一日、六時間くらいのイベントをやりました。その時にこの「ちんぷんかんぷん」という黒田さんのパンフレットを作ったんです。その為にちょっと山谷に黒田さんと行きまして、話を聞いた訳です。その時に感じたんですけども、山谷がガラッとなんか普通の街みたいな感じになっちゃってる。ええっ、こんなところができちゃったのって。もう山谷という雰囲気ではなくって。「世界」という立ち呑み屋がなくなりました。それからデカいスーパーができて。その後で八月に夏祭りに行ったら今度は「大利根」という呑み屋も閉まっちゃってる。まあドンドン変わっている訳です。私はその十数年くらい前の八四年くらいの山谷から今までしか知らない訳ですけど。黒田さんは、まだ非常に体が柔らかくて、今でもバリバリのパフォーマーですけれど、今日は時間がちょっとないのでなしです。では、さっそくお話を伺いたいと思います。最初に黒田さんが山谷に登場した、行ったのはいつ頃ですか。
黒田 ああ、どうもみなさん今晩は、黒田オサムです。ええと山谷にはですね、昭和二〇年代の後半近くだったですねえ。
小見 まだ非常にお若かった。
黒田 そうです、そうです。二〇代ですね。二〇をちょっと超えたくらいだったでしょうかね。ええ二〇代前半ですねえ。
小見 その時の山谷の状況っていうか……
黒田 戦後の面影が、まだ山谷には大いにあった訳でしてね。まあ僕自身にしても兵隊さんの払い下げの服、それから雑嚢を下げて、山谷に現れた訳ですけども。
小見 このあいだ黒田さんから伺ったんですが、当時と言いますか、昔は山谷はヤマって言わなかったそうですね。
黒田 そうですね、それは上野の山の関係がありましてですねえ、大体ヤマと言うと、上野の山を指してたんですね。まあ御存知のように東京は焼けて上野の山に逃れて、そこでみんな住みつきまして。まあ不法占拠っていうことなんでしょうけども。今の青テントの元祖みたいなもので、上野の山には当時は青テントのようなものないけれども、小屋を作って住んだんですね。それがだんだんこう部落らしくなって葵部落って言いましたですね。葵部落っていうのは結局徳川の山ですからねえ、上野は。その葵の紋からきてるんでしょうねえ。葵部落と山谷は非常に関わり合いが深くって。葵部落の人が、山谷の泪橋に来て仕事を得るっていう。まあ労働市場になってますから、寄せ場になってますから。また山谷の人が都心の方に仕事に出て、それで上野あたりに来て、葵部落へ寄って。葵部落にみんな仲間がいますからねえ。葵部落の食堂で麦(ばく)シャリ。当時麦っていうのは安かったんですね。麦シャリの、まあ二五円くらいでおかず、味噌汁、お新香までも付いていて。お米じゃないですからねえ。麦は安かったんですね。そういうのを食べていくという。ですから、今は山谷のことをヤマと言っていますけども、山谷と上野の山とは非常に関わり合いが深いんですねえ。まあ当時のことをみなさんも写真画報なんかで御存知でしょうけども。浮浪者、浮浪児、戦災孤児ですねえ。上野にはたくさんいまして。で、冬になると、寒くなると……当時地下街っていうと上野しかなくて。浅草にもあったですけど小さかったですね。寒くなるとみんな地下道に来るんです。そこで刈り込まれて、そして山谷にもってこられたですねえ。今マンモス交番は移動していますけど、前はマンモス交番っていうのはちょうど泪橋の通りの左側、浅草の方に向かって左側にあったわけです。あの辺が浮浪者の収容施設になってたんですね。テント張りにしてそこに収容して。その辺から戦後の山谷のドヤ街が始まったんです。戦前からありましたけれど。まあ山谷らしくなってきたっていうのは、そのあたりから始まってた訳なんです。
小見 それは一九五〇年代の後半くらいですか。
黒田 昭和二〇年代ですねえ。二〇年代の、まあ中頃からですねえ。
小見 ああそうですか。当時どのくらいの日雇い労働者、それと野宿をしている人が……
黒田 そうですねえ、僕は学者ではありませんから統計的にはわかりませんけれども、かなり……山谷へ来れば食堂がある、山谷へ来れば寝泊まりできるっていうことで。山谷へ来れば、まあ労働市場ですから仕事を得られるということで、そういうことで東京からみんなが集まり、それから全国から集まるというようなことで。
小見 仕事はあったんですか。
黒田 僕が山谷に来た時分はまだ仕事はなくて、四日に一回くらいでしょうか。これは玉姫職安、労働出張所通してですね。あそこでマルミン、マルシツっていうのがありまして。マルミンなんかになると四日に一回程度だったでしょうかねえ。
小見 どういう意味ですか、それ。
黒田 ええと、これは民間紹介っていうことですね。
小見 ああマル民、マル失?
黒田 民間紹介です。労働市場の窓口っていうのは三つありまして。一つは日本国政府によって、国会の決議によって作られた失業対策法による失業者救済、これをマル失、そしてそれに該当しない人達がカードを得て、それはマル民って言ったですねえ。それから職安の窓口を通さない闇労働市場で、いわゆる立ちんぼ。当時はまだあんまり仕事は出てこなかったですけどねえ。その後、東京復興、復興っていうことで仕事が出てきました。マル民にしても闇労働市場にしても仕事がだんだん出てきたんです。で、小見さんとこのあいだ電話で話しました、あの吉展(よしのぶ)ちゃん事件。吉展ちゃん事件の前後の山谷の状態についてどうかというような話しでしたけども。吉展ちゃん事件っていうのはずっとあとですね、あれは昭和三八年。昨夜、ちょっと調べてみたら昭和三八年の三月三一日に吉展ちゃん事件っていうのがあったんです。みなさん御存知でしょうか?
小見 おそらくここにいらっしゃる方の多くは御存知ない。少年だった私には記憶があるんです。毎日のようにラジオ、テレビも出始めた頃でしたか。誘拐殺人事件という、今日渡した文章のなかにあるんですけれど。村越吉展ちゃんという四歳の男の子が山谷の近くで誘拐されまして、そして五〇万円要求されました。それで五〇万円取られたままわからなくなっちゃう。二年後に犯人は捕まったんですけど、もう既に、誘拐されたその日に殺害されていた。戦後間もなくの誘拐事件として、今でも伝えられているということなんですね。それで、山谷のそばに回向院という、そこにはねずみ小僧次郎吉とか高橋お伝とか、あと吉田松陰とか有名な人のお墓がいくつかあるんですけど、その門の前に吉展ちゃん地蔵という大きなお地蔵さんがあるんです。そういう事件が昭和では三八年、一九六三年に起きたということを、私ら五〇歳くらいの者は記憶してるんですね。
吉展ちゃん事件で僕ら日雇いに対する目が変わった
黒田 それが昭和三八年三月三一日ですね。山谷には玉姫公園っていうのがありますけれども、玉姫公園からずうっと上野の方、上野駅の近くの方に入谷公園ていうのがあるんですよ。入谷南公園ていうんですけれども、吉展ちゃんの家が近くて、吉展ちゃんの家は大工さんやってたらしいですね。それでいつものように吉展ちゃんが公園に遊びに出てって。それでいなくなった。なかなか犯人が挙がらなかったんですけども、電話の話し方のなまりとか、いろいろ推定して、まあ有名ななんとか刑事っていうのが、とうとう突き止めた訳なんです。犯人は小原保さん、さん付けていいのかどうかな。僕はすぐさん付けたくなっちゃうんですけど。小原保さんなんですよね。で白状して。このあいだ回向院に行きましたけども、回向院の親戚のようなお寺、あそこは三ノ輪橋って言ったですかねえ。王子電車で行く。今、東京で最後の都電、ちんちん電車ですね。その三ノ輪橋の近くにお寺さんがあるんですよ。そのお寺さんの墓石の下に蓋して入れていた。そこに今も供養する何かがありますねえ。これはもう僕らにも影響したんです。まあ仕事にあぶれた時なんかは浅草あたりで映画を観ようと。ところが映画観るのもお金かかるから。当時はコッペパン全盛時代ですからね。コッぺパン一個十円。僕らの年代だと当時若かったですからコッぺパン二つ、今は一つしか食べられませんけどね。いつもコッぺパン二つ買って、パン屋さんに、こう二つとも裂いてもらうんですね。で、一つにジャムを挟んでもらう。そうしてジャムついているのを分けますでしょう。もう一つの方はジャム付けてないんですよ。そうして付いたのと付いてないのをぺタンと合わせると二つにジャムが付いたことになるんですね。これは僕ばかりじゃなくてみなさん、そうやっていましたね。で、コッペパンかじりながら公園で、日向ぼっこをするなり、本を読むなり、あるいは僕はちょうど自転車を買ったばっかりなんで、まあ古い自転車ですけども、その自転車で公園をグルグル回ったりなんかしてました。でも、吉展ちゃん事件があってからは、なんか公園に近寄れないような状態っていうんですかねえ。僕は子供をからかったりするのが好きなんですよ。公園の砂場に行って物を創造するっていうんですか、絵を描く関係もありまして、大きな山やトンネルを作ったり、大きな船を砂場で作ってみたり。そうすると子供がみんな喜びましてねえ、子供が寄って来るんですね。子供が手伝ってくれて。大きいそういう創造物の上へ、最後には子供と上に乗っかってドシャーンとしてつぶしちゃうんですね。それがまたいいもんです。ところが吉展ちゃん事件があってからは、そういうことがやれなくなった。親御さんの方も変なおじさんのそばに行くなと言いまして。世間から見ると日雇い労働者っていうのは、まあ変なおじさんに見えたんでしょうか。僕はよく子供を自転車の後ろに乗せて走ってました。おじさん、乗せてって言うから乗せて公園一回りして。よくやったんです。子供も喜ぶし乗せた僕自身にしてもいいもんなんですよ。ところが、それもやれなくなってしまった。入谷の公園ばかりじゃなくて、玉姫公園にもけっこう子供が遊びに来てたんですよ。かつては山谷にもスラム的要素があって、家族持ちが住んでたりしたんですから。お父さんと子供、お母さんと子供とねえ、夫婦揃ってることはそうないんですけども。スラムとドヤ街っていうのは、一緒にしてますけれども、普通純粋なドヤ街というと寄せ場ですから、ドヤって言葉自体が「宿」っていう意味で、労働市場ですからねえ。そのスラム的要素がだんだんになくなってきている訳なんで。あとは、お父さんが仕事行ってしまうと子供は学校行かないのが多かったですね。未就学児童っていうんですか。学校行かないで、みんな公園で遊んでるんですよ。僕ばかりじゃなくて、仕事にあぶれたオッサンがけっこう公園へ来てて。それで子供と遊んだり。田舎から出て来て、東京へ来て、山谷に来ちゃった。田舎にはことによったら子供がいたんかもしれないですねえ。自分の子供と二重写しになって。遊ぶ事が、まあなんて言うのかな、癒しになるというんですか。残念ながら、吉展ちゃん事件があってからそういうことはできなくなってしまいました。その後、東京オリンピックを迎えるっていうことで、東京をきれいにしなくちゃなんていうことで、これは山谷ばかりじゃなくて山谷を中心とした隅田川のふちなんかにスラム街がありまして、それがみんな整理された。そして北多摩の方の都営住宅なんかに入れられたりして。だんだんにスラムという要素っていうのは東京からなくなっていったんですねえ。
小見 その吉展ちゃん事件が起きて、だんだんそういう日雇いの人に対する地域の人の目が変わったとおっしゃいました。今、山谷のマンモス交番が話に出ましたが、大体その時期と前後しまして、山谷の暴動が一回、それからもう一回くらい大きいのが起こってますね。それで警察は山谷の労働者は何するかわからん、とますます治安の対象としていく、世間の目も厳しくなっていく。最近は見られませんけれど、ついこのあいだまで、住所不定の労務者風の男がどうのこうのというようなマスコミの記述をずいぶん見ました。そこら辺の暴動が起こった時の地域の人達、まあ普通の人達や子供達との関係っていうんですか、見る目っていうんですか、そういうのはどうなんでしょうか。
目の上のタンコブ――敵はマンモス交番にあり
黒田 なんとか意識っていうのは学習して覚えるもんであって。ところが子供はそういうの学習してないですから、割に汚いかっこうしていても、まあ土方のかっこう、日雇い風のかっこうしていても、子供の方は差別感なくて面白いおじさんだっていうようなことで、非常に懐いてくるんですねえ。というのは、差別という問題はやっぱり大人からきていますね。山谷の立ちんぼと言いますけど、これはかつては王電の立ちんぼって言ったんですね。王電っていうのはさっきの三ノ輪橋の話の王子電車。あの辺に闇労働市場があって。それでまあ日雇いがあの辺の道路に立ってたんですよね。朝早くから立ってて、寒いから火を燃やすとか。両側に大人数がいたもんですから、町内の人がそこを通りづらいとか。ちょっと子供のことが心配ということで、いろいろな苦情が出て。それで徐々に泪橋の方へ移動させられたっていうね。その経過をみても、やっぱり周辺から差別っていうか特別な目で見られていたっていうことは、ずうっともう前からそういうことになってるんですよねえ。それで、山谷事件ってことですけれども、マンモス交番のことを触れましたけど、マンモス交番と非常に関わり持ってるんです。マンモス交番ができたのが、確か、安保闘争のあった六〇年です。六〇年安保闘争があります。六〇年と言いますと昭和三五年ですね。それ以前からいろいろな山谷の事件がありました。それで支配者階級は山谷を非常に重要視して、支配の一環として交番を作った。それであの三階建の交番が作られたんですよ。当時三階建の交番っていうのは珍しいですから、周辺にも大きい建物はなかったので非常に目立ったんですね。そこからマンモス交番っていう名前が付いたんです。当局側はマンモス交番って言ってないですけどね。まあ我々の側から見て、あんまり目立つからマンモス、マンモスと、マンモス交番ということになりました。その後、その憐にパレスハウスっていう大きな宿ができまして。近代的な建物ができたのでマンモス交番がちょっと小さくなっちゃったですけど。当時マンモス交番ができた時は非常に大きく見えたっていうことですね。その当時のいろいろな噂があるんです。ドヤ賃が平均一〇円くらい値上がりしたと、それがマンモス交番を作る費用の方へ回されたという、これは本当か噓かわかりませんけども、そういう噂も出たっていうことですね。実際、旅館組合の方ではマンモス交番に非常に期待を持ってた訳です。で、陰になり日向になりしてマンモス交番を非常に援助した訳ですよ。山谷の日雇いのみなさんはお巡りさんにはしょっちゅう不審尋問をくったり、いろいろされてますから。そこへ巨大なお巡りさんの、すぐさん付けにしちゃうんですねえ、どうも申し訳ございません。これ僕の癖で。マンモス交番が目の前にできちゃって。何とかのタンコブという建物ができた。何のタンコブって言うんでしたっけ?
小見 目の上のタンコブ。
黒田 あっ目の上。全くマンモス交番は目の上のタンコブなんです。それで昭和三五年の大きな山谷事件があって、交番焼き討ちっていうことになりました。ちょうど八月か七月の暑い頃で。何かちょっとしたことでパクられて、たいした罪じゃないのにパクったっていうことで、交番に押し寄せる。それで交番が焼き討ちされるという、まあ大騒ぎになった訳ですね。その後もいろいろな事件がありますと、別にお巡りさんと関係がない事件であっても必ず交番に向かって行くんですね。これ不思議なものですねえ。全く目の上のタンコブ。我々にとって、山谷の住人にとっては、ドヤモンにとっては全くのこのタンコブで。怒りのはけ口、持って行き所は、やっぱり交番、敵はマンモス交番にありっていうことなんです。で、その当時、ちょうど安保闘争があったんです。六月頃だったですねえ。よく安保闘争というと、勇敢な全学連の人達が、まあ今じゃあいいおじいちゃんになってる人達が今でもマスコミに取り上げられてますけどね。ところが山谷の人達も安保闘争に参加したんですよ。ところが、これ全然マスコミに取り上げられたことはない、今も誰も知らないんですよね。でも僕はよく知ってる、僕は行ったですから。それで八月に入ってからのマンモス交番襲撃事件にしても、時代の、安保反対のそういうものが反映してたんじゃないだろうかって思うんですよ。安保問題が出ましたから、ちょっとこの歌をうたわせてもらいましょうか、よろしいですか。
小見 どうぞどうぞ。
黒田 ♪立ち上がる時だ 大切な時は今 憎しみの火が燃え
ちょっと忘れたかなあ。これ安保反対の歌なんですよ。もう一度。
♪立ち上がる時だ 大切な時は今 子供達の未来の為に
憎しみの火 燃え上がらないうちに 一足早く絶やしてしまうのだ
立て立て 立ち上がれ 立ち上がれ
安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー! 岸内閣打倒!
っていうようなことで。ハハハハ。いやいや。(拍手)これは誰が作ったんでしょうかねえ。当時三〇万の人達が安保反対のデモに参加したと言われまして。で、よくうたわれてたんですよ、この歌が。僕は物好きだから覚えてたんで。他の人は忘れちゃってるでしょうねえ。デモっていえば、これは初めてフランスからの輸入のデモが取り上げられたっていうんですけど。フランス式デモっていうんですか。手をつないで、ハハハハ。道一杯に。今ちょっと考えられないですねえ。フランス式デモっていうことで、みんな手つないで。手つなぐっていいもんでねえ。
小見 道一杯に。全部占拠しちゃうやつですね。
黒田 道一杯にしないと、フランス式デモの意味がないですねえ。それで国会周辺デモをして、アメリカ大使館の前を通って、新橋の土橋で流れ解散ということなんですけどね。僕は大体人間がおとなしいんです。この「山谷」の映画みたいな勇敢なことはやれません。ものすごく気が弱いんですよ。だけどなぜかデモは好きでねえ。ですから安保の時はほとんど昼間もデモ、夜もデモっていうことでした。まあ日雇い人夫ですから休んだって別にクビになる訳じゃないですから。昼間と夜ずうっとデモばっかり行ってました。で、デモの中でさっきのような歌を覚えちゃって。デモはいいもんだなあと思ったりしてますけど。それで山谷の人達も行ったんだっていうことを知ってほしい。学生だけじゃないんですよ。樺美智子さんが亡くなったったあの闘争に。
小見 六・一五ですね。
全学連の事務所に連帯の挨拶に行ったんだけれども……
黒田 あの全学連が何年前に作られたのか知りませんが、僕は東京大学の構内の仕事に行ってたんですよ。道路の舗装ですね。道路の、油撒いてそこに砕石を撒いて。大きい一号サイズから始まって、最後にビリを撒いて、それで砂を撒いておしまいです。アスファルトですね。その仕事に行ってまして。で、学生食堂は安いですからよく行ってたんですよ。そうすると謄写版の刷ったチラシなんかを置いてありました。日本共産党東大細胞なんてのが書いてありましてねえ。で、その細胞の人達が代々木の本部へ行って暴れたとかどうのこうのなんて、これ新聞ざたになってたですけど。そこら辺から全学連の前身が作られていったんじゃないでしょうかねえ。それで僕はまだ学生さんのそういう運動をよく知らない時だったもんですから、安保の数年前だったでしょうか。東大の構内で学生さんが――全共闘時代でしたらヘルメット被ってたでしょうが……
小見 全共闘の時はそうでしたね。
黒田 全学連時代はまだヘルメット被ってなかったですね。それで東大の構内で何か学生さんがみんな集まって、リーダーがピピーって笛吹きまして、きちんと横隊に並んで。で、先頭は長い竹竿持って、それでピピーピー、ピピーピー、ピピーピー、ピピーピーとこう整然と行進してるんですね。これは何かねえ、運動会の練習かと思ったですよ。
小見 ハハハハ。
黒田 僕らも小学校時代には、ほら棒立てて、棒倒しやったですから、東大の学生さんも、あれかなあ、運動会の練習、棒倒しでもやるのかと思ったですねえ。まあそれがその後の全学連の国会突入ね。まあ弾かれたにしても突入した。彼らはそういうデモの練習をしてたんですね。そのデモが安保闘争の時に、非常に役に立ってたっていうんですか。その為の予行演習だったのかもしれませんねえ。それで本郷に、学校の中じゃあないんですが、全学連の事務所らしいものがありまして。たまたま安保の時に学生さんの活躍しているのを見まして、それで僕もすっかり感激しまして。本郷の全学連、果たして全学連かどうかわかりませんけれど、学生が集まっている事務所へ……。僕はその辺によく仕事に行ってましたから、これは全学連の事務所だなということで、わざわざ山谷から自転車で行って連帯の挨拶をしようと思ったんですよ。残念ながら全然相手にされなくてね。アハハハハハ。当時は、学生さんの運動は山谷とか釜ヶ崎とかそういう、いわゆる下の下の方に、まだ目が向いてなかったんでしょうねえ。連帯の挨拶を、それで行ったんですけれども、向こうの人はどういうふうにとったかねえ。変な人が来たなあと思ったのか、体よく追い出されちゃいまして。
小見 お一人でですか。
黒田 一人で。ウハハハハ。それから学生運動っていうのはあんまり好きになれなかった。その後、全共闘運動の日大、東大闘争を見て……。僕は非常におとなしいんですけど、ああいうパアーっと火の手が上がったようになると、なんか自分の中がカアーっと。これはアートの原点なんですけど。全共闘運動を見て、学生さんを見直したって言うと怒られちゃうかなあ。そんなような訳なんですよね。あと何だったですか?
小見 連帯の挨拶に行ったんですが、まあなんて言うんですか、階級が違うというか……。
黒田 そうなんですよねえ。
小見 彼らはいちおう共産主義者ですから。何を隠そう黒田オサムさんはバリバリのアナーキストで。
黒田 いやいやいや。ヘヘヘヘヘ。
小見 ついこの間、香港が中国に返され、まあ返還されたって言っていいんですか。その中国の香港でもって、目の敵にされているアナーキズム万歳ってやったという。そういう話もお聞きしてるんですが。
山谷が爆発すると釜ヶ崎が……
釜ヶ崎が爆発すると山谷が……
黒田 いやそれねえ、小さい声で言ったんですよ。アハハハハハ。大それたものじゃないですから。ほんとに気の弱い、ちっちゃなあれでして。で、安保闘争があったのは昭和三五年。同じ年に山谷の大事件が、交番焼き討ち事件がありました。一年経って三六年には、釜ヶ崎で事件があったんですよ。大きな暴動って言った方がいいですね。この「山谷」の映画にもありましたように、時代も違いますけれども、釜ヶ崎でも山口組系統の人達が、当局側を守るっていうことで出てきまして。日本刀まで抜いたっていう、そして猟銃まで持って来たって話です。一人死んでます。そういう事件で亡くなるっていうことは非常に珍しい訳で、これは大きな事件だったですねえ。山谷が爆発すると釜ヶ崎が爆発する。釜ヶ崎が爆発すると山谷も爆発すると。何か地下水脈で通じてるんでしょうか。東と西で。僕がたまたま釜ヶ崎に行ったんです。それで職安に行きまして、朝の紹介風景を見てたんですね。仕事あるかないか。山谷に比べてどうかなと見てましてね。そしたらね、一人ね、紹介順に並んでたのがね、オーオーって言うんですよ。見たら二、三日前に山谷で一緒に仕事やった人なんですね。山谷の玉姫職安の前に行っても見ないし、泪橋の立ちんぼの所に行ってもいない。どこ行っちゃったんかと思ったら、釜ヶ崎に来て紹介受けてるんですね。これには驚きです。まさに山谷と釜ヶ崎は地下水脈で通じていたんですねえ。最近は外国の方も日本へいらっしゃるし、日本の人も外国へいらっしゃる。外国の方も山谷にいるそうですね。
小見 一時いたんですが、最近はあんまりいなくなっちゃった。
黒田 いなくなったですか。
なすび (会場から)労働者ではあんまりいない。
黒田 労働者はいない。
なすび 最近はバックパッカー。
小見 バックパッカーって安いお金で旅行する人。
黒田 ああ旅行する人。そうですか。ヘヘヘヘー。それで、僕はひょっと考えたんですね。山谷と釜ヶ崎は、地下水脈で通じてると。これからは、グローバルの時代だって言うでしょう。事によると、ニューヨークに職安が、労働出張所があるかどうかわかりませんけど、山谷でしばらく見ないなって思っていた彼がニューヨークの職安にいたなんてことがありうるんじゃないかなあと。これからは資本側のグローバルじゃあなくて、労働者側のグローバル。グローバルっていうのをそういう意味で使ってもいいんですか。
小見 いいんじゃないですか。
黒田 いいんですか。グローバル化になるんじゃないかなと、予言と言っちゃおかしいけれど、そういう時代が来るんじゃないかなんて思いますねえ。話が飛んじゃいましたが、釜ヶ崎事件があって、それで翌三七年はまた山谷ですね。今度は釜ヶ崎があって山谷ってことですね。これはあのマンモス交番の……今マンモス交番は場所変わっちゃったので、このあいだ行きましてビックリしました。いろは通りの方に移ってますね。前の場所は泪橋の通りで。そのマンモス交番の真ん前に組合食堂があったんですよ。その後、朝日食堂って名前に変えたんですけど。で、彼なんて言ったかな、ちょっと名前度忘れしたですけど、まあ日雇いの人が朝日食堂で中華か何かとって、そのあとおかわりを注文したらば、店員がそっぽを向いて相手にされなかった。それで、彼が腹立てて、その中華丼のスープを、小ちゃいお椀に入ったスープをちょっとかけたそうです。そしたら、奥から朝日食堂のアンチャン、若い連中ですね、ピンピンした連中がドヤドヤっと出て来て。彼を引き摺り出して朝日食堂の真ん前で暴行を加えたっていうんですね。マンモス交番の真ん前ですから、見える訳ですよ。それでお巡りさんが出て来て、引っぱっていったのは、やられた方の日雇いだった。これは山谷ではよくあることなんです。交番側の弁解によると食堂側の加害者もいつ何時でも引っぱれるから、後から引っぱろうとしたんだって言うんですけどねえ。それにしても、加害者を引っぱっていかずに被害者を引っぱっていくっていうのは……。そこら辺から、それは違うんじゃないか、違うんじゃないか、おかしいじゃないか、おかしいじゃないかと人が集まりはじめまして。そして山谷のマンモス交番に抗議する。それから朝日食堂に抗議する。抗議は、しまいには実力行使になりまして、看板叩き割ったり大騒ぎになったですけどねえ。それがまあ昭和三七年の山谷事件なんです。それからまあ毎年、そのようなことが起こってました。大体、夏が多いんですね。当時は大体山谷の宿、ドヤは大部屋、あるいは小部屋。その部屋式が多かったんですけども、効率化を考えて、これは関西からそういう方式が入ってきたらしいですけど、ベッドハウスになったんですね、蚕棚の。その方が効率良く泊められて、効率良くお金が入る。まあ一畳に対して今まで一人だったのが一畳に対して二人分のお金が取れるという、ベッドハウスが完成した時分なんですよ。最近は、ビジネスホテル風になって非常に外観だけはきれいになってますけどねえ。当時は外観も悪かったし、中に人ると南京虫。夏は南京虫ですね。冷房暖房なんかもちろんないですから。それで人がいてその上に人が乗っかってるんですから、夏は暑い。どうしてもまあ外へ出て涼むということになって。むしろ宿で寝るよりもアオカンした方が気持ちがいいんですよ。まあ夏のナイターって言うんですかねえ。今晩始まんないかなあ、始まんないかってゾロゾロ交番のまわりに行ったり来たりしててね。もうそういう素地ができてんです。で、始まりますねえ。これは山谷ばかりじゃなくて、三ノ輪の方、あるいは南千住駅の向こうにもドヤ街はありまして、場合によっては北千住や西新井からも、なんか山谷ナイターを見に来るっていう。僕もそのナイターを見てました。それがまあ昭和三七年の山谷事件ですね。それから、昭和三八年に入って、吉展ちゃん事件です。で、昭和四〇年近くなってからかなあ。山谷の城北福祉センター、福祉センターの、労働センターの方ですね。旧館と新館がありまして。新館はおそらく昭和三八年か三九年頃にできたんでしょうか。それ以前の戦前に、昭和の初めに、生活に困ってる人や浮浪者、そうした人が泊れるようにということで東京都がコンクリ建ての建物を作ったんですね。大和寮といってたですけど。それが戦争中に大和寮は焼けちゃって。焼けビルです。地方へみんな疎開しちゃってるんで、東京のあちこちから人を集めて、いろいろな仕事を……。そしてそこに寝泊まりさせて管理したのが労務報国会っていうんです。最近は労務っていう言葉使わないですけど、戦時中は労務者とか労務って、よく使われたんです。東南アジアにはROMUSYAっていう言葉があるってことですね。日本軍に酷使されたまあ労務者ですか。で、戦時中に労務報国会が作られて、当局の要望に応じて人を出していった。そして、昭和二〇年八月一五日に敗戦です。アメリカ軍が日本へ入って来ました。そうしたら、彼らは労働組合を作れ作れって言い出したんですよ。その労務報国会の組織がまだ残ってたんですねえ。大和寮の労務報国会がそのまま日雇い労働者の労働組合になっていったんです。僕らが行った時はまだそういう名称は少し残っていました。あそこの寮には、その労働組合に入らないと泊まれないんです。玉姫組合と言いましたねえ。
小見 労務報国会が普通の組合の玉姫組合になったんですか。
黒田 そうです。
小見 労務でもって国に報いるということですから、全く国のための組織だったんですよね。それが掌を返したように労働者のための組合になっちゃったという……。
黒田 そうです、そうです。それと当時上野組合っていうのもありました。この上野組合と玉姫組合は親戚関係でしたね。上野組合の方は池之端の方に住んでる、泊まってる人達が多かったんですね。池之端に寮があったんですよ、厚生寮という。戦後、厚生省がいろいろ手を出して作ったんです。よく厚生っていう名前で作られたんですね。厚生寮の人達が大体上野組合。それから、大和寮の連中がかつての労務報国会の玉姫組合。その他にもいろいろな団体があったようなんですけれども。今日、大和寮はなくなって城北福祉センターの、労働センターになってますね。今はどうなんですか、労働センターは。機能してるんでしょうか。
小見 それは私よりも、なすびさんの方がよく知ってます。
なすび まあ東京都の職員で出向して来た者がやっていて、衛生局と福祉局の職員がいて、大体、福祉事務所の出張所みたいな機能はしているのと、一回一回一応仕事は出しています。
黒田 ああそうですか。
なすび 仕事の数はもうメチャクチャ少ないです。今この行政改革の中で城北福祉センター自身がつぶされようとしているっていう。
安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー!
黒田 ああそうですか。僕はたまに山谷へ出ていって歩くんです。昔、山谷にいた頃は、どこでも立ち小便したんです。でも最近はちょっと紳士って訳じゃないんですけど、なんか立ち小便しづらくなって、トイレはないかなと思って。そうするとあの城北福祉センターのあそこにトイレがありますね。あそこで借りるんですけれども、きったないですねえ。すごくきたないですねえ。アハハハハ。まあ日本でも珍しいじゃないんですか。まあ僕はきたないのは別に苦にならないですけど、とにかくきたないですねえ。
小見 黒田さんは、このようにドンドン続けてずうっと明日の朝までしゃべってしまいかねません。でも、この場での時間がそろそろなくなりました。ただ、この場ではなくて、隣の部屋でちょっと一杯呑みながら、もうちょっと直に詳しいことをお聞きしたい方はぜひ残ってください。まだ電車もあります。それから先程申しましたように黒田さんは、実はパフォーマーなんです。黒田さんのパフォーマンスは、これは必見です。画家でもあります。画を観せろって言われても困るんですけども、パフォーマンスは観られます。明日旧ジァンジァンですか。
黒田 そうですね。昔のジァンジァンですね。
小見 昔のジァンジァンでやります。アジアのパフォーマーも何人かいらっしゃいますが、とにかく黒田さんのパフォーマンスは素晴らしい。もし興味のある方はぜひ行ってご覧になってください。黒田さんの名前を受付で言えば前売りになるとかいうのはないですか。
黒田 ああそうですねえ、そういうふうに受付に言っときますよ。
小見 この場の人に限って、「黒田さん」と受付に言えば前売り予約OKだそうです。
黒田 明日と明後日です。明日は外国の珍しい方々がやります。僕は明後日です。
小見 それでは時間がある方はお残りください。それから受付のところに「山谷」の映画のパンフレットと、黒田さんの「ちんぷんかんぷん」というパンフレットありますので、お金に余裕のある方はお求めください。本日はどうもありがとうございました。
黒田 あの最後に、また歌をうたわせてもらいます。よろしいですか、それでおしまいにしたいと思います。さっきの安保反対の歌です。これは今でも有効だと思うんです。
♪立ち上がる時だ 大切な時は今 子供達の未来の為に
憎しみの火 燃え上がらないうちに 一足早く絶やしてしまうのだ
立て立て 立ち上がれ 立ち上がれ
安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー!
今の時代、アメリカは横暴ですからねえ。これは今でも有効です。どうもありがとうござ
いました。
小見 最後まで締めていただき、黒田さん、どうもありがとうございました。
[2001年10月13日 plan-B]