サパティスタはなぜこの世界に登場し、 そしてそれはこの世界の何を変えたのか?

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第5回

太田昌国(民族問題研究、シネマテーク・インディアス)

佐藤さん、山岡さんと共有した時間
こんばんは、太田です。
「山谷」の映画のあとにこのようなテーマで話すという脈略が僕自身まだよく分かっていないのですが、まず5分ぐらい別なことを話しながら、考えていきたいと思います。この映画の最初の監督の佐藤満夫さんとは、1980年代の前半ですかね、いろいろな集会やデモで顔を合わせました。デモで隣り合わせて話すとか、集会の片隅で話すとか、そういうことをしておりました。僕は1980年から――ご存知の方もおられるかもしれませんが――ボリビアのウカマウ集団の映画を自主上映し始めていました。佐藤さんはもともと映画畑の人ですし、最初に自主上映したウカマウの「第一の敵」という映画を見ていて、その映画をめぐる感想を熱く語ってくれたりということがしばらくの間続いていました。
それであのような形で亡くなったあと、その「第一の敵」についての評論を何かの映画雑誌に投稿するために書いたという情報があったので、皆さんに探していただいたのですが、残念ながらそれは見つかりませんでした。ウカマウ集団の上映運動は今もう36年目になっていて、まもなく11本目の新しい長編作品が届きます。早ければ来年、遅くても再来年には、再び全作品回顧上映ができると思うのですが、そういう場で、1984年12月を最後にして佐藤さんと再会できないというのは非常に残念なことです。
二番目の監督の山岡さんとは、1979年頃知り合って、7年間ぐらいの付き合いであったと思います。これは亡くなったあとの追悼文で書いたことでもありますが、1985年の秋ぐらいですかね、「解放を求めるアジア民衆の会」を立ち上げたいということで、山岡さんが相談に来たことがありました。その頃東京に金明植さんという韓国の詩人がかなり長く滞在していました。8月15日に靖国に向けてデモをやりますね。その年によってデモコースは異なりますが、多くの場合神保町の交差点から九段の靖国神社の方へ向かいますが、「許可」されるデモコースは、靖国の手前の九段下で曲げられます。金明植さんがそれを見ていて、おまえたちはなぜあそこで曲がるんだ、なぜまっすぐ進まないんだ、と批判するのです。日本のデモで捕まった時のとてつもない長期拘留とか、あとの弾圧の問題とか、いろいろ山岡さんも僕も説明するんだけど、そんな弾圧を恐れていて一体何の運動なんだ、というわけです。それはそれで正論なんだけど、日本の特殊事情がちょっと分かっていないんだよなという感じで、いろいろやり合いになったことがあったりしました。かなり強烈な個性の人で、いろいろ話し合っていて面白い人だったんですね。彼の提起もあったと思うのですが、山岡さんから「解放を求めるアジア民衆の会」を立ち上げたいという相談があったのは、そんな経緯でした。
同じころだったと思いますが、山谷の夏祭りの後で夜更かしして一緒に飲んでいて、朝が明けて、なぜか僕の家に来ることになった。広島の中山幸雄さんも一緒だった。駅から家に行く途中の古本屋で、山さんが『小林勝作品集』を見つけて、ためらうことなく買ったというのも、忘れがたいエピソードです。お互いの精神の「近さ」を実感させられるエピソードだったから、です。
それから亡くなるまさに5日前、86年の1月8日、当時まだ神保町にあった僕の事務所に、いきなり山岡さんが5、6人の人たちと一緒にみえて、いよいよ映画「山谷 やられたらやりかえせ」が完成した、ついては上映運動を始めるんだけれども、太田がやっているウカマウの上映運動は自主上映としてはなかなかうまくいっているみたいだから、ノウハウを教えてくれないかというようなことを言われて、しばらくどんなふうにやろうかというようなことを一緒に考えたことがありました。
それから5日後、山さんは新大久保の路上で撃たれて亡くなりました。この映画に関わった2人とそういう関係があるせいもあって、「山谷」は僕にとってもなかなか忘れがたい映画であるということになります。
さて、これからはさきほど司会の池内さんが言った、非常に無理な接合をしてですね、「サパティスタはなぜこの世界に登場し、そしてそれはこの世界の何を変えたのか?」という問題を考えるわけですが、それは要するに何を考えなければならないかというと、僕が佐藤さんや山岡さん、この映画に関わった人たちと共有した時代、1980年代の前半から半ばにかけての時代と、それから30年経った今の時代というものが、何がどう変わったのかを考えることだろうと思うわけです。ですから、これからの話には年代・年号がたくさん出てくると思いますが、それはあまりこだわらなくていいので、大まかなスケッチとして、1970年代から80年代にかけての時代と、世紀末を過ぎて新しい世紀になってもう16年経っているわけですが、今の時代がどういう変貌を遂げたのか。その中でサパティスタが果たした、果たしてきた役割は何なのか、ということをお話したいと思います。

ソ連崩壊の決定的原因となったアフガン侵攻とチェルノブイリの原発事故
 この問題を考えるためには、どうしても20世紀の大きな存在であった社会主義という問題を考えなければならないと思います。20世紀の初頭――来年ちょうど100周年を迎えますが――1917年にロシア革命が起こって、これが世界最初の社会主義革命であった、常にそう思い起こされる時代が始まったわけですね。そして20世紀は大きな戦争、あとで名づけられた名称でいえば第1次世界大戦、第2次世界大戦をはじめとしていくつもの戦争があった。そして、革命も、その戦争を契機に、あるいはそれを利用しながら、ソ連に続くさまざまな革命が起こっていった。それもあって、20世紀は「戦争と革命の世紀」というふうに、僕らが若い頃、1960年代、70年代によくいわれました。最終的に、そのソ連の社会主義は1991年の12月、今から四半世紀前、25年前に潰えるという形になったので、この問題が世界全体の変貌にどういう意味合いをもったのかということを考えることから始めたいと思います。
山岡さんが亡くなった1986年の4月には、ソ連でチェルノブイリの原発事故が起きています。山岡さんが亡くなってから3ヵ月後の事態でした。ソ連はその7年前の1979年、アフガニスタンに軍事侵攻しています。これは一応、ソ連から言えば味方になる勢力が、アフガニスタンでクーデターによって政権を取り、その新しい革命政権の要請によってソ連軍が介入した、という説明を当時のソ連共産党第一書記のブレジネフはしたわけですが、ともかく1979年にソ連軍がアフガニスタンに軍事侵攻した。それが、それこそ「反テロ戦争」と「テロリズム」の応酬が世界を揺るがせている現在にまで繋がるさまざまな動きと関係してくるので、きわめて重要な現代史の出来事です。その後の歴史の流れも見ながらソ連邦の1991年の崩壊を決定的に原因づけた理由を考えると、最終的に決定づけたのは、79年のアフガニスタンに対する軍事侵攻という失敗と、86年のチェルノブイリの原発事故だったのではないかと思います。
僕が学生時代であったのは1960年代の半ばですが、社会を変革する、あるいは革命といってもいいのですが、そういうことに思想的に目覚めたとして、その時代のソ連の在り方が社会主義のモデルであるとはもはや思える時代ではなかった。すでに日本には1960年安保闘争以降の中で、新左翼と呼ばれるグループ、諸集団が生まれたということもありますが、加えて当時の左翼的な思想・文学を牽引した人たちなどにとってもソ連社会主義の在り方を批判するというのは当たり前のスタイルであった。どれほどそれが社会主義の名に値しない抑圧的なものであるかということがはっきりしていて、そのソ連社会主義の批判を行いながらなお、あるべき社会主義、広い意味での社会主義の在り方を模索するというのが、そういう思想に目覚めた人々にとっての普通のスタイルであった。
60年代、70年代のそういう模索が日本でも世界でも続いてきたと思うのですが、しかしその79年アフガニスタンに対する武力侵攻と86年チェルノブイリ原発の事故というのは、ソ連社会主義の最終的な崩壊を告知するような出来事であったと思われます。もちろん、例えば1968年にはソ連とワルシャワ条約軍は、「人間の顔をした社会主義」を求めるチェコスロバキアに武力侵攻していますから、ありふれたことではあったんです。アメリカ帝国ほどではないけども、自分達の「衛星」国だと思っている国々で何かクレムリンのモスクワ指導部から見て気に食わないことがあると、武力を使ってそれを潰すというのは当たり前のスタイルであったとはいえます。それがとうとうここまで酷い事態を巻き起こすのかということが、アフガニスタン侵攻によって明らかになったということですね。
それから、ソ連社会主義というのは、アメリカと競うにあたって、社会主義的なモラルの高さを基準にして競うのではなくて生産力競争をやった。いわば、「アメリカに経済的に追いつけ追い越せ」という形で、対峙しようとした。アメリカ的な超大国に生産力でどのような形で追いつき追い越すことができるかということを経済建設のメルクマールとした。そうすると、それは様々な分野でのアメリカとの競争ということになって、核兵器開発競争はもちろん、例えば宇宙における人工衛星あるいは有人飛行を巡る競争も含めて行われるという時代を迎えるわけですね。
59年でしたか、ガガーリンという最初の宇宙飛行士をソ連が打ち上げた。これこそ社会主義が資本主義に対して優越性をもつ決定的な証拠であるというふうにクレムリンは語る。日本を含めて世界各国で、社会主義への夢や希望を持つ人たちが、アメリカより先に有人飛行を成功させたソ連社会主義は偉大だ、アメリカに勝ったということになるわけです。そういうことが基本であったような生産力競争をしていたわけですね。もちろん、原水爆実験、そして原発というのもその現れで、競い合ってやったわけです。アメリカはインデアン居留地、内陸部の広大なかつては先住民が住んでいた、その地域を選んで水爆実験を行い、ソ連であればシベリア少数民族が住んでいる所、あるいは北極、そうしたいわゆる辺鄙な所、あるいは人が住んでいたとしても、クレムリンからすれば、その被害は無視できるような所を選んで軍拡競争を、原水爆実験を続けてきた。その一つの在り方が、同じエネルギーを使う原発事故となって、チェルノブイリで爆発をしたという結果になるわけです。
山岡さんはアフガニスタン侵攻までは知っているけれども、チェルノブイリの原発事故は知らないわけですね。山岡さんと社会主義の問題をめぐってまともな議論をしたことは記憶にないので、彼が社会主義なるものに、どういう夢を抱いていたか、どういう絶望を抱いていたかは知る由もありません。しかし、当時あの運動圏にいた人々にとっては、広い意味での社会主義というものが、どこかで矯正可能であると、ソ連がどんなに歪んでいても、あるいは中国の文化大革命でどんな酷い過ちを犯したとしても、もっと違うやり方での社会主義の再生というものが可能であるだろうというふうにどこかで思っているところがあり得たと思うのです。
僕はどちらかというと、人間社会というのはアナキズム的な理想によって成り立つだろうというふうに思っているところが若い時からあるので、広い意味での社会主義というのは、アナキズムも含めた形でのそういう展望で語っているわけです。あり得るかもしれない社会主義の範囲を、もう少し膨らませたところで話しているということは、感じておいていただきたいと思います。それが一つの問題ですね。もう少し現代のところでは、この問題を膨らませたいと思います。

朝鮮に対する植民地支配という問題に気づくのが
きわめて遅かった

もう一つは、朝鮮の問題です。「解放を求めるアジア民衆の会」というものを作ろうと山岡さんが言っていたのも、いろいろな思いがあったと思いますが、先ほど例をあげた金明植さんが非常に厳しい立場から日本の僕らの運動の在り方を批判する。歴史的な背景としては、植民地支配の問題があるし、そういう展望で批判する人物がいて、その人たちと一体どういう関係をつくることが可能かということは、当時、山岡さんも含めて僕らにとって大きな問題であったし、それはこのように情勢がすっかり変わってしまった現在もなお深刻な問題であるわけです。
その後に見えてきたこともふまえながら、この問題をどういうふうに考えるかというと、日本帝国に住んでいる我々が植民地問題というものを具体的な問題として気づいたのは、残念ながら非常に遅かったと、僕も含めて非常に遅かったと捉え返すことができると思います。
例えば、1965年に日韓条約が締結されます。このとき敗戦後20年の段階ですが、朝鮮半島に唯一合法的な政府は大韓民国政府であるということで、北朝鮮の存在を無視して、南の韓国政府とだけ国交正常化交渉を行って正常化したわけですね。このとき韓国では、学生を中心に非常に激しい条約締結反対運動が起こったし、日本でも60年安保が終わった後ですから、学生運動の水準でいうと運動が停滞して、それほど活発な学生運動が展開されていた時代ではなかったけれども、一定の日韓条約反対運動というものがあった。僕もそれに参加した。しかしそのときの意識を思い出してみても、朝鮮との間の植民地問題ということで問題をきちっと立てて、日本の敗北の20年後に結ばれようとしているこの条約にどういう反対の論拠をもつかということを仲間同士で論議した記憶はない。そのような意識が現れてくるのは、それから数年後の60年代後半です。ですから、植民地支配という問題を、支配側の日本帝国にいて、その現代史を生きていて、どのように捉えるかという問題意識が生まれたのはきわめて遅かった。社会全体の問題として、あるいは個別に僕らの問題としても遅かったといえると思います。
その具体的な現れの一つとして、例えば日韓条約反対の労働組合の反対運動のスローガンの一つは、当時の大統領は今の大統領の父親の朴正煕で、朴というのを日本語読みにすると「ぼく」ということになるから、「(請求権資金という)カネを朴にやるなら僕にくれ」、そういうスローガンがプラカードに書かれていた時代なんです。これが一事が万事、当時の私たちの思想状況・社会状況を表すものだと考えてくださればいいと思います。
その韓国では、その前年の1964年からアメリカの強い要請によって、ベトナム派兵を行うわけですね。米国がだんだんとベトナム戦争に深入りしていくのは60年代に入ってからです。それは54年にベトナムを支配していたフランス植民地主義がディエンビエンフーの作戦で軍事的に敗北を喫して、彼らは引いて行くわけです。そうするとアメリカ側から見れば、ソ連があり、49年には中国革命が起こり、50年から53年にかけては朝鮮戦争が起こって、北朝鮮が一時期ソウルを制圧し釜山にまで攻め込んでくるような事態になった。かろうじて53年の休戦段階で38度線を一つの休戦ラインにしたけれども、北にははっきりと社会主義を名乗る政権がある。ベトナムも北ベトナムが社会主義を名乗っている。そうするとユーラシア大陸からずっとアジア全域が、東アジアから東南アジアまで「赤化」しつつあるということになる。これはドミノ倒しである。このまま放っておいたらどうなるか分からないといって、フランス植民地主義に変わって、アメリカはインドシナ半島への具体的な介入を始めるわけですね。それが、やがて泥沼のベトナム戦争として75年まで続くわけです。
米国はベトナムへの介入を深めるにしたがって、日本には、沖縄にある米軍基地を軸にベトナムを爆撃する本拠地としてしっかり担ってもらう。韓国には、実際に兵を動員してベトナムで一緒に闘ってもらうということを朴正煕に提案し、朴正煕はこれに応じて、結果的に73年までの9年間、延べ30万人といわれる韓国兵がベトナムで、ベトナム民衆を相手に闘うということになるわけです。4,500人ぐらいの韓国兵が亡くなっています。そうすると、あとで僕らも気づくんですが、韓国の人たちからすれば特に女性からすれば、20年前の日本軍のアジア全域における侵略戦争のために夫をとられた。そして日本軍として戦わされた。その歴史を負っている人たちが1960年代半ばには、中年の年代で生きているわけですね。その間に朝鮮戦争がありますし、今度はベトナムに息子たちがとられる。そういう不安を抱いて暮らす農村部の女性たちが多かったわけです。これは日本に暮らしている私たちのどの世代も経験したことのない現実なわけで、こういう形でアジアの現代史は続いているんだということが、そばにいながら、しかしそれからはっきり隔てられた空間に住んでいる我々には気づくのが非常に遅かった。こういう問題として、韓国のベトナム派兵を捉えることはできなかった。今、山岡さんが元気であったら、語り合いたい一つのことは、こういう関係の問題ですね。

独裁というキーワードだけでは分析できない
流動化の進行

それから朴正煕のクーデターが1961年に起きて、延々と長い軍事政権の時代が続くわけです。70年代前半ぐらいから、岩波書店の『世界』という雑誌に「韓国からの通信」というレポートが載るようになる。これはT・K生という匿名の筆者が、毎月韓国でどんな事態が起こっているのかということを人からの伝聞とか、街の噂話とか、ビラとか、地下通信とか、様々な形で伝えてくれる非常に貴重な媒体であったわけです。これは88年まで続くので、ほとんど15年間毎月のように載っていて、「僕ら」と複数形で言っていいと思いますが、当時韓国に関心のある人たちの韓国情勢の把握を決定づけた一つの大きな媒体であったと思います。
僕は80年代の前半ぐらいになってちょっとこの通信の読み方に距離を置くようになって、それはどういうことかというと、それまで僕自身もそうでしたが、それを大きな情報源として韓国情勢を把握している限り、韓国は軍事政権の独裁下で、それだけをキーワードにして分析すればそれで一切分析ができてしまうような「暗黒の世界」だったわけです。ものすごい拷問が行われているし、弾圧も行われているし、死刑判決が連発され、執行もされている。集会・行動の自由もないし、言論の自由もないし、文学者も発言次第ですぐにしょっぴかれる。金芝河のように風刺詩という形で、非常に鋭く政権の在り方を風刺すると、それだけで逮捕される。そのような「暗黒の世界」があったことは否定しがたい事実なのですが、それだけで全て分析してしまうことができるのか。それは分析でもなんでもないんですけれどね、あとから思えば。
僕がちょっと違うなと思い始めたのは、文学作品、韓国の現代文学を読むことによってなんですが、黄晳暎っていう今も現役の作家がいます。彼は僕と同じ世代なので、徴兵にとられて実際にベトナムに行って、戦闘部隊や諜報部員として活動して、ベトナム経験を持っている世代の作家です。彼がベトナムから帰ってきて、その体験記をフィクションの形で書き始めるわけですね。そうすると、彼の書いているベトナム戦記を韓国の実際の民衆がどう受け止めているかというところで、意外な反応が出てくる。
例えば、ベトナム帰りの兵士たちというのは、一目でそれと分かる振る舞い方、あるいは格好をするわけだけども、そうすると韓国の市民はそれを見て、うまい稼ぎをしてきやがってとか、こっちに引き上げてくる時には、PXという、軍人専用の店で、日本の電化製品なんかを非常に安い値段で買える特別な店があるわけですね。まだ韓国が80年代の驚異的な経済成長を始める前の段階ですから、70年代というのは。そうすると60年代、70年代というのは、派遣された韓国兵で無事生きて来られる人は貯め込んだドルがある。戦地手当は日本の自衛隊と同じようにそれなりに大きいわけですから。帰る時に、そうやって韓国では貴重な日本製の電化製品やなんかを買い集めてくることができる。そして、兵士によってはそれを大量に買い込んできて、韓国で売りつけるような振る舞いをする者がいる。そうすると、韓国のベトナム帰還兵というのは、庶民からはそういう目で見られている。そういう二重構造といいますか、韓国社会の中で作られる別の構造が見えてくるわけですね。
今のは『駱駝の目玉』という小説なんですが、黄晳暎がもう少しあとに書く『熱愛』という小説だと、開発独裁という、当時の第三世界の独裁体制を規定する言葉があったのです。僕らが「独裁」に重点を置いてその社会分析をやっていたとすれば、もちろん「独裁」批判は当たり前のことではあるけれども、しかし一方で同時に「開発」というものも進んでいる。外資の積極的な導入による経済開発――それを第三世界支配のモデルケースにしようという、アメリカのような超大国の意志が働くわけです。その利益がどこに集中するかは明らかですが、にもかかわらず経済全体の底上げ、中産階級の形成も進行する。独裁というキーワードだけでは分析できない、流動化というものが韓国社会の内部で進んでいるのだということが分かってきたわけです。
そうすると、今までのような形で『世界』に載っているT・K生の「韓国からの通信」に依拠してそれ以上のことを深く分析しようとしない僕らの在り方というのは決定的に間違っていたのではないか、「開発独裁」体制の内部も知らなければならないのではないかというふうに思うわけですね。そういう問題意識も山岡さんが亡くなってから、はっきり僕の中に現れたことだと思うので、韓国などを分析する際に、一体どういう情報を大事にして接することができるかということも、山岡さんといろいろ話し合うことができたらなと思うことの一つであります。
『熱愛』という作品が書かれたのは、ソウル・オリンピックが開かれた1988年です。ソウル・オリンピックの前の数年間はオリンピック開催に向けての高度経済成長の時代を意味するわけですね、東京がそうであったように。1964年の東京オリンピックに向けて1960年ぐらいから新幹線の開発とか、そういうものを含めたインフラ整備が行われて、一気に離陸するわけです。あの敗戦直後の焼け野原の時代から。韓国であれば、日本の植民地支配を経て、あの苛烈な朝鮮戦争を経た53年以降の時代から、それでまだまだ貧しい時代の50年代、60年代が続いたと思いますが、経済成長の点で一時は北朝鮮に遅れを取っていたと、さまざま見聞した経済学者やジャーナリストが言っていた時代が70年くらいまでは続いていたわけですから。それを一気に覆すだけの経済成長を、あろうことか朴正煕の独裁政権下で成し遂げているわけで、その過程の問題を一体どういうふうに捉えるのかということが、その後の私たちの討論課題になったであろうと思います。
朝鮮半島には、もう一つの重要な問題があります。朝鮮民主主義人民共和国の在り方をどう考えるかということです。南の独裁のみを取り上げ、北の独裁は不問に付してきたのが、日本の「革新派」の大方の在り方でした。きょうは詳しくお話しする時間はありませんが、2002年9月17日、日朝首脳会談で金正日が拉致犯罪を行なっていたことを認め、謝罪したときに、自称「社会主義国」=北朝鮮のイメージは完全に崩壊しました。ソ連崩壊から10年、社会主義の理念と実践は、さらにどん底へと落ちたのです。こんな「社会主義」への侮蔑と、「朝鮮的」なるものに対する排外主義とが、奇妙な形で合体している現在の日本社会の状況は、この時点からの、まっすぐな延長上にあります。

グローバリゼーションという現代資本主義の
最高形態の登場
さて最初に言ったように、1991年12月、ソ連は瓦解しました。これは旧来型社会主義の全面的な敗北であったと当時も思いましたし、今も思っています。同時に、第三世界の解放モデルもほぼこの段階で(本当は、厳密にいえば、もう少し遡るのですが)低迷・後退を始めたということができると思います。キューバ革命初期に関して、ソ連社会主義に変わる新しい社会主義のモデルを提示しようとして、少なくとも最初の9年間、10年間はそのような模索も行われた、同時にキューバは第三世界解放の一つのモデルを提示しようとしていた――私は、その苦闘の在り方が現れていたと語ってきたのですが、この20世紀末の段階で、ほぼその形も破綻をきたし、そのまま一直線に進むことはなかったと言えると思います。
ですから、韓国の経済発展というのを考えると、60年代に経済理論として非常に多くの人々が読んだ従属理論――第三世界の経済発展というのは、宗主国、植民地支配を行った、あるいは経済的に支配している先進国との関係において規定されているのだからどうしても従属的な発展にしかならない、このような環を断ち切らない限り第三世界の経済発展は展望できない――というような考え方が一つの限界に達した。そうではなくて、中堅の新興工業国の発展というものが、80年代、20世紀の末から始まったわけです。
そのようなことを全て見たところで、僕のこだわってきた問題からすれば、ソ連崩壊後の翌年の1992年というのは、コロンブスがアメリカ大陸に到達して、地理上の「発見」とか、あるいは大航海時代といわれたあの時からちょうど500年目を迎えた年でした。この年が決定的に重要だと思ったのは、前の年にソ連社会主義というのが敗北して、社会主義の全面敗北、資本主義の一方的な勝利というように謳歌する政治指導者や資本家連中が多かったわけですが、僕はソ連社会主義の敗北は必ずしも資本主義の全面勝利を、あるいは最終的な勝利を意味しないと考えていました。資本主義はさらに困難な壁にぶつかるだろうと。5世紀前の、大航海時代と1492年の「新大陸の発見」によって、ヨーロッパ資本主義はその後、中世を抜け出て資本主義的な発展を全面展開していくだけの地理的に有利な条件と、そこを開発することによって資源的に有利な条件、それから植民地支配することによって労働力的に有利な条件を開発していった。つまりコロンブスの大航海というのは、あの時代から世界を二分する、交通路としては一つとなったわけだけれども、非常に有利なものと不利なものとが地域的に分かれることによって、世界が二分される、そういう条件づけを可能にした年の始まりであった。
その後、資本主義はこれだけの年数を経て、ソ連社会主義に打ち勝つだけの基盤を築き上げてきた。それが、ソ連崩壊後はネオリベラリズム、グローバリゼーションというひとつの形をとって現れたわけです。ですから、ソ連崩壊あるいは翌年の1992年の段階で、私たちは現代資本主義の最高に発達した段階としてのグローバリゼーションという、世界を単一の市場原理によって統治する、そのような趨勢との、新しい時代状況の中での闘いに入ったわけですね。これは先ほどから言っているように、資本主義の最終的な勝利ではない。グローバリゼーションという現代資本主義の最高形態が、これから世界各国で闘おうとする人たちの、社会主義は間違ったけれども、もっと別の原理を作りだしながら闘おうという人たちの、共通の敵であるという時代がきたというふうに考えました。

北米自由貿易協定に抗する1994年1月1日の
サパティスタの蜂起
それで、その2年後に起こったのが、メキシコ南東部のチアパスにおけるサパティスタの叛乱であるというのは必ずしも強引な結びつけ方ではないと考えています。武装蜂起という形をとった、先住民主体の叛乱でした。メキシコはご存知の通りメスティーソ、混血の人たちがかなりの割合を占めています。州によっては先住民人口も非常に多い国です。少数エリートの白人が当然のことながら特権階級としてピラミッドの頂点にいて、その中間に分厚い混血の層がいて、これは様々な形で中央権力や地方権力内で上昇したり、人間的に結びついた分厚い層を形づくります。そして、一番下の層に先住民の人たちがいる。先住民はメキシコに限らずラテンアメリカ全部がそうですが、社会全体の中で、いまだに徹底的な人種差別の対象となっています。
こともあろうに、その先住民の人たちが武装して、黒い覆面をして、目だけ出す帽子で、チアパスの主要都市を占拠して、メキシコ中央政府とチアパスの地方政府に対する抵抗の意志を表示したわけですね。
一つは、中央政府に対してはグローバリゼーションに反対する。ソ連崩壊のあたりから世界中で使われ始めた言葉ですが、グローブ、地球をグローブ、球として表現する、動名詞化してグローバリゼーションとなる。一つになる、地球が一つになる。それが何を意味するかというと、市場原理、資本主義的な市場原理によって一つになるということを意味したわけです。つまり、この我々の人間社会を決めるのは市場原理である。市場の中でどっちがいい物として選ばれるか、品質において、価格において、どれが選ばれて、どれが淘汰されていくのか。それに委ねていけば人間の社会は丸く治まるんだ。社会主義なんて夢のようなことはもうやめて、この市場原理に委ねればよいというのが、つづめていえばグローバリゼーションの考え方です。
その一つの現れが自由貿易協定という形で、いま世界で様々な形で試行錯誤されています。このサパティスタが蜂起した1994年1月1日には、もう各国議会で条約調印・批准も終わって発効しようとしていたのが北米自由貿易協定、カナダとアメリカとメキシコ3国間の自由貿易協定です。多国間、この場合は3国間ですが、自由貿易協定の先駆けですね。これはどういうことかというと、15年間、94年からですからもう過ぎてしまいましたが、15年間の移行期間を置いて3国間の関税障壁を撤廃するということです。自由貿易は市場原理に非常に叶った考え方ですね。保護貿易をやって自分たちの特産物を保護して、輸入品に関税をかけて自国品を有利に保とうとする、そのような時代は終わったんだと。世界は国境を越えた経済活動の時代になったのだから、もう全部その障壁を撤廃しようという考え方ですから、例えばメキシコのような第3世界の中では経済規模は大きいとはいっても、アメリカのような超大国と経済競争をやったら明らかに負けるわけです。
アメリカは農業大国で集約的な大規模農業をやりますから、そこで作っている小麦とかトウモロコシとか、そうしたものとメキシコのトウモロコシが勝てるはずがない。価格競争をやって、事実メキシコのトウモロコシはこの15年の期間を経て、いまや惨憺たる状況です。トウモロコシで食っていた農民はもう食えなくなった。しかもトウモロコシというのは、メキシコの人たちの文化的なアイデンティティーにも繋がるような重要な作物なのです。大切な日常食品であり、神話・伝説の世界から大事な産物として、貴重な物として扱われてきているのですから、いわば文化としてのアイデンティティーを破壊することになってしまう。しかしそんなことにおかまいなく、自由貿易協定というのは市場原理に基づいてやっていこうという考え方ですから、そうなってしまうわけです。
メキシコ憲法はロシア革命と同じ1917年に制定された、世界でもきわめて先駆的な、ある種の進取性を持つ憲法でした。そこでは先住民の共同体的土地所有を破壊しないように、外国資本に売ることを禁じている憲法規定があったんです。しかしアメリカとカナダと自由貿易協定を結ぶためには、その憲法の規定は阻害物になるわけですね。アメリカは変更を要求する。そうすると憲法を変えて、土地も売り買いの対象にできることにしたわけです。北米自由貿易協定を結んで以降、土地は先進国の食肉需要を満たすための牧草地として売られてしまうわけです。これが現在TPPとして進行している自由貿易協定の本質なわけですね。あとは時間がないので触れませんが、経済生活の在り方を根底的に変えてしまうだけの、そういう暴力的な要素をたくさん持っているわけです。
サパティスタは、これは自分たち先住民族に対する死刑宣告であるといって、これに反対するスローガンを正面から掲げました。あと国内的には、地方政府に対しては、住宅から、教育から、医療から様々な要求を掲げました。グローバルな要求とローカルな要求を、きわめて象徴的に組み合わせた非常にユニークなスローガンがこの時見られました。

ユニークで巧みなメッセージと
軍事至上主義をとらない叛乱
あと時間がないのでもう箇条書きのような説明になっちゃいますが、僕が文章を読んでいて面白かったのは、対外的なスポークスパースンであったマルコス副司令官というのは、都会の大学の教師もやっていた哲学の教師のインテリでした。それで、頭にマルクス主義を詰め込んだ十数人ぐらいの左翼が、都会からメキシコのもっとも貧しい先住民の農村地帯に行ってオルグをしようとしたというのが、1980年代初頭の発端となった動きです。都会での武装闘争に敗れて、これ以上メキシコの都会で闘争を展開しようとしても、展望は切り開けないだろうと。19世紀ロシアのナロードニキ(人民主義者)が「ヴ・ナロード」(人民の中へ)といって農民の間に入っていったように、20世紀メキシコの都会のインテリたちもチアパスの農民のところへ入っていったわけです。
結果的には、面白い組み合わせがそこでできた。一方的にマルクス主義を外部注入しようとしたマルコスたちは、それはそううまくはいかない現実にチアパスの山岳部で気づいたわけですね。そこで生き延びるために、先住民から、日常的に何を食うか、どの草木が食えるか、どの小動物をどういうふうに退治するかというようなことを含めて、学ぶ日々になっていった。それが僕の言葉でいえば、マルクス主義と先住民世界の自然哲学を含めた哲学・歴史観の類いまれな融合があって、そこで一つの今までのヨーロッパ・マルクス主義とまったく違うものが生まれた。先住民社会だけで育まれた世界観とも違う、不思議なサパティスト用語ができ上がって、それがメッセージとして発信された。きわめてユニークな言葉遣いと発想をもって歴史と現実を語りかけるスタイルが生まれたのです。すでに見た左翼の敗北情況は、それが用いる陳腐な政治言語によっても象徴されていましたから、それはヨリいっそう魅力的な響きをもって、人びとの心に訴えるものがあったのだと思います。
それと、武装蜂起をしながら、軍事至上主義ではなかったというのが、20世紀の様々な闘争とまったく異なった点だったと思います。武装蜂起といっても、アンダーグラウンドの武器市場で様々な武器を買うだけのお金もなかったし、ごくごく貧弱な武装でしかなかったわけで、政府軍が応戦した段階で彼らはまたジャングルの奥深く撤退してしまった。それですぐ政府に政治交渉を呼びかけたわけです。
その政治交渉の呼びかけ方が、文体からメッセージの発し方から非常に巧みであった、人の心を、世論を引きつけるやり方であった。それは国内世論ばかりか、もうインターネット時代に入りつつありましたから、スペイン語で発せられたその文章が、すぐに例えばテキサスとかカリフォルニアとかに伝達される。つい150年前まではメキシコ領であったカリフォルニアやテキサスには、たくさんのバイリンガルの人たちが住んでいるわけです。スペイン語が話せる人たちがたくさんいるわけで。その人たちがすぐインターネットで、英語に翻訳して、世界中にメッセージを伝達したわけです。このメッセージは、僕自身にとってもそうだったけれども、世界でそれを受け止める人にとっては、メキシコというごくごく世界の一地点から発せられたメッセージでありながら、きわめて世界的で普遍的な内容であったということをすぐ感知することができた。
それは先程言ったように、一つにはグローバリゼーション、新自由主義、あるいは市場経済の在り方、何よりも自由貿易協定に対する明確な「ノー」のメッセージがあったからです。当時世界は日本を含めてヨーロッパ、世界中の人々が同じような問題に直面していた。ソ連崩壊後の時代の中で、このまま自由市場経済が世界を制覇するという時代趨勢の中を生きていたわけですから、これに一体どうやって対抗するのかということが、地球上の誰にとっても大きな問題になっていた時に、彼らが発するこのメッセージはきわめて有効な指針を示すものであったというわけですね。
あと、民主主義を確立するための志向性というか、それが明確にあったということができるわけです。これは軍事至上主義でないということと関係するんですが、軍事至上主義であれば、解放軍であれ、ゲリラであれ、赤軍であれ、やはりその軍事力に頼ることになる。政府軍と戦っている時はいいかもしれない。武装している政府軍と戦って軍事的に勝利した段階で、そのあとの社会をどうやって建設するか。そうすると、今まではロシア赤軍も中国人民解放軍も全てそのまま政府軍として、国家の軍隊として改変されるわけです。かつては抵抗の軍隊として効果が発揮された軍事力は、今度は、新しい革命国家を名乗ろうと、社会主義国家を名乗ろうと、新しい権力機構の一部を成すわけです。明確に国家権力の一部として新しい軍隊は機能する。それがロシアの赤軍の場合に、中国の人民解放軍の場合に、どのように革命後の社会において機能したかというのを私たちは知ってしまった時代に生きているわけです。

前衛主義と無縁な、
あるいは権力を握ることを拒否する考え
では、サパティスタはどういうふうに考えたかというと、メキシコ全土に呼びかけて数千人もが集まって、何らかの討議をする会議を行います。そうすると、全国各地から集まる人たちに対して、自分たちは武力的にも有利な立場に立つ。だから自分たちは参画する権利、あるいは投票する権利を1人か2人に限定する。武装しているサパティスタが、ごくごく少数でしかないという形を一貫してとりました。
これは国際会議の時もそうでした。蜂起から2年後の1996年に、「人類のために、新自由主義に反対する大陸間会議」というのがチアパスで行われて、世界から数千人が集まりました。僕も参加していたのですが、そのとき60年代のベネズエラやペルーの武装ゲリラの指導者と会って話をしました。彼らが一様に言っていたのは、サパティスタは民主主義ということを本当によく考えている。自分たちがゲリラ闘争をやってた時にはまったく考えもよらないことを実践している。自分たちのゲリラはきわめて非民主的なもので、それでよしとしてやっていたけれども、やはり時代の変化というのはそれだけの価値観の転換というものが行われて、自分たちは今サパティスタたちから学ぶところが非常にある、ということを言っていました。それは、僕がその会議に出かける前、サパティスタ蜂起のニュースを聞きながら一年半の間できるだけたくさんの文章を書こうと思って分析をしたり話をしたりしていましたが、そのとき感じとっていた問題意識とまったく同じものでした。つまり前衛主義とは無縁だということにも辿り着きます。
日本にも、1960年以降様々な新左翼党派の潮流がありましたが、それは非常に前衛主義的な思考の、自分たちが革命の主体になってやれば全てがうまくいくという――どこまで本人が信じているか分からないけれど――ともかく政治言語としてはそのように主張する人たちが圧倒的に多かった。世界でもそういうのが主流を占めていた。だから、そういう個人が参集している党派が独裁的にふるまう、20世紀的な社会革命の末路を見てしまったわけです。
これを繰り返さないで、なおかつ現存する世界秩序を変革するためには、どのような運動論が必要なのか、どのような哲学が必要なのか。そのとき、前衛主義の克服というのは当然のことながら課題にならざるを得なかった。そうすると、様々な異なる課題を持った、それぞれの社会運動が一つの社会空間を、一つの共有空間を形作って、そこで繰り広げられる運動の可能性に賭けるしかない。これは、先ほどアナキズムへの思いを語りましたが、きわめてアナキズム的な考え方であるというふうには思います。
一つの党がある、あるいはきちっとした、それを軸にした思想、運動組織があってそれを中心に回っていくという発想ではなくて、様々な課題に取り組む社会運動体が構成する空間によって、その社会が本質的に変わっていく。だから権力を持ちたいと思わない。今ある権力を打倒して、自分たちが権力を握ろうという問題提起ではない。権力の問題は一切口にしない。そうではなくてその共同空間を形づくる社会運動の多義的な存在によってどれだけ豊かな空間がつくることができるか。これは実際にやってみた上での試行錯誤でなければできないことです。
僕が確信的なアナキストになれないでいるのは、小集団の中での、小グループの中でのある種の権力なき一つの社会形態というのを夢想することはできるけれども、それが何万人になった時、何十万になった時、1億3千万人になった時、60億になった時、一体それがどういうふうに可能なのかということが、具体的には見えないからです。
だから、冒頭に触れた権力志向の社会主義の失敗を繰り返さないで、なお人類史的な夢を、資本主義に変わる夢を抱こうとすれば、そういう権力なき空間、権力を行使しない、非権力、無権力の空間がどのような社会関係の中でできるのかということを、困難な課題として追求するしかないだろうと思います。
サパティスタに触れる時間がきわめて短くなりましたが、そのような意味において、サパティスタの持つアナキズム的な志向との共通性を感じるが故に、これからも注目し、何らかの発信を続けていきたいと思っています。彼らの蜂起から22年経ちました。いま彼らは対外的な発信をかつてほど頻繁には行っていません。蜂起から22年経ったということは、蜂起以降生まれた人たちが20歳を過ぎつつあるということです。自分たちが自主管理している共同体の内部で、教育や医療や生産、そうしたものをどのように可能にするのかという内部の問題が重要な時期にさしかかっているからです。いったい何十万人が自主管理区に暮らしているのかを彼らは明らかにしていません。法律的には、サパティスタも政府軍も武力を行使しないという取り決めがあるので、それをメキシコ政府が犯さない限りは、サパティスタは自分たちの管轄地域を維持することができるのです。それは、いわば「持久戦」ですから、なかなか困難な時期を迎えているとは思います。
世界的に見て、左翼はなぜ敗北したのか。この状況下にあってなお、世界秩序の変革を志すためには、何が必要なのか。サパティスタは、それに対するひとつの応え方を示しながら存在しているのだということを繰り返し述べて、終わります。

(2016年9月17日)
(おおたまさくに・民族問題研究、シネマテーク・インディアス)

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