山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第4回
平野良子(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)
池内 今日は、「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」の平野さんに「在日朝鮮人の運動との〈接点〉をたどる」というテーマでお話をうかがいます。
山岡さんは、船本洲治の思想を凝縮して「流動的下層労働者と被植民地人民との闘いの水路構築」という路線をうちたてるのですが、それに沿って、在日朝鮮人はなぜ「在日」でいなければならなかったのかという問題を含めたかたちで、下層労働者問題について考えていたと思います。
日本の戦後政治史での大きな転換点といわれる「55年体制」(自民党の保守合同、社会党の左右統一、春闘という経済闘争への一元化)は、実は在日朝鮮人の社会にも連動していて、前年(1954年)の朝鮮労働党による「海外公民規定」などを経て、大雑把にいって、在日朝鮮人たちは南の民団(在日本大韓民国民団)と北の総連(在日本朝鮮人総連合会)の2大民族組織に振り分けられてしまう。
ただ、「北」と「南」に分かれたといっても、実際にはそうした組織からこぼれ落ちる人もたくさんいるわけで、寄せ場や飯場にいて、そこから働きに出る人の中には在日朝鮮人もかなりの数がいると思います。もちろん寄せ場には、在日朝鮮人だけではなく、日本人の農村出身者や炭坑出身の労働者、あるいはウチナンチュー、シマンチューも、それぞれの事情を抱えて流れて来ている。けれども在日朝鮮人の場合は、かつて日本が朝鮮を併合し植民地化していたこと、そして多くの朝鮮人に対して強制労働を含めた徴用をしてきたという過去があるため、寄せ場で運動を進めていくと、どうしてもその問題にぶつからざるを得ない。今日の話にはそうした背景があります。
先ほど、平野さんのことを「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」というところに所属されていると紹介しましたが、まず平野さんご自身の在日朝鮮人問題との出会いと、「支援連」の活動、そして寄せ場との関係についてお話しください。
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平野 今日、みなさんに配布されたチラシのわたしの肩書に対してちょっと奇異に感じられた方がいらっしゃるんじゃないかと思います。今ご覧になった映画『山谷やられたらやりかえせ』あるいは監督の山岡さんと「支援連」とどういう関係があるのかと。それは追々お話しするとして、わたしもこの肩書で話をするのは本当に久しぶりで、この前はいつだったか忘れちゃったぐらいです。でも、今でも週に1回は「反日」の獄中者の一人に面会するため東京拘置所に通っていますし、地を這うような長い、長い、救援活動はずっと続けています。
在日朝鮮人問題との出会いということで言いますと、きわめて個的な体験からでして、それは大島渚監督の『忘れられた皇軍』というテレビドキュメンタリー(このドキュメンタリーは1963年に放送されたもので、その時点で観たわけではないのですが)について、『日本読書新聞』という書評紙に、宮田節子さんという朝鮮史の研究者の方が書かれていた記事を読んで、その事実に大変衝撃を受けたからでした。
今の若い方は、その姿を見たこともその光景に遭遇したこともないと思いますが、わたしの子どものころは、街頭や駅前、あるいは電車の中で、白衣を着て兵隊さんの帽子をかぶった、目が見えなかったり、片手片足をなくしたりといった人たちが献金を乞う姿をよく見かけました。当時、「傷痍軍人」と呼ばれていた人たちです。わたしが、そのドキュメンタリーのことを知って衝撃を受けたのは、そこに登場していた十数人の傷痍軍人が全員在日朝鮮人だってことを知ったからでした。と言うのは、先ほど池内さんも言ってたように、戦前日本は朝鮮を植民地にしていて、朝鮮人は「日本人」として扱われていたんです。朝鮮の人たちの現実は、言葉を奪われ、土地を奪われ、あらゆるものを奪われて、しかも成年男性は「日本人」として徴兵され、戦争に駆り出されたわけです。その結果、戦死した人も沢山います。負傷して帰還した人も沢山いました。けれども、その人たちは、戦後、もはや「日本人」ではないという理由で、日本政府は何の補償もしなかったのです。その人たちは、祖国の韓国政府にも訴えたのですが、それは日本の統治時代に施行されたものなのだから、日本が当然補償すべきものだと応じなかった。つまり、どちらの国の政府からも補償を受けられなかったわけです。
わたしは、『忘れられた皇軍』というドキュメンタリーで、その問題を初めて知って本当に驚きました。知らないということは本当に恐ろしいことだと思いました。そしてこれが日本という国はなんて駄目な国なんだろうと思った、最初の体験でした。そしてわたしは、この問題を知ったことがきっかけとなって、もっと朝鮮のことを知りたいと思うようになり、友人と学習会を始め、朝鮮の歴史などを勉強することになったのです。
その頃のことなのですが、わたしは1975年5月19日付の新聞で、前年8月30日に起きた三菱重工ビル爆破事件の容疑者として「東アジア反日武装戦線」を名乗る8人(1人は逮捕されてすぐに自殺しているので、実質的には7人)の人が逮捕されたという記事を読みました。この事件では、8人の死者と二百数十人の重軽傷者を出しているということもあって、容疑者たちに対して凄まじい批判が浴びせられていて、報道も然りだった。わたしはその時まで、「東アジア反日武装戦線」という組織について全然知らなかったのですけれど、あまりにも報道が酷いものだったので、容疑者とされた人たちは一体どういう人たちなのだろう?と逆に興味がつのり知りたくなったんですね。
たまたま「東アジア反日武装戦線」の救援会に関係していた知人にもらったパンフを読んで、三菱・三井といった財閥が明治時代から政府の後押しを受けて、武力による朝鮮や台湾への植民地侵略に加担していった〝死の商人〟であり、鹿島・大成・間組などのゼネコンは朝鮮人・中国人を強制連行したり徴用して、過酷な労働を強いたうえ多くの労働者を殺してきたということ、つまり、事件の動機は、日本が植民地支配に対する責任を全くとっていないということに対する警告と、また、それがアジアの人びとに対する日本人としての自分たちの責務だということ、そういう思いで起ち上がったのだということを、わたしは知ったわけです。彼らの闘いの方法には必ずしも賛成ではなかったけれど、問題意識には非常に共感するものがありました。
新聞報道などから極刑・重刑が予想され、日本の国家に彼らを裁く資格があるかという思いもあって、彼らのことがとても気になったわたしは、1977年6月頃、救援会の事務所を訪ねました。来年で40年になりますけれど、わたしはその時から救援活動にかかわるようになったのです。
池内 逮捕された人の中には黒川芳正さんという人がいて、彼は山谷で支援活動をやっていたのですが、それはご存知でしたか。
平野 知りませんでした。
池内 山岡さんのことに話を引き付けたいのですが、山岡さんはたぶん60年代の末に北海道から上京してきて、山谷や釜ヶ崎に入っているんですね。そして72年に山谷で現闘委(悪質業者追放現場闘争委員会)を仲間たちと作って激烈な闘争を始めている。しかし間もなく沈滞期に陥っています。そして今、平野さんがお話になった75年5月に「東アジア反日武装戦線」のメンバーが一斉逮捕された、その直後の6月25日には船本洲治さんが沖縄で焼身自殺をしている。それから4年後の79年6月9日には、磯江洋一さんが「船本さんが亡くなって5年目を黙って迎えることはできない」と単身決起して、山谷のマンモス交番の警官を刺殺しています。もちろん、船本さんも磯江さんも、山岡さんとは寄せ場の闘争において同志的な関係の間柄だった。
この磯江さんの単身決起後、「6・9闘争の会」というのが作られ、しばらく沈滞していた山谷の現場闘争が再開されてくる。その頃、山岡さんや「6・9闘争の会」の人たちが平野さんたちのところに相談に行っていますよね。その相談の内容ってどういうものだったんですか?
平野 磯江さんが単身決起された1ヶ月くらい後だったかなあ、「6・9闘争の会」の人たちがわたしたちの救援会の事務所にやって来て、「あなたたちは救援のノウハウを知っているのだから、磯江さんの救援もやってほしい」と依頼されたんですね。でも、その時、わたしがちょっとムッとしたのは、「オレたちは救援の会ではなく、闘争の会なんだ」ということを強調していたことでした。これを言ったのは、もう亡くなりましたけれど南さんという人でした。南さんはお酒を飲んでいて、いい調子でよくしゃべる人だった…(笑)。でも考えてみれば、一緒に闘ってきた大事な仲間である船本さんを失い、翌年に鈴木国男さんが大阪拘置所で殺され、今度は磯江さんが敵の手に捕えられるという無念を思えば、南さんがとてもシラフでは語れなかったのだろうという気持ちもわかりますけど。
池内 救援会の事務所はどこにあったんですか?
平野 南千住です。「6・9闘争の会」の事務所も同じ町内のすぐ近くで、いわばお隣さんでした。
池内 山岡さんはその場にいたんですか?
平野 いたと思いますけれど、山さんはあんまりしゃべらない人でしたね。わたしがその時ムッとしたのは、彼らのなかに「闘争の会」に対して「救援会」を下に見てる感じがあったからなんです。でも言わせてもらうと、「反日」の救援活動というのは、そんな生易しいものじゃなかった。彼らは東京拘置所に移されてから分離公判に反対したり不当な処遇に抗議したり、獄中闘争を果敢に展開し始めて、それに対する弾圧もすごかったし、77年の夏までは接見禁止だったから、獄中―獄外の意思疎通を図るのも大変でした。まだ地下に潜って逃げていた人たちもいたので、救援活動などをやっている者は残党じゃないかと権力側は思っていたんでしょうね。だから、電車に乗ると公安が必ず付いてくるし、何か起きると事務所も自宅アパートもガサ入れ(家宅捜索)された。職場や友人、親元にも公安がうろついていた。そういう日々緊張状態の中でやっていたんで、救援をそんなに甘く見てもらっちゃ困ると、わたしは強く思いましたね。それが山さんたちと最初に会った時の印象でした。
池内 不幸な出会い?――で、結局、どういうことになったんですか。
平野 その年(79年)の11月に「反日」の人たちの一審判決があったのですが、大道寺将司、片岡(益永)利明くんの2人が死刑、黒川くんは無期、荒井まり子さんは何もしてないのに懲役8年といった予想通りの極刑・重刑判決だった。さっき池内さんが言われたように、黒川くんは以前、山谷の支援として「底辺委員会」というところで活動していて、山さんも知っていたし、他にも何人か山谷にいたことがある人がいたので、抗議集会を山谷でやってくれないだろうか、と今度は逆にわたしの方から「6・9闘争の会」に頼みに行きました。そしたら「いいよ」ということになって、その年の12月に「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃に抗議する集会」を南千住駅近くの荒川第2出張所でやりました。そして、79−80の越年・越冬闘争に参加したのが、わたしの山谷との関わりの始まりでした。
池内 平野さんは、そういう流れで山谷に関わるようになったことが分かりましたけれど、その一方で79年10月から11月にかけて韓国で起きた「南朝鮮民族解放戦線」(南民戦)という組織のメンバー80人が逮捕・拘束されるという事件の支援と救援にも関わっていますよね。ちょっと当時の韓国の政治・社会状況に触れておくと、同時期に釜山や馬山で市民・学生が中心になった反独裁・民主化の大闘争が起きている。その渦中の10月26日には朴大統領が側近に射殺され、ソウルでは学生たちが決起して大反乱が起き、それが光州の蜂起につながっていくという、そういう非常に激動の時代だった。そんな状況下で「南民戦」という組織の弾圧も起き、平野さんはその人たちへの支援・救援組織を作って積極的に活動していくわけですね。
どういうきっかけで、その会の立ち上げから関わるようになったのですか。
平野 これも「反日」の時と同じように、新聞の記事を読んで知ったのがきっかけです。
池内 それって一般紙に載りましたっけ?
平野 あ、それは韓国の新聞です。日本の新聞じゃありません(笑)。わたしは当時習っていた朝鮮語の先生を訪ねて74年に初めて韓国に行ったのですが、その時に食事に入った店で、わたしが「朝鮮」という言葉を使ったら、「韓国では朝鮮って言葉を使うのはダメですよ」と忠告されたんですね。それなのに韓国の新聞で報じられた「南朝鮮民族解放戦線」の人たちは、「朝鮮」という語を堂々と使っている。なんて無謀な人たちなんだろうと、その組織名と人数の多さを見て衝撃を受けたのを覚えています。韓国の弾圧史上でも未曽有の事件でした。起訴されたのは73人でしたが、その経歴を見ていくと、あのすさまじい朴軍事独裁体制に対してさまざまな持ち場で民主化闘争を担い、また韓国の都市・農村の底辺でしいたげられた民衆とともに働いてきた人たちで、79年の夏以降、民衆の激しい抵抗闘争に恐れをなした朴政権が一網打尽にしようとしたことがわかってきました。
「これはなんとかしなくちゃ」とわたしを突き動かしたのは、「反日」のときと同じように「この人たちを闇に葬らせてはならない」「この人たちとつながっていきたい」という直感のようなものだったと思います。「なんとかしなくちゃ」と言っても「反日」の方もこれから控訴審という大事な時期で手を抜けない。実は「反日」の救援会は、81年の初めに「支援連」に移行してから若い人たちが次々と入ってきて支援体制も広がってきていたので、その人たちに任せてわたしは88年12月に「南民戦」の人たちがすべて釈放されるまで、その救援運動を続けることになりました。「南民戦」事件では、死刑判決を受けた2人のうち1人は処刑、1人は獄死、釈放直後に1人が病死という犠牲を払いましたが、この救援運動を通して学んだことはとても大きかったと思います。
「反日」の救援からは一時退いたとはいえ、獄中の彼らの刑が確定して若い人たちがそれぞれの場所に戻っていったら、私はここに戻ってくるつもりでした。実際、87年3月の確定判決から来年で30年になりますが、わたしは今も彼らの救援の場に立ち続けているし、80年代に全国から集まってくれた当時の若い人たちとは今もニュースなどを通じてつながっています。
池内 「南民戦」の活動にも、山岡さんは強い関心を持っていたようですが、その時に山さんと何か話をしたことがありますか。
平野 あまり話した記憶はないけど、山さんはいつもいるべきところにちゃんといてくれるという安心感はありました。判決に抗議するハンストをやってると、いつの間にか山さんがそこに座っているということがよくあったし、パネルディスカッションのパネリストとして発言してくれたこともありました。山さんとは、そういうふうな関わりでしたね。
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池内 81年に「在日朝鮮人獄中者救援センター」というのを、平野さんは山岡さんたちと一緒に立ち上げていますが、そのことを。
平野 わたしが在日朝鮮人運動、あるいは韓国の反体制運動にかかわって、山さんと一緒にやったのは、さっきの「南民戦」救援会と後で触れる「解放を求めるアジア民衆の会」、そして「在日朝鮮人獄中者救援センター」ですが、わたしが今日、一番話したいのはこのセンターのことです。ちょっと乱暴な括りになるかもしれませんが、「南民戦」救援会も「アジア民衆の会」も広い意味で日本が犯してきた歴史的・現在的な責任を問う運動の一環だったのに対して「在日朝鮮人獄中者救援センター」はそういう運動の側面を持ちつつも、「誰とともに」「どういう運動をつくるのか」がリアルに鋭く問われていました。そこで体験した「失敗の教訓」は今の運動にも必ず生かされるはずなので、あえてお話ししたいと思います。
70年代終わりから80年代にかけてという時代は、三里塚闘争とか爆弾闘争、あるいは山谷の闘いで逮捕された人たちが、警察の留置場や拘置所に数多く勾留されるようになり、もともとはほとんどが一般刑事犯で占められていた留置場や拘置所内で相互に交流する機会が増えたんですね。そうした中で「獄中者組合」が作られ、「氾濫」という機関誌も発行されるようになりました。これは東京拘置所の例なのですが、刑事犯と政治犯とは扱いが違うんです。例えば、刑事犯には筆記用具を房内で所持することは認められていなくて、手紙を書く時などはいちいち看守に申し出てボールペンなどを借り、別室に行って書かなければならない。そういう規則があった。獄中者組合の当局に対する最初の要求というのは、「筆記用具の房内所持を認めろ」ということだった。そういうことから政治犯と刑事犯との交流が生まれました。
1975年10月24日付の「氾濫」に、在日朝鮮人のH・Pさんが「日本人にとって朝鮮人とは何か? 答えられるなら答えてください」という問いかけをした一文を寄稿しています。その文章の最初の部分を紹介します。
「私はちょうど30歳になりました。その間前科3犯になり、獄中生活も7年を越し、現在約5年の一審判決を加えると12年にも達します。無期刑を区切ってつとめているのと何ら変わらないのです(彼は「とびとび無期」という言葉を生み出した)。私の事件の現出した部分のみを見るならば、労働意欲の全くない、遊興費ほしさの、極悪非道な犯罪かもしれない。しかし私の犯罪の包含しているものは、これまでの民族差別による歪められた人間形成=日本人社会への反抗=罪悪感を抱かないという感情を持つ人間に形成されたこと、このことが諸悪の根源であると考えられるのです。…」
つまり、このH・Pさんの文章は、いかに幼少の頃から日本人に虐められ、差別されてきたかということを述べているものであり、そのことについて「お前ら日本人はどう思うのか?」と問題を突き付けているのです。
この文章を読んだ「反日」の獄中者で浴田由紀子さんという人が、「私たちの闘いは差別・抑圧された朝鮮人をはじめとする下層人民に届いていなかった。あなた方と合流できるよう闘い続ける」という手紙を次号の「氾濫」に書いている。
そしてこの浴田さんの手紙に応え、H・Pさんは「闘いこそ出会いの時を作る」と題して概略次のような返事を寄稿している。「…誰もが冷たいと言って渡れなかった川……水際でバシャバシャと水を浴びることによって、朝鮮問題をはじめとして、他の被抑圧民族のこともやりましたという『左翼』としての洗礼を受ける日本人と違い、体を張って渡ろうとした。いや、今ははっきりと渡ったと言える。渡ったんだ。その河を渡って体の濡れた者に『冷たかったでしょう』という言葉はいらないと思う。だまってその濡れた手足を拭き、凍っている手足を温め、〈さあ、一緒に撃とう〉という行為だけが必要なのです」。
わたしは思うんですけれど、H・Pさんが自分の主張、訴えを正面から受け止められた経験というのは、おそらくこれが初めてだったのではないかと思うんですね。
H・Pさんが出獄したのは、たぶん80年だったと思いますが、彼は出て来てすぐに「在日朝鮮人獄中者救援センター」を作りたいと、仲間たちに呼びかけて立ち上げるんですね。その動機には、出獄者に対して、これは日本人の出獄者に対してもそうなんだけれど、特に朝鮮人の場合はもっと根源的な差別があるので、出獄後まず就職が難しく、生きて行く術がないという問題があります。自分自身がそのことを経験してきているので、同胞の出獄者がそういう大変な経験をしないですむように、アパートを借りて、そこで靴製造の作業所を開く準備を始めた。仲間が出てきたら、手に職をつけさせて、何とか生きる術にしようという思いからでした。
池内 「救援センター」を作った理由の1つには、出獄者が社会に復帰してから再犯を起こさないような状況を自分たちで作っていこうということですね。そのことについて、山さんとその辺の具体的な話をしたことはありますか。
平野 これはわたしも本人から直接聞いた話なのですが、「シマンチュー」と呼ばれていた奄美大島出身のMさんという獄中者がいました。彼は幼い頃、家族と共に沖縄本島に移住しているのですが、沖縄でも「大島、大島」と言われて差別されていた。それでヤマト(日本本土)に集団就職するのですが、そこでも差別を受けた。そういう生い立ちをしたMさんが、どういう犯罪を起こしたのかは分かりませんが刑に服す。そして出獄するとすぐにまた犯罪を起こして再犯で入獄します。その時に山岡さんと出会うのですが、Mさんに山岡さんが送った手紙が残っていて、その手紙が山さんが殺されて10年後に刊行された遺稿集『山谷 やられたらやりかえせ』に収められているんですね。その手紙の抜粋をちょっと読みます。
「山谷の労働者は、よくグウタラな、怠け者と言われます。しかし、山谷で暮らすと、そうしたレッテルでは、山谷の事を何も語っていないことを身に沁みて解ります。山谷の人間は、政府の農業・産業政策によって、農業を捨て、炭鉱から追われた人たちであり、また日本の大資本によって海や土地を奪われた沖縄やアイヌの人たちであり、更に戦前・戦中日本帝国主義の植民地支配によって日本へ出稼ぎに来ざるを得なかったり、人間狩りの強制連行によって日本の飯場や工場・鉱山へぶち込まれ、日本の敗戦後もいろいろな事情で帰国できなかった人たち等によって、山谷―寄せ場の住人は構成されています。ということは、寄せ場の人間にとって、帰るべき所を奪われているか、帰るにも帰れない事情が、必ずあるということです。Mさんにも、そうした事情があると思います。自分の力だけでは、どうすることもできない事情です。そして、このことは寄せ場の人間に共通する問題ですので、この問題こそ、私たち弱い立場の者を結びつける要素であると考えます。」
山さんは、こうした考え方を持っていたからこそでしょうが、「在日朝鮮人獄中者救援センター」の会議などには必ず来ていました。
池内 センターでは、張明秀さんの強制送還阻止の闘いを、山さんと一緒にやられました。
平野 そう。センターの発足当初の取り組みは、朝鮮籍の張明秀さんの韓国への強制送還を阻止することでした。在日朝鮮人2世の張さんは、松本少年刑務所に8年、大村入管収容所に5年近く収容された上、その「犯罪歴」のゆえに、本人の意志に反して、全く生活基盤もなく、命の危険さえ伴う韓国に強制送還されようとしていました。ここには2つの大きな問題があります。その1つは少年法該当者に対する苛酷な措置だったこと、もう1つは張さんが「法126号」該当者だったことです。「法126号」というのは、日本の植民地時代から在留する朝鮮人の中で、戦後処理の曖昧さとして、「別の法律で定めるまで」在留資格と期間を定めずに在留できるという「例外規定」です。126号の子孫(張さんもそれに当たります)には明確な在留資格が与えられていないために、細かな「退去強制理由」を盾に絶えず国外退去の危険にさらされてきました。張さんは地元が静岡で、入管の管轄は名古屋だったので、仮放免後の毎月の出頭時には東京からも応援に駆けつけて、入管当局と粘り強い交渉を重ねた末に、83年の10月に張さんの強制送還は阻止できました。それがセンターの取り組みの大きな成果の1つです。
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池内 83年というと、その間に山岡さんは「日雇全協」(全国日雇労働組合協議会。82年6月結成)の結成に尽力している。先ほど平野さんが紹介してくれた山岡さんの「Mさんへの手紙」でも分かるように、山岡さんは、寄せ場が置かれている状況というものを考え、それとの闘いに専念していただけではなく、獄中者の救援についても強い関心を持っていたことが分かります。例えば「〈寄せ場―暴力飯場―精神病院―監獄〉を貫く闘いの陣形構築」と山岡さんは言っていますが、何民族であろうと、下層に置かれていると、この「還流構造」の中に巻き込まれやすい。特に在日朝鮮人の場合は、日本社会に抜きがたい差別があるので、その「還流構造」の中に流されやすいということがあります。
時間が無くなってきたので少し端折りますが、山岡さんは86年1月に殺されてしまうわけですけれど、その前年10月に「解放を求めるアジア民衆の会」という組織を立ち上げるための準備会をもっていますよね。「在日朝鮮人獄中者救援センター」からの流れと考えてもいいですか ?
平野 「アジア民衆の会」は、83年から国際基督教大学(ICU)に韓国から留学していた金明植さんの指紋押捺拒否からビザ更新不許可処分に対する反対運動に始まり、「アジア民衆法廷」をやろうというふうに発展していったもので、「獄中者救援センター」の流れとは(人的なつながりは別として)あまりつながってないんですよ。山さんは「民衆法廷」をとても積極的に考えていて、明植さんも交えてずいぶん討論を重ねてきましたが「民衆の会」結成集会の直前に殺されてしまったのです。
「在日朝鮮人獄中者救援センター」の話に戻ると、83年に内部の非常に深刻な事情により閉じざるを得なくなったのです。確かに山さんと一緒にやった活動なのですが、僅か3年くらいしかやらなかったことを、山さんと一緒にやりましたと言うのもすごくおこがましくて、躊躇するところもあるんですね。でも、こういうことがあったということも、今ではあまり知られていないだろうと思うし、ほんの僅かの期間だったとはいえ、寄せ場と繋ぐ試みをやっていたってことは憶えておいてもらってもいいかなとは思いますが。
池内 今度の「山さん、プレセンテ!」という集会には、平野さんだけではなく、今日も来てくださっていますけれど、山谷で山岡さんと一緒に闘っていた人たちにも加わってもらい、「総括」という大げさな言葉は使いませんが、自分たちが実際にやってきたこと、残したいこと、あるいは失敗したことなどを出来るだけ検証して、現在に繋げたい。若い人たちや、いま実際に運動をやっている人たちに伝える、というより、役に立ちそうなものがあったら勝手に持ってってね、という感じなんですけど…。
最後に平野さんが今日一番話したかったと言っている「在日朝鮮人獄中者救援センター」と、その後について、もう少しお願いします。
平野 さっき非常に深刻な事情でセンターを閉じざるを得なくなったと言いましたが、その要因にはH・Pさんがかなり深く絡んでいるんですね。彼は結果的に去って行ったわけですが、そのことを話し合った会議には、山さんはいなかったのですけれど、後から他の人から聞いた話ですと、「平野さんがいるから大丈夫だろう」と、山さんは言ったというんですね。
池内 あ、僕もそう思いますけど(笑)。
平野 H・Pさんを糾弾する会議になってしまった時、誰もH・Pさんの立場に立って弁護しなかったし、わたしもそういう発言はできなかった。そのことがずっと澱のように残ってしまった。実はその後、特に90年に山谷労働者福祉会館ができてから、わたしは直接労働者と向きあうことが多くなって、労働者から突き上げられるという経験もすることになった。それまでは山さんたちが間に立ってくれたのですが、その楯が無くなってしまったからです。会館ができると、ここでしか生きていけない労働者たちが常にその周辺にいるわけですよね。そうすると撤退することもできない。本当に身を晒すような恰好になった。労働者たちに叱られたりどやされたりもしました。そういう経験をして、はたと気づいたのは、H・Pさんは彼なりの立場で同様の経験をして相当重圧を感じていたんじゃないかな、ということでした。その時になって初めてそう思った。しかしH・Pさんは逃げるわけにいかなかったんですね。なぜなら彼は「在日朝鮮人獄中者救援センター」という組織の象徴的な存在だったからです。運動の中で活動家たちに期待されていたし、その期待に精一杯応えようとしていたから。
そう気付いて、わたしは初めてH・Pさんに大変申し訳ないことをしたと思いました。その後、わたしは、いろいろと模索してきたし、試行錯誤し失敗もしながらやってきたわけですが、運動というものは当事者がつくりあげていくものだ、本当に当事者が中心になっているのか、活動家が知らず知らずに押しつけてないか、そのことをいつも点検しなければダメだな、ということをずいぶん後になって気づかせてくれたのがH・Pさんでした。「在日朝鮮人獄中者救援センター」でH・Pさんに出会ったこと、そして一緒に活動をやってきたことが、今のわたしの活動にまだ不十分ではあるけれども糧になっているのかなと思っています。わたしは、そういう思いを実は山さんに話すことはできなかったのですが…。
池内 山岡さんにも、当然、そういう感覚はあったでしょうね。それに加えて、山岡さんにはもうひとつ、「階級」というものを常に考えていた。
平野 そうですね。わたしは直接山さんから聞いた記憶はあまりないんですが、遺稿集『山谷 やられたらやりかえせ』には随所に「根本の問題は〈階級〉だ」ということが出てきますね。それで思い出したんですが、この遺稿集が発行された日、山さんが殺されて10年目の追悼集会で反天連の天野さんがこう言ってます。「船本さんと山岡さんに共通する一連の流れの中で、いったい彼らは寄せ場の中で何を発見したのか、寄せ場に何をもたらしたのか、どういうことを実現しようとして動いたのかというと、寄せ場労働者の位置づけについて、その基軸的な価値観の転換をはかったんだと思う。(中略)マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』のテーゼに依拠して下層労働者をプロレタリアートと位置づけ、解放の普遍的主体としての流動的下層労働者という位置に問題を置きかえることによって、市民社会の中で下位に位置づけられているものをむしろ積極的な価値として打ち出した。そして下層労働者は組織されたり工作されたりする客体ではなく、自らの社会性と歴史性の中から(内側から)全体的に世の中を変革していく展望を見定めていく、下層労働者の差別されている肉体自身が一つの価値の源泉だという論理に立った」(「記録 山岡強一虐殺10年 山さん、プレセンテ! 追悼集会」より)。
ちょっと飛躍かもしれませんが、山さんはH・Pさんの提起と「在日朝鮮人獄中者救援センター」に、そんな展望をもっていたのかなと、天野さんの話を聞いて思いました。気付くのが遅すぎましたけど。
こういう機会をいただいて振り返ってみると、80年代前半は、わたしもずいぶんいろんなことをやってきたなと思います。時代がそうさせたということもありますが、やはり山さんの影響を抜きには考えられません。
池内 山さんは30年前に亡くなってしまったけれど、今も健在なら、世界情勢の変化の中で、山さんの「階級」に対する考え方も変わったかも知れない。まあ、誰とつながってゆくのかということですが。また、平野さんのような感性で運動を続けていることにも注目したでしょうね。人との付き合いでも山さんは抜群な温かさを持っていた人なので…。そういう点なども含めて10月の集会では考えてみたいと思います。
(2016年7月23日)
(ひらの・りょうこ/東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)