千代次さんに聞く―― 山谷の玉三郎と「さすらい姉妹」

お話 千代次(水族館劇場・さすらい姉妹)

この場に居るのが玉三郎であったらよかった…

司会(小見) 今、ご覧いただいた映画『山谷やられたらやりかえせ』の真ん中くらいに、山谷の夏祭りのシーンがありましたね。そのシーンで女装してかつらをかぶり踊って喝采を浴びていた――着物の裾をパタパタとめくったりして、ご祝儀を貰っていた人物が玉三郎さんです。あれは1985年に行われた第2回山谷夏祭りなのですが、その頃から彼は「山谷の玉三郎」として名を知られるようになっています。今日は、その玉三郎さんと共演してきた、「水族館劇場・さすらい姉妹」の千代次さんに、玉三郎さんについて話してもらいたいと思います。よろしくお願いします。

千代次 千代次と申します。先ほど映画『山谷やられたらやりかえせ』をみなさんとご一緒に観た、わたしの気持ちからまずお話します。佐藤さんが殺られて、みんなが反撃の闘いに起ちあがる暴動のシーンを見ると、わたしは胸がドキドキしてしまいました。ほんとうに血が騒ぐような気持ちになった。以前観たときよりもっと血が騒ぐのが不思議でした。あの人もいた、この人もいた、こんなこともあったなあ、という想いが蘇ってきます。わたしは、当時、そんなに現場にいたわけではないんですけど、この映画を観ていると、今の山谷の状況とずいぶん違うものですから、あのときのあの感じが途切れてしまったのはどうしてなのかなあ? そんなことを考えました。それがなぜなのか、自分の問題として考えたいと思います。今日、この映画をご覧になったみなさんも、いろいろ感じたこと、考えたことがあるのではないかと思います。わたしはそれを是非お聞きしたい。これは30年前の映画ですけれども、この映画を今なお上映し続けているという意味、この映画を観るという意味、そういうことを、ただわたしが話すだけでなく、みなさんにもお聞きしたいと思います。
それでは玉三郎のことをお話しますけれども、ここは舞台とは違うのでちゃんと話せるかどうかすごく不安だったものですから、書いてきたものを読みますので、聞いてください。
わたしは、この場に登場してくれないかとお話をもちかけられたとき、大変途惑いました。果たして自分に何を話すことがあるのだろうと。事実として玉三郎とは20年間、「さすらい姉妹」を共にしてきたけれど、玉三郎の何を語ればいいのだろう。『山谷やられたらやりかえせ』との繋がり、今現在に繋がる話をするなら、何を話せばいいのか。毎日考えました。それをつかめないままパッと思ったことがありました。
ここに居るのはわたしではなく、玉三郎であるならよかった、ということです。映画に映しだされた当人であるし、あの時代をリアルタイムで生きてきた、そのことを玉三郎の視点で話しただろうし、山谷の労働者でもあった玉三郎こそが、この場にもっともふさわしかったとつくづく思ったからです。玉三郎が死んでしまってから追悼の場のここに、わたしが呼ばれるのは何とも残念でなりません。
玉三郎が死んでしまって、お葬式のとき多くの人が集まりました。たぶん争議団の中村さんの考えだと思いますが、参列した人全員で玉三郎のお骨を拾いました。関係の深い、浅い、仲の良い、悪いなど一切関係なく、みんなで拾いました。順番も何もありませんでした。最後まで看病した「あうん」の人たちや、最も関係の深い人たちだけが拾ったのではないのです。玉三郎の死を私物化せず、解放したのだと思いました。そのことはとても強烈にわたしの心に残っています。追悼という共通の感覚がより深く人々の心に沁みたのではないかと思いました。そしてその感覚というのは、人の死というのはそういうものだと思いますが、いつもは話をしない者同士や、仲が悪かったり考えが違う者同士が、閉ざしていた心を開いていくように誘うものかと思います。
わたしにとっても、玉三郎のことは十分に知っているが、彼が「さすらい姉妹」に出演していたということはあまり注目されずにきたのではないのかなと思って、玉三郎が生きているとき、「さすらい姉妹」の舞台を観に来てほしかったという気持ちがとっても強いんですけども、そういう状態から関係の回路が出てきたようなことがこの間ありました。上映委の方たちともほとんど話をしたことがなかったですし、玉三郎の追悼という共通の感覚でわたしに声をかけてくださったのかと思います。たとえ一瞬であろうと、回路を開こうとしてくださったのかと思います。そのことを、わたしがどんなに途惑いがあろうと、お話を受け、わたしは心を開きますということで、応えようと思いました。わたし自身が心を閉ざしていたことを考えさせられました。
いろんなやり方や意見の違いがあるにせよ、今の世界の流れを何とか食い止めようと強く思っている同志なのだから閉ざしてはいけないと自分に言い聞かせています。この映画も、今、佐藤さんや山岡さんが考えてもいなかったであろう、志を同じくした者同士の政治的分裂の只中にあると聞きます。「さすらい姉妹」も芝居を持っていく現場の分裂の只中にあります。玉三郎は「働く仲間の会」もやっていたし、山統労主催の盆踊りでも踊っていたし、争議団、山谷労働者福祉会館の盆踊りでも踊っていました。敵対する二派、三派、何派でも全部またいでいたと思います。芸事の人間には、政治の流儀は通じません。両またぎで生きるのが芸事にかかわる人間の仕事だし、力だと思います。こういうことを考えながら、ここに来ました。よろしくお願いします。

山谷を歩いていると、「よお、玉!」と仲間が声をかけていく

小見 ぼくは1998年に「寄せ場にたった女優たち」というインタビューをやったことがあります。その3回目に千代次さんに登場してもらいました。そして第4回目に「女優」ではない玉三郎さんを特別編としてインタビューしました。資料としてお配りしたインタビュー記事がそれです。今の千代次さんのお話で玉三郎さんとの20年ものかけがえのない盟友関係のいったんがおわかりになったと思いますが、彼の芸についてもう少し話してください。
千代次 玉三郎はやっぱり芸を持っていたと思います。最初に玉三郎を引きずり込んだのは、彼が踊りという芸を持っていたからでした。わたしは、山谷の夏祭りなどで玉三郎の踊りがすごく喜ばれていたのを知っていたのです。それでわたしは「どうしてその芸をもっともっと生かさないの」とけしかけて誘ったのです。
小見 千代次さんは寄せ場とも長くかかわってきていますけど、水族館劇場の前身の「曲馬舘」の頃、1970年代後半だったと思うけど、芝居のなかで「泪橋エレジー」という歌を使っていましたよね。実は『山谷やられたらやりかえせ』には、かつてはプロモーションフィルムと呼んでいたのですが、予告編があります。その11分もの長い予告編には「泪橋エレジー」が使われています。千代次さんとは、そういう繋がりもあります。
千代次 それは知りませんでした。でも、私は長いといっても浅いのです。玉三郎をどうしてわたしが引きずり入れようと熱心になったかというと、やっぱり彼が寄せ場の人だったからなんですね。玉三郎は、山谷の町を歩いていると、「よお、玉!」と声をかけてくる仲間がたくさんいる。わたしみたいに寄せ場で芝居をやるためにポッと飛び入りしてる者にとっては、玉三郎のような人と知り合ったということはすごく力になった。それと山谷の労働者たちだけじゃなくて、支援活動に入っている活動家たちにも、玉ちゃんはけっこう言いたいことを言ったりしていて、いろいろな人間関係を全体的に持っていた人だった。そういうところが、わたしにとっては、彼と知り合い、一緒に芝居をすることの嬉しいことでした。
小見 ぼくは、この映画の最初の監督・佐藤満夫が殺されてから、山谷へ行くようになったのですけど、これは平たく言えば支援に入るということですよね。そうすると寄せ場の労働者がいて、いわゆる活動家の人たちがいるという人間関係の中に入っていくわけですけれど、最初の頃はそうした人たちと立ち位置が微妙に異なるので、うまく話ができなかった。そういう経験がやっぱりありますね。だから、玉ちゃんと知り合い、インタビューしたり、「世界」という立ち呑み屋で酒をおごってもらったりという関係がつくれたことでだんだん中に入っていけるようになった。ぼくにとって、彼は、いわばある種の媒介のような存在だった。そういうことなんですけど、千代次さんはずっと玉ちゃんと「さすらい姉妹」で一緒に芝居してきたわけでしょう。玉三郎観をもう少し詳しくしゃべってくれませんか。

「芝居で腹は膨れないけれど、心は満たしてみせまする」

千代次 最初の頃のことで憶えているのは、わたしたちは「開演時間を6時半」と決めていたのですけれど、玉三郎が「6時に炊き出しが終わると、帰っちゃうお客が多いので、6時にしよう」と言いだしたんです。でも、他から来るお客さんもいるのだから6時半の開演時間を変えるわけにはいかないと、わたしたちは譲らなかったため、すこし言い争いになりました。大衆芸能の人たちは、時間にルーズというか臨機応変的な感覚なのかな。玉三郎を通して大衆芝居の世界を感じとったし、玉三郎のほうでも「大衆芝居ってだけじゃつまんねえ、ひとひねりしないとサ」なんて言い出したりしました。1回目が終わって「今度はセリフもね」と言ったらイヤと言わなかったので、2回目の「瞼の母」という芝居では、玉ちゃんに忠太郎をやってもらったのですが、玉ちゃんのセリフは棒読みで、下手くそで、どうしようかなあ、と心配したことがあった。ところが、その下手さが、だんだんむしろ魅力的な味わいに感じられるようになってきて、風情の魅力だ!と感心したことがありました。
あと、これは芸の話ではないのですけれど、最初のとき、「何で山谷に来るのか」と玉三郎に問われてドキリとしたことがあります。その問は別にわたしに対してだけ発せられたものではなくて、山谷にやって来る学生さんとか女性たちに対しても、「何で山谷に来るんだ?」「お前なんかの来る所じゃない」とよく言っていましたので、玉ちゃんの一種の儀式だったのだと思います。最初にその詰問を受けたとき、わたしは答えられなかったのですが、わたしはこの場に立ちたいのだ! という気持ちは強かったので、それは玉三郎に伝わったと思います。
それから「野垂れ死んでいく者たちの気持ちもわからないくせに、よく芝居ができるな」と言われて泣いてしまったこともありましたけれど、野垂れ死んでいくのは山谷の人だけに限らない、自分だってそういう運命の人生を生きているとどんどん感じるようになってきたのだから、どんどん動じなくなります。
この言葉は、わたし何度も紹介していますのでお聞きになった方もおられるでしょうが、佐藤満夫監督は「映画で腹は膨れないが、敵への憎悪をかきたてることはできる」と言っていますけれど、そういう思いで山谷に乗り込んで行ったのだと思います。佐藤さんは、山谷の労働者ではなかったわけですけれど、そういう信念で『山谷やられたらやりかえせ』という映画を撮ろうと決意されたのだと思います。わたしは、その佐藤さんの言葉をお借りして、「わたしたちの芝居で腹は膨れないけれど、心を満たしてみせまする」という思いでやってきました。今でもその気持ちは変わりません。
小見 以前、千代次さんにインタビューしたとき、千代次さんの芸能観についていろいろお聞きしましたが、娯楽ということについて、特に寄せ場における娯楽についてどのように考えているのか、お聞きしたいのですが。
千代次 巷に溢れているのはメチャクチャつまらない娯楽が多いですよね。わたしたちは大衆芝居の人間ではない。昨年、毛利嘉孝先生が(芸大の先生なので、思わず「先生」と呼んでしまうのですが)「さすらい姉妹」の山谷公演にかかわってくれ、「とても面白い体験だった」と言ってくださったのですが、わたしたちも大学の先生と寄せ場の労働者たちと共に芸能の場をつくれたことがすごく面白かったんですね。その毛利先生が「フェイク(偽物)こそ本物なんだ」ということを言っているのですが、わたしたちは「ニセモノ」なんですね。なぜって、わたしたちは「大衆芝居」の劇団ではないし、芝居で食っているわけではないからです。でも、本物の大衆芝居に負けない面白いものをやっているつもりです。傲慢な言い方ですけど、そう思っています。
小見 実は、ぼくらもかつて山谷で「月例映画会」という催しをやっていたことがあるんですよ。
千代次 この『山谷やられたらやりかえせ』の上映会を、ですか?
小見 そうじゃなくて、たとえば『無法松の一生』とか『幕末太陽伝』といった普通の商業映画の上映会です。上映中に酒を飲んで大声を上げる者とか、チョロチョロ歩き回る客がいたりで、娯楽を提供するのもなかなか難しいなと思いました。でも、いい映画会だったんですよ。『無法松の一生』のラストのほうのシーンで、三船敏郎扮する無法松に対して、まあスクリーンに向かってですが、「起て!」「死ぬんじゃねえぞ!」とか、大きな掛け声をかけたりするんですよ。

映画を上映し続ける、芝居をやり続ける

千代次 「山谷」の映画は、もうずいぶん長く上映活動が続けられているようですけれど、どういう方たちに観てもらいたいのですか?
小見 できるだけ多くの人に観てもらいたいですね。
千代次 山谷の人たちにも?
小見 もちろん山谷でもずいぶん上映会をしています。
千代次 どういう反応なのかな? わたしは寄せ場での上映会には行ったことがないので、知りたいのですが。
小見 当初は、「おっ、俺が映ってる!」といった観かたをする者も多かったですね。なにせ、この映画の主人公たちが観客でしたから。自分たちの現場を撮ってくれた映画として観られてきた。
千代次 今はどうなのかな?
小見 どうなんでしょうか? この映画に登場していて、今も山谷で活動している人が今日は何人か来てくれているので、話を訊いてみましょう。
荒木 当初はやっぱり「あっ、映っている」といった反応で観てた者が大半でしたけど、今はもう映画に登場しているわしらの世代は少なくなってしまいましたので、そういう観客はほとんどいませんよ。クールというか。ただ、わしらにとっては、この上映会が開催されると80年代の騒然とした山谷の時代を生きた仲間たちと出会えるので、そういう意義がありますよ。
千代次 知ってる人に出会ってどうするの? 再会してどんな話をするの?
荒木 今どんな暮らしをしているかといった話や、もう体が動かなくなったので山谷で生活保護を取ってるよ、といった話しですよ。
千代次 わたしがわからないのは、この映画の批評じゃないのですけども、この映画を今、上映している意味というか、それについてどう考えているのかなということなのですが。
小見 よく言うのですが、まあ、なかなか辞めるきっかけがないのでこの上映会をだらだら続けているんだよ、と。これは冗談なんですけど(笑)。これまでの上映会の歴史を振り返ると、観客1人のときもあれば、大勢の観客を集めたときなどいろいろありました。フィルムは同じなんですけど、上映会の時、場所によって全然雰囲気が違うんだけれど、しっかり観てもらえてきたと思います。つまり30年も上映会が続けられてきたのは、フィルム自体に力があって、持ちこたえてきたからではないかと思うんですね。これはぼく個人の意見ですけど……。
千代次 どなたかご意見を聞きたいと思いますが。
オリジン 寿越冬闘争実行委員会事務局長のオリジンです。久しぶりにこの映画を観たのですが、登場人物の1人のおっちゃんなどは、今も健在で、うちの4階の事務所へ飛び込んで来て「何か食わせろ」と喚き散らす、めっちゃ面白いおっちゃんなんですね。このおっちゃんは、生活保護を受けて市営住宅で暮らしていたのですけど、家賃を滞納して追い出され、寿町に舞い戻ってきたのです。ぼくのところに相談に来たとき、「何とか生保を繋いでくれ」と頼みに来たのかと思ったら、まず、「金、貸してくれ」「メシ、食わせろ」なんですね。すごくしたたかなんですけど、ああこんなふうに人間は生きられるのかと感心したというか……。厚かましいのだけれど、生き抜くためには何でもやる、みたいな前向きさが感じられて、ああ、こんな人間がいっぱいいたら自殺者も減少するだろうにと思うんですね。このおっちゃんは、かつては一晩に一升酒を飲む豪傑だったけれど、今もなんとか生き抜いている。そういうおっちゃんと話しているのはけっこう面白い。さっき千代次さんが言っていたことですが、ぼくも寿の越冬に大学生の頃、参加したときは、「学生のくせに何しに来たんだ」とおっちゃんたちからいびられたり、逆に「ジュース、おごってやるよ」と百円玉をくれるおっちゃんもいた。そんなとき「支援に来ているのでもらえない」と返したりすると、「俺は一度出したものは引っこめねえんだ」と百円玉を目の前にぶん投げられたこともあった。
寄せ場は変わってきた。けれども、変わっていないものがあるとすれば、社会的な排除リスクで、これは今も根強く残っている。重層的下請け労働システムにより下層労働者が寄せ場に集まって来た時代もあれば、バブル全盛時代に地上げで住む家を奪われて高齢者がどんどん寄せ場に流れて来た時代もあり、そして今の寿町は住民の8割が生保受給者たちといった「生活保護者の街」に変貌しています。実は、今のほうが非常に生きにくくなっているのです。貧困の連鎖に伴う子どもの問題解消などには力が注がれていますが、寄せ場のおっちゃんたちの存在は棄民化政策に組み込まれたままだからです。にもかかわらず、努力した者は報われる社会です、などと喧伝されていますが、努力しても全員が報われる仕組みがあるわけではなく、むしろ負け組のおっちゃんたちはどんどん生きにくい状況に追い込まれているんですね。そういう社会状況が推し進められている中で、30年前、山谷の棄民化された労働者たちの事象をドキュメンタリーとして問題提起したこの映画の上映活動は、今も十分意義があるとは思います。現場では、そういう討論をしています。
小見 ところで、千代次さんの主宰する「さすらい姉妹」も発足してすでに20年ですよね。
先ほど「山谷」の映画は誰に観せるの? という鋭い指摘を受けましたけれど、「さすらい姉妹」はどんなお客を対象にしているんですか。それと、芝居を続けてきたエネルギーってどういうものだったのか、お聞きしたいですね。

芝居の中にどんどん入ってくる
山谷のお客さんは上客なんです

千代次 発足した頃は、20年前ですからやっぱり闘いの実感みたいなものがあったかな。だから、寄せ場の人たちの闘いを支援したいという気持ちが強かった。でも、その後どんどん社会状況の変化があって、闘いのモチベーションがどんどん低下したことは否めません。釜ヶ崎に行ったとき、知り合ったおじさんから「生保を受けろよ、楽だぞ」と言われたりして、「えっ?!」と絶句したこともあった。闘いの場がどんどん少なくなってきたとき、では、どんな目標を持って「さすらい姉妹」を続けていけばいいのだろうか、とモチベーションが揺らいでいた危機の時代が何年かありました。ですけど、やっぱり芝居が好きで、見せたいというか、場に立ちたいという強い気持ちがどうしようもなくあったんですね。だから続けてこられたのだと思います。それと山谷のお客さんは、わたしにとって上客だったということです。「大根」とヤジられることもありますけれど。
劇作家・三好十郎の本を読んでいたら、「三階席の客」という文章に目がとまりました。三階席というのは劇場の最上階の料金の一番安い客席なのですけれど、三好十郎は「その三階席のお客がどういう反応するかというのが一番興味がある」と言っているのです。わたしが山谷のお客さんを上客と言うのは、三好十郎が一番興味があると述べている「三階席の客」と通じるところがあるからです。帰るときにも、まだ芝居を心に残していて、あの男はほんとうに悪い奴だったなあとか、あの女はほんとうに可哀想だったな、といった感情をそのまま残して帰ってくれるからなんです。芝居とそれを観ているお客の関係というより、もっと芝居の中に入りこんでくれていて、舞台と観客の結界など簡単に乗り越えてくれる、そういうところがわたしが山谷のお客さんを上客と思い、好きなんです。
小見 山谷の客は上客だというのは、実に良い話ですね。
千代次 また「山谷」の映画の話になっちゃうんですが、わたしがこんなことを言っちゃうのはいけないと思うんですけど、でも言おうと思います。さっき映画の最初の暴動シーンに胸がドキドキしたという感想を述べましたけれど、その後の闘争に立ち上がった労働者や活動家たちが手配師や飯場の経営者たちを糾弾するシーンにはちょっと興醒めしました。その現場にいた三ちゃん(三枝)たちが来ている前でこんなことを言うのは申し訳ないんですけど、活動家の人たちの言葉や口調や表情がみんな同じで、つまんないなあ、という感じに見えてしまったからです。手配師や飯場の経営者たちのほうが、わたしは彼らを支持しているわけではありませんけれど、何か人間臭い感じで面白いなと思っちゃったのです。これはわたしの感覚的な印象であって、政治的な文脈で言っているわけではないのですが、こういうことだから闘争は続かなかったのではないか、という感覚を持ってしまったのですが……。
三枝 今、千代次さんが話した糾弾されている手配師や飯場の経営者のほうがなんか人間的な感じがして面白いという感覚は、ぼくもこの映画を観ていて感じました。そしてビビっと頭に浮かんだのは、フォーク歌手・友川カズキの「生きてるって言ってみろ」という激しい歌でした。労働者は手配師たちを激しく糾弾しているんだけれど、千代次さんが感じたように、言葉や口調が左翼の活動家たちのコピーというか、何か教条的でパターン化した感じて、生きている感じじゃないという印象なんですよね。そういうところが運動を行き詰まらせた要因だったんじゃないかな、と思いますけれど、では、どうしたらいいのかってことは、今浮かびません。
荒木 争議団の一員として、この映画を観て一番嫌だったのは、自分たちの運動の未熟さがもろに映し出されてしまっていた点だった。わしらは、後ろの仲間たちの気持ちを単に代弁するんじゃなくて、もっと労働者の気持ちを思いっきり引き出すために、前で演じなければならなかったのだと思う。
風間 さきほど千代次さんが、政治の狭さみたいなことを言ってましたが、芸能に比べると、確かに政治は狭い。政治の世界というのは、非常に狭い枠内で対立、分裂してしまうということが現実としてあると思うんですね。それぞれが労働者のためと言いつつ、分裂し抗争している。やはり運動をつくっている側としては、自分たちは正しいのだということを労働者に訴えて、労働者がどう立ち上がるかということで物事を決めていく。ただ、たとえばセンター前で手配師を糾弾する労働者たちの表情や言動が教条的でつまらないという指摘には一考の余地があるのではないか。あのような運動の状況をつくる過程、つまり手配師や暴力団に対して争議団という組織や労働者が、彼らを糾弾していく状況をつくるまでにどれだけの人間が血を流し、あるいは逮捕されたのか。そういう流れのなかで支配関係を変えてきたという背景があるからです。確かに、みんながそろって相手方を糾弾する労働者たちの表情は面白くないかもしれないけど、その背景も見ておく必要があるのではないかと思う。
もう一つ、この映画は山谷の事象を映しているけれど、単に山谷のことを、監督の山岡さんは映そうとしていたわけではなくて、山谷や、山谷の労働者はどうしてつくられてきたのか、その歴史と構造を映し出そうとしていたのだと思うからです。その問題意識は、現在においても、たとえば寄せ場の全国化とか釜ヶ崎の全国化ということが言われ、非正規労働者、使い捨ての労働者がものすごく増えているという事象にもみてとれると思います。かつて炭鉱労働者が使い捨て労働者として動員され、石炭の時代が終わるや棄民化されたように、現在も形態こそ違うけれど、非常に劣悪な労働条件で働く使い捨て労働や棄民化は続いていますし、外国からは研修生という形で動員されている。こうした構造的な問題を先行的に問題提起しているこの映画が今も上映活動を続けていることには大きな意義があると思います。ですから、政治の狭さという批判は、その通りだと思うのですが、構造的な諸問題をどのように変えていくかという課題はずっと残っていると思いますので、そういう観点で考えることも重要ではないかと思います。
千代次 この映画を観て、政治的じゃない方は、どう思われたのでしょうか? それが、わたしにはとても興味があるのですが……。
小見 そうですね。非常に興味深いんですけど、そろそろ時間です。千代次さんに一言、しめてもらって終わりにしましょう。
千代次 玉三郎への思いは強いのですけれど、思い出話をしている暇はないです。
小見 決意表明のような力強いしめでした。本日はどうもありがとうございました。

(2017年1月14日中野富士見町plan-B)

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