J・コルトレーンの「グリーンスリーヴズ」から始めようとしたが失敗した。大雨でテント設営作業が寸断され、準備が玉突き的に遅れたためだ。客入れ用に用意したコルトレーンは鳴らず、無音のテントにざわざわと参加者が入ってくる。こうして「山岡強一虐殺30年 山さん、プレセンテ!」集会の2日目(10月9日)は始まってしまった。
もともとこの集会は、昨年広島で開かれた「船本洲治決起40年・生誕70年祭」の後を受けたものだ。「来年は山さんの30年ぞ。東京でやりんしゃい」というわけだ。船本や山さんのことはこの「支援連ニュース」の読者にはあらためて紹介するまでもないだろう。船本さんは東アジア反日武装戦線の一斉逮捕直後の一九七五年6月25日に沖縄・嘉手納基地前で焼身自殺を遂げ、山さんは一九八六年1月13日に右翼ヤクザによって新宿区の路上で射殺された。その山さんの、30年。
■……1日目/三河島・百舌……■
2日目は雨の中での準備だったが、1日目は三河島のアート・カフェ百舌というフリースペースでの映画上映と「山さん年代記」。映画はいうまでもなく『山谷 やられたらやりかえせ』だ。このドキュメンタリー・フィルムは、一時期をのぞいて、とにかく30年間上映され続けてきた。フィルムに定着した画像や音は不変なはずなのに、そのときどきで、カラダに入ってくる映像や音の流れは変わってくる。一昨年暮れの佐藤満夫30年「なにが意気かよ!part2」では、やはり佐藤さんの息づかいが前面にセリ出してきた。いまでもプランBでの「定期上映」には、この映画が完成した頃にはまだ生まれてもいなかった若いモンがコンスタントにやってくる。百舌での上映でも約百人中3割くらいがそうした若者たちだった(気がする)。若者たちは何を目撃しているのか? おそらくは自分と地続きの問題をこの映像から引きずり出しているにちがいない。ドキュメンタリーは持ち帰るものなのだ。その場で映像をテキストとして小料理し味わったりするものではない。
と、さて「山さん年代記」。山さんの年譜(68年〜86年)に沿って、時代の雰囲気や闘いの実相、そのときどきの山さんのたたずまいなどを、当日参集したかつての友人たちを進行役(ぼく)が勝手に指名して語ってもらおうというものだ。なにせ短くても30年前、起点はそのまた18年前に遡るし、話す人もそれ相応に年齢を重ねているので、どうなるものやらと不安でいっぱいだったけど、青年期の記憶は立派なもので、わりとみんな鮮明に語ってくれた。山さんの残した文章を読んで抱く「ムズカシイこと言う山岡強一」像から一歩だけ距離をおいて、生身(なまみ)の山さんを立ち上がらせたかったんだけど、どうだったんだろう? ただ青年期の記憶にも取り違えはあるもので、その場で「40年前の記憶」が更新される場面もあって、却って生身をさらしたのはこちら側だったりした(というわけで、パンフレットの4ページ目、6・25船本洲治焼身決起→仕事先(飯場)のテレビで知る」は「→広島で知る」に訂正します)。
「言葉そのものを取り戻さなければならない」と、山さんは四十数年前に語っていたというが、その後、映画完成時に「この映画には機関銃のように言葉が必要だ」とも言っていた。この日の「年代記」はそうした「言葉」をつかみ取るという目論見はなく、「雲の合間」のような時間帯ではあったけれど、案外、そうした敷居の低いところに「ぼくたちの言葉」がうずくまっているのかも知れないな。
■……2日目/隅田公園山谷堀広場・テント……■
午前中に大雨の中で建て込んだテントは、そのつい1週間前まで野戦之月海筆子が芝居をやっていたものだ。その芝居ではかつての風の旅団が86年秋に公演した『火の鳥』のサブテーマ曲「野戦の月」が再び歌われた。「野戦の月」とは、山さんの北海道時代の友人・米山将司さんの山さん追悼詩のことだ。
実はこのテントは一昨年にこの同じ場所に建てようとしたが行政から拒否された。そして一年間の準備を経て昨年やっと1日だけ建てて芝居を実現させたものだ。野戦の人びとには悪かったが、今年はその経験を「山さん、プレセンテ!」で使わせてもらうことにした。ぼくが何より今回のことでこだわったのは「場」の成立のさせかただった。つねに排除される者たちが都市の隙間を衝いてぬけぬけと自分たちのやりたいことをやり抜いてしまうこと。もちろんこの地は山谷の会館活動委員会のメンバーたちが「共同炊事」をずっと続けてきた場所だ。その蓄積のうえに今回のテント、つまり「場」も成立し得た。その意味では、その「場」をほんとうに支えたのは共同炊事に集まってくる者たちであったといってもいいだろう。そしてそれは「言葉そのものを取り戻す」ことと同等の、ぼくらの「文化」の有り様を指し示しているのではないかと思う。
さて、そのテント。その中で何がどう語られたか? かつての山谷ー寄せ場の闘いの当事者たちの話の大筋はパンフレットに収められているのでぜひ一読願いたいが、発語としてはどれも、ためらいがちのようにぼくには聞こえた。それはそうだろう。西戸(皇誠会)→金町戦が「敗北」であったという共通の認識から出発したから、威勢のいいことはまずは言えない。けどドンマイ。どんな発言であろうと、それに虚飾がなければ、ぼくらはぼくらに必要なものを引き出せる。山谷ー寄せ場の闘いは、それがどんなものであろうと、それだけの内実を伴わざるを得ないものだ、とぼくは思っている。
安田弁護士の、山さんの勾留執行停止の話。着ている服を交換したことなど、前日の「年代記」に入れたかったなあ(安田さんの『「生きる」という権利』という本の中でも語られています)。内海愛子さんの凄み。「アジア人ロームシャのことは補償はおろか調査さえされていない」という指摘は、映画『山谷 やられたらやりかえせ』の末尾に映し出される「ロームシャ」という文字の背景を、そしてそれを入れ込んだ山さんの眼差しの先をきっぱりと明示した。
そこでメシ。共同炊事に横合いから割り込んだかたちだが、今回はご勘弁を。共同炊事についてはいま出ている寄せ場学会の年報(28号)で特集を組んでいるのでぜひ読んでください。それにしても、眼前のメシは映画に劣らぬドキュメンタリーだろう。メシ、ではなく、そのイミをみんな持ち帰ったにちがいない(はずだ)。
そして切迫する事態が続く沖縄からのアピールに続いて、「討議」の3人(山谷労働者福祉会館活動委員会、フリーター全般労働組合、茨城不安定労働組合、の3人)。もう話の内容を紹介してる字数もないけど、3人ともやわらかい(?)口調ながら、自分たちの運動に自信ありげな感じだったなあ。根拠は何だろう? みんな組織性の困難さを抱えながらも、組織のほうではなく、個人個人に信を置いてるからかな、と思った
……リュウセイオー龍、パギやん(趙博)、コテキタイ2016による「文化祭」は、うん、まあこんな感じ(写真)。
山さんは今年(数えで)喜寿を迎えた。
池内文平 (「支援連ニュース395号」より転載)