浜邦彦(早稲田大学教員・ストリート研究会)
こんにちは。早稲田大学で教えてます、浜と言います。もう一つの肩書きは「ストリート研究会」となってます。これは大学教員なんかが科学研究費を貰って3年間の期間限定のプロジェクトでやっている研究会です。私が代表になっていて、これは、渋谷のアートアクティヴィズムというか、アートを使って野宿者排除と闘うというか、これからお話する「表現」──公共的な表現とそれから公共性という名の下に排除が進んでいく、その間のせめぎあいみたいなことをテーマにして研究会を少しやってきました。そうした話を映像もお見せしながら話したいと思っています。
非常にインパクトの強い映画『山谷』を観たばかりですが──実はこれまで何度もこの映画を観る機会があったにもかかわらず、その機会を逃し続けてきて、今回上映委から話してくれって呼ばれて、ようやくそのDVDお借りして観たのが2ヵ月くらい前なんですけれども──今日改めて観て、例えば最後の方に出てくる筑豊の山の中にいきなりドカンとコンクリートの建造物が廃墟のように出てきたりとかですね、ちょっとびっくりするんですよね。
それは2011年の3月11日以降のあの風景。もちろんこの『山谷─やられたらやりかえせ』という映画は、日雇い労働者を中心に撮っているわけですが、最後に「Romusha」って言葉が出てきましたね。なかば棄民の様にしてどんどん移動していく人達。そしてそれは80年代だとやっぱり建設労働が多いと思うんですけれども──寿(横浜)の場合だと港湾労働なんかもありますが──しかしその建設労働だけでなくて、実はその原型はどうやらエネルギー産業にあったらしいと。筑豊にロケをして、そこに今はもう半分廃墟みたいになっている炭鉱の町ですね、そここそが飯場の原型だったのだというようなことが指摘されています。今日、びっくりしたというのは、この映画だと思ってなかったんですよ、あの映像を。もちろん観た記憶はあるし、2ヵ月くらい前に観た映画の内容を、もうすでに忘れているんじゃなくて、もうこの映画だと思わないくらいに自分の中に染み付いていた風景なんですね。それは最後の方の、石がただ置いてあるだけの朝鮮人のお墓ですね、その近くに日本人の立派なお墓かと思いきや、実はペットのお墓だったなんていう、あのシーンにしてもそうです。ぼくは、今日改めてそういうことがよみがえってきたような印象を受けています。
そこからどうやって今日の私のテーマである「みんなの公園」というところにつなげていくかっていうのは、話ながら皆さんと考えてみたいというか、皆さんからもいろいろ意見を聞きたいと思っています。時間も限られていますので話に入っていきたいと思います。
はじめに「246表現者会議」、2番目に宮下公園の「ナイキ公園」化、3番目が「公共性」っていう順にハンドアウトを作ってみました。まず宮下公園の映像──1分くらいの短い部分ですけれど『ゴーストトラヴェリング』という映像を観てみましょう。ちょっとしたミニミニショートフィルムです。
渋谷・宮下公園――
*『ゴーストトラヴェリング』上映
お分かりになったでしょうか。これが2010年の3月くらいですか。原宿駅を出て山手線でずっと渋谷まで行く間に一瞬ですけれども宮下公園の前を通った所に大きなバナーがあって、「ナイキ悪い」とか書いてあったりするんですね。ご覧になって気が付いた人、あるいはリアルタイムで見たことある人はいらっしゃいますか?(数名が手を上げる)。ああそうですか。その「移動」っていうことで言うならば、おそらくこの1分ちょっとですかねえ、原宿駅を出てから渋谷駅まで。これが2010年の私達──例えば僕のような電車で通勤してるような人間にとっては、かなり日常的な移動の風景だったりするわけですね。何気なく毎朝見ている。その中にこう一瞬だけなんか書き込まれてるというか、むしろ切り取られてるようなそういう場所があって、それがこれからお話する宮下公園の、ナイキ公園にされてしまうということに対する抗議のバナーだったんですね。
どれだけの人がこれに気が付いていたかわからないんですけども、でもこの活動は相当にユニークな表現をいろいろに使っていました。そして日雇い労働者というわけでは必ずしもないかもしれませんが、宮下公園には一時期は30人くらいの人がずっとそこに居住していました。そういう空間である宮下公園が今ひらがなで「みやしたこうえん」っていうふうになっていて、実質ナイキジャパンが管理するような、そういう空間になってしまった。その過程でそこに住んでいた人達も排除されていく、そうしたことが起こっていた場所なんですね。と同時にそれに対する様々な抵抗の表現が、特に2010年くらいにワァッと集中して出現した。ある意味、あえてこんな言葉を使うとしたら「ホットスポット」のような、そういう場所であったんじゃないかという感覚を僕は持っています。
ホットスポットなんて言うとちょっとびっくりするかも知れません。最近では、放射能汚染のホットスポットっていうような使い方がもっぱらされているわけですけれど、例えば山口県の上関原発の建設予定地──あの田ノ浦ですね。向かいに祝島っていう島があって、そこの漁師さん達がもう30年くらいずっと建設に反対している、その田ノ浦の海が生物多様性のホットスポットと呼ばれていたりします。あるいは沖縄の普天間基地のいわゆる移設先とされている大浦湾、辺野古の海ですね。そこも絶滅危惧種であるジュゴンが住んでいるようなホットスポットであったりとか。そういうような意味で、もしかしたら私達のそうした、日常性の中にどんどん埋め込まれていってしまう──映画『山谷』がずっと山谷から寿、さらには筑豊までさかのぼって取り出してみせたような大きく言えば近代の日本、その脈々と受け継がれてきた「棄てられた者達の記憶」のようなものですね。そうしたものが立ち現われてくるような、そういう特異点というか、それを「ホットスポット」という比喩で言ってみようかというふうに思ったわけです。もしかしたらそういうものが一瞬あったかもしれない。それが、僕は2010年の渋谷・宮下公園だったんじゃないかと思うんですね。
まず、僕自身がどういうふうにそのことを知るようになったかということから順に話をしていきたいと思います。1番目の「246表現者会議」。
246表現者会議――
*「新宿区ダンボール絵画研究会」のサイトから新宿西口の映像
http://kenkyukai.cardboard-house-painting.jp/
これは武盾一郎さんっていう、僕と同い年のストリートペインターというか、画家の絵です。
1995年から6年くらいにかけて、新宿の西口の地下にたくさんのダンボールハウスがワァッと密集していた時期があったんですね。野宿者の人達が新宿西口に集まって、かなり立派なダンボールハウスをどんどん建てていき、そこにダンボールハウス村ができるという、そういう時期がありました。さっき観た『山谷─やられたらやりかえせ』は80年代前半ですけれども、80年代の後半になると日本経済が、今日で言う「グローバル化」にシフトしていき、外国人労働者がものすごく増えてくるんですね。それが90年代に入ると、いわゆるバブルの崩壊の時期になる。80年代後半というのはもう建設ラッシュで、こういう(plan-Bのような)コンクリート打抜きみたいな建物があちこちにボンボンできたりした、そういう時期だったんですけど、それが90年代に入ると今度はどんどん不況になっていって、いわゆるホームレスが街中に目につく形で増えてきた。これが90年代の半ばから後半、そして2000年代にかけてではないかと思うんです。
その頃に、新宿西口の地下にあったダンボールハウス=ダンボール村に、こういう絵を描いて活動をしていたのが武盾一郎さんや、山根康弘さんとかですね。これはダンボールの持ち主、まあ家ですからね、その家主さんであるセンパイ達──「センパイ」っていうのはさっき『山谷』でも使っていましたけど、野宿者の仲間のことをセンパイと呼ぶんです。センパイ達に1軒1軒「ここに描いてもいいですか」と聞いて、そしてその場で感じたインスピレーションを、ペンキで作品にしていくというものです。それが僕には非常に面白かったんですね。その頃僕は大学院生でしたけれども、そこを通るたびに何ていうかなあ、気持ちが高揚するというか、なんか癒されるような、そういう感じがありました。しかし、この西口地下っていうのは1日何十万人か、そのくらいの人が往来する場所です。しかも新しい都庁が新宿にできました。そしてそこへ向かう人達が一度はここを通って行くわけですね。で、目障りだと、通行の邪魔だと。ここはみんなの場所であると、公共の場所であると。そんな所を勝手に占拠して住んでいる汚らしい人達は迷惑だと。まあこんなふうな言い方をされて、そして当時の都知事だった青島幸男をはじめとする東京都が、とにかくダンボールの家を撤去するということが1996年に起こるわけです。──その話を詳しくするとそれだけで終わっちゃうんで、今はこういう表現があったってことをぜひ皆さんに知っておいて欲しいと思います。今日のハンドアウトの後の方に参考としていくつかURLを書いてありますが、その中のこれは「新宿区ダンボール絵画研究会」のサイトからリンクしている武盾一郎さんのサイトです。ここでこうした写真を色々見ることができますので、ぜひご覧になってください。
その武さんに、僕は2008年になって再会したんです。それは確か「フリーターメーデー」かなんかだったと思うんですけど。彼は95年、96年にこういう活動をしていて、96年の1月にダンボール村が撤去されると、今度は神戸に行くんです。つまり95年の阪神淡路大震災の後、仮設住宅にたくさんの人が住んでいると。まだ街は更地がいっぱい残っているような、そういう状態ですね。そこに行って活動していたようです。で、2008年に僕が彼に再会した時には、「246表現者会議」っていうのがちょうど立ち上がってくる頃でした。これは何かって言うと、渋谷駅の恵比寿側に、246玉川通りと直角に交わっていて、そこがガードになっています。そのガード下を246通りが通ってるんですけど、そこにたくさんのダンボール──人が一人横になれるくらいの大きさのダンボールの、まあ「ロケット」っていうんですけども、その仮の宿が並んでいたんです。ところがそこに、2007年の10月かな、「移動のお願い」っていう貼紙がいきなり貼り出されたんですね。この貼紙の主は「アートギャラリー246」とか渋谷区の「渋谷桜が丘まちづくり協議会」。たぶん近くにある日本デザイナー学院の学生さん達を使って描かれただろう、何か奇妙な壁画が、のっぺりとした壁画が描かれて、そしてそこに「移動のお願い」っていう貼紙が出されたんです。何の「移動」かっていうと、つまり野宿者の人達が住んでいるその「ロケット」を片付けなさい、撤去しなさい、ここにいてはいけませんということなんです。なぜならここは「アートギャラリー」だからですと。その「アート」っていうのがつまり「ペンキ絵」ですね。ペンキで日本デザイナー学院の学生さん達が描いたとおぼしきペンキ絵が、確かに言われてみれば「あ、そうかな」という形で描かれているんですね。確かに武さんも新宿西口地下で、行政には無許可でペンキで絵を描いていました。しかしこの二つは全く違う性質のものだと思います。
それに一番最初に反応したのは、代々木公園のテント村に「エノアールカフェ」っていう、ルノアールならぬエノアール──絵のあるカフェっていう物々交換で開いてる喫茶店というか、そういうスペースがあるんですけども、そこに暮らしているいちむらみさこさんと小川てつオさんたちです。自ら野宿生活をしているアーチストですね。特にこのいちむらさんは、246のガード下の排除──それも「アートギャラリー」という名で、アートの名を借りて野宿者を排除するっていう、そのことに鋭く反応をして、自らそこに「ロケット」を作って住むという形で活動を始めたわけです。いわばパフォーマンスですね、アートパフォーマンス。それ自体がアートであるというような形での活動です。それにショックを受けて、あるいはインスピレーションを受けて集まった人達が、渋谷の駅のまわりでこうダンボールを敷いて、「表現者会議」っていうことを始めたんです。
表現と差別――
*映像
http://minnanokouenn.blogspot.com/
まあこんな感じでです。よく見ると壁の所になんか模様があると思いますけど、あれがたぶん「アートギャラリー」の部分です。いろんな人が入れ替り立ち替り参加していて。路上にダンボールやブルーシートを敷いて、そこで表現と排除に関わることの会議をやるという、そういう活動をもう既に30回くらい重ねてきています。本当にいろんな人が来ていて、最近話題になったChim↑Pomの卯城竜太さんも参加していたりとか。まあ非常に面白い活動だなあと思って、僕も何度かそれに参加させてもらうようになったんですね。
この「246表現者会議」が、表現の問題ということで、例えば上野公園──上野公園にもブルーシートの小屋がたくさんあったんですけど、それが撤去された。そのことを巡って、台東区がやったコンペティションに応募する作戦を立てたりとかしました。あるいは新宿駅の東口の地下に「BERG」というお店があります。この「BERG」で「246表現者会議展」をやったりとか。「BERG」は、武盾一郎さんの新宿西口の作品を──あれは全部撤去されちゃったんで現物が残ってないんですよね。写真としてしか残っていない。でもその写真をずっと撮ってきた方がいて、それを展示したりとか。まあそういう小さなスペースです。さっきの言い方で言うならば、それも「ホットスポット」かなと思うんですけども。そういったことに関心を持った人達が集まる場所になっていったんですね。2008年には、北海道の洞爺湖でG8サミットがありましたが、それに対抗して「渋谷G‐サミット」なんてのをやったりとか。あるいは、「BERG」は、新宿の駅ビルのルミネがそういう小さい飲食店をなくしたいということで、追い出しにかかったんですけど、それに対抗してルミネの中で仮装して歩き回ったりとかしました。それもある種のパフォーマンスアートで、様々な形で都市空間、あるいは公共空間と排除の問題を訴えるような活動を続けてきたんです。
「アーチスト・イン・レジデンス」
最初は、ナイキジャパンとの命名権、ネーミングライツの契約ということで渋谷区立宮下公園を「ナイキ公園」に変えるというような、そういう話だったんです。でも、実はその命名権契約というのが大変問題がある内容でした。渋谷区にしてみれば、宮下公園にホームレスの人達が住んでいて、夜になると危ないとか、そんなふうな声があるということで、そういったものを一掃して、新しくスポーツ公園に作り替えるんだということでした。よく調べてみると、渋谷区にとっては、これは「整備計画」という言葉が使われていたり、それをどうやらナイキジャパンに肩代わりさせる、そういう計画だったらしい。実際ネーミングライツ──本来はネーミングライツの契約ですから、渋谷公会堂が「C.C.Lemonホール」っていうふうに名前を変えたように名前だけ使わせて、それで契約料を取るという約束のはずだったんです。まあ結果的に、ナイキジャパンは「公園の名前は変えません」と言って、今あの公園はひらがなの「みやしたこうえん」という名前になっちゃってるんですけども。その宮下公園をナイキジャパンっていう一私企業とはいえグローバルな企業ですね、この企業の力を借りてというか、ほとんどそれに任せて、区立公園にもかかわらず、有料のスポーツ公園に変えてしまうということになった。そのことに対して2008年くらいから「みんなの宮下公園をナイキ公園化計画から守る会」、通称を「MIKE」といいますけれど、その「MIKE」の活動が始まりました。そこに、ずっと渋谷で活動してきた「野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合」(通称「のじれん」)なんかも加わって、とにかくこの宮下公園からの野宿者排除をやめさせるという活動が2008年から9年、10年くらいにかけてどんどん高まってきたんですね。その中で先ほど言った「246表現者会議」のいちむらさんとか小川てつオさんとかが2010年くらいから、「アーチスト・イン・レジデンス」ということを始めます。アーチスト・イン・レジデンス──「滞在するアーチスト」ですけれども、この宮下公園に実際テントを張って、そこに文字通りレジデンス(居住)して、住みながら制作をするという活動です。普通はアーチスト・イン・レジデンスというと、実はあちこちでやってるのは、例えば廃校になった小学校とか、そういう所をアーチストに貸し出すような形。アーチストはそこに普通は通って制作をしていくという、そういう長期滞在型の制作用スペースのことをいいます。それを、いわばスクオッティングのような形でやるという。どうしてかといえば、この「整備計画」──公園の改修というふうに言っているんですけども──それを始める期限は本当は2009年の9月からだったんです。それで「MIKE」や「のじれん」が主催して、その前の2009年8月の30日、31日という宮下公園を公園として使える最後の2日間に、ここで「サマーフェスティバル」をやったんです。そこで、例えば「ストリート研究会」は「アートと公共性」という公開シンポジウムをやりました。その翌日からは工事が着工する予定になっていたと。でそうなると、もうこれを食い止めるある種の座込みのような、そういう形でとにかく食い止めるしかないっていう段階に入ってきます。実際この闘いは1年半にわたって、その工事の着工を阻止してきたんです。ただ2010年に入ると、いよいよその追い出しが厳しくなってきました。それに対抗して、アーチストたちがとにかく率先して、座込みですね、完全に──沖縄の辺野古の闘いでやっているような、常にそこに人がいて、阻止するんだと。ただこの活動のとにかくユニークなところは、それをあくまでもアートとして、あるいは表現としてやっていくっていうことでした。それがこの「アーチスト・イン・レジデンス」という形だったんです。
ユニークで豊かな表現による抵抗――
*映像
http://minnanokouenn.blogspot.com/
これは最近の、もう「みやしたこうえん」になっちゃった後です。たくさんの写真や、それから映像資料もふんだんにあるので、ぜひご覧になっていただきたいと思います。この「表彰状」ってあるのは「聞く耳持たないで賞」っていう、ナイキジャパンのCEOに宛てたものです。こんなことをやったり、いろんな看板とかを制作して出したり、とにかく、言葉で紹介してもとても伝えきれないくらい、非常にユニークで豊かな表現による抵抗をずっと試みてきました。その中には、「夏祭り」のような大きなお祭りもありますし、そうでなくても日常的な「炊き出し」だったり「フリマ」だったり。2010年に入ると、いよいよアーチスト達がその場所に常に誰かが住んで、そこにカフェを開いたりします。そして、例えば今日来ていらっしゃる山川さんの映画の上映をやったり、さらには「宮下公園大学」っていう──これは結局1回しかできませんでしたが──フランスを中心にした持たざる者の国際連帯「NO-VOX(ノーボックス)」という運動の支援をやってる稲葉奈々子さんを呼んで、そうした「宮下公園大学」をやったりしました。
それに、しょっちゅうデモをやっていました。その中でも特にユニークなのは「手作りサウンドデモ」ですね。これは野宿の人達にとってすごく日常的というか、身近な素材として空缶があるわけですけれども、その空缶にどんぐりとか石とか入れる。そうするとマラカスができますよね。そういった、とにかく音の出る物を持ち寄ってするんです。サウンドデモっていうとなんかでっかいサウンドカー、サウンドシステムや巨大なスピーカー積んでというイメージがあるかもしれないけども、そうじゃなくて、自分達で持ち寄れる物、音が出せる物、それでもってやっていくというものです。その中で、サウンドカーに先導されたのとは違う、独特なリズムが自然発生的にできてくる。その面白さみたいなのがあって、僕なんかは非常に感銘を受けて、本当に行って良かったと思えるような、そういうデモができていたんですね。あるいは公園で「ドラムサークル」をやったり、様々なワークショップをやったり、とにかく東京の渋谷の街中にこんな空間があるのかというくらい創造的な、クリエイティブなスペースになってきていたんです。
今日の上映会でこの話をする時に、一つにはやっぱり映像と運動っていうことが頭にあったんです。特に1980年代と2000年代と何が一番違うかっていうと、今はもう誰でも映像を撮れるということです。例えばデモがあったらどこかで誰かがカメラで、それこそ携帯で撮れるわけですから、撮ってるわけですね。で、それがもう翌日くらいには「ユーチューブ」にあがっているというような形があるわけです。映像を介した形で広がっていく。そういう部分がとても大きかったと思うんです。その中で、例えば藤井光さんのような映像作家がいます。
──彼に関しては、参考の所に「NIKEPOLITICS」http://www.youtube.com/user/nikepolitics というのをあげておきました。
──ナイキとか、アディダスなんかもそうですけども、非常に洗練されたCMのフィルムを作りますよね。そういうのをちょっとパクッてというか、パロディにしたような非常にすぐれた映像作品をたくさん作っています。最初に観た『ゴーストトラヴェリング』は山川宗則さんという人の作品なんですけども、あれはクリップとしてただ電車の窓から撮ってるだけなんだけど、非常に完成度の高い、見ことのないクリップなんじゃないかと思います。そういうものを次々とネット上に出していく。アートとか作品っていうと、何か限定されたスペースの中での展示っていう固定概念があるかと思うんですけれども、まさに「246」や、それ以前の新宿西口のダンボール村の頃から、こうしたストリートのアートの一つの大きな特徴としては、それが限定された、密閉された空間の中とは限らない、むしろ表現自体が移動していくというか、広がっていったり、旅をしていくっていう、そういう性質を持っていることですね。
そうして移動し拡散していく中で、しかし時に、それがワッと集まる場所がその都度その都度できていくっていう。それを僕は「ホットスポット」という比喩で言ってみてもいいんじゃないかと思うんです。拡散するっていうことがまず前提にあります。拡散していったものがどこかに溜まるんですよ。凝集する、集まるんですね。で、そうすることによってできるのが、ホットスポット。もちろん放射性物質のホットスポットは10年や20年ではなくならないですけれども、生物多様性のホットスポットを考えると、これも100年とか1万年とか続くかもしれない。でも移動していく、変わっていく可能性もあるわけです。常に、いわば生成変化していく、そういう場所です。そうしたことが、僕が排除と、それからそれに抵抗する表現活動ということを考える時のイメージなんですね。
宮下公園の経緯としては、昨年の9月に強制的に封鎖されて、そしてその後「行政代執行」という形で、住んでいた人だけじゃなく、そこでアーチストが作っていたいろんな作品も全部撤去されてしまったわけですが、それから半年以上たった、今年の4月30日に、ひらがなの「みやしたこうえん」がリニューアルされてオープンしました。たまたまその日は渋谷でちょっと大きめのデモがあったんです。それは「脱原発」デモです。ツイッターで呼び掛けて、ツイッターだけを媒介にして集まった1000人くらいがこの日デモをして、その後、参加者の何人かが「みやしたこうえん」に行って、そこで「NONUKES」っていう原子力にも核にも反対の小さいステッカーを張ったんです。ところが、「お前、今、NONIKEって張っただろ」、「ノーナイキってステッカー張っただろ」って公安警察がやってきて、逮捕しました。それに抗議していた支援者もまた捕まってしまった。なんと「みやしたこうえん」オープン初日にして2名の逮捕者を出すっていう、実にみっともないっていうか、浅ましいようなことが起こったわけです。
「公共性」とは
最後に「公共性」っていうことです。はじめに触れた、新宿西口の地下に、色とりどりのダンボールの家を作って住んでいる人達に対して、「ここは公共の場所である」「みんなが利用する場所である」と、だから勝手に汚い家を置いて住んではいけない。そんな「公共の場」という言い方、公共にふさわしくない人達を排除するというような言い方になってしまう。これが日本の社会を考える時の一つの重要なポイントではないかと思っているわけです。では、日本社会における「公」というのは何のことだろう。二通りの意味があるはずなんですね。一つは「公(おおやけ)」。それはパブリックということのはずなんだけれども、どちらかというと日本では「おおやけ」っていうのはお上のもの、権力、公権力が管理しているオフィシャルなものであるというような意味の方が強いんじゃないかと思います。誰もが、民主的に利用できるという開かれた、パブリックなものというよりは、何かこうお上が管理しているもの。だから下々が勝手に使ってはいけないというような、そういう理屈にすり替えられる。「公」がもしそんなものだとしたら、私達が本当に取り返したいのはむしろ「共」の方ですね。コモンの方です。それをコモンと言ってみたい。「公共性」を巡る議論は、最近いろんな形で議論されるようになってきてるんですけど、その古典の一つであるユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』という本があって、そこで使われている「公共性」という言葉は「Öffentlichkeit」っていう言葉です。「オッフェン」っていうのは英語で言うと「Open」ですね。ですから、「開かれてあること」っていうのが元々の意味であるはずです。それがどういうふうに変容してきたか、それぞれの社会の系譜学的な調査をする必要があるとは思いますけど。その「開かれている」っていうことの意味がどんどんすり変わって、日本ではそれが「お上のもの」であり、さらに宮下公園の例でも明らかなように、「プライバタイゼーション」──私企業によってプライバタイズ(民営化)されていく。そういう形で公共の空間というのが、全く閉じられた利害の為にのみあるかのように、しかもそれを誰もが当然だと思っていて、それに反対するような活動を迷惑だとか、邪魔だとか、あるいは危険だとかするんですね。そういう感受性が私達の社会の中にはびこっちゃってるんじゃないか。そのことを強く思うわけです。
最後に一つ、5分くらいの映像を観せたいと思います。これは、まだ宮下公園が封鎖される前の、少人数のデモの映像です。何のデモかというと、「自殺者3万人連続12年」の追悼デモです。
*「自殺者追悼デモ」上映
『山谷─やられたらやりかえせ』と比べて観ると、この20年以上の断絶という、それは大きいような気がします。何よりも、僕が今『山谷』という映画を観てつくづく思うのは、言葉がぶつかり合っていた時代だったということですね。みんなが言葉によって闘って、そして確実に勝ち取っていけるものがあった、そういう感じがするんです。それに比べると、ごく少人数の、しかも極めてマイナーな闘いです。それは言葉よりも、むしろ音楽だったり、アートだったり、踊る身体だったりするんですね。そういうようなものを通して抵抗していく。ある意味では、そういう形でしか、もう抵抗が成り立たなくなっているのか。どうなんでしょうか。そういうことを問題提起させていただき、終わりにしたいと思います。
(「山谷」制作上映委員会責任編集 2011・9・3/Plan-B)