対談「ライブスペースplan-Bを語る」

plan-B定期上映100回記念
木幡和枝
(芸術・美術評論家、アートプロデューサー、翻訳家)平井玄(思想・音楽批評)

司会 この「山谷」という映画、上映自体は数百回やってますけれども、ここplan-Bでは100回目です。それで特別企画としていろいろ 用意しました。これから平井玄さんと、木幡和枝さんの対談ということで。テーマはここに書いてあるんですけども、まあご自由に30分から40分話していた だきます。Plan-Bでは映画上映が終わってから、講演だったり、あるいはミュージシャンだったら音楽、そして今日も踊るといいますか、黒田さんだった らパフォーマンス、まあいろんな形でplan-Bという空間を使ってコラボレーションをしてきました。今日は、まあ、ある一里塚みたいなところでちょっと 時間を長くとって、話とパフォーマンスというかたちにしてあります。そのあとは、ここと隣を使って無礼講というかパーティをやりますので、それまでがん ばって堪え忍んでください。

[対談 木幡和枝×平井玄]

もう死者の数をかぞえない

木幡 木幡和枝です。
平井 平井といいます。木幡さんとはもうずいぶんいろんなことでお世話になってきまして、長い付き合いなんですけども。3回か4回くらいはお話していますよね、こういう形で。ではスターターみたいなことやりましょうか。
木幡 よろしく。
平井 何を話そうかなあと思ったんだけど、やっぱりこの映画を観て思いましたね。この映画は百科全書だなってことを考えてたんですよ。ディ ドロとダランベールというフランス革命を用意したおっさん達が……といってもほんのちょっとしか読んでないんですけど、僕も。つまりどういうことかという と、この映画が出来て30年くらい経ちますが、その間、とんでもないことが起きてしまうと、必ずこの映画のどっかの場面を思い出して、映画じゃこうだった じゃないかと。で、俺は何を観てたんだろうみたいなことを考えて、どうするかを決めると。あるいは動きだしてしまう、走りだしてしまう。最近、この映画の ことを昔の仲間たちと語ると、その死者の数を数えちゃうわけですよ。あいつも死んだ、こいつも死んだと。でも、それをやめようと。今日観てて思った。これ はもう、ある種のギリシャ神話みたいになってる。顔の映画ですよね。顔がいっぱい出てくる。意図的に撮る人は撮ってますよね。つまり山さんと佐藤さんとカ メラマンやスタッフは。でも、あいつは死んだとか、もう言ってもしょうがないと。この映画は30年経ってもいろんなものを語りかけてくるんだというふうに 思いました。というのは、三日前かな、山岡さんが殺された通りをデモしてたんです。その前の日には「在特会」という右翼のガキ集団がそこにいる在日の人達 に対してひどい罵言を吐いて嫌がらせをするという行動を行なってたところなんだけど。そこがまさに山岡さんが殺された、ローソンっていうコンビニのある通 りなんですね。この映画は、そういうことがあって、上映運動はそこから始まっていくわけですけども。それが、僕にとってはどうしても忘れることの出来ない 光景です。その30年の間に何百人か何千人かわからない、僕よりずっと若い人達に会うと、彼らはこの映画を観たらどう思うのかなということがあって。 「plan-Bでやってるよ」と。「観に行ったらどうですか」っていうことを結構言ってきたんですよ。で、それは、この映画とこの場所が切っても切り離せ ないところがあってね。いろんな偶然があって、木幡さんは僕よりはるか前に山さんや山谷の人達とつきあってたとか、そういうことがあって、ここで100回 も上映されたんだなあということを思いました。で、もう死者の数を数えるのはやめようというふうに非常に強く思いました。そんなところを切り口にして、こ の映画とplan-Bということですが、木幡さんどうですか。

集合的な音感から出てきた言葉

木幡 今日何回目かわからないけど、また全編観ることが出来て、まさしく今おっしゃられたように顔っていうか肖像というか、個人の肖像以上 の肖像というか。具体的にもう名前も覚えてないけど、あのおっちゃん、もうその瞬間がよみがえってくるじゃない。あの人、あのアル中の人とかっていう、す ぐ思い出しちゃうようなリアリティ。それから最初の時から本当にドキドキした場面があって。毎回そこの場面を確かめるように私は観てて、今日もそうだった んですけど。それは、音楽をやったグループがとってもいいんですよ。あの彼らの「ワルシャワ労働歌」、玉姫公園の越冬闘争が始まりますみたいな。「ワル シャワ労働歌」が編曲されて。その直後に人パトっていって人民パトロール。ドヤにももう年末で入れなくて雨の中、みぞれの中を野宿してるっていうか、路端 で寝てる人を、そのままだったら死んじゃうのでパトロールして。「ドヤはないのドヤは」って言うのがあって、その場面がありましたでしょ。あそこでなんと かさんが、こう跪いてね、みぞれの中。その寝てるおじさんを起こす。あの時、最初に観た時に、私はすごく教条主義的人民主義だったもんだから、ああいう大 学出た活動家みたいなのがね、そこで寝ているアル中のおじさんに「おじさん」と言うのかね、「あなた」って言うのか「ちょっと」って言うのか……ものすご いドキドキしてたわけ。何て呼び掛けんだろうって。この大学出た活動家は、この人に何て呼び掛けんだろうって。私は毛沢東を思い出しつつ呼び掛け方を、も うドキドキして観てたら、私は女だからかもしれないけど「先輩」って言葉が出てきた時はすごく嬉しかったわけです。そういう意味で、私にとって大事な場面 で。それで毎回その場面がくると思い出すんですが。その「先輩」ていうことのいろんな意味が、あなたがおっしゃるね、そこへ戻っていくっていうか。こと に、ああいった矛盾の固まりの中で……。今の安倍政権の言い方、頑張った人が報われる社会みたいな単純な論理でいかねえぜっていうことを思い出させてくれ るんですね。それを「先輩」と、彼も考えた末の言葉なんだと思うんですけど。
平井 あんまり考えてないと思います。(笑)みんな言ってたんで。
木幡 ああそうか。
平井 ただ、その言葉が出てきてみんなが使うようになるっていうのは、やっぱりある構えのやつらがあの場所で生きてきて、出てきたんだと思 うんですよ。僕なんかもよくわけもわからずね、何が「先輩」かよくわからず、使ってはいたんだけど。なかなか出てこないですよ。「おじさん」っていうのも あれだし。なんというかねえ。
木幡 私だったらきっと「おじさん」とか「おじさま」とかって言っちゃうと思うんですけど。まあそこはある種の集合的な一つの音感から出て きた言葉だと思うんですけど。あれは好きな場面です。それとあの音ね、音の人達。大熊ワタルさんなんかも若い時に、あそこで協力してたのかな。
平井 もちろん、はい。
木幡 なかなか。
平井 うん、そう。だから音の映画なんだよね。音楽の音ももちろんなんですけど、その「先輩」と声掛けたSちゃん。あの声がいいなとかね。 労働者の話し方、それからいかにも活動家、ついこの間まで学生だろうなとかさあ。わかっちゃうんだよね。ああ俺もそうだなと。三十いくつでそんなもんだろ うと。いい年してるのに。もう三十いくつなんだけど「学生」と呼ばれる存在なんですよね。そういうことを思い出したり、それからあの「哀愁列車」とかね。 出てくるわけですねえ。
木幡 あれ良かったね。「哀愁列車」はみなさんご存じないでしょうが、三橋美智也という人の。
平井 あの筑豊の場面でね。
木幡 そうそう。
平井 風呂の場面から、「哀愁列車」がグワーっていくわけですよ。なんていうか、心にしみる場面もあれば、怒る場面もある。泣いちゃったり笑ったり、まあそういう映画だっていうことを改めて思ってね。
木幡 それから最初の監督、作ることを決めて開始した佐藤さんが亡くなったあとに、山谷の労働者であり活動家であった山岡強一さんが継い で、完成させたわけですね。直後に殺されちゃうわけですけど。で、山岡さんが筑豊にこだわったっていうのは、ご自身が北の方の炭鉱の出身だったと理解して ますが。と同時に、ずっとものすごくそういうことにある種倫理的にもこだわっていた。これが朝鮮から連行されてきた人達の墓、まあペットの墓にまで……。 筑豊が最後に突然グワっとあそこに行くっていうのはものすごい意味のあるような気がしました。まさしく「先輩」そのもののね、歴史がボンと最後にあらわれ て。
平井 僕が浅知恵で解説するのもなんですけど、山さんが炭鉱で育って、お父さんが現場監督のようなことをやってて。その時に戦中最後の時代 かな、在日朝鮮人鉱夫の暴動があって。そこでの体験があるからこそ、ああいう映画が出てくるだろうと思うんです。だから本当にこの映画にいろんなものが ギューっと詰まってて。いつ観ても、からだが震えます。ということで、その時のことを思い出すだけじゃなくて、次に今起きてることを……
木幡 懐古的な話はこのくらいまでで、そうだ、今からのことを話さなきゃいけないんだよね。まあ、あなたがおっしゃられたのは場所というかね。
平井 ええ。

美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、映像、音楽のための
オルタナティブスペースとして30年前につくられた

木幡 100回続けていく、映画のこともそうなんですけど、上映し続けるという。全国いろいろな所をまわりつつ、ここでは準定期的にずうっとやることが出来てたんですけど。
平井 最初、plan-Bが出来た時に思ったのは、何でこんな遠くて不便な所につくったんだと。で、このアングラから……
木幡 アングラは金が無いからです。
平井 そうだよねえ。
木幡 ここしかなかったんです。
平井 まあアングラには慣れてる世代なんだけど。新宿の蠍座をはじめ薄汚い所に入っていって何かやるのは慣れてるんだけど。今こういう場所 はあちこちにあるんですよ。日本中に。で、みんな不便な所で狭苦しくて古いビルみたいな所でやってるんですよね。plan-Bのことはみなさん知らないと 思います、そういうことをやってる人達は。でも、やり方は結局そういうふうになってて。ところで、バブル時代から今までにかけては、大学がお金を出してく れたり、自治体がお金を出してくれて、アートで街おこしみたいなことは相当行なわれました。でもみんなうまくいってません。うまくいってないっていうの は、営業的にうまくいこうがどうなろうがっていうよりも、何かを生み出しえたかっていうと、まあないだろうと。僕もいくつかの大学の人に誘われて、しゃ べったり、いろいろやりましたけど、どうもねえ。生まれない。生まれる所ではないなと思いましたよ。だからこのplan-Bのあり方みたいなもの……木幡 さんは外国の事情に詳しいでしょうが、ニューヨークとか、あちこちにそういう所があるんだろうし。キップ・ハンラハンっていうニューヨークのミュージシャ ンと話した時に、そういうことをちょっとしました。
木幡 ええ。
平井 あの人は非常に面白がってたけども。今そういうスペースが出来てて。それとここ数年、まあ特に日本中が揺すぶられた原発震災以降…… 炭鉱とか、炭鉱またよみがえってますよ、僕らの中で。福島、常磐炭鉱、原発……ある種、観光と化してる面もあるけれども、もっと生々しい形でよみがえって るんで。今日ここにいないけど、原発労働者のことをやってる連中は、今日の昼間、会議やってますから来られないんですよ。まあそういう形でこの映画とか、 この場所っていうのは、ただ100回やった、たくさんやりましたっていう話じゃない、もっと質的なものを持ってると。すごく思いましたね。
木幡 この場所をつくったきっかけはというと――これから踊られる田中泯さんをはじめ20人くらいの美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、 映像、音楽などのそういうことをやってる人達が、いちいち高い金を払って借りるのも大変だし、それに釘も打てない、水も使えない、火も使えない、何とかな らないかっていうんで。それで外国のもうちょっと自由にやってるオルタナティブスペースっていうのを見てきて、日本でもつくろうと。まあ欧米で見てきたも のとは規模で言うと、そうねえ、10分の1くらいの空間スペースですけど、なにしろ東京の新宿近くっていうと高いから。それでもまあともかく確保した。当 時でもね、1週間画廊を借りるので15万から20万かかった。だったら、自分達でやった方がいいだろうとそんなことで始めたんです。その時、中心的にやっ たグループはそういう表現関係なんですけど、その人達の中にはいろんな人がいました。表現をただやって、発表の場さえあればいいというような変に閉ざされ た意識じゃなくて。それぞれの関心事、重要なこと、私の場合はそれは山谷だったし、この映画だったし、山さんだったし。いろんなものを、これもぜひやって もらおうよっていうような、そういうのがまあきっかけで。決して表現活動とか、いわゆる「お芸術」に限られないんで。自然科学だったり、社会運動だったり が入り込んでいたのはそういうことなんです。ただ、時代とともに中身は変わってきましたよね。ずうっと凍結されなくって、それが良かったと思う。始めた時 は、30年くらい前ですけども、そのままで凍結してたらば困るわけですよ。だって、今、私66ですけれど、出入りして下さる客さんもずっと一緒に年をとっ て、みんな私と同い年ばっかりだったら、ちょっとさびしいじゃないの。碁会所みたいになっちゃうし。だから、つまり通り過ぎていくっていうと良くない言い 方だけど、変わってきてるってことは時代の中でまあ少しでも踵を接するっていうことになるんだと思うんだけど。中身は違ってきますよ。
平井 例えば、マルセ太郎さんもずっとやってきたわけですね。
木幡 そうです、ずうっとやってましたね。
平井 もう彼も亡くなったけども。まあそうやって、ここにもいろんな人の魂があると思うんです。すごく濃いスペースになったなと。受け皿と いうか器として。それは、自治体が金を出したり大学が金を出しても出来ることじゃないわけで。そういう意味では、映画も、まあさっきちょっと大げさなギリ シャ神話みたいなことを言ったけど、やっぱり時と共に磨きがかかるもんだと思いましたよ。一昨日かな、家で小津安二郎の映画を観てたんだけど、あれはあり えない日本の戦後市民社会なんだけど、架空の物語みたいなもんですよ。あれほどきれいな言葉を使い、あれほど抽象的な東京生活があるみたいなね。でも、そ の裏にこういう世界があるわけだけど。あれはあれで一つの方法なんでしょうけども。それで、別の意味での非常に抽象度を獲得したというふうに、今日この 「山谷」を観て思いました。とっくに佐藤さんや山さんの、山さんの年でさえもう僕は越えちゃったんだけども。そういうふうに観られるようになって、このス ペースも成熟したっていうかね。ある種成熟ってあるんだなと、しないのは自分だけだと。

高円寺の地下大学 ―― plan-Bを意識したわけではないけれど

木幡 plan-Bは1980年、81年くらいにスタートしたんですけど、その頃はまだいろんな意味で、ある一定のレベル以上の人じゃない といろんな場所を使えなかったわけですね。それは貸してもらえないとか、ある種の立場っていうの。だから若い、何ものかもわかんない人がやろうと思っても 画廊は貸してくれない。今はいろんな所が若手とかイマジングアーティストとかいって、そういうチャンスをつくると、行政が……。そういうのがないので、そ うするとどうしようかというと高い金を払って借りるか。でもそれってとてもバラバラだし、あの競争的だし。やっぱり空間があればいい。でも自分のペースで 借りられる空間がないのもさびしいけど、あればすむんじゃなくて。「場」という言葉をもし使うならば、それは単純な物理的空間だけの話ではないと思うんで すね。「山谷」の映画で「俺が帰ってくる街はここだけしかないんだ」って言ってたおじさんがいたけども。さっき、ここに来て下さる方っていうのは時代に よっていろんなものを持ち込むし、違う人が入って来るのは凍結された場として結晶化していくよりはずっと面白いと思うと言いました。同じようなことを、そ ういう有機的な要素が流れこんで来る場所を、行政や大学がちょっと若者の非行防止の為や、あるいは中高年にいろんな趣味を持たせる為に、何かをやったり発 表したりする場をつくってますよね。例えば、世田谷区立美術館とかがやってます。でも、そういう発表の場さえあればいいのか。そこに人が来て、「じゃあど うもご苦労様、来年もねー」って言って別れるだけでいいのか。その場所というものが、これはしがらみも含めて、望むと望まざるとに関わらず、ある有機的な 作用を引き起こしていく。それがまた外の政治状況や経済状況、社会状況を飲み込みながら動いていく。少なくとも60年代、70年代、80年代にかけて場所 を欲しいと思い続けてきた、それは芸術的表現だけじゃなくて、やりたいと思ってきた身からすると思うんですけど。今、そんなに若い人達は物理的な場所に 困ってないような気もするし、大学のような機関、あるいは行政が昔に比べたら信じられないくらい素晴らしいものをオファーしてくれるじゃない。いろいろ締 め付けはあるにせよ。何かどこも行き場がない、だからしょうがないから大学占拠してやるっきゃねえっていうふうに追い詰められてないことが問題なのかっ て。老婆心の繰り言みたいになっちゃいましたけど。その辺はどうなんだろう。あなたは若い方達と地下大学やってて、どうですか。
平井 あれは勝手にやってるというか。地下といいながら地上二階で、下は鍼、灸の店なんですよ。不動産屋さんの隣で変な薄汚いビルですよ。 よく地震の時にぶっ壊れなかったなって所なんですよ。いずれこの映画、「山谷」をあそこでやろうと思うんですけど。ここは寄せ場じゃないのって高円寺の人 達に言うんだけど、彼らはそうじゃなくて、どちらかというとフィリピンなどの、南方系のスラムのイメージを思っててね。それはそれである種の面白さがあっ て。つまりゆるい空間っていうかね。それで労働をしてるかしてないかわからないような連中がうろうろしてて。でも、執拗に高円寺がロックの街です、若者の 街ですよみたいなことで、ギザギザしたものを投げ込むようなことをやってると、まあいずれ何か反応を起こす、化学反応を起こすだろうと思ってはいるんだけ ど。あれを始めた時は、別にplan-Bのことを思ってたわけじゃないですけど、考えてみりゃよく似てるわというふうに思いますね。こうしようと思って仕 掛けたことはろくなものはないわけですが、いつのまにか染み込んだものが何かを生むんだろうというふうに思うんですよ。大学で、いろんな企画書を出してや ると予算が取れたりした時代もあったんだけど、最近はそんなことはないですけどね。
木幡 いやありますよ、今だに。
平井 ある?
木幡 取っちゃったけど、やる中身が実はなかったみたいになってる人が私のまわりの同僚にいますよ。課程費を取る時は一生懸命なんだけど、もらっちゃったあと一応ちゃんと使わないと今後に……ところが実は何にもないのにもらっちゃって。ぜいたくな悩みですけどねえ。
平井 ハハハハ。ちょうだいっていう人がいっぱいいるんじゃないですか。
木幡 言いたいですよねえ。
平井 そういう意味じゃあ豊かさと貧しさがものすごく偏在している。極端に偏在している時代になった。それで、日本中に変なスペースがいっぱい出来たと思うんですよね。で、たぶんplan-Bをそういったことの先駆的な例として取り上げる粋狂な研究者が出てきたりとか。
木幡 オルタナティブスペースの研究とかね。

いま、学生と下層の労働者が出会うことはなくなった?

平井 そうそう、そうです。まあそれは粋狂な人に任せとけばいいことなんであって。やればいいんです、こっちはね。この映画、今日はなぜか、たぶんフィルムが傷んだせいでしょうけれど、こう角が丸くなってましたよね。画面の角がね。
木幡 角が丸くなるって。(笑)
平井 何か、20年代のモノクロの映画を覗き観てるみたいな、そういう感じがしてね。そういう意味でもこの映画、時と共に変容しているんだ、成熟しているんだなあと思いましたよ、すごく。
木幡 それと観ながらちらっと考えたのは、圧倒的な違いというか、リアリティというか。例えば、おじいさんがいて中年の夫婦がいて、それか ら昨日今日、大学から、あるいは学生運動からちょっと移行してきたような活動家もいて。そういう意味で言うと、大きな時代的な違いがすごくありますよね。 ようするに、学生とそれから農村、漁村出身の、まあ下層労働者になっている人が出会うなんていう必然性、必然性というか構造的条件っていうのが、まあ別の 方法で、それこそ角が丸くなってるわけで。ところが今は、そういうことがないから、危険な連合体が出来るおそれがなくなってるわけじゃないですか。あるい は前衛芸術家と山谷の上映会をやる人が、何で同じ場所で一緒に100回続けたの、というようなこと、そういうのがあんまりない。こう何て言うの。細かく分 類化された使用目的に合ったと思われる施設を、まあこれが括弧付きの「文明社会」というのかもしれないけれど、そういうのを提供出来る市民社会になってき てるということの結果なのかなあと。
平井 それと、だんだんお金を出さなくなってるんじゃないですか。きつくなってきて。
木幡 そうだろうなあ、締め付けが。
平井 たぶんそうだと思います。あとその過激な学生さんと労働者達っていうのはもうありえない図式であって。
木幡 過激な学生達がいないと。
平井 いないです。原発震災以降、最も動かなかったのはたぶん学生層ですからね。
木幡 ほう。法政大学に行ってもいない?
平井 ちょっとはいますよ、それは。ちょっとは面白い人もあらわれてきてるんだけど。まあ、いきなり山谷に行っちゃうとかね。美大の学生 だったやつが山谷に行っちゃうとか。そういうことはあまりなくなってきてることは確かだね。でもまあ、学生が普通に暮らしてたらフリーターになってしまう んで。
木幡 ああ、なるほど。
平井 別段行く必要ないんですよ。
木幡 そこにいれば、もうなっちゃう。
平井 なっちゃう。なっちゃうけど、まあみんな従順だけどね。
木幡 うんうん。
平井 しかしそれで波を立てようとしてるやつはいるわけで。そちらの方が面白いというかね。そこから映画を撮ろうとするのが出てくるわけで。
木幡 で、どうなんでしょう。そういう中で場所を持つとか。昔アジトって言葉がありましたね。例えば、大学のクラブ活動の与えられた部屋。 それを自分達で好きに使う。アジトっていうのはヨーロッパの語源だっていうのがありますが、まあ自分達が自由に使える場所。もう寝泊りもしちゃうみたい な。そういうことでいうと、今はきれいなエアコン付きの部室みたいのがサークル活動の為に与えられていて。使える自由度は、それぞれの場所によって勝ち 取ったものが違うと思いますけれども。それと金を払ったりして。あとは行政や民間が提供するっていうかなあ。まあ私達の頃は西武とパルコくらいですよ、そ ういうのは。若いのを登場させて販売促進につなげたのはね。今はみんなそれをやってるから。そんなに困ってないのかなあ、発表の場みたいなものに。

山谷の群像をシネマヴェリテとして観た時、どう思うのか

平井 どうなんでしょうねえ。ただ本当にやりたいことをやろうと思えばかなり困りますよ。
木幡 そりゃそうですよ。だから、本当にやりたいことがないっていうのが問題なんだよ。
平井 ただ、その若い層がどうしたとかあまり興味がなくて。なかなか年を取れないのが僕らの世代の唯一の取り柄なんで。
木幡 なるほど。自分のことの方が興味がある。
平井 そうですねえ。自分が今、何を出来るんだということだけが重要であって。それで一緒にやれる連中をつくればいいと。出来ればいいとい うことであってね。この映画はそれを訴えてる気がするんだけどね。この映画を観るといつもどこか震えて、笑って、泣いてね。ええ、しんみりきますよ。同時 に「お前、何やってんだ」と。やっぱり言われますよ、この映画に。
木幡 いやあ何人かの群像がいてね。皆さんにぜひご紹介したいのは、もう亡くなっちゃったから言っていいと思うんですけど、あそこに出てく る中で何人か、私の記憶に強く残る大好きな人がいて。今日も「ああ、もういないんだ、この元気な人は」と思ったんだけど。何て言ったらいいんだろう。ほ ら、おじさんがこうあやまって、組のって言うか……
平井 ああ、手配師のおじさんがね。
木幡 その前でマイク持って。わりとこう滑舌のはっきりしたMさんっていう人がいて。あの警察官あがりだっけ、自衛隊だっけ。
平井 警察ですよ。
木幡 警察か。警察官あがりか。
平井 機動隊でしょう。
木幡 機動隊。(笑)亡くなってしまったそうで。本当にまあ細やかな心遣いで。ええと、一生懸命勉強をするんですけど、いわゆるインテリタ イプには絶対になれないタイプで。でもすごい人間的、何ていうんですか、豊かさっていうのがあって。元気いっぱいで。彼だけじゃなくて、もうちょっとこっ ちにいた今だに闘ってる人とか。本当に群像としても、今どきあれだけ複雑で強烈なものを……。それを培った時代っていうことなのかもしれませんけども。 で、そういうものを皆さんがシネマヴェリテとして観た時、真実映画として観た時、どうなんでしょう。いわゆるドキュメンタリーって、あるいはドキュドラマ とか今たくさんありますけど。この映画との違いというか、分析的な意味じゃなくて、若い方々とかはお感じになったのかなあ。そんなに古い感じはしなかった だろうと、まあ希望的に思ってんだけど。どうですか? 昔、1950年代、60年代くらいのネパールとかチベットとかにいろんな写真家が写真を撮りに行ったじゃないですか。そこで撮られた顔を観ると、懐かしい 顔、日本にもいたよね、こういう顔の人って。思いましたよね。発見しちゃったり。隣の家の人だったり。でも今は、だんだんこう顔っていうものがツルツルに なってくるじゃない。で、今日の話も顔から始まったんだけど、どうですか、そういうリアリティっていう感じでは。まだまだ今も通じる、今こそ通じるリアリ ティをこの映画は持ってるような気がするんですけど、いかがでしょうか。場所から話がずれちゃいましたけど。それと、そろそろ我々よりも、音楽とパフォー マンスに行った方が、映画と身体的には連動してていいと思うんですが、どうです?
平井 じゃあ、ちょっと言いますが、顔って、情報量というか伝えるものはすごく多いでしょう。何で、今でも彫刻とか絵とかを観るのか。やっ ぱりそれは何かを伝えちゃうからですよね。それを思うと、僕が実は一番興味があるのは飯場に争議に行くじゃないですか。それで、おじさんが出てくるじゃな いですか。あれは在日の人なんです、親父は。娘さんが出てきて、それこそMさんが途中から漫才の掛け合いみたいにして「社長、社長」とか言って出てくるで しょう。そして協定書というか、誓約書みたいのを書かせるわけだ。あの時、「この人、日本語書けないから」みたいなことを娘さんが言うんだよね。あのおや じの顔なんですよ、僕が興味あるのは。あのおやじが刻んでるこの顔は何だと。つまり働いてなんとか店を持った。あのちっちゃい手配師の事務所。まあ飯場を 経営してると。で、たぶん本人にそれほどの意識があってじゃなくて、業界はこういうもんだというふうにしていろいろなことをやっちゃってる人だと思うんだ よね。あの人の顔と家族と、それと労働者、飯場にいる労働者。それから争議団の連中、Mさんやその他いろんな人いますけど。あのやりとりなんですよねえ。 あれが非常に興味があって。それと、もう一つ言っておきたいのはたぶんフリーター世代にはフリーター世代の顔の成熟があると思うんだよ。

成熟しない意志、あるいは古典として……

木幡 成熟?
平井 うん、すでにフリーター10年以上、10数年とか20年とかやってる人が出てきているわけなんで。そうすると肉体労働者ではない、も ちろん別の病を、いろんなものを抱え込んでる人達が多いけれど。それだけじゃなくて、やっぱり生きる為にいろんなことがあるわけで。それとは別の成熟と別 の闘いのありかたがたぶんあるだろうと。それを編みだすのが問題なんであって、というふうに思いますけどね。
田中泯(客席から) 成熟ってどういう?
平井 やってると、なんとなく時間が顔やいろんなものにたまるんですよ。たぶんその出方みたいなものが、あるパターンとか何かを作り出してくると思うんだよね。
田中 農業用語で成熟とか爛熟とかって。
平井 ああそうか。
木幡 爛熟。
田中 さっきのこの映画に関して成熟って言葉を盛んに使ってたんだけど、俺はこの映画は成熟をしない意志を持ってる映画だと思う。
木幡 映画としての成熟?
田中 一番はそうだよ。
木幡 映画としての成熟はしない。
田中 しないという意志を持ってるからやっぱり観続けるんでしょう。観る人達も成熟なんかしてないって。
平井 うーん。
田中 時期を待ってるわけじゃないでしょう。あの果物の成熟というのは本当に待ってる。待ってるんだ。そして、しっかりと支えられて成熟す るわけだよ。それがもっと進むと完熟、そして実を結ぶことが結果なんですよ。これ全部百姓の言葉です。いやねえ、あいまいになっちゃうんだよ、成熟なんて 言うと。
平井 じゃあ言い換えよう。山岡さんは、あの人は文学好きな人だったんで、こう言ったんですよ。ある典型みたいなものが重要なんだと。そういう意味では成 熟って言うと、確かに時間とか何かそこに西洋芸術とかね。農業とか農業の持ってる時間みたいなものを思うかもしれないけれど、成熟っておっこちてまた次の 実が出るじゃないですか。そこで終わるわけじゃないから。ですから、ある種の典型とか。そういう意味では、この映画はまあ古典になったと僕は思う。それは 僕の中ではなかなか出来なかった。あの場面に思い入れちゃう。あいつはどうしてるんだ。俺はこの場面のこのシーンのどの外にいるんだとか、あるいはいな かったとかね。そういうことばっかり思っちゃうんだけど。
田中 だから、それは全く不定形にあり、時間差を、常に時間差をともなった時間が一個一個の体の中に流れてるわけなんです。その中で成熟って言葉はふさわしいとは思わない。
木幡 なるほど。
田中 それと今日、何度目かを観て初めて音楽を聴いた気がした。今日初めてですね。
平井 だから、素晴らしい古典の作品になりましたと。でも、映画史に記録されるという意味じゃありませんよ。その手の学者達が言いそうな、そういう意味では全くないです。
木幡 では、そろそろ。本当にいろんな体験をしたいし、皆さんもどうですか。
平井 そうですね。どうもありがとうございました。

[2013/2/16 plan-B 責任編集・山谷制作上映委員会]

「山谷─やられたらやりかえせ」plan-B定期上映100回記念(1987年~2013年)

★日時:2013年2月16日

●16:00〜 「山谷―やられたらやりかえせ」上映 〜17:55
●18:15〜 対談「ライブスペースplan-Bを語る」木幡和枝+平井玄 〜18:45
●18:55〜 ホイト芸 黒田オサム 〜19:15
●19:20〜 ダンスと音 田中泯+大熊ワタル 〜19:50
●その後、これまでの講演者・ゲストの話をまじえながら交流会

木幡和枝(芸術・美術評論家、アートプロデューサー、翻訳家) 訳書は『同じ時のなかで 』(スーザン・ソンタグ)『私は生まれなおしている……日記とノート 1947-1963 』(同)など多数。2000年から東京藝術大学先端芸術表現科教員
平井玄(思想・音楽批評) 著書に『路上のマテリアリズム―電脳都市の階級闘争』『破壊的音楽』『愛と憎しみの新宿 半径一キロの日本近代史』など。
黒田オサム(パフォーマー・アーティスト) 敗戦直後にアナーキストとなり、山谷の労働者とともにダダイストとして生きる。そこでつちかった人間の俗のなかに聖を見るホイト(乞食)芸を披露する。現在81歳。
田中泯(ダンサー) 土方巽に私淑した前衛的、実験的舞踊家。1960年代モダンダンサーとして活躍。1966年ダンス界から追放、日本現代舞踊協会から除名される。1970年代「ハイパーダンス」を展開。日本・世界の知識人、科学者、美術作家たちとのコラボレーションへと繋がっていく。1978年パリ秋の芸術祭の「日本の時空間―間―」展で海外デビュー。以来30年以上、世界中で独舞、グループの活動を発表し続ける。
大熊ワタル(ミュージシャン)  http://www.cicala-mvta.com/