僕が山谷に関わったのは二十歳のときだった…

宇賀神寿一

宇賀神寿一といいます。通称はシャコといいます。この『山谷』の映画をやるというので、山谷の昔の関わりなんかを話して欲しいという事でよばれました。私 は、まあ元テロリストという事です。昔ね、爆弾を仕掛けて、その件で指名手配をくって、7年くらい全国を逃げまわって。その上で逮捕されて21年獄中に 入って、四年前に刑務所からやっと出てきて、今はこうやって生活をしています。現在は、救援連絡センターの事務局で働いています。そういうような経歴なん ですが、私自身自分のやってきた事に関しては後悔という事は大してというか全くないというか。自分自身が一つ一つ判断して決断してここまでやってきました から、そういう意味ではあんまり後悔してないんですね。ただ、意図せず人を傷つけてしまったことについては、反省し、謝罪しなければならないと思っていま す。私自身が山谷に関わったのが、私が爆弾を仕掛けるにいたったきっかけというようなもんだと思います。
私はいま55歳、1952年生まれです。私が政治活動に入ったのは高校生です。まあ17、18。当時68年、69年というのは、まだ反戦全共闘運動が盛 んだった頃です。私の高校は明治学院高校、明治学院大学と同じキャンパス内にあった高校で、大学での闘いを身近に見て、その中で政治的な意識に目覚めてい きました。私の場合はエスカレートという事で、そのまま大学に上がってその大学の中で活動していって、クラス闘争委員会というものに入ってやっていたんで す。学費値上げとか学内で不当逮捕された学生に対する救援等々やっている中で、結局自分もまた逮捕されて。18の時ですね。練馬鑑別所、あのネリカンと呼 ばれる少年鑑別所に入ったんですが、まあそれが初めての獄中入り。で、その後どんどん坂道を転がるように、奈落の底へ落ちていくという(笑)。まあそうい う事で、どんどんどんどん入っていって。
71年、72年……72年の頃になると連合赤軍のあさま山荘、あるいは妙義山のリンチ事件とかありまして、私自身もそういう中で、気持ちの上でかなり影 響があったと思います。いわゆる、あの時代の「鉛の時代」、鉛の気持ちをずうっと抱いたというか、持ち続けていました。その運動の中で閉塞感というのが あったわけですよ。その時に「リッダ闘争」という、日本赤軍の、アラブにいた日本人の三人がイスラエルの空港に銃撃戦を仕掛けて、決死の闘いをしたという 事もあって。それは、私の中で非常にインパクトがあったんですよ。そのリッダ闘争の追悼集会みたいのが京都大学で72年の8月頃あって、その時に私は京都 大学へ行って。
そうしたら、ちょうどその時、大阪の釜ヶ崎で暴動闘争っていうのが連日ありまして、72年の5月からずっと。釜ヶ崎で、日雇労働者に対して不当労働行為を していた手配師やなんかに対する追放闘争が労働者自身の手によっておこなわれていた、そういう釜ヶ崎の闘いがあったわけです。そしてその時に、釜ヶ崎の闘 いをどういうふうに支援するかという、大阪あたりの人達の会議があったんです。で、その会議に出た時に、釜ヶ崎の闘いの指導的な部分だった船本洲治さんと いう人に出会って。その出会いが山谷の闘いへ私を引き入れたというかね、関わりを付けたという事ですね。その会議に出て東京に戻ってから、山谷の日雇労働 者の越冬闘争の第一回の準備会というものを始めるという事で、それに参加したのが山谷への関わりの第一歩です。
それまでは、山谷に対しては私自身も偏見というか、あまり労働者に対していいイメージは持っていなかった。やっぱり敗残者的な、そういう気持ちで見ていた ところがありました。でも山谷との関わりの中で、いろいろ考えて、こういう労働者こそが本当に社会を変えていく、私自身は当時マルクスとかレーニンとかの 本を読んでて、「ああ、プロレタリアート」とか、「国家権力を奪取する」とか、そういう事を考えていまして。日雇労働者こそ本当のプロレタリアートではな いかというふうに考えて。それで、自分が今まで考えた革命運動に対して必要な階級であると、「ああ、これだ」という感じを私自身思ったんです。私は、こう いう人前で話した事があんまりないので、うまくしゃべれないんですけど。まあそういう形で関わりを持っていったんですね。
いまは山谷という一つの限られた地域じゃなくて、渋谷とか新宿とかいろんな所にどんどんどんどん野宿している人が増えてますよね。昔は山谷とか釜ヶ崎、 ある一定の区域に集まって、冬場になると仕事が少なくなる時に野宿をせざるをえない人達が出てきて。それに対して支援する、炊き出しとか医療活動とか、体 調崩している人には医療行為をするとか、そういう事を目的に越冬闘争というのはやられてたんです。そういう活動に私自身参加していきました。その中での労 働者の連帯感、自分らが貧しくてあんまり持つものもないけれども、困っている人間には持っているものをみんなで分け合ってしのぐというかね。そういうとこ ろを見て「ああ、いいなあ」というふうな気持ちを持ったりして。そういうところで私は山谷に関わっていきました。
まあ、その中でこの映画『山谷』の中で出てきた人達とも付き合ってきましたね。ただ映画に出てくる人達は私よりもっと新しいというか、私はもうちょっと 古い時代というか、時間的に古いんですよ。この人達は80年代だと思いますけど、私の場合は70年代で。まだ暴動ができる、非常にいい時代だった。暴動が できないというのは、ある意味で完全に管理された、非常に閉塞感のある社会。本当は連帯すべき人間同士が敵同士になってしまうような。つまり仲間同士喰い 合うというか、そういうような社会にいまはなってきているなあと思っていますけど。
なぜ私自身が山谷での関わりの中から爆弾を仕掛けるというか、そういう方向に、いわゆるテロリストへと変わっていったのかっていうと、基本的にはやっぱ り山谷や釜ヶ崎のいわゆる暴動の中で……。私が釜ヶ崎に行った時に、非常に高く売り付けるような店があって、その店に対して労働者が抗議した事で暴動が始 まりそうになったんですよ。その時に、普通の労働者の格好をした私服の警察官が隅々に散らばっていて、労働者が抗議の声をあげるとナチ棒という特殊警棒 で、その長い警棒で労働者の頭をぶちのめす。そういう事で労働者達が抗議をするのをつぶしていく、抗議行動をつぶしていく。ああ、このままでは労働者達の 闘い、自分らの正義を求める闘いがつぶされていく、そういう暴力によってつぶされていく、警察の暴力によってつぶされていくっていうところを見ていてね。 「これはなんとかしなければいけない」っていう思いを持ったんです。それが私がいわゆる武装闘争に入るきっかけだったんですね。うん、そういう事ですね。 だから私自身は何度も言いますが、結構まあ面白かったと。面白かったというのは不謹慎なんですが、それなりに結構良かったと思ってます。何か質問があれ ば。
A 釜ヶ崎に行った時に、船本洲治さんに会ったという事ですが、釜共闘の、いわゆる鈴木組闘争の時ですか?
宇賀神 そうですね、悪徳手配師の追放闘争という事で始まった闘いですね。あの時はもう連日暴動が釜ヶ崎で起こっていて。その中で手配師がそれまで握って いたヘゲモニーが、労働者によって奪い返されて、労働者が支配するっていうかね。今まではヤクザとか手配師が大きな顔をしていたんだけど、労働者が自分達 で自分らの寄せ場を管理していく、自治していくという事になったんですね。ただそれも、警察の圧倒的な力でもって封じ込められていったという経緯がありま すけどね。
A 僕が宇賀神さんの代わりに喋っちゃうのもなんですけど、鈴木組闘争っていうのは鈴木組というヤクザが寄せ場を支配していて。そこに船本洲治さんらの新 しい運動家たちが出てきて、ヤクザが日本刀で襲ってきたのを逆にやっつけた。そうしたら、その日からガラっと寄せ場の雰囲気が変わった。つまり暴力支配で 汲々としてたところが、やろうと思ったらやれるんだ、というふうになって運動が一気に盛り上がった。そこから発されたのが映画『山谷』のサブタイトルにも なってますけど、「やられたらやりかえせ」という言葉です。釜ヶ崎では釜ヶ崎共闘会議っていうのができてるんですけど、東京ではそれに呼応して山谷で現場 闘争委員会がつくられます。たぶん、山谷に戻ってきた時は現場闘争委員会っていうのが……。
宇賀神 そうですね、できてますね。
A その中で山岡さんとも出会いましたか?
宇賀神 山岡さん、そうですね、出会いました、はい。ただまだ私の方が20歳くらいの若い時でしたから、それほど活動は……山谷にそれほど入っていくって いう事はしてなかったんです。大学の方で、クラス闘争委員会や部落(解放)研究会で部落解放運動に関わっていたりしていたので、山谷にはまだまだ関わって いなかった。ですから、山岡さんとの関係はあんまり深くはなかったですね。
A その当時の部落解放運動や大学の雰囲気ってどんなだったんですか?
宇賀神 71年ですから、すでに反戦全共闘運動っていうのは消えかかっていまして、当時ほとんどの学園闘争がつぶされてました。だから残ってたのは、いく つかの大学だけ。明治学院は結構長くやってた方ですよ。72、73年頃まで。私のいた71年頃はまだバリ占、バリケードストライキをやっていましたから。 そういう意味ではまだまだ燃えてた大学でしたね。また、狭山差別裁判糾弾闘争を軸に部落解放運動が元気のあった時代でしたね。
A さっきおっしゃってた山谷での第一回越冬闘争準備委員会っていうのは、それは何年ですか?
宇賀神 72年の9月か10月だと思います。
A 72-73年越冬闘争っていうことですね。
宇賀神 そう、第一回の越冬闘争。
A それはどんな雰囲気だった?
宇賀神 最初はまず9月頃から準備会を何度かやって、それでまあ支援態勢をつくっていく。あと物資をどういうふうに集めるのかとか、そういう事をずっと話し合って。とにかく、初めての試みでしたから、手探りの状態での準備が進んでいったと思います。
B 最初の越冬闘争は玉姫公園?
宇賀神 そうですね。
B 玉姫公園でやろうといっても、もちろん行政はやらせない。
宇賀神 うん、そうですね。あそこにビニールで覆ってテントを作って。それで警察が介入してこないように入口に支援の防衛隊が立っているという、結構緊張 した状態でした。私服がバッと来て一名拘束して連れていこうとしたので、それに対してその人を取り返そうと思ってやりあった事がありました。私服何人か と。私は一度すでに逮捕されてるわけですけど、まあそういう間違えれば逮捕されるという場面もありました。そういう意味では緊張した状態だったと思いま す、第一回の場合は。
B 越冬闘争を始めようとしたのは、どういう議論っていうか経緯からですか。玉姫を占拠して、仕事がない期間、収容所に入らないで、仲間を野垂れ死にさせない、みんなでなんとか闘い抜いていこうっていう事を。
宇賀神 自分らの力で、自分らの命を守っていくという事ですね。まあ詳しい事は、この本(『ぼくの翻身』)に書いてあります。これは、私が以前、裁判を受 けていた時に書いた最終意見陳述なんで、まだまだ熱い時に書いたものですから(今はちょっと冷めてきた)、結構面白いと思います。
A 山谷から、反省のない「正しいテロリスト」といいますか、変身していくわけですけれども、さっきナチス棒っていうか特殊警棒で労働者の頭を殴ったりす るのを目撃したのがきっかけだとおっしゃっていましたけど、思想的といいますか考え方といいますか、それを山谷とか寄せ場から汲み取った事は?
宇賀神 重層的差別構造の中で、差別抑圧されている者たちが、より弱者へと矛盾を転嫁することなく、第一の敵へ向けて闘っていき、ともに解放されていけるのか、という課題を解くカギを下層労働者の闘いの中にやっと見つけたと思いましたね。
A 宇賀神さんは独演会がどうも苦手らしいので、どんどん聞いた方がいいようですよ。稀にみる明るい懲役囚だったといわれる人ですから、面白い話がいっぱい聞けると思います。
宇賀神 それから、話が少し変わりますが、先日25日にバイオヘルス健康法講座っていうのを救援連絡センター主催で、NPO法人「世界快ネット」の協力を 得てやったんです。私の方で企画した獄中者の為の健康法という事です。誰でもどこでもできる、獄中でもできる健康法。これは、コロンビアにいるバイオヘル スという健康運動をやってる人を講師に招いておこないました。私自身、獄中で医療が全くない、無医村的な状況下にずうっと置かれてたんで、どうしても自分 の体は自分で守るっていう事で、そういう健康法を結構やりました。
今も結構やってます。例えば、私が一番やっているのは飲尿療法ですね。オシッコを飲むという、一番簡単で誰でもどこでもできる。これは、ずうっともう20 年以上続けてますね。拘置所に入った時に知って、それからもう20年以上やってます。結構、体にはいいと思います、うん。皆さんも、いつ逮捕されて刑務所 に入るかわからないです。いま裁判員制度とかいろいろありますよね。裁判員制度、それぞれの人が本当にちゃんと自覚的に考えて審査できればいいんだけど、 マスコミのキャンペーンなんかで、それにのせられた形で物事を見てしまう。だからマスコミが「こいつが犯人だ」というふうにいえば、犯人だと思ってしま う。そういうふうにして、結局裁判の中で思い込んだ人間を犯人だと判決してしまう。そういう事も起こり得るような制度だと思うんですけど。そういう危ない 制度でもあるんですね。だから将来的に、誰でも塀の中に入る可能性があるんで、健康法もやっておいた方がいいと思いますよ。獄中では、ガンになったらこれ はもうおしまいですから。本当に、ガンになったら死ぬだけです。とにかく自分でできることは自分でやるという事で、この健康法を皆さんも今からでもやって 下さい。
[2007/12/2 planB]