2022年 9月10日

ドイツ・カッセルで何が起こっているか?
      ― 「ドクメンタ15」と、排除の論理

トーク : 三井峰雄(自営業)

いま、ドイツのカッセル市で開かれている国際芸術祭「ドクメンタ 15」が、「反ユダヤ主義」の問題で大いに揺れている。6 月末には、インドネシアのタリン・パディが展示した〈人民の正義/ People’s Justice〉が「反ユダヤ主義」の烙印を押され、その場から撤去させられた。タリン・パディはスハルト政権時代に、独裁に抵抗する美術運動を繰り広げた集団で、〈人民の正義〉は世界史的な国家暴力の暴圧に抗した8×12メートルの巨大アジテーション・バナーだ。
この「反ユダヤ主義」追及の動きは、ドクメンタの開催以前からすでに始まっていて、反対団体(反ユダヤ主義反対連盟)の活動が切っ掛けとなって1月のプレイベントが中止になり、またパレスチナ関係の展示場の壁にヘイトの落書きが残されたりした。こうした状況に対してドイツ内のジャーナリズムは、表現を擁護する覚悟を見せないばかりか、反対に反ユダヤ主義の「烙印探し」に奔走しているようだ。
「ドクメンタ」は、第二次世界大戦中にナチ政権によって「退廃芸術」として排除されてきた美術作品をあらためて再評価しようと、1955 年に開始された。その意味でこの事態は、そのような歴史を正面から受け止め、それとは違う歴史を作っていこうとした「ドクメンタ」自体への裏切り行為と言えるのではないか。そして、それはまた、同時代を生きる私たちにとっても無関係な 問題ではない。
今回の〈ミニトーク〉では、「ドクメンタ 15」から招待され、パレスチナ関係の映画を上映してきた三井峰雄さんを招き、現地
の最新情報も交えて、「いったいカッセルで何が起こっているのか、問題の本質は何か?」を報告してもらいます。

2022年 6月4日

「構造的沖縄差別」を撃つ ── ②

天皇制と沖縄

トーク:天野恵一(反天皇制運動連絡会」をはじめ数々の運動の中で鋭角な発言をし続ける、批評・運動者)

寄せ場と沖縄の関係は深い。戦後、全国の寄せ場に集まってきた日雇い労働者たちの中には、産業構造の転換で農村を解体されたり、エネルギー転換政策によって炭鉱などの職を失った人たちも多くいた。1970年代に山谷や釜ヶ崎で活動していた船本洲治は、この国家権力によって棄民化された者たちを「流動的下層労働者」と呼んだ。
沖縄と日本国家との関係は、いってみればその棄民化政策の集中的な拡張版とも言えるものだ。太平洋戦争の末期に、天皇・裕仁(ヒロヒト)は無謀な沖縄の地上戦を選び、敗戦後は天皇制の維持と引き換えに、沖縄をアメリカ軍政下に売り渡した。文字通りの沖縄の「使い捨て」である。寄せ場に流れてきた沖縄出身の「流動的下層労働者」は、アメリカ軍の基地建設のために「銃剣とブルドーザー」で農地を追われた人も多い。

上映委は、この春から『山谷』上映後の〈ミニトーク〉で「〈構造的沖縄差別〉を撃つ」というシリーズを始めた。第1回は「〈日米安保体制〉70年、その歴史と現在」というテーマで3月に開催。今回は沖縄と天皇制との関係を焦点化したいと思います。
講師は、1980年代から「反天皇制運動」を立ち上げてきた天野恵一さん。天野さんはこの映画の監督・山岡強一とも親交が厚かった。先鋭果敢な天皇制批判を期待し、天皇制と沖縄の〈現在〉を共に考えていきたい。

2022年3月5日

☆「構造的沖縄差別」を撃つ──① 

「日米安保体制」70年、その歴史と現在 

トーク:池田五律(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)

今年は、沖縄が日本に「返還」されてから50年になる。1972年当時、在日アメリカ軍基地の割合は、日本本土(ヤマト)が41.4%だったのに対し、沖縄は58.6%であった。ところが「返還」以降、ヤマトの基地は約三分の一に削減され、その結果、沖縄の割合は75%にはね上がった。これが日本政府が「本土なみ」と言い募ってきたことの実相である。
むろんこの沖縄への基地の集中化は現在でも変わっていない。それはアメリカの世界戦略に従属する日本政府の一貫した方針の現れでもあった。4年前に亡くなった新崎盛暉は、このような事態、すなわち「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組み」を、端的に「構造的沖縄差別」と喝破した。
いま、この仕組みはさらに進んで、馬毛島・奄美大島・沖縄島・宮古島・石垣島・与那国島と続く琉球弧では、ミサイル基地配備、海兵隊基地配備などが強行され、中国に対する包囲網の最前線化が目論まれている。

今回の〈ミニトーク〉では、「戦争に協力しない!させない!練馬アクション」の池田五律さんをお招きして、「沖縄返還」のさらに20年前(1952年4月28日)に発効した「日米安保条約」の〈歴史と現在〉について語っていただき、「構造的沖縄差別」の本質を考える第一弾としたい。

【池田五律さんから一言】
東京・練馬の自衛隊駐屯地に対する反基地運動の中で見えてきたこと、考えてきたことを話させていただきます。沖縄の闘いと「連帯」の名に値する首都圏での反戦反安保の闘いをどう再生していけるか、皆さんと一緒に論議できればと思っています。『山谷』、久々に観ます。楽しみにしています。

追悼の集いと上映会のお知らせ

◎11月13日(土) 午後2時より(1時30分 開場)
〈追悼集会〉
・生前の映像、・友人たちのお話、・献杯、など
◇日本キリスト教会館 4階
    新宿区西早稲田 2-3-18
参加費:1,200円(資料代込み)

◎14日(日) 午後2時30分 開場/3時 上映
〈映画と講演〉
・『山谷 やられたらやりかえせ』(監督:佐藤満夫、山岡強一)
・上映後、17時頃から 講演
「竜さんの思想と行動」(仮題)  原口 剛(神戸大教員)
◇ふらっとにっぽり 3階

2021年 4月17日

「釜ヶ崎、山谷、寿町を撃つ」
トーク:岸 幸太(写真家)

◎ 岸幸太さんは3月始めに、寄せ場を撮影した写真集『傷、見た目』(写真公園林)を上梓されました。その本の中で岸さんは、「本書に収められた写真は2005年12月から2020年8月までに大阪の釜ヶ崎、東京の山谷、横浜の寿町で撮影したものである。コンタクトシートをあらためて見返すと、初めてカメラを持ってこの町を歩きながら、撮りたいものが目前に拡がっていることに対して湧き上がってきた強い高揚感と緊張が甦る。その時に直感した私が撮るべき町や人がここにあるという確信は、今も変わらない」と書いている。その思いと、写真に対する考えを語っていただきます。

釜ヶ崎「センター前」上映会報告 2021年1月2日・3日

釜ヶ崎「センター前」越年越冬闘争における『山谷 やられたらやりかえせ』上映報告です。
上映は越年越冬期間中に設置しているテントにおける「センター前映画祭」において2回(1月2、3日にそれぞれ1回ずつ)行いました。テント内には間隔をあけて椅子を10個程度並べ、1月2日の上映では人の出入りはありつつほぼ満席、1月3日の上映では出入りが激しいものの10人程度の人がみていました。その他別の設営や準備で忙しかったり、焚き火にあたったりしているテント外の人たちも頻繁にテントをのぞいておりました。ささやかな上映会でしたが、作品中の風景を懐かしみ話がはずんだ労働者(「上映会のあとのエピソード」の文章参照)や、当時の釜を知らない人たちの釜シーンへの、のぞき見をふくめた注目度高さが印象的なものとなりました。
また『釜の住民票を返せ!』等の諸作品とともにセンター(前)という空間で上映できたことは意義深いものであったと思います。そして、コロナ禍において普段の寄り合いと同様に、皆でマスク着用・こまめな手指の消毒等に取り組んだからこそできた越冬・上映会でした。(Y・H記)

上映会のあとのエピソード

『山谷 やられたらやりかえせ』の上映の翌日、労働者から映画のシーンについて尋ねられた。「炭鉱のシーンがあったが、あれはどこを映したものだろうか」という内容だった。「筑豊ですよ」と答えると、とても懐かしかったという。いまは釜ヶ崎に住むその労働者は、筑豊で生まれ育ち、父親は炭鉱夫だった。映画に映し出される共同浴場や炭鉱住宅についてこちらから尋ねたところ、生まれ育った町ではそうした光景が確かにあったとのこと。そう話しながら、「炭鉱住宅はもうないやろな」とつぶやいていた。
その労働者は、炭鉱閉山をきっかけに関西に出てきたのだという。釜ヶ崎で働き、住むようになったのは、センターが建設された1970年のころだった。とくに記憶に残っているのは、90年暴動のこと。この暴動で西成警察署を謝罪させたことが、深く印象に残っているようだった(その点で92年暴動とは違う、とも語っていた)。また、その頃の釜ヶ崎では仕事があり、活気があったと懐古していた。
ふたたび筑豊の話に戻ると、故郷には、もう家族は残っていない。けれど、死ぬ前に帰りたい、故郷を見たいと、その労働者は何度も言っていた。手元に筑豊の写真集があったら良かったな、と思った。労働者と出会って、こうして話を聞くことができたのは、『やられたらやりかえせ』が労働者の出自を丁寧に辿っているからこそだと思う。そしてその映画を、労働者が集う釜ヶ崎のセンターで上映したからこそ、なのだと思う。(T・H記)

2020年12月11日

上映後、21:00頃から〈ミニ・トーク〉
今回のテーマは「越年・越冬闘争」です。労働者たちが知恵を出し合い、厳しい冬を生き抜くための、文字通りの「生きることが闘い」で、スローガンは「黙って野たれ死ぬな!」。
今年はとくに「コロナ状況下」で〈下層〉の切り捨てがますます厳しくなっています。
山谷労働者福祉会館活動委員会の横山晋さんをお招きして話を聞きます。

2020年8月1日

日雇いとギグワーカー
          ──「やらやり」と「金をくれ!」の間

「素人の乱/12号店」での初上映です。

上映後の〈トーク〉は、
鋭い批評の非正規思想家・平井玄さんと、
元・紅一点で
「要請するなら補償しろ!デモ」発起人のヒミコさん。

寄せ場が培ってきた〈暴動〉の先に、
2020年の〈反乱〉は重ねられるか?
対論、ご期待ください。

2020年3月28日

〈秋の嵐〉

トーク+ミニライブ /高橋よしあき(シンガー/ex.テーゼ)

 

「反天皇制全国個人共闘〈秋の嵐〉」。この魅惑的な名のグループは、1987年から数年に渡って、主に原宿の路上で活動していた集団だ。

昨年5月には臆面もなく天皇の代替りが挙行されたが、その30年前、1989年1月にも同じく天皇の世襲が行われた。昭和から平成へ──裕仁(ヒロヒト)が病死し、明仁(アキヒト)が跡を継いだ。裕仁の病状発表は87年9月、一年後の88年9月には吐血し重体に。そして翌89年1月7日に死亡した。
この時期、日本中で様々な「自粛」が強制されたが、〈秋の嵐〉はそうした国家による規制の強化、そして天皇制そのものを批判して活動を続けた。原宿ホコ天(歩行者天国)での路上GIG、神宮橋での寸劇やパフォーマンス、スピーカーズコーナーなど。代々木公園や明治神宮というロケーションを舞台に、創意に満ちた街頭行動を次々と繰り広げた。
今回のミニトークでは、〈秋の嵐〉初期からの中心メンバーである高橋よしあきさんをお招きして、当時の話、現在につながる課題、そして記録映画(『秋の嵐 Harajuku im herbst』)のことも語っていただきます。1984年に「テーゼ」を始動させた高橋さんは、現在もソロでライブ活動を続け、国会議事堂を取り囲むロックフェス「イットクフェス」にも関わる一方、アスリート(トライアスロン、ウルトラマラソン)としても活躍。
当日はトークに加え、弾き語りミニライブも行います。
ぜひ、ご参集のほどを。