2013年5月11日

plan-B 定期上映会

勝新太郎とドキュメンタリー
講演 / 境誠一(映画編集者)

もちろん、勝新太郎がドキュメンタリーを撮ったということではない。ドキュメンタリー志向というのとも違う。では、なぜ「ドキュメンタリー」なのか?誰かが日本の三大監督の一人に勝新太郎をあげていた。ここでは稀有な名俳優としての勝新太郎ではなく、映画監督の、それはまるでアヴァンギャルド作家のような顔をもった勝新太郎の姿だ。合理性をきらい、計算した役者の演技はきらい、あげくにカチンコをつかわない、そんな勝新太郎の映画づくりの秘密をいくつかのエピソードを交えて、映画編集者の境誠一さんに語ってもらう。そして、なぜ「ドキュメンタリー」なのかも考えていきたい。

「勝新太郎7回忌法要記念場面集」DVDを併映(20分)

対談「ライブスペースplan-Bを語る」

plan-B定期上映100回記念
木幡和枝
(芸術・美術評論家、アートプロデューサー、翻訳家)平井玄(思想・音楽批評)

司会 この「山谷」という映画、上映自体は数百回やってますけれども、ここplan-Bでは100回目です。それで特別企画としていろいろ 用意しました。これから平井玄さんと、木幡和枝さんの対談ということで。テーマはここに書いてあるんですけども、まあご自由に30分から40分話していた だきます。Plan-Bでは映画上映が終わってから、講演だったり、あるいはミュージシャンだったら音楽、そして今日も踊るといいますか、黒田さんだった らパフォーマンス、まあいろんな形でplan-Bという空間を使ってコラボレーションをしてきました。今日は、まあ、ある一里塚みたいなところでちょっと 時間を長くとって、話とパフォーマンスというかたちにしてあります。そのあとは、ここと隣を使って無礼講というかパーティをやりますので、それまでがん ばって堪え忍んでください。

[対談 木幡和枝×平井玄]

もう死者の数をかぞえない

木幡 木幡和枝です。
平井 平井といいます。木幡さんとはもうずいぶんいろんなことでお世話になってきまして、長い付き合いなんですけども。3回か4回くらいはお話していますよね、こういう形で。ではスターターみたいなことやりましょうか。
木幡 よろしく。
平井 何を話そうかなあと思ったんだけど、やっぱりこの映画を観て思いましたね。この映画は百科全書だなってことを考えてたんですよ。ディ ドロとダランベールというフランス革命を用意したおっさん達が……といってもほんのちょっとしか読んでないんですけど、僕も。つまりどういうことかという と、この映画が出来て30年くらい経ちますが、その間、とんでもないことが起きてしまうと、必ずこの映画のどっかの場面を思い出して、映画じゃこうだった じゃないかと。で、俺は何を観てたんだろうみたいなことを考えて、どうするかを決めると。あるいは動きだしてしまう、走りだしてしまう。最近、この映画の ことを昔の仲間たちと語ると、その死者の数を数えちゃうわけですよ。あいつも死んだ、こいつも死んだと。でも、それをやめようと。今日観てて思った。これ はもう、ある種のギリシャ神話みたいになってる。顔の映画ですよね。顔がいっぱい出てくる。意図的に撮る人は撮ってますよね。つまり山さんと佐藤さんとカ メラマンやスタッフは。でも、あいつは死んだとか、もう言ってもしょうがないと。この映画は30年経ってもいろんなものを語りかけてくるんだというふうに 思いました。というのは、三日前かな、山岡さんが殺された通りをデモしてたんです。その前の日には「在特会」という右翼のガキ集団がそこにいる在日の人達 に対してひどい罵言を吐いて嫌がらせをするという行動を行なってたところなんだけど。そこがまさに山岡さんが殺された、ローソンっていうコンビニのある通 りなんですね。この映画は、そういうことがあって、上映運動はそこから始まっていくわけですけども。それが、僕にとってはどうしても忘れることの出来ない 光景です。その30年の間に何百人か何千人かわからない、僕よりずっと若い人達に会うと、彼らはこの映画を観たらどう思うのかなということがあって。 「plan-Bでやってるよ」と。「観に行ったらどうですか」っていうことを結構言ってきたんですよ。で、それは、この映画とこの場所が切っても切り離せ ないところがあってね。いろんな偶然があって、木幡さんは僕よりはるか前に山さんや山谷の人達とつきあってたとか、そういうことがあって、ここで100回 も上映されたんだなあということを思いました。で、もう死者の数を数えるのはやめようというふうに非常に強く思いました。そんなところを切り口にして、こ の映画とplan-Bということですが、木幡さんどうですか。

集合的な音感から出てきた言葉

木幡 今日何回目かわからないけど、また全編観ることが出来て、まさしく今おっしゃられたように顔っていうか肖像というか、個人の肖像以上 の肖像というか。具体的にもう名前も覚えてないけど、あのおっちゃん、もうその瞬間がよみがえってくるじゃない。あの人、あのアル中の人とかっていう、す ぐ思い出しちゃうようなリアリティ。それから最初の時から本当にドキドキした場面があって。毎回そこの場面を確かめるように私は観てて、今日もそうだった んですけど。それは、音楽をやったグループがとってもいいんですよ。あの彼らの「ワルシャワ労働歌」、玉姫公園の越冬闘争が始まりますみたいな。「ワル シャワ労働歌」が編曲されて。その直後に人パトっていって人民パトロール。ドヤにももう年末で入れなくて雨の中、みぞれの中を野宿してるっていうか、路端 で寝てる人を、そのままだったら死んじゃうのでパトロールして。「ドヤはないのドヤは」って言うのがあって、その場面がありましたでしょ。あそこでなんと かさんが、こう跪いてね、みぞれの中。その寝てるおじさんを起こす。あの時、最初に観た時に、私はすごく教条主義的人民主義だったもんだから、ああいう大 学出た活動家みたいなのがね、そこで寝ているアル中のおじさんに「おじさん」と言うのかね、「あなた」って言うのか「ちょっと」って言うのか……ものすご いドキドキしてたわけ。何て呼び掛けんだろうって。この大学出た活動家は、この人に何て呼び掛けんだろうって。私は毛沢東を思い出しつつ呼び掛け方を、も うドキドキして観てたら、私は女だからかもしれないけど「先輩」って言葉が出てきた時はすごく嬉しかったわけです。そういう意味で、私にとって大事な場面 で。それで毎回その場面がくると思い出すんですが。その「先輩」ていうことのいろんな意味が、あなたがおっしゃるね、そこへ戻っていくっていうか。こと に、ああいった矛盾の固まりの中で……。今の安倍政権の言い方、頑張った人が報われる社会みたいな単純な論理でいかねえぜっていうことを思い出させてくれ るんですね。それを「先輩」と、彼も考えた末の言葉なんだと思うんですけど。
平井 あんまり考えてないと思います。(笑)みんな言ってたんで。
木幡 ああそうか。
平井 ただ、その言葉が出てきてみんなが使うようになるっていうのは、やっぱりある構えのやつらがあの場所で生きてきて、出てきたんだと思 うんですよ。僕なんかもよくわけもわからずね、何が「先輩」かよくわからず、使ってはいたんだけど。なかなか出てこないですよ。「おじさん」っていうのも あれだし。なんというかねえ。
木幡 私だったらきっと「おじさん」とか「おじさま」とかって言っちゃうと思うんですけど。まあそこはある種の集合的な一つの音感から出て きた言葉だと思うんですけど。あれは好きな場面です。それとあの音ね、音の人達。大熊ワタルさんなんかも若い時に、あそこで協力してたのかな。
平井 もちろん、はい。
木幡 なかなか。
平井 うん、そう。だから音の映画なんだよね。音楽の音ももちろんなんですけど、その「先輩」と声掛けたSちゃん。あの声がいいなとかね。 労働者の話し方、それからいかにも活動家、ついこの間まで学生だろうなとかさあ。わかっちゃうんだよね。ああ俺もそうだなと。三十いくつでそんなもんだろ うと。いい年してるのに。もう三十いくつなんだけど「学生」と呼ばれる存在なんですよね。そういうことを思い出したり、それからあの「哀愁列車」とかね。 出てくるわけですねえ。
木幡 あれ良かったね。「哀愁列車」はみなさんご存じないでしょうが、三橋美智也という人の。
平井 あの筑豊の場面でね。
木幡 そうそう。
平井 風呂の場面から、「哀愁列車」がグワーっていくわけですよ。なんていうか、心にしみる場面もあれば、怒る場面もある。泣いちゃったり笑ったり、まあそういう映画だっていうことを改めて思ってね。
木幡 それから最初の監督、作ることを決めて開始した佐藤さんが亡くなったあとに、山谷の労働者であり活動家であった山岡強一さんが継い で、完成させたわけですね。直後に殺されちゃうわけですけど。で、山岡さんが筑豊にこだわったっていうのは、ご自身が北の方の炭鉱の出身だったと理解して ますが。と同時に、ずっとものすごくそういうことにある種倫理的にもこだわっていた。これが朝鮮から連行されてきた人達の墓、まあペットの墓にまで……。 筑豊が最後に突然グワっとあそこに行くっていうのはものすごい意味のあるような気がしました。まさしく「先輩」そのもののね、歴史がボンと最後にあらわれ て。
平井 僕が浅知恵で解説するのもなんですけど、山さんが炭鉱で育って、お父さんが現場監督のようなことをやってて。その時に戦中最後の時代 かな、在日朝鮮人鉱夫の暴動があって。そこでの体験があるからこそ、ああいう映画が出てくるだろうと思うんです。だから本当にこの映画にいろんなものが ギューっと詰まってて。いつ観ても、からだが震えます。ということで、その時のことを思い出すだけじゃなくて、次に今起きてることを……
木幡 懐古的な話はこのくらいまでで、そうだ、今からのことを話さなきゃいけないんだよね。まあ、あなたがおっしゃられたのは場所というかね。
平井 ええ。

美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、映像、音楽のための
オルタナティブスペースとして30年前につくられた

木幡 100回続けていく、映画のこともそうなんですけど、上映し続けるという。全国いろいろな所をまわりつつ、ここでは準定期的にずうっとやることが出来てたんですけど。
平井 最初、plan-Bが出来た時に思ったのは、何でこんな遠くて不便な所につくったんだと。で、このアングラから……
木幡 アングラは金が無いからです。
平井 そうだよねえ。
木幡 ここしかなかったんです。
平井 まあアングラには慣れてる世代なんだけど。新宿の蠍座をはじめ薄汚い所に入っていって何かやるのは慣れてるんだけど。今こういう場所 はあちこちにあるんですよ。日本中に。で、みんな不便な所で狭苦しくて古いビルみたいな所でやってるんですよね。plan-Bのことはみなさん知らないと 思います、そういうことをやってる人達は。でも、やり方は結局そういうふうになってて。ところで、バブル時代から今までにかけては、大学がお金を出してく れたり、自治体がお金を出してくれて、アートで街おこしみたいなことは相当行なわれました。でもみんなうまくいってません。うまくいってないっていうの は、営業的にうまくいこうがどうなろうがっていうよりも、何かを生み出しえたかっていうと、まあないだろうと。僕もいくつかの大学の人に誘われて、しゃ べったり、いろいろやりましたけど、どうもねえ。生まれない。生まれる所ではないなと思いましたよ。だからこのplan-Bのあり方みたいなもの……木幡 さんは外国の事情に詳しいでしょうが、ニューヨークとか、あちこちにそういう所があるんだろうし。キップ・ハンラハンっていうニューヨークのミュージシャ ンと話した時に、そういうことをちょっとしました。
木幡 ええ。
平井 あの人は非常に面白がってたけども。今そういうスペースが出来てて。それとここ数年、まあ特に日本中が揺すぶられた原発震災以降…… 炭鉱とか、炭鉱またよみがえってますよ、僕らの中で。福島、常磐炭鉱、原発……ある種、観光と化してる面もあるけれども、もっと生々しい形でよみがえって るんで。今日ここにいないけど、原発労働者のことをやってる連中は、今日の昼間、会議やってますから来られないんですよ。まあそういう形でこの映画とか、 この場所っていうのは、ただ100回やった、たくさんやりましたっていう話じゃない、もっと質的なものを持ってると。すごく思いましたね。
木幡 この場所をつくったきっかけはというと――これから踊られる田中泯さんをはじめ20人くらいの美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、 映像、音楽などのそういうことをやってる人達が、いちいち高い金を払って借りるのも大変だし、それに釘も打てない、水も使えない、火も使えない、何とかな らないかっていうんで。それで外国のもうちょっと自由にやってるオルタナティブスペースっていうのを見てきて、日本でもつくろうと。まあ欧米で見てきたも のとは規模で言うと、そうねえ、10分の1くらいの空間スペースですけど、なにしろ東京の新宿近くっていうと高いから。それでもまあともかく確保した。当 時でもね、1週間画廊を借りるので15万から20万かかった。だったら、自分達でやった方がいいだろうとそんなことで始めたんです。その時、中心的にやっ たグループはそういう表現関係なんですけど、その人達の中にはいろんな人がいました。表現をただやって、発表の場さえあればいいというような変に閉ざされ た意識じゃなくて。それぞれの関心事、重要なこと、私の場合はそれは山谷だったし、この映画だったし、山さんだったし。いろんなものを、これもぜひやって もらおうよっていうような、そういうのがまあきっかけで。決して表現活動とか、いわゆる「お芸術」に限られないんで。自然科学だったり、社会運動だったり が入り込んでいたのはそういうことなんです。ただ、時代とともに中身は変わってきましたよね。ずうっと凍結されなくって、それが良かったと思う。始めた時 は、30年くらい前ですけども、そのままで凍結してたらば困るわけですよ。だって、今、私66ですけれど、出入りして下さる客さんもずっと一緒に年をとっ て、みんな私と同い年ばっかりだったら、ちょっとさびしいじゃないの。碁会所みたいになっちゃうし。だから、つまり通り過ぎていくっていうと良くない言い 方だけど、変わってきてるってことは時代の中でまあ少しでも踵を接するっていうことになるんだと思うんだけど。中身は違ってきますよ。
平井 例えば、マルセ太郎さんもずっとやってきたわけですね。
木幡 そうです、ずうっとやってましたね。
平井 もう彼も亡くなったけども。まあそうやって、ここにもいろんな人の魂があると思うんです。すごく濃いスペースになったなと。受け皿と いうか器として。それは、自治体が金を出したり大学が金を出しても出来ることじゃないわけで。そういう意味では、映画も、まあさっきちょっと大げさなギリ シャ神話みたいなことを言ったけど、やっぱり時と共に磨きがかかるもんだと思いましたよ。一昨日かな、家で小津安二郎の映画を観てたんだけど、あれはあり えない日本の戦後市民社会なんだけど、架空の物語みたいなもんですよ。あれほどきれいな言葉を使い、あれほど抽象的な東京生活があるみたいなね。でも、そ の裏にこういう世界があるわけだけど。あれはあれで一つの方法なんでしょうけども。それで、別の意味での非常に抽象度を獲得したというふうに、今日この 「山谷」を観て思いました。とっくに佐藤さんや山さんの、山さんの年でさえもう僕は越えちゃったんだけども。そういうふうに観られるようになって、このス ペースも成熟したっていうかね。ある種成熟ってあるんだなと、しないのは自分だけだと。

高円寺の地下大学 ―― plan-Bを意識したわけではないけれど

木幡 plan-Bは1980年、81年くらいにスタートしたんですけど、その頃はまだいろんな意味で、ある一定のレベル以上の人じゃない といろんな場所を使えなかったわけですね。それは貸してもらえないとか、ある種の立場っていうの。だから若い、何ものかもわかんない人がやろうと思っても 画廊は貸してくれない。今はいろんな所が若手とかイマジングアーティストとかいって、そういうチャンスをつくると、行政が……。そういうのがないので、そ うするとどうしようかというと高い金を払って借りるか。でもそれってとてもバラバラだし、あの競争的だし。やっぱり空間があればいい。でも自分のペースで 借りられる空間がないのもさびしいけど、あればすむんじゃなくて。「場」という言葉をもし使うならば、それは単純な物理的空間だけの話ではないと思うんで すね。「山谷」の映画で「俺が帰ってくる街はここだけしかないんだ」って言ってたおじさんがいたけども。さっき、ここに来て下さる方っていうのは時代に よっていろんなものを持ち込むし、違う人が入って来るのは凍結された場として結晶化していくよりはずっと面白いと思うと言いました。同じようなことを、そ ういう有機的な要素が流れこんで来る場所を、行政や大学がちょっと若者の非行防止の為や、あるいは中高年にいろんな趣味を持たせる為に、何かをやったり発 表したりする場をつくってますよね。例えば、世田谷区立美術館とかがやってます。でも、そういう発表の場さえあればいいのか。そこに人が来て、「じゃあど うもご苦労様、来年もねー」って言って別れるだけでいいのか。その場所というものが、これはしがらみも含めて、望むと望まざるとに関わらず、ある有機的な 作用を引き起こしていく。それがまた外の政治状況や経済状況、社会状況を飲み込みながら動いていく。少なくとも60年代、70年代、80年代にかけて場所 を欲しいと思い続けてきた、それは芸術的表現だけじゃなくて、やりたいと思ってきた身からすると思うんですけど。今、そんなに若い人達は物理的な場所に 困ってないような気もするし、大学のような機関、あるいは行政が昔に比べたら信じられないくらい素晴らしいものをオファーしてくれるじゃない。いろいろ締 め付けはあるにせよ。何かどこも行き場がない、だからしょうがないから大学占拠してやるっきゃねえっていうふうに追い詰められてないことが問題なのかっ て。老婆心の繰り言みたいになっちゃいましたけど。その辺はどうなんだろう。あなたは若い方達と地下大学やってて、どうですか。
平井 あれは勝手にやってるというか。地下といいながら地上二階で、下は鍼、灸の店なんですよ。不動産屋さんの隣で変な薄汚いビルですよ。 よく地震の時にぶっ壊れなかったなって所なんですよ。いずれこの映画、「山谷」をあそこでやろうと思うんですけど。ここは寄せ場じゃないのって高円寺の人 達に言うんだけど、彼らはそうじゃなくて、どちらかというとフィリピンなどの、南方系のスラムのイメージを思っててね。それはそれである種の面白さがあっ て。つまりゆるい空間っていうかね。それで労働をしてるかしてないかわからないような連中がうろうろしてて。でも、執拗に高円寺がロックの街です、若者の 街ですよみたいなことで、ギザギザしたものを投げ込むようなことをやってると、まあいずれ何か反応を起こす、化学反応を起こすだろうと思ってはいるんだけ ど。あれを始めた時は、別にplan-Bのことを思ってたわけじゃないですけど、考えてみりゃよく似てるわというふうに思いますね。こうしようと思って仕 掛けたことはろくなものはないわけですが、いつのまにか染み込んだものが何かを生むんだろうというふうに思うんですよ。大学で、いろんな企画書を出してや ると予算が取れたりした時代もあったんだけど、最近はそんなことはないですけどね。
木幡 いやありますよ、今だに。
平井 ある?
木幡 取っちゃったけど、やる中身が実はなかったみたいになってる人が私のまわりの同僚にいますよ。課程費を取る時は一生懸命なんだけど、もらっちゃったあと一応ちゃんと使わないと今後に……ところが実は何にもないのにもらっちゃって。ぜいたくな悩みですけどねえ。
平井 ハハハハ。ちょうだいっていう人がいっぱいいるんじゃないですか。
木幡 言いたいですよねえ。
平井 そういう意味じゃあ豊かさと貧しさがものすごく偏在している。極端に偏在している時代になった。それで、日本中に変なスペースがいっぱい出来たと思うんですよね。で、たぶんplan-Bをそういったことの先駆的な例として取り上げる粋狂な研究者が出てきたりとか。
木幡 オルタナティブスペースの研究とかね。

いま、学生と下層の労働者が出会うことはなくなった?

平井 そうそう、そうです。まあそれは粋狂な人に任せとけばいいことなんであって。やればいいんです、こっちはね。この映画、今日はなぜか、たぶんフィルムが傷んだせいでしょうけれど、こう角が丸くなってましたよね。画面の角がね。
木幡 角が丸くなるって。(笑)
平井 何か、20年代のモノクロの映画を覗き観てるみたいな、そういう感じがしてね。そういう意味でもこの映画、時と共に変容しているんだ、成熟しているんだなあと思いましたよ、すごく。
木幡 それと観ながらちらっと考えたのは、圧倒的な違いというか、リアリティというか。例えば、おじいさんがいて中年の夫婦がいて、それか ら昨日今日、大学から、あるいは学生運動からちょっと移行してきたような活動家もいて。そういう意味で言うと、大きな時代的な違いがすごくありますよね。 ようするに、学生とそれから農村、漁村出身の、まあ下層労働者になっている人が出会うなんていう必然性、必然性というか構造的条件っていうのが、まあ別の 方法で、それこそ角が丸くなってるわけで。ところが今は、そういうことがないから、危険な連合体が出来るおそれがなくなってるわけじゃないですか。あるい は前衛芸術家と山谷の上映会をやる人が、何で同じ場所で一緒に100回続けたの、というようなこと、そういうのがあんまりない。こう何て言うの。細かく分 類化された使用目的に合ったと思われる施設を、まあこれが括弧付きの「文明社会」というのかもしれないけれど、そういうのを提供出来る市民社会になってき てるということの結果なのかなあと。
平井 それと、だんだんお金を出さなくなってるんじゃないですか。きつくなってきて。
木幡 そうだろうなあ、締め付けが。
平井 たぶんそうだと思います。あとその過激な学生さんと労働者達っていうのはもうありえない図式であって。
木幡 過激な学生達がいないと。
平井 いないです。原発震災以降、最も動かなかったのはたぶん学生層ですからね。
木幡 ほう。法政大学に行ってもいない?
平井 ちょっとはいますよ、それは。ちょっとは面白い人もあらわれてきてるんだけど。まあ、いきなり山谷に行っちゃうとかね。美大の学生 だったやつが山谷に行っちゃうとか。そういうことはあまりなくなってきてることは確かだね。でもまあ、学生が普通に暮らしてたらフリーターになってしまう んで。
木幡 ああ、なるほど。
平井 別段行く必要ないんですよ。
木幡 そこにいれば、もうなっちゃう。
平井 なっちゃう。なっちゃうけど、まあみんな従順だけどね。
木幡 うんうん。
平井 しかしそれで波を立てようとしてるやつはいるわけで。そちらの方が面白いというかね。そこから映画を撮ろうとするのが出てくるわけで。
木幡 で、どうなんでしょう。そういう中で場所を持つとか。昔アジトって言葉がありましたね。例えば、大学のクラブ活動の与えられた部屋。 それを自分達で好きに使う。アジトっていうのはヨーロッパの語源だっていうのがありますが、まあ自分達が自由に使える場所。もう寝泊りもしちゃうみたい な。そういうことでいうと、今はきれいなエアコン付きの部室みたいのがサークル活動の為に与えられていて。使える自由度は、それぞれの場所によって勝ち 取ったものが違うと思いますけれども。それと金を払ったりして。あとは行政や民間が提供するっていうかなあ。まあ私達の頃は西武とパルコくらいですよ、そ ういうのは。若いのを登場させて販売促進につなげたのはね。今はみんなそれをやってるから。そんなに困ってないのかなあ、発表の場みたいなものに。

山谷の群像をシネマヴェリテとして観た時、どう思うのか

平井 どうなんでしょうねえ。ただ本当にやりたいことをやろうと思えばかなり困りますよ。
木幡 そりゃそうですよ。だから、本当にやりたいことがないっていうのが問題なんだよ。
平井 ただ、その若い層がどうしたとかあまり興味がなくて。なかなか年を取れないのが僕らの世代の唯一の取り柄なんで。
木幡 なるほど。自分のことの方が興味がある。
平井 そうですねえ。自分が今、何を出来るんだということだけが重要であって。それで一緒にやれる連中をつくればいいと。出来ればいいとい うことであってね。この映画はそれを訴えてる気がするんだけどね。この映画を観るといつもどこか震えて、笑って、泣いてね。ええ、しんみりきますよ。同時 に「お前、何やってんだ」と。やっぱり言われますよ、この映画に。
木幡 いやあ何人かの群像がいてね。皆さんにぜひご紹介したいのは、もう亡くなっちゃったから言っていいと思うんですけど、あそこに出てく る中で何人か、私の記憶に強く残る大好きな人がいて。今日も「ああ、もういないんだ、この元気な人は」と思ったんだけど。何て言ったらいいんだろう。ほ ら、おじさんがこうあやまって、組のって言うか……
平井 ああ、手配師のおじさんがね。
木幡 その前でマイク持って。わりとこう滑舌のはっきりしたMさんっていう人がいて。あの警察官あがりだっけ、自衛隊だっけ。
平井 警察ですよ。
木幡 警察か。警察官あがりか。
平井 機動隊でしょう。
木幡 機動隊。(笑)亡くなってしまったそうで。本当にまあ細やかな心遣いで。ええと、一生懸命勉強をするんですけど、いわゆるインテリタ イプには絶対になれないタイプで。でもすごい人間的、何ていうんですか、豊かさっていうのがあって。元気いっぱいで。彼だけじゃなくて、もうちょっとこっ ちにいた今だに闘ってる人とか。本当に群像としても、今どきあれだけ複雑で強烈なものを……。それを培った時代っていうことなのかもしれませんけども。 で、そういうものを皆さんがシネマヴェリテとして観た時、真実映画として観た時、どうなんでしょう。いわゆるドキュメンタリーって、あるいはドキュドラマ とか今たくさんありますけど。この映画との違いというか、分析的な意味じゃなくて、若い方々とかはお感じになったのかなあ。そんなに古い感じはしなかった だろうと、まあ希望的に思ってんだけど。どうですか? 昔、1950年代、60年代くらいのネパールとかチベットとかにいろんな写真家が写真を撮りに行ったじゃないですか。そこで撮られた顔を観ると、懐かしい 顔、日本にもいたよね、こういう顔の人って。思いましたよね。発見しちゃったり。隣の家の人だったり。でも今は、だんだんこう顔っていうものがツルツルに なってくるじゃない。で、今日の話も顔から始まったんだけど、どうですか、そういうリアリティっていう感じでは。まだまだ今も通じる、今こそ通じるリアリ ティをこの映画は持ってるような気がするんですけど、いかがでしょうか。場所から話がずれちゃいましたけど。それと、そろそろ我々よりも、音楽とパフォー マンスに行った方が、映画と身体的には連動してていいと思うんですが、どうです?
平井 じゃあ、ちょっと言いますが、顔って、情報量というか伝えるものはすごく多いでしょう。何で、今でも彫刻とか絵とかを観るのか。やっ ぱりそれは何かを伝えちゃうからですよね。それを思うと、僕が実は一番興味があるのは飯場に争議に行くじゃないですか。それで、おじさんが出てくるじゃな いですか。あれは在日の人なんです、親父は。娘さんが出てきて、それこそMさんが途中から漫才の掛け合いみたいにして「社長、社長」とか言って出てくるで しょう。そして協定書というか、誓約書みたいのを書かせるわけだ。あの時、「この人、日本語書けないから」みたいなことを娘さんが言うんだよね。あのおや じの顔なんですよ、僕が興味あるのは。あのおやじが刻んでるこの顔は何だと。つまり働いてなんとか店を持った。あのちっちゃい手配師の事務所。まあ飯場を 経営してると。で、たぶん本人にそれほどの意識があってじゃなくて、業界はこういうもんだというふうにしていろいろなことをやっちゃってる人だと思うんだ よね。あの人の顔と家族と、それと労働者、飯場にいる労働者。それから争議団の連中、Mさんやその他いろんな人いますけど。あのやりとりなんですよねえ。 あれが非常に興味があって。それと、もう一つ言っておきたいのはたぶんフリーター世代にはフリーター世代の顔の成熟があると思うんだよ。

成熟しない意志、あるいは古典として……

木幡 成熟?
平井 うん、すでにフリーター10年以上、10数年とか20年とかやってる人が出てきているわけなんで。そうすると肉体労働者ではない、も ちろん別の病を、いろんなものを抱え込んでる人達が多いけれど。それだけじゃなくて、やっぱり生きる為にいろんなことがあるわけで。それとは別の成熟と別 の闘いのありかたがたぶんあるだろうと。それを編みだすのが問題なんであって、というふうに思いますけどね。
田中泯(客席から) 成熟ってどういう?
平井 やってると、なんとなく時間が顔やいろんなものにたまるんですよ。たぶんその出方みたいなものが、あるパターンとか何かを作り出してくると思うんだよね。
田中 農業用語で成熟とか爛熟とかって。
平井 ああそうか。
木幡 爛熟。
田中 さっきのこの映画に関して成熟って言葉を盛んに使ってたんだけど、俺はこの映画は成熟をしない意志を持ってる映画だと思う。
木幡 映画としての成熟?
田中 一番はそうだよ。
木幡 映画としての成熟はしない。
田中 しないという意志を持ってるからやっぱり観続けるんでしょう。観る人達も成熟なんかしてないって。
平井 うーん。
田中 時期を待ってるわけじゃないでしょう。あの果物の成熟というのは本当に待ってる。待ってるんだ。そして、しっかりと支えられて成熟す るわけだよ。それがもっと進むと完熟、そして実を結ぶことが結果なんですよ。これ全部百姓の言葉です。いやねえ、あいまいになっちゃうんだよ、成熟なんて 言うと。
平井 じゃあ言い換えよう。山岡さんは、あの人は文学好きな人だったんで、こう言ったんですよ。ある典型みたいなものが重要なんだと。そういう意味では成 熟って言うと、確かに時間とか何かそこに西洋芸術とかね。農業とか農業の持ってる時間みたいなものを思うかもしれないけれど、成熟っておっこちてまた次の 実が出るじゃないですか。そこで終わるわけじゃないから。ですから、ある種の典型とか。そういう意味では、この映画はまあ古典になったと僕は思う。それは 僕の中ではなかなか出来なかった。あの場面に思い入れちゃう。あいつはどうしてるんだ。俺はこの場面のこのシーンのどの外にいるんだとか、あるいはいな かったとかね。そういうことばっかり思っちゃうんだけど。
田中 だから、それは全く不定形にあり、時間差を、常に時間差をともなった時間が一個一個の体の中に流れてるわけなんです。その中で成熟って言葉はふさわしいとは思わない。
木幡 なるほど。
田中 それと今日、何度目かを観て初めて音楽を聴いた気がした。今日初めてですね。
平井 だから、素晴らしい古典の作品になりましたと。でも、映画史に記録されるという意味じゃありませんよ。その手の学者達が言いそうな、そういう意味では全くないです。
木幡 では、そろそろ。本当にいろんな体験をしたいし、皆さんもどうですか。
平井 そうですね。どうもありがとうございました。

[2013/2/16 plan-B 責任編集・山谷制作上映委員会]

「山谷─やられたらやりかえせ」plan-B定期上映100回記念(1987年~2013年)

★日時:2013年2月16日

●16:00〜 「山谷―やられたらやりかえせ」上映 〜17:55
●18:15〜 対談「ライブスペースplan-Bを語る」木幡和枝+平井玄 〜18:45
●18:55〜 ホイト芸 黒田オサム 〜19:15
●19:20〜 ダンスと音 田中泯+大熊ワタル 〜19:50
●その後、これまでの講演者・ゲストの話をまじえながら交流会

木幡和枝(芸術・美術評論家、アートプロデューサー、翻訳家) 訳書は『同じ時のなかで 』(スーザン・ソンタグ)『私は生まれなおしている……日記とノート 1947-1963 』(同)など多数。2000年から東京藝術大学先端芸術表現科教員
平井玄(思想・音楽批評) 著書に『路上のマテリアリズム―電脳都市の階級闘争』『破壊的音楽』『愛と憎しみの新宿 半径一キロの日本近代史』など。
黒田オサム(パフォーマー・アーティスト) 敗戦直後にアナーキストとなり、山谷の労働者とともにダダイストとして生きる。そこでつちかった人間の俗のなかに聖を見るホイト(乞食)芸を披露する。現在81歳。
田中泯(ダンサー) 土方巽に私淑した前衛的、実験的舞踊家。1960年代モダンダンサーとして活躍。1966年ダンス界から追放、日本現代舞踊協会から除名される。1970年代「ハイパーダンス」を展開。日本・世界の知識人、科学者、美術作家たちとのコラボレーションへと繋がっていく。1978年パリ秋の芸術祭の「日本の時空間―間―」展で海外デビュー。以来30年以上、世界中で独舞、グループの活動を発表し続ける。
大熊ワタル(ミュージシャン)  http://www.cicala-mvta.com/

2012年12月15日

plan-B 定期上映会

沖縄は、どこに「復帰」したのか?
講演・太田武二
(命どう宝ネットワーク)

普天間基地の移転、オスプレイの配備強行、米軍将兵による強姦・暴行など、沖縄をめぐる問題が報道されない日はない。しかし これらの問題はなにもここ数年に限ったことではない。オスプレイ配備は危険な機体の配備ということだけではなく、軍事基地機能という危険性そのものの強化 にほかならない。性犯罪は米軍による沖縄の暴力支配のひとつのあらわれかただと言えるだろう。これが「天皇メッセージ」によって合州国に売り渡された沖縄 のずっと続いてきた現実であり、「復帰」40年後も変わることない支配実態である。加えて尖閣諸島の問題がある。のぼせあがったナショナリズムは、まるで 在日米軍基地の大半を押しつけてきた現状を正当化しているようだ。
「もう、たくさんだ!」──沖縄の発する声は、「本土」に住む私たちにどう届いているだろうか。沖縄諸島をめぐって長く思索・行動・発信し続けてこられた太田武二さんを招いてお話を聞く。1879年の武力併合(琉球処分)以来の歴史を踏まえて。

野宿者コミューン! 江東区竪川で起きていること

杭迫隆太(竪川を支える会)

竪川での強制代執行

杭迫 今晩は杭迫といいます、よろしくお願いします。まず竪川の現状から説明しますと、2月8日に対象地に一人残った人のテントを、小屋 を除却したんです。でもその10か月後の、おそらく12月くらいまでの間にもう一回代執行が行われようとしています。今はその手続き中で、おそらくそれは 間違いない。そこで黙っているわけにもいかないということで、今、住んでいる竪川の河川敷公園多目的広場の少し上がった堤防の上の所、副堤部っていうんで すけども、そこにテントと小屋を作って電撃的に引っ越ししました。ですから、今はその対象地に残っているテントと小屋が10張りくらいと、代執行の前に、 それを逃れる形で引っ越したテントと小屋が5軒くらいあります。この間、警告書というのが副堤部に引っ越したテント小屋に貼られまして。対象地の小屋には 「いつまでに除却するので、それまでに出て行って下さい」というようなのが届きました。現在、竪川はそういう状況です。ただみんな、決して悲観的ではな く、今日も竪川カフェがあったんですけれども。みんなで力を合わせて明るくやっていますので、ぜひ皆さんも一回、今のうちにと言うとちょっと縁起は悪いん ですけども、竪川のみんなと話すような機会を持っていただけたらと思います。
司会 知らない人もいらっしゃるので、なぜこういうことが行われたかっていうことを少し話していただけませんか。
杭迫 はい。竪川、荒川、隅田川、そういう河川敷とか公園のような公有地に野宿者が劇的に増えたのは、あのバブル崩壊の頃の経済がこうド ンと落ちて、それで建築業界が冷えきって、山谷や横浜寿や高田馬場の、今もありますが寄せ場ですね、そういうところの日雇いの仕事が急に無くなってしまっ た。ようするに日銭を稼いでドヤに泊まるとか、仕事にアブレたら野宿するっていう人達の生活スタイルが、もう一気に後退したんですね。それでもう仕事が出 来なくなってしまった人が、そういう公有地にテントや小屋を張って暮らすという。だから20年くらい前からの潮流としてありまして。で、竪川もそのバブル 崩壊の頃から、20年くらい前から住んでる人、長い人で20年くらい。Aさんは20年くらい?
A オレはもう21年目に突入しました。ベンチからスタートして小屋作って。
杭迫 その人達は、20年間江東区の福祉行政からほったらかしにされていて。まあ福祉事務所の人が相談に来るなんてことはほとんどなくて、見て見ぬ振り を役所はしてきたんです。にわかに、スカイツリーが出来るとか、近くにいっぱいマンションが出来て、それなりの所得の高い人が増えたりっていうことになる と、急にそれまでは放置していたものが「出ていけ」に変わったわけですよね。それがまさに今、竪川で起こっていて。それは隅田川でも荒川でも、大きくは変 わらないんで、そういう流れが東京東部で、顕著に今あるように感じています。
A 2006年からねえ、都内でよく……みんな聞いてます? 「三千アパート」って聞いた人います?アパート事業っていうの。それがちょ うどねえ2010年頃かなあ、始まって。それからウチら竪川には、現在10人しかいませんけど、その2010年頃にはもう45くらいのテントがブワァーっ と同じところにあったの。今の渋谷も新宿もそうよ、再開発でみんな……。ウチらの竪川でも高速道路の小松川の下で工事が再開して、再開発でみんな追い出さ れて。今の状態は応援入れると12、3のテントでがんばってやってます。だから、ぜひ遊びに来てください。最寄りの駅だったら都営線で行くと西大島から明 治通りをまっすぐ高速道路に向かって左っ側にいますから。朝9時から5時までいますから。JRだったら亀戸の駅でまっすぐ。目の前が明治通りですから、 まっすぐ。真ん中に高速道路が上に通ってますから、それを目印にして、向かって明治通りの右っ側に銀行がありますから。そこの一か所だけウチら唯一の門だ から。もう夕方にはみんな閉められちゃう。ぜひ、あの暇があったら竪川に一度遊びに来てください。いつでも待ってますから。オレ自身がいますから、毎日の ように。
杭迫 亀戸と西大島の間にある高速道路の高架下にある竪川で、最初に工事の計画が上がったのが2006年で。その工事計画はいったん野宿 者や支援者、活動家の、そういった反対もありまして一回立ち消えになるんですけども、また三年前からかなり激しい追い出しが始まって。そこでは、「三千ア パート」の、なんていうか焼直しみたいなものだったりとか。あとは緊急一時保護センターとか自立支援センターとか、そういう所に入れっていう。また、それ までは一切認めてこなかった生活保護の制度を使って「そこからどいてくれ」と、そういうことを言い始めたわけですよね。Aさんがいっぱい言ってくれました し、竪川の感じはこんな感じで。

移動した所にもフェンスが

そもそも私がどう関わってきたかっていうことを話しますと……この去年の夏頃から、江東区がどうあっても追い出す気だなっていうような空気がすごく出て きたんですね。それまで竪川に住んでいるみんなは、江東区が「ここ今度工事するから、そこどいて」って言われたら「ハイ」って言ってどいて、「こっち工事 する」って言ったらまたどくってことを繰り返してきたんですね。それで、五の橋のすぐ下に引っ越したわけなんですけど。その頃から、もう話し合いのテーブ ルに着くことをしなくなり始めたんですね。これはいよいよおかしいなっていうことで、話し合いをして解決しなさいっていうことを、私たち野宿者、支援者有 志で江東区に訴えてきたんですけれども、ついに去年の12月に、最初の行政代執行の手続きを区が始めて。それで、2月の8日に一軒だけ残ってた高齢のSさ んっていう人の小屋を全部除却して強制的に撤去しました。何で1軒だけ残ってたかというと、Sさんはすごく人に頼るのが嫌いな性分で。他のみんなはSさん の小屋がやられちゃう前に、すぐ近くの今いる所に引っ越したんです。そこはもう工事も終わっていて、行政代執行の対象地でもないので文句はつけられないだ ろうと。そういうことで引っ越した所に今みんな住んでいるんですが、今度はそこがやられてるっていうことですね。その2月8日の行政代執行の前に引っ越し た所の多目的広場が1月27日にフェンスで囲われてしまうんです。
竪川河川敷公園は細長い公園で、自転車の抜け道みたいな感じでひんぱんに使われてたんですけども、そこを使えなくして。それで「危険な野宿者がいるから ここは通さない」みたいなことを区が言い出して。その時に来たのが100人から150人くらいの警備員、区の職員、あと何もしないで見てる警官ですね。そ れを僕は目の当たりにして、これはもう、本当にもう多勢に無勢で好き放題やられてしまうなっていうふうに考えて。誰もが携帯電話とかパソコンで「こんなこ とが起きてます」って発信出来るわけでもないでしょう。僕はその時、御徒町のアパートに住んでたんで、家もそんなに離れてないし、泊まれる時はここに泊 まって、野宿者の人と一緒にテントに寝泊りして、誰も見てないところでやられちゃうってことがないようにと思って、Aさん達と一緒に暮らし始めました。今 は、ちょっと体を壊しまして竪川にずっといるわけではないんですけども、また代執行の目論見がこうあらわになってからはなるべく現地に行ってみんなと一緒 にいるようにしています。

非正規労働者となって山谷へ

私は、もともとは広告代理店で働く、普通のそういう賃労働をしてたんですけども体を壊して。大変な仕事だったんで、一回入院したあとはその仕事を続けら れなかったんですね。その後は塾の先生とか予備校の先生とかしながら、ようするに非正規で食べてきたんです。でも本当に2005、6年あたりからもう食べ られなくなってきて。教育の現場の非正規の賃金っていうのはすごく足元見られて、たたかれ始めたんですね。もう一番良い時の半分以下くらいの給料で働くこ とになっていて。それまでは運動とか労働問題とかと全く無縁だったんですけれども、こんな世の中はおかしいなっていうことにその時ようやく思い始めたんで す。2008年のリーマンショックの時に、非正規でも誰でも入れるっていう労働組合に初めて入って。そして、その年の暮に派遣村、あの日比谷公園の年越し 派遣村がありましたが、そこに僕はボランティアで行ってたんですね。そこで会った人達、たくさん野宿の人達が日比谷公園に集まって来てたんですよね。その 山谷とか東京の各地で活動している野宿者運動の人達とも接点が出来て。私は一応労働組合には入ってはいるんですけれども、本当に大変な思いをしている人達 のために何か出来ないかなっていうことで、だんだん山谷に足を運ぶようになりました。
で、その派遣村のことを話しますと、とても大きな出来事だったと思うんですが、まああれだけ大きな出来事が起きて、その年の8月には政権交替も起きると いう大きな流れがあったのに、全然世の中は良くなっていない。特に野宿の現場なんか見るともうどんどん、どんどんひどくなっているっていうのが現状なん で。派遣村がどうこうっていうんじゃあないんですけども、あれだけのことをやっても全然世の中は良くならないんだなっていう失望みたいなものを今でも感じ ているんですが。それでもまあ、いくつか良いこともあって、その一つに生活保護の……。生活保護って本当に受けられない、一人で行っても門前払いされる、 水際作戦とか硫黄島作戦とか言いますけども。ちゃんとやったら絶対申請は出来て、ちゃんと審査して決定するかしないかっていうことをするはずなのに、その 申請すらさせてもらえない。そういう違法な運用がされてきたんですけども、派遣村の直前から粘り強くやっていた「もやい」の人達とかの活動の積み重ねも あって、派遣村の後は誰か一人でもそういう詳しい人とか手伝い出来る人が一緒に行けば、野宿の人でも生活保護は断られないっていう、新しいスタンダードは 出来たかなって思ってるんですね。

路上に居続けて闘うこと

私は隅田川医療相談会の現場で、そういう生活保護の申請の手伝いをしに役所に一緒に行ったりとか、体が悪い人と一緒に病院に行ったりとかを主にやってた んですが、何でテントに住んでそこで一緒に生活して行政と闘うみたいなことを始めたかというと、さっきも言ったように生活保護は本来だったら生存権を担保 する制度ですから、誰でも困ってる人だったら受けられるものでなければいけないのに、とってもそうはなっていないし。たとえ生活保護申請してそれが通った ところで、受給してる人がずいぶん暮らし辛いっていう状況がありますよね。いろんなバッシングとかにもあいますし、今の竪川の現場もまさにそうなんですけ れども、野宿している時にあったつながりというのが断たれてしまって、急に老け込んじゃったりとか。場合によってはもう孤独死みたいなことになってたりと か、たくさんの人の相談にのってきたので、そんなことも少なくなかったんです。
そういうふうなことを考えると……生活保護を受けてもそんなに幸せな状況ではない。かといってじゃあ生活保護をやめてちゃんと仕事に就こうと思っても、 今の雇用の冷込みをみると、本当に目を覆うような状況がずっと続いていて。もうそれに対して福祉政策って本当にひどいんですよね。じゃあこの人達をどうす るのって。「仕事しろしろ」って言うけれど、その仕事がどこにあるのっていう状況で。結局それは企業任せになると思うんですけれども。でも、企業や資本家 がやることっていうのは、まあせいぜい雇用のパイを増やすことを口実に、非正規雇用とか不安定雇用を認めろみたいな、そういうことだと思うんですよね。
だから、こうどんどん社会は悪い方に悪い方にいってしまった時に、路上にいて闘うことの重要性って今すごく大切になってきてるんじゃないかなと思うんで すよ。20年もそこに暮らしていて、ほったらかしにされてきた人が、今さら生活保護なんか受けられるかっていうような、そういうまあ心意気というか気概み たいなものももちろんありますし。かといってもう本当にしんどいから生活保護を申請して医療につながってというようなことも全然否定しないし。そういった お手伝いを今もしています。
申請してもどうなるものでもないんだとしたら、もうそこに居座ってそこで生きることを追求するっていうのは、決してない選択じゃないと思うんですよね。 そこにはだって仲間がいて、ちゃんと仕事がある。Aさんだってちゃんと労働はしてる労働者ですから。あそこの竪川にいるみんなは本当に働き者です。そこに 仲間がいて仕事があるのに、なんでそれを捨てて生活保護にいかなければいけないのかっていう思いはどこかにあります。どこにも行き場がない人が、せめてそ こに居る権利というのは絶対に認められなければいけないし。それはおそらくヨーロッパなんかでは認められてるようなケースもたくさんあるんじゃないです か。そこらへんを僕ももっと勉強していきたいなあと思っています。
ですから、僕の運動のスタイルとしては、路上にいることはもう生存権の危機なんだからなにがなんでも生活保護につなげなきゃっていうものではなくなって きていて。これからも、どんどん仕事を失って生活保護もどんどんケタオチになっていく。そういう中で路上に居続けることを主張する意味というものを、今ま さに竪川の闘いというのが体現してるんじゃないかと思うんですね。ですからぜひ、その場所を、あそこがやられちゃう前に、みんなに見ておいて欲しい。決し て最後まであきらめない。けれど代執行はもうこのままだと確実にされちゃうんですね。その前にぜひ、みんなの話を聞いて欲しいなあと思います。
今、竪川では、Aさんが言いましたけれども、朝8時に寄り合いがあって、寄り合いが終わったら今日は見張りが誰とか、食事の当番が誰とかを決めます。そ れで、12時頃に昼飯を食べて、4時から4時半くらいに食事の準備を始めて。それから、ご飯を食べ、まあ食べ終わったら寄り合いを、夜の寄り合いをやると いう感じです。みんなで話し合って、支援者も野宿当事者も分け隔てなく意見を出しあってやっています。ですから9時から5時の間だったら、何かしらそこに はみなさんが見付けられるものがありますし、誰か話相手になる人もいますので、ぜひみなさん足を運んでください。

竪川の現場から――Aさんの話

司会 それでは質問などがありましたら、またそれでちょっと話を展開していきたいと思います。竪川のことだけに限らずに、映画の内容についてでも、あと現在の山谷の状況とか、そういうことでも構いません。今関係している方も来ていらっしゃいますので。はい。
B 自己紹介からしますと、三多摩で、立川で野宿者の支援活動をやってるBといいます。私は主に野宿者の人達を生活保護につなげたりと か、レストハウス、サンキューハウスというのを立ち上げてまして。そこでいろいろと支援活動をやっている者です。映画の「やられてらやりかえせ」の感想な んですけども、ものすごい労務支配の中、敵がよくわかるわけですね。相手がピンハネする手配師のヤクザだったり、また警察官、機動隊も闘う労働者に対して 弾圧する。そういった中で粘り強く労働者が闘っていくっていうね。今日深く思ったのは、在日朝鮮人や被差別部落の人達が歴史的な流れの中で、何でそういう ふうに下層につかざるをえないのか、そういった状況が作られてきたのか。そこに自分なんかはものすごくひかれるっていうか、興味をもちました。現在はって いうと、杭迫さんが言われたように日雇い労働者の求人も少なくなってる。山谷でもものすごく少なくなってる。80年、90年通じて、バブルの崩壊から始 まった流れの中で建築土木、ゼネコンもそうだけども、どんどん縮小されて求人が減り、アブレていく人達が増えていった。で、今の状況ですね。どういうこと が竪川でおこなわれているか。野宿をしている人達がどういう生活をしているか。当事者のAさんが来られているようですから言ってもらえますか。
A ウチの竪川の仲間、大体5人、6人くらいがアルミ缶と新聞集めで生計をたててます。あとは山谷での日雇いでどうにか、その日その日 を……。その中で代執行、これで二度目ですね。今年の2月にやられて。で、来月に入れば3枚目の通知が必ず来ます。オレが思うには、11月の半ばにはもう 代執行の予定じゃないかと。今このビラ配りましたね。11月の7日にデモをやりますから、ぜひ応援に来てください。その後どうなるかは来月になってみない とわかんないです。今は様子見です。もうみんなすごく疲れてるから、明日はゆっくり休もうってことで。明日の午前中はゆっくりしましょうっていうことを いってます。今は、それくらいかな。来週になったらウチらも考えることで。以上ですね。
B 竪川ではヤクザと対立しているっていうことは?
杭迫 対峙しているのは、江東区ですよね。
B 江東区、行政が差別をあおっているっていう。例えば、今日の映画の山谷ではマンモスポリだとか警察官が山谷の労働者をものすごく差別 的に扱う。そして、多くの商店もそういうふうに差別的に扱うじゃないですか、労働者を。竪川の行政も同じようなことをしてるんじゃないか。寝泊りしてい る、野宿している人に対して、人として認めてない。ようするに不法占拠をしている、どうしようもない人達なんだっていうふうに区民に対して告知していま す。で、そのあおりを受けて、少年達が夜な夜な襲撃をしたり、嫌がらせ、いたずらをしたりする。大人がやるような構図を子供がやるような構造が起きてい る。
A オレらが住んでいるところの反対側の学校、中学校があるんだけど、オレの目の前で5、6人がテントに火をワアーと投げてくるわけ。当 たる寸前ですよ、本当に。人権問題にするべえって言って、役所に行ってみんな声を合わせましたよ。それで、学校の校長と教育のあれに謝らせましたよ。それ が今の現状。
司会 Aさん、ありがとうございました。それから、杭迫さんの方からもう一言。

現地に行けない者のいろいろな闘い方

杭迫 中学生などの襲撃問題は、まさに警察や区の職員が当事者にやっていることを真似してるようなところがあって、これすごく問題です。 あと地域の人にどう受けとめられるかっていうと、必ずしも歓迎はされていないんだなあっていうのは思います。そういうのが子供達の襲撃にもつながるし。何 が辛いかっていうと、大体の人があんまり良く思っていないんですね。敏感なのは区議なんですよね。区議は、例えば人権を大事にするっていつも言ってる政党 でも、誰でも生きる権利があって、野宿を余儀なくされてる人にもちゃんと住む権利があるということを、そこで絶対に言わない。そこで投票する人達が野宿者 のことをよく思ってないから、当然その人達に受けのいいことを言うんですね。だから、陳情とか、訴えて何かを変えるっていう、そういう政治的なことは本当 に出来ないなあって感じますね。
C 映画のことなんですけど、最後のシーン、ちょっとわからなかったんですけど。手配師の人に謝らせたりしてる。あれは何でそうなったんですか。
「山谷」上映委員 一番最後の「ほら謝れ」みたいにやったやつね。あれは手配師なんだけどもヤクザですね。義人党というヤクザ。映画の中で出てきた西戸 組とは違うんですが。「賭場のなんとかだろう」みたいな会話があったと思うんですけども、完全なヤクザです。見えてないけれども耳が片っぽないですね。指 も切ってこっちもないですね。そういうヤクザがこの映画の中に何人か出てきてますが、そこで手配師を束ねてそこから更にピンハネして組織を作り始めたとい う。彼はその一人なんです。ですから、「オマエわかってるだろう」とありましたが、山谷の労働者はみんな顔を知ってますから。そいつだっていうのがわかっ てますから、「じゃあ謝れ」っていうふうになってたわけですね。
D すいません。その行政代執行が迫ってるってことなんですけども。今、Aさんや杭迫さんが現地にぜひ一度見に来てくださいって言われた んですけど。実際に行政代執行が迫ってきて、当日たぶん平日とかに来ると思うんです。で、その占拠闘争というか、オキュペイションしている人達が闘うって いう実力闘争もあると思うんです。その時の現地での行政の警備員や警察との闘い方、そのレベル、ハードルですね。なんて言うんだろうな、参加の仕方という か支援というか、いろいろな闘い方法があるんでしょうか。
杭迫 例えば、区に抗議のファックスとか電話をじゃんじゃんやるっていう。あとは、いつでもそうなんですけども、物資とかカンパはすごく助かりますよね。
A 小さなテントでも、一人でも入れるようなテントがあったら、それでいらないものがあったら山谷争議団に送ってください。すごく竪川では役にたちますから。よろしくお願いします。
杭迫 とにかく大事なのは情報発信。僕もツイッターとフェイスブックをやってます。影響力のある人が一言ツイートしてくれるだけで、もの すごいたくさんの人が来てくれる。今日のこの上映会も、たぶんそういうものを見て来てくれた人もいるんじゃないのかと思うんです。そういったことも本当に 力になります。あと現場で、例えば、今まさにそこでやられてるっていう時に、どうしていいかわかんないっていう人もいると思うんです。誰も見てないところ でやられるっていうのは本当にもう何と言うか、無力感を感じるところもあるので、せめて、そのやられるところを見てるだけでもいいです。こいつらはこうい うことをやるんだっていうのを刻んでいただけたら、それだけでもすごく大切なことなんじゃないかと思います。

篠田昌已と南條直子――「星空音楽会」と「山谷への回廊」

司会 そうですね、確かにそれは大きい。見てるだけでも、彼らはその弾圧の仕方を、たとえ少しかもしれませんが変えるかもしれません。それでは、他にありませんでしたら宣伝を二つ。
杭迫 今日の映画の音楽を手がけていた篠田昌已さん、サックス奏者です。この方は本当に早く1992年ですか、44歳で亡くなってるんで すねえ。で、その人を偲んで、篠田さんが組んでいたバンドの名前のコンポステラを店の名前にしたのが綾瀬にあるんですね。綾瀬から歩いて10分くらいなん ですけれども。ここで11月5日に篠田昌已さんと組んでいた、コンポステラというバンドで組んでいた関島さんというテューバの有名なプレーヤーがいらっ しゃいます。その関島岳郎さんが来てコンサートをやります。僕も絶対行こうと思ってるんですけれども。11月5日の7時にオープンで7時半から開演、 チャージ2,000円です。この「星空音楽会」はとてもいい、特別な夜になると思いますので、ぜひみなさん来てください。チラシも持って来ましたので、帰 りに持っていってください。それとあと、「週刊金曜日」の最新号に竪川のことを書きましたので、そんなに大きくじゃないですけれども、写真と文章が載って ますので、よかったら立ち読みしてください。よろしくお願いします。
織田 すいません、早く呑みたい方もいるかなと思うんですけれども、ひとつ宣伝をさせてください。この写真集(『山谷への回廊』)、5月 に出版をしたんです。実はこの「山谷」の映画が撮られているのと同時平行で、南條直子さんという女性のカメラマンがドヤに住んで、ずっとこの時期の山谷を 撮っていたんですね。本の中に山岡さんとかが写っていますけれど、ちょうどこの南條直子さんが撮っていて。で、その頃の写真を30年経って私がまとめたも のです。8月にイラクで山本美香さんが亡くなりましたが、一緒にやっていたジャパンプレスの佐藤さんという方、その人とちょうど同時期にアフガニスタンに 入っていた女性です。実は、彼女は1988年にアフガニスタンで地雷を踏んで、33歳で亡くなっています。その彼女が6年間撮っていた山谷の写真です。ほ とんど世には出ていないものなので、大変貴重な写真がこの中に入っています。今日の映画を観にこられた方なんかは、すごく興味をもって写真を見ていただけ るかなと思うので。出口のほうに何冊か置いてありますので、興味ある方はぜひ。この後の交流会でもいっぱい話しをしたいと思いますので、よろしくお願いし ます。2,500円です。写真集としては大変安いです、はい。
司会 今日はどうもありがとうございました。ただ、まだ時間があります。といいますのは、このあと打ち上げを用意してるんで。まだちょっと聞きたりない、話たりないなあという人で、時間のある方は隣の部屋にお移りください。お酒も用意してあります。
[2012/10/27 plan-B 責任編集・山谷制作上映委員会]

2012年10月27日

plan B定期上映会

講演●野宿者コミューン! 江東区竪川で起きていること
杭迫隆太(竪川を支える会)

江東区・竪川河川敷公園において、テントで暮らす野宿者たちと江東区との間で、排除をめぐる攻防が2006年以来6年も続いている。
江東区は「水辺と緑の町」を標榜し、「観光名所」としての再開発に乗り出し、長年この地に住む野宿者たちの追い出しに乗り出した。こうしたなかで、山谷と竪川の現場を結んで排除に抗する闘いが始まり、江東区との話し合いも数十回を数えたが、今年2月には行政代執行が強行され、支援者1人が逮捕・起訴された。さらに、テント集住エリアにフェンスが張られ、通行を禁止、中学生による襲撃(投石)という事態も起きている。スカイツリー開業に伴う東部圏の再開発と並行して、隅田川や荒川など、野宿者の拠点が危機にさらされている状況もある(山谷周辺の風景も変容)。
竪川は今、どうなっているのか、都市再編の中の野宿者コミューンの現状を報告し、野宿者運動の展望をともに考えたい。

アフガンで夭折した ー 南條直子写真集『山谷への回廊』出版によせて

織田忍(『山谷への回廊』編・著者)

                            聞き手 池内文平

 池内 今日は雨の中をどうもありがとうございます。映画に関連して、いつもこのPlan-Bでは上映が終わった後にゲストをお招きして、 短い時間ですけども話をしていただくという時間を設けてます。今日はここにありますけれど、南條直子さんという人の写真や文章を収めた『山谷への回廊』と いう本に関してです。この本を作られた織田忍さんをお招きしています。
南條さんは1970年代の終わりから80年代にかけて、山谷の情景を写真に撮っています。その間、インドへ行ったりしていますが、1988年に取材中の アフガニスタンで地雷を踏んで亡くなってしまいます。ちょうどこの本に南條さんのクロニクルが載っているので、それに沿って簡単に南條直子さんのことを紹 介しておきましょう。
南條さんは1955年6月12日に岡山市で生まれています。73年に高校を中退して、77年に上京。79年から写真学校に通って、山谷での撮影を始めま す。79年から83年にかけてですから、山谷では越冬闘争が再開され、6・9闘争の会~山谷争議団~日雇全恊の結成と続き、同時に西戸組・皇誠会が襲って 来るといった、映画『山谷─やられたらやりかえせ』の背景となった時期ですね。
84年にインドへ行き、そこからパキスタンへ渡ってアフガニスタンでの戦争を肌で感じます。そして、翌85年にアフガニスタンへと向かう。87年には、 その成果を写真展で発表しますが、3回目のアフガニスタン取材のとき、88年10月1日、地雷を踏んで亡くなってしまいます。享年は33歳……。
それから、もう二十数年がたちますが、ようやくにしてと言いますか、こうして、この本のサブタイトル通り「写真家・南條直子の記憶」として一冊の本が上梓されました。──えっと、いつ出たんでしたっけ?
織田 出たのは5月です。
池内 5月ですか(奥付は2012年3月11日)。──紹介が遅れました。この本を編集され、また文章もお書きになっている織田忍さんです。

─南條直子の「手紙」─

織田 みなさん今晩は、ライターの織田と申します。もともと情報誌や児童書などの企画、執筆、編集をフリーでしていたのですが、今回4年 ほどの月日をかけ山谷の写真集を自費出版しました。こういう場で話す機会はあまりないので何から触れようか戸惑っているんですが、まずはこの本を出すまで の経緯を簡単に。
10年以上前になりますが、当時勤めていた出版社で編集していた雑誌に南條さんを取り上げる機会があったんですね。ですから以前から彼女の存在は知って いました。ただその頃は「地雷を踏んで亡くなったカメラマン」という程度の認識しかなかったのですが、偶然久しぶりに「南條直子」の名前を目にする機会を 得て、何だか急に興味がわいたんです。彼女の死からちょうど20年目のことで、胸がざわつくような運命的なものを感じた。それで少しずつ調べていくうちに 彼女について書いている人が実は誰もいないことを知りました。私自身、ルポを一本書いてみたいという気持ちがあったので、では自分が……と取材を始めたの がそもそものきっかけです。南條さんの写真のお師匠さんは原発労働者を長く追い続けている樋口健二さんです。ですからまずは樋口さんにお話を伺いました。 その取材の折、「南條は山谷にずっと住んでたんだよ」ってことを教えていただいて。そこから“山谷”という街に足を踏み入れていくことになります。
とはいえ当初は南條さんと山谷の接点がつかめず、最初に来たのがここ「Plan-B」でした。正直、『山谷』の映画を観ても半分位わからない状態でした ね。観終わった後に池内さんをはじめ上映委員の方々から当時のお話を聞き、山谷との関わりを深めていったという感じです。
池内 ああ、そうでしたね。こっち側ではなく、客席に座って映画をご覧になってた。──それ以前は南條直子の写真というか、山谷や寄せ場の事はご存じなかった?
織田 詳しいことはほとんど知らなかったですね。
池内 それで、きっかけと言いますか、南條さんの写真とそれとまあ樋口健二さんにお会いになり、ここに映画を観に来る。何かそういう興味の持ち方っていうか、どういう興味の持ち方をされたんですか。
織田 彼女のご実家である岡山に初めて訪れた際、お母様から手紙を見せていただいたんです。分厚い辞書一冊分ほどある手紙の束で、それは 南條さんが家族に宛てたものでした。高校を中退して数年後、23歳で上京するわけですが、その頃から亡くなる直前までの手紙です。子どもの頃から文章を書 くのが得意だったということですが、そこに綴られている言葉を目にして私、やられたと思いました。何というか、暗闇のなか鈍器で殴られるような衝撃があり ましたね。心にずしりと重たいものが乗っかるような言葉……。写真集の中にも収録しましたが、その言葉にシンパシーを感じたんです。彼女が日々、世間から 受け取る「イヤな感覚」。たぶんそれはジェンダーの問題とか差別の問題とかそういうことが潜んでいるんだと思うんですが、その辺のことを独特な言い回しで 書き綴っている。強く思いましたよね、彼女が何を求めてカメラを手にしていたのか知りたいって。それで徐々にはまっていっていきました。

【本書からの引用──上映委】
人間対人間としての関係を形成しうるような写真、そのような写真を撮れるようになることこそ写真家として「モノ」になるということであると思います。
思想内容のない、人間的感性のこもらない、単なるカメラ好きの技術は所詮、カメラという機材の奴隷としての技術にすぎません。いくらうまくても、それはカメラが撮ったのであって、人間が撮ったものではないのです。

(南條直子 家族への手紙より)

池内 確かにあの南條さんの手紙、僕は全部読んだわけではないんですけど、この本にも収録されている手紙も、かなりストレートな感情をそ のまま出しています。しかも家族宛なんですね。友達とかね、そういうものじゃなくて家族にちゃんと「私はこういうふうに生きていきたいんだ」「これをやら ないともうダメになってしまうんだ」っていうような事を縷々書いてますよねえ。それが「写真」という、かなり直接的な表現に結びついていったと思うんです けれども。それに織田さんが共振したと言いますか、のめり込んだ。それはどういう感覚だったのでしょうか?
また、南條直子のそういう心情と、もうひとつ山谷/寄せ場という彼女が対象とした現場っていうものに対して、南條直子をひとつのステップにして織田さんはアプローチしてきたと思うんですけども、その辺はどんな感じでしたか。

─彼女の見た山谷、そしていま─

織田 そうですね、もともと山谷に特別な思い入れがあったというわけではなく、スタートは純粋に南條直子という一人の女性を追っていまし た。その取材の過程で山谷にも進んでいくわけです。彼女はアフガニスタンの写真で有名になっていて、本も1冊(『戦士たちの貌』径書房/88年)──これ は彼女が亡くなった後に出てるものなんですけど、書いています。ただ取材する中で、実はこの人にとって山谷という場所は非常に大きなポジションを占めてい るんだなと分かってきた。というのも短い写真家人生のなかで、山谷に6年程住んでいる。今もそのアパートはマンションの隣にポツンと一軒、奇跡的に残され ていますが、南條さんがいた時代というのは今の山谷とは随分異なります。映画の中の風景そのまま、数千人の労働者たちが仕事を求め早朝から路上に立ち、活 気があった。悪質業者やヤクザとのぶつかり合い、鬱屈したエネルギーがうねっていた時代で。そんな男たちの街に20代の若い女性が一人で暮らし、さらに写 真を撮っていたというのは想像しがたいことですが、それでも彼女は山谷、寿、釜ヶ崎といった寄せ場に惹かれていった。彼女自身、高校を中退し世間からド ロップアウトしてしまった経験があり、世間が上へ上へとのびていくのに逆行するように下へ下へと底辺に向かっていく。まるで自らを追いこむような生き方を 選択していくわけです。そういった生き方を支えるのに、もしかしたらカメラが必要だったのかもしれませんね。ただし、カメラを向ける行為というのは実はと てもコワイことですよね。カメラを構える側は無意識にファインダーをのぞくのかもしれないけれど、レンズを向けられた側、被写体となる者にとっては攻撃的 で挑発的な行為だと思います。また、写真を撮る側は常に自分の立ち位置を問われます。さらに責任も。写真を見る人に対してと、写真を撮られる人に対して、 二つの責任がある。だからこそ南條さんは苦しんだと思うんです。写真で食っていくんだという堅牢な想いを抱く一方で、撮り切れないことへの落胆。割り切っ て「商品化」できる人だったら良かったのかもしれませんが、それができない不器用さがあった。自分の思い通りにいかず煩悶としてる様子が、家族へ宛てた手 紙や撮影された作品からうかがい知れます。
池内 カメラの比喩でいえば、南條直子というレンズを通した山谷ということになるんでしょうか。いま、南條さんが実際に見た山谷と現在の 山谷は違ってきているとおっしゃいましたね。この映画はその南條さんが見ていた山谷なんですよね。それが現在ではまた違ってきている。南條直子の撮った写 真、あるいはこの映画で撮られている情景、そして現在ということで見た場合、織田さん自身では、その辺はどう感じられますか?
織田 はい。たまにぶらっと山谷の街を歩くことがあるんですけど、現在の山谷は南條さんの写真や映画の風景とは大分違ってきていますね。 私が取材を始めた頃からみてもどんどん街の様子が変わってきています。マンションが建ち、ドヤ(簡易宿泊所)がバックパッカー向けの安宿になり、街全体が “フツーの街”になっている。あれだけいた労働者たちは一体、どこへ行ってしまったのだろう。そんな風に思うぐらい人がいないという印象がありますね。商 店街はシャッターが降りている店が多いですし、どこかひっそりとしている。早朝5時前に街の様子を見るため(泪橋のある)通りの方にも行った事がありま す。何人かが車に乗り込み仕事に行くという情景を目にしましたが、習慣的に道路に集まっているという程度で人の姿はまばらでした。
確かに昔のような活気は消えつつありますが、山谷という街自体に興味を覚えたのは、人と人との関係性なんですね。街自体が人を丸ごと受け止めるみたいな 雰囲気がある。当たり前ですが人間は人と人の、その網の目の中でみんな生きてると思います。山谷はそういった人とのつながり、最後のネットワークが存在す る場所だと思っていて。今はそれが分断されつつあるわけですが、でもまだわずかに山谷っていう場所には残っている。その部分に魅力を感じます。特に映画に あるような街の雰囲気っていうのは今の若い人が見たら、ちょっと羨ましいくらい濃い人間関係ですよね。南條さんのいた山谷時代について知れば知るほど、人 との距離感が近くて濃いなあと思いますね。
池内 確かにねえ。過去は問わない、つまり現在だけの付き合いなんだけれども、それで1対1になれる。いわゆる過去の実績とか肩書きと か、そういうものとは全く無縁に現在の1人と1人の付き合いが何千通りも出来るわけですから、それは常に更新され、緊張を孕んだものになるでしょう。また 労働者の多くは、家族なり郷里なりのコミュニティーを一旦離れているので、それへの郷愁もあるかもしれない。逆に言えば、そういう単身者の男性だけだった からこそ、今のように人がいなくなったとも言えるでしょう。つまり横浜寿町あるいは大阪釜ヶ崎では、家族持ちの日雇い達がたくさんいて、そういうコミュニ ティーの作り方が出来ていた。ところが山谷は単身、男性のみの世界だったので、そういう意味ではコミニュケーションの仕方が単純になる。つまり仕事のこと に一元化されてしまう。たとえば、仕事の発注のされ方が携帯電話とかそういう物が介入する事によってすぐにバラバラにされてしまう。今までは朝の寄せ場に 手配師が来て「今日はここ行ってくれ」「明日ここ行ってくれ」っていう、顔を見てやってたのが、携帯電話などを皆が持つようになって「じゃあ明日ここ ね」っていう時には、朝の寄せ場に集まる必要が全く無くなってしまうという。しかもそこに生活拠点がないならば、その場っていうのは容易にバラバラにされ てしまう──というのが現在だと思うんですけれども。
織田 そうですねえ。
池内 まあ単に携帯電話だけの問題でもありませんけれども。
織田 寄せ場自体が社会化するというか、人々があちこちに分散しその地が寄せ場化しているような気がします。ひとつのコミュニティが壊されていくような印象です。
池内 今の山谷のドヤは、外国、主にヨーロッパ・アメリカのバックパッカー向けのゲストハウスみたいになってるのが多くあるみたいです。 僕らはこないだ韓国の劇団と一緒に芝居をやったんですけど、韓国の役者たちには山谷のドヤに泊まってもらいました。まあそんな感じになってます。それはド ヤ街のドヤ主達が生き延びる方法だったんだろうけれども、確実にそこに人はいるわけなんですよね。山谷の労働者達の平均年令は幾つかわかんないですけど、 彼らは山谷やその周辺にいて生活している。しかしドヤに泊まれない。ドヤ主から見れば泊まる人間がいないからゲストハウスにしちゃうんだけども、実際はた くさん泊まるべき人間はいる。その人達は別の所に分散したり、あるいは路上で寝たり公園で寝たり駅で寝たりという事が現状だと思うんですよね。いっぽう、 さっきの携帯電話の話ではありませんが、仕事の手配が拡散して小さな寄せ場、小さな寄り場が全国にいっぱい出来てきたっていうのが現状ではないかと僕は思 うんですけども。

─奪われていく、人としての尊厳─

織田 本当にその通りで。映画に映っていた労働者らは、全盛期には1万人いたとも言われています。じゃあここにいた人達はどこに行ったん だろうって考えてしまう。もちろん亡くなった方も多くいるし、今回の写真集に写ってる方でも亡くなってる方が本当に多くてやり切れませんが、90年代から ドヤにすら暮らす事ができず、日雇い労働者として働いていた人々が野宿のほうに流れていったという現実があります。それぞれが「個」になりバラバラにな る。それでも生きるために別の地にコミュニティを作りますよね。でもまたそれが権力によって分散させられていってしまう。新宿西口の段ボールハウスや、最 近では渋谷なんかもそうですし、それが現状だと思います。そう考えると結局、問題の根っこは何も変わっていない。差別の構造はそのままだし、むしろ事態は ひどくなっているような気がします。
今日の昼間、竪川という場所に──亀戸の駅から5分位にある“五の橋”という場所に──行ってきました。そこで野宿している方たちは、早朝からアルミ缶 集めの仕事をし、仲間と助けあいながら凛とした生活をしているわけですが、今どんどん行き場を奪われているんですね。山谷からもスカイツリーがきれいに見 えますが、その建設に際し「街の浄化」目的で野宿している人たちを排除していく。それまで放置していたのに、邪魔だからさあどいてって。生活の場を、人と して尊厳を持ち生きていく権利みたいなものもどんどん奪われている。そう考えるとこの映画の時代なんかは、まだ良かったのかなあと思えてくる。螺旋状にど んどん息詰まっている感じがしますよね。
池内 そうですねえ。日雇い労働者の仕事っていうのは、山谷の場合は建設現場が多いと思うんですけど、いずれにせよ労働集約的な現場です よね。ある期間内にある程度の人数が必要となるといった。今の原子力発電所内の下請け仕事もそうですね。これは増えることはあってもまず減ることはない。 つまりそれだけの人は必要で、また現実に人はいるんです。それが見えなくなってきている。
山谷のドヤから締め出された人たちが都内の駅や公園で生活したり、寄せ場を経由しない人たちの野宿も増えているにもかかわらず、それが環境美化の名目で さらに排除されたり、あるいは囲い込まれたりして、生存権はおろか存在そのものが掻き消されたりしています。また、さっき言った携帯電話での手配など、就 労窓口の変化もあると思います。それに加えて派遣法ですね。ヤクザの利権が規制緩和されて、広く浅く寄せ場が拡散してきたように思えます。バラバラにされ た個人の身体の中に寄せ場は移動してきたと言えるかもしれない。殊に若い人たちにとっては「寄せ場」とははなからそういうものであるかもしれませんね。
そこでどうでしょう。今回の取材などで若い人たちと付き合って、何かそういう話などをしたことはありますか?
織田 今回の取材に際してはいわゆる“活動家”と呼ばれてた方達が多かったので、なかなか若い方と付き合うという機会は少なかったんです が、山谷の炊き出しなどを中心に活動している方たちと写真集を通して新しい交流ができましたね。80年代の寄せ場というのは、対立の構造がはっきりしてい ました。まだ仕事そのものがありましたからね。しかし今は仕事そのものがない。そして敵がどこにいるのか分からない。排除の流れは一層強まっていると思い ますし、そういったことにとても敏感な若者たちもまた増えているような気がします。まだ出版して1カ月半ですが、置いてもらっている本屋さんやショップの 方とお話をすると、「若い人のほうがむしろ興味を持ってくれますよ」と。写真を見てびっくりするようなんですね「え、こんな時代があったの」って。しかも まだ20年そこそこの間でこれだけ街の様子が変遷していることに興味をしめしてくれているようです。

─時代を超えた「対話」─

池内 じゃ、写真の話をしましょう。南條直子の写真を見てどんな感じでしたか。南條さんの寄せ場の写真を最初ご覧になった時に、どうお考えになりましたか?
織田 そうですねえ、私は正直、うらやましいなあと思いました。だってこれだけ怒りを怒りとして表出できる時代があったのか、と思ったの で。「俺たちだってやるときゃやるんだ!」そんな表情してるじゃないですか、南條さんの写真に写っている労働者の顔って。今の日本のどこにこんな風景があ るかなあと思います。逆に言えば、今の日本の中ではこういう写真はもう撮れないでしょうね。撮れないからジャーナリズムに関わる仕事をしている方は海外に 行かれるのかなあと。
怒りって、否定的なイメージがあるかもしれませんが、人が人として生きていくのに重要な感情のひとつだと思うんです。それを素直に出し切れる場所がある というのは、実はすごいことなんじゃないかと。今は怒りを出す場所もない。みんな自分の内に込め、その澱がどんどん溜まっていく。そのうち腐っちゃいます よね。怒りは時に生きるエネルギーになります。無気力、無関心は、怒ることすらできずに諦めてしまった人たちが自己防衛のために抱く感情のような気がして なりません。だからこの写真を見て、私たちは理不尽なことや、不当なことがあったらもっと怒っていいんだって。たとえば原発によって故郷を奪われた人たち も、自分たちを押しつぶそうとする力に対してもっと怒っていいんだと思うんです。
池内 南條さんはもう亡くなっているので、その後のことは想像で語るしかないんですが、──アフガンに行って、悩みながらもう1回山谷に 戻る。それでアフガンの本を作って、またアフガン行く。それで、もう1回帰ってきたらまた山谷なり寄せ場に足を向けたとぼくは思うんですよね。そういう一 つの目線(めせん)といいますか、自分の中での一つの「つながり」というようなものですね。文章も、さっき言いましたけども家族に対する手紙の中でスト レートに自分の感情をちゃんと書く、それで表現としてもストレートなものを選んでいく。で、興味があったらアフガニスタンまで飛んで行くという一つのパッ ションと言いますか、情熱と言うかそういうものを持っていると、やっぱり一つの表現というのは力を持つという事ですよね。一般的にいわれる技巧の問題では 全く無くて、一つの表現の仕方、あるいは表現に向かう姿勢といいますか。そういう意味で、まあ月並みな言い方ですが、僕は南條直子っていうのは一つの作品 みたいな、それ自体が一つの時代の作品みたいな感じがしているんですけども。──時間もあまりないので、最後に一言どうぞ。
織田 南條直子がひとつの時代の作品という言葉。それに近いものは感じますね。彼女はもっと世間に周知されていい人物だと思っています。 生きていたら間違いなく日本のジャーナリズムを背負うひとりになったと思いますし、物書きとしての才能を生かしていたかもしれない。地雷を踏んで……とい う部分だけがクローズアップされがちですが、やはり彼女の遺した仕事をしっかり評価したいと思っています。実は彼女の山谷写真というのは、当時あまり評価 されていなかったんですね。技術力、技巧的な問題ですよね。
もともと器用な人ではなかったし、周囲からは“写真になっていない”といわれていたようです。しかし映画もそうですが、写真もまた生きものなんだなと思 います。時間の経過とともに、南條さんの写真は見事に化けたと思いますね。記録としてももちろん貴重ですし、見る側が自分の立ち位置や生き方そのものを問 われる。そういう念とか、情が込められた力のある写真だなと思います。
今回あえて自費出版という選択に踏み切ったのは、売れる売れないは度外視。心から作りたいものを形にしたかったし、本当に興味を持った方の手に渡ればい いなと思っていたからです。それが思いのほかいろいろな世代の方たちから反響があり、嬉しい悲鳴を上げています。南條さんの撮影した山谷の写真と、二十年 以上の月日を経て私が見つめた南條直子考。それは時代を超えた山谷を介した「対話」であると感じています。恐らくこういった作品は珍しいのかなあと。興味 を持たれた方はぜひ、開いて頂けたら嬉しいなと思います。
池内 どうもありがとう。何かご質問がありましたら、この場でもよろしいですし、隣に同じ位のスペースがありまして。いつもこの場が終 わった後には、まあお酒とかお茶とか用意してありますので、織田さんや僕ら上映委に対する、質問とかお話とかをしてますので、もしお時間のある方はお残り 下さい。では、この場はお開きにします。どうもありがとうございました。
織田 ありがとうございました。
【2012年7月7日 plan-B】

*その後、本書は増刷されました。

2012年5月12日

plan B定期上映会

講演●光州からソウルそして東京へ――テント芝居『野火』公演  
池内文平(『野火』作・演出)

2012年4月6・7日韓国光州、4月11・12日ソウル、そして6月23・24日東京。日韓のメンバーとともに転戦の『野火』について作・演出の池内文平に語ってもらう。
出演○ばらちづこ・おかめ・森美音子・瓜啓史・リューセイオー龍・桜井大造・疫蝿以蔵、そして韓国光州のシンミョンの役者たち。

ウォール街を占拠せよ

―オキュパイ運動について私の見てきた二、三のこと
小田原 琳 
(大学非常勤講師)

小田原です。どうぞよろしくお願いいたします。今、ご紹介いただきましたように、私はもともとはイタリアの歴史を研究しています。それが、去年の10月 に偶然が重なってニューヨークに一週間程行く機会を得ました。その主たる目的は、オキュパイ・ウォールストリート(OWS)を見て来ることでした。
OWSの経緯のなかで、2011年10月というのはごく初期にあたります。その後、占拠運動は非常に広がっていきましたし、またニューヨークの占拠運動 そのものもずいぶん姿が変わってきたということもあって、私が自分の目で見たことは本当にごく一部です。今のウォールストリートや全米の占拠運動の状況の 大きい転換点を目撃したとか、そういうことはありません。ですから今日は、私たちが去年の三月に震災を経験して、そのあと皆さんの中にもデモなどに行かれ ている方がいらっしゃると思いますが、主として原発の問題に関してこの社会が大きく動いている、そういう状況を踏まえたうえで、占拠運動とはどういうもの なのかを、私なりの観点からお話ししたいと思います。

OWS以前

まず、OWSを私たちがどのように見たか、ということを振り返ってみますと、2011年は本当に世界が動いていた時でした。2010年の終わりくらいか ら、いわゆる「アラブの春」や、今も続いているギリシャやスペインなどの欧州の経済危機と緊縮財政をめぐって大規模な抗議運動が起こっていた。そういうも のを見ていた時に、私たちは震災を体験したわけです。自分たち自身も、何か根底から大きく変えられるような、そういう経験をした。そして、2011年4月 に高円寺で1万5000人が集まる「原発やめろデモ」が行われたのを皮切りに、9月には明治公園で6万人集会がありました。ちょうどその頃、ウォールスト リートの占拠がはじまりました。私たち自身が、何かを抗議する群衆のなかに身を置くという経験をしながらこのウォールストリートの占拠を見たということ は、それ以前とは、そんな世界を見ていなかった時とは全然違う見方をしたと思います。少なくとも私はそうでした。私はイタリアが専門ですから、以前はアメ リカにあまり興味がありませんでした。「悪の帝国」みたいなイメージしか持っていなかった。でもそこに住んでいる人々が、「私たちは99パーセントだ」と いうあの有名なスローガンを叫んで動きだしている。これはどういうことなんだろう。そう思いながらウォールストリートに行きました。

経過

OWSが占拠していたズコッティ公園は、マンハッタンの南端にあります。もっと南には、グラウンド・ゼロがあって、そことウォールストリートの間にあるのがズコッティ公園で、そういう意味ではすごく象徴的な場所です。「オキュパイ・ウォールストリート」(http://occupywallst.org/) という公式サイトがあるので、そこで見られる写真を見ながらご説明します。これが占拠しているズコッティ公園というところです。これは昼間で(写真1)、 夜になるとこんな感じにテントを張って寝ていました(写真2)。占拠運動が始まったのが2011年9月17日と言われています。それ以前に、夏頃から、ど ういうふうに占拠したらいいかという会議があったそうです。ニューヨークに行った時に、占拠運動に最初から中心的にかかわってこられた何人かの方とお話し する機会があってうかがったのですが、夏ぐらいから、どういう戦術でいくかとか、運動の中で人々の関係をどういうふうに作っていくかということが、本当に 激しく議論されたということです。最初は、従来型の、例えば伝統的な労働組合など、もともと運動体を持っているような団体が中心になって、そこの人たちを 動員するような形で占拠をやろうと考えていたらしいです。ただ、それではおもしろくないというか、そういうやり方じゃないほうがいいんじゃないかと思う人 たちが、そこからはずれてきて、毎日夜7時にジェネラル・アセンブリー(集会)をやりはじめるようになったということです。それが8月頃です。そして9月 になって、こういうふうに実際に占拠するようになりました。

zuccotipark1 写真1:昼間のズコッティ公園

zuccotipark 写真2:夜のズコッティ公園

写真のように、夜になるとみんなテントを張って寝ています。昼間はたたまれています。私が行ったのは10月の20日前後でしたが、ちょうどこんな感じで した。だんだん寒くなってきて雨も降ってきていましたが、それでも300から400人くらいは毎晩いたと思います。昼間は1,000から2,000人、お 休みの日だと増えるという感じでした。そのように、みんながずっとここにいるではなくて、仕事をして、夜にまたここに来るという人も多かったです。そんな 形で進んでいました。
このズコッティ公園の占拠は、11月15日に大規模な強制排除があって終わってしまいます。現在は、とにかくニューヨークは寒いということもあって、こ こに泊まっている人はいません。日中集まってきて、いろいろな集会をしたり、ジェネラル・アセンブリーをしたりして、夜は帰るというような感じになってい ます。
OWSとズコッティ公園は占拠運動の中心だというふうに見られるようになって、メディアもたくさん来るようになりましたが、現在は、運動は全米各地に広 がっています。最初はズコッティ公園からニューヨークの各地区に広がり、その後、全米に瞬く間に広がっていって、今では2,000くらいあると聞いていま す。いろいろな地域に、いろいろな形で広がっていったわけですが、そうなっていくと、いろいろ課題が出てきました。
有名な「99パーセント」というスローガンがありますけれども、実際に見に行ってすごく印象的だったのは、みんな個々バラバラなことを主張していて、か といってその訴えを是が非でも解決して、何かを勝ちとらなきゃいけないという感じではないんです。それが、この運動の弱さだと、去年の終わり頃にはアメリ カでも日本のメディアでも言われていましたよね。具体的な獲得目標がないということが弱さだと。実際、全米で厳しい弾圧が続いています。例えば、これは 10月に、ブルックリンブリッジで700人が逮捕された時の写真です(写真3)。マンハッタンからブルックリンに渡る橋を行進している時に、逮捕されたも のです。その他にも、これは有名な写真なので皆さんもご覧なったことがあるかもしれませんが、座り込みをしている学生に対して警官がこの赤いスプレー、 ペッパースプレー(唐辛子のスプレー)を、顔色一つ変えずにかけている写真です(写真4)。まったく抵抗していないのに。うしろにいるメディア関係の人た ちも、さすがに非常に驚いた顔をして見ていますね。これはかなり衝撃的な事件でしたが、このように弾圧もどんどん厳しくなっています。しかしそれにもかか わらず、どんどん運動も全米に広がっていっています。これはどういうことなのか。本当に「弱い運動」なのでしょうか?

brooklynbridge 写真3:ブルックリンブリッジでの弾圧

pepperspray 写真4:ペッパースプレーをかける警官

 

だれの運動か

各地に運動が広がるにつれて地域ごとの課題が出てくるので、その取り組みが具体化しているところもありました。この具体的な取り組みについては、また後 でお話ししますが、そこからもわかるように、本当にいろいろな人たちが占拠運動には参加しています。ただ、OWSに関していえば、最初の核になっていた人 たちのなかには、古くから労働運動などをやっている人たちとともに、アナキストのグループがいたと言われています。アナキストといわれてもどういうものな のか、私たちにはあまりイメージがありませんが、かんたんに言えば、既存の制度やさまざまな組織によらない形で、人間と人間の合意にもとづく自由な社会を つくっていこうとする人たちと言えばいいかもしれません。そういう人たちから、従来型とは違う、ジェネラル・アセンブリーというやり方が出てきたそうで す。とはいえ、中心になっているグループがあるわけでもなくて、本当に雑多な人たちが集まってやっているのですが、しかし運動のなかで守らなきゃいけない こととして掲げていることが二つあります。一つは直接民主主義ということ、もう一つは非暴力ということです。これは先ほどのサイトにもはっきりと書かれて います。ただ、直接民主主義と言ったって、それをどうやって実践するんだという話が出てくるわけですよね。それがジェネラル・アセンブリーのやり方や、公 園のなかの共同体づくりになっていきます。公園のなかには、無料のキッチンがあって、寄付された食べ物が無料で配布されます。そのほか図書館や、これも寄 付された衣類を無料でもらえるようなコーナーなどがつくられていました。今は占拠が終わってしまったのでなくなってしまいましたが。そういう、無償でいろ いろなものを交換できたり助け合ったりできるような、理想に近い共同体がつくられていきました。

直接民主主義

これは、ジェネラル・アセンブリーの映像です(「ウォール街占拠2011」http://www.youtube.com/watch?v=INtHFqv5Y7M&feature=youtu.be)。 一人が話したことをみんなで繰り返しています。ニューヨークでは、公園など公共の場所で拡声器を使うことができません。ですから、ジェネラル・アセンブ リーなど、その公園にいる、数百から千人くらいの人が一つの会議をするような時に、会話を伝達する手段がないんですね。それで編み出されたのが、この、 ヒューマンマイクというものです。一人が発言をする。そうしたら、その周りにいるみんなが同じ言葉を発言します。そうやって声を大きくしてみんなに届かせ る。これは、みんなに届かせると同時に、その言葉そのものを共有するという効果があります。これは誰が発言してもかまいません。発言したい人がまず「マイ クチェック」と言うと、周りのみんなが必ず答えるという形でやっています。そういうふうにして、直接、人と人が顔を合わせ討議をする場を作っていく。そう いう方法もいろいろ考えていく。
写真がないのですが、いろいろな種類の「ハンドサイン」というのがあって、今の意見に賛成だとか反対だとか、ちょっと待ってとか、そういうことも全部手 のサインで示せるようにして、数百人という規模でも直接討議できるような環境を作っていく。そういう努力をしています。拡声器を使える地域では拡声器を 使ってジェネラル・アセンブリーを行っていますが、でも言葉を繰り返す、そしてその言葉や言いたいことを共有するというやり方は、各地の占拠運動の中で広 く用いられているようです。それが彼らの直接民主主義を支える一つのやり方になっているということです。彼らは、そのことにはすごく自信を持っていまし た。これは自分たちが編み出した、直接民主主義のための非常にいい手法だと。

〈暴力〉

もうひとつのモットーは「非暴力」です。あえてこう掲げるのは、裏返せば、こうした集合的な運動ですので、暴力という問題が必ず出てくるからとも言えるでしょう。ですから、OWSをとりまく〈暴力〉の問題について、お話ししたいと思います。
第一に注意しなければならないことは、写真でお見せしましたように、警察から暴力をふるわれるということです。私が行った頃は、公園でお となしく寝ている分には、警察が介入することはありませんでした。ただ、占拠運動というのは、公共の場所を占拠する以外に、毎日のように様々な問題につい てデモをします。例えば「今日は金融資本主義の象徴である、非常にあくどいメガバンクのまわりをデモしよう」というような感じでデモをします。そうやって 公園から出ていくと、すごく厳しい弾圧を受けます。多分、この運動では、全米で延べで万を越えるような人びとが逮捕されていると思います。そういう警察の 暴力というものがあることを、まずきちんと認識しなければなりません。弾圧の際には、どんなにこちらが非暴力を掲げていても、日本でもそうですが、タコ殴 りにされてしまいます。さらに、それ以前にすでに非常に多くの人びとが、「我々は99パーセントだ」という表現にも表れているように、仕事を失ったり、家 を失ったりして、資本主義そのものによって傷つけられています。しかし占拠運動に参加している、あるいは占拠運動にシンパシーを持っている人たちが暴力に 傷つけられているということを、メディアが語ることはありません。メディアに出てくるのは、デモ隊がどういうことを、どんな乱暴なことをしたかという話ば かりです。
その中で、特にデモや集会などで、その暴力部隊みたいに言われるのが「ブラック・ブロック」と呼ばれるグループです。これは、何かイデオロギー的に共通 性がある特定の人たちのグループというのではなくて、そういう一群を、戦術的にあえてデモや集会の中につくっています。多くの場合フードのついた黒い服を 着て、黒いスカーフなどで顔を覆ったりしているので、ブラック・ブロックと呼ばれています。なぜそういうグループがあえてつくられるのか、その戦略的な意 味はなにか。彼らが実際に何をするかというと、人に対する攻撃はしません。物を壊すことはあります。つまり資本主義的な物質を壊すということを通じて、資 本主義に対する抗議を表明する。それと、先ほどお話ししたように、警察の暴力が激しいので、場合によってはそうした人的な暴力にも対抗できるのだというこ とを、姿によって示しているという意味があります。実際には圧倒的な武力の差がありますから、ほとんど抵抗はできません。黒い服を着て目立たせているとい うことからも、ブラック・ブロックが象徴的な意味でつくられていることがわかります。しかし、見た目が恐いということもあって、警察からも狙い撃ちにされ るし、また運動の中からも「お前らのようなのがいるから、デモに対する弾圧が厳しくなるんだ」というような言い方が出てきてしまいます。ブラック・ブロッ クは「占拠運動の癌」だ、占拠運動がこれ以上大きな広がりを持つ、あるいは成功するためには彼らのような者がいるのは問題だという批判が運動の中から出て きてしまう(クリス・ヘッジス、https://www.commondreams.org/view/2012/02/06-3)。
もちろん、そうした批判に対して、同じように運動の中から反論が出ます。そもそも最も大きな暴力は何か。運動に対して外からしかけられる暴力ではない か。そのことを無視して暴力批判をするのはおかしいということ。また、「自分たちの運動の中にああいうのがいるのは問題だ、だからああいうのは排除しな きゃいけない」というふうに言ってしまうと、それは結局、今の社会でやっていることと同じことになる。つまり、何かを排除しなければならないという言説そのものが、運動の中に排除という暴力を呼び込んでしまうんだという反論です(デイヴィッド・グレーバー、http://nplusonemag.com/concerning-the-violent-peace-police)。 これは暴力についての、あるいは社会における排除についての、とても本質的な批判だと思います。それが今、運動の中で交わされています。ブラック・ブロッ クを批判しているのも、占拠運動に参加したり、好意的に評価したりしている人たちではあるのですが、そういう人たちですら、警察の暴力は問わず、運動参加 者の暴力だけをことさらに取り上げるマスコミの「〈アクティヴィストの暴力〉という神話」(レベッカ・ソルニット、
http://www.tomdispatch.com/post/175506/tomgram%3A_rebecca_solnit%2C_why_the_media_loves_the_violence_of_protesters_and_not_of_banks/)に毒されてしまっているのです。
もうひとつ、OWSと〈暴力〉について、ぜひお話ししたいことがあります。それは女性や性的少数者、あるいはホームレスなど、社会的マイノリティに対す る暴力の問題です。これは警察権力などとは関わりなく、運動の内部に出てきてしまう問題です。そうした問題が起こった時に、どう対処するか、どう解決して いくか。それを直接民主主義の中でなんとか道を模索しているということも、非常に興味深いところでした。私たち自身にも何か参考になるところがあるのでは ないかとも思いました。
私はニューヨークに行く前に、日本の反原発運動の中でいくつかのデモに参加していました。その中で、いろいろな人と話しをしたり、いろいろな反原発の表 現を見ていて、個人的には運動の中のジェンダーの問題がすごく気になっていました。このことは今日のテーマとは関わりがありませんから詳しくはお話ししま せんが、ふだんから疑問に思っているような性差の問題やジェンダー・バイアスなどが、反原発運動の中でも繰り返されている側面があるな、ということです。 ですから、占拠運動の中ではこうした問題はどうなっているのかなと思いながら見に行っていました。ただ、実際には私が行った短い間では、どういう問題があ るのかはあまり聞けなかったし、具体的に目にすることもありませんでした。でも、帰ってきて二週間くらいしてからでしょうか、聞くことがありました。それ は、あのズコッティ公園でレイプ事件があったということです。写真でご覧になったように狭い公園で、そこにいっぱい人がいる。しかも、ニューヨークだけ じゃなくて全米から参加者が来ていますから、たいていの人が顔見知りではない。でも、すごく雰囲気はいいんです。私のような見物客が突然行って話しかけて も、どういういきさつでここに来ているのかとか、自分たちの主張はこういうものだとか、とてもフレンドリーに話してくれます。しかし、そういう場所で、レ イプ事件が起こってしまった。
これは被害者がいることなので、もちろん被害者がどういう解決を望むかということがいちばん大事です。例えばその被害者が、加害者を警察に訴えることを 望めばそうする。ただ、自分たちのコミュニティ、ズコッティ公園の中のコミュニティを、問題が起こったときもきちんと自分たちの力で維持するという意味で は、警察権力に訴えることが全てではないわけです。被害者の中にも、そういうふうにはしたくない言う人もいる。これは、一般的に性的な暴行の被害にあった 人が公にしないで欲しいというのとはまた違ったことだと思います。そうではなくて、ここが何か新しいものを生み出す空間であるならば、自分たちの力でそれ を解決しなければならないと考えたということだと思います。
ではそういう時にどうするかということで、いろいろな形が編み出されています。女性や、性的な被害を受けてしまう危険のある人が安全に眠れるようなス ペースをつくったり、話し合いの場を持ったり。加害者が話し合いに応じない時は、非暴力的な形で加害者に対してどういうふうにしたら、それを繰り返させな いか、その方法を考えたり。そういうことを話し合いながらつくりあげていくわけです。これは本当に厳しいことだと思います。自分がもしそういう立場、被害 者であったり加害者であったりしたら、あるいは身近の、自分たちが大切だと思っている空間でそういうことが起こったら、それにどう対処するかということに きちんと向き合うのは非常に厳しいことだと思うんです(小山エミ、http://news.livedoor.com/article/detail/6023090/
ひとつVTRを見ていただきます(「オキュパイ・ウォールストリートの女たち」http://www.youtube.com/watch?v=tYTHxjIDggE)。これは主に女性が、占拠運動の中でも出てくる抑圧に対抗する方法をどうやって具体化するかという取り組みを撮ったものですが、このような取り組みは今も続いています。
こういうところにも表れているように、占拠運動ではコミュニティというものに対する意識が非常に高い。これは特にズコッティ公園が小さい場所なので、そ ういう傾向があったのかもしれません。でも、地域コミュニティという意味で言えば、今、占拠運動は全米に広がっていっています。そして、その地域コミュニ ティの中でどういうふうに運動をやっていくのかという問題が出てきています。先ほど各地域でその地域固有の課題に取り組むようになっていると言いました が、例えばニューヨークの中では、ブルックリンやハーレムという地区は貧しい人が多かったり、あるいは有色人種が多かったりしますので、ウォールストリー トとは違う、そうした固有の問題が出てくるわけです。
最初に流したVTR(「ウォール街占拠2011」)の中では、人種の問題が出てきます。運動の中で、どうしても白人の発言力が大きいというような問題は あります。それをどういうふうに解決していくか。それも時間はかかるけれど、話し合いながらやり方を模索しています。外の社会にある問題が、この占拠運動 にも現れているということなのですが、それをどういうふうに克服していくかということにも真剣に取り組んでいます。それもまた、自分たちのコミュニティを どうやってつくっていくかという強い問題意識に基づいているのだと思います。この場合、コミュニティというのは、いわゆる地域や、公園という空間的な意味 だけではなくて、人と人との関係のつくりかたの総体を指していて、それを問い直すことにもつながってきています。

〈コミュニティ〉と〈コモンズ〉

このような、空間を共有したり、物理的に何かを共有するということを超えた〈コミュニティ〉を、〈コモンズ〉と呼ぶことがあります。占拠運動では、食事 や図書や衣類、かんたんな医療など、物理的な共有が見られますが、それはもう一歩進めて考えると、怒りや悲しみ、喜び、あるいは病いなど、そういうような ものも共有することなのではないか、ということです。病いや苦しみや死という、今までは個人的な領域とされてきたものも共有していく必要があるのではない か、そういう課題に向き合っていこうとしているのではないかと思えます。これは政治的なスローガンになるような事柄ではありませんから、これが今後の占拠 運動の何かの獲得目標みたいになることはないと思いますが、彼らが目指しているもの、つくりだそうとしているものとはそういう〈コモンズ〉だという主張が あり(シルヴィア・フェデリッチ「これは再生産をめぐる闘争だ」『女たちの21世紀』第39号、2012年3月)、私もそうではないかと思います。
外の社会、自分たちが今、現実に苦しめられている社会を変えるには、単に「99パーセント」というスローガンを掲げるだけではなく、何がどこまで既存の 構造の中に取り込まれているのか、あるいは自分たちの内面にどこまでその社会が入り込んでいるかということを問う必要があります。もしかしたら単に経済的 な問題だけではなく、身体や感情まで、奪われてしまっているかもしれません。互いに議論することによって問題を解決するというのは、いろいろな難しい感情 が出てくるだろうと思いますが、それも話すことによって共有しようとすること、それを通じて新しい社会の在り方を模索してゆく。そういう方向に占拠運動は 向かって行きつつあるのではないかと思います。
そういうふうに占拠運動のことを考えた時に、実は私たちはそういう経験をもうしてるんじゃないかと、ふと思いました。震災直後の三月から四月頃など、私 たちはとても不安な状態に置かれていました。でも、同時に友情や、あるいは見知らぬ人とのあいだに突然生まれた関係などのなかに、新しいものを見いだした ような瞬間があったような気がします。震災の当日、東京では多くの人が帰宅困難に陥りました。その時に、お店を一晩中開けていてくれて、入れてくれたり、 全く知らない人と隣り合って助け合ったり、暖かい食べ物や飲み物、カイロなどをわたしてくれたり。そういうことを多くの人が経験する空間がありました。あ れが、〈コモンズ〉というものを一部形にしたような経験だったんじゃないだろうかと思っています。
アメリカの作家、レベッカ・ソルニットは、このような経験のことを「災害ユートピア」と言っています。同名の著書があります(レベッカ・ソルニット『災 害ユートピア』亜紀書房、2010年)。災害の直後というのは、みんなパニックになると思われていますが、実際には誰一人パニックにならない。本当に自然 にお互い助け合ってしまう。「恐いよね」「不安だよね」という感覚を自然に共有していく。そのような、いわゆる〈コミュニティ〉というようなしっかりした 基盤や関係はないけれども、しかし共同体的な感覚が生まれる。それを論じた本です。占拠運動が向かいつつある、あるいは実践しながらつくりだそうとしてい る、物理的なものと同時に感情的な経験も共有するような共同体――それは場合によっては、気持ちが悪い、居心地が悪いということもあるかもしれませんが ――、これまでとはちがった意味での共同体というものが、実際にどういうものなのかを想像するのに好適な本だと思いますので、機会があればお手に取ってみ てください。
(2012・3・3 planB)
*写真はすべて コピーライトhttp://occupywallst.org/

2012年3月3日

plan B定期上映会

ウォール街を占拠せよ――オキュパイ運動について私の見てきた2、3のこと
小田原 琳(大学非常勤講師)

2011年のはじめ、私たちは中東で高まりを見せていた、後に「アラブの春」と名づけられる民衆蜂起を見守っていました。3月11日以降は、この日本の社会が、世界からの注目を浴びる場となりました。それは当初は自然災害と原発事故の惨状と恐怖によるものでしたが、原発反対を訴える街頭行動が爆発したときそれに最初に注目したのも、国外のメディアでした。同じころスペインでは怒れる若者たちが広場を占拠し、ギリシャでは望みもしない借金を無理やり取り立てられることに抗議する人びとが立ちあがっていました。そして9月、ウォール街占拠が始まります。2011年とは、それぞれの場でそれぞれの理由で人びとが立ち上がり、海を越えて、たがいを共感をもって見つめてきた年でもあったのです。オキュパイ運動のはじまり、そしてそれが胚胎するものが私たちにとってどのような意味をもつのか、ほんの少しだけ見てきたことを含めてお話したいと思います。