「山谷─やられたらやりかえせ」plan-B定期上映100回記念(1987年~2013年)

★日時:2013年2月16日

●16:00〜 「山谷―やられたらやりかえせ」上映 〜17:55
●18:15〜 対談「ライブスペースplan-Bを語る」木幡和枝+平井玄 〜18:45
●18:55〜 ホイト芸 黒田オサム 〜19:15
●19:20〜 ダンスと音 田中泯+大熊ワタル 〜19:50
●その後、これまでの講演者・ゲストの話をまじえながら交流会

木幡和枝(芸術・美術評論家、アートプロデューサー、翻訳家) 訳書は『同じ時のなかで 』(スーザン・ソンタグ)『私は生まれなおしている……日記とノート 1947-1963 』(同)など多数。2000年から東京藝術大学先端芸術表現科教員
平井玄(思想・音楽批評) 著書に『路上のマテリアリズム―電脳都市の階級闘争』『破壊的音楽』『愛と憎しみの新宿 半径一キロの日本近代史』など。
黒田オサム(パフォーマー・アーティスト) 敗戦直後にアナーキストとなり、山谷の労働者とともにダダイストとして生きる。そこでつちかった人間の俗のなかに聖を見るホイト(乞食)芸を披露する。現在81歳。
田中泯(ダンサー) 土方巽に私淑した前衛的、実験的舞踊家。1960年代モダンダンサーとして活躍。1966年ダンス界から追放、日本現代舞踊協会から除名される。1970年代「ハイパーダンス」を展開。日本・世界の知識人、科学者、美術作家たちとのコラボレーションへと繋がっていく。1978年パリ秋の芸術祭の「日本の時空間―間―」展で海外デビュー。以来30年以上、世界中で独舞、グループの活動を発表し続ける。
大熊ワタル(ミュージシャン)  http://www.cicala-mvta.com/

2012年12月15日

plan-B 定期上映会

沖縄は、どこに「復帰」したのか?
講演・太田武二
(命どう宝ネットワーク)

普天間基地の移転、オスプレイの配備強行、米軍将兵による強姦・暴行など、沖縄をめぐる問題が報道されない日はない。しかし これらの問題はなにもここ数年に限ったことではない。オスプレイ配備は危険な機体の配備ということだけではなく、軍事基地機能という危険性そのものの強化 にほかならない。性犯罪は米軍による沖縄の暴力支配のひとつのあらわれかただと言えるだろう。これが「天皇メッセージ」によって合州国に売り渡された沖縄 のずっと続いてきた現実であり、「復帰」40年後も変わることない支配実態である。加えて尖閣諸島の問題がある。のぼせあがったナショナリズムは、まるで 在日米軍基地の大半を押しつけてきた現状を正当化しているようだ。
「もう、たくさんだ!」──沖縄の発する声は、「本土」に住む私たちにどう届いているだろうか。沖縄諸島をめぐって長く思索・行動・発信し続けてこられた太田武二さんを招いてお話を聞く。1879年の武力併合(琉球処分)以来の歴史を踏まえて。

野宿者コミューン! 江東区竪川で起きていること

杭迫隆太(竪川を支える会)

竪川での強制代執行

杭迫 今晩は杭迫といいます、よろしくお願いします。まず竪川の現状から説明しますと、2月8日に対象地に一人残った人のテントを、小屋 を除却したんです。でもその10か月後の、おそらく12月くらいまでの間にもう一回代執行が行われようとしています。今はその手続き中で、おそらくそれは 間違いない。そこで黙っているわけにもいかないということで、今、住んでいる竪川の河川敷公園多目的広場の少し上がった堤防の上の所、副堤部っていうんで すけども、そこにテントと小屋を作って電撃的に引っ越ししました。ですから、今はその対象地に残っているテントと小屋が10張りくらいと、代執行の前に、 それを逃れる形で引っ越したテントと小屋が5軒くらいあります。この間、警告書というのが副堤部に引っ越したテント小屋に貼られまして。対象地の小屋には 「いつまでに除却するので、それまでに出て行って下さい」というようなのが届きました。現在、竪川はそういう状況です。ただみんな、決して悲観的ではな く、今日も竪川カフェがあったんですけれども。みんなで力を合わせて明るくやっていますので、ぜひ皆さんも一回、今のうちにと言うとちょっと縁起は悪いん ですけども、竪川のみんなと話すような機会を持っていただけたらと思います。
司会 知らない人もいらっしゃるので、なぜこういうことが行われたかっていうことを少し話していただけませんか。
杭迫 はい。竪川、荒川、隅田川、そういう河川敷とか公園のような公有地に野宿者が劇的に増えたのは、あのバブル崩壊の頃の経済がこうド ンと落ちて、それで建築業界が冷えきって、山谷や横浜寿や高田馬場の、今もありますが寄せ場ですね、そういうところの日雇いの仕事が急に無くなってしまっ た。ようするに日銭を稼いでドヤに泊まるとか、仕事にアブレたら野宿するっていう人達の生活スタイルが、もう一気に後退したんですね。それでもう仕事が出 来なくなってしまった人が、そういう公有地にテントや小屋を張って暮らすという。だから20年くらい前からの潮流としてありまして。で、竪川もそのバブル 崩壊の頃から、20年くらい前から住んでる人、長い人で20年くらい。Aさんは20年くらい?
A オレはもう21年目に突入しました。ベンチからスタートして小屋作って。
杭迫 その人達は、20年間江東区の福祉行政からほったらかしにされていて。まあ福祉事務所の人が相談に来るなんてことはほとんどなくて、見て見ぬ振り を役所はしてきたんです。にわかに、スカイツリーが出来るとか、近くにいっぱいマンションが出来て、それなりの所得の高い人が増えたりっていうことになる と、急にそれまでは放置していたものが「出ていけ」に変わったわけですよね。それがまさに今、竪川で起こっていて。それは隅田川でも荒川でも、大きくは変 わらないんで、そういう流れが東京東部で、顕著に今あるように感じています。
A 2006年からねえ、都内でよく……みんな聞いてます? 「三千アパート」って聞いた人います?アパート事業っていうの。それがちょ うどねえ2010年頃かなあ、始まって。それからウチら竪川には、現在10人しかいませんけど、その2010年頃にはもう45くらいのテントがブワァーっ と同じところにあったの。今の渋谷も新宿もそうよ、再開発でみんな……。ウチらの竪川でも高速道路の小松川の下で工事が再開して、再開発でみんな追い出さ れて。今の状態は応援入れると12、3のテントでがんばってやってます。だから、ぜひ遊びに来てください。最寄りの駅だったら都営線で行くと西大島から明 治通りをまっすぐ高速道路に向かって左っ側にいますから。朝9時から5時までいますから。JRだったら亀戸の駅でまっすぐ。目の前が明治通りですから、 まっすぐ。真ん中に高速道路が上に通ってますから、それを目印にして、向かって明治通りの右っ側に銀行がありますから。そこの一か所だけウチら唯一の門だ から。もう夕方にはみんな閉められちゃう。ぜひ、あの暇があったら竪川に一度遊びに来てください。いつでも待ってますから。オレ自身がいますから、毎日の ように。
杭迫 亀戸と西大島の間にある高速道路の高架下にある竪川で、最初に工事の計画が上がったのが2006年で。その工事計画はいったん野宿 者や支援者、活動家の、そういった反対もありまして一回立ち消えになるんですけども、また三年前からかなり激しい追い出しが始まって。そこでは、「三千ア パート」の、なんていうか焼直しみたいなものだったりとか。あとは緊急一時保護センターとか自立支援センターとか、そういう所に入れっていう。また、それ までは一切認めてこなかった生活保護の制度を使って「そこからどいてくれ」と、そういうことを言い始めたわけですよね。Aさんがいっぱい言ってくれました し、竪川の感じはこんな感じで。

移動した所にもフェンスが

そもそも私がどう関わってきたかっていうことを話しますと……この去年の夏頃から、江東区がどうあっても追い出す気だなっていうような空気がすごく出て きたんですね。それまで竪川に住んでいるみんなは、江東区が「ここ今度工事するから、そこどいて」って言われたら「ハイ」って言ってどいて、「こっち工事 する」って言ったらまたどくってことを繰り返してきたんですね。それで、五の橋のすぐ下に引っ越したわけなんですけど。その頃から、もう話し合いのテーブ ルに着くことをしなくなり始めたんですね。これはいよいよおかしいなっていうことで、話し合いをして解決しなさいっていうことを、私たち野宿者、支援者有 志で江東区に訴えてきたんですけれども、ついに去年の12月に、最初の行政代執行の手続きを区が始めて。それで、2月の8日に一軒だけ残ってた高齢のSさ んっていう人の小屋を全部除却して強制的に撤去しました。何で1軒だけ残ってたかというと、Sさんはすごく人に頼るのが嫌いな性分で。他のみんなはSさん の小屋がやられちゃう前に、すぐ近くの今いる所に引っ越したんです。そこはもう工事も終わっていて、行政代執行の対象地でもないので文句はつけられないだ ろうと。そういうことで引っ越した所に今みんな住んでいるんですが、今度はそこがやられてるっていうことですね。その2月8日の行政代執行の前に引っ越し た所の多目的広場が1月27日にフェンスで囲われてしまうんです。
竪川河川敷公園は細長い公園で、自転車の抜け道みたいな感じでひんぱんに使われてたんですけども、そこを使えなくして。それで「危険な野宿者がいるから ここは通さない」みたいなことを区が言い出して。その時に来たのが100人から150人くらいの警備員、区の職員、あと何もしないで見てる警官ですね。そ れを僕は目の当たりにして、これはもう、本当にもう多勢に無勢で好き放題やられてしまうなっていうふうに考えて。誰もが携帯電話とかパソコンで「こんなこ とが起きてます」って発信出来るわけでもないでしょう。僕はその時、御徒町のアパートに住んでたんで、家もそんなに離れてないし、泊まれる時はここに泊 まって、野宿者の人と一緒にテントに寝泊りして、誰も見てないところでやられちゃうってことがないようにと思って、Aさん達と一緒に暮らし始めました。今 は、ちょっと体を壊しまして竪川にずっといるわけではないんですけども、また代執行の目論見がこうあらわになってからはなるべく現地に行ってみんなと一緒 にいるようにしています。

非正規労働者となって山谷へ

私は、もともとは広告代理店で働く、普通のそういう賃労働をしてたんですけども体を壊して。大変な仕事だったんで、一回入院したあとはその仕事を続けら れなかったんですね。その後は塾の先生とか予備校の先生とかしながら、ようするに非正規で食べてきたんです。でも本当に2005、6年あたりからもう食べ られなくなってきて。教育の現場の非正規の賃金っていうのはすごく足元見られて、たたかれ始めたんですね。もう一番良い時の半分以下くらいの給料で働くこ とになっていて。それまでは運動とか労働問題とかと全く無縁だったんですけれども、こんな世の中はおかしいなっていうことにその時ようやく思い始めたんで す。2008年のリーマンショックの時に、非正規でも誰でも入れるっていう労働組合に初めて入って。そして、その年の暮に派遣村、あの日比谷公園の年越し 派遣村がありましたが、そこに僕はボランティアで行ってたんですね。そこで会った人達、たくさん野宿の人達が日比谷公園に集まって来てたんですよね。その 山谷とか東京の各地で活動している野宿者運動の人達とも接点が出来て。私は一応労働組合には入ってはいるんですけれども、本当に大変な思いをしている人達 のために何か出来ないかなっていうことで、だんだん山谷に足を運ぶようになりました。
で、その派遣村のことを話しますと、とても大きな出来事だったと思うんですが、まああれだけ大きな出来事が起きて、その年の8月には政権交替も起きると いう大きな流れがあったのに、全然世の中は良くなっていない。特に野宿の現場なんか見るともうどんどん、どんどんひどくなっているっていうのが現状なん で。派遣村がどうこうっていうんじゃあないんですけども、あれだけのことをやっても全然世の中は良くならないんだなっていう失望みたいなものを今でも感じ ているんですが。それでもまあ、いくつか良いこともあって、その一つに生活保護の……。生活保護って本当に受けられない、一人で行っても門前払いされる、 水際作戦とか硫黄島作戦とか言いますけども。ちゃんとやったら絶対申請は出来て、ちゃんと審査して決定するかしないかっていうことをするはずなのに、その 申請すらさせてもらえない。そういう違法な運用がされてきたんですけども、派遣村の直前から粘り強くやっていた「もやい」の人達とかの活動の積み重ねも あって、派遣村の後は誰か一人でもそういう詳しい人とか手伝い出来る人が一緒に行けば、野宿の人でも生活保護は断られないっていう、新しいスタンダードは 出来たかなって思ってるんですね。

路上に居続けて闘うこと

私は隅田川医療相談会の現場で、そういう生活保護の申請の手伝いをしに役所に一緒に行ったりとか、体が悪い人と一緒に病院に行ったりとかを主にやってた んですが、何でテントに住んでそこで一緒に生活して行政と闘うみたいなことを始めたかというと、さっきも言ったように生活保護は本来だったら生存権を担保 する制度ですから、誰でも困ってる人だったら受けられるものでなければいけないのに、とってもそうはなっていないし。たとえ生活保護申請してそれが通った ところで、受給してる人がずいぶん暮らし辛いっていう状況がありますよね。いろんなバッシングとかにもあいますし、今の竪川の現場もまさにそうなんですけ れども、野宿している時にあったつながりというのが断たれてしまって、急に老け込んじゃったりとか。場合によってはもう孤独死みたいなことになってたりと か、たくさんの人の相談にのってきたので、そんなことも少なくなかったんです。
そういうふうなことを考えると……生活保護を受けてもそんなに幸せな状況ではない。かといってじゃあ生活保護をやめてちゃんと仕事に就こうと思っても、 今の雇用の冷込みをみると、本当に目を覆うような状況がずっと続いていて。もうそれに対して福祉政策って本当にひどいんですよね。じゃあこの人達をどうす るのって。「仕事しろしろ」って言うけれど、その仕事がどこにあるのっていう状況で。結局それは企業任せになると思うんですけれども。でも、企業や資本家 がやることっていうのは、まあせいぜい雇用のパイを増やすことを口実に、非正規雇用とか不安定雇用を認めろみたいな、そういうことだと思うんですよね。
だから、こうどんどん社会は悪い方に悪い方にいってしまった時に、路上にいて闘うことの重要性って今すごく大切になってきてるんじゃないかなと思うんで すよ。20年もそこに暮らしていて、ほったらかしにされてきた人が、今さら生活保護なんか受けられるかっていうような、そういうまあ心意気というか気概み たいなものももちろんありますし。かといってもう本当にしんどいから生活保護を申請して医療につながってというようなことも全然否定しないし。そういった お手伝いを今もしています。
申請してもどうなるものでもないんだとしたら、もうそこに居座ってそこで生きることを追求するっていうのは、決してない選択じゃないと思うんですよね。 そこにはだって仲間がいて、ちゃんと仕事がある。Aさんだってちゃんと労働はしてる労働者ですから。あそこの竪川にいるみんなは本当に働き者です。そこに 仲間がいて仕事があるのに、なんでそれを捨てて生活保護にいかなければいけないのかっていう思いはどこかにあります。どこにも行き場がない人が、せめてそ こに居る権利というのは絶対に認められなければいけないし。それはおそらくヨーロッパなんかでは認められてるようなケースもたくさんあるんじゃないです か。そこらへんを僕ももっと勉強していきたいなあと思っています。
ですから、僕の運動のスタイルとしては、路上にいることはもう生存権の危機なんだからなにがなんでも生活保護につなげなきゃっていうものではなくなって きていて。これからも、どんどん仕事を失って生活保護もどんどんケタオチになっていく。そういう中で路上に居続けることを主張する意味というものを、今ま さに竪川の闘いというのが体現してるんじゃないかと思うんですね。ですからぜひ、その場所を、あそこがやられちゃう前に、みんなに見ておいて欲しい。決し て最後まであきらめない。けれど代執行はもうこのままだと確実にされちゃうんですね。その前にぜひ、みんなの話を聞いて欲しいなあと思います。
今、竪川では、Aさんが言いましたけれども、朝8時に寄り合いがあって、寄り合いが終わったら今日は見張りが誰とか、食事の当番が誰とかを決めます。そ れで、12時頃に昼飯を食べて、4時から4時半くらいに食事の準備を始めて。それから、ご飯を食べ、まあ食べ終わったら寄り合いを、夜の寄り合いをやると いう感じです。みんなで話し合って、支援者も野宿当事者も分け隔てなく意見を出しあってやっています。ですから9時から5時の間だったら、何かしらそこに はみなさんが見付けられるものがありますし、誰か話相手になる人もいますので、ぜひみなさん足を運んでください。

竪川の現場から――Aさんの話

司会 それでは質問などがありましたら、またそれでちょっと話を展開していきたいと思います。竪川のことだけに限らずに、映画の内容についてでも、あと現在の山谷の状況とか、そういうことでも構いません。今関係している方も来ていらっしゃいますので。はい。
B 自己紹介からしますと、三多摩で、立川で野宿者の支援活動をやってるBといいます。私は主に野宿者の人達を生活保護につなげたりと か、レストハウス、サンキューハウスというのを立ち上げてまして。そこでいろいろと支援活動をやっている者です。映画の「やられてらやりかえせ」の感想な んですけども、ものすごい労務支配の中、敵がよくわかるわけですね。相手がピンハネする手配師のヤクザだったり、また警察官、機動隊も闘う労働者に対して 弾圧する。そういった中で粘り強く労働者が闘っていくっていうね。今日深く思ったのは、在日朝鮮人や被差別部落の人達が歴史的な流れの中で、何でそういう ふうに下層につかざるをえないのか、そういった状況が作られてきたのか。そこに自分なんかはものすごくひかれるっていうか、興味をもちました。現在はって いうと、杭迫さんが言われたように日雇い労働者の求人も少なくなってる。山谷でもものすごく少なくなってる。80年、90年通じて、バブルの崩壊から始 まった流れの中で建築土木、ゼネコンもそうだけども、どんどん縮小されて求人が減り、アブレていく人達が増えていった。で、今の状況ですね。どういうこと が竪川でおこなわれているか。野宿をしている人達がどういう生活をしているか。当事者のAさんが来られているようですから言ってもらえますか。
A ウチの竪川の仲間、大体5人、6人くらいがアルミ缶と新聞集めで生計をたててます。あとは山谷での日雇いでどうにか、その日その日 を……。その中で代執行、これで二度目ですね。今年の2月にやられて。で、来月に入れば3枚目の通知が必ず来ます。オレが思うには、11月の半ばにはもう 代執行の予定じゃないかと。今このビラ配りましたね。11月の7日にデモをやりますから、ぜひ応援に来てください。その後どうなるかは来月になってみない とわかんないです。今は様子見です。もうみんなすごく疲れてるから、明日はゆっくり休もうってことで。明日の午前中はゆっくりしましょうっていうことを いってます。今は、それくらいかな。来週になったらウチらも考えることで。以上ですね。
B 竪川ではヤクザと対立しているっていうことは?
杭迫 対峙しているのは、江東区ですよね。
B 江東区、行政が差別をあおっているっていう。例えば、今日の映画の山谷ではマンモスポリだとか警察官が山谷の労働者をものすごく差別 的に扱う。そして、多くの商店もそういうふうに差別的に扱うじゃないですか、労働者を。竪川の行政も同じようなことをしてるんじゃないか。寝泊りしてい る、野宿している人に対して、人として認めてない。ようするに不法占拠をしている、どうしようもない人達なんだっていうふうに区民に対して告知していま す。で、そのあおりを受けて、少年達が夜な夜な襲撃をしたり、嫌がらせ、いたずらをしたりする。大人がやるような構図を子供がやるような構造が起きてい る。
A オレらが住んでいるところの反対側の学校、中学校があるんだけど、オレの目の前で5、6人がテントに火をワアーと投げてくるわけ。当 たる寸前ですよ、本当に。人権問題にするべえって言って、役所に行ってみんな声を合わせましたよ。それで、学校の校長と教育のあれに謝らせましたよ。それ が今の現状。
司会 Aさん、ありがとうございました。それから、杭迫さんの方からもう一言。

現地に行けない者のいろいろな闘い方

杭迫 中学生などの襲撃問題は、まさに警察や区の職員が当事者にやっていることを真似してるようなところがあって、これすごく問題です。 あと地域の人にどう受けとめられるかっていうと、必ずしも歓迎はされていないんだなあっていうのは思います。そういうのが子供達の襲撃にもつながるし。何 が辛いかっていうと、大体の人があんまり良く思っていないんですね。敏感なのは区議なんですよね。区議は、例えば人権を大事にするっていつも言ってる政党 でも、誰でも生きる権利があって、野宿を余儀なくされてる人にもちゃんと住む権利があるということを、そこで絶対に言わない。そこで投票する人達が野宿者 のことをよく思ってないから、当然その人達に受けのいいことを言うんですね。だから、陳情とか、訴えて何かを変えるっていう、そういう政治的なことは本当 に出来ないなあって感じますね。
C 映画のことなんですけど、最後のシーン、ちょっとわからなかったんですけど。手配師の人に謝らせたりしてる。あれは何でそうなったんですか。
「山谷」上映委員 一番最後の「ほら謝れ」みたいにやったやつね。あれは手配師なんだけどもヤクザですね。義人党というヤクザ。映画の中で出てきた西戸 組とは違うんですが。「賭場のなんとかだろう」みたいな会話があったと思うんですけども、完全なヤクザです。見えてないけれども耳が片っぽないですね。指 も切ってこっちもないですね。そういうヤクザがこの映画の中に何人か出てきてますが、そこで手配師を束ねてそこから更にピンハネして組織を作り始めたとい う。彼はその一人なんです。ですから、「オマエわかってるだろう」とありましたが、山谷の労働者はみんな顔を知ってますから。そいつだっていうのがわかっ てますから、「じゃあ謝れ」っていうふうになってたわけですね。
D すいません。その行政代執行が迫ってるってことなんですけども。今、Aさんや杭迫さんが現地にぜひ一度見に来てくださいって言われた んですけど。実際に行政代執行が迫ってきて、当日たぶん平日とかに来ると思うんです。で、その占拠闘争というか、オキュペイションしている人達が闘うって いう実力闘争もあると思うんです。その時の現地での行政の警備員や警察との闘い方、そのレベル、ハードルですね。なんて言うんだろうな、参加の仕方という か支援というか、いろいろな闘い方法があるんでしょうか。
杭迫 例えば、区に抗議のファックスとか電話をじゃんじゃんやるっていう。あとは、いつでもそうなんですけども、物資とかカンパはすごく助かりますよね。
A 小さなテントでも、一人でも入れるようなテントがあったら、それでいらないものがあったら山谷争議団に送ってください。すごく竪川では役にたちますから。よろしくお願いします。
杭迫 とにかく大事なのは情報発信。僕もツイッターとフェイスブックをやってます。影響力のある人が一言ツイートしてくれるだけで、もの すごいたくさんの人が来てくれる。今日のこの上映会も、たぶんそういうものを見て来てくれた人もいるんじゃないのかと思うんです。そういったことも本当に 力になります。あと現場で、例えば、今まさにそこでやられてるっていう時に、どうしていいかわかんないっていう人もいると思うんです。誰も見てないところ でやられるっていうのは本当にもう何と言うか、無力感を感じるところもあるので、せめて、そのやられるところを見てるだけでもいいです。こいつらはこうい うことをやるんだっていうのを刻んでいただけたら、それだけでもすごく大切なことなんじゃないかと思います。

篠田昌已と南條直子――「星空音楽会」と「山谷への回廊」

司会 そうですね、確かにそれは大きい。見てるだけでも、彼らはその弾圧の仕方を、たとえ少しかもしれませんが変えるかもしれません。それでは、他にありませんでしたら宣伝を二つ。
杭迫 今日の映画の音楽を手がけていた篠田昌已さん、サックス奏者です。この方は本当に早く1992年ですか、44歳で亡くなってるんで すねえ。で、その人を偲んで、篠田さんが組んでいたバンドの名前のコンポステラを店の名前にしたのが綾瀬にあるんですね。綾瀬から歩いて10分くらいなん ですけれども。ここで11月5日に篠田昌已さんと組んでいた、コンポステラというバンドで組んでいた関島さんというテューバの有名なプレーヤーがいらっ しゃいます。その関島岳郎さんが来てコンサートをやります。僕も絶対行こうと思ってるんですけれども。11月5日の7時にオープンで7時半から開演、 チャージ2,000円です。この「星空音楽会」はとてもいい、特別な夜になると思いますので、ぜひみなさん来てください。チラシも持って来ましたので、帰 りに持っていってください。それとあと、「週刊金曜日」の最新号に竪川のことを書きましたので、そんなに大きくじゃないですけれども、写真と文章が載って ますので、よかったら立ち読みしてください。よろしくお願いします。
織田 すいません、早く呑みたい方もいるかなと思うんですけれども、ひとつ宣伝をさせてください。この写真集(『山谷への回廊』)、5月 に出版をしたんです。実はこの「山谷」の映画が撮られているのと同時平行で、南條直子さんという女性のカメラマンがドヤに住んで、ずっとこの時期の山谷を 撮っていたんですね。本の中に山岡さんとかが写っていますけれど、ちょうどこの南條直子さんが撮っていて。で、その頃の写真を30年経って私がまとめたも のです。8月にイラクで山本美香さんが亡くなりましたが、一緒にやっていたジャパンプレスの佐藤さんという方、その人とちょうど同時期にアフガニスタンに 入っていた女性です。実は、彼女は1988年にアフガニスタンで地雷を踏んで、33歳で亡くなっています。その彼女が6年間撮っていた山谷の写真です。ほ とんど世には出ていないものなので、大変貴重な写真がこの中に入っています。今日の映画を観にこられた方なんかは、すごく興味をもって写真を見ていただけ るかなと思うので。出口のほうに何冊か置いてありますので、興味ある方はぜひ。この後の交流会でもいっぱい話しをしたいと思いますので、よろしくお願いし ます。2,500円です。写真集としては大変安いです、はい。
司会 今日はどうもありがとうございました。ただ、まだ時間があります。といいますのは、このあと打ち上げを用意してるんで。まだちょっと聞きたりない、話たりないなあという人で、時間のある方は隣の部屋にお移りください。お酒も用意してあります。
[2012/10/27 plan-B 責任編集・山谷制作上映委員会]

2012年10月27日

plan B定期上映会

講演●野宿者コミューン! 江東区竪川で起きていること
杭迫隆太(竪川を支える会)

江東区・竪川河川敷公園において、テントで暮らす野宿者たちと江東区との間で、排除をめぐる攻防が2006年以来6年も続いている。
江東区は「水辺と緑の町」を標榜し、「観光名所」としての再開発に乗り出し、長年この地に住む野宿者たちの追い出しに乗り出した。こうしたなかで、山谷と竪川の現場を結んで排除に抗する闘いが始まり、江東区との話し合いも数十回を数えたが、今年2月には行政代執行が強行され、支援者1人が逮捕・起訴された。さらに、テント集住エリアにフェンスが張られ、通行を禁止、中学生による襲撃(投石)という事態も起きている。スカイツリー開業に伴う東部圏の再開発と並行して、隅田川や荒川など、野宿者の拠点が危機にさらされている状況もある(山谷周辺の風景も変容)。
竪川は今、どうなっているのか、都市再編の中の野宿者コミューンの現状を報告し、野宿者運動の展望をともに考えたい。

アフガンで夭折した ー 南條直子写真集『山谷への回廊』出版によせて

織田忍(『山谷への回廊』編・著者)

                            聞き手 池内文平

 池内 今日は雨の中をどうもありがとうございます。映画に関連して、いつもこのPlan-Bでは上映が終わった後にゲストをお招きして、 短い時間ですけども話をしていただくという時間を設けてます。今日はここにありますけれど、南條直子さんという人の写真や文章を収めた『山谷への回廊』と いう本に関してです。この本を作られた織田忍さんをお招きしています。
南條さんは1970年代の終わりから80年代にかけて、山谷の情景を写真に撮っています。その間、インドへ行ったりしていますが、1988年に取材中の アフガニスタンで地雷を踏んで亡くなってしまいます。ちょうどこの本に南條さんのクロニクルが載っているので、それに沿って簡単に南條直子さんのことを紹 介しておきましょう。
南條さんは1955年6月12日に岡山市で生まれています。73年に高校を中退して、77年に上京。79年から写真学校に通って、山谷での撮影を始めま す。79年から83年にかけてですから、山谷では越冬闘争が再開され、6・9闘争の会~山谷争議団~日雇全恊の結成と続き、同時に西戸組・皇誠会が襲って 来るといった、映画『山谷─やられたらやりかえせ』の背景となった時期ですね。
84年にインドへ行き、そこからパキスタンへ渡ってアフガニスタンでの戦争を肌で感じます。そして、翌85年にアフガニスタンへと向かう。87年には、 その成果を写真展で発表しますが、3回目のアフガニスタン取材のとき、88年10月1日、地雷を踏んで亡くなってしまいます。享年は33歳……。
それから、もう二十数年がたちますが、ようやくにしてと言いますか、こうして、この本のサブタイトル通り「写真家・南條直子の記憶」として一冊の本が上梓されました。──えっと、いつ出たんでしたっけ?
織田 出たのは5月です。
池内 5月ですか(奥付は2012年3月11日)。──紹介が遅れました。この本を編集され、また文章もお書きになっている織田忍さんです。

─南條直子の「手紙」─

織田 みなさん今晩は、ライターの織田と申します。もともと情報誌や児童書などの企画、執筆、編集をフリーでしていたのですが、今回4年 ほどの月日をかけ山谷の写真集を自費出版しました。こういう場で話す機会はあまりないので何から触れようか戸惑っているんですが、まずはこの本を出すまで の経緯を簡単に。
10年以上前になりますが、当時勤めていた出版社で編集していた雑誌に南條さんを取り上げる機会があったんですね。ですから以前から彼女の存在は知って いました。ただその頃は「地雷を踏んで亡くなったカメラマン」という程度の認識しかなかったのですが、偶然久しぶりに「南條直子」の名前を目にする機会を 得て、何だか急に興味がわいたんです。彼女の死からちょうど20年目のことで、胸がざわつくような運命的なものを感じた。それで少しずつ調べていくうちに 彼女について書いている人が実は誰もいないことを知りました。私自身、ルポを一本書いてみたいという気持ちがあったので、では自分が……と取材を始めたの がそもそものきっかけです。南條さんの写真のお師匠さんは原発労働者を長く追い続けている樋口健二さんです。ですからまずは樋口さんにお話を伺いました。 その取材の折、「南條は山谷にずっと住んでたんだよ」ってことを教えていただいて。そこから“山谷”という街に足を踏み入れていくことになります。
とはいえ当初は南條さんと山谷の接点がつかめず、最初に来たのがここ「Plan-B」でした。正直、『山谷』の映画を観ても半分位わからない状態でした ね。観終わった後に池内さんをはじめ上映委員の方々から当時のお話を聞き、山谷との関わりを深めていったという感じです。
池内 ああ、そうでしたね。こっち側ではなく、客席に座って映画をご覧になってた。──それ以前は南條直子の写真というか、山谷や寄せ場の事はご存じなかった?
織田 詳しいことはほとんど知らなかったですね。
池内 それで、きっかけと言いますか、南條さんの写真とそれとまあ樋口健二さんにお会いになり、ここに映画を観に来る。何かそういう興味の持ち方っていうか、どういう興味の持ち方をされたんですか。
織田 彼女のご実家である岡山に初めて訪れた際、お母様から手紙を見せていただいたんです。分厚い辞書一冊分ほどある手紙の束で、それは 南條さんが家族に宛てたものでした。高校を中退して数年後、23歳で上京するわけですが、その頃から亡くなる直前までの手紙です。子どもの頃から文章を書 くのが得意だったということですが、そこに綴られている言葉を目にして私、やられたと思いました。何というか、暗闇のなか鈍器で殴られるような衝撃があり ましたね。心にずしりと重たいものが乗っかるような言葉……。写真集の中にも収録しましたが、その言葉にシンパシーを感じたんです。彼女が日々、世間から 受け取る「イヤな感覚」。たぶんそれはジェンダーの問題とか差別の問題とかそういうことが潜んでいるんだと思うんですが、その辺のことを独特な言い回しで 書き綴っている。強く思いましたよね、彼女が何を求めてカメラを手にしていたのか知りたいって。それで徐々にはまっていっていきました。

【本書からの引用──上映委】
人間対人間としての関係を形成しうるような写真、そのような写真を撮れるようになることこそ写真家として「モノ」になるということであると思います。
思想内容のない、人間的感性のこもらない、単なるカメラ好きの技術は所詮、カメラという機材の奴隷としての技術にすぎません。いくらうまくても、それはカメラが撮ったのであって、人間が撮ったものではないのです。

(南條直子 家族への手紙より)

池内 確かにあの南條さんの手紙、僕は全部読んだわけではないんですけど、この本にも収録されている手紙も、かなりストレートな感情をそ のまま出しています。しかも家族宛なんですね。友達とかね、そういうものじゃなくて家族にちゃんと「私はこういうふうに生きていきたいんだ」「これをやら ないともうダメになってしまうんだ」っていうような事を縷々書いてますよねえ。それが「写真」という、かなり直接的な表現に結びついていったと思うんです けれども。それに織田さんが共振したと言いますか、のめり込んだ。それはどういう感覚だったのでしょうか?
また、南條直子のそういう心情と、もうひとつ山谷/寄せ場という彼女が対象とした現場っていうものに対して、南條直子をひとつのステップにして織田さんはアプローチしてきたと思うんですけども、その辺はどんな感じでしたか。

─彼女の見た山谷、そしていま─

織田 そうですね、もともと山谷に特別な思い入れがあったというわけではなく、スタートは純粋に南條直子という一人の女性を追っていまし た。その取材の過程で山谷にも進んでいくわけです。彼女はアフガニスタンの写真で有名になっていて、本も1冊(『戦士たちの貌』径書房/88年)──これ は彼女が亡くなった後に出てるものなんですけど、書いています。ただ取材する中で、実はこの人にとって山谷という場所は非常に大きなポジションを占めてい るんだなと分かってきた。というのも短い写真家人生のなかで、山谷に6年程住んでいる。今もそのアパートはマンションの隣にポツンと一軒、奇跡的に残され ていますが、南條さんがいた時代というのは今の山谷とは随分異なります。映画の中の風景そのまま、数千人の労働者たちが仕事を求め早朝から路上に立ち、活 気があった。悪質業者やヤクザとのぶつかり合い、鬱屈したエネルギーがうねっていた時代で。そんな男たちの街に20代の若い女性が一人で暮らし、さらに写 真を撮っていたというのは想像しがたいことですが、それでも彼女は山谷、寿、釜ヶ崎といった寄せ場に惹かれていった。彼女自身、高校を中退し世間からド ロップアウトしてしまった経験があり、世間が上へ上へとのびていくのに逆行するように下へ下へと底辺に向かっていく。まるで自らを追いこむような生き方を 選択していくわけです。そういった生き方を支えるのに、もしかしたらカメラが必要だったのかもしれませんね。ただし、カメラを向ける行為というのは実はと てもコワイことですよね。カメラを構える側は無意識にファインダーをのぞくのかもしれないけれど、レンズを向けられた側、被写体となる者にとっては攻撃的 で挑発的な行為だと思います。また、写真を撮る側は常に自分の立ち位置を問われます。さらに責任も。写真を見る人に対してと、写真を撮られる人に対して、 二つの責任がある。だからこそ南條さんは苦しんだと思うんです。写真で食っていくんだという堅牢な想いを抱く一方で、撮り切れないことへの落胆。割り切っ て「商品化」できる人だったら良かったのかもしれませんが、それができない不器用さがあった。自分の思い通りにいかず煩悶としてる様子が、家族へ宛てた手 紙や撮影された作品からうかがい知れます。
池内 カメラの比喩でいえば、南條直子というレンズを通した山谷ということになるんでしょうか。いま、南條さんが実際に見た山谷と現在の 山谷は違ってきているとおっしゃいましたね。この映画はその南條さんが見ていた山谷なんですよね。それが現在ではまた違ってきている。南條直子の撮った写 真、あるいはこの映画で撮られている情景、そして現在ということで見た場合、織田さん自身では、その辺はどう感じられますか?
織田 はい。たまにぶらっと山谷の街を歩くことがあるんですけど、現在の山谷は南條さんの写真や映画の風景とは大分違ってきていますね。 私が取材を始めた頃からみてもどんどん街の様子が変わってきています。マンションが建ち、ドヤ(簡易宿泊所)がバックパッカー向けの安宿になり、街全体が “フツーの街”になっている。あれだけいた労働者たちは一体、どこへ行ってしまったのだろう。そんな風に思うぐらい人がいないという印象がありますね。商 店街はシャッターが降りている店が多いですし、どこかひっそりとしている。早朝5時前に街の様子を見るため(泪橋のある)通りの方にも行った事がありま す。何人かが車に乗り込み仕事に行くという情景を目にしましたが、習慣的に道路に集まっているという程度で人の姿はまばらでした。
確かに昔のような活気は消えつつありますが、山谷という街自体に興味を覚えたのは、人と人との関係性なんですね。街自体が人を丸ごと受け止めるみたいな 雰囲気がある。当たり前ですが人間は人と人の、その網の目の中でみんな生きてると思います。山谷はそういった人とのつながり、最後のネットワークが存在す る場所だと思っていて。今はそれが分断されつつあるわけですが、でもまだわずかに山谷っていう場所には残っている。その部分に魅力を感じます。特に映画に あるような街の雰囲気っていうのは今の若い人が見たら、ちょっと羨ましいくらい濃い人間関係ですよね。南條さんのいた山谷時代について知れば知るほど、人 との距離感が近くて濃いなあと思いますね。
池内 確かにねえ。過去は問わない、つまり現在だけの付き合いなんだけれども、それで1対1になれる。いわゆる過去の実績とか肩書きと か、そういうものとは全く無縁に現在の1人と1人の付き合いが何千通りも出来るわけですから、それは常に更新され、緊張を孕んだものになるでしょう。また 労働者の多くは、家族なり郷里なりのコミュニティーを一旦離れているので、それへの郷愁もあるかもしれない。逆に言えば、そういう単身者の男性だけだった からこそ、今のように人がいなくなったとも言えるでしょう。つまり横浜寿町あるいは大阪釜ヶ崎では、家族持ちの日雇い達がたくさんいて、そういうコミュニ ティーの作り方が出来ていた。ところが山谷は単身、男性のみの世界だったので、そういう意味ではコミニュケーションの仕方が単純になる。つまり仕事のこと に一元化されてしまう。たとえば、仕事の発注のされ方が携帯電話とかそういう物が介入する事によってすぐにバラバラにされてしまう。今までは朝の寄せ場に 手配師が来て「今日はここ行ってくれ」「明日ここ行ってくれ」っていう、顔を見てやってたのが、携帯電話などを皆が持つようになって「じゃあ明日ここ ね」っていう時には、朝の寄せ場に集まる必要が全く無くなってしまうという。しかもそこに生活拠点がないならば、その場っていうのは容易にバラバラにされ てしまう──というのが現在だと思うんですけれども。
織田 そうですねえ。
池内 まあ単に携帯電話だけの問題でもありませんけれども。
織田 寄せ場自体が社会化するというか、人々があちこちに分散しその地が寄せ場化しているような気がします。ひとつのコミュニティが壊されていくような印象です。
池内 今の山谷のドヤは、外国、主にヨーロッパ・アメリカのバックパッカー向けのゲストハウスみたいになってるのが多くあるみたいです。 僕らはこないだ韓国の劇団と一緒に芝居をやったんですけど、韓国の役者たちには山谷のドヤに泊まってもらいました。まあそんな感じになってます。それはド ヤ街のドヤ主達が生き延びる方法だったんだろうけれども、確実にそこに人はいるわけなんですよね。山谷の労働者達の平均年令は幾つかわかんないですけど、 彼らは山谷やその周辺にいて生活している。しかしドヤに泊まれない。ドヤ主から見れば泊まる人間がいないからゲストハウスにしちゃうんだけども、実際はた くさん泊まるべき人間はいる。その人達は別の所に分散したり、あるいは路上で寝たり公園で寝たり駅で寝たりという事が現状だと思うんですよね。いっぽう、 さっきの携帯電話の話ではありませんが、仕事の手配が拡散して小さな寄せ場、小さな寄り場が全国にいっぱい出来てきたっていうのが現状ではないかと僕は思 うんですけども。

─奪われていく、人としての尊厳─

織田 本当にその通りで。映画に映っていた労働者らは、全盛期には1万人いたとも言われています。じゃあここにいた人達はどこに行ったん だろうって考えてしまう。もちろん亡くなった方も多くいるし、今回の写真集に写ってる方でも亡くなってる方が本当に多くてやり切れませんが、90年代から ドヤにすら暮らす事ができず、日雇い労働者として働いていた人々が野宿のほうに流れていったという現実があります。それぞれが「個」になりバラバラにな る。それでも生きるために別の地にコミュニティを作りますよね。でもまたそれが権力によって分散させられていってしまう。新宿西口の段ボールハウスや、最 近では渋谷なんかもそうですし、それが現状だと思います。そう考えると結局、問題の根っこは何も変わっていない。差別の構造はそのままだし、むしろ事態は ひどくなっているような気がします。
今日の昼間、竪川という場所に──亀戸の駅から5分位にある“五の橋”という場所に──行ってきました。そこで野宿している方たちは、早朝からアルミ缶 集めの仕事をし、仲間と助けあいながら凛とした生活をしているわけですが、今どんどん行き場を奪われているんですね。山谷からもスカイツリーがきれいに見 えますが、その建設に際し「街の浄化」目的で野宿している人たちを排除していく。それまで放置していたのに、邪魔だからさあどいてって。生活の場を、人と して尊厳を持ち生きていく権利みたいなものもどんどん奪われている。そう考えるとこの映画の時代なんかは、まだ良かったのかなあと思えてくる。螺旋状にど んどん息詰まっている感じがしますよね。
池内 そうですねえ。日雇い労働者の仕事っていうのは、山谷の場合は建設現場が多いと思うんですけど、いずれにせよ労働集約的な現場です よね。ある期間内にある程度の人数が必要となるといった。今の原子力発電所内の下請け仕事もそうですね。これは増えることはあってもまず減ることはない。 つまりそれだけの人は必要で、また現実に人はいるんです。それが見えなくなってきている。
山谷のドヤから締め出された人たちが都内の駅や公園で生活したり、寄せ場を経由しない人たちの野宿も増えているにもかかわらず、それが環境美化の名目で さらに排除されたり、あるいは囲い込まれたりして、生存権はおろか存在そのものが掻き消されたりしています。また、さっき言った携帯電話での手配など、就 労窓口の変化もあると思います。それに加えて派遣法ですね。ヤクザの利権が規制緩和されて、広く浅く寄せ場が拡散してきたように思えます。バラバラにされ た個人の身体の中に寄せ場は移動してきたと言えるかもしれない。殊に若い人たちにとっては「寄せ場」とははなからそういうものであるかもしれませんね。
そこでどうでしょう。今回の取材などで若い人たちと付き合って、何かそういう話などをしたことはありますか?
織田 今回の取材に際してはいわゆる“活動家”と呼ばれてた方達が多かったので、なかなか若い方と付き合うという機会は少なかったんです が、山谷の炊き出しなどを中心に活動している方たちと写真集を通して新しい交流ができましたね。80年代の寄せ場というのは、対立の構造がはっきりしてい ました。まだ仕事そのものがありましたからね。しかし今は仕事そのものがない。そして敵がどこにいるのか分からない。排除の流れは一層強まっていると思い ますし、そういったことにとても敏感な若者たちもまた増えているような気がします。まだ出版して1カ月半ですが、置いてもらっている本屋さんやショップの 方とお話をすると、「若い人のほうがむしろ興味を持ってくれますよ」と。写真を見てびっくりするようなんですね「え、こんな時代があったの」って。しかも まだ20年そこそこの間でこれだけ街の様子が変遷していることに興味をしめしてくれているようです。

─時代を超えた「対話」─

池内 じゃ、写真の話をしましょう。南條直子の写真を見てどんな感じでしたか。南條さんの寄せ場の写真を最初ご覧になった時に、どうお考えになりましたか?
織田 そうですねえ、私は正直、うらやましいなあと思いました。だってこれだけ怒りを怒りとして表出できる時代があったのか、と思ったの で。「俺たちだってやるときゃやるんだ!」そんな表情してるじゃないですか、南條さんの写真に写っている労働者の顔って。今の日本のどこにこんな風景があ るかなあと思います。逆に言えば、今の日本の中ではこういう写真はもう撮れないでしょうね。撮れないからジャーナリズムに関わる仕事をしている方は海外に 行かれるのかなあと。
怒りって、否定的なイメージがあるかもしれませんが、人が人として生きていくのに重要な感情のひとつだと思うんです。それを素直に出し切れる場所がある というのは、実はすごいことなんじゃないかと。今は怒りを出す場所もない。みんな自分の内に込め、その澱がどんどん溜まっていく。そのうち腐っちゃいます よね。怒りは時に生きるエネルギーになります。無気力、無関心は、怒ることすらできずに諦めてしまった人たちが自己防衛のために抱く感情のような気がして なりません。だからこの写真を見て、私たちは理不尽なことや、不当なことがあったらもっと怒っていいんだって。たとえば原発によって故郷を奪われた人たち も、自分たちを押しつぶそうとする力に対してもっと怒っていいんだと思うんです。
池内 南條さんはもう亡くなっているので、その後のことは想像で語るしかないんですが、──アフガンに行って、悩みながらもう1回山谷に 戻る。それでアフガンの本を作って、またアフガン行く。それで、もう1回帰ってきたらまた山谷なり寄せ場に足を向けたとぼくは思うんですよね。そういう一 つの目線(めせん)といいますか、自分の中での一つの「つながり」というようなものですね。文章も、さっき言いましたけども家族に対する手紙の中でスト レートに自分の感情をちゃんと書く、それで表現としてもストレートなものを選んでいく。で、興味があったらアフガニスタンまで飛んで行くという一つのパッ ションと言いますか、情熱と言うかそういうものを持っていると、やっぱり一つの表現というのは力を持つという事ですよね。一般的にいわれる技巧の問題では 全く無くて、一つの表現の仕方、あるいは表現に向かう姿勢といいますか。そういう意味で、まあ月並みな言い方ですが、僕は南條直子っていうのは一つの作品 みたいな、それ自体が一つの時代の作品みたいな感じがしているんですけども。──時間もあまりないので、最後に一言どうぞ。
織田 南條直子がひとつの時代の作品という言葉。それに近いものは感じますね。彼女はもっと世間に周知されていい人物だと思っています。 生きていたら間違いなく日本のジャーナリズムを背負うひとりになったと思いますし、物書きとしての才能を生かしていたかもしれない。地雷を踏んで……とい う部分だけがクローズアップされがちですが、やはり彼女の遺した仕事をしっかり評価したいと思っています。実は彼女の山谷写真というのは、当時あまり評価 されていなかったんですね。技術力、技巧的な問題ですよね。
もともと器用な人ではなかったし、周囲からは“写真になっていない”といわれていたようです。しかし映画もそうですが、写真もまた生きものなんだなと思 います。時間の経過とともに、南條さんの写真は見事に化けたと思いますね。記録としてももちろん貴重ですし、見る側が自分の立ち位置や生き方そのものを問 われる。そういう念とか、情が込められた力のある写真だなと思います。
今回あえて自費出版という選択に踏み切ったのは、売れる売れないは度外視。心から作りたいものを形にしたかったし、本当に興味を持った方の手に渡ればい いなと思っていたからです。それが思いのほかいろいろな世代の方たちから反響があり、嬉しい悲鳴を上げています。南條さんの撮影した山谷の写真と、二十年 以上の月日を経て私が見つめた南條直子考。それは時代を超えた山谷を介した「対話」であると感じています。恐らくこういった作品は珍しいのかなあと。興味 を持たれた方はぜひ、開いて頂けたら嬉しいなと思います。
池内 どうもありがとう。何かご質問がありましたら、この場でもよろしいですし、隣に同じ位のスペースがありまして。いつもこの場が終 わった後には、まあお酒とかお茶とか用意してありますので、織田さんや僕ら上映委に対する、質問とかお話とかをしてますので、もしお時間のある方はお残り 下さい。では、この場はお開きにします。どうもありがとうございました。
織田 ありがとうございました。
【2012年7月7日 plan-B】

*その後、本書は増刷されました。

2012年5月12日

plan B定期上映会

講演●光州からソウルそして東京へ――テント芝居『野火』公演  
池内文平(『野火』作・演出)

2012年4月6・7日韓国光州、4月11・12日ソウル、そして6月23・24日東京。日韓のメンバーとともに転戦の『野火』について作・演出の池内文平に語ってもらう。
出演○ばらちづこ・おかめ・森美音子・瓜啓史・リューセイオー龍・桜井大造・疫蝿以蔵、そして韓国光州のシンミョンの役者たち。

ウォール街を占拠せよ

―オキュパイ運動について私の見てきた二、三のこと
小田原 琳 
(大学非常勤講師)

小田原です。どうぞよろしくお願いいたします。今、ご紹介いただきましたように、私はもともとはイタリアの歴史を研究しています。それが、去年の10月 に偶然が重なってニューヨークに一週間程行く機会を得ました。その主たる目的は、オキュパイ・ウォールストリート(OWS)を見て来ることでした。
OWSの経緯のなかで、2011年10月というのはごく初期にあたります。その後、占拠運動は非常に広がっていきましたし、またニューヨークの占拠運動 そのものもずいぶん姿が変わってきたということもあって、私が自分の目で見たことは本当にごく一部です。今のウォールストリートや全米の占拠運動の状況の 大きい転換点を目撃したとか、そういうことはありません。ですから今日は、私たちが去年の三月に震災を経験して、そのあと皆さんの中にもデモなどに行かれ ている方がいらっしゃると思いますが、主として原発の問題に関してこの社会が大きく動いている、そういう状況を踏まえたうえで、占拠運動とはどういうもの なのかを、私なりの観点からお話ししたいと思います。

OWS以前

まず、OWSを私たちがどのように見たか、ということを振り返ってみますと、2011年は本当に世界が動いていた時でした。2010年の終わりくらいか ら、いわゆる「アラブの春」や、今も続いているギリシャやスペインなどの欧州の経済危機と緊縮財政をめぐって大規模な抗議運動が起こっていた。そういうも のを見ていた時に、私たちは震災を体験したわけです。自分たち自身も、何か根底から大きく変えられるような、そういう経験をした。そして、2011年4月 に高円寺で1万5000人が集まる「原発やめろデモ」が行われたのを皮切りに、9月には明治公園で6万人集会がありました。ちょうどその頃、ウォールスト リートの占拠がはじまりました。私たち自身が、何かを抗議する群衆のなかに身を置くという経験をしながらこのウォールストリートの占拠を見たということ は、それ以前とは、そんな世界を見ていなかった時とは全然違う見方をしたと思います。少なくとも私はそうでした。私はイタリアが専門ですから、以前はアメ リカにあまり興味がありませんでした。「悪の帝国」みたいなイメージしか持っていなかった。でもそこに住んでいる人々が、「私たちは99パーセントだ」と いうあの有名なスローガンを叫んで動きだしている。これはどういうことなんだろう。そう思いながらウォールストリートに行きました。

経過

OWSが占拠していたズコッティ公園は、マンハッタンの南端にあります。もっと南には、グラウンド・ゼロがあって、そことウォールストリートの間にあるのがズコッティ公園で、そういう意味ではすごく象徴的な場所です。「オキュパイ・ウォールストリート」(http://occupywallst.org/) という公式サイトがあるので、そこで見られる写真を見ながらご説明します。これが占拠しているズコッティ公園というところです。これは昼間で(写真1)、 夜になるとこんな感じにテントを張って寝ていました(写真2)。占拠運動が始まったのが2011年9月17日と言われています。それ以前に、夏頃から、ど ういうふうに占拠したらいいかという会議があったそうです。ニューヨークに行った時に、占拠運動に最初から中心的にかかわってこられた何人かの方とお話し する機会があってうかがったのですが、夏ぐらいから、どういう戦術でいくかとか、運動の中で人々の関係をどういうふうに作っていくかということが、本当に 激しく議論されたということです。最初は、従来型の、例えば伝統的な労働組合など、もともと運動体を持っているような団体が中心になって、そこの人たちを 動員するような形で占拠をやろうと考えていたらしいです。ただ、それではおもしろくないというか、そういうやり方じゃないほうがいいんじゃないかと思う人 たちが、そこからはずれてきて、毎日夜7時にジェネラル・アセンブリー(集会)をやりはじめるようになったということです。それが8月頃です。そして9月 になって、こういうふうに実際に占拠するようになりました。

zuccotipark1 写真1:昼間のズコッティ公園

zuccotipark 写真2:夜のズコッティ公園

写真のように、夜になるとみんなテントを張って寝ています。昼間はたたまれています。私が行ったのは10月の20日前後でしたが、ちょうどこんな感じで した。だんだん寒くなってきて雨も降ってきていましたが、それでも300から400人くらいは毎晩いたと思います。昼間は1,000から2,000人、お 休みの日だと増えるという感じでした。そのように、みんながずっとここにいるではなくて、仕事をして、夜にまたここに来るという人も多かったです。そんな 形で進んでいました。
このズコッティ公園の占拠は、11月15日に大規模な強制排除があって終わってしまいます。現在は、とにかくニューヨークは寒いということもあって、こ こに泊まっている人はいません。日中集まってきて、いろいろな集会をしたり、ジェネラル・アセンブリーをしたりして、夜は帰るというような感じになってい ます。
OWSとズコッティ公園は占拠運動の中心だというふうに見られるようになって、メディアもたくさん来るようになりましたが、現在は、運動は全米各地に広 がっています。最初はズコッティ公園からニューヨークの各地区に広がり、その後、全米に瞬く間に広がっていって、今では2,000くらいあると聞いていま す。いろいろな地域に、いろいろな形で広がっていったわけですが、そうなっていくと、いろいろ課題が出てきました。
有名な「99パーセント」というスローガンがありますけれども、実際に見に行ってすごく印象的だったのは、みんな個々バラバラなことを主張していて、か といってその訴えを是が非でも解決して、何かを勝ちとらなきゃいけないという感じではないんです。それが、この運動の弱さだと、去年の終わり頃にはアメリ カでも日本のメディアでも言われていましたよね。具体的な獲得目標がないということが弱さだと。実際、全米で厳しい弾圧が続いています。例えば、これは 10月に、ブルックリンブリッジで700人が逮捕された時の写真です(写真3)。マンハッタンからブルックリンに渡る橋を行進している時に、逮捕されたも のです。その他にも、これは有名な写真なので皆さんもご覧なったことがあるかもしれませんが、座り込みをしている学生に対して警官がこの赤いスプレー、 ペッパースプレー(唐辛子のスプレー)を、顔色一つ変えずにかけている写真です(写真4)。まったく抵抗していないのに。うしろにいるメディア関係の人た ちも、さすがに非常に驚いた顔をして見ていますね。これはかなり衝撃的な事件でしたが、このように弾圧もどんどん厳しくなっています。しかしそれにもかか わらず、どんどん運動も全米に広がっていっています。これはどういうことなのか。本当に「弱い運動」なのでしょうか?

brooklynbridge 写真3:ブルックリンブリッジでの弾圧

pepperspray 写真4:ペッパースプレーをかける警官

 

だれの運動か

各地に運動が広がるにつれて地域ごとの課題が出てくるので、その取り組みが具体化しているところもありました。この具体的な取り組みについては、また後 でお話ししますが、そこからもわかるように、本当にいろいろな人たちが占拠運動には参加しています。ただ、OWSに関していえば、最初の核になっていた人 たちのなかには、古くから労働運動などをやっている人たちとともに、アナキストのグループがいたと言われています。アナキストといわれてもどういうものな のか、私たちにはあまりイメージがありませんが、かんたんに言えば、既存の制度やさまざまな組織によらない形で、人間と人間の合意にもとづく自由な社会を つくっていこうとする人たちと言えばいいかもしれません。そういう人たちから、従来型とは違う、ジェネラル・アセンブリーというやり方が出てきたそうで す。とはいえ、中心になっているグループがあるわけでもなくて、本当に雑多な人たちが集まってやっているのですが、しかし運動のなかで守らなきゃいけない こととして掲げていることが二つあります。一つは直接民主主義ということ、もう一つは非暴力ということです。これは先ほどのサイトにもはっきりと書かれて います。ただ、直接民主主義と言ったって、それをどうやって実践するんだという話が出てくるわけですよね。それがジェネラル・アセンブリーのやり方や、公 園のなかの共同体づくりになっていきます。公園のなかには、無料のキッチンがあって、寄付された食べ物が無料で配布されます。そのほか図書館や、これも寄 付された衣類を無料でもらえるようなコーナーなどがつくられていました。今は占拠が終わってしまったのでなくなってしまいましたが。そういう、無償でいろ いろなものを交換できたり助け合ったりできるような、理想に近い共同体がつくられていきました。

直接民主主義

これは、ジェネラル・アセンブリーの映像です(「ウォール街占拠2011」http://www.youtube.com/watch?v=INtHFqv5Y7M&feature=youtu.be)。 一人が話したことをみんなで繰り返しています。ニューヨークでは、公園など公共の場所で拡声器を使うことができません。ですから、ジェネラル・アセンブ リーなど、その公園にいる、数百から千人くらいの人が一つの会議をするような時に、会話を伝達する手段がないんですね。それで編み出されたのが、この、 ヒューマンマイクというものです。一人が発言をする。そうしたら、その周りにいるみんなが同じ言葉を発言します。そうやって声を大きくしてみんなに届かせ る。これは、みんなに届かせると同時に、その言葉そのものを共有するという効果があります。これは誰が発言してもかまいません。発言したい人がまず「マイ クチェック」と言うと、周りのみんなが必ず答えるという形でやっています。そういうふうにして、直接、人と人が顔を合わせ討議をする場を作っていく。そう いう方法もいろいろ考えていく。
写真がないのですが、いろいろな種類の「ハンドサイン」というのがあって、今の意見に賛成だとか反対だとか、ちょっと待ってとか、そういうことも全部手 のサインで示せるようにして、数百人という規模でも直接討議できるような環境を作っていく。そういう努力をしています。拡声器を使える地域では拡声器を 使ってジェネラル・アセンブリーを行っていますが、でも言葉を繰り返す、そしてその言葉や言いたいことを共有するというやり方は、各地の占拠運動の中で広 く用いられているようです。それが彼らの直接民主主義を支える一つのやり方になっているということです。彼らは、そのことにはすごく自信を持っていまし た。これは自分たちが編み出した、直接民主主義のための非常にいい手法だと。

〈暴力〉

もうひとつのモットーは「非暴力」です。あえてこう掲げるのは、裏返せば、こうした集合的な運動ですので、暴力という問題が必ず出てくるからとも言えるでしょう。ですから、OWSをとりまく〈暴力〉の問題について、お話ししたいと思います。
第一に注意しなければならないことは、写真でお見せしましたように、警察から暴力をふるわれるということです。私が行った頃は、公園でお となしく寝ている分には、警察が介入することはありませんでした。ただ、占拠運動というのは、公共の場所を占拠する以外に、毎日のように様々な問題につい てデモをします。例えば「今日は金融資本主義の象徴である、非常にあくどいメガバンクのまわりをデモしよう」というような感じでデモをします。そうやって 公園から出ていくと、すごく厳しい弾圧を受けます。多分、この運動では、全米で延べで万を越えるような人びとが逮捕されていると思います。そういう警察の 暴力というものがあることを、まずきちんと認識しなければなりません。弾圧の際には、どんなにこちらが非暴力を掲げていても、日本でもそうですが、タコ殴 りにされてしまいます。さらに、それ以前にすでに非常に多くの人びとが、「我々は99パーセントだ」という表現にも表れているように、仕事を失ったり、家 を失ったりして、資本主義そのものによって傷つけられています。しかし占拠運動に参加している、あるいは占拠運動にシンパシーを持っている人たちが暴力に 傷つけられているということを、メディアが語ることはありません。メディアに出てくるのは、デモ隊がどういうことを、どんな乱暴なことをしたかという話ば かりです。
その中で、特にデモや集会などで、その暴力部隊みたいに言われるのが「ブラック・ブロック」と呼ばれるグループです。これは、何かイデオロギー的に共通 性がある特定の人たちのグループというのではなくて、そういう一群を、戦術的にあえてデモや集会の中につくっています。多くの場合フードのついた黒い服を 着て、黒いスカーフなどで顔を覆ったりしているので、ブラック・ブロックと呼ばれています。なぜそういうグループがあえてつくられるのか、その戦略的な意 味はなにか。彼らが実際に何をするかというと、人に対する攻撃はしません。物を壊すことはあります。つまり資本主義的な物質を壊すということを通じて、資 本主義に対する抗議を表明する。それと、先ほどお話ししたように、警察の暴力が激しいので、場合によってはそうした人的な暴力にも対抗できるのだというこ とを、姿によって示しているという意味があります。実際には圧倒的な武力の差がありますから、ほとんど抵抗はできません。黒い服を着て目立たせているとい うことからも、ブラック・ブロックが象徴的な意味でつくられていることがわかります。しかし、見た目が恐いということもあって、警察からも狙い撃ちにされ るし、また運動の中からも「お前らのようなのがいるから、デモに対する弾圧が厳しくなるんだ」というような言い方が出てきてしまいます。ブラック・ブロッ クは「占拠運動の癌」だ、占拠運動がこれ以上大きな広がりを持つ、あるいは成功するためには彼らのような者がいるのは問題だという批判が運動の中から出て きてしまう(クリス・ヘッジス、https://www.commondreams.org/view/2012/02/06-3)。
もちろん、そうした批判に対して、同じように運動の中から反論が出ます。そもそも最も大きな暴力は何か。運動に対して外からしかけられる暴力ではない か。そのことを無視して暴力批判をするのはおかしいということ。また、「自分たちの運動の中にああいうのがいるのは問題だ、だからああいうのは排除しな きゃいけない」というふうに言ってしまうと、それは結局、今の社会でやっていることと同じことになる。つまり、何かを排除しなければならないという言説そのものが、運動の中に排除という暴力を呼び込んでしまうんだという反論です(デイヴィッド・グレーバー、http://nplusonemag.com/concerning-the-violent-peace-police)。 これは暴力についての、あるいは社会における排除についての、とても本質的な批判だと思います。それが今、運動の中で交わされています。ブラック・ブロッ クを批判しているのも、占拠運動に参加したり、好意的に評価したりしている人たちではあるのですが、そういう人たちですら、警察の暴力は問わず、運動参加 者の暴力だけをことさらに取り上げるマスコミの「〈アクティヴィストの暴力〉という神話」(レベッカ・ソルニット、
http://www.tomdispatch.com/post/175506/tomgram%3A_rebecca_solnit%2C_why_the_media_loves_the_violence_of_protesters_and_not_of_banks/)に毒されてしまっているのです。
もうひとつ、OWSと〈暴力〉について、ぜひお話ししたいことがあります。それは女性や性的少数者、あるいはホームレスなど、社会的マイノリティに対す る暴力の問題です。これは警察権力などとは関わりなく、運動の内部に出てきてしまう問題です。そうした問題が起こった時に、どう対処するか、どう解決して いくか。それを直接民主主義の中でなんとか道を模索しているということも、非常に興味深いところでした。私たち自身にも何か参考になるところがあるのでは ないかとも思いました。
私はニューヨークに行く前に、日本の反原発運動の中でいくつかのデモに参加していました。その中で、いろいろな人と話しをしたり、いろいろな反原発の表 現を見ていて、個人的には運動の中のジェンダーの問題がすごく気になっていました。このことは今日のテーマとは関わりがありませんから詳しくはお話ししま せんが、ふだんから疑問に思っているような性差の問題やジェンダー・バイアスなどが、反原発運動の中でも繰り返されている側面があるな、ということです。 ですから、占拠運動の中ではこうした問題はどうなっているのかなと思いながら見に行っていました。ただ、実際には私が行った短い間では、どういう問題があ るのかはあまり聞けなかったし、具体的に目にすることもありませんでした。でも、帰ってきて二週間くらいしてからでしょうか、聞くことがありました。それ は、あのズコッティ公園でレイプ事件があったということです。写真でご覧になったように狭い公園で、そこにいっぱい人がいる。しかも、ニューヨークだけ じゃなくて全米から参加者が来ていますから、たいていの人が顔見知りではない。でも、すごく雰囲気はいいんです。私のような見物客が突然行って話しかけて も、どういういきさつでここに来ているのかとか、自分たちの主張はこういうものだとか、とてもフレンドリーに話してくれます。しかし、そういう場所で、レ イプ事件が起こってしまった。
これは被害者がいることなので、もちろん被害者がどういう解決を望むかということがいちばん大事です。例えばその被害者が、加害者を警察に訴えることを 望めばそうする。ただ、自分たちのコミュニティ、ズコッティ公園の中のコミュニティを、問題が起こったときもきちんと自分たちの力で維持するという意味で は、警察権力に訴えることが全てではないわけです。被害者の中にも、そういうふうにはしたくない言う人もいる。これは、一般的に性的な暴行の被害にあった 人が公にしないで欲しいというのとはまた違ったことだと思います。そうではなくて、ここが何か新しいものを生み出す空間であるならば、自分たちの力でそれ を解決しなければならないと考えたということだと思います。
ではそういう時にどうするかということで、いろいろな形が編み出されています。女性や、性的な被害を受けてしまう危険のある人が安全に眠れるようなス ペースをつくったり、話し合いの場を持ったり。加害者が話し合いに応じない時は、非暴力的な形で加害者に対してどういうふうにしたら、それを繰り返させな いか、その方法を考えたり。そういうことを話し合いながらつくりあげていくわけです。これは本当に厳しいことだと思います。自分がもしそういう立場、被害 者であったり加害者であったりしたら、あるいは身近の、自分たちが大切だと思っている空間でそういうことが起こったら、それにどう対処するかということに きちんと向き合うのは非常に厳しいことだと思うんです(小山エミ、http://news.livedoor.com/article/detail/6023090/
ひとつVTRを見ていただきます(「オキュパイ・ウォールストリートの女たち」http://www.youtube.com/watch?v=tYTHxjIDggE)。これは主に女性が、占拠運動の中でも出てくる抑圧に対抗する方法をどうやって具体化するかという取り組みを撮ったものですが、このような取り組みは今も続いています。
こういうところにも表れているように、占拠運動ではコミュニティというものに対する意識が非常に高い。これは特にズコッティ公園が小さい場所なので、そ ういう傾向があったのかもしれません。でも、地域コミュニティという意味で言えば、今、占拠運動は全米に広がっていっています。そして、その地域コミュニ ティの中でどういうふうに運動をやっていくのかという問題が出てきています。先ほど各地域でその地域固有の課題に取り組むようになっていると言いました が、例えばニューヨークの中では、ブルックリンやハーレムという地区は貧しい人が多かったり、あるいは有色人種が多かったりしますので、ウォールストリー トとは違う、そうした固有の問題が出てくるわけです。
最初に流したVTR(「ウォール街占拠2011」)の中では、人種の問題が出てきます。運動の中で、どうしても白人の発言力が大きいというような問題は あります。それをどういうふうに解決していくか。それも時間はかかるけれど、話し合いながらやり方を模索しています。外の社会にある問題が、この占拠運動 にも現れているということなのですが、それをどういうふうに克服していくかということにも真剣に取り組んでいます。それもまた、自分たちのコミュニティを どうやってつくっていくかという強い問題意識に基づいているのだと思います。この場合、コミュニティというのは、いわゆる地域や、公園という空間的な意味 だけではなくて、人と人との関係のつくりかたの総体を指していて、それを問い直すことにもつながってきています。

〈コミュニティ〉と〈コモンズ〉

このような、空間を共有したり、物理的に何かを共有するということを超えた〈コミュニティ〉を、〈コモンズ〉と呼ぶことがあります。占拠運動では、食事 や図書や衣類、かんたんな医療など、物理的な共有が見られますが、それはもう一歩進めて考えると、怒りや悲しみ、喜び、あるいは病いなど、そういうような ものも共有することなのではないか、ということです。病いや苦しみや死という、今までは個人的な領域とされてきたものも共有していく必要があるのではない か、そういう課題に向き合っていこうとしているのではないかと思えます。これは政治的なスローガンになるような事柄ではありませんから、これが今後の占拠 運動の何かの獲得目標みたいになることはないと思いますが、彼らが目指しているもの、つくりだそうとしているものとはそういう〈コモンズ〉だという主張が あり(シルヴィア・フェデリッチ「これは再生産をめぐる闘争だ」『女たちの21世紀』第39号、2012年3月)、私もそうではないかと思います。
外の社会、自分たちが今、現実に苦しめられている社会を変えるには、単に「99パーセント」というスローガンを掲げるだけではなく、何がどこまで既存の 構造の中に取り込まれているのか、あるいは自分たちの内面にどこまでその社会が入り込んでいるかということを問う必要があります。もしかしたら単に経済的 な問題だけではなく、身体や感情まで、奪われてしまっているかもしれません。互いに議論することによって問題を解決するというのは、いろいろな難しい感情 が出てくるだろうと思いますが、それも話すことによって共有しようとすること、それを通じて新しい社会の在り方を模索してゆく。そういう方向に占拠運動は 向かって行きつつあるのではないかと思います。
そういうふうに占拠運動のことを考えた時に、実は私たちはそういう経験をもうしてるんじゃないかと、ふと思いました。震災直後の三月から四月頃など、私 たちはとても不安な状態に置かれていました。でも、同時に友情や、あるいは見知らぬ人とのあいだに突然生まれた関係などのなかに、新しいものを見いだした ような瞬間があったような気がします。震災の当日、東京では多くの人が帰宅困難に陥りました。その時に、お店を一晩中開けていてくれて、入れてくれたり、 全く知らない人と隣り合って助け合ったり、暖かい食べ物や飲み物、カイロなどをわたしてくれたり。そういうことを多くの人が経験する空間がありました。あ れが、〈コモンズ〉というものを一部形にしたような経験だったんじゃないだろうかと思っています。
アメリカの作家、レベッカ・ソルニットは、このような経験のことを「災害ユートピア」と言っています。同名の著書があります(レベッカ・ソルニット『災 害ユートピア』亜紀書房、2010年)。災害の直後というのは、みんなパニックになると思われていますが、実際には誰一人パニックにならない。本当に自然 にお互い助け合ってしまう。「恐いよね」「不安だよね」という感覚を自然に共有していく。そのような、いわゆる〈コミュニティ〉というようなしっかりした 基盤や関係はないけれども、しかし共同体的な感覚が生まれる。それを論じた本です。占拠運動が向かいつつある、あるいは実践しながらつくりだそうとしてい る、物理的なものと同時に感情的な経験も共有するような共同体――それは場合によっては、気持ちが悪い、居心地が悪いということもあるかもしれませんが ――、これまでとはちがった意味での共同体というものが、実際にどういうものなのかを想像するのに好適な本だと思いますので、機会があればお手に取ってみ てください。
(2012・3・3 planB)
*写真はすべて コピーライトhttp://occupywallst.org/

2012年3月3日

plan B定期上映会

ウォール街を占拠せよ――オキュパイ運動について私の見てきた2、3のこと
小田原 琳(大学非常勤講師)

2011年のはじめ、私たちは中東で高まりを見せていた、後に「アラブの春」と名づけられる民衆蜂起を見守っていました。3月11日以降は、この日本の社会が、世界からの注目を浴びる場となりました。それは当初は自然災害と原発事故の惨状と恐怖によるものでしたが、原発反対を訴える街頭行動が爆発したときそれに最初に注目したのも、国外のメディアでした。同じころスペインでは怒れる若者たちが広場を占拠し、ギリシャでは望みもしない借金を無理やり取り立てられることに抗議する人びとが立ちあがっていました。そして9月、ウォール街占拠が始まります。2011年とは、それぞれの場でそれぞれの理由で人びとが立ち上がり、海を越えて、たがいを共感をもって見つめてきた年でもあったのです。オキュパイ運動のはじまり、そしてそれが胚胎するものが私たちにとってどのような意味をもつのか、ほんの少しだけ見てきたことを含めてお話したいと思います。

「非在」の言葉を明るみへ――

大場ひろみ(ちんどん屋・『チンドン-聞き書きちんどん屋物語』著者)

ちんどん屋の誕生大場

じゃあさっそく、始めたいと思います。さっさと終わってね、楽しいお酒を飲みたいと思うんで。まあチラシにも書きましたけども、この 映画と何か関連付けられるかなというところですと、社会の下層としてちんどん屋っていうのは、あんまり言いたくない言葉ですが「バカ、カバ、ちんどん屋」 なんていう差別的な言葉もございまして、非常に顧みられないものとして存在していまして。そういう者の声を届けようという試みとして「山谷」の映画と非常 に通ずるところがあるように思って、今日はやらせていただきます。
で、この『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』という本の中で、ちんどん屋というものを私が仮に定義付けしました。街頭で鳴り物入りで宣伝するという行 為はずっと昔からありましたので、ある程度線引をしたいと思いまして。さっき叩きました、あれをチンドン太鼓と言います。このチンドン太鼓を使って宣伝す るという事を始めた人達をちんどん屋さんとしました。私たちは今まだやってますけれども、このちんどん屋さんについて歴史的にちょっと話をしたいと思いま す。
街頭でこのチンドン太鼓を使う前も、宣伝する、広告をするという人達はたくさんいました。それは明治時代に楽隊という形でやられていました。楽隊という のは、大人数の、まあマーチングバンドみたいなのを想像していただければいいんですけど。西洋式の鳴物みたいのがガァーと。その人達がガンガンやって、一 人が口上を語れる人がいて。
あたし達は普段チンドンで宣伝する時に「ハイ、なになに屋さんがただ今開店いたしましたあ」って言って「どうぞどうぞお入り下さいませ」みたいな事をワ アワア言うんですけども、そういう事をやる。楽隊と、そのワアワア言う、口上を付ける人がいて。それからあと、たくさん幟を持ったりして宣伝して回るんで すね。明治時代に派手に規模を大きくしてやるっていうのが流行りまして。それは、「福助足袋」とか「天狗煙草」とかっていう、そういう大メーカーが幟が何 十人、楽隊が何十人、口上掛ける者が何人という形で、もう何十人の大規模の人を雇って。全国キャラバンさせるんですね。物凄い経費掛けるわけです。まあ当 時メディアというものはないですから。テレビもラジオも何にもない時代、それが大きなメディアとして宣伝というのを引き受けてたわけです。とってもバブ リーなんですね、今から考えると。ただ、そんな事をしているのは明治の末で終わります。なぜかって言うと、もう景気が悪くなる。あとうるさいとか、当局が 規制をかけてきます、どんどん。それと見てる人も飽きる。ていうんでこういう広告がなくなっていきます。まあ景気の落ち込みっていうのが非常に重要な問題 なんですが。
大正時代になりますと、今度はギュッと凝縮して4、5人しかいない楽隊とかね。こういうのは「ジンタ」なんて呼ばれてね。ちょっと哀れっぽく言われたり する事あるんですが。それからあと「五人囃子」と言いまして、落語とか行かれる方ならご存じかと思うんですが「出囃子」と言いまして、咄家さんが出て来る 前に「テケテンテン」といろんな鳴物が鳴って出て来ます。その出囃子をやってる人達が陰の所にいるんです。今は二人位でやってるらしいですけどね。一応5 人の楽器。ええと大太鼓、それから締太鼓、それから鉦(かね)、三味線、笛。これで五人囃子っていうんですが。これがセットになって街頭を練り歩きます。
その時には「底抜け屋台」と言いまして、底がこう抜けてて、車は付いてるんですけど自分達でこう入って、これを引きずって歩くのね。何で屋台に入るかわ からない。今はちょっと想像がつかないんですが。それに入って鳴物を鳴らしながら、こう宣伝していくんですね。まあそういう省力化したものが生まれまし て。ようするに景気が悪いから、いっぱい人を雇えないので人数がドンドン少なくなっていきます。この五人囃子がさらに5人でも多い、もうちょっと安くした い。景気はドンドン悪くなっていくわけで、そういう要請のもとにこのチンドン太鼓が生まれるわけです。
このチンドン太鼓が生まれた瞬間を語っているちんどん屋さんがいるんですけども。小松家久三郎さんっていう麻布のちんどん屋さんですね。この方がある雑 誌の中でこんな事を言ってるんです。「六本木の商店で宣伝をやるために、笛、三味線、カネ、太鼓の芸人を……」ようするにさっき言った五人囃子ですね。こ れを「集めたがカネを叩くやつがやってこねェ。あっしは太鼓叩きなんですが、めんどうくせェ、カネもいっちょう引き受けやしょう……と太鼓の上にカネをく くりつけ、これがちんどん屋のはじまり」であるというふうに語っております。実際この方が本当に元祖かどうかはわかりません。勝手に言ってるし、そんな奴 はもういたのに、まあ俺が元祖だと言いたい人はどこでもいるもんですから。
それがこのチンドンという楽器の形になるわけですね。こういうふうに見せればわかるんですが、これが大太鼓、そして締太鼓、鉦。まあ和製ドラムですね。 ようするに五人囃子がこの形になる。そうするとあとは口上が切れればたった一人でできるんです。もうそれまで100人位で宣伝したものが、いつのまにか5 人、4人になりまして最後はこれ。そうすると、もうどんな商店でも雇えるわけです。一人分払えばいいんだから。身近な商店でドンドン宣伝できるようになり ますよね。あと寄席とかも安上がりの宣伝に使うようになります。最初のちんどん屋はチンドンだけを叩いて一人でやっておりました。これは五人囃子をさらに 省力化して究極のコンパクトな宣伝スタイルを通したという事ですね。
今は最低三人でやってます。さっきはチンドンとサックスの二人でやってみせましたけど、あともう一人ドラムっていう、ちょっと大きいマーチングドラムと 似たようなものを叩く人がいて、今は三人でやってますけども。最初のちんどん屋は一人です。これはクライアントさんにとっても安くすむし、頼まれる方だっ て一人でできるから手軽にどこへでも行けるし、安上がりに始められるし、非常に究極のアイデア商売なんです。これを発明したのは貧乏人です。貧乏人自身が 考えて作ったという事で、これは私は、非常に誇らしい事だなと思ってるんですね。大体こんな事をやるのは金持ちじゃありません。金持ちの人はこんな事は考 えません。

長屋こそがちんどん屋の揺りかご

さっき証言者として取り上げた小松家久三郎さん。この人は麻布に住んでおりました。いま麻布というと金持ちばかりが住んでる場所だと皆さん思いますよね え。さっきの記事の、彼がちんどん屋の元祖になったっていうのは六本木の辻です。そうすると、そんな所に貧乏人がいたのか、貧乏人がやるような店があった のか。まあ今では想像もつきませんが、その頃の麻布、六本木界隈は長屋や寄席が建ち並ぶ、もう貧乏人の町でした。そのあたりには小松家、大松家、かぶら家 などというちんどん屋さんがたくさん住んでおりまして。たとえば、かぶら家さんというちんどん屋さんがありました北日ヶ窪町という所は今の六本木ヒルズで す。六本木ヒルズができる前はですねえ、この写真、ちょっと見えるかなあ。小さくてわかりにくいんですけど、ホームページ(注:現在は閉鎖された模様)で こういうのを探したんですけど。この北日ヶ窪町にあった長屋です。長屋街。六本木ヒルズが建つちょっと前までこういうのが建ってました。つい最近まであっ たっていうのは驚きますよねえ。うちの旦那が大工やってまして、ヒルズに工事に行く事があるんですけど。そうするとね、六本木ヒルズのエレベーターから、 あのヒルズ族とは想像も及びもつかないような庶民的なお爺ちゃんやお婆ちゃんが自転車をよろよろと押しながら出てくるんだそうです。で、想像したんですけ ど、北日ヶ窪町のこの貧乏長屋に住んでた人達が、立ち退きを迫られてヒルズに住んじゃったんじゃないかなと。
このような長屋っていうのはちんどん屋にとって大きい意味を持っております。これについていっぱい証言者がいます。私は文献で歴史を起こしてるわけじゃ なくて、ちんどん屋さんの話を聞いていく、いちいち証言をあげていくという事が大事で、うざったいけど、ちゃんとそれをやりたいと思ってるんです。
えーと、みどりや進さん。この方は戦前に世田谷区太子堂のあたりに住んでいたちんどん屋さんです。世田谷区太子堂のその家には「ちんどん屋、役者、楽隊 屋とかが転がり込んでいたのよ。昔はのんきだよな、知り合いの知り合いなんて人が平気で転がりこんできて御飯食べてるんだよ。東京に初めから生まれて住ん でる人なんかいないの。田舎から出て東京へ来たらうまいことできんだろうと思って来た奴が、みんなうまくできなくて長屋に住んで、そういういろんな人たち がちんどん屋のとこに転がり込んでたの。そんな立派な所にちんどん屋が住んでるわけねえんだよ。また、そういう長屋に豆腐屋さんもほうき屋さんも大工さん もいて、いろんな職業の人たちが、みんなちんどん屋やったんだよ。だから昔は、『ほうき屋のよっさん』とかっていう風に、屋号よりも職業を頭に入れて、そ れぞれの職業で名前を呼び合ってた。」っていう事なんですけど。これが非常に面白い、長屋の説明だと思うんですよね。
このような東京の長屋は、まあ江戸時代の特に後半から、田舎から食い詰めて出て来る多くの流民を吸収して、形成されていました。ちなみに江戸というの は、奉行所の支配がありますね、北町奉行所、南町奉行所。その下は三人総年寄っていう、まあ町人なんですが偉い役目をした総年寄っていうのがいて。その次 に町ごとに町年寄っていうのがいます。それから家持ちの町人というのがピラミッド型に自治組織を作って、それで自治的に運営されておりました。家持ちの町 人っていうのは自治運営に参加できますけど、借家、つまりさっき言った長屋住まいの人間や奉公人、住み込みで働く人間というのは町の運営に参加できませ ん。だけど、家持ちの町人は様々なお金を払わなきゃいけないんですね。あちこちの普請、インフラ整備、それから冠婚葬祭の付け届け、そういうものを全て、 税金ではないんですけど代わりに払う義務があります。奉公人や借家人はこの義務から免れております。
この長屋に住むにも実は人別帳によって管理されたり、出入りの時に、引っ越しの時に証明書みたいなのがいるんですね。ところが、江戸の中期から大勢の人 間、労働力が必要になってきたのでだんだん支配をゆるくして適当に人が入れるようにしちゃうんです。口入れ屋っていうのがいて、口入れ屋っていうのは職業 斡旋所みたいなとこなんですけど。その職業斡旋所の人が身元引受人みたいになって。そうすると、どこの誰とも知らない馬の骨でも長屋に住んでもかまわない という事になるんですね。一応なんか鑑札っていうか、そういう抜け道がいっぱいできましたんで、江戸っていうのはどんどんどんどん大量な流民を抱え込ん で、そういう人達が主体となっていきます。
それから、江戸っていうのは大坂なんかと比べると非常によくわかるんですけど、非人―願人坊主、乞胸とかっていう芸人系の方々は居住地が町人の長屋街に 隣接したり、混在して住んでいました。そうすると、流民、非人とかのこういうわけのわからない人々がごちゃごちゃ蠢いていて、江戸という大きな街を形成し ていて、それで江戸を支える大きなエネルギーになったわけですね。管理する役人の側もそれを許容せざるをえないって状況だった。なぜわざわざこれを言うか というと、他の江戸以外の京都、大坂とかも全部街の作りが違います。ただこれほど緩い、いろんな流民を抱え込んだとこは江戸だけなんで。ようするに、ちん どん屋、まあ東京のちんどん屋ですけど、そういうものが生まれる土壌があるっていうのは、江戸時代からそういう特徴があるからだって事を一応押さえておき たいと思ってるんですけど。だから、みどりやさんが言う、知らない人が平気で上がり込んで御飯を食べているような、昭和初期の長屋まで一貫してそういうな んかごちゃごちゃっとした、誰でもいられるっていう事が続いてるわけですね。
97歳で大往生しました貴楽家富士子さんっていう方。ちんどん屋界では、もうゴッドマザーみたいな方で、女のちんどん屋の先駆けでして、そういった世界 を築いた方です。で、この人が自分の暮らしてる長屋の事を言ってるんです。台東区の金杉あたり、そこの長屋に住んでたんです。つい最近までその長屋があっ たんですけども、とうとう建て壊されて、今工事中になってるらしいんですけど、残念です。
「なにしろ、あらゆる人間が来るんだ。泥棒でも、乞食でも、何でも来い。ほんと、泥棒が捕まるとオレんとこに来るの。刑事が三人付いてきて『ずいぶん、お 世話になったから』って挨拶に来る。よそ行って泥棒しても、ウチからは何一つ盗らない。「御飯もおかずもあるから、食べるだけ食べろ」と言って、乞食、泥 棒に留守番さしとくの。ちんどんから帰ってくると、掃除して茶碗洗ってキチッとしてある」。泥棒や乞食に、すいませんね、乞食とか泥棒とかガンガン言っ て。そういう人達に留守番をさせて、彼らはそういう長屋の共同性の中では盗みは働かないんです。もっと別な所から盗んできますからね。まあそんな所が長屋 で、長屋こそがちんどん屋を産む揺りかごのようなものでした。

ちんどん屋を兼業するいろいろな人たち

この長屋には金持ちのやらない仕事をやる人達がたくさん住んでおりました。詳しく言うと長いのでちょっと端折りますけど、そういう職業を羅列してる本が ありましてね。長屋に住んでいる人達の職業について1909年(明治42年)の『東京学』(石川天崖著・育成会)という本と、1929年(昭和4年)の本 と比較して、例をあげてるんですけど。この中で住んでる人達を比較すると、明治と昭和初期とでは全然そこに住んでいる方々の種別は変わりません。主にあげ ると大工、左官等の職人系。アサリ、納豆等の行商。それからおでんや飴売り、屑拾い、車力、芸人等。これが全て明治から昭和初期まで共通しております。
昭和になると、特徴的な事は肉体労働者、日雇い労働者が増えます。これは多分工事、普請の仕事が増えてくる、あと工場労働も増えてくるんですが、それ以 外に特徴は変わっておりません。しかもこれは、親方達が戦後、昭和30年代くらいまで長屋に住み続けるんですが、それまでほとんど変わりません。だからま あ江戸時代の、特に後期から昭和30年代まであんまり変化がなかったという事が、この長屋の特徴だと思われます。このようないろんな人達がいたということ ですね。それから、ちんどん屋はちんどん屋だけってわけじゃないんですね。みどりやさんが言うように豆腐屋だったりほうき屋だったり屑拾いだったりする人 が、ちんどん屋を兼業でやる事も多かったんです。だから他の職業をやりながら簡単にシフトできる、それくらい安直にみんなちんどん屋っていうものをやれ た。まあ元手も掛かりませんし、一人から始められますから。で、しかも面白い。こんないい職業ないですから、みんなすぐ始めました。
菊乃家さんっていう向島のちんどん屋さんがいるんですけども、その方の話をまとめて佐藤俊憲君って人がマップを作りました。その地図によりますと、豆腐 屋の手伝いをしていたとうふ家っていう屋号のちんどん屋さん、それからうさぎを飼ってるからうさぎ家っていう屋号のちんどん屋さんとか、そういうのがいっ ぱいでてきます。下駄屋だったから下駄政とか、さっきのほうき屋のよっちゃんと同じような人達がここにもたくさん出てきます。今言ったうさぎ家っていうの は、うさぎを飼うのはペットで飼うんじゃなくて、繁殖させて食用として売るために飼うんですね。これがすごい流行ったんです戦前。「綴り方教室」ってい う、菊乃家さんの家に近い長屋に住んでいた、戦前の小学生の作文を載せたとっても面白い本があるんですよ。そこに、うさぎをもらってきて、これを増やして 一匹20銭で売れるとかって親が話をしてるなんていうのが出てくるんですよ。この当時は、みんなお金がないんです。で、すぐお金になる事に目が無いんで す。だから、うさぎを飼う、飴を売る。この飴売るのもすぐ始められるし、売るのも簡単、相手は子供だし。ちんどん屋も簡単だから、飴屋とちんどん屋は兼業 する方が多いんですね。そうやってもう、てめえで算段して、なんか物を売ったりしてすぐ仕事にするんですね。どうやって生きていくかってくよくよ悩んでい る暇もないし、今みたいにアルバイトニュースがあるわけじゃないんで。
そういうわけで、うさぎを飼うというのも流行ったわけなんですね、長屋では。こんな話はあんまり学者や文学者は言わないので、ええ、私がわざわざ長々と 言いました。で、こんなのが昭和30年代終わりまで、ずうっと続いていきます。ただ、この仕事は本当に不安定なんで、今私達が親方って呼んで尊敬して、ま あ偉そうにしている方達も実はちんどん屋ばっかりやってたわけじゃなくて。30年代頃から現在までは、実はアルバイトばっかりしてるんです。おでん売った り、ダンボール屋さんに勤めたりとか、とにかくちょっとでも暇があると働いてるんですね。みんな怠け者ではなかったと思います。お酒や道楽にはとっても目 が無かったですけども、生きる事にみんなとにかく必死だったと思います。さっき言った菊乃家さんのマップはこの本に出てるんで、あとで見ていただきたいと 思います(『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』p.363参照)。

昭和恐慌期の貧乏が生んだ3,000人のちんどん屋

その菊乃家さんのまわりの三軒先はみんなちんどん屋さん、その三軒先もちんどん屋っていうくらいちんどん屋だらけなんですね。こんなにちんどん屋がいっ ぱいいるなんていう事は、ちょっと今では考えられないですけども。あの当時メディアがないですから、一軒一軒の商店はみんなちんどん屋さんを頼んでたんで すね。昭和初期、中沢寅雄さんという楽士さんの書き残した文章から推定しますと、昭和7年から13年までがちんどん屋の全盛期となります。第一次ちんどん 屋全盛期と私は呼んでるんですけど。このちんどん屋が生まれて省力化された宣伝が育っていった過程は、当時の世相が反映されてます。なぜ、こんなに貧乏人 がわんわんわんわんやっているのか。詳しくは本を買って読んでもらいたいなあと。
あの、大正時代の政治状況、これが大きいんですね。政治、社会、経済の状況。実は今とすごく似てます。第一次大戦が終わりますと軍需景気が生まれまし て。戦争景気で経済が物凄いバブル状態になるんです。で、このバブルのあとに反動期が来ますね、当然。バブル時期にインフレでバァッと物価が上昇しますん で、そうすると元々金のない人間にとっては生活がしにくくなっていきます。それから1918年の大正7年から1922年、この時にシベリア出兵という、あ まり歴史の教科書で大きく書きたくないんでこそこそっと出てくる、非常にばかな政策がございまして。ロシアが赤化してろくでもない事をやっているから、連 合国のみんなと一緒に……そんなことを英、米に言われて。その時の口実はチェコの兵隊が捕らえられているから、それをなんとか救ってやろうというのが大義 名分なわけです。
どっかでありましたね。ほらイラク戦争で、自衛隊を派遣しようっていう。あの時も言いましたよね。戦争を起こす人はみんなその時に大義名分を言います が、あとから見ると嘘ばっかりです。で、同じなんですね。やっぱりイラク戦争の時に自衛隊よこせっていうのと。そのシベリア出兵の時には日本も戦争に参加 しにのこのこ行きました。そうしたら日本軍は調子に乗っちゃって、他の軍隊は全部撤退したのに、ずうっと4年間もシベリアに居続けて莫大な戦費を支出しま した。今で言うと、9兆円くらいか? 当時のお金で9億円を使って7万人も兵隊を送って。このことで経済はものすごい打撃を受けます。
1918年の大正7年に米騒動が起こります。シベリア出兵の前に米の買い占めが起こって、食えない人達が押し掛けて打ち壊しを行う騒ぎが起きます。この 後、バブル期の反動で企業が放漫経営をやりまして、その債権回収を急いで、銀行がそれを締め付けるっていう事で大正9年に経済恐慌がきます。今回のリーマ ンショックと、まあ原因は違うかもしれないけれど、様態は似てますね。そして、その後に大震災が起こるんです。地震きたのまで今とそっくりです。この時代 の事を知ると他人事じゃないっていうか、てめえらの足元がメラメラメラメラ燃えてるのが非常によくわかるんで、たまにはこういう歴史を勉強してみるのもい いと思うんですけど。
それで昭和の大恐慌になってちんどん屋が生まれるんですね。貧乏人は踏まれても蹴られても生きていかなければしょうがないですから、いろんな事を考えま す。小売店のいっぱいある時代でしたから、一軒一軒の店を宣伝するというちんどん屋がもう大繁殖いたします。いい商売ですからねえ。ええ。とにかく簡単に 始められる。需要がある。フォロワーが山ほど出て大繁殖して、なんと東京だけで3,000人というちんどん屋が生まれました。これはもう貧乏が生んだ、貧 乏人だけの好景気という状態になりまして。中沢寅雄さんの文章から、この時の話をしようかと思ったけど、長いのでやめておきます。
ただこの3,000人のちんどん屋に目を付けて利用しようとした政治家がいました。この中沢さんが1936年、昭和11年の事を書いてます。鳩山一郎っ ていう、鳩山兄弟のお爺さんです。あのお爺ちゃんは倉持忠助というテキヤの親分と組みまして、ちんどん屋の組合を作るからといって声を掛けます。ちんどん 屋もいっぱい集めて。東京の城北城南と、山の手中央の二つの地区に別れて、倉持と鳩山が立候補します。そして、ちんどん屋を一日50銭の手間で使いまし て、こうワーっと盛り上げて、それで自分達は当選するんです。この時に全国のテキヤが倉持忠助の所に集まりまして、応援なんかで酒飲んで暴れたなんて事が 新聞記事にもなってるくらいですね。
こうやって利用して自分達が当選した後は、すぐ組合はうっちゃらかしになりますんで、数か月も経たないうちにあっという間に組合はなくなりました。これ 以後、ちんどん屋の組合は一回も作られておりません。集団性に向かないっていうか、勝手なのか何なのか、なかなかそういう組合とかには、まあ向いてないん ですかねえ。いまだにそうやって集団で何かをする事が苦手な人達なんですけれども。
そして太平洋戦争に突入しますと、これだけ繁盛していたちんどん屋もとうとう仕事がなくなります。全員失職。兵役についた人もいます。それからあと内 職。もう貧乏ですから年がら年中、ちんどん屋の奥さん達は内職してんですけど。仮面舞踏会のマスクを作ってたんですって。それと鉄カブト。戦争中になると 兵士の被る鉄カブトを一生懸命内職で作ったりとか。あと勤労奉仕に駆り出されたり、出征する兵隊の見送りをしたり。ただ、仕事もなくなるし貧しいし、ちん どん屋さんはこの時代の事をあんまり言わないんです。ていうか、どうでもいいと思ってんですね。戦争で急に貧乏になったわけじゃなくて、ずうっと貧乏だっ たので戦争が別にこたえてないんですね。貧乏の質が変わっただけです。さっき言った昭和30年まで長屋暮らしが変わらないのと同じで、戦争というエポック メーキングが彼らの意識の中では薄かったんじゃないかなと思います。

戦後のどん底から、一気に全盛期へ

それで戦争が終わります。かなり下町の方は焼けちゃいましたが、それでも残ってる所あるんですね。さっき言った金杉の喜楽家富士子さんが住んでた家は焼 け残った所です。それから、去年亡くなった菊乃家さんのあたりも、今で言う向島の方なんですけど、一部が焼け残って。そういう焼け残った所にまた住むわけ です。みんなお金ないから、元の焼け残った長屋か、あるいはもう一回建てたぼろ家なんかに住むわけです。で、また元通りの暮らしを始めるわけですね。た だ、いきなりちんどん屋の仕事が復活するわけではないので、何かしらこうやっぱり始めるわけです。アルバイトニュースがない時代ですから、何をするかって いうと、何か物を売ろうと考えて、自分達で作るんですね。
どんな物を売ったのかと言いますとね、菊乃家さんっていう人が例をあげてるんですけど。缶拾い。ようするにゴミ拾いね。缶、鉄屑拾い。鰯売り。鰯を向島 から千葉の船橋まで歩いて行って買っきて売るんですが、鰯はすぐ腐っちゃうんですぐ一日でやめたそうです。それから棒飴売り。飴を仕入れてきて三倍の値段 を付けたんですが一本も売れませんでした。それからガラス拾い。焼け跡に落ちてるガラスを拾うんだけど、どれが役に立つガラスか素人目では全然わかんない ので、これも一日でやめ。こんな事を散々繰返して、やっと儲かったのはアサリ売り。アサリ売りは、大八車を引いて二、三時間かけて向島から浦安まで行って アサリを買って、それで二、三時間かけて帰ってくる。それをむき身にして売るんです。これは非常に売れたそうです。でも何か月か儲かったんですけども、こ れもアサリの値段が上がってきたのでやめ。
次はコークス売りね。工場の跡地に使い終わったコークスが落ちてるんですけど、そこからまだ使えるコークスを捜し出してきて、ようするに屑拾いみたいな んですけど、それをガラス工場かなんかに売る。その次はあんこ玉。紅梅焼きってこれは駄菓子です。あんこったって、あんこなんかないんですよ。偽物の変な あんこ。それにサッカリンみたいなのを入れて色付けただけの、何か得体の知れない物を売って。それでも甘い物がないもんですから、サッカリンだけ入れれば バンバン売れるんですね。それから紅梅焼き作り。そして親戚がやっていたのしいか屋に勤めて。そうやって好景気がやっと来るのが昭和25年、それまでず うっと食うや食わずで暮らしてました。例えば、コッペパンを買う話をするんですよ。ひとつ10円のコッペパンを一人が一食に二つ、家族一日食べられるには いくらいくらだと、それを稼ぐにはとか言うんですよ。それくらい貧乏だった。
このちんどん屋のどん底な状況が急に大躍進する時がやってきます。これは朝鮮戦争です。何でも景気が何か変わる時は戦争なんですね。この朝鮮戦争は昭和 25年、1950年。これが勃発して特需が生まれました。戦争景気です。日本から爆撃機が飛び立って、日本全国はアメリカの為の兵器工場になりました。戦 争がもたらす好景気が、瀕死の病人みたいだった何にもなかった経済を潤して、何も生産しない代理宣伝業のちんどん屋までが復活することになったんです。で も、これは喜んでいいのかどうか。金は入ってきましたけど、日本はまた朝鮮半島の生き血を吸って、しかも今度は敵だったアメリカのお供っていうか、子分に なってやった事ですから。まあ、当時のちんどん屋の親方はそんなことは考えなかったでしょうが。そして、この朝鮮戦争で特需を得たという事がアメリカへの 経済依存を決定的にして、自ら選ぶっていう自由を永続的に失ってしまった。もうなんていうか、非常に悲しいエポックメーキングだったと思うんですね。
また、この時から敗戦後初の高度成長期を迎えるんですが、日本人は喜んでたかもしれないけれど、朝鮮戦争で同胞が相食むような争いとなった二つに分断さ れてしまった国の人達にとっては、そんな能天気な時代ではなかったという事です。自分達のアイデンティティを問われて、同胞同士で闘わなければいけない。 経済活動を通じて争ったりしたわけですよ。詩人の金時鐘という、大阪の在日朝鮮人の方がいます。当時のことですが、同胞が兵器を作ってるわけですよ。弾 丸、タマですね。それが自分達の同胞を殺す弾になるんで、その工場を壊しに行くんですよ、機械とかを。同胞が同胞を、なんていうか、襲うというか、非常に 悲しい状況になるわけですね。
こういう状況で好景気を迎えた、金を得たって事は絶対に忘れちゃいけない事だと思います。最近ノスタルジックに、昭和30年代はいい時代だ、いい時代 だって語られる事があるんですが、それにはこういう背景があって、お金が入ったのはそういう裏の事情があるからなんだという事です。だから、私はこの時代 をいい時代だと言いたくないんですけれども。この後、この本でもいろいろ書いたんですけど、ちんどん屋が物凄い全盛期で、非常に面白い思いをします。この 朝鮮半島の戦争で得たお金もあって、まあとにかく、ちんどん屋さん達は面白い時代を迎えるんですね。

空き地、道端でチャンチャンバラバラ

  時代劇を、GHQが一時規制して、あんな封建的なものはやるなってなったんですけど、昭和25年になってこれが解禁になります。ちんどん屋さんは今はみん なカツラ被ってやってますが、だからカツラ被るのが普通だと思ってますけど、実は戦前はカツラなんか被ってなくて。こういうのが流行るのは、戦後の時代劇 全盛の……チャンバラ映画がすごい流行るんですよ。いろんなスターが生まれて。戦前からの片岡千恵蔵や市川右太衛門に加えて、中村錦之助とか大川橋蔵とか そういうスターがいっぱい生まれた。チャンチャンバラバラやるのが物凄い流行って。で、ちんどん屋がその劇映画の真似をして、同じ扮装をして出ていくんで すね。例えば、中村錦之助がやった役とそっくり同じ格好をして出てきて宣伝をする。そして道端でチャンバラをやる。これで大人気を博しました。この大人気 のおかげで、繁盛するんですが。で、その時に歌謡曲をたくさん演奏するようになります。戦前はさっきちょっとやった「竹雀」みたいなお囃子物の曲が多かっ たんですけども、戦後はもう歌謡曲が物凄い流行りますね。歌謡曲が流行るっていうのは、映画の主題歌や挿入歌で使われてるんですね。そういうものをちんど ん屋はコピーしていくんです。聞いて覚えてコピーして、それで演奏をする。そうすると、その曲がまたヒットする。まあヒット曲の後押しもちんどん屋はやっ てたわけなんですね。それでまあ、映画スターになりきって街頭でチャンバラをやって、扮装をして。あ、チャンバラなんていうのは、大体ほらこんな感じです ね。(同書p.305~353参照)はい、道端でこう、やってるわけ。
当時なんでこんな事をやってるかっていうと、広場があるんですね。この写真の手前の所に空き地があるじゃないですか。今こういう空き地ないんです。工事 する前の土管とかが置いてあって、ダダーっと空き地がある。そういう所でチャンバラやるの。あとこきたない長屋、東京のスラム街みたいな所ね。ドヤ街みた いな所の近くの長屋街。そこの前でチャンバラやってます。何で道端でこんな事ができるかといったら、江戸時代と同じように誰もいないというか、道路に車が 走ってないから。まだ車が走ってない状態の東京でしたから、こんなチャンバラごっこが道端でできるわけです。ちんどん屋の全盛期はだからこういう道路事情 と切り離せない関係なんですね。道端を歩いててもまだ商店はこんな感じですね(同書p.342~343参照)。橘通っていって、今もにぎやかな商店街なん ですけど。もうこんな感じで買い物客がワアワアいて。当然車は走ってません。それからあと、これは八百屋さんの前でやってる。その前もガラーンとしてて。
それから、こういうきれいな絵ビラがあります。(同書p.354~355参照)こういうのは昔の開店祝いで贈られるんですね。手描きできれいに描いた絵 で。まわりの商店の人が贈ってあげたんですね。なんか古色蒼然としてますけど、これは昭和28年ですね。これは昭和38年くらい。あまり変わらない。想像 つきますよね。これは長屋の住まいね。金杉のちんどん屋さんの住まいなんですけど(同書p.249下写真)。これが長屋の光景ですね。こんなふうに路地が あって、人間ばっかりワサワサしてて、車も入って来ません。狭い路地ですからね。こういう所があったからこそ、ちんどん屋さんがこういろいろチャンチャン バラバラやったりとか、楽しくできたわけですね。それで見ているのは、いがぐり頭のハナタレ小僧がいっぱいこうやっていて。こういうガキどものスターだっ たんですね。
でもこれ、喜んでるのは自分達なんです。やってるちんどん屋が一番楽しい。もうちんどん屋をやりたくてやりたくてしょうがなくて、ちんどん屋になってる 人がいるんですね。この間、亡くなった小鶴家さんっていうちんどん屋さんは、田舎の鶴岡から出てきてすぐに、ちんどん屋を道端で一目見て「こりゃあい い」って言って、その日に入門しちゃうんですね。その日のうちに、ちんどん屋さんを探してきてね。もう憧れだった。カツラ被って映画の真似をするのが。そ れくらい子供っぽい人達がいました。ようするに楽しいわけです。嫌でやってるんじゃないの。自分達はスターになったと思ってるんですよ。まわりの人達もそ ういう目で見てくれてたんですね。「バカ、カバ、ちんどん屋」という言葉のせいで、この職業を差別的な、かわいそうなもんだと思い込む人が多いんですけ ど、彼らは誇りを持ってやってました。本当に大好きだったんですね。その事はちょっと覚えていてもいいかなあと思うんですけど。
手間賃はと言いますと結構いいんです。当時の職人が600円くらいだったとすると、ちんどん屋が800円とか。職人よりいいって事はかなりいいって事で す。サラリーマンよりちょいいいくらい。それで毎日毎日仕事がありました。ひと月に30日仕事があるくらい忙しくて。そうすると、かなりになるわけなんで すよ。だったらいいじゃないですか。この仕事やりたいと思いますよね。それと正月は年始廻りでお得意さんのところを廻るとご祝儀をくれるんですね。それが 三が日どころじゃなくて7日間年始廻りをして。それでチャンチャンバラバラやったり踊りを踊ったりしてお金を貰う。
それから街でこうやってますと「カッコイイ」って女の子の追っ掛けとかいっぱいできるんですよね。家の前で待ってて、目当てのヤッちゃんとか、何ちゃん とかが出て来ると「キャー」って言ってずうっと追っ掛けまわすとか。家に電話をかけて「今日はヤッちゃんはどこでお仕事をしてますか」っていうような、そ ういうファンまでいたそうです。ちやほやされるし、それに酒なんか飲み放題というくらい出してくれるんですね。今はそんな事全然ないです。缶コーヒーの一 つも出しやしない。その頃は違うんですよ。もう煮しめだ、何だと出してくれて、お酒もガンガン飲んで。仕事の最中に倒れて、正体不明になっちゃうちんどん 屋さんが続出しました、はい。道端で寝ちゃって、おろしたての一張羅みたいな新撰組の羽織が帰りには真っ黒になって。ベロベロになって商店の人に担がれて 帰ってくるのね。「ちんどん屋さん、寝ちゃってたから」とか言われて。それでも通用するんですから、こんな仕事、楽しくてしょうがないじゃないですか。今 やってるとそんな事ない。こんな時代にやってみたかった、本当に。こういう事ができたのは道端がちんどん屋の舞台で、こういう人達の生活の場だったんです ね。車の通る道じゃない。今は車が占領してますけど、車の通る道じゃなかったからできるんですね。まあこれがちんどん屋の晴舞台。

前近代、それとも緩い近代性?

これは何度も言いますが、生活の質が江戸時代から戦争を経ても昭和30年代まで基本的に本質的に変化していなかったという事だと思うんですよ。彼らの生 活意識も長屋のまんまです。よく宵越しの銭は持たないなんて言いますけども、貯蓄をしないのが特徴なんですね。金を貯めるって意識がかけら程もない。何に 使っちゃうかというとバクチ、もう仕事終わると大体バクチやっちゃうんですね。で、稼いだ金はみんな取ったり取られたりして。だって仕事中もやっちゃうん だもの。何を見たって賭事の対象。道端に座って、仕事しないで、バクチはする。それから当然、酒は飲むでしょ。振るまい酒があるので酒はガンガン飲みま す。とにかく金は貯めない。その日暮らし。
貧乏人の研究をした人が、そういうのを非難するように書いてるんですけど。先ほども言いましたが明治42年の東京案内の本『東京学』。「彼らの貧しさの 原因の一つに浪費をあげ、その境遇、習慣の為に一時の情欲的快楽を甚だしく貪るという傾きに陥ったものであろう」とかって、病気みたいに書いてますけど、 そんなのは大きなお世話ですよね。人生を精一杯楽しく生きていたという事です。貯蓄なんかしなくて済むんだったら、そうやって生きていけばいいんですよ ね。長屋に知らない人達が上がり込んで、みんなで御飯食べあってるような緩い共同性。そして道路。大道の自由な活用が許された時代。こういうのは、西洋の 歴史の定義に無理やり当てはめると、近代、現代っていう歴史段階があるようにいってますけど、この親方達の生活を見ると、まだ前近代の状態だったんじゃな いかと思うんですよ。あるいは緩い近代性くらい。それがないまぜになったような状態でずうっといたんじゃないかなと思いました。
余談ですけど高校生の時に、ちょっと中東産油国の研究してまして。サウジアラビアの写真を見てたら、高層ビルがガーンと建ってるまわりでロバひいて物売 りやってるおじちゃんの写真があったんですよ。「へーすごいなあ」って。ビル建ってるのにまだロバで物売ってるのかって。考えてみたら、ちんどん屋とか、 今、私達がやってる高層ビルの前でチョンマゲ付けて宣伝してるのだって、ロバひいて売ってるおじさんと同じですよね。ロバひいてるおじさんがそんな中世み たいな暮らしずうっとやってる時、いきなりボーンとビルが建つとかね。石油の富とか金が流れこんでくると、いっぺんに時代や人間の生活をバアーンと切り裂 いて、一足飛びにこう中世から現代に歩まされちゃったみたいな状況だったんじゃないかなあと思って。うん、ようするに歴史は段階を踏まないんだなという事 を高校生の時に、ちょっとその写真を見て思った事があるんですけど。
日本においては、この後このような一足飛びの時代がやってくるんですね。朝鮮戦争でアメリカ依存というのが決定的になりましたけども、政治体制としては やっぱり60年安保。60年安保で、アメリカ軍がずうっと居続ける、駐留を認めるような条約を交わしてしまった。その時は自民党の岸内閣。この時はみんな 反対しました。100万人以上の人が国会を取り巻いて反対運動をしたんです。それほど反対したのに無理やり可決して条約決めてしまいました。これはもう取 り返しの付かない事をやったと思います。だってイラクからアメリカ軍は撤退するでしょう。でも日本にはずうっといるんですよ、米軍がそのまま駐留してんで すよ。これどういう事なんでしょうか。これをわざわざ自分達で受け入れちゃったんです。ずうっといて下さいって。そして核の傘なんていわれて。

1964年――そして、ちんどん屋の場がなくなっていった

それで、具体的に生活が変化するのは、この60年安保が政治的なエポックだとすれば、1964年の東京オリンピックのためにすごい経済計画が作られま す。オリンピックの為にいろんなものを作ろうという事で急激に生活が変化します。私は1964年生まれなんです。昭和39年生まれ。なんていう年に生まれ てしまったんだろうって、いつも感じるんですけども。開催が決定されたのが1959年。オリンピック事業の総額1兆円。今の1兆円どころじゃないですね。 10兆円、もっとかな。そのうちのオリンピックそのものの費用ではない関連事業費が全体の97パーセント、ほとんどです。それは何に使われたかっていいま すと、東京都内の道路。環7だとか、4号線とか。ああいうものを全部整備する道路整備。首都高速を作るお金。それから地下鉄をどんどん作って。この頃、地 下鉄の建設が一番進みました。そして東海道新幹線、この建設費が一番大きかったんです。これらが全部64年のオリンピックをめざして59年から着々と進め られました。そして64年にバアーと全部開通します。新幹線、東京―大阪間開通。東京に一般道、環状線とか青山、玉川通りが開通。それから首都高が1号線 から4号線まで開通しました。日比谷線、地下鉄の中目黒―北千住間が1964年、これをたった5年で完成させました。全てオリンピックの為なんですね。
道路がこれだけ作られたって事は車が売られるっていう事です。所得倍増計画というのが1960年に掲げられまして、それによって自動車は大増産。国が支 援する形で、もうどんどんどんどん車が作られました。60年から10年間で計画達成のはずが、その半分の年で達成したわけ。だから64年くらいにはもう車 が占領するような状態。昭和39年そして昭和40年と歩みますと、ちょうど30年代から40年代の境に、猛烈なモータリゼーションが進むっていう事です。 という事は、もうちんどん屋の大道がなくなっていくんですね。チャンチャンバラバラしていた大道はどんどんどんどん車に埋め尽くされていって、ちんどん屋 はやる場所がなくなっていきます。そして急激に廃れていくんですね。数を減らしていきます。
それから、ちんどん屋の減る理由の一つがあとテレビ。チャンバラ映画とかのコピーをして人気を博したって、さっき言いましたね。映画からテレビに皆さん の娯楽が移ります。テレビが爆発的に売れたのは今の天皇が結婚した年の1959年、昭和34年。そうしますとテレビというメディアが生まれるとCMってい うのができまして。CMがガァーと流れると、もう広告というものはマスメディアが担うものだという事に決定的になるんですね。道端で宣伝するなんていう事 は当然いらなくなってくるという事です。それと、お客さん、クライアントの問題ですね。スーパーマーケットが普及します。例えば「おしん」っていう、ほら NHKの泣かせるドラマ。あのモデルになったヤオハンっていうスーパーは1965年、1964年の前後にチェーン展開を始めます。それで、ちんどん屋が宣 伝した小売店とかマーケットとか市場、小売店が集まった複合体みたいな所、そういうのが大型店に追いやられる。町の商店街はさびれて、ちんどん屋は宣伝対 象も失っていきます。いってみれば、昭和30年代が、ちんどん屋という存在が時代にマッチしていたとすれば、その後のオリンピック開催をきっかけとした、 これは急激な近代化じゃないです、もう急激な「現代化」……これによってその前の、近代以前か緩い近代性みたいなのーんびりした存在を完全に過去へ葬り去 るっていう。まあこういう大きな断層が1964年、このあたりにあったと思うんですね。
なぜこういうふうに言うかというと、歴史の認識ってあるけれど、例えば戦争を大きく取り上げちゃうと、それで人間の生活が変わったって言いがちなんです が、そうではないんですよね。人々の、生活してる人間の目から見ると、大きな時代の変化のあらわれは、こういう生活からみれば実は戦争よりも64年なん じゃないか。自分の生まれた年でもあるので、そういう急激な現代化とともに歩んできてしまったんだなあと思うんですけど。
で、親方達を見てると凄い昔の人間だなあと思うんです。今、ちんどん屋をやっていっても全然あの人達みたいにはなれなくて。道端で寝てしまうとか、チャ ンバラごっこで本気で遊んだとか、子供が遊ぶように楽しんで、それを仕事にしたとか、そういう豪快な生き方ができないんで。それは彼らが前近代というか、 そういうところの人達なんだなあ、と。そこの断層というのは避けがたい、越えられないもんだなあって思います。……あら、もう10時。ちょっと長いって 言ってくださいよ。
司会 いつ介入しようかなと思ってたんだけど。1964年なんであと47年間くらいの話があるんですけれども。
大場 ちょっとマキを入れてくれればよかったのに。
司会 じゃあ、まとめにいきましょうか。
大場 はい、まとめ。東京の話だけですけれど、寄せ場に無理やり結びつけますと、この64年を境として出稼ぎ者、農村の破壊と出稼ぎ者が増 えてきます。そのせいで、寄せ場にそういう人達が流れ込んでいきます。だから64年とか、こういうエポックがあって寄せ場も形成されていったっていう事を ちょっと言っておきたいと思います。その辺は寄せ場学会の方がよくご存じだと思います。寄せ場学会のホームページになすびさんが書いた文章があるので、寄 せ場が大体この60年代にガァーと形成される歴史というのは、それを見ていただければいいと思います。どうも、今日はありがとうございます。
司会 サービス精神旺盛な話だったと思います。江戸中期くらいから駆け足で1960年代まできまして。あとの残りは隣の場に移しまして。まだ時間の都合が つく皆さん、大場さんも残ってくれると思います。飲み物も用意しておりますので、隣の場でご歓談ください。どうもありがとうございました。

[2011/11/5 planB]

2011年11月5日

plan B定期上映会

「非在」の言葉を明るみへ
大場ひろみ(ちんどん屋・『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』著者)

何故ちんどん屋が「山谷」の上映の場で語るのか、私にも必然性を強調できるような言葉はないのですが、これだけは言えるなと思うのは、ちんどん屋を始めた人々が、どうでもいい瑣末な存在として見られて、いろいろな歴史や文化、芸能、職業検証の文脈でまったく省みられなかったことです。庶民芸能、民俗学の対象からも零れ落ち、片手で足りるほどの僅かなルポライターや民間研究者が書き残したに過ぎませんでした。
たまさか私がちんどん屋の世界に入り、諸先輩の聞き書きを始めてすぐに気がついたのは、彼らが言葉を残せないがゆえに、まるで「無い者」かのように扱われ、無視されているすべての人々のうちの一人であることでした。「山谷」の人々と同様に、彼らの言葉に耳を傾ければ焙り出されてくる、支配者の側でない歴史、生活、今の日本の状況へと繋がる点と線が見えてきます。
私の本も「山谷」の映画のように、見えなくさせられているものを見える場所へ置き換え、そのような人々を繋げる役割まで果たせたらいいなと思い、今回お話しすることにしました。