2014年8月16日

plan-B 定期上映会

LAスキッド・ロウの歴史と現在
講演 / 友常勉
(東京外国語大学教員)

ロスアンジェルスのホームレスの数は全米最多であり、スキッド・ロウはロス最大のホームレス集住地である。そしてもっとも貧困率が高い。薬物中毒が蔓延 し、警察によるハラスメントに24時間さらされているこの地区では、1970年代には住民の67%が白人で、黒人は21%だった。しかし1980年代の終 わりには住民の多くは黒人になった。
90年代からはジェントリフィケーションと金融資本による土地・空間の支配が進行している。高家賃のアパートとセキュリティ空間を拡大する都市開発は黒 人、貧困層、ホームレスの「犯罪者視」を強め、近隣住民の「モラル・パニック」を煽っている。しかも、「近代アメリカ史における非白人層からの最大の富の 収奪」と呼ばれるサブプライム・ローン危機[2007-2008]が、こうした傾向を一挙に最悪にした。
この報告では、スキッド・ロウの住民に対するインタビューと、ロス・アクション・ネットワーク[LA CAN]やLAMPアートプロジェクトといった住居と人権、ケア・社会復帰プログラム、パブリック・エネミーの音楽フェスティバルなどのホームレス支援活 動を通して、この地区の歴史と現在を紹介する。
同時に空間の金融化=証券化、新自由主義、ジェントリフィケーション、そして社会の監獄化が進行している現在の都市の行方を、地政学的な「スケール」にもとづいて論じてみたいと思う。

行政の排除に抗して――竪川や荒川での野宿者のたたかい

向井宏一郎(山谷労働者福祉会館活動委員会)

山谷―寄せ場のゆるやかな解体
向井といいます。山谷の映画は84、5年だから30年前ですか。今の山谷の街、それから映画に出てきた山谷の労働者、そして運動ですね。山谷での社会運 動がどうなってるのかという話を映像も交えて話していきたいと思います。で、皆さんの手元にお配りしている資料が二つあると思います。一つは「インパク ション」という雑誌にこの春に載った文章です。山谷の街っていうのは寄せ場の解体、緩やかな解体がここ20年、30年かけておこなわれていて。今は、かつ ての寄せ場としての機能は、非常に縮小されてしまっています。今、山谷の街がどうなってるのかって言うと、寄せ場の解体っていうのが一つのキーワードかな と思います。
1980年くらいまでは、寄せ場、つまり「日雇い労働者がドヤに泊まって、そこから日雇いの仕事に行く街」として全国各地にありました。使い捨てのきく 労働力として、何千、何万の人が小さな街に囲い込まれる形で。そういう寄せ場が国とか資本の要請があって、作り出されたというのは間違いありません。例え ば、オリンピックの前後に山谷の真ん中に、政府の大臣が来て、「とにかく土木の仕事が大事だから皆さん頑張って欲しい」みたいな挨拶をするということも あったそうです。だから本当に必要とされて、権力、資本によって作り出されたものなんですね。それが、バブルの時期を境に徐々に日雇い労働というのが形を 変えて、その10年後、物凄い勢いで社会全体に広がっていった。具体的には派遣労働であるとか非正規労働という形になってると思うんです。今、土木、建築 の日雇いの仕事は、寄せ場からの求人が凄く少なくなっています。なくなったわけじゃなくて、例えば新聞広告であるとか、それから工務店が人々を自分のア パートに住ませてそこから仕事に行くっていうのが主流になった。それが80年代、90年代からだったと思うんです。とにかく寄せ場から日雇い労働者が仕事 に行くというのが、労働力のルートとしては縮小されていった。それで、90年代の半ば、バブルの崩壊があって。それがやっぱり凄かったんですよ。
この「山谷労働者は寄せ場の系譜を突きつける」っていう文章を見ていただければと思います。「インパクション194号」の記事です。一番上の段落の、真 ん中くらいに書いてあります。「ここ20年間、山谷でおこってきたのは、寄せ場(日雇い労働者の特定の地域への囲い込み・集中)のゆるやかな解体だ」と。 バブルの崩壊の時がたぶん一番山谷の中に野宿者が増えた時だったんですよ。それまでドヤで寝泊りして、ドヤっていうのは簡易旅館、安宿ですね。今だとベッ ドハウスで1,000円くらい。個室だと2,200円とか。ビジネスホテルだともっと高くなっちゃうんですけども。そういう所に泊まって日雇いの仕事に 行っていた仲間が、バブルの崩壊の時に大量に山谷の街の中に吐き出されるということがありました。これが一つのきっかけだったんです。山谷の労働者がどう なったか。一言で言えないんだけど、あえて言うなら野宿者になったと。野宿労働者として、野宿しながら公共地を占拠して、そこで暮らす一つの集団が生み出 されたんだと。それは、この文章の一番下の段落に書いてありますが、「解体されつつある寄せ場の労働者たちを母体として、一つの社会集団」、「社会集団」 と言っていいと思うんですね。それが形成され生み出されたと。「仕事を奪われたうえ、全ての施策から排除され、寄せ場から追い出された人々が、自前で公共 地に小屋を建て、勝手に住みはじめた」。これは物凄く大きな出来事だったと思います。本当に、全ての施策の対象外だったんですね。
僕がこういう運動に関わったのは1996年からで、18年くらいになります。その頃、野宿者、日雇い労働者が生活保護を取るのは、窓口から本当に排除さ れてたんですよ。生活保護の申請自体をさせない。がんばって申請すると職員十何人に囲まれて暴力で追い出される。そういうことが普通におこなわれていた時 期だったんです。だけど、ドヤから叩き出された野宿の仲間が役所に要求したかっていうと、そんなことしないんですよ、野宿者、日雇い労働者は。このこと は、権利要求とか施策要求という手段、戦術の限界みたいなものを暴露してるように思いました。ようするに自分の主権を誰かに預けてやってもらう、そういう ことの限界かなあと。この「山谷」の映画の頃、運動の中では権利要求ということについて、わりと原則的な批判が普通になされていた、そういう雰囲気があっ たと聞いています。でも今、社会運動で権利要求をやっちゃだめとか言ってるところはほとんどないです。だけど権利要求ってことを考えた時に、その負の側面 も考えていく必要があるなと思うんですよ。で、権利要求じゃなくて自分で勝手にやるんですよ、野宿の仲間、日雇い労働者っていうのは。そこは、一つの社会 集団が歴史的な過程で形成されたっていう感じが凄くします。で、日雇いの仲間が野宿労働者になっていったんですが、地域的に、山谷の街には公園、玉姫公 園っていう公園はあるんですけども、野宿ができる場所がそれほどないんですね。街の中ですからね。それで寄せ場が、仕事がなくなって、一つの政策というか 資本の意向によって解体される中、寄せ場の周辺の地域に仲間たちは広がって、その空間を占拠して住み始めるという形になります。

日雇い労働者運動から野宿者運動へ
皆さん、日雇いの周辺の階層って何だと思います、職業的に考えて。(会場からの声)「派遣」。うーん、確かに派遣、それもあるんですが、歴史的には収集 人なんじゃないかと思っていて。収集人ってわかります? バタ屋。例えば、敗戦直後、経済がつぶれて失業者があふれ、その時に日雇いの仕事ができない条件 の人が何をやったかというと、物拾いなんですよね。都市の周辺にバタ屋部落みたいなのが戦後すぐに形成されました。そして、バブルの崩壊の後にまったくそ れを繰り返すような形で寄せ場の周辺に野宿者の集住地帯が形成され、そして彼らがその物拾いを生業としながら日銭を稼ぐ。収集人って言うと硬いですけれど も、何かっていうとアルミ缶拾い、古紙集めなんですね。日雇いの仕事ができなくなった、高齢だったり体を壊したりの、そういう仲間が収集人として働き始め たっていう意味です。寄せ場の周辺にドーナツ状に占拠がおこなわれるようになって、日雇いの現場の仕事と収集人の仕事。仲間たちがそういう仕事をしつつ暮 らし始めた。
山谷の街で今、住んでる人は誰が一番多いかって言ったら生活保護の人です。それは間違いないと思います。だけど歴史的に見たら、そうじゃないんだよね。 仲間たちがそこで暮らし、仕事に行った山谷の地理的な、職業的な記憶っていうのが凄く深く刻まれてるなっていう。で、大事にしたいっていうか、何が重要 かっていうと寄せ場の日雇い労働者という集団、階級が高度経済成長の中のユニークな条件の中で作られて、生み出されたことだと思うんです。だから山谷の地 理に凄いこだわりはあるんです。この高度経済成長の中で形成された寄せ場の日雇い労働者は特殊な集団だと思います。今の日本ではもうありえないような非常 にユニークな集団です。彼らは今、山谷にいなくなったように見えるけれども、その周辺の地域で社会的な階層として、ドーナツ化したような形で仕事をしなが ら生きているということです。だから言葉どおりの意味では、山谷労働者の、日雇い労働者の運動を僕らはやってないんですよ。日雇い労働者の運動から野宿者 運動っていうのに運動がシフトしていって。それが90年くらいだと思う。90年代に新宿西口の闘いがありました。あそこを大きな契機にして、日雇い労働者 運動から野宿者運動へという形でシフトしていった。そういう経緯があるから、「野宿者」が持っている山谷、寄せ場の系譜、その記憶を引き継いでいる人たち が持っている特異性であるとか、そういったものに凄くこだわってやっています。
例えば、反権力性みたいなものをわりとみんなが普通に持ってるんです。役所に対する絶対的な敵対性みたいなものって絶対インテリにはない、サラリーマン にはないものだと思います。それは、(高等)教育で教え込まれたんじゃないんですよ。底辺の仕事の経験の中で何年もかけて培われてきた反権力性、もしかし たら他の社会集団でもこういうのが生み出されているところがあるのかもしれないけれども、僕は初めてです、こんな人たちと出会ったのは。あと仲間意識が物 凄く強くて。最も多く奪われた者であるっていう、そういうところからくる仲間意識っていうんでしょうか。普通、今、仕事の現場に入ったら上の方を見がち じゃないですか。少しでも条件がいいところに行ければいいかな、みたいなのがあるだろうし。野宿の仲間には、凄い断絶があるんですよ。いっしょに働く日雇 いの仲間と、そうじゃないボスとの間のね。そこは、絶対に越えない溝としてあるなあっていう感じがします。

日雇い労働者が尊重されていた時代
それでは、もう一つの文章を見ていただけますか。「90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き」、これを見てください。今、言ったことの具体的な話 が書いてあります。この方は、女の人で、90年代に20代、30代で実際に日雇い労働者として山谷、高田馬場から仕事に行ってた人なんですよ。その現場の 雰囲気が第二段落に書いてあります。休みの時間がきっちりと12時から1時って決まっていて。それで、11時45分くらいになると、自分だけじゃなくて他 の業種とかいろんな系列の人が作業現場にいますよね。そのような人にも「そんな働くな」「飯行くんだよ、飯」というふうに言って、休憩時間は絶対に取るん だということが普通だったと。「重層的下請け構造」って「山谷」の映画の中でもありましたね。発注する会社があってそれを元請けの会社が受けて、そして業 種別に仕事をドンドン下におろしていくんです。それで、監督は現場では「一番偉い人」です。その人がまあ「一番いじめられる立場だった」って書いてある。 そういう感じだった。敵、味方っていうのが凄くはっきりしていて。ボウシンっていうのは労働者の中でも、労働者を束ねてスムーズに労使関係がつくれるよう に動く立場の人間なんですけども、そういった人間や親方の立場には絶対つかないということですね。こっち側とあっち側というのが凄くはっきりしてる、そう いうのが山谷全体に行き渡っていたっていう、そういう経験が書いてあります。
それで、この人は日雇いの仕事がなくなって、まあ日雇いは日雇いなんですけれども、寄せ場からじゃなくて、登録派遣から(半分グレーだと思うんですけれ ども)仕事に行き始めた。そうすると雰囲気が違っていて、仲間のつながりだとか、そういったものがもう完全になくなっていて。上の方ばかり向いてるという 印象を持ちましたっていう話です。今、飯場で働いてる人の話を聞くと、昔と全然違うっていう印象があります。けっこう殺伐とした感じ。今と昔の一番大きな 違いは、日雇い労働者が労働力として尊重されてたかどうかっていうことかなと思います。
日雇い労働者という集団が形を変えて野宿者へ。それに呼応して、運動も日雇い労働者運動から野宿者運動へ。そして今、収集人の活動、アルミ缶拾いをやっ てる仲間とアルミ缶古紙組合を作っているんです。この一年くらい前から持ち去り禁止条令とかいって、アルミ缶古紙の持ち去りを条令で禁止する動きが凄く激 しくなっていて。それが野宿者の追い出しや、襲撃事件にまでつながっています。そういった情勢に対し仲間と一緒に組合を作っていろいろやっています。それ が、「運動は今どうなってんの」という問いに対する答えかな。もちろん、いろんな人がいろんな視点で山谷をみてるわけです。人的な構成だけみれば、もうほ とんど生活保護者だからというんで、そのボランティア団体になったところもあります。それを事業としているところもあります。まあ、いろんな人がいろんな ことをやればいいと思います。ただ、個人個人が何かにかかわろうとする時、山谷の何をみて、誰と一緒に動いていくのかが、山谷に関わる時に凄く大事になっ てくるんじゃないかと思います。
【映像】城北労働福祉センター抗議行動
これが城北労働福祉センターっていう所に抗する取り組み、押し掛けなんですけど。二週間前の月曜日です。職員は基本はだんまりなんですよね。何も答えな い。たまに業務の支障になるんで出て行って下さいみたいなことを放送するだけ。公益財団法人ですね。奥にぼんやりと映っているのがSっていう管理係長でビ デオをずうっと撮ってますね。
(DVD音声)あのね、大勢で押し掛けてって言うけれども、別にこちらは話し合いの形については当然応じる準備がありますよ。今ね、大勢で来てるのは大勢 の人がこの問題について関心があるからなんだよ。ただそれだけだよ。で、多くの人がこのセンターに直接間接に関わってるわけだ。だから来てるってだけです よ。別に大勢でどうしようって話じゃないでしょう。ただ多くの人が、このワンカップの話なんてさあ、聞いたら、ええって思うじゃない。そんなことあるんで すか。ねえ、断られてる仲間は自分がどういう理由でカードを断られてるかっていう、それすらさあ、正式な説明は受けてないわけだよ。なあ。そういう仲間が 来ててさあ、そういう仲間に対して思いを寄せて一緒に来てくれてる人が大勢いるっていう。それだけだよ。別に何もおかしいことはないよ、なあ。こっちは話 し合いをして欲しいと。説明をして欲しいっていうそれだけじゃないですか。それ以外に特にないよ。だからさあ、大勢で来たから業務の支障になるっていう、 そういう言い方についてはちょっと違うんじゃないかと。そのことはここで言っておきますよ、ね。
センターっていうのは仕事の紹介をする窓口として作られたんですよ。そして日雇い職安が東京都内でも数ヶ所あったんです。この近くだと高田馬場の近くに ありましたけど、そういう所がつぶされていくんです。それが数年前のこと。ようするに日雇い労働者は減ってないんだけど、寄せ場経由ではない形で仕事に行 く人が増えていく中で、その寄せ場の痕跡みたいなものを、向こうは消していこうとしているわけですね。日雇い職安が一気に3、4個はつぶされたんだよね。 馬場とか高橋とか。城北労働福祉センターは、1960年代くらいからずっとあって、ここに登録すると仕事にも行けるし、パンももらえるし、施設に泊りに いったりもできるんですよ。そういう形で需要は凄くあるんだけれども、センター自身は、業務の縮小をして撤退をしたいっていうのがかなり透けて見えてい て。それで仲間の登録を断ってるんだよね。で、一緒に行った仲間が1月の15日くらいから5、6回登録を求めて行ってたんだけど、ずうっとカードを断られ ていた。その理由を向こうは言わない。で、こちらが東京都庁に「おかしいんじゃないの」って言いに行ったら、その日から三日連続で寝てる所にワンカップを 持って来て、「もうカードはあきらめた方がいいんだ。生活保護取りなさい」って言ってきたんです。それで、きたない買収をするなあと思って、張り込んでた んですけど、凄く寒い日だったんですけれど4日目かな、来るのを待ってたんですよ。そうしたら本当に来たんですよ。ゴソゴソとやって来た。「Mさん、何を 持って来たの」って言ったら、「何も持って来てません」って。でも、問い詰めていくと白状するんだけど。いきなりダッシュして逃げるんですよ。普通ありえ ないじゃないですか。東京都の職員なんですよ、彼は。山谷っていうのは、ようするに特殊な所だから普通の制度とか権利の保障は考えなくていいっていう、そ ういう感じなんだよね。行政としても。
参加者A センターってどこの団体なんですか。
向井 元は東京都の団体だったんだけど、外郭団体になって。今は公益財団法人。ようするに解消する定石ですね。それで、その相談室は1対 1なんです。今時は普通、応援の人が入れるんだけど。センターは相談室に応援の人は入れないんです。応援の人が入ると、そんなんじゃだめだと言って向こう が相談室から出ていっちゃう。そうすると、相談に来た人と応援の人がそこにとり残されて30分待っても来ない。そういうところです、山谷っていうのは。と いうか、階級ってそういうことだと思います。施設や法律は、一応、万人に平等であるってなってます。だけど、実際はそうじゃない。そういうのってなんとな く見えにくくされてるけど、こういうところへ来るとわかりますよね。それで納得してちゃだめなんだけど。
参加者A そういう現実に対して、担当役所や労働基準監督署、福祉事務所はどのように判断してるんですか。
向井 ここは法外施設と呼ばれるところで。法律的には、東京都の裁量の中で運営されてる施設なんです。職安は別ですね。職安は職安の法に しばられます。生活保護だったら生活保護法にしばられます。だけど、ここは裁量だから極論すればやらなくていいわけですよ。まあ調べれば公務員の何々と か、行政手続き法とかはあるんだろうけども、直接このセンターをしばるような法律っていうのはないんですよ。だから職安とは完全に独立してます。で、そっ ちはそっち、向こうは向こうでやってくれっていうような感じ。それで、センターがつくられた理由の一つは暴動対策なんですよ、山谷の。労働者が暴動でいろ いろ燃やしたりすると、じゃあちょっとパンくらい出すか、みたいなそんな感じで。むき出しの力関係の中でつくられてきたっていうものだと思います。
参加者A それはいつごろですか。昭和40年代くらい?
向井 ちょうどその頃です。その前身の施設は昭和35年くらいからあると思うんですけれど。仕事の紹介と生活相談っていう二つの部分があって。それが東京都によって運営されてたんだけど、10年くらい前に外廓団体に改組されて、今に到るという感じ……。
参加者B 革新系が都知事に当選すれば良かった?
向井 ところが、一概にそうとも言えなくて。例えば、美濃部都政の頃。その政策の中では、寄せ場はあってはならないものとされたみたい で。解消しなきゃいけないという位置づけ。「寄せ場なんかに家族持ちが住んでちゃいけない」ということで、政策として寄せ場外の都営住宅に家族が集団的に 移されたみたいなことがあったんです。何て言うんですかねえ、括弧付きの良識とか括弧付きの市民とか、そういったものとは違うところで生きてる人がいるわ けでしょう。
参加者C この映画の時代は80年代半ばくらいですけどね。その当時もドヤに常住していても、住民票を持っている人ってほとんどいなかったわけですよね。
向井 たぶん、その頃はドヤの方で住民票を置くのを断った所が多いんじゃないのかな。めんどくさいとかで。郵便物なんか来るからね。
参加者C 玉姫職安に登録する場合には、米穀通帳を。
向井 ああ、なるほど。白手帳って言いますが、日雇い職安に登録すると日雇いの失業給付がもらえる、日雇い労働者の雇用保険手帳がありま す。80年代は米穀通帳はいらなかったです。その頃は、作ろうと思えば誰でも作れたんで。それが80年代後半、88年か。住民票が義務付けられて。問題は 住民票を置けない人がほとんどだっていうことですよ。日雇い労働者の制度的な排除ですね。日雇い雇用保険手帳を必要としている人が大勢いるにもかかわら ず、そういうような運用がなされたっていう流れ。
参加者C あの反抗はだいたい60年代ですねえ。それ以前には城北労働福祉センターはなかったですから。まもなくできて。その時に、児 童、子供の問題の権威者っていう触れ込みで、所長さんが入って来ましたねえ。職安はいわゆる職業紹介で、城北労働福祉センターは仕事の紹介ではなくて、福 祉関係の相談と、それから子供を……まあ所長さんが子供について権威があるっていうことで来ましたですから。子供さんを集めて面倒みてあげるってことで旗 揚げしたような感じだったですからねえ。
向井 そうですか、ありがとうございます。センターが概要みたいなのを作っていて、そういう歴史が詳しく書いてあるんですよ。今度、読書 会をしようかなと思ってるんですけど。けっこう僕らも知らないことが書かれているんですよね。「寄せ場の労働者は職安とかのああいうお役所にはいまいち向 かない人が多いから、お役所じゃない形での職業紹介の機会をつくった方がいいんじゃないかということで、センターの紹介部分ができた」っていう記述があっ たと思います。

排除に向かう都市再開発――竪川での野宿者の闘い
参加者D 山谷の特殊性なんじゃないですか。あの辺は江戸時代からそういった所だから。
向井 寄せ場とか抑圧された人たちが生活する場所って、常に都市の周辺部分なんですね。都市からあまり離れた所ではなくって、その外縁部 なんです。そして都市が膨張していく中で、それが街中に取り残されて、何度も強制移転されて。山谷の地域で言えば、寄せ場ができたのは戦後なんですよ。た だ江戸時代には、小塚原刑場っていって処刑場があって。それで吉原という性労働の町がすぐ近くにあります。吉原も、江戸時代に街の真ん中から今の場所に移 転させられてるんですね。あと被差別部落も近くにあって。そんな感じの場所なんです。だから、単なる貧困っていうのではなくて、権力による都市政策ですよ ね。あと社会経済的な矛盾が集中する地勢学的なポイントっていうのが必ずあると思うんでよ。今も凄くその痕跡が残ってるから、こだわっていきたいなあと。
それから、今、僕らが直面しているのが何かっていうと都市の再開発なんですよ。今、凄い勢いでマンションが23区内に建ってます。多摩ニュータウンと か、そういう所で暮らしている人が家を売って都心の超高層マンションに都心回帰っていう形で戻っているらしいんです。山谷なんかは今まで見向きもされな かった場所なんですけれども、今、マンションがどんどん建ってるわけですよ。そういう中で、かつてはそういうマンションを建てる労働で暮らしていて、現在 は野宿をして頑張っている人たちが追い出しに直面しているっていうことです。それでオリンピック、もうあんなの来たらとんでもないことになるんで、僕たち は反対しているんです。景気のいい話もあるんだろうけど、儲かるのは誰かって考えた時、もちろん野宿者じゃない。むしろ追い出されちゃう。そういう危機感 が物凄くあります。で、今からお見せするのは江東区の竪川っていう、山谷からちょっと離れた所でおこなわれた強制排除の時の映像です。この強制排除に対し て、みんなで闘ってかなりやりかえすところまでいった。
(映像)竪川反排除行動
これは決戦の日なんです。やつらが暴力的に行政代執行をおこなうその日に、みんなで結集して野宿の仲間を守ると。場所は亀戸から歩いて10分くらいの高 速道路の下にある、本当に見向きもされなかったような場所です。100人以上の人が住んでいたんですが、改修工事っていうことで民間の企業がはいってきた んですよ。(映像を指して)これがお役所の職員ですよ。行政代執行っていうのは、区役所の職員が野宿の小屋を自分でこわす、そういうものなんですよね。こ うやって人壁を作って。この一年前に一回目の行政代執行があったんですけど、その時はガードマン会社が自分の会社のワッペンを剥がして。それも一斉に剥が して、それで殴る蹴るの暴行を加えてきた。おそろしいことですね。
参加者A この時はワッペン付いてますね。
向井 一回目の行政代執行前後の、ワッペンを剥がしての暴力シーンは、ユーチューブに上がっているので、相当まずいことになったんじゃな いかと想像しているんですが、実はそうでもないかもしれない。この映像は二回目の代執行ですが、警察が待ち構えていて、ちょっと小競り合いのようになると 役人が呼ぶんですね。そうすると、部隊がダダダダダーっと来て。ただ、これは一日の出来事なんだけど、結局、奴らは排除できなかった。行政代執行ってだい たい負けるじゃないですか。これまでいろんなところ(大阪とか名古屋とか)でやられてて、小屋は全部つぶされてるんです。で、竪川はこれが二回目なんです けど、小屋はつぶせなかったんです。鋼板の工事だけ向こうがやって。高い鉄の板で、閉じ込める感じの工事はしたんだけど、小屋には手を掛けられなかったん です。
参加者E 白い壁です。
向井 (映像の中で)重機でガンガン打ってたじゃないですか。あれはアスファルトに支柱となる短管を打ち込んで、横に短管を組んで鋼板を引っ掛けて、全部溶接して固定するんです。
参加者F そんなしょうもない工事をやるのに、都や区の予算が使われてるわけなんですか。
向井 公園改修の工事の予算だけで億単位。10億はいってないと思うんだけど数億円くらいかかってるんじゃないですか。それにプラスして排除のための工事。
参加者F 両国の河川敷とか土手にもちょっと小規模なのがありましたよね。
向井 いろんな所にあるんです。バブルの崩壊から10年くらいは、行政は野宿に対してほぼ放置状態だったんですよ。対策なし。それが 2000年代の半ばから、対策とセットで排除をするっていう方針を向こうが出してきて。新しい小屋は絶対に作らせないっていうのが、向こう側の方針になっ ちゃったんですよ。そうすると、新しい小屋を作るのが難しくなって。がんばって作った所もあるんですよ。半年くらい野宿の仲間と一緒に寝泊りして。で、タ イミングを見計らって一斉にバーっと建てたりね。

アメとムチの行政の施策に抗して
参加者G 行政はどこかの施設に入ってくれって言ってるんですか。それとも単に追い出すのか。
向井 施設に入れって言うし、今だと生活保護。普通は、野宿の人は窓口からバンバン排除されて「野宿だったらだめだ」みたいなことを平気 で言うんだけど、こういう工事がおこなわれる時にはアメとムチのアメとして生活保護を取れと。それで、生活保護や対策を準備しているんだから、入らないの はそいつが悪いんだから排除してもかまわないじゃないかっていう形にもっていきますね。
参加者G そこにいる人たちは生活保護を受けるのが嫌だと言ってるんですか。それは、施しを受けるのが嫌だという気持ちだからですか。
向井 歴史的に考えるべきだと思います。15年、20年行政が無策をずうっと続けてきて。窓口に行っても追い返されるのが続いていたわけ です。そういう中で、追い出しが来て、じゃあ今までのは何だったのか。そういう怒りがみんなにあるというのが一つ。それから、日雇いとか下層の労働者とし て働いてきた歴史。どこかに所属して、それとバーターで恩恵を受けるって経験がみんなないと思います。中産階級以上のサラリーマンだと、会社に入って毎日 朝起きて仕事に行ったら、それなりの生活は保証されるっていうようなバーターが必ずありますよね。だけど日雇い労働というのは、向うが切ろうと思えば切れ るわけだし。たとえこっちが会社に擦り寄ったとしても、一銭も、ちり紙さえもくれないから。だから、下層の仲間が一番大事だと思うのは、そういう中で生活 を自前で作ることなんじゃないかと。下層の仲間とそうじゃない人とでは生活を自前で作ることへの切実さが全然違うんじゃないかと思うんですね。それで、生 活保護を受けるっていうのは自分の生活手段を手放す面があるわけですよ。今、仲間たちが、例えば収集人としてアルミ缶集めをやっていれば、それには置場だ とか小屋とかが必要なわけですけれども、それを手放すしかないわけですね。そうなると、さっきの話にもありましたけど、法律は平等じゃない。それと同じよ うに、生活保護は平等だって言うけど、実際は平等じゃないんじゃないか。いろんな理由があるんだけど、野宿の仲間、下層の仲間は生活保護を切られがち。向 いてない人も多いんですけどね。制度が誰の方を向いているのか、誰をイメージして運用されているのか、という問題は絶対ある。どこかに所属したり、合意し たりすることで見返りが受けられない階層、そういう記憶・経験っていうものがあるんじゃないかと。
そういう面をもう少し考えた方がいいんじゃないかと思ってます。例えば貧富の差、二極化って言われてます。そういった中で、下の方に入れられた人たちの 闘いで、果たして上の方に入れてもらうことを求めることが闘いの筋道として唯一のものなのかって、僕はいつも考えるんです。そうじゃない闘いもあるんじゃ ないのか。僕自身はプチブルって言うんですかね、大学を出てますし。そういう所では絶対に出会えない、そういう感じの人たちがいる現場だなっていう感じが してて。生活保護も微妙なところで。普通の人は「生活保護を出せばいいじゃん」みたいな感じですよね。「実は役所は生活保護を言ってきてるんですよ」って 言うと「えっ、何で生活保護を受けないの」「そりゃあ、公園にいるのが悪いんじゃないの」となりがち。社会運動やってる人でもなりがちです。でもそこで、 歴史性とか、社会での下層が置かれている状況だとか、生活保護のいろんな側面を考えて判断するべきなんじゃないかと思うんです。まあそうは言っても、僕が 本格的に活動家デビューしたのは生活保護の集団申請でしたけど。何十人かで役所に押し掛けて、それまで野宿者には一切生活保護を出さないっていうのを一晩 でひっくり返したっていう経験です。それは凄かったですよ。半年以上かけて準備したんですけど――。
えーと、そろそろ時間ですという司会からの合図がありましたので、最後にちょっといい映像を流して終わりにしたいと思います。
これは、アルミ缶の話なんです。TBSが差別的な報道を番組でやったんですよ。それで抗議をやってたら、話し合いに応じるっていうわけです。「まあアリ バイ的なものだろうから行ってもね」という意見もあったんだけど。でも、話し合いに応じるってことだから、アルミ缶をみんなで持って行って、TBSの前に 積み上げて話し合いを応援するのはどうかっていう話になり、それで行って来た。アルミ缶集めの仕事をしている仲間が半分以上いますしね。
(映像)対TBS行動
向井 向こうにいるのがガードマンで、手前のがオマワリですね。まあ、こういう感じなんです。缶集めてる人が自分の言葉で抗議をするというのが絶対に必要なことだと思うんですよ。
参加者E あとアルミ缶古紙のビラがあるので、もしよろしければ。彼らがどういう仕事をしているかがわかるので。
向井 実はオリンピックで野宿者だけじゃなくて、都営住宅の人が追い出しに直面していて。その人のライフヒストリーを聞き書きにしたパンフがあるんです。一部100円です。もし関心のある方がいましたら購入してください。今日はどうもありがとうございました。
(2014/4/12 planB)

〈参考資料〉

共同炊事がはじまったころ
共同炊事っていうものが山谷ではじまったのは、1994年です。そのころ、仕事も行けないし、生活保護もとれないしで。そのころは炊き出しもそんなに今 みたいにはなかったし、そのころ使えたのがセンター(いまの城北労働福祉センター)で、センターが宿泊と給食っていうのをやってたんですね。
宿泊が月に6日とか10日とかぶつ切りでとれたり、給食っていうのは、二日に一回パン一斤くれるってやつで、それでなんとか命をつなぐしかないような状 態だったんですけど、そのセンターの宿泊とか給食を求める列がすっごい伸びて、センターから明治通りまで。ものすごい状態になってて、それだけの人が行列 をさせられて、ただ黙って並んで待ってて、何かをもらう状態にさせられてるっていうのは、これはだめだと。で、その人たちが、いま一番矛盾を押し付けられ てて、その人たちが主体になってそれに対して怒りを表明したり、動くということが絶対に必要で、もし炊き出しなんかやったらその人たちに失礼だと。何かを あたえて、「どうもありがとう」とか言わせたら失礼だ、ということになって。
たしかに炊き出しは必要な状況だったんですね。みんなどんどん路上で倒れていく、凍死したり餓死したりっていうことだったんで、「炊き出しを始めよ う」ってことだったんですが、それを、活動家が作って配るとかいうやり方は絶対駄目で、みんな、炊き出しを食わざるを得ない状況の人が、自分たちで作って 自分たちで食うようなアレを作るっていうことで始まりました。
そのためには、行列すれば鍋一個あればいいんだけど、そのためにわざわざコンパネを何十枚も買ってきて、コンパネで作った台をセンター前の端から端まで 並べて、そこで、野菜を切ったり。最初、米じゃなくて、米だと一人で炊けちゃうから、もっと人手が必要なスイトンにして、小麦粉をぶちまけて、テーブルの 上に。そこに水をぶちまけて、それを何十人が囲んでこねて、手は白くなりスイトンは黒くなり……
そんで、その時センター前でアオカン者だけでだいたい700人の人がその状況で飯を作って、その飯を食ったと。食うときも、誰かが行列に渡すってやり方 じゃなくて、どうするかっていうと、テーブルに並べるってくらいしかやり方ないんですよね。それを、そのままセンター前に。
さっき「泊まるのは正月だけか」っていう質問があったんですけど、その時は正月じゃなくて、センター営業中に泊まったんですよ。そのセンター前に。毎日泊まって、飯はセンター前で全体で作って、昼間はセンターに押しかけるっていう。

90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き
90年代だし、自分の狭い経験だと思うんですが、山谷に来た当時は、すごく解放される感じを味わったっていうか。例えば、現場仕事に行ってですね……山 谷はけっこう厳しくて、女はあんまり使わなかったんですけど、高田馬場はまだ女を入れて、馬場からが多いんですが、山谷じゃないね、そうすっと。
現場っていうのが、8時から5時までなんですけど、10時から10時半と、3時から3時半は30分の休憩で、昼休みは12時から1時って、どこの現場 行ってもそうなんですけど。だいたいたとえば、11時45分くらいになると、他業種であっても、「飯だぞ」って言って、「道具置いて飯行け」って言って。 他業種っていうのは、自分の職種の親方とか一緒に働く人とかいるんですけど、それとは違う人。「そんな働くな、飯行こう」とか、そんな感じで声掛け合うの が、すごくどこいっても普通だったし。
監督っていうのが元請けから来ていろいろやるんだけど、その監督が必ず一番いじめられる立場だったし、あと、ボウシンとか親方とかと、ヒラの労働者とい るんですけど、必ず敵か味方かっていうのがみんなはっきりしてて、一緒に働く人は、絶対ボウシンとか親方側にはつかなくて、一日いくらで雇われてる人、み んな同じなんですけど、その側だっていうのがはっきりしてて、絶対その、こっち側だっていうのがはっきりしているんだな、っていうのを感じました。
すごい狭い経験ですが、そういうのが、山谷の街全体に行き渡ってる感じがして。強いやつとか、金持ってるやつにつくんじゃなくて、一日いくらで働いても うそれで終わりっていう立場の人、自分もその立場だってみんな自覚していて、だから、その同じ境遇、同じ立場の人を大事にするっていうか。
別に特に大事にするってわけじゃないけど、仲間だと思ってるみたいな感じをすごい感じて、自分としては今まで自分がいた社会と全然違うなと思って。
最初は寄せ場から仕事に行けてて、だんだん仕事が減ってきて寄せ場から行けなくなって、次に、新聞広告からも建築現場に行けたので行ってて、それも行け なくなって、そのころ、登録派遣みたいなのが出だして、それは形式的には日雇いと同じだから同じようなもんだろうなと思ってたんですが、違いは一回面接が あるかないかで、あとは毎日日払いで金くれるから一緒かなと思って、ちょうどいいやと思って行ったら、ほんとに、全然違って。すごくみんな上ばっかり見 るっていうか、現場だったら監督のことばっかり意識して、労働者の間でも、強い人間に対してすごい気にしてって感じで、新しい人は肩身が狭いっていうか。 そういう露骨なのがすごくあって。でも、普通はそうなんだよなあと思って。
ほんとに同じなのに。一日いくらで、明日はどうなるか分からないってのは同じなのに、えらい違いだなと思いました。

船本洲治(山谷の活動家、沖縄で焼身自殺)の「強いられた条件を武器に転化する」という言葉
争議団以後の山谷の野宿者運動では、キーワードの一つ。例えば隅田川沿いの桜橋という場所で、一旦は完全に追い出しがなされた場所を取り戻す際、その場 所で身一つで寝ることを戦術とした。排除の実行主体であるガードマンにとって、口答での抗議や何よりも、その場所で寝ている人の数が増えていくことが脅威 となった。強いられた条件というのは、野宿せざるを得ないということで、それは直接の抵抗の形となり得る。
また、2007年の生活保護(居宅保護)要求の運動では、野宿者に生活保護、しかも施設収容ではなく居宅保護を出させることを目的として取り組まれた。 それまでは、野宿者はほぼ100%施設収容だった。野宿者に対しては、窓口での生活保護申請書の提出もさせない、というのが役所の姿勢だった。それを打ち 破るために取られたのが、役所のすぐ目の前の河川敷で、約100人で一晩野宿し、その翌々日に集団で生活保護を申請するという戦術だった。「もしも居宅保 護を出さないのであれば、居宅保護を認めるまで役所前で野宿し続ける」と通告した上で、申請を行った。結果、それまで一切認められていなかった居宅保護 が、全員に出された。「法律が一日で変わった」という仲間の言葉。派遣村の一年前のこと。

2014年4月12日

plan-B 定期上映会

行政の排除に抗して――竪川や荒川での野宿者のたたかい
講演 / 向井宏一郎
(山谷労働者福祉会館活動委員会)

「山谷―やられたらやりかえせ」という映画の中で描かれているのは、約30年前の山谷のたたかいです。使い捨て可能な労働力として、大量の日雇い労働者 がプールされ閉じ込めらた被差別空間としての寄せ場。そこには、最も厳しい条件の下、差別と抑圧にさらされた人々の、ギリギリのところでの連帯と怒り、エ ネルギーが直に渦巻いていました。
90年代、山谷の風景は大きく変わりました。寄せ場は労働力市場としての機能を大幅に縮小しました。では仕事が激減し、ドヤに泊まれなくなった日雇い労 働者はどうしたかというと、公園や河川敷などに勝手に小屋を作り、駅や路上に寝泊まりして、命をつないだのです。野宿者運動のはじまりです!
寄せ場の周辺の公共地に、寄せ場と地政学的に密接な関係を結びながら、野宿する人々。行政の施策が日雇い労働者・野宿者を露骨に差別し排除する中、行政 に対する施策要求を経由するのではなく、空いてる場所に自前で居住権を勝手に実現してしまうこと(=公共圏の自然発生的な占拠)。そこでの行政との反排除 のたたかい。この理念に先行して突発する行動(だがそれは問題の本質を大事なところで的確にとらえる身体的な感覚に裏打ちされています)や、横のつながり だけを信じ、縦のつながり=権力の支配から徹底して身を引き離そうとする中で実現されている直接性こそ、野宿者運動の中に、日雇い労働者のたたかいが直系 として引き継がれていることの証左ではないでしょうか。
ここ数年、竪川や荒川での文字通り行政の排除との全面的な対決が続きました。それらの取り組みを通して、映画に描かれているたたかいが、どのように現在に引き継がれているのか、伝えたいと思います。

2014年2月8日

plan-B 定期上映会

「ヒミツのはなし」
講演 / 渡邊太
(国際脱落者組合/大阪国際大学教員)

ポスト小泉体制として出発した第一次安倍政権は「美しい国」をスローガンとしたが、民主党から政権を奪取した第二次政権のスローガ ンは「日本を取り戻す」である。「美しい国」にせよ「日本を取り戻す」にせよ、何をもって「美しい」と言うのか、取り戻したいのはどのような「日本」であ るのか、あいまいで何とでも言える。だが、「美しい国」という名詞形から「日本を取り戻す」という動詞形への変化は見逃せない。「取り戻す」の主語は何な のか。主体は誰なのか。
この間、特定秘密保護法案が迅速に可決された。9月に法案が公表されて2週間のうちに約9万件のパブリックコメント(8割近くが反対意見)を集めたにも かかわらず、10月に衆院可決、12月に参院可決。このスピード感。もはや「日本を取り戻す」ために大衆的合意は必要としないかのようである。自民党幹事 長は法案に反対するデモを「テロと本質的に変わらない」と述べた。
「特定秘密」のターゲットは防衛、外交、テロ等とされるが、原子力エネルギー、沖縄の米軍基地、TPP交渉、等々「ヒミツ」にしたいことには事欠かない。その先には、「公の秩序」を基本的人権に優先させる自民党憲法改正草案も待ち構えている。
2020年「東京オリンピック」開催が決まり、大阪では「道頓堀プール」の実現が目指されている。都市再開発と零細窮民の排除といういつもの光景がくり 返されるのは明らかだ。「儲からなければ文化ではない」(堺屋太一)だと? 文化をなめるな。うんざりしつつも、ヒミツに包囲された生活空間を社会復帰さ せるために何を共謀すべきか、考えたい。

2013-14山谷越年・越冬闘争

2013-14山谷越年・越冬闘争

黙って野垂れ死ぬな!   越年・越冬をともに!

中村光男(山谷争議団)

寄せ場がつぶされ、そして非正規労働者2000万人の時代に

今晩は。中村です。いま寄せ場で、山谷で活動してる人は少ないし、働いてる人もほとんどいない。私達がもう日雇い労働者として働いてきた最後の世代なん じゃないかって思っています。ドヤも百二十数軒ですかね、残ってるのが。大体5,000人前後の方がいるわけですけれど、9割以上が生活保護受給者です。 その周辺に路上にいる方がいますし、安い木造の二階建てのアパートとか、そういうのが地域に広がっているわけです。で、この映画でも示されていますけど も、被差別部落や三河島という在日の集住地区、あるいは吉原という地域があります。まだ1980年代までは沖縄の人達や、あるいはアイヌの人達や、社会的 に排除されたり差別されたり、そういう人達がこの寄せ場に仕事を求めに来ていました。それが、まあ80年代までだったかなと。
90年代に入るとバブル崩壊という、まあ失われた20年とか30年とかってよくマスコミで言われますけれど、その時代が始まって、ほぼ日雇い労働市場と しての寄せ場の機能が奪われているわけです。それまでは仕事に就くというと、手配師、仕事を紹介する手配師がいて。これはほとんどバックに暴力団がいたわ けですけども。あるいは業者が直接車で乗り付けて、その日の仕事の現場に行く。それから一か月契約とか15日契約っていう形で飯場、飯場って言うんですけ ども寄宿舎ですね。寄宿舎に入って仕事に就く。四大寄せ場とか三大寄せ場とかって言われてた訳ですけども、釜ヶ崎以外は、まだ釜ヶ崎は若干労働市場として の姿が朝見受けられますけど、ほぼ壊滅的な状態になってもう既に20年以上経つ訳です。
でも日雇い労働っていうのがなくなった訳じゃないですよ。ご存じのように非正規労働という形、あの呼び方で厚生労働省の発表で2000万人、三人に一人 が非正規労働ということになってる訳で、あらゆる形でもう食えない仕事がドンドン再生産、拡大しているのが実態だと思います。普通に考えたら三人に一人が 非正規労働ですから、もう凄い時代に来たっていう気もします。この前、厚労省が発表したブラック企業の調査っていうことで、5,000企業の8割以上がブ ラック企業であると、これ正規職ですよね。正規労働者の5,000企業のうち8割が残業代を出さないとか、いろんな形で労働者がほとんど声を上げられない 状況になっているっていうのは非正規と変わらない。労働そのものがそういう形になってるんだと思ってます。
私は個人的には1980年に初めて山谷に行ったんです。越冬闘争は81-82越冬、まだ山谷争議団に入ってなかったんですけど、その時参加したのが最初 なんです。80年に何で行ったかっていうと、たまたま私が東拘(東京拘置所)に入ってたら山谷の人がいっぱい入ってて。で、出た後暮らす場所がない。要す るに、アパート借りられないし保証人もいないし、どこで生活するんだって。そうしたら山谷っていう所があるって聞かされて、ドヤで泊まるしかないっていう ことで。それでドヤ探しに山谷に行ったのが初めての経験なんです。それから81-82越冬から数えてももう32年。その間この映画で切り取られた80年 代、83年以降ですね。中曽根政権時代か。戦後政治の総決算っていうことで、世の中は低成長時代って当時は言ってたんですけども。それとアメリカとの関係 で。都市再開発を一気にやろうっていうことで、その辺から東京の一極集中っていうか、再開発が始まって。そこの背景には、切り捨てる労働力、安い労働力を 動員して牛耳ろうっていうのが、あったんだろうと思うんですね。で、当時は、今みたいに路上に人がいるのが当たり前のような時代ではなかったんですけど も、それでも環境浄化っていうことで、ともかく路上にいる人間を山谷から叩き出せ、反抗、抵抗する勢力の山谷争議団を潰せみたいな形で、一気にくる。
記憶に残っているのは、84年の横浜の寿町で中学生が路上にいる仲間を4人、襲撃して殺してしまうという事件がありました。当時の衝撃的な時代の写し絵 といいますか、それがいまなお変わらずに続いてる訳です。中学生、高校生の路上にいる仲間への襲撃は今も絶えません。それと路上に暮らすこと自体今は困難 になってる。90年代から2000年にかけて、隅田川にはブルーテントが1,400軒くらいあったんです。今はブルーテントすら建てることが出来ない。そ ういう状況の中で、なんとか生き抜くための取り組みを続けてきたと言えるのかもしれない。
90年代に入って、バブル崩壊してもう仕事が無くなった状況の中で、ドヤから毎日のように200人、300人の労働者が、ドヤ銭を払えないためにバッグ を肩に担いで路上にドンドン出ている。そういう姿を見てきたんです。そういう労働者がどうしたら声を上げていけるのか。労働者自身がどうつながっていける のか。上からこういうことをやれば、こいつらの命を救えんじゃねえかとか、仕事を取れんじゃねえかとかっていうよりは、強いられた状況の中で労働者がどん な声を上げていけるんだろうか。自分達がもう一回声を上げながら横につながっていけるんだろうか。そういうことを、引き下がれないベースみたいなところで 考えていきたいっていうのが一つあるんだと思うんです。

山谷の労働者から突き付けられてきたこと

特に、最近は貧困と格差が拡大したってよく言われて。はっきり言うともう食える仕事がない。別に山谷に限らずに、一般地域社会の中でも食える仕事がない 訳ですよねえ。時給900円の仕事はあるかもしれない。あるいは週に三日程度の掃除の仕事とか、そういうのはあるかもしれない。だけども少なくとも非正規 労働者2000万人というように、安心して働いて暮らしていけるような、そういう仕事がほとんどないと言っていいかもしれません。で、そういう中でNPO とかいっぱい出来てます。私自身もそれに関わってはいるんです。でも端的に言うと、日比谷派遣村以降に出来たものとして第二のセイフティーネット、生活保 護以前の第二のセイフティーネットっていうことで職業訓練をして就労支援をさせようっていう、そういう取り組みは4年経って完全に失敗した、と。これは行 政の職員も明確に言ってる。仕事がないんです。最近の調査で就労支援をやってるNPOの調査をしてみると、就労支援団体の三割が一人も就職させることが出 来なかったっていう状態になっている。この15年で、特に製造業は労働力が600万人くらい減ってますし、現実にもうほとんど海外に出ちゃってますから。 今、企業優先っていうことで、まあ普通に暮らしてる人達からドンドン税金を取って、消費税が典型ですけど、企業優遇する、と。だけど、もうとっくに企業は 海外に出て中小零細はバタバタとつぶれてるんですよね。でもなおかつ中小零細企業の6割くらいは大企業の末端で、部品一つ、一個作るのに1円だったものを 30銭で作れって言われればその通り作らざるをえない。どんなに頑張って働いても中小企業主は利益も出ないし、労働者も派遣で時給800円、900円で雇 わざるをえないというのが現実なんだと思います。
世間から見たら身も蓋もないって言うか、どこに希望があるのかっていったらどこにも見えない。そういう状況の中で何が出来るんだろうかっていうことなん です。もちろん路上にいる人は路上から声を上げている。生活保護を貰ってる仲間はそこから声を上げている。あるいは、一年前から始めた被ばく労働ネット ワークっていうのを今日お手元に配りましたけども、今、原発や除染で働いている労働者もそこから声を上げていけるような条件をどうしたら作れるんだろう か。そういうことを、活気があった時代から今でもそれは変わらぬものとして私らは持っているんだ、と。私もそうでしたけど、山谷に入った時に労働者から常 に言われてたのは「お前達は好きでここ来たが、俺達は好きでここに来たんじゃない」と。「お前達は好きで来たんだろう」と。「違うだろう」ということを常 に突き付けられていた訳です。その中で自分達の役割は何なのか。これだけ特定秘密保護法とか、原発の再稼働とか、消費税、あるいは派遣労働者の改悪など、 社会の暮らしや労働や国家の仕組みまで含めて変わっている時代の中で。自分達がどこにいて、自分は何者でどんな役割を背負って生きているのか、まあ青っぽ く言えばそういうことを常に山谷に入った時から労働者に問いかけられてきたっていうのが、私らの実情だったと思うんです。

被ばく労働者は山谷で共に働いてきた仲間と同じだ

この映画のことを私はほとんど言えないんですけど、まあ映画はその一つの答え、最終解答じゃあないとは思うんですけど一つの答え方であったと思うし。 で、生き長らえてきた私達がどうそれに対して答えていくのかということで、非常に深刻な時期を迎えてるんだと思うんです。人も少ないし、仕事に就くって いってもなかなか出来ない。それでも地に這いつくばってる仲間達の中で、一緒になって団結とか仲間とかという言葉がまだ生きている。小さくてもどう声を上 げて社会に発信出来るかっていうことが、まあせいぜい私らのやれること。逆に言うと、それがない状況が一番恐いなあというような気がします。ここに来た人 達も、それぞれの、自分がどういう仕事をしてどんな社会的な位置に、自分が勝手に社会的位置を作ってる訳じゃなくて、社会の中から作られる訳ですよね。お 前は何者だっていうことで。そういう中で自分の負っていく役割みたいなものを、やっぱり凄く意識しないと生きていけない。
秘密保護法だ、原発の再稼働だ、生活保護の改悪だ、正直言ってやりきれないですよ、一つの身では。もう既に60を越えてますけど、やっぱり働かないと食 えない。私とか荒木さんなんかもずっと山谷の日雇い稼業ですから無年金なんですね。何歳になったって年金なんか出ませんし、体が動けるまでは働かないと 食っていけないんで、まあ仕事に就いてる訳ですけど。その中で、毎日のように反対反対っていう声を上げていかなきゃいけないような時に、それだけではな い、どっかでこう横につながる、抵抗する火っていうか、抵抗する基盤を、もう一回再形成していけるのか、新しく作っていけるのかっていうことを考えない と。いや相当恐い時代に来たなあというふうに思ってます。
私らは本当に力はないし金もないし人もいないんですけども、狭い山谷という空間の中で、今は絶やさずに声を上げている。そういう中で、個人的には被ばく 労働の問題や、反貧困ネットワークにも関わっています。山谷に来て共同炊事をやっている生活保護の仲間や路上の仲間の姿を見ると、私は物すごく誇りに思い ます。被ばく労働ネットとか、反貧困ネットなんかは特にそうなんですけど、当事者が胸張って何かやる姿っていうのに出会えないんです。まだまだ山谷はそう いう地だと思うんです。生活保護を受けていようが路上に生きようが、飯場で労働していようが、胸を張って仲間がいるっていうことが言える。みんなで同じ境 遇を一つのものにまとめて声を上げるエネルギーはまだ残ってると思います。もうとっくに寄せ場は労働市場としてつぶされたんだけども、活気のあった80年 代でもそうでしたけど、これは寄せ場の中で固有のものなんですよ。山谷労働者っていう抽象的な言葉、あるいは野宿者っていう言葉で言い表わせない個々の、 それぞれの人達が具体的につながりながら一緒に声を上げていく。そういうことを、それこそ山谷の壁を越えて、いろんな地域とあるいはいろんな人達とこれか らもつながることを……これは希望なんです、我々から言うと。ドヤ街に囲い込まれて、あるいは路上の中に押し込められた仲間がその壁を突き破って、様々な 方とつながって声を上げる。これが希望なんです。
被ばく労働の問題をやり始めたのも……私達の目の前を見ると、日雇い労働で今日も明日も仕事だという人はほとんどいなくなっちゃった。でも、その仕組 みっていうのは頑強に残ってるんですね。その典型的な姿を被ばく労働者の中に私達は見た訳です。最初に思ったのは同胞だっていう。彼らこそ、かつて山谷で 一緒に働いてきたのと同じ仲間だって思ったんです。ここをやれないと駄目だろう、俺達は駄目になるっていう気持ちだったんですね。残念なことに、一般の大 きな労働組合はほとんどやりませんので、廃炉で40年、50年と言ってますから、私が死んだ後もなんとか残っていくような形で作りたいなあと思ってます。

ネット求人の闇―原発労働一日15分って何だ?

山谷の映画でも観たように、仕事に就く時は必ず私達の体験では手配師がいて、業者のオヤジがいて、という形で顔の見える関係だったんです。飯場にはごう つくばりなオヤジがいるし、そういう顔の見える関係だった。ところが、被ばく労働の問題を取り組んで一番びっくりしたのは、除染も原発労働者も8割がた ネット求人で仕事に就いてます。ハローワークを活用してる人はほとんどいません。フリーっていうネット求人があるらしく、ここが一番有名なんです。そこに は業者の名前と担当者の名前と電話番号、携帯電話が書いてあるだけ。時たま賃金、条件とか書いてあります。そこから、どこの会社に雇用されるかわからなく て行くんです。いわばネット求人っていうのは労働ブローカー、手配師ですね。顔の見えない手配師です。これがネットを通じて行なわれてる。これは本当に私 は衝撃的でした。つかまえどころのない、どうしたらいいんだ。今でもわかんないんです。
例えば一か月程前に出た、そのフリーでの求人募集の内容は、福島原発で一日15分の労働、賃金は16,000円。で、名前が書いてあって携帯電話の番号 が書いてあるが、会社の名前も書いてないし所在地も書いてない。原発の中で15分の労働ってまず何なんだろう、と。今、汚染水の仕事をしている労働者は大 体一日に500マイクロシーベルトくらいの被ばくをします。それでも一日4時間から5時間は実際に体を動かして汚染水の仕事をしている。待機してても被ば くするわけですけれど、低線量でね。それで半年から一年で、被ばくの限度を超える訳です。じゃあ一日15分の仕事って何なんだろう。これがわからない訳で す。もう、例えば労働基準法であるとか、そんな世界じゃないんですね。これは、原発とか除染の仕事だけではありません。典型的な相談でこういうのがありま した。広島の40歳の労働者が、仕事が無い金が無いっていうことで福島に入って働き始めたんですが、もう耐え切れなくなって、東京に来た。それで仕事をま た探し始めるんですけど、結局福島でしか仕事が無い。で、待機する。どこで待機したかっていうと田端にあるシェアハウス。一泊800円。二段ベッドの8人 部屋。そこに待機して一か月派遣の仕事に就く。何の仕事に就いたかっていうと、紀文の工場。紀文ってあの結構有名な会社です。あそこの工場で、夜8時から 朝8時迄の12時間労働で6,800円。そこを一か月耐え切りながら、またネット求人で一万いくらかの除染の仕事に就いていったんですね。
この一年100人以上の方の相談を受けました。建前上、厚生労働省から危険手当が出るって話になってますから、なんとか危険手当を払わせることが、ほぼ 100パーセント出来たんです。まあ成果といえば成果なんですけど。始まった頃は危険手当が一銭も出ていなかった。あるいは一日1万円出てるのに二次下請 けでは一日2,000円、三次下請けは一日100円の危険手当しか出なかった。それを全員に1万円出すことはなんとか出来た。でも、今度は福島の最低賃 金っていうことで。これはもう国の、福島労働局の指導の下でゼネコンが統一して、そういう賃金体系を作ってる。で、逆に言うと原発で働く人のほうが賃金が 安いくらいになってきちゃってる。原発で今一番安い人で8,000円くらいからですから、一日の賃金。低線量被ばくなんで健康への影響が科学的に証明され ていないという現実があります。そういう中で皆さん働いてる訳です。

自己規制・利権、そして支配・排除・差別の構造の中で声を上げる

津波と原発の被害を受けた浜通り、あるいは中通りからもうちょっと奥に行った会津地方、あの地域の人達、80年代の山谷に福島出身の人が相当数いたんで す。この間、山谷のみんなと福島にフィールドワークってことで行ったんです。その報告集もお手元に配りましたけど、一番驚くのは、福島で被災した人達が、 原発や除染で働く人達の状況を何にも知らされてない。除染だと5割くらい地元の方々。原発だともう6割、7割の人が地元の方なんです。にもかかわらず福島 現地で誰も知らない。ほとんど男性です。除染現場は今、女性が結構増えてるんですけど、原発だとほとんど男性です。で、働いてる父ちゃんが母ちゃんにも 言ってない訳です。子供にも伝えてない。そういう状況の中で果たして原発で働きながら声を上げることが出来るんだろうか。家族にも言えない労働って何なん だっていう話なんですね。ほとんど労働者が、ある種自己規制せざるをえない。言ったら会社ごとに全部切られちゃうっていう中で働いてる。私は山谷でずっと 日雇いをやってきましたけども、現場に行けば「あいつら山谷だぞ」と同じ現場で働いてるのに言われる。そういうものが原発や除染っていう労働者の中にも、 福島の地元ですら作られているっていうことなんですよ。がんじがらめに、単に労働ってことじゃなくて、原発が地元で家族と住める条件だったっていうこと で。東電に対する自己規制も含めて地元には作られてるんです。当然、利権の仕組みっていうのは物すごい形で作られてます。
日常の自分達の働く場や、あるいは暮らす場にこそ、実はそんな支配の網の目があるんだと思うんですね。そういうところでも声を上げていくような力、もち ろん原発反対のデモには一生懸命参加しますし、あらゆるところで抵抗の声を上げていくんですけども。僕らにとっては、仕事や山谷のドヤ街、あるいは路上、 そこで暮らす中にこそ、支配、排除、差別の網の目がもう見える形である。そこから、仲間と一緒に小さくとも声を上げていく。そんなことを続けていきたいと 思っています。それをどうにかしてね、まあ僕らも先はそんなに長くないんで、別に山谷じゃなくたっていいんですけども、みんなで声を上げていくことが必要 なんじゃないかなって思います。
特に派遣労働とか若い人達が寄り集う場もない。本当に孤立してる。酒を呑んだり騒いだりっていうこともなかなか出来ない。一緒に汗流すってこともなかな か出来る場がないといつも聞かされています。ぜひそういう場を、今日のこういう場もある種その発信地ですけど、作っていきたい。今回の越冬もそうですけど も、夏祭りはもうちょっと楽しい雰囲気なので、みなさんに来ていただいて。どうやったら声上げられるのか、どういう、どんな声の上げ方が出来るのか、そこ らをぜひ一緒に考えていけたらいいと。こういう所でも山谷でも、あらゆる所で、そういうことをみんなで一緒に問いかけながら、いや本当に凄い時代に来てる んで、みんなで頑張りましょうってことで終わりましょう。

司会 頑張りましょうっていう話でした。デモで声を上げるとテロリストにされちゃう時代なんですけども。この冬もし時間がありましたら山谷の越冬でもう一回、中村さんの顔でも見に行って下さい。今の中村さんの話で何か、ここを聞きたいなあということがありますか。あっ、はい。
参加者A 皆さんの手元に配った山谷の転び公妨(公務執行妨害)のビラがあると思うんですが、ちょっとだけ訴えさせて下さい。山谷の映画 の中で泪橋が出て来ましたけど、あそこで3月の24日に警察官に囲まれて職務質問を受けたんですが、間を擦り抜けて通ろうとしたところ、警察官がその場で 尻餅ついて倒れた。でも普通、そんなふうには人は倒せないですよね。もう明らかに転び公妨の典型なんです。それで、134日も拘留されて40万円も罰金を 取られている。だから今、控訴しています。本人から一言だけ訴えさせて下さい。よろしくお願いします。
参加者B 特にないんですが、1月22日に裁判が行なわれますので、あのう、よろしくお願いいたします。
参加者C その裁判の中で、警察官が言った聞き捨てならないせりふがあります。山谷は低所得者で犯罪者の集まりだ。ここの人間はクズだと いうようなことを再三言いました。検察官も。証言台に立った警部補、伊藤という警部補と中井巡査部長も再三言いました。私はそれを全部聞いておりました。 それで最初はまばらだったんですが、傍聴人がとっても増えまして活気づきました。そうしたら今度は429号法廷、これ警備法廷です。ここに持っていかれま して、もう傍聴人に対して威圧です。裁判の判決も、その判決文の中で安東章裁判長も差別を重ねて言いました。山谷の人に対するこの差別、これはもう聞き捨 てなりません。そして1月22日に裁判があります。みなさんに大きな関心を持っていただきたい。あわせて応援も、どうぞよろしくお願いします。
司会 1月22日、地裁の429号? 何時からですか?
参加者C 高裁で午後3時から。
司会 ああ高裁。控訴してますよね。ということで、午後3時からあります。もし仕事の休める方はぜひ行って下さい。ええ、それから隣に忘 年会の用意をしてあります。時間のある方は、よろしかったらお残りください。そこで、中村さんや山谷争議団の荒木さんも来てますからもうすこし話を聞くこ ともできます。この映画のことでしたら僕らにどうぞ。今日はどうもありがとうございました。

(2013.12.21.PlanB 文責・山谷制作上映委員会)

2013年9月14日

plan-B 定期上映会

「新宿ダンボール村」の日々
講演 / 迫川尚子
(写真家、新宿ベルク副店長)

ほんの15年ほど前、新宿駅西口地下に「ダンボール村」があった。「ホームレス」と呼ばれる者たちが寄りつどい、工夫を重ねてダンボールハウスという 「ホーム」を次々と立ち上げて、ひとつのコミュニティをつくっていたのだ。それに寄り添った支援者によると、その期間は1996年1月24日から98年2 月7日までの約2年間。──このふたつの日付にはそれぞれ重要な意味がある。ひとつは、それまであった西口広場から都庁に通じる地下通路のダンボールハウ スが都によって強制撤去された日。そしてもうひとつは「ハウス内からの失火」によって住民4名が焼死した日だ。
わずか2年余という「短い」期間ではあったが、しかしこのコミュニティには濃密な時間が流れていた。それまでバラバラにされ、見えない存在とされていた 「ホームレス」たちが、若いアーティストが描く色彩とともに鮮やかに姿をみせ、「生きることが闘い」であることを人びとの目にはっきりと焼きつけのだ。そ の「闘い」は、いまもそこかしこで続いている。
今回の上映では、この5月に写真集『新宿ダンボール村』を上梓した迫川尚子さんに、同時代としてのダンボール村を語っていただく。

2013年7月13日

plan-B 定期上映会

ヘイトスピーチと、わたしたちの現在
講演 / 首藤久美子
(女性と天皇制研究会)

ヘイトスピーチ──たとえばいま、新大久保の街頭で「ハヤク クビツレ チョウセンジン」と叫ぶ集団がいる。憎悪表現とも訳 されているヘイトスピーチは、もはやネット上の「スピーチ」を超えて、罵声を浴びせられる人たちの生活や身体を直撃している。それは、朝鮮人6000人を 虐殺し去り(1923年)、アジア各地への侵略を進めていったこのクニの──わたしたちの歴史を思い起こさせる。
むろん、このヘイトスピーチは「在日朝鮮人」たちだけに向けられているわけではない。わたしたちの未来、わたしたちがめざし作り上げようとする「社会の多様性」に、それは向けられているといってもいい。
今回の上映では、こうしたヘイトスピーチのありさまと、それに対抗する運動の課題を、「女性と天皇制研究会」の首藤久美子さんに、女の視点を交えて語っ ていただく。侵略戦争下にあって、唯一といってもいい、朝鮮人らとの共闘を継続した下層──寄せ場の・もうひとつの歴史・をふまえて。

勝新太郎とドキュメンタリー

境誠一(映画編集者)         聞き手 山谷制作上映委員会・小見憲

<「勝新太郎7回忌法要記念名場面集」DVD上映20分>

プロダクションじゃない。勝プロダク

小見 これを観ますと、やっぱりすごいですねえ。紹介します。映画編集者の境誠一さんです。
 境です。今観てもらったのは、七回忌の法要の時に会場で流したビデオなんです。まあ、個々にはいろんなところで観せてはいるんですけ れども、これだけのお客さんの前で観てもらったのは初めてですね。「山谷」の作品とは、もう全てが違うんですけども。勝新太郎は皆さん方が思ってる「座頭 市」であるとか「兵隊やくざ」であるとか「悪名」であるとか、そういう役者としての顔と、もう一つ別の顔があります。それは監督としての勝新太郎です。 で、これがもう全く似ても似つかないっていうか……。これは皆さん方があまり知らないと思うんです。キャラクターとかは映画を観ればすぐわかるんですけど も。勝新太郎っていう人の監督方法とか演出法とかっていうのを、今回ちょっとこう、それとドキュメンタリーっていうのをちょっとからませて、まあ小見さん とのキャッチボールですかね。
小見 「勝新太郎とドキュメンタリー」というテーマなんですが、どういうふうにして結びつけるのか、これはかなり厳しい。勝新太郎って大 スターですよね。今のDVDにも出てきましたけど、三船敏郎と石原裕次郎、彼らと同じような大スター。ですけど、ちょっとこの三船敏郎や石原裕次郎とはタ イプが違って。「座頭市」にしろ、「悪名」にしろ、それから「兵隊やくざ」にしろ、どちらかって言うとアウトローというか下層というか、そういうヒーロー じゃないですか。そういうキャラクターは皆さんもご存じだと思うんですけど、そういう勝新太郎が監督をしたときの、演出の仕方っていうんですか。それはど ういうものなのか。例えば、よく知られたこととして、あの黒沢明と「影武者」でぶつかったとかね。大監督とぶつかるわけですから、俳優の立場っていうのも あるんでしょうが、もうひとつ何か、もののつくり方っていうものが底にあるような気がするんですよ。それでこの間、境さんからちょっと話をうかがった時 に、カチンコを使わないとか、かなりこうアバンギャルド的というか、そこら辺どうなんでしょう?
 その前にですねえ、さきほどの三船さんや裕次郎さんとちょっと違うのは、まあ勝プロダクションていう名前があるんですけども、「俺ん ところはプロダクションじゃない。勝プロダク損だ」と言うんですね。要するに、損をしてもいいんだ、赤字になってもいいって言うんですよ。これがちょっと 他の人達とは違う。そういうのが土台としてあるんですね。で、予定通り進まなくていいと。それと合理的なものを嫌がる、段取りが嫌いと、こうなるんです ね。そうすると物凄くこう手間がかかっちゃうんです。予算もオーバーしちゃうんです。予定通りいかないですから。例えば、今だったら「ああ空がないな」と なれば、「じゃあCGで合成しちゃおう」となりますけれど、でもそうじゃなくて「いい空が、雲が出るまで待とう」と。そうするとそこでまた無駄が、ロスが 出てくるんです。それでも、その瞬間が欲しいんだ、その偶然に面白味を求める。で、その瞬間、偶然を大切にして段取りを嫌うために、今度は「台本は余計 だ。台本いらない」と。いや台本はあるんですけど。どうしても「そういうふうにならない」という気持ちが……。で、その時どうするかというと、例えば俳優 さんに「お前だったらどうするの」という、そういった形で進めていくんですよ。だから即興の連続でもあるし。ただそれは俳優さんによって使い分けちゃうん ですよ。例えば、今のDVDに出てきた森繁さんの時なんていうのは、屋台のセッティングができたら、もうライティングが全部ととのって「はいOKです」に なったら、「じゃあシゲさんやろうか」と言って二人でこう芝居を始めちゃうんです。だから、セリフも事前の打ち合せなんてないです。テストなし。それでも 森繁さんだからできるんです。今日観てもらった画は短いんですけど実際は4分くらいあるんです。4分くらいを二人で昔の思い出話みたいな……。で、その時 の森繁さんの表情がもう何とも言えない顔になってるんですよ。勝のこういったこと、遊びに付き合ってどうすんだ、みたいな顔なんですよ。でも、観ている人 はそんなことを考えないですよね。一つあるのは、監督が俳優さんに「こういう顔をしてくれ」と言ったからといって、それは本当の顔じゃないと。だから森繁 さんの場合もぶっつけでドンドンやってっちゃったり。逆に、メイキングの、あれは長男の奥村雄大ですけども、あの時はセリフをあまりしゃべれなかったんで すよ、初めてだから。そういった場合は、いろんな言葉をかけながら、見てると催眠術をかけるような感じで引き出していくんですよね。だから、その辺は全く 人によってアプローチが違ってきて。俳優さんっていうのは、いろんな役を、いろんな人間ができるからいいんだっていう考えもあるんですけど、勝さんの場合 は「いや、もうお前自身でいいんだ」「余計なことはしなくていいんだ」と。すると、もう自分自身を曝け出すことになっちゃうんですよ。プロの俳優だけどプ ロの俳優をどんどん素人にしていっちゃう。そういったところが、撮影法としてはこうドキュメンタリーに近いような方法で、最終的に編集で劇にしちゃうって いう。だから、普通のスタッフから考えたら、非常に違った作り方ですね。

二枚目時代のフィルムは全部買い取って焼き捨てたい

小見 あの「座頭市と用心棒」でしたっけ。三船敏郎さんとはどうなんですか? 最後は結局、死なないんですよね。相手役として唯一死なないというか。
 社長ですから。(笑い)三船プロの社長だから、もうはじめから三船さんは斬れない。だから、ちょっとドラマが盛り上がらない。他の人はほとんど斬られてるんですけど、三船さんだけはやっぱり斬れなかったっていうことですねえ。
小見 演技のほうはどうなんですか? 森繁さんとは阿吽の呼吸みたいにしてやって、息子さんの時はこう催眠術かけるような演出方法を取ったというんですが……。
 三船さんの場合は、監督が岡本喜八さんだったので、だから喜八さんとの呼吸でやったんじゃないですか。
小見 あれは京都?
 ええ、もう全部京都です。最後の「座頭市」だけ東京でやりました。この最後の「座頭市」の時のことですが……勝さんっていうのは ちょっと変なっていうか、ぜいたくなところがあって。京都のスタッフは俺のことを全部知ってる。知ってると、シナリオがなくても道具でも何でも全部用意し てくれる。それがなんかこうつまんないと。15年ぶりに「座頭市」やるんだから俺のことを知らない人がいいだろう、そのほうが新しいものが出るんじゃない かっていうことでスタートしたんですね。まあそれで見事に失敗しちゃうんですけども。新しいものを出そうと言いながら、最終的には25本の中のダイジェス トを全部こう集めたような「座頭市」になっちゃったんですよ。面白くないのは京都のスタッフなんですよね。確かに「座頭市」は勝ちゃんのものだけど、「座 頭市」の画面を作り上げたのは俺らっていう自負があるんですよ。それを東京のスタッフがやったもんだから、それに対してもう不満はいっぱいありましたよ。
小見 なるほど。では、勝さんがこの作品はすごく気に入ってるとか、逆にこれは自分では気に入らないとか、そういうのはあるんですか? まあ演出とか演技も含めてですけど。
 作品は、「不知火検校」以前のフィルムは全部嫌いだと言ってましたね。二枚目で売ってた時があるんです。で、全然売れないんです。も う何をやっても駄目。劇場から「もう勝の映画やめてくれ」という苦情がきたくらいで。当時の二枚目の顔の、こうつるっとした顔のフィルムはもう全部買い 取っちゃって焼き捨てたいと。だから、その頃の作品は「大嫌い」って言ってましたね。
小見 そういえば、「初春狸御殿」とか、ありましたね。本当に二枚目。二枚目俳優として最初出てきたわけですよねえ。
 もう目もぱっちりして、ただ背が低いだけです。
小見 話を戻しまして、また俳優になっちゃうんですけども、「悪名」の田宮二郎さんとはどうなんですか?
 あれはもう即興ですねえ。アドリブです。
小見 アドリブ?
 ええ。変な言い方をすると、「やすきよ」に近いような、もう即興即興です。ひとつストーリーがあって、もうあとはプラスとマイナスの性格で。だから、あの辺はほとんどワンショットでやってると思いますよ。あまりカットバックなんかやってないと思います。
小見 ああ勝さんがプラスみたいな。(笑い)
 プラスとマイナスというより、まあこう古いタイプと新しいタイプっていう。

「警視―K」――電気消して正座して観ろ。そうしたらわかるんだ

小見 はい、わかりました。話は変わるんですけど、僕は観てないんですが、テレビで「警視-K」という作品をつくってますね。今、かなり評価されているそうです。実は、「山谷やられたらやりかえせ」の音をやった菊地進平さんもこの「警視-K」に関係したそうです。
 菊地さんがやられたのは、一話目がそうです。
小見 では、次にちょっとこの「警視-K」について。
 「警視-K」の時ですね、カチンコを叩かなくなったのは。「なんでカチンコを叩いたら、すぐセリフが出るんだ」と。そういうことが発 端で、一切カチンコを一話目は打たなかったんです。そうしたら、あとで一番困ったのが録音部なんです。どこまで編集部に音を渡していいかって。それでもっ といい方法ないかっていうことで、記録映画でやってるクラッパーっていうのを付けてやったんです。まあ、その辺はうまく技術的なことで解決したんですけど も、ただ「警視-K」で一番困られたのはテレビ局のプロデューサーでしたね。日本テレビの「太陽にほえろ」で20パーセント取ってる局Pが、「今度は勝新 の刑事ドラマで20パーセント取ろう」っていうことで張り切ってたんです。その一話の時、脚本もないってことで、それに本人もまあ「影武者」のあとという こともあって気合が入っちゃって、45分にしなきゃいけないのが90分になっちゃったんですよ。倍になっちゃったんです。監督ラッシュの時、みんな観なが らメモ取って打ち合せをするんです。その最初に、局Pがノートを開いて言い始めたら、「デンキ屋は黙ってろ」と。それから一言も言わなくなりました。作っ てあげてるんだから、作りたいようにさせろ、お前ら何も言うなというような姿勢で、どんどん作っていくわけです。有名な話ですが、話がわかりづらい、セリ フが聞き取りにくいということがありました。普通はセリフははっきりわかるようにしゃべってもらって録音しないといけないんですが、「いや、いいんだ」 と。さっきDVDに、三島由紀夫さんが出てますが、三島さんはプロの俳優じゃないからセリフがパッパッと出ないんです。でも、「いや、出なくていいんだ」 と勝さんは言うんですね。戸惑いながらでも、その方が臨場感があるんだという、まあこれは監督になる前ですけど。そんな調子だから、「セリフは聞き取りに くくてもいいんだ」と。と言っても、それが何話も続いちゃうとやっぱりお客さんから聞き取りにくいっていう、苦情の電話かなんかが来るわけです。で、この 時ばかりは局Pが「勝さん、セリフなんとかなりませんか」と言ったら――「お前らテレビだと思って寝転んで観るな。ちゃんと電気消して正座して観ろ。そう したらわかるんだ」と。確かに、ちゃんと観てるとわかるんですよ。わかるんだけども、シーンシーンでストーリーの説明とか一切ないわけです。シーンってい うのは全部こう独立してるんです。だから、観る人もそれを想像してつないでいかなけりゃいけないんですよ。説明のセリフもない。それでセリフは聞き取りに くい。でも、じっくり考えてちゃんと観てるとわかんないことはないんです。ただわかりにくい。同じ劇でも「太陽にほえろ」とか「水戸黄門」とか、そういっ た作品ばっかり観てる人はついていけないですよね。ただし、映画青年とか、ちょっと変わった作品が好きな人は、いいなあってなっちゃうんですよ。でもそれ はもう少数民族なんで。それで、あれは本当は26本作る予定だったんですよ。ところが、その「電気消して正座して観りゃわかるんだ」っていう、あの辺から 局はもうこれ以上視聴率は取れないから無理だと考えてたらしいんです。一方の作るほうとしては、ストックがなきゃいけないのに、13本目を放送した時には 14本目のクランクインもしてなかったんですよ。ということは穴をあけちゃう。局に対してペナルティ、恥をかくことになるんです。そうしたら局のほうから 「申し訳ないけど終わらせてください」ってことで、13本目で終わったんですけどね。
小見 まあなんというか、よかったというか。(笑い)
 いやもうスタッフはほっとしてましたよ。
小見 当時は毎週やってたわけですか?
 毎週です。で、普通テレビだったら二話持ちで、二本持ちで入るんですよ。でも、勝組はできないんです。13本のうちに8本くらいは勝さんが監督して、黒木和雄さんが二本撮って、森一生さんが一本撮って、根本順善さんが一本撮った。ですから全く能率が悪いんです。
小見 その時はやっぱりプロダクションじゃなくてプロダク損になったんですか?
 いやもう常にプロダク損です。もう一つあの人の不思議なところがあって。これは「座頭市」の時ですけども、他の監督は予定通りになん とか終わるんですね。ところが、監督が勝新太郎になってくると終わんないんです。当然、予算を使い切っちゃいます、現場の予算を。すると、あとは仕上げの 予算があるから「もうこれでやめてくれ」ってプロデューサーからストップがかかるんですよ。「でも俺は撮りたい」って言うんですが、「いやもう予算がオー バーしたからダメ」と。そこで、「なんとかならないか」「一つだけ方法がある」と。それは「オヤジのまわしてよろしいか」ということなんです。みんな勝さ んのことを「オヤジ、オヤジ」とか「オーナー、オーナー」とか言ってたんですけども、要するに、主役のギャランティと監督のギャラを製作費にまわしてよろ しいかということ。それで「ああいいよ」となっちゃうんです。自分の道楽で映画を作ってるんだから、自分が儲けようとかなんとかって気はなくて、自分の ギャランティを現場にまわしても、まるでそれは平気だったんです。まあ普通じゃ考えられないことですけどね。
小見 そういうきっぷだったのか、亡くなられた時も相当借金が残っていたのは有名な話ですね。
 借金も映画製作だけじゃない。そっちのほうは本人の取り分がないわけですから。そっちへまわすわけですから。ただ全てが赤字になるわ けじゃなくて。まああのころは銀座のクラブのこととか、いろんなことがたまっちゃって、最後はパンクしたんですけれども。でも「借金はいいから、その分で 映画作ってください」っていう人が結構多かったですねえ。
小見 そうですか。今、聞いてて思ったんですが、山谷の映画、この映画も聞きづらいんですね。で、よく言われるんですけど、「わかりづら いから字幕、スーパーインポーズを入れたらいいんじゃないか」と。アンケートなんかによく書かれてるんですけれど。うーん、現場での音の録り方もちょっと あったのかもしれないんですけども、でも実際、山谷の労働者のしゃべってる言葉なんてよく聞き取れませんからねえ。そういうこともあるし、それをわざわざ わかんなきゃいけないってことで、字を入れちゃうっていうのはいかがなものかと、僕はずっと思ってたんですよ。ちょっと違うかもしれませんが、勝新太郎さ んが「警視-K」でそういうふうに言ってくれると、そうだよなあ、うれしいなあと思ってしまいます。
 まあ、確かに聞き取りにくいけど、こう雰囲気が伝わればいいかなと思うんですよ。全てに字幕を入れちゃうと今度は文字に目が行っちゃ うんで。そうすると、じゃあその文字を見たからといって、映画の伝わり方が良くなるかといったら、またそれは別だと思うんで。今までずっとやってきたん だったら、このままのスタイルで、上映してもいいんじゃないかなと思って観てましたよ。

「編集」にはまった勝新太郎監督

小見 では、勝さんの映画の作り方を、境さんは映画編集者の立場としてどう思われますか?
 初めて監督したのが「顔役」って作品です。この時は、監督やるためにはキャメラのことも知らねばってことで自分でキャメラも回してる んですよ。そして、編集のことも知らねばと思って自分でフィルム編集をやってるんですよ。で、キャメラは「ダメだ」と、「俺には無理だ」と思ってあきらめ てくれたんですよ。ところが編集の場合は……。あの谷口登司夫さんっていう編集マンがいまして、その谷口さんがやると、勝さんが編集した淡白で単調な編集 場面が見違えるように良くなる。編集によって映画が変わることを発見するんです。それから編集が好きになっちゃったんですよ、困ったことに。谷口さんは、 「どうせ撮影と一緒で、すぐあきらめてくれるだろう」と思っていたらそうじゃなくて。本人は、三味線の出で指先が器用だから、フィルムに触るのがだんだん 楽しくなってきちゃうんです。もう最後のほうは、広島で編集しないと間に合わないってことで、映写機を持っていって。そうしたら、映写機が古かったからか 漏電しちゃって火吹いちゃって使えなくなっちゃった。それでまあ終わりだろうと思ったら、本人は「編集機で観よう」と。編集機で観ると「心が落ち着く」っ て言うんですよ。映写機と違って、止めて何度もその場で見通せるので観てるうちにいろんなアイデア浮かんでくるとか。もっと困ったのは「警視-K」の時で すね。もう夜の遅くに、夜の11時、12時頃に銀座のホステスがぞろぞろとこう来るわけですよ。つまり、銀座で飲んでる時に「編集やると面白いんだ」って 話をホステスにするわけですね。そうするとホステスはわかんないじゃないですか。「じゃあ今から見に行こう」ってことで。それまで編集部は待ってなきゃい けないんですよ。いろんなところで、「いやあ編集面白いんだ」と言って、必ずこういう回すマネしますから。それで、もういろんな人に講釈するわけですよ。
小見 勝さん自身がこう切ったり貼ったりするんですか? フィルム、ポジのあれを。
 編集機でこうボタン押すところがあるんです。印を付けるところ。あれをやりたくてしょうがなかったんですよ。それで「自分もやってみ たい、できるかな」ということでやるんですね。やって、こうパッとうしろを見るわけです。そうすると谷口さんがいるから、谷口さんがうなずけば進んでいく わけです。で、最初のうちは遠慮しいしいやっていくんですけど、だんだん慣れてくると、もう自分でぼんぼん、ぼんぼん押していって。でも、その押していく ところはアイデアとしてなんですね。なんていうか、こうアイデアが次から次と出てくるから、編集でそれをまとめようとするとまとまらないんですよ。部分部 分はいいけれど。ただ勝プロの良かったところは、現場で暴走してもキャメラマンがブレーキかけてくれるんです。大映京都の遺産を全部引き継いで使ってまし たから。あと編集で言えば、構成力がないとできないし、そういう編集マンがいたから。勝さんが「俺が少々変なことをやっても、なんとかみんながやってくれ るんだ」って、そういうのもありましたねえ。
小見 映画っていうのはある種の集団での作業ですからねえ。
 勝さんの場合は、部分部分のセンスはいっぱいあるんですよ。ただそれをまとめることができない。あれに構成力が備わっていれば、もう 大変な監督になってたと思うんですけども。ただ本人は「不完全でいいんだ。不完全の中に良さがあるんだ」とか、言って。あと「無駄があってもいいんだ。無 駄の中に、最後に宝があるんだ」とかね。それで、よくみんなが振り回されました。例えば、谷口編集マンがこれでベストだと思って観せますよね。それで納得 するわけです。「素晴らしい」と。でも次には、「このタイミングを壊してもっといいものにしてくれ」となったりするの。それで、ああでもない、こうでもな いとやって、何通りもやるわけです。で、最後に言うんです。「わかった。これだけのことやってくれたから俺の間違えはわかった。元に戻してくれ」と。いや 本当です。今だったらコンピュータでやればすぐ戻るでしょうが、当時はフィルムなので1本しかないフィルムを切り刻んでいかなけりゃいけない。もう編集室 の床なんか被災地みたいでしたね。そのアイデアですが、固定観念がないからなんですね。一般人が持ってる固定観念がない。あの、いい意味でも悪い意味でも 義務教育を受けてないんですよ。だから小学校とかなんとか行って、ちゃんとしたいろんな決まり事を習ってないんですよ。で、何をやってたかっていうと芝居 観てたとか。家柄が三味線だから。その辺の固定観念のないこともあって、自分自身に正直になって、部分部分でものすごい発想がいろいろと出てくる。例えば 「兵隊やくざ」。田村高廣さんとのコンビで非常に面白いんですけれども。これは監督になる前ですが、上官からこう作戦の指示があるわけです、「大宮、わ かったな」って。で、台本では「はい」となって次の場面に変わるんです。ところが本テストまで「はい」と言っていても、本番では「わからない」って言うん です。「わからない」と言ったほうが面白いんですよ。「大宮、わかったんだろ」「わかりません」と。そうすると、今度は田村さんの有田上等兵のリアクショ ンが生まれてくるんです。こうやってジロッと見るんですよ。だから、部分的なセリフはちょっと変えてたり……。
小見 なるほどねえ。

俳優の引き出し方、これはプロの監督よりうまかった

 あと、あの人の運動能力。普通はクラブ活動ってみんなやるじゃないですか。でも勝さんはクラブ活動をやったって聞いたことないです よ。ただ、相撲をやれば高見山から「この人は十両になれる」とか言われるくらいの……相撲のシーンがよく出てくるんですよ、「座頭市」でも「悪名」でも。 ちゃんとサマになってるんです。それともう一つ、あの「人斬り」の走りのシーン。当時の俳優さんの中でも走ったら一番早いんじゃないかっていうくらい。だ から、あの腰の座った立ち回りができた。その運動能力はどこからきたのかって不思議なんですよ。もっと凄いのは、あきれちゃうのは――これは映画館で観な いとわかんないです。「人斬り」の走りのシーンっていうのはト書で3行しか書いてないんですよね。まあ全部で5行くらいなんですけども、それを五社英雄さ んが真っ昼間から走らしたわけです。で、自分だけ一人で走ってるもんだから、「キャメラも走って来い」なんて言い出して。キャメラも走って追っ掛けて撮る んです。それで、もうしまいには、「監督も一緒になって走れ」「俺が一緒に画面に映ってどうすんだ」「画面に映らない所で走れ」とかって、そういうことを 言い合いながら撮らなきゃいけないから大変ですよ。それと、もし今度「人斬り」が上映される時にスクリーンで注意して観てもらいたいのは、あのあと岩陰 を、岩の間を走るシーンが2カットあるんですよね。最初わからなかったんですけども、握り飯を食いながら走ってるんですよ。そんなことができるのかって いっても、よく観ると右手でこう持ってかじりながら走ってます。そういったことに対するアイデアとか執着心はすさまじいですよ。まあこういった役者馬鹿だ けで終わってくれたら、監督やらなかったらいいなと思ったこともありましたよ。といっても、監督は監督でいいところがあるんです。それは俳優さんの引き出 し方ですね。これはもう本当、普通のプロの監督よりもうまい。名監督が部分的に同じことをやってます。例えば、山田洋次監督の「家族」。あれはロードムー ビーなんです。全く勝さんと同じです。そういったいいところもあるんだけれども、普段の行動が派手だから誰も指摘しないですよね。他のところが目立っちゃ うから。
小見 ただ「勝新太郎はすごいなあ」って言う時、それは役者だけじゃなくて、監督としてもすごいというファンが結構いますよ。もちろん演 技はすごいんですけど。それと主役じゃなくてもね、例えば黒木和雄さんの「浪人街」でのやり方とか。あの時は主役級といっても主役じゃなかったですよね。
 そうなんです。本人は「俺が暴れちゃうと原田芳雄とか石橋蓮司が目立たなくなるから」って、現場でしなかったんですよ。でも、本当はひと暴れしないとおさまんないんですよね。(笑い)
小見 それと、この間、別のところで話を聞いたんですが、「座頭市」がキューバで大人気だったとか。まあ見ようによってはラテン系ののりの雰囲気もあるんで、彼らの気質に合うのはなんとなくわかりますが。そこら辺はどうなんですか?
 格好もずんぐりしていて、どこでもいるようなオッチャンで、それと酒も好きだし女も好きだしバクチもやる。「俺達と同じだ。俺達と違 うのは居合いができるだけだ」と。そういったところが親しまれたんじゃないですかねえ。それと、不思議なのは日本映画の喜劇とかお笑い、ユーモアを評価し てるんですよ。キューバ人にそのユーモアがどう伝わったのか。日本の喜劇映画を持っていって、日本人のユーモアとかお笑いが伝わるのか。「寅さん、どう思 いますか」って聞き損ねちゃったんですけどね。大スターでありながら、笑いができる俳優さんは勝さんしかいないですねえ。
小見 そうですね。喜劇俳優っていうと三木のり平さんとか、さっきの森繁久彌さんなんかと掛け合ってますね。
 笑いっていうのは――本人がいつも冗談とか駄洒落とか、ああいうのが好きなんで。しょっちゅう、アドリブなんかで駄洒落を言ったり。 「御用牙」っていう映画、これもなかなかパワフルな映画なんですけども、この時の西村晃さんと二人で待ち時間に話されてる会話っていうのは、もう漫才だと 言ってましたね。吉本よりも面白いと。いくら待たせられても二人の話を聞いてるのは楽しいって、スタッフみんなが言ってました。落語が好きだったっていう のがあるんじゃないですか。

画面が揺れても、ボケていてもいいじゃないか

小見 (観客に向かって)ええ、ここまで勝新太郎の人となりとかやり方を聞いてきたんですけれど、「勝新太郎とドキュメンタリー」という雰囲気になってます? ちょっとはなってる?
 この中で監督・勝新太郎の作品を何か観た人っています? 監督・勝新太郎のです。では「顔役」を観た人はいますか? (手を挙げた観客に)どうでした?
参加者A だいぶ前に観たので覚えてないです。子供の頃に親に連れられて。
 親に! えっ、ということは親が勝さんのファンだった。
参加者A そうですねえ、親父がそうです。
 親父さんっていうのは相当にアナーキーな人ですねえ。「顔役」を観せるって人は大変なことですよ。劇場の前列の一列目から三列目くら いだったら、酔ってきちゃうんですよ。要するに、「画面が揺れてもいいじゃないか」とか「ボケてもいいじゃないか」とかっていうことからスタートしてるん ですよ。だから、そういった点があるから、本人がこう回してるんですよ。普通だったらNGになっちゃうんだけども、ドキュメンタリーの場合はNGもOKも ないし。だから変な画が出てきたと思ったら、勝新太郎が撮った画だなと思ってもらっていいと思うんですけども。でも、あの作品は台本撮りなんですよね。だ からト書でこう「キャメラが走査する」って書いてあると、キャメラが走査するんですよ。だから相当キャメラをぶん回して。全体の三分の二はキャメラが揺れ てますね。画面が大きいと割と効果がありますよ。あとはテレビの「座頭市」で監督・勝新太郎がやったのはいいのがあります。時間が45分だとシナリオでは 書けない、そういったびっくりする展開がありますけどね。だから、もし機会あったらちょっと集中して、こう電気を消して、観たらいいと思いますよ。テレビ の「座頭市」の監督・勝新太郎の作品を観た人います?
参加者A 最初のほうを僕は観たことがあります。
 さっきの森繁さんの出た作品、あれも尺がオーバーして90分以上になったんですよ。テレビ局の約束事は一話完結です。でも、この時は これを切っちゃったら、つまんなくなるっていうんで前編後編に分けて納品したんですよ。もう局はびっくりですよ。無理やり押し込んだんですが、これが結果 的にはいい作品として残ってるんで。ただ、それは勝さんだからできたんで、他の人にはできないですねえ。森繁さんにとっては子供の遊びに付き合ったような ものだけど、一番いい味が出てるのは森繁さんなんです。
小見 俳優で監督もした、勝新太郎っていうは、なんか気になりますね。僕もテレビなんかでやってると、やっぱり観ますね。この間もその 「座頭市と用心棒」をやってたんで、また観ちゃいました。最後に、三船敏郎と若尾文子が死んじゃうのかと思ったら、おお生きたか。死なないふうになんとか したかっていう。三船敏郎もいいんですけど、うーん、やっぱり勝新太郎ですね。勝新が主人公なんだから当たり前なんですが、でもそれにしても圧倒的に勝っ てるという映画でした。
 あの頃からゲストが良くなってきたんですよ。他社の仲代達也さんが出てきたり。それまでは大映の人達が相手役をしたりで。それがちょっと、もうだんだん役不足みたいな。後半からですねえ、ゲストが良くなってきたのは。
小見 でも、素人の内田裕也なんかも出てますね。あれも今日のDVDに映ってますが。
 裕也さんは、どうしても「市に斬られたい」と言って駄々こねて。息子の奥村雄大(五右衛門)には斬られたくないってゴネちゃって大変 だったんですよ。勝さんが「じゃあ、お前を殺すのやめた。山ん中を千両箱担いで逃げろ」と言うと、裕也さんが「そんなかっこ悪いのいやだ」と。「じゃあ、 どうしたらいいんだ? ちょっとお前、やりたいことをやってみろ」って言ったら「ロックです」って答えたんですよ。「それなら、お前のロックを見せろ」と なって、最後にバンダナを取ってこう啖呵を切るんです。まあそういうことがやりたかったみたいなんです。

「カット尻」についての二つの逸話

小見 亡くなられたのはいつでしたか? さきほど17回忌っていわれましたから、17年前、16年前ですね。そうですか。ええ、これはあまり聞きたくなかったんですけど、聞いちゃいます。北野たけしさんの「座頭市」どう思います?(笑い)
 たけしの「座頭市」については、キューバの大学の先生が講演で言った通りだと思うんですよ。東大の学生が質問したんですよ。「たけし の『座頭市』どう思いますか」って。そうしたら「たけしであろうと誰であろうと勝新太郎以外の座頭市はありえない」と。もうそれで終わりです。ただ、あれ はたけしの企画じゃなくて。実は、たけしはやりたくなかった。嫌でしょうがなかったんですよ。浅草のロック座のおかみさんがいるんですよ。ちょうど7回忌 だったんで、7回忌を盛り上げようというんで、そのおかみさんがたけしと勝プロの関係者を呼んで、「私の言うことに反対しないで欲しい。7回忌だから北野 たけしで『座頭市』を作ってくれ」と、こう言うわけです。で、みんなはびっくりしたっていうんですよ。だから、たけしは嫌で、本当はやりたくなかったんで す。もう一つたけしがやりたくなかったのは、勝さんがハワイから帰って来た時にやった対談です。その時、たけしは一言も話せなかったんです。なんでかと 言ったら、ハワイから帰ってくる前に、いろんなちゃかしたことを言ってたんで、こうガツンと言われてるんですよね、対談の前に。だからもう一言も言えな かったっていうエピソード。その流れからも、「座頭市」は本当はやりたくなかった。だけど、やりたくなかったものが当たっちゃうんですよね。
小見 うーん、実は私もたけしのは観てない。観たくなかったから観てないんですけれど。(笑い)
 まあみんな「座頭市」と思って観てないと思いますよ。それと最後にもう一つだけ。森一生っていう監督は、芝居が終わってもしばらく カット掛けなかったんですよ。役者っていうのは、監督のカットがないと芝居をやめることができないから、いろんな仕草をして。で、そこんところの画を編集 マンが使うんですよ。それを勝さんは観てたんですね。あの時の画がここで使われてる、全然違ったのが使われてる、と。その繋がりが段取りじゃなくて、いい 感じだったんで、それを覚えちゃって。それを自分が監督する時、人を撮る時に使うんです。カット尻を長くしちゃうんですよ。ところが、自分の出番の時は、 自分で「カット」って言うわけじゃないですか。で、画面を観ると他の人は長く撮ってるんですが、座頭市のところだけは自分で言ってるんでカットが早いわけ です。「どうして俺だけ早いんだ」と、まあこうなるわけです。それで助監督とか記録を集めて、「俺は自分でやってるからわかんないんだ。お前ら、俺のこと をちゃんと見てないと駄目じゃないか」ってこう檄を飛ばすわけです。でも、そのあとは結局、「言っても聞かないのよ」ってなっちゃうんですけれど。もう一 つカット尻の話で言うと、増村保造さんって名監督がいましたが、この増村さんが「悪名」を最後に撮るんです。そこで、勝さんが杉村春子さん扮する女親分に ステッキで叩かれるシーンがあるんです。勝さんが言うんです、「本気で叩け」と。そして、増村さんはここぞとばかりカット掛けなかったんですよ。(笑い) 本気ですから痛いじゃないですか。いや叩くのも大変ですよ。杉村さんも本当に疲れたっていうのをそのまま演じてまして。叩く方も叩かれる方も大変。でも監 督は知らんぷりして、なかなかカット掛けなかった。もう怒ってましたね。「どうしてカット掛けないんだ」って。でも、そういった監督が勝さんに負けない時 の作品っていうのは締まって面白いですねえ。森一生監督とか三隅研次監督、増村保造さんは負けないから。
小見 なるほどねえ。ええ、境さんの頭の中、目の中には、そういうシーンがいっぱい入ってるんで、伺えばどんどん出てきます。とはいえ、 そろそろこの場での話はおひらきです。でも、まだ電車はあります。もっと話を聞きたいという方は隣の部屋に移動して、ここの続きをどうぞ。こことはまた 違った話が聞けるかもしれません。隣には、実は今日はお酒がいっぱいあるんで、呑みながらもうちょっと話を交わしたいと思います。時間のある方はぜひ隣に お残りください。今日はどうもありがとうございました。
[2013 5. 11 planB]

〔追記〕
勝新太郎監督作品に興味をもたれましたら、是非見てもらいたい作品があります。初監督作品の「顔役」、TVシリーズの座頭市の「二人座頭市」「赤城おろ し」「心中あいや節」「冬の海」「糸くるま」「渡世人の詩」。あと勝監督に影響を与えた勅使河原宏監督の「燃えつきた地図」。また勅使河原宏監督の、TV 最後の座頭市「夢の旅」も加えたいですね。(境)

zatouichiiai

2013年5月11日

plan-B 定期上映会

勝新太郎とドキュメンタリー
講演 / 境誠一(映画編集者)

もちろん、勝新太郎がドキュメンタリーを撮ったということではない。ドキュメンタリー志向というのとも違う。では、なぜ「ドキュメンタリー」なのか?誰かが日本の三大監督の一人に勝新太郎をあげていた。ここでは稀有な名俳優としての勝新太郎ではなく、映画監督の、それはまるでアヴァンギャルド作家のような顔をもった勝新太郎の姿だ。合理性をきらい、計算した役者の演技はきらい、あげくにカチンコをつかわない、そんな勝新太郎の映画づくりの秘密をいくつかのエピソードを交えて、映画編集者の境誠一さんに語ってもらう。そして、なぜ「ドキュメンタリー」なのかも考えていきたい。

「勝新太郎7回忌法要記念場面集」DVDを併映(20分)

対談「ライブスペースplan-Bを語る」

plan-B定期上映100回記念
木幡和枝
(芸術・美術評論家、アートプロデューサー、翻訳家)平井玄(思想・音楽批評)

司会 この「山谷」という映画、上映自体は数百回やってますけれども、ここplan-Bでは100回目です。それで特別企画としていろいろ 用意しました。これから平井玄さんと、木幡和枝さんの対談ということで。テーマはここに書いてあるんですけども、まあご自由に30分から40分話していた だきます。Plan-Bでは映画上映が終わってから、講演だったり、あるいはミュージシャンだったら音楽、そして今日も踊るといいますか、黒田さんだった らパフォーマンス、まあいろんな形でplan-Bという空間を使ってコラボレーションをしてきました。今日は、まあ、ある一里塚みたいなところでちょっと 時間を長くとって、話とパフォーマンスというかたちにしてあります。そのあとは、ここと隣を使って無礼講というかパーティをやりますので、それまでがん ばって堪え忍んでください。

[対談 木幡和枝×平井玄]

もう死者の数をかぞえない

木幡 木幡和枝です。
平井 平井といいます。木幡さんとはもうずいぶんいろんなことでお世話になってきまして、長い付き合いなんですけども。3回か4回くらいはお話していますよね、こういう形で。ではスターターみたいなことやりましょうか。
木幡 よろしく。
平井 何を話そうかなあと思ったんだけど、やっぱりこの映画を観て思いましたね。この映画は百科全書だなってことを考えてたんですよ。ディ ドロとダランベールというフランス革命を用意したおっさん達が……といってもほんのちょっとしか読んでないんですけど、僕も。つまりどういうことかという と、この映画が出来て30年くらい経ちますが、その間、とんでもないことが起きてしまうと、必ずこの映画のどっかの場面を思い出して、映画じゃこうだった じゃないかと。で、俺は何を観てたんだろうみたいなことを考えて、どうするかを決めると。あるいは動きだしてしまう、走りだしてしまう。最近、この映画の ことを昔の仲間たちと語ると、その死者の数を数えちゃうわけですよ。あいつも死んだ、こいつも死んだと。でも、それをやめようと。今日観てて思った。これ はもう、ある種のギリシャ神話みたいになってる。顔の映画ですよね。顔がいっぱい出てくる。意図的に撮る人は撮ってますよね。つまり山さんと佐藤さんとカ メラマンやスタッフは。でも、あいつは死んだとか、もう言ってもしょうがないと。この映画は30年経ってもいろんなものを語りかけてくるんだというふうに 思いました。というのは、三日前かな、山岡さんが殺された通りをデモしてたんです。その前の日には「在特会」という右翼のガキ集団がそこにいる在日の人達 に対してひどい罵言を吐いて嫌がらせをするという行動を行なってたところなんだけど。そこがまさに山岡さんが殺された、ローソンっていうコンビニのある通 りなんですね。この映画は、そういうことがあって、上映運動はそこから始まっていくわけですけども。それが、僕にとってはどうしても忘れることの出来ない 光景です。その30年の間に何百人か何千人かわからない、僕よりずっと若い人達に会うと、彼らはこの映画を観たらどう思うのかなということがあって。 「plan-Bでやってるよ」と。「観に行ったらどうですか」っていうことを結構言ってきたんですよ。で、それは、この映画とこの場所が切っても切り離せ ないところがあってね。いろんな偶然があって、木幡さんは僕よりはるか前に山さんや山谷の人達とつきあってたとか、そういうことがあって、ここで100回 も上映されたんだなあということを思いました。で、もう死者の数を数えるのはやめようというふうに非常に強く思いました。そんなところを切り口にして、こ の映画とplan-Bということですが、木幡さんどうですか。

集合的な音感から出てきた言葉

木幡 今日何回目かわからないけど、また全編観ることが出来て、まさしく今おっしゃられたように顔っていうか肖像というか、個人の肖像以上 の肖像というか。具体的にもう名前も覚えてないけど、あのおっちゃん、もうその瞬間がよみがえってくるじゃない。あの人、あのアル中の人とかっていう、す ぐ思い出しちゃうようなリアリティ。それから最初の時から本当にドキドキした場面があって。毎回そこの場面を確かめるように私は観てて、今日もそうだった んですけど。それは、音楽をやったグループがとってもいいんですよ。あの彼らの「ワルシャワ労働歌」、玉姫公園の越冬闘争が始まりますみたいな。「ワル シャワ労働歌」が編曲されて。その直後に人パトっていって人民パトロール。ドヤにももう年末で入れなくて雨の中、みぞれの中を野宿してるっていうか、路端 で寝てる人を、そのままだったら死んじゃうのでパトロールして。「ドヤはないのドヤは」って言うのがあって、その場面がありましたでしょ。あそこでなんと かさんが、こう跪いてね、みぞれの中。その寝てるおじさんを起こす。あの時、最初に観た時に、私はすごく教条主義的人民主義だったもんだから、ああいう大 学出た活動家みたいなのがね、そこで寝ているアル中のおじさんに「おじさん」と言うのかね、「あなた」って言うのか「ちょっと」って言うのか……ものすご いドキドキしてたわけ。何て呼び掛けんだろうって。この大学出た活動家は、この人に何て呼び掛けんだろうって。私は毛沢東を思い出しつつ呼び掛け方を、も うドキドキして観てたら、私は女だからかもしれないけど「先輩」って言葉が出てきた時はすごく嬉しかったわけです。そういう意味で、私にとって大事な場面 で。それで毎回その場面がくると思い出すんですが。その「先輩」ていうことのいろんな意味が、あなたがおっしゃるね、そこへ戻っていくっていうか。こと に、ああいった矛盾の固まりの中で……。今の安倍政権の言い方、頑張った人が報われる社会みたいな単純な論理でいかねえぜっていうことを思い出させてくれ るんですね。それを「先輩」と、彼も考えた末の言葉なんだと思うんですけど。
平井 あんまり考えてないと思います。(笑)みんな言ってたんで。
木幡 ああそうか。
平井 ただ、その言葉が出てきてみんなが使うようになるっていうのは、やっぱりある構えのやつらがあの場所で生きてきて、出てきたんだと思 うんですよ。僕なんかもよくわけもわからずね、何が「先輩」かよくわからず、使ってはいたんだけど。なかなか出てこないですよ。「おじさん」っていうのも あれだし。なんというかねえ。
木幡 私だったらきっと「おじさん」とか「おじさま」とかって言っちゃうと思うんですけど。まあそこはある種の集合的な一つの音感から出て きた言葉だと思うんですけど。あれは好きな場面です。それとあの音ね、音の人達。大熊ワタルさんなんかも若い時に、あそこで協力してたのかな。
平井 もちろん、はい。
木幡 なかなか。
平井 うん、そう。だから音の映画なんだよね。音楽の音ももちろんなんですけど、その「先輩」と声掛けたSちゃん。あの声がいいなとかね。 労働者の話し方、それからいかにも活動家、ついこの間まで学生だろうなとかさあ。わかっちゃうんだよね。ああ俺もそうだなと。三十いくつでそんなもんだろ うと。いい年してるのに。もう三十いくつなんだけど「学生」と呼ばれる存在なんですよね。そういうことを思い出したり、それからあの「哀愁列車」とかね。 出てくるわけですねえ。
木幡 あれ良かったね。「哀愁列車」はみなさんご存じないでしょうが、三橋美智也という人の。
平井 あの筑豊の場面でね。
木幡 そうそう。
平井 風呂の場面から、「哀愁列車」がグワーっていくわけですよ。なんていうか、心にしみる場面もあれば、怒る場面もある。泣いちゃったり笑ったり、まあそういう映画だっていうことを改めて思ってね。
木幡 それから最初の監督、作ることを決めて開始した佐藤さんが亡くなったあとに、山谷の労働者であり活動家であった山岡強一さんが継い で、完成させたわけですね。直後に殺されちゃうわけですけど。で、山岡さんが筑豊にこだわったっていうのは、ご自身が北の方の炭鉱の出身だったと理解して ますが。と同時に、ずっとものすごくそういうことにある種倫理的にもこだわっていた。これが朝鮮から連行されてきた人達の墓、まあペットの墓にまで……。 筑豊が最後に突然グワっとあそこに行くっていうのはものすごい意味のあるような気がしました。まさしく「先輩」そのもののね、歴史がボンと最後にあらわれ て。
平井 僕が浅知恵で解説するのもなんですけど、山さんが炭鉱で育って、お父さんが現場監督のようなことをやってて。その時に戦中最後の時代 かな、在日朝鮮人鉱夫の暴動があって。そこでの体験があるからこそ、ああいう映画が出てくるだろうと思うんです。だから本当にこの映画にいろんなものが ギューっと詰まってて。いつ観ても、からだが震えます。ということで、その時のことを思い出すだけじゃなくて、次に今起きてることを……
木幡 懐古的な話はこのくらいまでで、そうだ、今からのことを話さなきゃいけないんだよね。まあ、あなたがおっしゃられたのは場所というかね。
平井 ええ。

美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、映像、音楽のための
オルタナティブスペースとして30年前につくられた

木幡 100回続けていく、映画のこともそうなんですけど、上映し続けるという。全国いろいろな所をまわりつつ、ここでは準定期的にずうっとやることが出来てたんですけど。
平井 最初、plan-Bが出来た時に思ったのは、何でこんな遠くて不便な所につくったんだと。で、このアングラから……
木幡 アングラは金が無いからです。
平井 そうだよねえ。
木幡 ここしかなかったんです。
平井 まあアングラには慣れてる世代なんだけど。新宿の蠍座をはじめ薄汚い所に入っていって何かやるのは慣れてるんだけど。今こういう場所 はあちこちにあるんですよ。日本中に。で、みんな不便な所で狭苦しくて古いビルみたいな所でやってるんですよね。plan-Bのことはみなさん知らないと 思います、そういうことをやってる人達は。でも、やり方は結局そういうふうになってて。ところで、バブル時代から今までにかけては、大学がお金を出してく れたり、自治体がお金を出してくれて、アートで街おこしみたいなことは相当行なわれました。でもみんなうまくいってません。うまくいってないっていうの は、営業的にうまくいこうがどうなろうがっていうよりも、何かを生み出しえたかっていうと、まあないだろうと。僕もいくつかの大学の人に誘われて、しゃ べったり、いろいろやりましたけど、どうもねえ。生まれない。生まれる所ではないなと思いましたよ。だからこのplan-Bのあり方みたいなもの……木幡 さんは外国の事情に詳しいでしょうが、ニューヨークとか、あちこちにそういう所があるんだろうし。キップ・ハンラハンっていうニューヨークのミュージシャ ンと話した時に、そういうことをちょっとしました。
木幡 ええ。
平井 あの人は非常に面白がってたけども。今そういうスペースが出来てて。それとここ数年、まあ特に日本中が揺すぶられた原発震災以降…… 炭鉱とか、炭鉱またよみがえってますよ、僕らの中で。福島、常磐炭鉱、原発……ある種、観光と化してる面もあるけれども、もっと生々しい形でよみがえって るんで。今日ここにいないけど、原発労働者のことをやってる連中は、今日の昼間、会議やってますから来られないんですよ。まあそういう形でこの映画とか、 この場所っていうのは、ただ100回やった、たくさんやりましたっていう話じゃない、もっと質的なものを持ってると。すごく思いましたね。
木幡 この場所をつくったきっかけはというと――これから踊られる田中泯さんをはじめ20人くらいの美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、 映像、音楽などのそういうことをやってる人達が、いちいち高い金を払って借りるのも大変だし、それに釘も打てない、水も使えない、火も使えない、何とかな らないかっていうんで。それで外国のもうちょっと自由にやってるオルタナティブスペースっていうのを見てきて、日本でもつくろうと。まあ欧米で見てきたも のとは規模で言うと、そうねえ、10分の1くらいの空間スペースですけど、なにしろ東京の新宿近くっていうと高いから。それでもまあともかく確保した。当 時でもね、1週間画廊を借りるので15万から20万かかった。だったら、自分達でやった方がいいだろうとそんなことで始めたんです。その時、中心的にやっ たグループはそういう表現関係なんですけど、その人達の中にはいろんな人がいました。表現をただやって、発表の場さえあればいいというような変に閉ざされ た意識じゃなくて。それぞれの関心事、重要なこと、私の場合はそれは山谷だったし、この映画だったし、山さんだったし。いろんなものを、これもぜひやって もらおうよっていうような、そういうのがまあきっかけで。決して表現活動とか、いわゆる「お芸術」に限られないんで。自然科学だったり、社会運動だったり が入り込んでいたのはそういうことなんです。ただ、時代とともに中身は変わってきましたよね。ずうっと凍結されなくって、それが良かったと思う。始めた時 は、30年くらい前ですけども、そのままで凍結してたらば困るわけですよ。だって、今、私66ですけれど、出入りして下さる客さんもずっと一緒に年をとっ て、みんな私と同い年ばっかりだったら、ちょっとさびしいじゃないの。碁会所みたいになっちゃうし。だから、つまり通り過ぎていくっていうと良くない言い 方だけど、変わってきてるってことは時代の中でまあ少しでも踵を接するっていうことになるんだと思うんだけど。中身は違ってきますよ。
平井 例えば、マルセ太郎さんもずっとやってきたわけですね。
木幡 そうです、ずうっとやってましたね。
平井 もう彼も亡くなったけども。まあそうやって、ここにもいろんな人の魂があると思うんです。すごく濃いスペースになったなと。受け皿と いうか器として。それは、自治体が金を出したり大学が金を出しても出来ることじゃないわけで。そういう意味では、映画も、まあさっきちょっと大げさなギリ シャ神話みたいなことを言ったけど、やっぱり時と共に磨きがかかるもんだと思いましたよ。一昨日かな、家で小津安二郎の映画を観てたんだけど、あれはあり えない日本の戦後市民社会なんだけど、架空の物語みたいなもんですよ。あれほどきれいな言葉を使い、あれほど抽象的な東京生活があるみたいなね。でも、そ の裏にこういう世界があるわけだけど。あれはあれで一つの方法なんでしょうけども。それで、別の意味での非常に抽象度を獲得したというふうに、今日この 「山谷」を観て思いました。とっくに佐藤さんや山さんの、山さんの年でさえもう僕は越えちゃったんだけども。そういうふうに観られるようになって、このス ペースも成熟したっていうかね。ある種成熟ってあるんだなと、しないのは自分だけだと。

高円寺の地下大学 ―― plan-Bを意識したわけではないけれど

木幡 plan-Bは1980年、81年くらいにスタートしたんですけど、その頃はまだいろんな意味で、ある一定のレベル以上の人じゃない といろんな場所を使えなかったわけですね。それは貸してもらえないとか、ある種の立場っていうの。だから若い、何ものかもわかんない人がやろうと思っても 画廊は貸してくれない。今はいろんな所が若手とかイマジングアーティストとかいって、そういうチャンスをつくると、行政が……。そういうのがないので、そ うするとどうしようかというと高い金を払って借りるか。でもそれってとてもバラバラだし、あの競争的だし。やっぱり空間があればいい。でも自分のペースで 借りられる空間がないのもさびしいけど、あればすむんじゃなくて。「場」という言葉をもし使うならば、それは単純な物理的空間だけの話ではないと思うんで すね。「山谷」の映画で「俺が帰ってくる街はここだけしかないんだ」って言ってたおじさんがいたけども。さっき、ここに来て下さる方っていうのは時代に よっていろんなものを持ち込むし、違う人が入って来るのは凍結された場として結晶化していくよりはずっと面白いと思うと言いました。同じようなことを、そ ういう有機的な要素が流れこんで来る場所を、行政や大学がちょっと若者の非行防止の為や、あるいは中高年にいろんな趣味を持たせる為に、何かをやったり発 表したりする場をつくってますよね。例えば、世田谷区立美術館とかがやってます。でも、そういう発表の場さえあればいいのか。そこに人が来て、「じゃあど うもご苦労様、来年もねー」って言って別れるだけでいいのか。その場所というものが、これはしがらみも含めて、望むと望まざるとに関わらず、ある有機的な 作用を引き起こしていく。それがまた外の政治状況や経済状況、社会状況を飲み込みながら動いていく。少なくとも60年代、70年代、80年代にかけて場所 を欲しいと思い続けてきた、それは芸術的表現だけじゃなくて、やりたいと思ってきた身からすると思うんですけど。今、そんなに若い人達は物理的な場所に 困ってないような気もするし、大学のような機関、あるいは行政が昔に比べたら信じられないくらい素晴らしいものをオファーしてくれるじゃない。いろいろ締 め付けはあるにせよ。何かどこも行き場がない、だからしょうがないから大学占拠してやるっきゃねえっていうふうに追い詰められてないことが問題なのかっ て。老婆心の繰り言みたいになっちゃいましたけど。その辺はどうなんだろう。あなたは若い方達と地下大学やってて、どうですか。
平井 あれは勝手にやってるというか。地下といいながら地上二階で、下は鍼、灸の店なんですよ。不動産屋さんの隣で変な薄汚いビルですよ。 よく地震の時にぶっ壊れなかったなって所なんですよ。いずれこの映画、「山谷」をあそこでやろうと思うんですけど。ここは寄せ場じゃないのって高円寺の人 達に言うんだけど、彼らはそうじゃなくて、どちらかというとフィリピンなどの、南方系のスラムのイメージを思っててね。それはそれである種の面白さがあっ て。つまりゆるい空間っていうかね。それで労働をしてるかしてないかわからないような連中がうろうろしてて。でも、執拗に高円寺がロックの街です、若者の 街ですよみたいなことで、ギザギザしたものを投げ込むようなことをやってると、まあいずれ何か反応を起こす、化学反応を起こすだろうと思ってはいるんだけ ど。あれを始めた時は、別にplan-Bのことを思ってたわけじゃないですけど、考えてみりゃよく似てるわというふうに思いますね。こうしようと思って仕 掛けたことはろくなものはないわけですが、いつのまにか染み込んだものが何かを生むんだろうというふうに思うんですよ。大学で、いろんな企画書を出してや ると予算が取れたりした時代もあったんだけど、最近はそんなことはないですけどね。
木幡 いやありますよ、今だに。
平井 ある?
木幡 取っちゃったけど、やる中身が実はなかったみたいになってる人が私のまわりの同僚にいますよ。課程費を取る時は一生懸命なんだけど、もらっちゃったあと一応ちゃんと使わないと今後に……ところが実は何にもないのにもらっちゃって。ぜいたくな悩みですけどねえ。
平井 ハハハハ。ちょうだいっていう人がいっぱいいるんじゃないですか。
木幡 言いたいですよねえ。
平井 そういう意味じゃあ豊かさと貧しさがものすごく偏在している。極端に偏在している時代になった。それで、日本中に変なスペースがいっぱい出来たと思うんですよね。で、たぶんplan-Bをそういったことの先駆的な例として取り上げる粋狂な研究者が出てきたりとか。
木幡 オルタナティブスペースの研究とかね。

いま、学生と下層の労働者が出会うことはなくなった?

平井 そうそう、そうです。まあそれは粋狂な人に任せとけばいいことなんであって。やればいいんです、こっちはね。この映画、今日はなぜか、たぶんフィルムが傷んだせいでしょうけれど、こう角が丸くなってましたよね。画面の角がね。
木幡 角が丸くなるって。(笑)
平井 何か、20年代のモノクロの映画を覗き観てるみたいな、そういう感じがしてね。そういう意味でもこの映画、時と共に変容しているんだ、成熟しているんだなあと思いましたよ、すごく。
木幡 それと観ながらちらっと考えたのは、圧倒的な違いというか、リアリティというか。例えば、おじいさんがいて中年の夫婦がいて、それか ら昨日今日、大学から、あるいは学生運動からちょっと移行してきたような活動家もいて。そういう意味で言うと、大きな時代的な違いがすごくありますよね。 ようするに、学生とそれから農村、漁村出身の、まあ下層労働者になっている人が出会うなんていう必然性、必然性というか構造的条件っていうのが、まあ別の 方法で、それこそ角が丸くなってるわけで。ところが今は、そういうことがないから、危険な連合体が出来るおそれがなくなってるわけじゃないですか。あるい は前衛芸術家と山谷の上映会をやる人が、何で同じ場所で一緒に100回続けたの、というようなこと、そういうのがあんまりない。こう何て言うの。細かく分 類化された使用目的に合ったと思われる施設を、まあこれが括弧付きの「文明社会」というのかもしれないけれど、そういうのを提供出来る市民社会になってき てるということの結果なのかなあと。
平井 それと、だんだんお金を出さなくなってるんじゃないですか。きつくなってきて。
木幡 そうだろうなあ、締め付けが。
平井 たぶんそうだと思います。あとその過激な学生さんと労働者達っていうのはもうありえない図式であって。
木幡 過激な学生達がいないと。
平井 いないです。原発震災以降、最も動かなかったのはたぶん学生層ですからね。
木幡 ほう。法政大学に行ってもいない?
平井 ちょっとはいますよ、それは。ちょっとは面白い人もあらわれてきてるんだけど。まあ、いきなり山谷に行っちゃうとかね。美大の学生 だったやつが山谷に行っちゃうとか。そういうことはあまりなくなってきてることは確かだね。でもまあ、学生が普通に暮らしてたらフリーターになってしまう んで。
木幡 ああ、なるほど。
平井 別段行く必要ないんですよ。
木幡 そこにいれば、もうなっちゃう。
平井 なっちゃう。なっちゃうけど、まあみんな従順だけどね。
木幡 うんうん。
平井 しかしそれで波を立てようとしてるやつはいるわけで。そちらの方が面白いというかね。そこから映画を撮ろうとするのが出てくるわけで。
木幡 で、どうなんでしょう。そういう中で場所を持つとか。昔アジトって言葉がありましたね。例えば、大学のクラブ活動の与えられた部屋。 それを自分達で好きに使う。アジトっていうのはヨーロッパの語源だっていうのがありますが、まあ自分達が自由に使える場所。もう寝泊りもしちゃうみたい な。そういうことでいうと、今はきれいなエアコン付きの部室みたいのがサークル活動の為に与えられていて。使える自由度は、それぞれの場所によって勝ち 取ったものが違うと思いますけれども。それと金を払ったりして。あとは行政や民間が提供するっていうかなあ。まあ私達の頃は西武とパルコくらいですよ、そ ういうのは。若いのを登場させて販売促進につなげたのはね。今はみんなそれをやってるから。そんなに困ってないのかなあ、発表の場みたいなものに。

山谷の群像をシネマヴェリテとして観た時、どう思うのか

平井 どうなんでしょうねえ。ただ本当にやりたいことをやろうと思えばかなり困りますよ。
木幡 そりゃそうですよ。だから、本当にやりたいことがないっていうのが問題なんだよ。
平井 ただ、その若い層がどうしたとかあまり興味がなくて。なかなか年を取れないのが僕らの世代の唯一の取り柄なんで。
木幡 なるほど。自分のことの方が興味がある。
平井 そうですねえ。自分が今、何を出来るんだということだけが重要であって。それで一緒にやれる連中をつくればいいと。出来ればいいとい うことであってね。この映画はそれを訴えてる気がするんだけどね。この映画を観るといつもどこか震えて、笑って、泣いてね。ええ、しんみりきますよ。同時 に「お前、何やってんだ」と。やっぱり言われますよ、この映画に。
木幡 いやあ何人かの群像がいてね。皆さんにぜひご紹介したいのは、もう亡くなっちゃったから言っていいと思うんですけど、あそこに出てく る中で何人か、私の記憶に強く残る大好きな人がいて。今日も「ああ、もういないんだ、この元気な人は」と思ったんだけど。何て言ったらいいんだろう。ほ ら、おじさんがこうあやまって、組のって言うか……
平井 ああ、手配師のおじさんがね。
木幡 その前でマイク持って。わりとこう滑舌のはっきりしたMさんっていう人がいて。あの警察官あがりだっけ、自衛隊だっけ。
平井 警察ですよ。
木幡 警察か。警察官あがりか。
平井 機動隊でしょう。
木幡 機動隊。(笑)亡くなってしまったそうで。本当にまあ細やかな心遣いで。ええと、一生懸命勉強をするんですけど、いわゆるインテリタ イプには絶対になれないタイプで。でもすごい人間的、何ていうんですか、豊かさっていうのがあって。元気いっぱいで。彼だけじゃなくて、もうちょっとこっ ちにいた今だに闘ってる人とか。本当に群像としても、今どきあれだけ複雑で強烈なものを……。それを培った時代っていうことなのかもしれませんけども。 で、そういうものを皆さんがシネマヴェリテとして観た時、真実映画として観た時、どうなんでしょう。いわゆるドキュメンタリーって、あるいはドキュドラマ とか今たくさんありますけど。この映画との違いというか、分析的な意味じゃなくて、若い方々とかはお感じになったのかなあ。そんなに古い感じはしなかった だろうと、まあ希望的に思ってんだけど。どうですか? 昔、1950年代、60年代くらいのネパールとかチベットとかにいろんな写真家が写真を撮りに行ったじゃないですか。そこで撮られた顔を観ると、懐かしい 顔、日本にもいたよね、こういう顔の人って。思いましたよね。発見しちゃったり。隣の家の人だったり。でも今は、だんだんこう顔っていうものがツルツルに なってくるじゃない。で、今日の話も顔から始まったんだけど、どうですか、そういうリアリティっていう感じでは。まだまだ今も通じる、今こそ通じるリアリ ティをこの映画は持ってるような気がするんですけど、いかがでしょうか。場所から話がずれちゃいましたけど。それと、そろそろ我々よりも、音楽とパフォー マンスに行った方が、映画と身体的には連動してていいと思うんですが、どうです?
平井 じゃあ、ちょっと言いますが、顔って、情報量というか伝えるものはすごく多いでしょう。何で、今でも彫刻とか絵とかを観るのか。やっ ぱりそれは何かを伝えちゃうからですよね。それを思うと、僕が実は一番興味があるのは飯場に争議に行くじゃないですか。それで、おじさんが出てくるじゃな いですか。あれは在日の人なんです、親父は。娘さんが出てきて、それこそMさんが途中から漫才の掛け合いみたいにして「社長、社長」とか言って出てくるで しょう。そして協定書というか、誓約書みたいのを書かせるわけだ。あの時、「この人、日本語書けないから」みたいなことを娘さんが言うんだよね。あのおや じの顔なんですよ、僕が興味あるのは。あのおやじが刻んでるこの顔は何だと。つまり働いてなんとか店を持った。あのちっちゃい手配師の事務所。まあ飯場を 経営してると。で、たぶん本人にそれほどの意識があってじゃなくて、業界はこういうもんだというふうにしていろいろなことをやっちゃってる人だと思うんだ よね。あの人の顔と家族と、それと労働者、飯場にいる労働者。それから争議団の連中、Mさんやその他いろんな人いますけど。あのやりとりなんですよねえ。 あれが非常に興味があって。それと、もう一つ言っておきたいのはたぶんフリーター世代にはフリーター世代の顔の成熟があると思うんだよ。

成熟しない意志、あるいは古典として……

木幡 成熟?
平井 うん、すでにフリーター10年以上、10数年とか20年とかやってる人が出てきているわけなんで。そうすると肉体労働者ではない、も ちろん別の病を、いろんなものを抱え込んでる人達が多いけれど。それだけじゃなくて、やっぱり生きる為にいろんなことがあるわけで。それとは別の成熟と別 の闘いのありかたがたぶんあるだろうと。それを編みだすのが問題なんであって、というふうに思いますけどね。
田中泯(客席から) 成熟ってどういう?
平井 やってると、なんとなく時間が顔やいろんなものにたまるんですよ。たぶんその出方みたいなものが、あるパターンとか何かを作り出してくると思うんだよね。
田中 農業用語で成熟とか爛熟とかって。
平井 ああそうか。
木幡 爛熟。
田中 さっきのこの映画に関して成熟って言葉を盛んに使ってたんだけど、俺はこの映画は成熟をしない意志を持ってる映画だと思う。
木幡 映画としての成熟?
田中 一番はそうだよ。
木幡 映画としての成熟はしない。
田中 しないという意志を持ってるからやっぱり観続けるんでしょう。観る人達も成熟なんかしてないって。
平井 うーん。
田中 時期を待ってるわけじゃないでしょう。あの果物の成熟というのは本当に待ってる。待ってるんだ。そして、しっかりと支えられて成熟す るわけだよ。それがもっと進むと完熟、そして実を結ぶことが結果なんですよ。これ全部百姓の言葉です。いやねえ、あいまいになっちゃうんだよ、成熟なんて 言うと。
平井 じゃあ言い換えよう。山岡さんは、あの人は文学好きな人だったんで、こう言ったんですよ。ある典型みたいなものが重要なんだと。そういう意味では成 熟って言うと、確かに時間とか何かそこに西洋芸術とかね。農業とか農業の持ってる時間みたいなものを思うかもしれないけれど、成熟っておっこちてまた次の 実が出るじゃないですか。そこで終わるわけじゃないから。ですから、ある種の典型とか。そういう意味では、この映画はまあ古典になったと僕は思う。それは 僕の中ではなかなか出来なかった。あの場面に思い入れちゃう。あいつはどうしてるんだ。俺はこの場面のこのシーンのどの外にいるんだとか、あるいはいな かったとかね。そういうことばっかり思っちゃうんだけど。
田中 だから、それは全く不定形にあり、時間差を、常に時間差をともなった時間が一個一個の体の中に流れてるわけなんです。その中で成熟って言葉はふさわしいとは思わない。
木幡 なるほど。
田中 それと今日、何度目かを観て初めて音楽を聴いた気がした。今日初めてですね。
平井 だから、素晴らしい古典の作品になりましたと。でも、映画史に記録されるという意味じゃありませんよ。その手の学者達が言いそうな、そういう意味では全くないです。
木幡 では、そろそろ。本当にいろんな体験をしたいし、皆さんもどうですか。
平井 そうですね。どうもありがとうございました。

[2013/2/16 plan-B 責任編集・山谷制作上映委員会]