2014年10月18日

plan-B 定期上映会

この真夏の悪夢――イスラエルの50日にも及ぶガザへの破壊と殺戮
講演 / 三井峰雄
(印刷業)

7月8日に始まったイスラエル軍のガザ攻撃は、2000人以上の死者と40万人を超える避難民を出して、8月26日にようやく止まった。市街地や避難所 までも執拗に攻撃を加えて市民を殺傷し、また社会インフラを徹底して破壊するなど、この50日間の攻撃がガザにもたらした災禍は大きく、傷は深い。同じ時 期、ヨルダン川西岸では新たな入植地建設が始まり、家屋破壊と土地の収奪、入植者による組織的暴力が際限なくつづいている。さらにイスラエル国内ではアラ ブ系住民への排撃や、反戦デモに対する激しい攻撃がなされている。
いまから32年前の夏、北部国境を越えてレバノンに侵略したイスラエルは、やはり市街地への攻撃をつづけ、PLO撤退後のパレスチナ人キャンプでは、非 武装の住民の大虐殺事件があった。いわゆる「中東和平」の枠組みが自らの既得権益に矛先が向けられそうになると、いつも逆切れしてへ理屈をこね、全てをご 破算にしようとするのがイスラエルだ。
ガザ攻撃に先立つこと2ヶ月、来日したネタニヤフ首相は、東京と京都で安倍政権の歓待を受けた。またガザ攻撃のさなかでさえ、現役閣僚や国会議員団がイ スラエルを訪れている。防衛、治安の面での関係強化がうたわれる両政府の連携は、いったいどんなおぞましい「繁栄」を思い描いているのか。おぬしも悪よ のー、ではすまないのだ。

スキッド・ロウとジェントリフィケーション

友常勉(東京外国語大学教員)

スライドを見ながらロスのスキッド・ロウを語る 

友常といいます。僕に要求されているのは今観ていただいた「山谷-やられたらやりかえせ」の現代的な意味を確認する、あるいは他の言葉に置き換えるということだろうと思います。その時に参照するのがロスアンジェルスのスキッド・ロウという、アメリカで有数のスラム地域で、そしてその現状を報告しながらこの映画との関係をできるかぎり語ってみるということだろうと思います。
ロスアンジェルスですが、グーグルマップのマークが付いている所が大体ダウンタウンディストリクト、まあ中心地ですね。ロスに観光に行き、最初に空港から入るとしたら、たぶんダウンタウンディストリクトのリトルトーキョーあたりに行くのではないかと思います。そこを少し拡大しますと、大体こういう感じになります。これがダウンタウンですね。お土産品なんかを買ったりするのがたぶんこのあたり。いわゆるスキッド・ロウはこのあたりに位置しています。山谷よりは大きいかもしれません。アラメダ・ストリート、サウスアラメダ・ストリートとイーストセブン・ストリート、それからイーストサード・ストリート、あとサウスマルティニ・ストリート。4つくらいの大きな道路に囲まれた地域ですね。ここがロスのスキッド・ロウというスラムです。寄せ場ではなく、スラムです。
寄せ場とスラムは違います。労働者がストリート・レイバーマーケット、道路で自分の労働力を売るのが寄せ場ですね。スラムというのは貧困者やホームレス、野宿者がそこに集住していく場所です。もともとは寄せ場に近い性格を持っていたんですけれども、やがてスキッド・ロウはスラムになっていきました。ちなみにスキッド・ロウに隣接したダウンタウン、周辺はみんな観光地でもあります。コリアンタウンとかチャイナタウンっていうのは観光地というよりは在米コリアンやチャイニーズの集住地域、まあメキシカンの集住地域とも重なっていますが、そういう地域なんです。商業地区でもあると同時に居住地区でもあります。日本人がリトルトーキョーに遊びに行ったりすると、その隣にスキッド・ロウがあります。でも、タクシーで走っていったりすると、そこには止まりません。危険な所だからということで通り過ぎることが多いと思います。地元の大学生の話を聞いたことがありますが、スキッド・ロウがどこにあるか知らなかった。山谷がどこにあるか台東区の人達が知らないのと一緒で、見ようと思わなければ見えないものですね。
あとで説明しますが、ロスアンジェルスにはツインタワーと言われている医療警察複合施設があります。これがそのツインタワーと言われているものです。ツインになっていて、手前にあるのが男性刑務所と医療刑務所が一緒になっているもの。そして奥の方にもう一つ刑務所施設があります。世界最大の刑務所と言っていいと思います。これとスキッド・ロウは深い関係があります。スキッド・ロウの北の方にはファイナンシャル・ディストリクトといって産業、ビジネスの中心街が見えます。それがどんどんスキッド・ロウの方に迫ってきています。ここら辺が産業的に開発が進んでいる所ですね。スキッド・ロウがこのあたりにあるとしたら、こちら側は少し古いビジネス街で、商店街というか、ニューヨークの五番街みたいな所です。割とコジャレたレストランとかオフィスが並んでいます。こちら側から、段差があって、エンジェルスフライト鉄道というケーブルカーがあり、それで上の地区に登っていきます。そこにはファイナンシャル・ディストリクトが上にあって、ディズニーのコンサートホールがあります。そういう文化施設のある地区がスキッド・ロウを包囲しているというのがロスアンジェルスの今の再開発の現状です。

警官やガードマンから常にハラスメントをうけているホームレス

これは僕が撮った写真と、スキッド・ロウに関わるいろんなジャーナルやニュースペーパーから取った写真です。これはミッションと呼ばれているシェルターの中の様子ですね。寝泊りすることができるので、スキッド・ロウの住人達、ホームレスの人達はこのようなミッションの中のベッドで夜を過ごすわけです。これは街の中の様子です。10年くらいここで撮影をしている写真家がいて、その写真集から取ったものです。いろんなハラスメントが警官によってされているので、その様子ですね。なかなかカメラは向けられないんですが、普通に街を歩いてればこれはしょっちゅうあることです。昼間横になってはいけないんです。朝6時から夜9時まで、路上で横になっていてはいけない。その時間に路上に寝てると逮捕されるか、あるいは警官にハラスメントされます。
壁画もたくさんあります。スキッド・ロウの住人達はこういうふうに買物かごを持っています。それに自分の荷物を預けています。ここにショッピングカート・フォー・ザ・ホームレスと書いてありまして、この買物かご、カートに窃盗、盗まれた物でないことを証明する札が付いています。これが付いてないと窃盗だとみなされるので、みんなこれを付けています。
ちょっと見えづらいですが、街の様子です。あとでこれも説明しますが、様々な支援組織があって、そこで働いてる活動家の一人です。彼に案内してもらいました。スキッド・ロウの中の彼のアパートの中に入れてもらったことがあります。小綺麗なアパートなのですが、スキッド・ロウの住民だということで安い家賃で入っているはずです。彼はニューヨークで弁護士をしていたんですが、アルコール中毒の患者になって、それでロスアンジェルスまで流れてきてスキッド・ロウの住人になった。現在はLA CANという支援組織の活動家です。
次に医療センターです。スキッド・ロウの住人だということがケア・ワーカーによって証明されれば無料で医療が受けられます。山谷の労働者、先程の映画の中でも歯がない労働者がいましたが、歯がないとソーシャル・ワーカーが口添えすれば歯の治療をしてもらえます。ですから、入れ歯をちゃんとしています。
これはミッションと呼ばれているキリスト教のシェルターの一つです。その前に、赤いポロシャツを着た男性が立っていますが、これが地元の商店街の人たちが雇っている私設のガードマンです。このガードマンが路上で寝ている者や、商店の前にいるホームレスを蹴散らすというようなハラスメントをしょっちゅうしています。ガードマンは催涙スプレーと警棒を常時携帯しています。まあこんな感じです。スキッド・ロウのホームレスの人達が路上で寝ているところをそのまま撮影するわけにもいかないので、こんなふうな風景になってますが、両側にはずらっとこうカートなりなんなりが並んでいて、左端にも見えますが、みんなそういうふうにして暮らしてます。奥の方にたぶんロス最大の警察署が見えるんですが、スキッド・ロウの中に警察署があります。山谷のマンモス交番や釜ヶ崎の西成警察署と一緒ですね。寄せ場の中に警察署がある。
スキッド・ロウの支援組織、支援団体の中にはアートや音楽を通して社会復帰をするための施設があります。これがそのLAMPコミュニティー・センターの様子です。セラピーを受けたり、居住の保証を受けたり、あるいは技術訓練、職業訓練をしたりしています。自己表現のための絵を描いたり音楽をしたりということもこの中でおこなわれています。中は結構広いんです。とても優秀なスタッフがいます。
この写真は竪川の様子、江東区の竪川の様子ですね。ちょっと写真が混じってました。スキッド・ロウから転じて竪川を見ると、なんとなく風景が似ていますから、それでつい一緒にしてしまいました。きれいにジェントリファイされた居住空間がホームレスの人たちが住んでいる空間を圧迫していくという構図は、スキッド・ロウに似てないこともない。用意している映像はこれだけなんです。あとは具体的な話をしたいと思います。ちなみにスキッド・ロウの中では様々なボランティア活動や音楽活動がおこなわれています。ヒップホップのグループのエックスクランとか、いくつかのグループがおこなっているスキッド・ロウのミュージックコンサートをユーチューブで見られます。

スラムとしてのスキッド・ロウの成立

では用意したレジュメに沿って話をしていきたいと思います。スキッド・ロウというのは今、見ていただいたようにロスアンジェルスのダウンタウンに位置しています。およそ人口1万2000人と言われています。ホームレスの数は、ロスアンジェルスは全米で最多です。そしてスキッド・ロウはロス最大のホームレス集住地と言われています。住民の貧困率は最も高く、黒人、ラティーノが中心ですね。多くはアルコール中毒とドラッグ中毒をかかえています。1970年代には住民の67パーセントが白人で黒人は21パーセントだったんですが、現在は逆転しています。
先程、ファイナンシャル・ディストリクトが押し寄せてきていると言いましたが、90年代からジェントリフィケーションと言われる、つまり貧困層、労働者階級を追い出して中・上流階級のための様々な居住施設を建設し、それに合わせた街づくりをするということが進んでいます。ジェントリフィケーションというのは同時に金融資本が押し寄せるということでもあります。中・上流階級層がマンションや様々な施設を利用するようになれば、それに合わせて保険にも入りますし、あるいは子どもを学校に入れたりもします。そういうことをして様々な資本が土地や空間を支配していくことになります。同時に、そういう階層はセキュリティー空間を拡大していきます。そして、そのセキュリティー空間は黒人や貧困層、ホームレスを犯罪者であるとみなしていきます。あるいは犯罪者視を強めていきます。これを「モラル・パニックを煽る」と言いますが、近隣住民のモラル・パニックを煽っています。
あの2007年から2008年のいわゆるサブプライムローン――低所得者層が一戸建を買えるという夢のような金融マジックがあって、それは非白人層からたくさんのお金を収奪しました。そういうことを通して、スキッド・ロウの貧困率が一気に上がって現在にいたっています。今のスキッド・ロウの近くには鉄道はないんですけれども、もともとは1870年代から鉄道が敷設され、駅もできまして、そのまわりに小さなホテルが集中してできました。それで、1930年代までに単身男性の移民労働者が集まって来たんですね。鉄道があってホテルがあって、そこに人が集まる。それに合わせてミッションと呼ばれる簡易宿泊施設がまわりにでき、さらに人が集まってきます。特に30年代の大恐慌の時代に家族を捨ててアル中になったホームレスが集まるようになりました。これが一つの契機。
それから第二次大戦とベトナム戦争です。地方からやって来た兵士や青年が一時的にスキッド・ロウのあたりに滞在します。その滞在場所になったことが契機で、帰還した兵士たちがドラッグ中毒やアルコール中毒、あるいは精神を病んだりして、結局地元、田舎に帰らないでそこにとどまるんですね。そういうことが続きます。ベトナム戦争以後というのはアルコール中毒の白人層が多かったんですが、それが80年代にはドラッグ中毒の黒人層が中心になっていきます。
現在1万2000人の住民に対してロスアンジェルス市は6500人分の単身者用の部屋を用意してます。それから2000のベッド数をシェルターとして保証しています。しかしそれだと足りないわけですね。ロスのホームレス・サービス局とかロス市警によると2000人から4500人、あるいは5000人のホームレスが路上で暮らしていると言われています。70年代から医療ケアや住居保証を進めるようになってたんですが、ボランティア活動、あるいは基金を集めるということを通してロスの様々な支援組織がつくられています。一つがロス・コニュニティー・アクション・ネッットワーク、LA CANと言われているもの、それからLAMPアートプロジェクトというものがあります。それらは住居、人権、医療ケア、社会復帰プログラムを用意しています。さらに先程見てもらったようなミッドナイト・ミッションと言われるキリスト教系の簡易宿泊施設があるわけです。で、その簡易宿泊施設に行けば、ボランティアで集められた服もありますし食べ物もあります。歯磨きだって何だってあるのですね。暮らしていこうと思えばミッションの中で暮らしていけるのです。ただ、お金は貯まりませんからスキッド・ロウから出て行くことは不可能だろうと思います。それに、無料で医療が受けられるといっても、実際そこで住むというのは大変な困難と差別を強いられることになります。

産獄複合体による刑務所収監人口の激増

アメリカのスキッド・ロウについて語るということは、アメリカで突出している産獄複合体について語ることだろうと思います。プリズン・インダストリアル・コンプレックスと言います。1980年代以降の社会というのは、日本も含めて全世界でそうだと思いますが、貧困は犯罪としてみなされます。ということは貧困者、経済的困窮者というのは監視の対象です。それが可能な社会や国家ができ上がっています。刑罰国家、監獄社会ができ上がっているのですね。そうして、そういう刑罰、監獄社会をビジネスにするというのが次の段階です。このビジネス化がずっと進んでいるのがアメリカの産獄複合体だと考えてください。スキッド・ロウの中で住民たちは日常的に警官と私設ガードマンによってハラスメントされています。簡単な罪で逮捕される。さきほども言いましたように、朝の6時から夜の9時まで路上で寝ていてはだめなのです。路上で寝ていたら、それで逮捕されますから。それで、軽微な罪で逮捕され、刑務所とシャバを普通に行き来しているんですね。すると、当然ながらブラックリスト化されます。一度逮捕されるとメンタル・チェックもされますので、それによってアルコール中毒やドラッグ中毒患者としてブラックリスト化されます。市民的権利をそれによって剝奪されます。
アメリカ社会の産獄複合体、監獄社会化についてはアンジェラ・デイヴィスの本がよく知られているので、そこからデータだけを拾っておきますと、アメリカは異常に刑務所収監人口を増やした国です。1970年から2006年の間で8倍、230万人に刑務所収監人口が達しています。さらに執行猶予および保護観察下にある者は合計720万人、犯罪経歴を根拠にして参政権を剝奪されている者は500万人に達しています。アメリカ刑務所の収監人口比率は2006年で10万人あたり750人。ちなみにロシアで600人、日本は50人というデータがあります。
収監人口が増えた一番の理由は麻薬犯罪が厳罰化されたからです。一方で、殺人犯罪件数は1990年代からずっと減少しています。日本でもそうですね。ずっと減少しています。あくまで収監人口の激増の主要な理由は麻薬犯罪で、同時に刑期が長期化していきます。長期化するとどうなるか。警察、裁判、刑務所関連予算を増やすことになります。これがビジネスにつながります。監獄ビジネスが民営化されて、民営監獄が増えているのです。過疎地があるとしたら、その過疎地を再開発するために監獄を誘致する。その中で低賃金労働がおこなわれています。さらに犯罪報道をテレビの三大ネットワークが煽るということを通して、警察、裁判、刑務所関連予算を増やす世論が形成されていきました。これを産獄複合体と言います。こういう複合体はどの国でもいつでもあるじゃないかと思われるかもしれませんが、福祉と警察、それから裁判と監獄というような様々な利益体、形態が簡単に結びついて、安易に結合したり分離したりするというのは今までになかったことでした。それができるようになっているという意味で複合体と呼びます。
アメリカのこのプリズン・インダストリアル・コンプレックスの特徴は、麻薬中毒患者を収監することを通して精神病棟の経営と監獄経営を一体化させることに特徴があります。先程あのツインタワーを見てもらいましたが、それが一つの典型です。このツインタワー自体は1500万㎡の面積で世界最大の刑務所です。男性中央刑務所、拘置所、医療施設、それから矯正施設が二つあって、これがタワー1、タワー2と言われています。ここからツインタワーと呼ばれています。全体収監人口は9500人に達しています。ちなみに日本の最大の刑務所は府中刑務所で、4500人くらいだと思います。その倍ですね。収容者は精神病の治療のために薬物を投与されます。薬物投与だから製薬ビジネスと結びついています。また刑務所の中では日常的に暴力と人種差別にさらされています。こういう報道は様々なメディアの中で伝えられています。

産獄複合体と麻薬ビジネスのシステム

配布した資料の中に、僕がインタビューをした日本人の話の一部を掲載しておきました。どのようにスキッド・ロウの住民になるかがわかる一例です。彼の名前をJとしておきますが、80年代に観光ビザでアメリカに入国。日本レストランで働いていたけれど、86年移民法の改正でレストランを解雇されたあと、89年からスキッド・ロウで暮らすようになった。仕事を失った大晦日に近いある日の夜にブラブラしてたら焚火にあたっていた黒人のホームレスに誘われて、日本人だからJなのかもしれませんが、Jという名前でそこで暮らしてるんですね。彼はビジネスとしてスキッド・ロウの中でわりと成功しているのです。
彼の話によると、住民達がどういう生活をしているのかがわかります。現在は月221ドルの州政府から出る生活保護、それからチラシ配りの日払いの仕事、それで月600から700ドルくらいになります。スキッド・ロウの住民は地区内のアパートメントホテルを格安で借りられます。ホテル代が普通は月600ドルはしますが、それが62ドルの家賃ですみます。残りは州政府が負担します。先程言いましたように、ミッションに行くと新しい服や靴、食事、それにシャワーがあります。医療ケアも受けられるので221ドルの生活保護で暮らしていけるようにみえるかもしれませんが、実際にはそれは無理です。
日本の寄せ場はすごく高齢化しています。釜ヶ崎がそうであるように生活保護を受けて生活保護者向けの福祉アパートに入ったりしています。でもスキッド・ロウの住人は凄く若いのですね。本当に若い。少年、青年もいっぱいいます。若いけれども90パーセント麻薬中毒の患者なんですね。簡単に買えますから。そこでドラッグをどんどん売ってる。バイヤー、小売人がそこらじゅうにいるからです。Jをインタビューしていた公園はもうそこらじゅうに売り子がいて、その公衆トイレの中でみんな吸引しているのです。それで年金が支給されると、小切手が支給される時にバイヤーが全部吸い上げてしまうんですね。そういう状態の中でドラッグとアルコール中毒漬けになっているのです。221ドルの生活保護を毎月もらっていたとしても早い人で1日、長くても3日か4日くらいで全部ドラッグに消えていくんです。だから、ミッションや路上で暮らすしかない。そして、人格も破壊されていくという状態が続く。ミッションの中に入れば、それなりのケアが受けられるのですけれども、外に出たらやっぱり元の木阿弥だと、Jは言っていました。
なんでこういうことが起きているのか。アメリカの麻薬ビジネスに対しては、それなりに報道されています。麻薬との戦争はうたわれているのですが、しかし最も巨大な麻薬ビジネスを運営している本体そのものを問題にして全面的に解決しようとはしていないようにみえます。むしろ麻薬ビジネスで様々な収益がある。麻薬中毒が増えれば、プリズン・インダストリアル・コンプレックスの中で利益が上がりますから。そして、そういうプリズン・インダストリアル・コンプレックスの中での利用価値、利用される意味を世論に何度も喧伝するためにスキッド・ロウのような場所が保存されているとしか理解できない状態が続いています。麻薬に対する戦争っていうけれども、それに実質がともなってない。戦争の敵だけは残しておいて、それによって戦争の犠牲者である麻薬中毒患者になっている人たちに対してハラスメントを続けているだけです。
実際、Jをインタビューしていた公園には20台くらい監視カメラが付いてるんです。隣は警察署ですよ。そこで麻薬を売っているのに、ディーラーもいるのに逮捕しようとしない。野放しなのです。日常的にそれを駆逐するための政策をおこなっているわけではないのです。これは麻薬ビジネスのシステムそのものを保存しているのじゃないか。つまりスキッド・ロウは大きな意味での産業監獄精神医療複合体の共同利益の一部になっていると考えています。『山谷―やられたらやりかえせ』の中では宇都宮病院の映像が出てきますけれども、寄せ場の運動ははじめから寄せ場の日雇労働者と精神医療の問題を気付いていて、早い段階から告発をしていました。その点で、ビジネスとして国家規模で展開されているのがアメリカの場合だと思います。
そのようなスキッド・ロウの現状をみた時に、今どういう闘い、運動が求められているのか。それはホームレスが中心になっている運動だから、居住を求める闘いというのが重要だろうと思います。2010年にスキッド・ロウの住人でLA CANの活動家であるデボラ・バートンという人が国連の定期レビューの中で、ロスのホームレスの人権侵害についての報告をおこなっています。彼女は警察によるハラスメントや移動や収監を非難して、それが国家的におこなわれている実態を批判しています。また一方でLA CANがやってる活動の意義を強調して、アメリカ政府のホームレスに対する政策と、政府の政策が産獄複合体ビジネスの末端化していることに対して、国際的に圧力をかけてくれということを要請しています。ロスのホームレスに対しておこなわれている人権侵害は国際社会が責任を取るべきことなんだと。これは1948年に採択された国連人権宣言第25条違反になります。国連人権宣言第25条は居住の権利をうたっていますから、居住の権利というものをテコにしてスキッド・ロウの現状を批判し、国際社会による圧力が可能であるということです。さらに、スキッド・ロウの支援組織はより高度な政治的なスローガンも掲げていまして、居住権を求める闘いというのは現在進行している新しい人種主義的資本主義の――彼女はそう言いますが――政治・経済に対する挑戦だと言っています。そういう国際的な運動の中に居住を求める闘いを位置付けていて、それがスキッド・ロウの闘争の中心的なスローガンの一つだということを強調しておきたいと思います。

ジェントリフィケーション――中・上流階級が貧困層を駆逐する

居住の問題にかかわって、ジェントリフィケーションについて説明したいと思います。ジェントリフィケーションというのは、簡単に言うと、中・上流階級が貧困者、労働者を駆逐して街を浄化していく、そしてアパルトヘイト化していくということを意味しています。ジェントリフィケーションの内容に関しては、90年代から2000年代にかけて、ニール・スミスを中心にして理論的に精緻な議論がされるようになりました。ニール・スミスの主著は原口剛さんの訳で『ジェントリフィケーションと報復都市 新たなる都市のフロンティア』(ミネルヴァ書房)として出版されていますので、参照してほしいと思います。とくに地代格差論について提起している部分が参考になります。これを用いて説明してみます。
たとえば山谷でも釜ヶ崎でも、そしてスキッド・ロウでもそうですけれども、様々な社会的な開発によって、自分たちを排除し駆逐する弾圧や大きな権力がやってきます。でも、いつ開発が始まるのかの予測はできないのですね。いつ開発が始まるのか。現実的にタイムスケジュールが出せるわけではないけれど、でも東京の場合だったら東京スカイツリーができ上がって、隅田川の、墨田区の向こう側から始まってきています。一方では、2020年の東京オリンピックがプログラム化されていて、まわりから地代が上がっています。そうすると今までは資本に活用されない場所、山谷のような場所や、釜ヶ崎、そういう場所は相対的に値段が下がっていく。そうして、寄せ場との地代の格差が拡大した時に、ジェントリフィケーションという開発が始まる。そして、ジェントリー資本がやってきて都市開発が進んでいき、それが階級的で人種差別的なアパルトヘイトをつくり出すことになる。これが地代格差論にもとづく説明です。
こうした性格の開発に対抗するためには、そこに住んでいる人たちがジェントリフィケーションや中・上流階級の価値観に基づかない、そういう資本の価値や階級的な生活の価値観に基づかない権利をいかに行使し、いかに社会が守れるかということになるのだろうと思います。そういう政治プログラムをこちら側からつくらないといけないということです。
ちなみに西成の釜ヶ崎では、西成特区構想というのを橋下市長が提起し、さらに「あべのハルカス」という商業施設がつくられて都市再開発が進められています。これはジェントリフィケーションが釜ヶ崎で起きていることだろうと思います。そして山谷でもそれが迫りつつあるのではないか。で、それに対抗していくためのこちら側の、ジェントリフィケーションや開発ではない価値観に基づく運動、地域社会づくりが必要になるだろうと思います。
釜ヶ崎や山谷をはじめ、様々なところでみられる日雇労働や重層的下層労働、もちろん原発での除染労働も入るのですけれども。そういう労働の中で問われている課題に答えるために、今、関西や東京の友人たちと一緒に、従来の寄せ場の労働運動、そして様々な現場の闘争の歴史の読み直しをしています。その読み直しの中にはイタリアのアウトノミア運動とか現在の反グローバリゼーションの運動も含まれています。そういうことを通して、かつての寄せ場、現在の寄せ場を自律的な空間として再創造する、そのような活動を一緒にできればいいなと思っています。

ホームレスに対する差別的心理は連鎖的に形成される

司会 50年ほど前は産学協同というのが批判されましたが、それを飛び越えましていまや産獄複合体というとんでもない時代になってきたなあと。時間がまだちょっとありますので、なにか質問あるいは意見がある方はどうぞ。はい。
参加者A ちょっと用事があって映画は観られなくて、講演を聞くためにやって参りました。ニューヨークのジュリアーニ市長時代の、いわゆる割れ窓理論の一種の神話化、批判は出ているものの再び最近、日本のマスコミなんかでは割れ窓理論が常識みたいなことを言う人が多いんですよね。ラスベガスやニューヨークが浄化して成功した例として、今だに日本だけじゃないと思いますが、マスコミとかビジネス・スクール系とかで、取り上げられてます。それが西洋から非西洋世界にも広がりつつあるということに対して、友常さんの、我々の側の対抗論理って言うんですか、どう対抗していくかということでヒントをいただければと思います。
友常 こういうことを始めたのは最近なので、ニール・スミスのサーヴェイにならって考えるしかないのですけれども。ジェリアーニとその前の市長の時代におこなわれていた政策の中で、結局トンプキンズパークから追い出されたホームレスたちはどこに行ったかというと、JFケネディの空港からダウンタウン、マンハッタンに入るまでのドライブのあたりですよね。あのあたりに全部追いやられていった。高速道路のまわりに塀で囲まれた所にホームレスが押しやられていくわけです。そこに追いやられてしまうと、もう見えなくなってしまっているのですね。だから成功したっていうよりは見えなくなったということです。そうして見えなくさせられたということで、大きなモラル・パニックみたいなものを防いだということです。そこで議論が沈静化したわけです。でも、その後も問題は残っていて、その高速道路のまわりの中・上流階級の住民達が今度はその新しいホームレスに対する差別と敵対を強めていくわけです。それで随分、問題になっていたというのは聞いています。
白人だけじゃなくてアジア系も入るのですが、中流階級層、上流階級層のモラル・パニックがとても上手に利用されていったと思います。その時にニール・スミスが報復主義として整理した議論がすごく有効です。ホームレスに対する差別的な心理というのは連鎖的に形成されるということだったと思います。市場や開発の理論の中にそれをうまく組み込んで説明をしないといけないのだろうと思います。その点、ジュリアーニが果たしてそこまで考えたかどうかわかりませんが、非常によく機能したのじゃないか。報復主義が差別・敵対心を市民の中に連鎖的に形成させることで、ニューヨークにおいてそれは成功したというか一定の実現をみたという気はしています。
参加者A 新宿浄化作戦も……
友常 同じですよね。結局、都市計画の議論の中に集団的に形成される差別意識をどういうふうに組み込むかということになるのだろうと思うのです。それをどれくらい地代論とか地代格差論などの議論をもって説明ができるかということにかかっているのかもしれません。活動家はすでに実感的に肌でわかっていることなのですけれども。それが市場の中で、マスメディアなども通して報復主義として機能してしまっているという現状ですね。
参加者A まずいことに、我々も日本で生活する以上は日本の産業が国際的に負けてしまうのはまずいんじゃないか、例えばシンガポールとかソウルとかに対抗して東京がもっと魅力的になるには、という議論にはまってしまいがちになるわけですね。

ジェントリフィケーションを繰りかえすのが資本のプログラム

参加者B 私は芸大で木幡和枝先生の教え子でした。先日NHKの討論番組で移民というか外国人労働者の受け入れについての番組に出ました。移民を受け入れていけば、同質性の高い日本人の方向性としては排他的な行動が出てくるんじゃないか、そしてそれによって何か社会がつくり替えられてしまうんじゃないかとみんなが漠然と思っている。友常さんは移民政策において、ホームレスに対することと同じようなことが起こるというイメージはありますか。
友常 こういう議論になると、私が答える話ではないのじゃないかという気もするのですけど。89年に日系ブラジル人の受け入れを、基本的に三世までは制限なしで拡大しました。リーマン・ショックで結局、30万円を渡して追い出してしまった。期限付きですよね。日系ブラジル人にしてもそうでしたし、それ以外の移民労働者に関しても5年とか3年という在留資格。永住も可能な、日系ブラジル人と同じような処遇の移民労働者の受け入れに方針が変われば社会状況は変わると思います。それからコード化された移民労働者の受け入れ方をするのか、それとも地域社会を含めてどんな出会い方もありえるような受け入れ方を選ぶのか、この差は大きいだろうと思います。私の大学の経験で言うと、日本人と留学生がコード化された出会いしか持たなかったらば、関係性は多様にはなりません。
『Furusato2009』という映画があります。これは『サウダーヂ』という映画を撮った富田克也さんと相澤虎之助さんたちがつくった映画です。山梨県の中央市に山王団地という団地がありまして、そこの住民は6割が日系ブラジル人で、自治会長までが日系ブラジル人です。そしてみんな仕事がない。まわりの地域社会、隣接している日本人のコミュニティーとまるで没交渉なんですね。そういう意味で、日本人とはコード化されている出会い方になると思います。そのもとで、日系ブラジル人が車上荒らしをしているというキャンペーンがローカルな所でされて、居づらい雰囲気がつくられています。開発と一緒で、一挙にではないかもしれないけれど、まわりから排除がされていく条件はいつもつくられているように感じます。
参加者C 大阪のあべのハルカスをたとえて中・上流の所得層の人達がアパルトヘイト的に人を駆逐していきますよってことですが、本当にそうだと思うんです。そうしたら、その先はどういう予測がされるんでしょうか。例えば、ホームレスの人が減るのか、減らないのか。彼らは生きやすくなるのか。生きにくくだと思うんですけども、どんなふうにこの先が待ち構えているんでしょうか。
友常 日雇の労働者達とそれから新しいホームレスがゆっくり押し出されるように駆逐されていった。そして押し出された先で、もう一回ジェントリフィケーションが起きるのだろうと思う。それは無限に続くというのが資本の運動だと思います。ここでまた起きる、そして次は山谷でと。釜ヶ崎に隣接する飛田はちょっと違うかも知れませんが、飛田もきれいになりましたからね。そこの土地の値段が下がって、あるいはまわりの土地が上がって、そこを追い出した方が資本にとって利益が上がるとしたら、追い出すでしょう。だから資本の運動にとっては土地の値段を下げるために、ある意味でホームレスが必要だったりします。産獄複合体の発想はそういうことです。その土地の値段を下げていくためにマイナスの要因が常に必要になります。価格の格差が拡がって利益が上がる時に、資本は一挙に開発すればいいわけですから。これを永遠に繰り返すというのが資本のプログラムなんじゃないかと思います。
参加者D 私は大阪生野区に10年住んでいました。生野区は在日朝鮮人がたくさん住んでいる街です。西成も釜ヶ崎も結構近くて、よくそこから日雇のバイトに行ったりしてました。ロスアンジェルスの80年代に、あのロス暴動があって。エスニック・コミュニティー同士の対立という問題にすり替えていいのかわかりませんが、そういうのがあったわけですね。そういったエスニック・タウンとスキッド・ロウとの関係はどうなんですか。スキッド・ロウでの街づくりと、エスニック・コミュニティーのロス暴動以降の関係性。資本のつながりとかはどうなんでしょうか。近くなんですか、場所は。
友常 結構離れていますね。ブロックでいうと相当離れています。二駅くらい違うと思います。1992年のロス暴動の時はスキッド・ロウも戦場になっていたと聞いています。隣にメキシカンのディストリクトがあって、繊維・衣服系の、衣料系の店がたくさん並んでいるのですが、そこは随分襲撃されました。従業員はメキシカン、ラティーノなのだけれども資本、商店主はコリアンだったっていう。だからエスニック・コンフリクトだったと思うのです。それで、コリアンタウンではロス暴動のあとエスニック・コンフリクトを和らげるような取り組みが随分進んでいましたね。一緒に協同作業をしたり、青年組織が様々な取り組みをしたりして、住民同士のつながりをつくるようになっていました。そういう意味では、商業施設の中のエスニック・ハーモニー、ハーモナイゼーションを進めるっていうのが地域のスローガンになっています。つまり資本がそういう方向で、商店主達もそういう方向で動いています。
これに対して、ではスキッド・ロウはどうか。まずスキッド・ロウそのものはそういう資本が動く場所ではないです。基本的にあそこはアパートと、それからリテール・ショップがすごく多いのです。そういうリテール・ショップの資本を持っているのはコリアンが中心になるかと思います。リトルトーキョーも実はマンションはほとんどコリアン資本、韓国資本です。たぶんスキッド・ロウにも韓国資本が入っていると思いますが、その資本家達の動向はまだ分析できていません。今現在、エスニック・コンフリクトのような自分たちの利害に関わるような問題が起きているわけではないですから。むしろメンテナンスをしないでそのままにしておいて、もっと利益が上がるくらいに劣化していった時に開発を一挙にやってしまえばいいということなのじゃないかって気がします。しかしその分析はこれからの課題にしたいと思います。
司会 まだ続きがありそうな雰囲気なんですが、この場所はここでお開きにしたいと思います。本日はどうもありがとうございました。時間の許す方がありましたら隣に飲み物なども準備してありますので、ゆっくりとどうぞ。
(2014.8.16、プランB)

2014年8月16日

plan-B 定期上映会

LAスキッド・ロウの歴史と現在
講演 / 友常勉
(東京外国語大学教員)

ロスアンジェルスのホームレスの数は全米最多であり、スキッド・ロウはロス最大のホームレス集住地である。そしてもっとも貧困率が高い。薬物中毒が蔓延 し、警察によるハラスメントに24時間さらされているこの地区では、1970年代には住民の67%が白人で、黒人は21%だった。しかし1980年代の終 わりには住民の多くは黒人になった。
90年代からはジェントリフィケーションと金融資本による土地・空間の支配が進行している。高家賃のアパートとセキュリティ空間を拡大する都市開発は黒 人、貧困層、ホームレスの「犯罪者視」を強め、近隣住民の「モラル・パニック」を煽っている。しかも、「近代アメリカ史における非白人層からの最大の富の 収奪」と呼ばれるサブプライム・ローン危機[2007-2008]が、こうした傾向を一挙に最悪にした。
この報告では、スキッド・ロウの住民に対するインタビューと、ロス・アクション・ネットワーク[LA CAN]やLAMPアートプロジェクトといった住居と人権、ケア・社会復帰プログラム、パブリック・エネミーの音楽フェスティバルなどのホームレス支援活 動を通して、この地区の歴史と現在を紹介する。
同時に空間の金融化=証券化、新自由主義、ジェントリフィケーション、そして社会の監獄化が進行している現在の都市の行方を、地政学的な「スケール」にもとづいて論じてみたいと思う。

行政の排除に抗して――竪川や荒川での野宿者のたたかい

向井宏一郎(山谷労働者福祉会館活動委員会)

山谷―寄せ場のゆるやかな解体
向井といいます。山谷の映画は84、5年だから30年前ですか。今の山谷の街、それから映画に出てきた山谷の労働者、そして運動ですね。山谷での社会運 動がどうなってるのかという話を映像も交えて話していきたいと思います。で、皆さんの手元にお配りしている資料が二つあると思います。一つは「インパク ション」という雑誌にこの春に載った文章です。山谷の街っていうのは寄せ場の解体、緩やかな解体がここ20年、30年かけておこなわれていて。今は、かつ ての寄せ場としての機能は、非常に縮小されてしまっています。今、山谷の街がどうなってるのかって言うと、寄せ場の解体っていうのが一つのキーワードかな と思います。
1980年くらいまでは、寄せ場、つまり「日雇い労働者がドヤに泊まって、そこから日雇いの仕事に行く街」として全国各地にありました。使い捨てのきく 労働力として、何千、何万の人が小さな街に囲い込まれる形で。そういう寄せ場が国とか資本の要請があって、作り出されたというのは間違いありません。例え ば、オリンピックの前後に山谷の真ん中に、政府の大臣が来て、「とにかく土木の仕事が大事だから皆さん頑張って欲しい」みたいな挨拶をするということも あったそうです。だから本当に必要とされて、権力、資本によって作り出されたものなんですね。それが、バブルの時期を境に徐々に日雇い労働というのが形を 変えて、その10年後、物凄い勢いで社会全体に広がっていった。具体的には派遣労働であるとか非正規労働という形になってると思うんです。今、土木、建築 の日雇いの仕事は、寄せ場からの求人が凄く少なくなっています。なくなったわけじゃなくて、例えば新聞広告であるとか、それから工務店が人々を自分のア パートに住ませてそこから仕事に行くっていうのが主流になった。それが80年代、90年代からだったと思うんです。とにかく寄せ場から日雇い労働者が仕事 に行くというのが、労働力のルートとしては縮小されていった。それで、90年代の半ば、バブルの崩壊があって。それがやっぱり凄かったんですよ。
この「山谷労働者は寄せ場の系譜を突きつける」っていう文章を見ていただければと思います。「インパクション194号」の記事です。一番上の段落の、真 ん中くらいに書いてあります。「ここ20年間、山谷でおこってきたのは、寄せ場(日雇い労働者の特定の地域への囲い込み・集中)のゆるやかな解体だ」と。 バブルの崩壊の時がたぶん一番山谷の中に野宿者が増えた時だったんですよ。それまでドヤで寝泊りして、ドヤっていうのは簡易旅館、安宿ですね。今だとベッ ドハウスで1,000円くらい。個室だと2,200円とか。ビジネスホテルだともっと高くなっちゃうんですけども。そういう所に泊まって日雇いの仕事に 行っていた仲間が、バブルの崩壊の時に大量に山谷の街の中に吐き出されるということがありました。これが一つのきっかけだったんです。山谷の労働者がどう なったか。一言で言えないんだけど、あえて言うなら野宿者になったと。野宿労働者として、野宿しながら公共地を占拠して、そこで暮らす一つの集団が生み出 されたんだと。それは、この文章の一番下の段落に書いてありますが、「解体されつつある寄せ場の労働者たちを母体として、一つの社会集団」、「社会集団」 と言っていいと思うんですね。それが形成され生み出されたと。「仕事を奪われたうえ、全ての施策から排除され、寄せ場から追い出された人々が、自前で公共 地に小屋を建て、勝手に住みはじめた」。これは物凄く大きな出来事だったと思います。本当に、全ての施策の対象外だったんですね。
僕がこういう運動に関わったのは1996年からで、18年くらいになります。その頃、野宿者、日雇い労働者が生活保護を取るのは、窓口から本当に排除さ れてたんですよ。生活保護の申請自体をさせない。がんばって申請すると職員十何人に囲まれて暴力で追い出される。そういうことが普通におこなわれていた時 期だったんです。だけど、ドヤから叩き出された野宿の仲間が役所に要求したかっていうと、そんなことしないんですよ、野宿者、日雇い労働者は。このこと は、権利要求とか施策要求という手段、戦術の限界みたいなものを暴露してるように思いました。ようするに自分の主権を誰かに預けてやってもらう、そういう ことの限界かなあと。この「山谷」の映画の頃、運動の中では権利要求ということについて、わりと原則的な批判が普通になされていた、そういう雰囲気があっ たと聞いています。でも今、社会運動で権利要求をやっちゃだめとか言ってるところはほとんどないです。だけど権利要求ってことを考えた時に、その負の側面 も考えていく必要があるなと思うんですよ。で、権利要求じゃなくて自分で勝手にやるんですよ、野宿の仲間、日雇い労働者っていうのは。そこは、一つの社会 集団が歴史的な過程で形成されたっていう感じが凄くします。で、日雇いの仲間が野宿労働者になっていったんですが、地域的に、山谷の街には公園、玉姫公 園っていう公園はあるんですけども、野宿ができる場所がそれほどないんですね。街の中ですからね。それで寄せ場が、仕事がなくなって、一つの政策というか 資本の意向によって解体される中、寄せ場の周辺の地域に仲間たちは広がって、その空間を占拠して住み始めるという形になります。

日雇い労働者運動から野宿者運動へ
皆さん、日雇いの周辺の階層って何だと思います、職業的に考えて。(会場からの声)「派遣」。うーん、確かに派遣、それもあるんですが、歴史的には収集 人なんじゃないかと思っていて。収集人ってわかります? バタ屋。例えば、敗戦直後、経済がつぶれて失業者があふれ、その時に日雇いの仕事ができない条件 の人が何をやったかというと、物拾いなんですよね。都市の周辺にバタ屋部落みたいなのが戦後すぐに形成されました。そして、バブルの崩壊の後にまったくそ れを繰り返すような形で寄せ場の周辺に野宿者の集住地帯が形成され、そして彼らがその物拾いを生業としながら日銭を稼ぐ。収集人って言うと硬いですけれど も、何かっていうとアルミ缶拾い、古紙集めなんですね。日雇いの仕事ができなくなった、高齢だったり体を壊したりの、そういう仲間が収集人として働き始め たっていう意味です。寄せ場の周辺にドーナツ状に占拠がおこなわれるようになって、日雇いの現場の仕事と収集人の仕事。仲間たちがそういう仕事をしつつ暮 らし始めた。
山谷の街で今、住んでる人は誰が一番多いかって言ったら生活保護の人です。それは間違いないと思います。だけど歴史的に見たら、そうじゃないんだよね。 仲間たちがそこで暮らし、仕事に行った山谷の地理的な、職業的な記憶っていうのが凄く深く刻まれてるなっていう。で、大事にしたいっていうか、何が重要 かっていうと寄せ場の日雇い労働者という集団、階級が高度経済成長の中のユニークな条件の中で作られて、生み出されたことだと思うんです。だから山谷の地 理に凄いこだわりはあるんです。この高度経済成長の中で形成された寄せ場の日雇い労働者は特殊な集団だと思います。今の日本ではもうありえないような非常 にユニークな集団です。彼らは今、山谷にいなくなったように見えるけれども、その周辺の地域で社会的な階層として、ドーナツ化したような形で仕事をしなが ら生きているということです。だから言葉どおりの意味では、山谷労働者の、日雇い労働者の運動を僕らはやってないんですよ。日雇い労働者の運動から野宿者 運動っていうのに運動がシフトしていって。それが90年くらいだと思う。90年代に新宿西口の闘いがありました。あそこを大きな契機にして、日雇い労働者 運動から野宿者運動へという形でシフトしていった。そういう経緯があるから、「野宿者」が持っている山谷、寄せ場の系譜、その記憶を引き継いでいる人たち が持っている特異性であるとか、そういったものに凄くこだわってやっています。
例えば、反権力性みたいなものをわりとみんなが普通に持ってるんです。役所に対する絶対的な敵対性みたいなものって絶対インテリにはない、サラリーマン にはないものだと思います。それは、(高等)教育で教え込まれたんじゃないんですよ。底辺の仕事の経験の中で何年もかけて培われてきた反権力性、もしかし たら他の社会集団でもこういうのが生み出されているところがあるのかもしれないけれども、僕は初めてです、こんな人たちと出会ったのは。あと仲間意識が物 凄く強くて。最も多く奪われた者であるっていう、そういうところからくる仲間意識っていうんでしょうか。普通、今、仕事の現場に入ったら上の方を見がち じゃないですか。少しでも条件がいいところに行ければいいかな、みたいなのがあるだろうし。野宿の仲間には、凄い断絶があるんですよ。いっしょに働く日雇 いの仲間と、そうじゃないボスとの間のね。そこは、絶対に越えない溝としてあるなあっていう感じがします。

日雇い労働者が尊重されていた時代
それでは、もう一つの文章を見ていただけますか。「90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き」、これを見てください。今、言ったことの具体的な話 が書いてあります。この方は、女の人で、90年代に20代、30代で実際に日雇い労働者として山谷、高田馬場から仕事に行ってた人なんですよ。その現場の 雰囲気が第二段落に書いてあります。休みの時間がきっちりと12時から1時って決まっていて。それで、11時45分くらいになると、自分だけじゃなくて他 の業種とかいろんな系列の人が作業現場にいますよね。そのような人にも「そんな働くな」「飯行くんだよ、飯」というふうに言って、休憩時間は絶対に取るん だということが普通だったと。「重層的下請け構造」って「山谷」の映画の中でもありましたね。発注する会社があってそれを元請けの会社が受けて、そして業 種別に仕事をドンドン下におろしていくんです。それで、監督は現場では「一番偉い人」です。その人がまあ「一番いじめられる立場だった」って書いてある。 そういう感じだった。敵、味方っていうのが凄くはっきりしていて。ボウシンっていうのは労働者の中でも、労働者を束ねてスムーズに労使関係がつくれるよう に動く立場の人間なんですけども、そういった人間や親方の立場には絶対つかないということですね。こっち側とあっち側というのが凄くはっきりしてる、そう いうのが山谷全体に行き渡っていたっていう、そういう経験が書いてあります。
それで、この人は日雇いの仕事がなくなって、まあ日雇いは日雇いなんですけれども、寄せ場からじゃなくて、登録派遣から(半分グレーだと思うんですけれ ども)仕事に行き始めた。そうすると雰囲気が違っていて、仲間のつながりだとか、そういったものがもう完全になくなっていて。上の方ばかり向いてるという 印象を持ちましたっていう話です。今、飯場で働いてる人の話を聞くと、昔と全然違うっていう印象があります。けっこう殺伐とした感じ。今と昔の一番大きな 違いは、日雇い労働者が労働力として尊重されてたかどうかっていうことかなと思います。
日雇い労働者という集団が形を変えて野宿者へ。それに呼応して、運動も日雇い労働者運動から野宿者運動へ。そして今、収集人の活動、アルミ缶拾いをやっ てる仲間とアルミ缶古紙組合を作っているんです。この一年くらい前から持ち去り禁止条令とかいって、アルミ缶古紙の持ち去りを条令で禁止する動きが凄く激 しくなっていて。それが野宿者の追い出しや、襲撃事件にまでつながっています。そういった情勢に対し仲間と一緒に組合を作っていろいろやっています。それ が、「運動は今どうなってんの」という問いに対する答えかな。もちろん、いろんな人がいろんな視点で山谷をみてるわけです。人的な構成だけみれば、もうほ とんど生活保護者だからというんで、そのボランティア団体になったところもあります。それを事業としているところもあります。まあ、いろんな人がいろんな ことをやればいいと思います。ただ、個人個人が何かにかかわろうとする時、山谷の何をみて、誰と一緒に動いていくのかが、山谷に関わる時に凄く大事になっ てくるんじゃないかと思います。
【映像】城北労働福祉センター抗議行動
これが城北労働福祉センターっていう所に抗する取り組み、押し掛けなんですけど。二週間前の月曜日です。職員は基本はだんまりなんですよね。何も答えな い。たまに業務の支障になるんで出て行って下さいみたいなことを放送するだけ。公益財団法人ですね。奥にぼんやりと映っているのがSっていう管理係長でビ デオをずうっと撮ってますね。
(DVD音声)あのね、大勢で押し掛けてって言うけれども、別にこちらは話し合いの形については当然応じる準備がありますよ。今ね、大勢で来てるのは大勢 の人がこの問題について関心があるからなんだよ。ただそれだけだよ。で、多くの人がこのセンターに直接間接に関わってるわけだ。だから来てるってだけです よ。別に大勢でどうしようって話じゃないでしょう。ただ多くの人が、このワンカップの話なんてさあ、聞いたら、ええって思うじゃない。そんなことあるんで すか。ねえ、断られてる仲間は自分がどういう理由でカードを断られてるかっていう、それすらさあ、正式な説明は受けてないわけだよ。なあ。そういう仲間が 来ててさあ、そういう仲間に対して思いを寄せて一緒に来てくれてる人が大勢いるっていう。それだけだよ。別に何もおかしいことはないよ、なあ。こっちは話 し合いをして欲しいと。説明をして欲しいっていうそれだけじゃないですか。それ以外に特にないよ。だからさあ、大勢で来たから業務の支障になるっていう、 そういう言い方についてはちょっと違うんじゃないかと。そのことはここで言っておきますよ、ね。
センターっていうのは仕事の紹介をする窓口として作られたんですよ。そして日雇い職安が東京都内でも数ヶ所あったんです。この近くだと高田馬場の近くに ありましたけど、そういう所がつぶされていくんです。それが数年前のこと。ようするに日雇い労働者は減ってないんだけど、寄せ場経由ではない形で仕事に行 く人が増えていく中で、その寄せ場の痕跡みたいなものを、向こうは消していこうとしているわけですね。日雇い職安が一気に3、4個はつぶされたんだよね。 馬場とか高橋とか。城北労働福祉センターは、1960年代くらいからずっとあって、ここに登録すると仕事にも行けるし、パンももらえるし、施設に泊りに いったりもできるんですよ。そういう形で需要は凄くあるんだけれども、センター自身は、業務の縮小をして撤退をしたいっていうのがかなり透けて見えてい て。それで仲間の登録を断ってるんだよね。で、一緒に行った仲間が1月の15日くらいから5、6回登録を求めて行ってたんだけど、ずうっとカードを断られ ていた。その理由を向こうは言わない。で、こちらが東京都庁に「おかしいんじゃないの」って言いに行ったら、その日から三日連続で寝てる所にワンカップを 持って来て、「もうカードはあきらめた方がいいんだ。生活保護取りなさい」って言ってきたんです。それで、きたない買収をするなあと思って、張り込んでた んですけど、凄く寒い日だったんですけれど4日目かな、来るのを待ってたんですよ。そうしたら本当に来たんですよ。ゴソゴソとやって来た。「Mさん、何を 持って来たの」って言ったら、「何も持って来てません」って。でも、問い詰めていくと白状するんだけど。いきなりダッシュして逃げるんですよ。普通ありえ ないじゃないですか。東京都の職員なんですよ、彼は。山谷っていうのは、ようするに特殊な所だから普通の制度とか権利の保障は考えなくていいっていう、そ ういう感じなんだよね。行政としても。
参加者A センターってどこの団体なんですか。
向井 元は東京都の団体だったんだけど、外郭団体になって。今は公益財団法人。ようするに解消する定石ですね。それで、その相談室は1対 1なんです。今時は普通、応援の人が入れるんだけど。センターは相談室に応援の人は入れないんです。応援の人が入ると、そんなんじゃだめだと言って向こう が相談室から出ていっちゃう。そうすると、相談に来た人と応援の人がそこにとり残されて30分待っても来ない。そういうところです、山谷っていうのは。と いうか、階級ってそういうことだと思います。施設や法律は、一応、万人に平等であるってなってます。だけど、実際はそうじゃない。そういうのってなんとな く見えにくくされてるけど、こういうところへ来るとわかりますよね。それで納得してちゃだめなんだけど。
参加者A そういう現実に対して、担当役所や労働基準監督署、福祉事務所はどのように判断してるんですか。
向井 ここは法外施設と呼ばれるところで。法律的には、東京都の裁量の中で運営されてる施設なんです。職安は別ですね。職安は職安の法に しばられます。生活保護だったら生活保護法にしばられます。だけど、ここは裁量だから極論すればやらなくていいわけですよ。まあ調べれば公務員の何々と か、行政手続き法とかはあるんだろうけども、直接このセンターをしばるような法律っていうのはないんですよ。だから職安とは完全に独立してます。で、そっ ちはそっち、向こうは向こうでやってくれっていうような感じ。それで、センターがつくられた理由の一つは暴動対策なんですよ、山谷の。労働者が暴動でいろ いろ燃やしたりすると、じゃあちょっとパンくらい出すか、みたいなそんな感じで。むき出しの力関係の中でつくられてきたっていうものだと思います。
参加者A それはいつごろですか。昭和40年代くらい?
向井 ちょうどその頃です。その前身の施設は昭和35年くらいからあると思うんですけれど。仕事の紹介と生活相談っていう二つの部分があって。それが東京都によって運営されてたんだけど、10年くらい前に外廓団体に改組されて、今に到るという感じ……。
参加者B 革新系が都知事に当選すれば良かった?
向井 ところが、一概にそうとも言えなくて。例えば、美濃部都政の頃。その政策の中では、寄せ場はあってはならないものとされたみたい で。解消しなきゃいけないという位置づけ。「寄せ場なんかに家族持ちが住んでちゃいけない」ということで、政策として寄せ場外の都営住宅に家族が集団的に 移されたみたいなことがあったんです。何て言うんですかねえ、括弧付きの良識とか括弧付きの市民とか、そういったものとは違うところで生きてる人がいるわ けでしょう。
参加者C この映画の時代は80年代半ばくらいですけどね。その当時もドヤに常住していても、住民票を持っている人ってほとんどいなかったわけですよね。
向井 たぶん、その頃はドヤの方で住民票を置くのを断った所が多いんじゃないのかな。めんどくさいとかで。郵便物なんか来るからね。
参加者C 玉姫職安に登録する場合には、米穀通帳を。
向井 ああ、なるほど。白手帳って言いますが、日雇い職安に登録すると日雇いの失業給付がもらえる、日雇い労働者の雇用保険手帳がありま す。80年代は米穀通帳はいらなかったです。その頃は、作ろうと思えば誰でも作れたんで。それが80年代後半、88年か。住民票が義務付けられて。問題は 住民票を置けない人がほとんどだっていうことですよ。日雇い労働者の制度的な排除ですね。日雇い雇用保険手帳を必要としている人が大勢いるにもかかわら ず、そういうような運用がなされたっていう流れ。
参加者C あの反抗はだいたい60年代ですねえ。それ以前には城北労働福祉センターはなかったですから。まもなくできて。その時に、児 童、子供の問題の権威者っていう触れ込みで、所長さんが入って来ましたねえ。職安はいわゆる職業紹介で、城北労働福祉センターは仕事の紹介ではなくて、福 祉関係の相談と、それから子供を……まあ所長さんが子供について権威があるっていうことで来ましたですから。子供さんを集めて面倒みてあげるってことで旗 揚げしたような感じだったですからねえ。
向井 そうですか、ありがとうございます。センターが概要みたいなのを作っていて、そういう歴史が詳しく書いてあるんですよ。今度、読書 会をしようかなと思ってるんですけど。けっこう僕らも知らないことが書かれているんですよね。「寄せ場の労働者は職安とかのああいうお役所にはいまいち向 かない人が多いから、お役所じゃない形での職業紹介の機会をつくった方がいいんじゃないかということで、センターの紹介部分ができた」っていう記述があっ たと思います。

排除に向かう都市再開発――竪川での野宿者の闘い
参加者D 山谷の特殊性なんじゃないですか。あの辺は江戸時代からそういった所だから。
向井 寄せ場とか抑圧された人たちが生活する場所って、常に都市の周辺部分なんですね。都市からあまり離れた所ではなくって、その外縁部 なんです。そして都市が膨張していく中で、それが街中に取り残されて、何度も強制移転されて。山谷の地域で言えば、寄せ場ができたのは戦後なんですよ。た だ江戸時代には、小塚原刑場っていって処刑場があって。それで吉原という性労働の町がすぐ近くにあります。吉原も、江戸時代に街の真ん中から今の場所に移 転させられてるんですね。あと被差別部落も近くにあって。そんな感じの場所なんです。だから、単なる貧困っていうのではなくて、権力による都市政策ですよ ね。あと社会経済的な矛盾が集中する地勢学的なポイントっていうのが必ずあると思うんでよ。今も凄くその痕跡が残ってるから、こだわっていきたいなあと。
それから、今、僕らが直面しているのが何かっていうと都市の再開発なんですよ。今、凄い勢いでマンションが23区内に建ってます。多摩ニュータウンと か、そういう所で暮らしている人が家を売って都心の超高層マンションに都心回帰っていう形で戻っているらしいんです。山谷なんかは今まで見向きもされな かった場所なんですけれども、今、マンションがどんどん建ってるわけですよ。そういう中で、かつてはそういうマンションを建てる労働で暮らしていて、現在 は野宿をして頑張っている人たちが追い出しに直面しているっていうことです。それでオリンピック、もうあんなの来たらとんでもないことになるんで、僕たち は反対しているんです。景気のいい話もあるんだろうけど、儲かるのは誰かって考えた時、もちろん野宿者じゃない。むしろ追い出されちゃう。そういう危機感 が物凄くあります。で、今からお見せするのは江東区の竪川っていう、山谷からちょっと離れた所でおこなわれた強制排除の時の映像です。この強制排除に対し て、みんなで闘ってかなりやりかえすところまでいった。
(映像)竪川反排除行動
これは決戦の日なんです。やつらが暴力的に行政代執行をおこなうその日に、みんなで結集して野宿の仲間を守ると。場所は亀戸から歩いて10分くらいの高 速道路の下にある、本当に見向きもされなかったような場所です。100人以上の人が住んでいたんですが、改修工事っていうことで民間の企業がはいってきた んですよ。(映像を指して)これがお役所の職員ですよ。行政代執行っていうのは、区役所の職員が野宿の小屋を自分でこわす、そういうものなんですよね。こ うやって人壁を作って。この一年前に一回目の行政代執行があったんですけど、その時はガードマン会社が自分の会社のワッペンを剥がして。それも一斉に剥が して、それで殴る蹴るの暴行を加えてきた。おそろしいことですね。
参加者A この時はワッペン付いてますね。
向井 一回目の行政代執行前後の、ワッペンを剥がしての暴力シーンは、ユーチューブに上がっているので、相当まずいことになったんじゃな いかと想像しているんですが、実はそうでもないかもしれない。この映像は二回目の代執行ですが、警察が待ち構えていて、ちょっと小競り合いのようになると 役人が呼ぶんですね。そうすると、部隊がダダダダダーっと来て。ただ、これは一日の出来事なんだけど、結局、奴らは排除できなかった。行政代執行ってだい たい負けるじゃないですか。これまでいろんなところ(大阪とか名古屋とか)でやられてて、小屋は全部つぶされてるんです。で、竪川はこれが二回目なんです けど、小屋はつぶせなかったんです。鋼板の工事だけ向こうがやって。高い鉄の板で、閉じ込める感じの工事はしたんだけど、小屋には手を掛けられなかったん です。
参加者E 白い壁です。
向井 (映像の中で)重機でガンガン打ってたじゃないですか。あれはアスファルトに支柱となる短管を打ち込んで、横に短管を組んで鋼板を引っ掛けて、全部溶接して固定するんです。
参加者F そんなしょうもない工事をやるのに、都や区の予算が使われてるわけなんですか。
向井 公園改修の工事の予算だけで億単位。10億はいってないと思うんだけど数億円くらいかかってるんじゃないですか。それにプラスして排除のための工事。
参加者F 両国の河川敷とか土手にもちょっと小規模なのがありましたよね。
向井 いろんな所にあるんです。バブルの崩壊から10年くらいは、行政は野宿に対してほぼ放置状態だったんですよ。対策なし。それが 2000年代の半ばから、対策とセットで排除をするっていう方針を向こうが出してきて。新しい小屋は絶対に作らせないっていうのが、向こう側の方針になっ ちゃったんですよ。そうすると、新しい小屋を作るのが難しくなって。がんばって作った所もあるんですよ。半年くらい野宿の仲間と一緒に寝泊りして。で、タ イミングを見計らって一斉にバーっと建てたりね。

アメとムチの行政の施策に抗して
参加者G 行政はどこかの施設に入ってくれって言ってるんですか。それとも単に追い出すのか。
向井 施設に入れって言うし、今だと生活保護。普通は、野宿の人は窓口からバンバン排除されて「野宿だったらだめだ」みたいなことを平気 で言うんだけど、こういう工事がおこなわれる時にはアメとムチのアメとして生活保護を取れと。それで、生活保護や対策を準備しているんだから、入らないの はそいつが悪いんだから排除してもかまわないじゃないかっていう形にもっていきますね。
参加者G そこにいる人たちは生活保護を受けるのが嫌だと言ってるんですか。それは、施しを受けるのが嫌だという気持ちだからですか。
向井 歴史的に考えるべきだと思います。15年、20年行政が無策をずうっと続けてきて。窓口に行っても追い返されるのが続いていたわけ です。そういう中で、追い出しが来て、じゃあ今までのは何だったのか。そういう怒りがみんなにあるというのが一つ。それから、日雇いとか下層の労働者とし て働いてきた歴史。どこかに所属して、それとバーターで恩恵を受けるって経験がみんなないと思います。中産階級以上のサラリーマンだと、会社に入って毎日 朝起きて仕事に行ったら、それなりの生活は保証されるっていうようなバーターが必ずありますよね。だけど日雇い労働というのは、向うが切ろうと思えば切れ るわけだし。たとえこっちが会社に擦り寄ったとしても、一銭も、ちり紙さえもくれないから。だから、下層の仲間が一番大事だと思うのは、そういう中で生活 を自前で作ることなんじゃないかと。下層の仲間とそうじゃない人とでは生活を自前で作ることへの切実さが全然違うんじゃないかと思うんですね。それで、生 活保護を受けるっていうのは自分の生活手段を手放す面があるわけですよ。今、仲間たちが、例えば収集人としてアルミ缶集めをやっていれば、それには置場だ とか小屋とかが必要なわけですけれども、それを手放すしかないわけですね。そうなると、さっきの話にもありましたけど、法律は平等じゃない。それと同じよ うに、生活保護は平等だって言うけど、実際は平等じゃないんじゃないか。いろんな理由があるんだけど、野宿の仲間、下層の仲間は生活保護を切られがち。向 いてない人も多いんですけどね。制度が誰の方を向いているのか、誰をイメージして運用されているのか、という問題は絶対ある。どこかに所属したり、合意し たりすることで見返りが受けられない階層、そういう記憶・経験っていうものがあるんじゃないかと。
そういう面をもう少し考えた方がいいんじゃないかと思ってます。例えば貧富の差、二極化って言われてます。そういった中で、下の方に入れられた人たちの 闘いで、果たして上の方に入れてもらうことを求めることが闘いの筋道として唯一のものなのかって、僕はいつも考えるんです。そうじゃない闘いもあるんじゃ ないのか。僕自身はプチブルって言うんですかね、大学を出てますし。そういう所では絶対に出会えない、そういう感じの人たちがいる現場だなっていう感じが してて。生活保護も微妙なところで。普通の人は「生活保護を出せばいいじゃん」みたいな感じですよね。「実は役所は生活保護を言ってきてるんですよ」って 言うと「えっ、何で生活保護を受けないの」「そりゃあ、公園にいるのが悪いんじゃないの」となりがち。社会運動やってる人でもなりがちです。でもそこで、 歴史性とか、社会での下層が置かれている状況だとか、生活保護のいろんな側面を考えて判断するべきなんじゃないかと思うんです。まあそうは言っても、僕が 本格的に活動家デビューしたのは生活保護の集団申請でしたけど。何十人かで役所に押し掛けて、それまで野宿者には一切生活保護を出さないっていうのを一晩 でひっくり返したっていう経験です。それは凄かったですよ。半年以上かけて準備したんですけど――。
えーと、そろそろ時間ですという司会からの合図がありましたので、最後にちょっといい映像を流して終わりにしたいと思います。
これは、アルミ缶の話なんです。TBSが差別的な報道を番組でやったんですよ。それで抗議をやってたら、話し合いに応じるっていうわけです。「まあアリ バイ的なものだろうから行ってもね」という意見もあったんだけど。でも、話し合いに応じるってことだから、アルミ缶をみんなで持って行って、TBSの前に 積み上げて話し合いを応援するのはどうかっていう話になり、それで行って来た。アルミ缶集めの仕事をしている仲間が半分以上いますしね。
(映像)対TBS行動
向井 向こうにいるのがガードマンで、手前のがオマワリですね。まあ、こういう感じなんです。缶集めてる人が自分の言葉で抗議をするというのが絶対に必要なことだと思うんですよ。
参加者E あとアルミ缶古紙のビラがあるので、もしよろしければ。彼らがどういう仕事をしているかがわかるので。
向井 実はオリンピックで野宿者だけじゃなくて、都営住宅の人が追い出しに直面していて。その人のライフヒストリーを聞き書きにしたパンフがあるんです。一部100円です。もし関心のある方がいましたら購入してください。今日はどうもありがとうございました。
(2014/4/12 planB)

〈参考資料〉

共同炊事がはじまったころ
共同炊事っていうものが山谷ではじまったのは、1994年です。そのころ、仕事も行けないし、生活保護もとれないしで。そのころは炊き出しもそんなに今 みたいにはなかったし、そのころ使えたのがセンター(いまの城北労働福祉センター)で、センターが宿泊と給食っていうのをやってたんですね。
宿泊が月に6日とか10日とかぶつ切りでとれたり、給食っていうのは、二日に一回パン一斤くれるってやつで、それでなんとか命をつなぐしかないような状 態だったんですけど、そのセンターの宿泊とか給食を求める列がすっごい伸びて、センターから明治通りまで。ものすごい状態になってて、それだけの人が行列 をさせられて、ただ黙って並んで待ってて、何かをもらう状態にさせられてるっていうのは、これはだめだと。で、その人たちが、いま一番矛盾を押し付けられ てて、その人たちが主体になってそれに対して怒りを表明したり、動くということが絶対に必要で、もし炊き出しなんかやったらその人たちに失礼だと。何かを あたえて、「どうもありがとう」とか言わせたら失礼だ、ということになって。
たしかに炊き出しは必要な状況だったんですね。みんなどんどん路上で倒れていく、凍死したり餓死したりっていうことだったんで、「炊き出しを始めよ う」ってことだったんですが、それを、活動家が作って配るとかいうやり方は絶対駄目で、みんな、炊き出しを食わざるを得ない状況の人が、自分たちで作って 自分たちで食うようなアレを作るっていうことで始まりました。
そのためには、行列すれば鍋一個あればいいんだけど、そのためにわざわざコンパネを何十枚も買ってきて、コンパネで作った台をセンター前の端から端まで 並べて、そこで、野菜を切ったり。最初、米じゃなくて、米だと一人で炊けちゃうから、もっと人手が必要なスイトンにして、小麦粉をぶちまけて、テーブルの 上に。そこに水をぶちまけて、それを何十人が囲んでこねて、手は白くなりスイトンは黒くなり……
そんで、その時センター前でアオカン者だけでだいたい700人の人がその状況で飯を作って、その飯を食ったと。食うときも、誰かが行列に渡すってやり方 じゃなくて、どうするかっていうと、テーブルに並べるってくらいしかやり方ないんですよね。それを、そのままセンター前に。
さっき「泊まるのは正月だけか」っていう質問があったんですけど、その時は正月じゃなくて、センター営業中に泊まったんですよ。そのセンター前に。毎日泊まって、飯はセンター前で全体で作って、昼間はセンターに押しかけるっていう。

90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き
90年代だし、自分の狭い経験だと思うんですが、山谷に来た当時は、すごく解放される感じを味わったっていうか。例えば、現場仕事に行ってですね……山 谷はけっこう厳しくて、女はあんまり使わなかったんですけど、高田馬場はまだ女を入れて、馬場からが多いんですが、山谷じゃないね、そうすっと。
現場っていうのが、8時から5時までなんですけど、10時から10時半と、3時から3時半は30分の休憩で、昼休みは12時から1時って、どこの現場 行ってもそうなんですけど。だいたいたとえば、11時45分くらいになると、他業種であっても、「飯だぞ」って言って、「道具置いて飯行け」って言って。 他業種っていうのは、自分の職種の親方とか一緒に働く人とかいるんですけど、それとは違う人。「そんな働くな、飯行こう」とか、そんな感じで声掛け合うの が、すごくどこいっても普通だったし。
監督っていうのが元請けから来ていろいろやるんだけど、その監督が必ず一番いじめられる立場だったし、あと、ボウシンとか親方とかと、ヒラの労働者とい るんですけど、必ず敵か味方かっていうのがみんなはっきりしてて、一緒に働く人は、絶対ボウシンとか親方側にはつかなくて、一日いくらで雇われてる人、み んな同じなんですけど、その側だっていうのがはっきりしてて、絶対その、こっち側だっていうのがはっきりしているんだな、っていうのを感じました。
すごい狭い経験ですが、そういうのが、山谷の街全体に行き渡ってる感じがして。強いやつとか、金持ってるやつにつくんじゃなくて、一日いくらで働いても うそれで終わりっていう立場の人、自分もその立場だってみんな自覚していて、だから、その同じ境遇、同じ立場の人を大事にするっていうか。
別に特に大事にするってわけじゃないけど、仲間だと思ってるみたいな感じをすごい感じて、自分としては今まで自分がいた社会と全然違うなと思って。
最初は寄せ場から仕事に行けてて、だんだん仕事が減ってきて寄せ場から行けなくなって、次に、新聞広告からも建築現場に行けたので行ってて、それも行け なくなって、そのころ、登録派遣みたいなのが出だして、それは形式的には日雇いと同じだから同じようなもんだろうなと思ってたんですが、違いは一回面接が あるかないかで、あとは毎日日払いで金くれるから一緒かなと思って、ちょうどいいやと思って行ったら、ほんとに、全然違って。すごくみんな上ばっかり見 るっていうか、現場だったら監督のことばっかり意識して、労働者の間でも、強い人間に対してすごい気にしてって感じで、新しい人は肩身が狭いっていうか。 そういう露骨なのがすごくあって。でも、普通はそうなんだよなあと思って。
ほんとに同じなのに。一日いくらで、明日はどうなるか分からないってのは同じなのに、えらい違いだなと思いました。

船本洲治(山谷の活動家、沖縄で焼身自殺)の「強いられた条件を武器に転化する」という言葉
争議団以後の山谷の野宿者運動では、キーワードの一つ。例えば隅田川沿いの桜橋という場所で、一旦は完全に追い出しがなされた場所を取り戻す際、その場 所で身一つで寝ることを戦術とした。排除の実行主体であるガードマンにとって、口答での抗議や何よりも、その場所で寝ている人の数が増えていくことが脅威 となった。強いられた条件というのは、野宿せざるを得ないということで、それは直接の抵抗の形となり得る。
また、2007年の生活保護(居宅保護)要求の運動では、野宿者に生活保護、しかも施設収容ではなく居宅保護を出させることを目的として取り組まれた。 それまでは、野宿者はほぼ100%施設収容だった。野宿者に対しては、窓口での生活保護申請書の提出もさせない、というのが役所の姿勢だった。それを打ち 破るために取られたのが、役所のすぐ目の前の河川敷で、約100人で一晩野宿し、その翌々日に集団で生活保護を申請するという戦術だった。「もしも居宅保 護を出さないのであれば、居宅保護を認めるまで役所前で野宿し続ける」と通告した上で、申請を行った。結果、それまで一切認められていなかった居宅保護 が、全員に出された。「法律が一日で変わった」という仲間の言葉。派遣村の一年前のこと。

2014年4月12日

plan-B 定期上映会

行政の排除に抗して――竪川や荒川での野宿者のたたかい
講演 / 向井宏一郎
(山谷労働者福祉会館活動委員会)

「山谷―やられたらやりかえせ」という映画の中で描かれているのは、約30年前の山谷のたたかいです。使い捨て可能な労働力として、大量の日雇い労働者 がプールされ閉じ込めらた被差別空間としての寄せ場。そこには、最も厳しい条件の下、差別と抑圧にさらされた人々の、ギリギリのところでの連帯と怒り、エ ネルギーが直に渦巻いていました。
90年代、山谷の風景は大きく変わりました。寄せ場は労働力市場としての機能を大幅に縮小しました。では仕事が激減し、ドヤに泊まれなくなった日雇い労 働者はどうしたかというと、公園や河川敷などに勝手に小屋を作り、駅や路上に寝泊まりして、命をつないだのです。野宿者運動のはじまりです!
寄せ場の周辺の公共地に、寄せ場と地政学的に密接な関係を結びながら、野宿する人々。行政の施策が日雇い労働者・野宿者を露骨に差別し排除する中、行政 に対する施策要求を経由するのではなく、空いてる場所に自前で居住権を勝手に実現してしまうこと(=公共圏の自然発生的な占拠)。そこでの行政との反排除 のたたかい。この理念に先行して突発する行動(だがそれは問題の本質を大事なところで的確にとらえる身体的な感覚に裏打ちされています)や、横のつながり だけを信じ、縦のつながり=権力の支配から徹底して身を引き離そうとする中で実現されている直接性こそ、野宿者運動の中に、日雇い労働者のたたかいが直系 として引き継がれていることの証左ではないでしょうか。
ここ数年、竪川や荒川での文字通り行政の排除との全面的な対決が続きました。それらの取り組みを通して、映画に描かれているたたかいが、どのように現在に引き継がれているのか、伝えたいと思います。

2014年2月8日

plan-B 定期上映会

「ヒミツのはなし」
講演 / 渡邊太
(国際脱落者組合/大阪国際大学教員)

ポスト小泉体制として出発した第一次安倍政権は「美しい国」をスローガンとしたが、民主党から政権を奪取した第二次政権のスローガ ンは「日本を取り戻す」である。「美しい国」にせよ「日本を取り戻す」にせよ、何をもって「美しい」と言うのか、取り戻したいのはどのような「日本」であ るのか、あいまいで何とでも言える。だが、「美しい国」という名詞形から「日本を取り戻す」という動詞形への変化は見逃せない。「取り戻す」の主語は何な のか。主体は誰なのか。
この間、特定秘密保護法案が迅速に可決された。9月に法案が公表されて2週間のうちに約9万件のパブリックコメント(8割近くが反対意見)を集めたにも かかわらず、10月に衆院可決、12月に参院可決。このスピード感。もはや「日本を取り戻す」ために大衆的合意は必要としないかのようである。自民党幹事 長は法案に反対するデモを「テロと本質的に変わらない」と述べた。
「特定秘密」のターゲットは防衛、外交、テロ等とされるが、原子力エネルギー、沖縄の米軍基地、TPP交渉、等々「ヒミツ」にしたいことには事欠かない。その先には、「公の秩序」を基本的人権に優先させる自民党憲法改正草案も待ち構えている。
2020年「東京オリンピック」開催が決まり、大阪では「道頓堀プール」の実現が目指されている。都市再開発と零細窮民の排除といういつもの光景がくり 返されるのは明らかだ。「儲からなければ文化ではない」(堺屋太一)だと? 文化をなめるな。うんざりしつつも、ヒミツに包囲された生活空間を社会復帰さ せるために何を共謀すべきか、考えたい。

2013-14山谷越年・越冬闘争

2013-14山谷越年・越冬闘争

黙って野垂れ死ぬな!   越年・越冬をともに!

中村光男(山谷争議団)

寄せ場がつぶされ、そして非正規労働者2000万人の時代に

今晩は。中村です。いま寄せ場で、山谷で活動してる人は少ないし、働いてる人もほとんどいない。私達がもう日雇い労働者として働いてきた最後の世代なん じゃないかって思っています。ドヤも百二十数軒ですかね、残ってるのが。大体5,000人前後の方がいるわけですけれど、9割以上が生活保護受給者です。 その周辺に路上にいる方がいますし、安い木造の二階建てのアパートとか、そういうのが地域に広がっているわけです。で、この映画でも示されていますけど も、被差別部落や三河島という在日の集住地区、あるいは吉原という地域があります。まだ1980年代までは沖縄の人達や、あるいはアイヌの人達や、社会的 に排除されたり差別されたり、そういう人達がこの寄せ場に仕事を求めに来ていました。それが、まあ80年代までだったかなと。
90年代に入るとバブル崩壊という、まあ失われた20年とか30年とかってよくマスコミで言われますけれど、その時代が始まって、ほぼ日雇い労働市場と しての寄せ場の機能が奪われているわけです。それまでは仕事に就くというと、手配師、仕事を紹介する手配師がいて。これはほとんどバックに暴力団がいたわ けですけども。あるいは業者が直接車で乗り付けて、その日の仕事の現場に行く。それから一か月契約とか15日契約っていう形で飯場、飯場って言うんですけ ども寄宿舎ですね。寄宿舎に入って仕事に就く。四大寄せ場とか三大寄せ場とかって言われてた訳ですけども、釜ヶ崎以外は、まだ釜ヶ崎は若干労働市場として の姿が朝見受けられますけど、ほぼ壊滅的な状態になってもう既に20年以上経つ訳です。
でも日雇い労働っていうのがなくなった訳じゃないですよ。ご存じのように非正規労働という形、あの呼び方で厚生労働省の発表で2000万人、三人に一人 が非正規労働ということになってる訳で、あらゆる形でもう食えない仕事がドンドン再生産、拡大しているのが実態だと思います。普通に考えたら三人に一人が 非正規労働ですから、もう凄い時代に来たっていう気もします。この前、厚労省が発表したブラック企業の調査っていうことで、5,000企業の8割以上がブ ラック企業であると、これ正規職ですよね。正規労働者の5,000企業のうち8割が残業代を出さないとか、いろんな形で労働者がほとんど声を上げられない 状況になっているっていうのは非正規と変わらない。労働そのものがそういう形になってるんだと思ってます。
私は個人的には1980年に初めて山谷に行ったんです。越冬闘争は81-82越冬、まだ山谷争議団に入ってなかったんですけど、その時参加したのが最初 なんです。80年に何で行ったかっていうと、たまたま私が東拘(東京拘置所)に入ってたら山谷の人がいっぱい入ってて。で、出た後暮らす場所がない。要す るに、アパート借りられないし保証人もいないし、どこで生活するんだって。そうしたら山谷っていう所があるって聞かされて、ドヤで泊まるしかないっていう ことで。それでドヤ探しに山谷に行ったのが初めての経験なんです。それから81-82越冬から数えてももう32年。その間この映画で切り取られた80年 代、83年以降ですね。中曽根政権時代か。戦後政治の総決算っていうことで、世の中は低成長時代って当時は言ってたんですけども。それとアメリカとの関係 で。都市再開発を一気にやろうっていうことで、その辺から東京の一極集中っていうか、再開発が始まって。そこの背景には、切り捨てる労働力、安い労働力を 動員して牛耳ろうっていうのが、あったんだろうと思うんですね。で、当時は、今みたいに路上に人がいるのが当たり前のような時代ではなかったんですけど も、それでも環境浄化っていうことで、ともかく路上にいる人間を山谷から叩き出せ、反抗、抵抗する勢力の山谷争議団を潰せみたいな形で、一気にくる。
記憶に残っているのは、84年の横浜の寿町で中学生が路上にいる仲間を4人、襲撃して殺してしまうという事件がありました。当時の衝撃的な時代の写し絵 といいますか、それがいまなお変わらずに続いてる訳です。中学生、高校生の路上にいる仲間への襲撃は今も絶えません。それと路上に暮らすこと自体今は困難 になってる。90年代から2000年にかけて、隅田川にはブルーテントが1,400軒くらいあったんです。今はブルーテントすら建てることが出来ない。そ ういう状況の中で、なんとか生き抜くための取り組みを続けてきたと言えるのかもしれない。
90年代に入って、バブル崩壊してもう仕事が無くなった状況の中で、ドヤから毎日のように200人、300人の労働者が、ドヤ銭を払えないためにバッグ を肩に担いで路上にドンドン出ている。そういう姿を見てきたんです。そういう労働者がどうしたら声を上げていけるのか。労働者自身がどうつながっていける のか。上からこういうことをやれば、こいつらの命を救えんじゃねえかとか、仕事を取れんじゃねえかとかっていうよりは、強いられた状況の中で労働者がどん な声を上げていけるんだろうか。自分達がもう一回声を上げながら横につながっていけるんだろうか。そういうことを、引き下がれないベースみたいなところで 考えていきたいっていうのが一つあるんだと思うんです。

山谷の労働者から突き付けられてきたこと

特に、最近は貧困と格差が拡大したってよく言われて。はっきり言うともう食える仕事がない。別に山谷に限らずに、一般地域社会の中でも食える仕事がない 訳ですよねえ。時給900円の仕事はあるかもしれない。あるいは週に三日程度の掃除の仕事とか、そういうのはあるかもしれない。だけども少なくとも非正規 労働者2000万人というように、安心して働いて暮らしていけるような、そういう仕事がほとんどないと言っていいかもしれません。で、そういう中でNPO とかいっぱい出来てます。私自身もそれに関わってはいるんです。でも端的に言うと、日比谷派遣村以降に出来たものとして第二のセイフティーネット、生活保 護以前の第二のセイフティーネットっていうことで職業訓練をして就労支援をさせようっていう、そういう取り組みは4年経って完全に失敗した、と。これは行 政の職員も明確に言ってる。仕事がないんです。最近の調査で就労支援をやってるNPOの調査をしてみると、就労支援団体の三割が一人も就職させることが出 来なかったっていう状態になっている。この15年で、特に製造業は労働力が600万人くらい減ってますし、現実にもうほとんど海外に出ちゃってますから。 今、企業優先っていうことで、まあ普通に暮らしてる人達からドンドン税金を取って、消費税が典型ですけど、企業優遇する、と。だけど、もうとっくに企業は 海外に出て中小零細はバタバタとつぶれてるんですよね。でもなおかつ中小零細企業の6割くらいは大企業の末端で、部品一つ、一個作るのに1円だったものを 30銭で作れって言われればその通り作らざるをえない。どんなに頑張って働いても中小企業主は利益も出ないし、労働者も派遣で時給800円、900円で雇 わざるをえないというのが現実なんだと思います。
世間から見たら身も蓋もないって言うか、どこに希望があるのかっていったらどこにも見えない。そういう状況の中で何が出来るんだろうかっていうことなん です。もちろん路上にいる人は路上から声を上げている。生活保護を貰ってる仲間はそこから声を上げている。あるいは、一年前から始めた被ばく労働ネット ワークっていうのを今日お手元に配りましたけども、今、原発や除染で働いている労働者もそこから声を上げていけるような条件をどうしたら作れるんだろう か。そういうことを、活気があった時代から今でもそれは変わらぬものとして私らは持っているんだ、と。私もそうでしたけど、山谷に入った時に労働者から常 に言われてたのは「お前達は好きでここ来たが、俺達は好きでここに来たんじゃない」と。「お前達は好きで来たんだろう」と。「違うだろう」ということを常 に突き付けられていた訳です。その中で自分達の役割は何なのか。これだけ特定秘密保護法とか、原発の再稼働とか、消費税、あるいは派遣労働者の改悪など、 社会の暮らしや労働や国家の仕組みまで含めて変わっている時代の中で。自分達がどこにいて、自分は何者でどんな役割を背負って生きているのか、まあ青っぽ く言えばそういうことを常に山谷に入った時から労働者に問いかけられてきたっていうのが、私らの実情だったと思うんです。

被ばく労働者は山谷で共に働いてきた仲間と同じだ

この映画のことを私はほとんど言えないんですけど、まあ映画はその一つの答え、最終解答じゃあないとは思うんですけど一つの答え方であったと思うし。 で、生き長らえてきた私達がどうそれに対して答えていくのかということで、非常に深刻な時期を迎えてるんだと思うんです。人も少ないし、仕事に就くって いってもなかなか出来ない。それでも地に這いつくばってる仲間達の中で、一緒になって団結とか仲間とかという言葉がまだ生きている。小さくてもどう声を上 げて社会に発信出来るかっていうことが、まあせいぜい私らのやれること。逆に言うと、それがない状況が一番恐いなあというような気がします。ここに来た人 達も、それぞれの、自分がどういう仕事をしてどんな社会的な位置に、自分が勝手に社会的位置を作ってる訳じゃなくて、社会の中から作られる訳ですよね。お 前は何者だっていうことで。そういう中で自分の負っていく役割みたいなものを、やっぱり凄く意識しないと生きていけない。
秘密保護法だ、原発の再稼働だ、生活保護の改悪だ、正直言ってやりきれないですよ、一つの身では。もう既に60を越えてますけど、やっぱり働かないと食 えない。私とか荒木さんなんかもずっと山谷の日雇い稼業ですから無年金なんですね。何歳になったって年金なんか出ませんし、体が動けるまでは働かないと 食っていけないんで、まあ仕事に就いてる訳ですけど。その中で、毎日のように反対反対っていう声を上げていかなきゃいけないような時に、それだけではな い、どっかでこう横につながる、抵抗する火っていうか、抵抗する基盤を、もう一回再形成していけるのか、新しく作っていけるのかっていうことを考えない と。いや相当恐い時代に来たなあというふうに思ってます。
私らは本当に力はないし金もないし人もいないんですけども、狭い山谷という空間の中で、今は絶やさずに声を上げている。そういう中で、個人的には被ばく 労働の問題や、反貧困ネットワークにも関わっています。山谷に来て共同炊事をやっている生活保護の仲間や路上の仲間の姿を見ると、私は物すごく誇りに思い ます。被ばく労働ネットとか、反貧困ネットなんかは特にそうなんですけど、当事者が胸張って何かやる姿っていうのに出会えないんです。まだまだ山谷はそう いう地だと思うんです。生活保護を受けていようが路上に生きようが、飯場で労働していようが、胸を張って仲間がいるっていうことが言える。みんなで同じ境 遇を一つのものにまとめて声を上げるエネルギーはまだ残ってると思います。もうとっくに寄せ場は労働市場としてつぶされたんだけども、活気のあった80年 代でもそうでしたけど、これは寄せ場の中で固有のものなんですよ。山谷労働者っていう抽象的な言葉、あるいは野宿者っていう言葉で言い表わせない個々の、 それぞれの人達が具体的につながりながら一緒に声を上げていく。そういうことを、それこそ山谷の壁を越えて、いろんな地域とあるいはいろんな人達とこれか らもつながることを……これは希望なんです、我々から言うと。ドヤ街に囲い込まれて、あるいは路上の中に押し込められた仲間がその壁を突き破って、様々な 方とつながって声を上げる。これが希望なんです。
被ばく労働の問題をやり始めたのも……私達の目の前を見ると、日雇い労働で今日も明日も仕事だという人はほとんどいなくなっちゃった。でも、その仕組 みっていうのは頑強に残ってるんですね。その典型的な姿を被ばく労働者の中に私達は見た訳です。最初に思ったのは同胞だっていう。彼らこそ、かつて山谷で 一緒に働いてきたのと同じ仲間だって思ったんです。ここをやれないと駄目だろう、俺達は駄目になるっていう気持ちだったんですね。残念なことに、一般の大 きな労働組合はほとんどやりませんので、廃炉で40年、50年と言ってますから、私が死んだ後もなんとか残っていくような形で作りたいなあと思ってます。

ネット求人の闇―原発労働一日15分って何だ?

山谷の映画でも観たように、仕事に就く時は必ず私達の体験では手配師がいて、業者のオヤジがいて、という形で顔の見える関係だったんです。飯場にはごう つくばりなオヤジがいるし、そういう顔の見える関係だった。ところが、被ばく労働の問題を取り組んで一番びっくりしたのは、除染も原発労働者も8割がた ネット求人で仕事に就いてます。ハローワークを活用してる人はほとんどいません。フリーっていうネット求人があるらしく、ここが一番有名なんです。そこに は業者の名前と担当者の名前と電話番号、携帯電話が書いてあるだけ。時たま賃金、条件とか書いてあります。そこから、どこの会社に雇用されるかわからなく て行くんです。いわばネット求人っていうのは労働ブローカー、手配師ですね。顔の見えない手配師です。これがネットを通じて行なわれてる。これは本当に私 は衝撃的でした。つかまえどころのない、どうしたらいいんだ。今でもわかんないんです。
例えば一か月程前に出た、そのフリーでの求人募集の内容は、福島原発で一日15分の労働、賃金は16,000円。で、名前が書いてあって携帯電話の番号 が書いてあるが、会社の名前も書いてないし所在地も書いてない。原発の中で15分の労働ってまず何なんだろう、と。今、汚染水の仕事をしている労働者は大 体一日に500マイクロシーベルトくらいの被ばくをします。それでも一日4時間から5時間は実際に体を動かして汚染水の仕事をしている。待機してても被ば くするわけですけれど、低線量でね。それで半年から一年で、被ばくの限度を超える訳です。じゃあ一日15分の仕事って何なんだろう。これがわからない訳で す。もう、例えば労働基準法であるとか、そんな世界じゃないんですね。これは、原発とか除染の仕事だけではありません。典型的な相談でこういうのがありま した。広島の40歳の労働者が、仕事が無い金が無いっていうことで福島に入って働き始めたんですが、もう耐え切れなくなって、東京に来た。それで仕事をま た探し始めるんですけど、結局福島でしか仕事が無い。で、待機する。どこで待機したかっていうと田端にあるシェアハウス。一泊800円。二段ベッドの8人 部屋。そこに待機して一か月派遣の仕事に就く。何の仕事に就いたかっていうと、紀文の工場。紀文ってあの結構有名な会社です。あそこの工場で、夜8時から 朝8時迄の12時間労働で6,800円。そこを一か月耐え切りながら、またネット求人で一万いくらかの除染の仕事に就いていったんですね。
この一年100人以上の方の相談を受けました。建前上、厚生労働省から危険手当が出るって話になってますから、なんとか危険手当を払わせることが、ほぼ 100パーセント出来たんです。まあ成果といえば成果なんですけど。始まった頃は危険手当が一銭も出ていなかった。あるいは一日1万円出てるのに二次下請 けでは一日2,000円、三次下請けは一日100円の危険手当しか出なかった。それを全員に1万円出すことはなんとか出来た。でも、今度は福島の最低賃 金っていうことで。これはもう国の、福島労働局の指導の下でゼネコンが統一して、そういう賃金体系を作ってる。で、逆に言うと原発で働く人のほうが賃金が 安いくらいになってきちゃってる。原発で今一番安い人で8,000円くらいからですから、一日の賃金。低線量被ばくなんで健康への影響が科学的に証明され ていないという現実があります。そういう中で皆さん働いてる訳です。

自己規制・利権、そして支配・排除・差別の構造の中で声を上げる

津波と原発の被害を受けた浜通り、あるいは中通りからもうちょっと奥に行った会津地方、あの地域の人達、80年代の山谷に福島出身の人が相当数いたんで す。この間、山谷のみんなと福島にフィールドワークってことで行ったんです。その報告集もお手元に配りましたけど、一番驚くのは、福島で被災した人達が、 原発や除染で働く人達の状況を何にも知らされてない。除染だと5割くらい地元の方々。原発だともう6割、7割の人が地元の方なんです。にもかかわらず福島 現地で誰も知らない。ほとんど男性です。除染現場は今、女性が結構増えてるんですけど、原発だとほとんど男性です。で、働いてる父ちゃんが母ちゃんにも 言ってない訳です。子供にも伝えてない。そういう状況の中で果たして原発で働きながら声を上げることが出来るんだろうか。家族にも言えない労働って何なん だっていう話なんですね。ほとんど労働者が、ある種自己規制せざるをえない。言ったら会社ごとに全部切られちゃうっていう中で働いてる。私は山谷でずっと 日雇いをやってきましたけども、現場に行けば「あいつら山谷だぞ」と同じ現場で働いてるのに言われる。そういうものが原発や除染っていう労働者の中にも、 福島の地元ですら作られているっていうことなんですよ。がんじがらめに、単に労働ってことじゃなくて、原発が地元で家族と住める条件だったっていうこと で。東電に対する自己規制も含めて地元には作られてるんです。当然、利権の仕組みっていうのは物すごい形で作られてます。
日常の自分達の働く場や、あるいは暮らす場にこそ、実はそんな支配の網の目があるんだと思うんですね。そういうところでも声を上げていくような力、もち ろん原発反対のデモには一生懸命参加しますし、あらゆるところで抵抗の声を上げていくんですけども。僕らにとっては、仕事や山谷のドヤ街、あるいは路上、 そこで暮らす中にこそ、支配、排除、差別の網の目がもう見える形である。そこから、仲間と一緒に小さくとも声を上げていく。そんなことを続けていきたいと 思っています。それをどうにかしてね、まあ僕らも先はそんなに長くないんで、別に山谷じゃなくたっていいんですけども、みんなで声を上げていくことが必要 なんじゃないかなって思います。
特に派遣労働とか若い人達が寄り集う場もない。本当に孤立してる。酒を呑んだり騒いだりっていうこともなかなか出来ない。一緒に汗流すってこともなかな か出来る場がないといつも聞かされています。ぜひそういう場を、今日のこういう場もある種その発信地ですけど、作っていきたい。今回の越冬もそうですけど も、夏祭りはもうちょっと楽しい雰囲気なので、みなさんに来ていただいて。どうやったら声上げられるのか、どういう、どんな声の上げ方が出来るのか、そこ らをぜひ一緒に考えていけたらいいと。こういう所でも山谷でも、あらゆる所で、そういうことをみんなで一緒に問いかけながら、いや本当に凄い時代に来てる んで、みんなで頑張りましょうってことで終わりましょう。

司会 頑張りましょうっていう話でした。デモで声を上げるとテロリストにされちゃう時代なんですけども。この冬もし時間がありましたら山谷の越冬でもう一回、中村さんの顔でも見に行って下さい。今の中村さんの話で何か、ここを聞きたいなあということがありますか。あっ、はい。
参加者A 皆さんの手元に配った山谷の転び公妨(公務執行妨害)のビラがあると思うんですが、ちょっとだけ訴えさせて下さい。山谷の映画 の中で泪橋が出て来ましたけど、あそこで3月の24日に警察官に囲まれて職務質問を受けたんですが、間を擦り抜けて通ろうとしたところ、警察官がその場で 尻餅ついて倒れた。でも普通、そんなふうには人は倒せないですよね。もう明らかに転び公妨の典型なんです。それで、134日も拘留されて40万円も罰金を 取られている。だから今、控訴しています。本人から一言だけ訴えさせて下さい。よろしくお願いします。
参加者B 特にないんですが、1月22日に裁判が行なわれますので、あのう、よろしくお願いいたします。
参加者C その裁判の中で、警察官が言った聞き捨てならないせりふがあります。山谷は低所得者で犯罪者の集まりだ。ここの人間はクズだと いうようなことを再三言いました。検察官も。証言台に立った警部補、伊藤という警部補と中井巡査部長も再三言いました。私はそれを全部聞いておりました。 それで最初はまばらだったんですが、傍聴人がとっても増えまして活気づきました。そうしたら今度は429号法廷、これ警備法廷です。ここに持っていかれま して、もう傍聴人に対して威圧です。裁判の判決も、その判決文の中で安東章裁判長も差別を重ねて言いました。山谷の人に対するこの差別、これはもう聞き捨 てなりません。そして1月22日に裁判があります。みなさんに大きな関心を持っていただきたい。あわせて応援も、どうぞよろしくお願いします。
司会 1月22日、地裁の429号? 何時からですか?
参加者C 高裁で午後3時から。
司会 ああ高裁。控訴してますよね。ということで、午後3時からあります。もし仕事の休める方はぜひ行って下さい。ええ、それから隣に忘 年会の用意をしてあります。時間のある方は、よろしかったらお残りください。そこで、中村さんや山谷争議団の荒木さんも来てますからもうすこし話を聞くこ ともできます。この映画のことでしたら僕らにどうぞ。今日はどうもありがとうございました。

(2013.12.21.PlanB 文責・山谷制作上映委員会)

2013年9月14日

plan-B 定期上映会

「新宿ダンボール村」の日々
講演 / 迫川尚子
(写真家、新宿ベルク副店長)

ほんの15年ほど前、新宿駅西口地下に「ダンボール村」があった。「ホームレス」と呼ばれる者たちが寄りつどい、工夫を重ねてダンボールハウスという 「ホーム」を次々と立ち上げて、ひとつのコミュニティをつくっていたのだ。それに寄り添った支援者によると、その期間は1996年1月24日から98年2 月7日までの約2年間。──このふたつの日付にはそれぞれ重要な意味がある。ひとつは、それまであった西口広場から都庁に通じる地下通路のダンボールハウ スが都によって強制撤去された日。そしてもうひとつは「ハウス内からの失火」によって住民4名が焼死した日だ。
わずか2年余という「短い」期間ではあったが、しかしこのコミュニティには濃密な時間が流れていた。それまでバラバラにされ、見えない存在とされていた 「ホームレス」たちが、若いアーティストが描く色彩とともに鮮やかに姿をみせ、「生きることが闘い」であることを人びとの目にはっきりと焼きつけのだ。そ の「闘い」は、いまもそこかしこで続いている。
今回の上映では、この5月に写真集『新宿ダンボール村』を上梓した迫川尚子さんに、同時代としてのダンボール村を語っていただく。

2013年7月13日

plan-B 定期上映会

ヘイトスピーチと、わたしたちの現在
講演 / 首藤久美子
(女性と天皇制研究会)

ヘイトスピーチ──たとえばいま、新大久保の街頭で「ハヤク クビツレ チョウセンジン」と叫ぶ集団がいる。憎悪表現とも訳 されているヘイトスピーチは、もはやネット上の「スピーチ」を超えて、罵声を浴びせられる人たちの生活や身体を直撃している。それは、朝鮮人6000人を 虐殺し去り(1923年)、アジア各地への侵略を進めていったこのクニの──わたしたちの歴史を思い起こさせる。
むろん、このヘイトスピーチは「在日朝鮮人」たちだけに向けられているわけではない。わたしたちの未来、わたしたちがめざし作り上げようとする「社会の多様性」に、それは向けられているといってもいい。
今回の上映では、こうしたヘイトスピーチのありさまと、それに対抗する運動の課題を、「女性と天皇制研究会」の首藤久美子さんに、女の視点を交えて語っ ていただく。侵略戦争下にあって、唯一といってもいい、朝鮮人らとの共闘を継続した下層──寄せ場の・もうひとつの歴史・をふまえて。

勝新太郎とドキュメンタリー

境誠一(映画編集者)         聞き手 山谷制作上映委員会・小見憲

<「勝新太郎7回忌法要記念名場面集」DVD上映20分>

プロダクションじゃない。勝プロダク

小見 これを観ますと、やっぱりすごいですねえ。紹介します。映画編集者の境誠一さんです。
 境です。今観てもらったのは、七回忌の法要の時に会場で流したビデオなんです。まあ、個々にはいろんなところで観せてはいるんですけ れども、これだけのお客さんの前で観てもらったのは初めてですね。「山谷」の作品とは、もう全てが違うんですけども。勝新太郎は皆さん方が思ってる「座頭 市」であるとか「兵隊やくざ」であるとか「悪名」であるとか、そういう役者としての顔と、もう一つ別の顔があります。それは監督としての勝新太郎です。 で、これがもう全く似ても似つかないっていうか……。これは皆さん方があまり知らないと思うんです。キャラクターとかは映画を観ればすぐわかるんですけど も。勝新太郎っていう人の監督方法とか演出法とかっていうのを、今回ちょっとこう、それとドキュメンタリーっていうのをちょっとからませて、まあ小見さん とのキャッチボールですかね。
小見 「勝新太郎とドキュメンタリー」というテーマなんですが、どういうふうにして結びつけるのか、これはかなり厳しい。勝新太郎って大 スターですよね。今のDVDにも出てきましたけど、三船敏郎と石原裕次郎、彼らと同じような大スター。ですけど、ちょっとこの三船敏郎や石原裕次郎とはタ イプが違って。「座頭市」にしろ、「悪名」にしろ、それから「兵隊やくざ」にしろ、どちらかって言うとアウトローというか下層というか、そういうヒーロー じゃないですか。そういうキャラクターは皆さんもご存じだと思うんですけど、そういう勝新太郎が監督をしたときの、演出の仕方っていうんですか。それはど ういうものなのか。例えば、よく知られたこととして、あの黒沢明と「影武者」でぶつかったとかね。大監督とぶつかるわけですから、俳優の立場っていうのも あるんでしょうが、もうひとつ何か、もののつくり方っていうものが底にあるような気がするんですよ。それでこの間、境さんからちょっと話をうかがった時 に、カチンコを使わないとか、かなりこうアバンギャルド的というか、そこら辺どうなんでしょう?
 その前にですねえ、さきほどの三船さんや裕次郎さんとちょっと違うのは、まあ勝プロダクションていう名前があるんですけども、「俺ん ところはプロダクションじゃない。勝プロダク損だ」と言うんですね。要するに、損をしてもいいんだ、赤字になってもいいって言うんですよ。これがちょっと 他の人達とは違う。そういうのが土台としてあるんですね。で、予定通り進まなくていいと。それと合理的なものを嫌がる、段取りが嫌いと、こうなるんです ね。そうすると物凄くこう手間がかかっちゃうんです。予算もオーバーしちゃうんです。予定通りいかないですから。例えば、今だったら「ああ空がないな」と なれば、「じゃあCGで合成しちゃおう」となりますけれど、でもそうじゃなくて「いい空が、雲が出るまで待とう」と。そうするとそこでまた無駄が、ロスが 出てくるんです。それでも、その瞬間が欲しいんだ、その偶然に面白味を求める。で、その瞬間、偶然を大切にして段取りを嫌うために、今度は「台本は余計 だ。台本いらない」と。いや台本はあるんですけど。どうしても「そういうふうにならない」という気持ちが……。で、その時どうするかというと、例えば俳優 さんに「お前だったらどうするの」という、そういった形で進めていくんですよ。だから即興の連続でもあるし。ただそれは俳優さんによって使い分けちゃうん ですよ。例えば、今のDVDに出てきた森繁さんの時なんていうのは、屋台のセッティングができたら、もうライティングが全部ととのって「はいOKです」に なったら、「じゃあシゲさんやろうか」と言って二人でこう芝居を始めちゃうんです。だから、セリフも事前の打ち合せなんてないです。テストなし。それでも 森繁さんだからできるんです。今日観てもらった画は短いんですけど実際は4分くらいあるんです。4分くらいを二人で昔の思い出話みたいな……。で、その時 の森繁さんの表情がもう何とも言えない顔になってるんですよ。勝のこういったこと、遊びに付き合ってどうすんだ、みたいな顔なんですよ。でも、観ている人 はそんなことを考えないですよね。一つあるのは、監督が俳優さんに「こういう顔をしてくれ」と言ったからといって、それは本当の顔じゃないと。だから森繁 さんの場合もぶっつけでドンドンやってっちゃったり。逆に、メイキングの、あれは長男の奥村雄大ですけども、あの時はセリフをあまりしゃべれなかったんで すよ、初めてだから。そういった場合は、いろんな言葉をかけながら、見てると催眠術をかけるような感じで引き出していくんですよね。だから、その辺は全く 人によってアプローチが違ってきて。俳優さんっていうのは、いろんな役を、いろんな人間ができるからいいんだっていう考えもあるんですけど、勝さんの場合 は「いや、もうお前自身でいいんだ」「余計なことはしなくていいんだ」と。すると、もう自分自身を曝け出すことになっちゃうんですよ。プロの俳優だけどプ ロの俳優をどんどん素人にしていっちゃう。そういったところが、撮影法としてはこうドキュメンタリーに近いような方法で、最終的に編集で劇にしちゃうって いう。だから、普通のスタッフから考えたら、非常に違った作り方ですね。

二枚目時代のフィルムは全部買い取って焼き捨てたい

小見 あの「座頭市と用心棒」でしたっけ。三船敏郎さんとはどうなんですか? 最後は結局、死なないんですよね。相手役として唯一死なないというか。
 社長ですから。(笑い)三船プロの社長だから、もうはじめから三船さんは斬れない。だから、ちょっとドラマが盛り上がらない。他の人はほとんど斬られてるんですけど、三船さんだけはやっぱり斬れなかったっていうことですねえ。
小見 演技のほうはどうなんですか? 森繁さんとは阿吽の呼吸みたいにしてやって、息子さんの時はこう催眠術かけるような演出方法を取ったというんですが……。
 三船さんの場合は、監督が岡本喜八さんだったので、だから喜八さんとの呼吸でやったんじゃないですか。
小見 あれは京都?
 ええ、もう全部京都です。最後の「座頭市」だけ東京でやりました。この最後の「座頭市」の時のことですが……勝さんっていうのは ちょっと変なっていうか、ぜいたくなところがあって。京都のスタッフは俺のことを全部知ってる。知ってると、シナリオがなくても道具でも何でも全部用意し てくれる。それがなんかこうつまんないと。15年ぶりに「座頭市」やるんだから俺のことを知らない人がいいだろう、そのほうが新しいものが出るんじゃない かっていうことでスタートしたんですね。まあそれで見事に失敗しちゃうんですけども。新しいものを出そうと言いながら、最終的には25本の中のダイジェス トを全部こう集めたような「座頭市」になっちゃったんですよ。面白くないのは京都のスタッフなんですよね。確かに「座頭市」は勝ちゃんのものだけど、「座 頭市」の画面を作り上げたのは俺らっていう自負があるんですよ。それを東京のスタッフがやったもんだから、それに対してもう不満はいっぱいありましたよ。
小見 なるほど。では、勝さんがこの作品はすごく気に入ってるとか、逆にこれは自分では気に入らないとか、そういうのはあるんですか? まあ演出とか演技も含めてですけど。
 作品は、「不知火検校」以前のフィルムは全部嫌いだと言ってましたね。二枚目で売ってた時があるんです。で、全然売れないんです。も う何をやっても駄目。劇場から「もう勝の映画やめてくれ」という苦情がきたくらいで。当時の二枚目の顔の、こうつるっとした顔のフィルムはもう全部買い 取っちゃって焼き捨てたいと。だから、その頃の作品は「大嫌い」って言ってましたね。
小見 そういえば、「初春狸御殿」とか、ありましたね。本当に二枚目。二枚目俳優として最初出てきたわけですよねえ。
 もう目もぱっちりして、ただ背が低いだけです。
小見 話を戻しまして、また俳優になっちゃうんですけども、「悪名」の田宮二郎さんとはどうなんですか?
 あれはもう即興ですねえ。アドリブです。
小見 アドリブ?
 ええ。変な言い方をすると、「やすきよ」に近いような、もう即興即興です。ひとつストーリーがあって、もうあとはプラスとマイナスの性格で。だから、あの辺はほとんどワンショットでやってると思いますよ。あまりカットバックなんかやってないと思います。
小見 ああ勝さんがプラスみたいな。(笑い)
 プラスとマイナスというより、まあこう古いタイプと新しいタイプっていう。

「警視―K」――電気消して正座して観ろ。そうしたらわかるんだ

小見 はい、わかりました。話は変わるんですけど、僕は観てないんですが、テレビで「警視-K」という作品をつくってますね。今、かなり評価されているそうです。実は、「山谷やられたらやりかえせ」の音をやった菊地進平さんもこの「警視-K」に関係したそうです。
 菊地さんがやられたのは、一話目がそうです。
小見 では、次にちょっとこの「警視-K」について。
 「警視-K」の時ですね、カチンコを叩かなくなったのは。「なんでカチンコを叩いたら、すぐセリフが出るんだ」と。そういうことが発 端で、一切カチンコを一話目は打たなかったんです。そうしたら、あとで一番困ったのが録音部なんです。どこまで編集部に音を渡していいかって。それでもっ といい方法ないかっていうことで、記録映画でやってるクラッパーっていうのを付けてやったんです。まあ、その辺はうまく技術的なことで解決したんですけど も、ただ「警視-K」で一番困られたのはテレビ局のプロデューサーでしたね。日本テレビの「太陽にほえろ」で20パーセント取ってる局Pが、「今度は勝新 の刑事ドラマで20パーセント取ろう」っていうことで張り切ってたんです。その一話の時、脚本もないってことで、それに本人もまあ「影武者」のあとという こともあって気合が入っちゃって、45分にしなきゃいけないのが90分になっちゃったんですよ。倍になっちゃったんです。監督ラッシュの時、みんな観なが らメモ取って打ち合せをするんです。その最初に、局Pがノートを開いて言い始めたら、「デンキ屋は黙ってろ」と。それから一言も言わなくなりました。作っ てあげてるんだから、作りたいようにさせろ、お前ら何も言うなというような姿勢で、どんどん作っていくわけです。有名な話ですが、話がわかりづらい、セリ フが聞き取りにくいということがありました。普通はセリフははっきりわかるようにしゃべってもらって録音しないといけないんですが、「いや、いいんだ」 と。さっきDVDに、三島由紀夫さんが出てますが、三島さんはプロの俳優じゃないからセリフがパッパッと出ないんです。でも、「いや、出なくていいんだ」 と勝さんは言うんですね。戸惑いながらでも、その方が臨場感があるんだという、まあこれは監督になる前ですけど。そんな調子だから、「セリフは聞き取りに くくてもいいんだ」と。と言っても、それが何話も続いちゃうとやっぱりお客さんから聞き取りにくいっていう、苦情の電話かなんかが来るわけです。で、この 時ばかりは局Pが「勝さん、セリフなんとかなりませんか」と言ったら――「お前らテレビだと思って寝転んで観るな。ちゃんと電気消して正座して観ろ。そう したらわかるんだ」と。確かに、ちゃんと観てるとわかるんですよ。わかるんだけども、シーンシーンでストーリーの説明とか一切ないわけです。シーンってい うのは全部こう独立してるんです。だから、観る人もそれを想像してつないでいかなけりゃいけないんですよ。説明のセリフもない。それでセリフは聞き取りに くい。でも、じっくり考えてちゃんと観てるとわかんないことはないんです。ただわかりにくい。同じ劇でも「太陽にほえろ」とか「水戸黄門」とか、そういっ た作品ばっかり観てる人はついていけないですよね。ただし、映画青年とか、ちょっと変わった作品が好きな人は、いいなあってなっちゃうんですよ。でもそれ はもう少数民族なんで。それで、あれは本当は26本作る予定だったんですよ。ところが、その「電気消して正座して観りゃわかるんだ」っていう、あの辺から 局はもうこれ以上視聴率は取れないから無理だと考えてたらしいんです。一方の作るほうとしては、ストックがなきゃいけないのに、13本目を放送した時には 14本目のクランクインもしてなかったんですよ。ということは穴をあけちゃう。局に対してペナルティ、恥をかくことになるんです。そうしたら局のほうから 「申し訳ないけど終わらせてください」ってことで、13本目で終わったんですけどね。
小見 まあなんというか、よかったというか。(笑い)
 いやもうスタッフはほっとしてましたよ。
小見 当時は毎週やってたわけですか?
 毎週です。で、普通テレビだったら二話持ちで、二本持ちで入るんですよ。でも、勝組はできないんです。13本のうちに8本くらいは勝さんが監督して、黒木和雄さんが二本撮って、森一生さんが一本撮って、根本順善さんが一本撮った。ですから全く能率が悪いんです。
小見 その時はやっぱりプロダクションじゃなくてプロダク損になったんですか?
 いやもう常にプロダク損です。もう一つあの人の不思議なところがあって。これは「座頭市」の時ですけども、他の監督は予定通りになん とか終わるんですね。ところが、監督が勝新太郎になってくると終わんないんです。当然、予算を使い切っちゃいます、現場の予算を。すると、あとは仕上げの 予算があるから「もうこれでやめてくれ」ってプロデューサーからストップがかかるんですよ。「でも俺は撮りたい」って言うんですが、「いやもう予算がオー バーしたからダメ」と。そこで、「なんとかならないか」「一つだけ方法がある」と。それは「オヤジのまわしてよろしいか」ということなんです。みんな勝さ んのことを「オヤジ、オヤジ」とか「オーナー、オーナー」とか言ってたんですけども、要するに、主役のギャランティと監督のギャラを製作費にまわしてよろ しいかということ。それで「ああいいよ」となっちゃうんです。自分の道楽で映画を作ってるんだから、自分が儲けようとかなんとかって気はなくて、自分の ギャランティを現場にまわしても、まるでそれは平気だったんです。まあ普通じゃ考えられないことですけどね。
小見 そういうきっぷだったのか、亡くなられた時も相当借金が残っていたのは有名な話ですね。
 借金も映画製作だけじゃない。そっちのほうは本人の取り分がないわけですから。そっちへまわすわけですから。ただ全てが赤字になるわ けじゃなくて。まああのころは銀座のクラブのこととか、いろんなことがたまっちゃって、最後はパンクしたんですけれども。でも「借金はいいから、その分で 映画作ってください」っていう人が結構多かったですねえ。
小見 そうですか。今、聞いてて思ったんですが、山谷の映画、この映画も聞きづらいんですね。で、よく言われるんですけど、「わかりづら いから字幕、スーパーインポーズを入れたらいいんじゃないか」と。アンケートなんかによく書かれてるんですけれど。うーん、現場での音の録り方もちょっと あったのかもしれないんですけども、でも実際、山谷の労働者のしゃべってる言葉なんてよく聞き取れませんからねえ。そういうこともあるし、それをわざわざ わかんなきゃいけないってことで、字を入れちゃうっていうのはいかがなものかと、僕はずっと思ってたんですよ。ちょっと違うかもしれませんが、勝新太郎さ んが「警視-K」でそういうふうに言ってくれると、そうだよなあ、うれしいなあと思ってしまいます。
 まあ、確かに聞き取りにくいけど、こう雰囲気が伝わればいいかなと思うんですよ。全てに字幕を入れちゃうと今度は文字に目が行っちゃ うんで。そうすると、じゃあその文字を見たからといって、映画の伝わり方が良くなるかといったら、またそれは別だと思うんで。今までずっとやってきたん だったら、このままのスタイルで、上映してもいいんじゃないかなと思って観てましたよ。

「編集」にはまった勝新太郎監督

小見 では、勝さんの映画の作り方を、境さんは映画編集者の立場としてどう思われますか?
 初めて監督したのが「顔役」って作品です。この時は、監督やるためにはキャメラのことも知らねばってことで自分でキャメラも回してる んですよ。そして、編集のことも知らねばと思って自分でフィルム編集をやってるんですよ。で、キャメラは「ダメだ」と、「俺には無理だ」と思ってあきらめ てくれたんですよ。ところが編集の場合は……。あの谷口登司夫さんっていう編集マンがいまして、その谷口さんがやると、勝さんが編集した淡白で単調な編集 場面が見違えるように良くなる。編集によって映画が変わることを発見するんです。それから編集が好きになっちゃったんですよ、困ったことに。谷口さんは、 「どうせ撮影と一緒で、すぐあきらめてくれるだろう」と思っていたらそうじゃなくて。本人は、三味線の出で指先が器用だから、フィルムに触るのがだんだん 楽しくなってきちゃうんです。もう最後のほうは、広島で編集しないと間に合わないってことで、映写機を持っていって。そうしたら、映写機が古かったからか 漏電しちゃって火吹いちゃって使えなくなっちゃった。それでまあ終わりだろうと思ったら、本人は「編集機で観よう」と。編集機で観ると「心が落ち着く」っ て言うんですよ。映写機と違って、止めて何度もその場で見通せるので観てるうちにいろんなアイデア浮かんでくるとか。もっと困ったのは「警視-K」の時で すね。もう夜の遅くに、夜の11時、12時頃に銀座のホステスがぞろぞろとこう来るわけですよ。つまり、銀座で飲んでる時に「編集やると面白いんだ」って 話をホステスにするわけですね。そうするとホステスはわかんないじゃないですか。「じゃあ今から見に行こう」ってことで。それまで編集部は待ってなきゃい けないんですよ。いろんなところで、「いやあ編集面白いんだ」と言って、必ずこういう回すマネしますから。それで、もういろんな人に講釈するわけですよ。
小見 勝さん自身がこう切ったり貼ったりするんですか? フィルム、ポジのあれを。
 編集機でこうボタン押すところがあるんです。印を付けるところ。あれをやりたくてしょうがなかったんですよ。それで「自分もやってみ たい、できるかな」ということでやるんですね。やって、こうパッとうしろを見るわけです。そうすると谷口さんがいるから、谷口さんがうなずけば進んでいく わけです。で、最初のうちは遠慮しいしいやっていくんですけど、だんだん慣れてくると、もう自分でぼんぼん、ぼんぼん押していって。でも、その押していく ところはアイデアとしてなんですね。なんていうか、こうアイデアが次から次と出てくるから、編集でそれをまとめようとするとまとまらないんですよ。部分部 分はいいけれど。ただ勝プロの良かったところは、現場で暴走してもキャメラマンがブレーキかけてくれるんです。大映京都の遺産を全部引き継いで使ってまし たから。あと編集で言えば、構成力がないとできないし、そういう編集マンがいたから。勝さんが「俺が少々変なことをやっても、なんとかみんながやってくれ るんだ」って、そういうのもありましたねえ。
小見 映画っていうのはある種の集団での作業ですからねえ。
 勝さんの場合は、部分部分のセンスはいっぱいあるんですよ。ただそれをまとめることができない。あれに構成力が備わっていれば、もう 大変な監督になってたと思うんですけども。ただ本人は「不完全でいいんだ。不完全の中に良さがあるんだ」とか、言って。あと「無駄があってもいいんだ。無 駄の中に、最後に宝があるんだ」とかね。それで、よくみんなが振り回されました。例えば、谷口編集マンがこれでベストだと思って観せますよね。それで納得 するわけです。「素晴らしい」と。でも次には、「このタイミングを壊してもっといいものにしてくれ」となったりするの。それで、ああでもない、こうでもな いとやって、何通りもやるわけです。で、最後に言うんです。「わかった。これだけのことやってくれたから俺の間違えはわかった。元に戻してくれ」と。いや 本当です。今だったらコンピュータでやればすぐ戻るでしょうが、当時はフィルムなので1本しかないフィルムを切り刻んでいかなけりゃいけない。もう編集室 の床なんか被災地みたいでしたね。そのアイデアですが、固定観念がないからなんですね。一般人が持ってる固定観念がない。あの、いい意味でも悪い意味でも 義務教育を受けてないんですよ。だから小学校とかなんとか行って、ちゃんとしたいろんな決まり事を習ってないんですよ。で、何をやってたかっていうと芝居 観てたとか。家柄が三味線だから。その辺の固定観念のないこともあって、自分自身に正直になって、部分部分でものすごい発想がいろいろと出てくる。例えば 「兵隊やくざ」。田村高廣さんとのコンビで非常に面白いんですけれども。これは監督になる前ですが、上官からこう作戦の指示があるわけです、「大宮、わ かったな」って。で、台本では「はい」となって次の場面に変わるんです。ところが本テストまで「はい」と言っていても、本番では「わからない」って言うん です。「わからない」と言ったほうが面白いんですよ。「大宮、わかったんだろ」「わかりません」と。そうすると、今度は田村さんの有田上等兵のリアクショ ンが生まれてくるんです。こうやってジロッと見るんですよ。だから、部分的なセリフはちょっと変えてたり……。
小見 なるほどねえ。

俳優の引き出し方、これはプロの監督よりうまかった

 あと、あの人の運動能力。普通はクラブ活動ってみんなやるじゃないですか。でも勝さんはクラブ活動をやったって聞いたことないです よ。ただ、相撲をやれば高見山から「この人は十両になれる」とか言われるくらいの……相撲のシーンがよく出てくるんですよ、「座頭市」でも「悪名」でも。 ちゃんとサマになってるんです。それともう一つ、あの「人斬り」の走りのシーン。当時の俳優さんの中でも走ったら一番早いんじゃないかっていうくらい。だ から、あの腰の座った立ち回りができた。その運動能力はどこからきたのかって不思議なんですよ。もっと凄いのは、あきれちゃうのは――これは映画館で観な いとわかんないです。「人斬り」の走りのシーンっていうのはト書で3行しか書いてないんですよね。まあ全部で5行くらいなんですけども、それを五社英雄さ んが真っ昼間から走らしたわけです。で、自分だけ一人で走ってるもんだから、「キャメラも走って来い」なんて言い出して。キャメラも走って追っ掛けて撮る んです。それで、もうしまいには、「監督も一緒になって走れ」「俺が一緒に画面に映ってどうすんだ」「画面に映らない所で走れ」とかって、そういうことを 言い合いながら撮らなきゃいけないから大変ですよ。それと、もし今度「人斬り」が上映される時にスクリーンで注意して観てもらいたいのは、あのあと岩陰 を、岩の間を走るシーンが2カットあるんですよね。最初わからなかったんですけども、握り飯を食いながら走ってるんですよ。そんなことができるのかって いっても、よく観ると右手でこう持ってかじりながら走ってます。そういったことに対するアイデアとか執着心はすさまじいですよ。まあこういった役者馬鹿だ けで終わってくれたら、監督やらなかったらいいなと思ったこともありましたよ。といっても、監督は監督でいいところがあるんです。それは俳優さんの引き出 し方ですね。これはもう本当、普通のプロの監督よりもうまい。名監督が部分的に同じことをやってます。例えば、山田洋次監督の「家族」。あれはロードムー ビーなんです。全く勝さんと同じです。そういったいいところもあるんだけれども、普段の行動が派手だから誰も指摘しないですよね。他のところが目立っちゃ うから。
小見 ただ「勝新太郎はすごいなあ」って言う時、それは役者だけじゃなくて、監督としてもすごいというファンが結構いますよ。もちろん演 技はすごいんですけど。それと主役じゃなくてもね、例えば黒木和雄さんの「浪人街」でのやり方とか。あの時は主役級といっても主役じゃなかったですよね。
 そうなんです。本人は「俺が暴れちゃうと原田芳雄とか石橋蓮司が目立たなくなるから」って、現場でしなかったんですよ。でも、本当はひと暴れしないとおさまんないんですよね。(笑い)
小見 それと、この間、別のところで話を聞いたんですが、「座頭市」がキューバで大人気だったとか。まあ見ようによってはラテン系ののりの雰囲気もあるんで、彼らの気質に合うのはなんとなくわかりますが。そこら辺はどうなんですか?
 格好もずんぐりしていて、どこでもいるようなオッチャンで、それと酒も好きだし女も好きだしバクチもやる。「俺達と同じだ。俺達と違 うのは居合いができるだけだ」と。そういったところが親しまれたんじゃないですかねえ。それと、不思議なのは日本映画の喜劇とかお笑い、ユーモアを評価し てるんですよ。キューバ人にそのユーモアがどう伝わったのか。日本の喜劇映画を持っていって、日本人のユーモアとかお笑いが伝わるのか。「寅さん、どう思 いますか」って聞き損ねちゃったんですけどね。大スターでありながら、笑いができる俳優さんは勝さんしかいないですねえ。
小見 そうですね。喜劇俳優っていうと三木のり平さんとか、さっきの森繁久彌さんなんかと掛け合ってますね。
 笑いっていうのは――本人がいつも冗談とか駄洒落とか、ああいうのが好きなんで。しょっちゅう、アドリブなんかで駄洒落を言ったり。 「御用牙」っていう映画、これもなかなかパワフルな映画なんですけども、この時の西村晃さんと二人で待ち時間に話されてる会話っていうのは、もう漫才だと 言ってましたね。吉本よりも面白いと。いくら待たせられても二人の話を聞いてるのは楽しいって、スタッフみんなが言ってました。落語が好きだったっていう のがあるんじゃないですか。

画面が揺れても、ボケていてもいいじゃないか

小見 (観客に向かって)ええ、ここまで勝新太郎の人となりとかやり方を聞いてきたんですけれど、「勝新太郎とドキュメンタリー」という雰囲気になってます? ちょっとはなってる?
 この中で監督・勝新太郎の作品を何か観た人っています? 監督・勝新太郎のです。では「顔役」を観た人はいますか? (手を挙げた観客に)どうでした?
参加者A だいぶ前に観たので覚えてないです。子供の頃に親に連れられて。
 親に! えっ、ということは親が勝さんのファンだった。
参加者A そうですねえ、親父がそうです。
 親父さんっていうのは相当にアナーキーな人ですねえ。「顔役」を観せるって人は大変なことですよ。劇場の前列の一列目から三列目くら いだったら、酔ってきちゃうんですよ。要するに、「画面が揺れてもいいじゃないか」とか「ボケてもいいじゃないか」とかっていうことからスタートしてるん ですよ。だから、そういった点があるから、本人がこう回してるんですよ。普通だったらNGになっちゃうんだけども、ドキュメンタリーの場合はNGもOKも ないし。だから変な画が出てきたと思ったら、勝新太郎が撮った画だなと思ってもらっていいと思うんですけども。でも、あの作品は台本撮りなんですよね。だ からト書でこう「キャメラが走査する」って書いてあると、キャメラが走査するんですよ。だから相当キャメラをぶん回して。全体の三分の二はキャメラが揺れ てますね。画面が大きいと割と効果がありますよ。あとはテレビの「座頭市」で監督・勝新太郎がやったのはいいのがあります。時間が45分だとシナリオでは 書けない、そういったびっくりする展開がありますけどね。だから、もし機会あったらちょっと集中して、こう電気を消して、観たらいいと思いますよ。テレビ の「座頭市」の監督・勝新太郎の作品を観た人います?
参加者A 最初のほうを僕は観たことがあります。
 さっきの森繁さんの出た作品、あれも尺がオーバーして90分以上になったんですよ。テレビ局の約束事は一話完結です。でも、この時は これを切っちゃったら、つまんなくなるっていうんで前編後編に分けて納品したんですよ。もう局はびっくりですよ。無理やり押し込んだんですが、これが結果 的にはいい作品として残ってるんで。ただ、それは勝さんだからできたんで、他の人にはできないですねえ。森繁さんにとっては子供の遊びに付き合ったような ものだけど、一番いい味が出てるのは森繁さんなんです。
小見 俳優で監督もした、勝新太郎っていうは、なんか気になりますね。僕もテレビなんかでやってると、やっぱり観ますね。この間もその 「座頭市と用心棒」をやってたんで、また観ちゃいました。最後に、三船敏郎と若尾文子が死んじゃうのかと思ったら、おお生きたか。死なないふうになんとか したかっていう。三船敏郎もいいんですけど、うーん、やっぱり勝新太郎ですね。勝新が主人公なんだから当たり前なんですが、でもそれにしても圧倒的に勝っ てるという映画でした。
 あの頃からゲストが良くなってきたんですよ。他社の仲代達也さんが出てきたり。それまでは大映の人達が相手役をしたりで。それがちょっと、もうだんだん役不足みたいな。後半からですねえ、ゲストが良くなってきたのは。
小見 でも、素人の内田裕也なんかも出てますね。あれも今日のDVDに映ってますが。
 裕也さんは、どうしても「市に斬られたい」と言って駄々こねて。息子の奥村雄大(五右衛門)には斬られたくないってゴネちゃって大変 だったんですよ。勝さんが「じゃあ、お前を殺すのやめた。山ん中を千両箱担いで逃げろ」と言うと、裕也さんが「そんなかっこ悪いのいやだ」と。「じゃあ、 どうしたらいいんだ? ちょっとお前、やりたいことをやってみろ」って言ったら「ロックです」って答えたんですよ。「それなら、お前のロックを見せろ」と なって、最後にバンダナを取ってこう啖呵を切るんです。まあそういうことがやりたかったみたいなんです。

「カット尻」についての二つの逸話

小見 亡くなられたのはいつでしたか? さきほど17回忌っていわれましたから、17年前、16年前ですね。そうですか。ええ、これはあまり聞きたくなかったんですけど、聞いちゃいます。北野たけしさんの「座頭市」どう思います?(笑い)
 たけしの「座頭市」については、キューバの大学の先生が講演で言った通りだと思うんですよ。東大の学生が質問したんですよ。「たけし の『座頭市』どう思いますか」って。そうしたら「たけしであろうと誰であろうと勝新太郎以外の座頭市はありえない」と。もうそれで終わりです。ただ、あれ はたけしの企画じゃなくて。実は、たけしはやりたくなかった。嫌でしょうがなかったんですよ。浅草のロック座のおかみさんがいるんですよ。ちょうど7回忌 だったんで、7回忌を盛り上げようというんで、そのおかみさんがたけしと勝プロの関係者を呼んで、「私の言うことに反対しないで欲しい。7回忌だから北野 たけしで『座頭市』を作ってくれ」と、こう言うわけです。で、みんなはびっくりしたっていうんですよ。だから、たけしは嫌で、本当はやりたくなかったんで す。もう一つたけしがやりたくなかったのは、勝さんがハワイから帰って来た時にやった対談です。その時、たけしは一言も話せなかったんです。なんでかと 言ったら、ハワイから帰ってくる前に、いろんなちゃかしたことを言ってたんで、こうガツンと言われてるんですよね、対談の前に。だからもう一言も言えな かったっていうエピソード。その流れからも、「座頭市」は本当はやりたくなかった。だけど、やりたくなかったものが当たっちゃうんですよね。
小見 うーん、実は私もたけしのは観てない。観たくなかったから観てないんですけれど。(笑い)
 まあみんな「座頭市」と思って観てないと思いますよ。それと最後にもう一つだけ。森一生っていう監督は、芝居が終わってもしばらく カット掛けなかったんですよ。役者っていうのは、監督のカットがないと芝居をやめることができないから、いろんな仕草をして。で、そこんところの画を編集 マンが使うんですよ。それを勝さんは観てたんですね。あの時の画がここで使われてる、全然違ったのが使われてる、と。その繋がりが段取りじゃなくて、いい 感じだったんで、それを覚えちゃって。それを自分が監督する時、人を撮る時に使うんです。カット尻を長くしちゃうんですよ。ところが、自分の出番の時は、 自分で「カット」って言うわけじゃないですか。で、画面を観ると他の人は長く撮ってるんですが、座頭市のところだけは自分で言ってるんでカットが早いわけ です。「どうして俺だけ早いんだ」と、まあこうなるわけです。それで助監督とか記録を集めて、「俺は自分でやってるからわかんないんだ。お前ら、俺のこと をちゃんと見てないと駄目じゃないか」ってこう檄を飛ばすわけです。でも、そのあとは結局、「言っても聞かないのよ」ってなっちゃうんですけれど。もう一 つカット尻の話で言うと、増村保造さんって名監督がいましたが、この増村さんが「悪名」を最後に撮るんです。そこで、勝さんが杉村春子さん扮する女親分に ステッキで叩かれるシーンがあるんです。勝さんが言うんです、「本気で叩け」と。そして、増村さんはここぞとばかりカット掛けなかったんですよ。(笑い) 本気ですから痛いじゃないですか。いや叩くのも大変ですよ。杉村さんも本当に疲れたっていうのをそのまま演じてまして。叩く方も叩かれる方も大変。でも監 督は知らんぷりして、なかなかカット掛けなかった。もう怒ってましたね。「どうしてカット掛けないんだ」って。でも、そういった監督が勝さんに負けない時 の作品っていうのは締まって面白いですねえ。森一生監督とか三隅研次監督、増村保造さんは負けないから。
小見 なるほどねえ。ええ、境さんの頭の中、目の中には、そういうシーンがいっぱい入ってるんで、伺えばどんどん出てきます。とはいえ、 そろそろこの場での話はおひらきです。でも、まだ電車はあります。もっと話を聞きたいという方は隣の部屋に移動して、ここの続きをどうぞ。こことはまた 違った話が聞けるかもしれません。隣には、実は今日はお酒がいっぱいあるんで、呑みながらもうちょっと話を交わしたいと思います。時間のある方はぜひ隣に お残りください。今日はどうもありがとうございました。
[2013 5. 11 planB]

〔追記〕
勝新太郎監督作品に興味をもたれましたら、是非見てもらいたい作品があります。初監督作品の「顔役」、TVシリーズの座頭市の「二人座頭市」「赤城おろ し」「心中あいや節」「冬の海」「糸くるま」「渡世人の詩」。あと勝監督に影響を与えた勅使河原宏監督の「燃えつきた地図」。また勅使河原宏監督の、TV 最後の座頭市「夢の旅」も加えたいですね。(境)

zatouichiiai