下層のアナキズム――「米騒動」と大杉栄

栗原康 (大学非常勤講師・アナキズム研究)

 

❖「誰からも支配されない」という思想

栗原康です。最初に簡単な自己紹介をします。

この 8 月と 9 月はなにもしなかったので無職だったんですけど、ふだんは大学で週 1 回非常勤講師 をやっています。それだけでは食べられないので、週に 2 回塾で先生もしています。それでもまだ食 べていけないのですが、幸いにも実家に住んでいて、父親の年金で暮らしているというのが実情です。 今、ぼくは 36 歳になるのですが、36 歳で早くも年金生活者というわけです(笑)。でも、ぼくみたい な人間が最近増えているみたいで、こういう講演を、ぼくと同じぐらいか、ちょっと年下の若い人た ちのまえで行うとき、「ぼくは年金生活者です」と自己紹介すると、「おれも、おれも」と声を上げる 人が 50 人中 10 人くらいいるんですね(笑)。それで、「あゝそれが一般化しているのかなあ…」とお もったりします。

まあ、ぼくの場合は、実家で親の年金で暮らしているので恵まれているのでしょうが、そういう援 護も受けられず、非正規労働やフリーターとして働いていてひどい状態で暮らしている若い人たちが 増えているんですね。そういう下層が拡がっているのです。

今日は機会をいただきましたので、「下層のアナキズム」というテーマで、大正時代のアナキスト・ 大杉栄の<暴動論>についてお話したいとおもいます。

まず、アナキズムとは、どんな思想かということですが、ぼく流の簡単な定義をすると、「誰からも 支配されない」そういう状態・社会を目指していこう、という思想です。もうすこしわかりやすい言 い方をすると、「やりたいことしかやりたくない」そういう思想と生き方です。

大杉栄という人は、まさにそういうアナキストだった。

ぼくは、実は趣味が詩吟なんですね。ちょっと自分自身のテンションをやわらげようとおもうとき、 詩吟をします。ぼくの好きな歌があるので、それをご紹介します。

〽身を捨つる捨つる心を捨てつれば 思いなき世に墨染の袖

今、吟じたのは鎌倉時代の捨聖(すてひじり)と尊称された一遍上人さんの歌です。「墨染めの袖」 というのは、僧衣の袖のことで、捨聖の心境を詠んだ歌です。

ぼく流に援用すると、墨染めというのは真っ黒のことで、黒という色は他の色に絶対に染まらない 色ですよね。黒はアナキズムの旗の色です。この黒という色には「誰にも支配されたくない。やりた いことだけしかやりたくない」というアナキズムの思想と生き方が象徴されているのです。

❖カネ・カネ・カネという時代の到来と下層の増大

先ほど皆さんとみた、映画『山谷―やられたらやりかえせ』には、山谷の下層労働者たちの暴動が 生々しく活写されていて、たぶん皆さんもそうだったとおもいますが、ぼくも、その暴動のシーンに 熱い共感を覚えました。

これからご紹介する大杉栄の暴動論は、彼が 33 歳の時に目撃した 1918 年の「米騒動」によって具 体的なイメージがかたちづくられたと見られています。この米騒動については、皆さんも歴史の教科 で学んでご存知のこととおもいますが、同年 7 月 22 日、米価の高騰に激怒して立ち上がった富山県 魚津町の主婦たちの行動に端を発し、燎原の火のように全国各地に拡がった暴動で、参加延べ人数は

1 千万人と言われています。当時の日本の人口は 6 千万人でしたから、実に日本人の 6 分の 1 の人び とが蜂起しているという規模で、日本最大の暴動と言われてきました。

では、米騒動はなぜ起きたのか?きっかけは 1917 年から 18 年にかけて米の価格がめちゃくちゃに 高騰したことでした。問題はこの時期に米価がなぜ高騰したのか?という理由です。第 1 は明治から 大正にかけて資本主義が発展して工業化・都市化が加速的に進み、その頃まで 8 割位を占めていた農 業人口がどんどん減少したことでした。それにより米の生産も減少したのです。ところが、そういう 現象に反比例して日本人の米食需要が増大しているのです。これが第 2 の理由です。この点について は説明が必要でしょう。

日本人の主食は米と言われていますが、実はそれは嘘です。江戸時代までの庶民は、米ではなく粟 や稗を主食にしていたのです。米は年貢として作られていたもので、庶民の口には通常入らなかった。 米が主食として食べられるようになるのは、明治に入って洋食が普及するようになって以降のことで、 明治後半から大正前期にかけカレーライスやトンカツといった和風洋食の普及にともない白米のご飯 が庶民の主食として一般化するようになったのです。日本の食文化が大きく変わったという側面に留 意する必要があります。

つまり、工業化の促進と和風洋食の発展により、米の需要と供給のバランスが崩れ、米不足と米価 高騰をもたらし、米騒動が起きているのです。

もう 1 つ理由を挙げると、1918 年にロシア革命が起き、日本軍がシベリアへ出兵することになり、 軍に対して大量の米を供給しなければならなくなった事態も見逃せません。

しかし、米騒動が起きた要因がたんに米の価格が高騰したことに対する人びとの不満が暴発しただ けととらえるのは表層的な見方です。

工業化・都市化が進み、和風洋食文化が普及するようになったということは、工場や会社勤めをし て賃金を得て生活する人びとが増え、それにともない消費文化が形成され発展したということでした。 要するに、カネを稼いでモノを買い、暮らしていくという資本主義のライフスタイルを身に着けた市 民が形成され、そういう市民規範が、1920 年代になると定着してきたことを物語っています。つまり、 カネ・カネ・カネという時代が到来し、カネを稼ぐために生きなければならない、そんな市民規範が 定着するわけです。けれども、そんな市民規範の網の目から漏れた人びと、つまりカネが稼げない者 は落ちこぼれ、ダメな人間として位置付けられてしまいます。そういう下層も増大します。この下層 が 1918 年の米騒動を引き起こす深層の要因だったのです。

❖大杉栄が見た「米騒動」

大杉栄は、1918 年 8 月、大阪・釜ヶ崎界隈で米騒動を目撃しています。彼は著名な社会主義者と して東京を拠点に活動していたのですが、その頃きわめて困窮していたため、パートナーの伊藤野枝 の郷里である九州・福岡に身を寄せる旅に出ていたのですが、その帰路に大阪に立ち寄り、たまたま 米騒動に遭遇したのであって、この大暴動を引き起こそうと駆け付けたわけではなかった。各地に米 騒動の火の手が上がると、首都東京在住の大杉栄の仲間たちの社会主義者、アナキストたちはかたっ ぱしから危険人物として警察に予防拘束されていたのですが、大杉は幸いにも免れ、大阪で米騒動を 目撃することができたのです。

当時、社会主義者の巨魁として官憲から厳しくマークされていた大杉栄には、都落ちした旅先にも 尾行がつけられていたので、米騒動に参加することはできなかったから、野次馬として見物するしか なかったですが、その見聞に大杉栄は大いに興奮し「愉快、愉快!」と面白がり、「すっかり浮かれて いた」と、連れ添った仲間たちが伝えている。

実際、大阪の米騒動はもの凄いものだった。主婦たちを交えた群衆が米屋に押し入り、店主をつる し上げて廉売所を設けさせ、自分たちで勝手に値段を設定して販売させたり、米屋が言うことを聞か

なければ、米を略奪する者も現れたし、聞き入れない店主の米屋を投石して打ち壊したり焼き討ちす るといった事件も起きた。消防活動にあたっていた消防ホースを日本刀で切断したり、市外電車の線 路に丸太棒を置いて止めてしまったり、米屋以外の商店のショーウインドーや不在の交番を打ち壊し た。竹槍隊まで出現した。大阪の米騒動参加者は約 60 万人、騒動の発生地点は 500 ヶ所ともいわれ る。暴動に加わる群衆の数があまりにも多すぎて警察もお手上げ状態となり、遂に陸軍1個師団が投 入され鎮圧にあたっている。大阪の米騒動では、死者2人、重傷者9人、軽傷者 370 人、逮捕者 2300 人という記録が残されている。完全な騒乱状態だったわけです。

大杉栄の目撃した大阪の米騒動は、暴動がピークを迎える 1 日前の 1 日だけで、つまりほんの束の 間の体験だったのだけれど、そんな時間帯のなかで暴動に参加するため街中をもの凄い勢いで駆け巡 っていた勇敢な主婦たちに「××町の米屋でも今こんな騒ぎが起きているぞ」と扇動したり、市内の 新聞社を回って「今、釜ヶ崎で大暴動が起きているぞ」といったデマゴーグ的な情報を流している。

大杉栄にとって、大阪の米騒動はすごく重要な体験だったようで、その後の労働運動に関わってい くうえで大きな影響を与えているのですが、その体験に関しての著述は意外なことにほとんど残して いない。理由としては、大阪から帰京すると待ち構えられていたようにすぐに予防拘束され、全国的 な展開された米騒動が沈静化したため 6 日後に拘束を解除されるということもあって、その件に関し ての言動に注意を払っていたからではないかと考えられています。わずかに官憲側の資料(内務省警 保局「大杉栄の経歴及言動調査報告書」)のなかに、大杉が大阪から帰るまえに仲間たちに語ったとさ れる次のような言葉が残されているので紹介します。<自分は今回の暴動事件を目撃して、社会状態 はますます吾人の理想に近づきつつあると信ず。しかし今日の勢いをもって進めば、後幾年を経ずし て意外の好結果を来たらすかも計り難し。政府も今度ばかりは少々目を醒ましたるらん。貧者の叫び、 労働者の狂い、団結の力、民衆の声、嗚呼愉快なり。>

❖「ガラガラ・バラバラ・ドシン」

しかし、 ぼくが大杉栄の著作の中から見つけた、大杉栄の米騒動についての所感は、「一言で言 えば、ガラガラ・バラバラ・ドシンという印象だよ」といったはなはだ大思想家にふさわしくない表 現だった(笑)。大杉栄は、その言葉、表現で、一体何を言わんとしているのでしょうか?ぼくは次の ように解読しました。

米騒動という未曽有の大暴動が起きた要因は、先ほども指摘しましたけれど、たんに米の値段が高 騰したことに対する怒りの抗議からだけだったとはおもえません。では、他の要因とは何だったのか? この点も前述しましたが、それはこの時代になると日本人の暮らし向きが完全に資本主義経済(端的 に言えば、金を稼げ、稼いだ金で消費しろ!という市民規範)に律していかなければやっていけなく なるという社会が形成されているのですが、その網の目から漏れた下層の人びとにとっては、そんな 資本主義的なライフスタイルや市民規範などは無縁なものであったから、形式だけの押し付けに対し ては息苦しさを感じ、反発もあったにちがいない。そんなマグマが米騒動という形でブチ切れたのだ。 大杉栄は、そのように考えていたのです。

要するに米騒動という暴動で、下層の人びとが何を訴えたかったのかと言えば、資本主義のライフ スタイルや市民規範で律しられるような生き方ではない、もっと別な生き方があっていいのではない か、そんな生き方もあるのだということを示したかったのだろう。群衆がショーウインドーを叩き割 ったり、主婦たちが米屋に押し入って勝手に米の値段を決め、廉売所を設けたり、群衆が米屋の焼き 討ちをするといった暴動に走ったのは、労働者として賃金をもらい、消費者として生きる、そういう 市民規範を一度完全にブチ壊し、市民としての自分を捨て去り、ゼロになり、そして別の生き方をや っていくんだ、という意思表示だったというのです。大杉栄が米騒動の所感を「ガラガラ・バラバラ・ ドシン」という表現で評したのにはそんな意味が込められていたのだとおもいます。

そしてこんなことも言っています。暴動というのは酔っ払った時のような感覚かも知れない。それ は一時的なものかも知れない。だが、その酔い心地、酔うことが自分にも出来たという感覚は手放さ ないようにしよう。そして時が訪れたら先ずは酔っ払え!と。

こういう大杉栄のもの言いは、知識人の革命論といった類のものではない。ものすごく庶民感覚や 気持ちを掴んだ言葉であり、思想だった。何でかと言うと、大正期まで、いや昭和に入ってからも、 長屋で暮らしていたような下層の庶民たちには、食べものを分け合ったり、味噌や醤油の貸し借りを したり、隣近所の子どもの面倒を気軽にみたり……といったお互いに助け合って暮らしていくコミュ ニティがまだ存在したからです。だが、社会の趨勢は繰り返し指摘したように、カネを稼ぎ、消費す るというライフスタイルが急速に形成され、それが市民規範とされる社会へと雪崩を打つように変容 していくわけです。その波に乗り損ねた下層の人びとにとって、そんな社会は息苦しく、ムカつくも のだったに違いない。そこに暴動の起きる火種があるのだ。大杉栄は、そう確信していたのである。

❖暴動は下層労働者の自己表現だ!

大杉栄は、大正時代に活躍したアナキストの思想家ですが、暴動論は現代でも十分通用する思想で す。先ほど皆さんとみた『山谷―やられたらやりかえせ』は 1980 年代に制作されたドキュメンタリ ー映画ですが、60 年末から 70 年代にかけ山谷・釜ヶ崎で日雇労働者の労働運動を指導した伝説の活 動家・船本洲治さんという人物がいるのですけれども、彼は「暴動は下層労働者の自己表現なのだ!」 と定義しています。これはまさに大杉栄の思想を引き継ぎ、さらに一歩前進させた思想といえるでし ょう。

船本洲治が対象として規定している下層労働者というのは、映画の中に登場していた日雇労働者や 当時の用語でいうルンペン・プロレタリアート、現代ならフリーターや野宿者たちなんですね。暴動 は、そういう彼らの自己表現なのだと言っているのです。これはその時代にあってはとても画期的な 思想だった。

それはなぜかと言えば、当時山谷や釜ヶ崎では、年間何件も暴動が起きていたのですが、左翼の人 たちは極めて無関心だったり、「連中はただ暴れまわっているだけ」と否定的な意見が多かったからで す。社会党や共産党などの左翼政党も、日雇労働者ら下層労働者が組織化されていなかったことや、 毎日酒を浴びるように飲む自堕落な人が多いという理由から、まともに支援をしていませんでした。 そういう状況の中で船本洲治は、下層労働者の暴動を「彼らの自己表現」と、極めてポジティブに位 置付けたのです。

大杉栄と船本洲治に共通する点は、 従来、一般社会からだけではなく、革新を標榜する左翼陣営 からも、三流市民などと低く見做されてきた下層労働者に対して、「市民のカラや市民規範など全部ブ チ壊していいんだ!」と呼びかけていることです。そして「下層労働者であることに開き直ろう」と も言っている。これは下層として下に見られるのではなく、自分から下層に落ちて行け、という考え 方です。ぼくのちょっと好きな言葉で言うと「自己野蛮性」を獲得せよということになりますし、開 き直った言い方をするなら『水滸伝』の主人公のように山賊になろう!ということです。

ぼくたちは今、山谷化・釜ヶ崎化があまねく一般社会に拡がっているという危機的な情況の中に生 きているようにおもいます。それゆえぼくら自身も暴動を必要としているのかも知れません。暴動と いうものをたんに物を打ち壊す行動と捉えるのではなく、これまでとは別の生き方を探し求めていく ために暴れて生きること、そういう生き方も広い意味での暴動ではないかとおもいます。

結論は、「暴れる力を取り戻せ!」、こんなところで終わらせていただきます。

(2015・9・26 プランB)

2015年11月14日

plan-B 定期上映会

相倉久人の居た風景
講演 / 平井 玄 (批評家)

相倉久人さんが亡くなった。7月8日、享年81歳。相倉さんは1950年代からジャズ批評を手がけ、70年代以降はロック、ポップス、歌謡曲にまで守備範囲をひろげていた。plan-Bでも80年代からずっと「重力の復権」というパフォーマンス・ジョッキーを続け、私たちの上映会でも87年11月にトークをしていただいた。
今回は、その相倉久人さんの追悼の意味をこめた上映会としたい。
お話をお願いするのは平井玄さん。上映委の初期メンバーでもあり、なによりニホンのジャズシーンとは切っても切り離せない新宿という土地に生まれ育った。平井さんは先ごろ『ぐにゃり東京』(現代書館)という奇妙なタイトルの本を上梓した。副題に「アンダークラスの漂流地図」とある通り、これは下方から切り上げた逆袈裟切り的都市論ともいえよう。
ジャズはなによりも〈場〉の音楽である。そしてジャズ・スポットとは、点は点でも、交差点というモノもヒトも行き交う場の一瞬間のことにちがいない。相倉さんはそういうスポット(点=場)に立ち続け、時代の半歩先と格闘するコトバを紡ぎ出していった。
もちろん、そうした相倉さんの当代一級の批評言語を読み解くことは大切なことだが、今回は平井さんが「漂流」し、歩きながら見た風景の中の「相倉久人」を語っていただくことにした。

2015年9月26日

plan-B 定期上映会

下層のアナキズム
講演 / 栗原康 (大学非常勤講師/アナキズム研究)

1918年、米騒動がおこった。のべ人数1000万人。未曾有の大暴動である。大正時代のアナキスト、大杉栄はこの暴動を大阪釜ヶ崎で目撃している。やばい、すごい。テンションのあがった大杉は、小躍りして群集をあおり、そしてこういった。「市民」がみずからの殻をつきやぶり、ゼロになってみずからの生をいきなおそうとしていると。
およそこの資本主義社会では、しあわせな家庭を築き、そのために充分なカネをかせぐことがもとめられている。それをいやがったり、うまくできなかったりすれば、人間じゃないようなあつかいをうける。そしてきまってこういわれるのだ。汝、「市民」になりたまえ。
でも、大杉はいう。ひとがどう生きようとひとの勝手だ。いやなら好きに生きればいいんだし、うまくいかずに虐げられているのであれば、それは「市民」とはちがう生きかたをしているというだけのことだ。その感覚を武器にしてたちあがればいい。みずからの抑圧された存在状況を武器にせよ。オレ、ろくでなし。無数のろくでなしたちが「市民社会」に亀裂をひきおこす。下層のアナキズム。これはいま現在にもつうじることだろうか。そんなことをお話しできたらとおもっている。

《テリーを思って──『山谷』特別上映会》

今回は、私たち山谷制作上映委員会のメンバーだった新井輝久(テリ―)追悼の特別上映会です。
plan-Bでもう部品交換もままならない16ミリの映写機を、30年近くずっと一人でまわし続けた新井輝久。その彼が5月のおわりに亡くなりました――。
●上映時間がいつもの19:00(pm7時)ではなく16:00(pm4時)となっていますのでご注意ください。

7月18日【土】
16:00〜  映画「山谷─やられたらやりかえせ」上映
監督 佐藤満夫・山岡強一 ドキュメンタリー/16mm/カラー/1時間50分

18:00〜20:00  新井輝久(テリ―)をおもう――音と話
出演 小間慶大、天麩羅劇場とその友達たち(伊牟田耕児、おかめ、吉野繁、西村卓也、サトエリ)
野戦之月合唱隊、リュウセイオー龍(踊り)、平井玄、他

20:00頃〜  テリーに献杯

● 場所 plan-B

「弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」 追悼・菅原文太

藤山顕一郎(映画監督)

司会 昨年の11月に菅原文太さんがお亡くなりになりました。いろいろマスコミでもやっていますが、僕らの世代では『仁義なき戦い』などを観ています。そして、菅原文太さんがいろんな活動をしていたことを見たり聞いたりしておりました。そこで、その『仁義なき戦い』をはじめとして菅原文太さんと公私ともに懇意にしていました映画監督の藤山顕一郎さんに菅原文太さんのことを話していただきたいと思います。映画だけではなくて、まあ1970年代ですから、どこでも運動というか闘争が起こってまして。そういうことに対して菅原文太さんも相当想いを寄せてくれたと。それがまあ、『仁義なき戦い』の中での名セリフ「山守さん、弾はまだ残ってるぜよ」を使った沖縄での言葉になったんじゃないか。紹介します、映画監督の藤山顕一郎さんです。よろしくお願いします。

僕がカチンコを打つ。まさにその後、あのセリフが…

藤山 寒い中たくさんお集まり頂きまして、それから菅原文太さん追悼というような意味も含めてこういう会を開いて頂いたことに感謝致します。ありがとうございます。今日いろんなことをお話させて頂きたいと思います。『仁義なき戦い』シリーズを撮影している最中に東京撮影所で東制労闘争というのがありまして。その頃に東京撮影所に支援のために来た後、ゴールデン街で文ちゃんと、菅原さんと一緒に呑みました。その時、ジュリーの「時の過ぎゆくままで」、これをバックに二人でもう狂ったように踊ったのを覚えてます。様々な思い出が……彼が亡くなる直前、沖縄で言われた「弾はまだ残っとるがよ」というセリフを、セットで撮影している時に言うわけです。山守役の金子信雄さんを前に置いて。その時、僕はカチンコを打っていました。まさに僕のカチンコの後にあのセリフが出てきたわけです。その同じセリフを、沖縄での彼の最後の舞台となった演説を聞きまして。僕はもう総毛立ってというか、本当に感動しました。そして亡くなった後、本当に悲しく思いました。健さんとも若干の関係がありました。仕事もしたことがあったんですけれども、その10日後くらいですか。訃報を聞いて来るべきものが来たなということだけではなく、様々なところで政治的な意味も含めて様々な共闘関係がありましたので、残念でなりませんでした。
そして、この3日前の3.11の日に文太さんの偲ぶ会をやったと、インターネット、フェイスブックで流れていまして。ちょっとビックリしました。そこには松方弘樹さんなど数人の俳優が来て、まあ良い会だったということだったんですが、たった170名、そしてその主催者が岡田裕介東映会長ということなんで、非常に怒り心頭に達しまして。夜だったんですが、岡田会長に電話をしましたがつながらなかったんです。
翌日、菅原文子さん、奥さんとお話することが出来ましたが、ちゃんと関係者に伝わっていないんだと。彼女もその会から招かれて行ったようなんですが。私としては、はっきりは言いませんでしたけれど、不本意でした。文太さんの遺志から言っても170名でコソコソとやるようなものではないわけです。彼の政治的、意識的……最終段階における見事にまで研ぎ澄まされた政治性。偲ぶ会をやるんであれば、それは今起こるべく、あるいは引き継がれるべき運動として、やっていかなきゃいけないと思いますし。僕は仲間とも話し合って、別の偲ぶ会を行いたい。そういう運動を起こしていきたいと思ってます。その時には皆さん、ご協力下さい。
司会 菅原文太さんの沖縄でのあの演説を、インターネットの映像で見て、元気そうな感じだったんですけども。「弾はまだ残っとるがよ」と。「一発残っとるがよ」と。『仁義なき戦い』の第1作目ですね。その最後のシーンであの金子信雄演ずる山守に対して言う。金子さんも役者として素晴らしかったんですね。つまり、ずるがしこい山守の姿がもうどうしようもないっていうような演技。昔はオールナイトかなんかで観たんですが、このあいだ、もう一度DVDを借りてきて観ました。それで1作目を観たらズルズルズルと全部シリーズを観てしまいました。おまけに『まむしの兄弟』シリーズも観まして。『現代やくざ』シリーズも観たかったんですけども、ビデオ屋さんにあまり置いてないんですね。前に、「勝新太郎とドキュメンタリー」というテーマで境誠一さんという編集者に話してもらったんですが、勝新太郎とはまた違った形で、菅原文太は面白いと思ったんですけど。

東制労闘争へのカンパの話――菅原文太と若山富三郎

藤山 勝さんが麻薬で捕まってハワイにいる時に、つまり日本に帰れなかった頃に、ちょうど僕はロサンゼルスにおりまして。日本には帰れないけれども本土には行けるんですね。で、ロサンゼルスで会いました。彼は麻雀がしたくてしょうがなくて、ロサンゼルスに来たんです。僕は麻雀はしないんですが。フジテレビのKさんっていう方がロサンゼルスの現地放送局の社長をしてまして、一緒にお会いした時に、眼の見えないのゴルファーの話なんだけど一緒に書いてくれないか、というんで拉致されました。100ドル札をボンボンボンボンとこうだんだん積み重ねていって。これでちょっと書いてくれっていうんで、結局3ヵ月間ホノルルで彼のマンションの隣に、彼のお付きと一緒にいました。
文太さんと似ているところは、そうはないです。むしろ兄貴の若山富三郎さんの方が……。東制労闘争の時の話です。『Gメン75』とかのテレビ番組を作っていた東京制作所というところで契約労働者の組合結成をめぐって労働者が解雇され、それに対して組合結成と同時にストライキを打つ。まあそういう闘いがありました。その解雇された中には、のちに『釣りバカ日誌』の漫画原作者となる、助監督のやまさき十三や、呉徳洙(オ・ドクス)という在日朝鮮人の監督でいろいろ賞を取った人達がいました。その闘争は、生産点実力闘争という形で行われたんです。それを支援する社員グループの中に、当時『さそり』の監督していた伊藤俊也さん、今は監督になっていますが、助監督の澤井信一郎さん、小平裕さんなどがいました。京都は、僕も一時委員長であったりはしたんですけれども、共産党が執行部を握っていました。東映グループでは、全東映労連というのがありまして。全東映労連の中央執行委員会、執行部というのはある党派の皆さんだったわけです。それで、その全東映中執の方針というのが、解雇撤回の裁判闘争をやれということでした。僕達は生産点実力闘争、ストライキと大衆運動でその局面を打開していく。解雇撤回させていく。まあそういう方針でやっていましたので、三つ巴の闘いがそこにはあったわけです。ちょうど72年から78年までです。
それで、その時にいろいろカンパを求めていくわけです。文太さんはいつも、こちらがお願いしますと言えば、何万とか何十万ではなかったですけど、まあ1万円とかをカンパしてくれたわけです。それで同じような趣旨で若山さんの部屋へ行くと、「おい、文太はいくら出したんだ」と。それで1万って言ったら2万出してくれる。これもエピソードですけれど、たまたま千葉真一に出会いまして。千葉真一は2000円しか出してくれませんでした。そんなこともありました。
また勝さんに戻しますと。勝さんは本当にもういろいろエピソードがある、まあ豪快と言いますか。それでホノルルで3ヵ月経ってシノプシスが出来た。勝さんと若いガールフレンド――奥さんもごぞんじのことでしたから、言ってもいいでしょうが――それとお付きのK君と僕と4人で、僕が借りてた白いジープでしょっちゅうノースショアの方とか北の方に行って、バーベキューとか贅沢三昧をしていました。ところが、3ヵ月経った時に、勝さんが「やっぱり日本に帰る」とこう言い出して。それで日本に帰って裁判を受けて、有罪になったわけです。

「太秦妖蛇城」といわれた東映京都撮影所へ

菅原文太さんとは、『まむしの兄弟』の時に、71年だったと思うんですけど、僕は初めて仕事を一緒にしました。凄い人でした、最初から。僕は当事、度付きのサングラスを、色メガネをかけていて小難しい事ばっかり言ってました。藤純子さんなんかには「何あれ」とか、もう無愛想だったし。70年入社で、60年代学生運動から逃げ出したという、まあ逃げ出しました、はっきり言って。それで東映に入ったわけです。で、「全学連が来た」と言われてて。無愛想でどうにも鼻持ちならない奴だったんですけれども。文太さんはなぜか僕にやさしくしてくれました。それと、中島貞夫さんも書いてますけど『家畜人ヤプー』っていう小説について、マゾヒスティックな話だし、暗い話なのであまり人が話題にしたがらないような頃に、「こんな面白い話があるんだけど、どうだ」なんていう話をされたりしました。その後も様々な個人的な関係があるんですけれど。
文太さんは、深作欣二さんというよりは中島貞夫であり、さらに鈴木則文、後の『トラック野郎』の監督の鈴木コウフンさんの方がむしろ仲が良くって。あの現場ですぐ興奮してギャギャギャギャ言うんで、僕らはコウフンさんと呼んでました。それから天尾完次さんという非常に優秀なプロデューサーがおりまして。これは当時、岡田茂、俊藤浩滋という大プロデューサーがいる中で、唯一オリジナルの石井輝男のまあエロ映画――「くノ一」シリーズだとか様々な映画をつくったプロデューサーです(当時東映京都の労働組合がエロ映画反対闘争なんていうのをやったんですが、その標的にされました)。菅原文太、鈴木則文、天尾完次。彼ら3人は昭和8年生まれの酉年生まれなんですね。これが仲良くって。僕はその一回り下の酉年。酉年4人組がよく一緒に酒を呑んだっていうようなことがありました。
その頃、深尾道典という先輩の助監督が東映京都撮影所のことを「太秦妖蛇城」というふうに呼んだ、まあ魑魅魍魎どころか、とんでもない恐い所でした。俳優さんはみんな行くのを恐がりました、特に女優さんは。それくらいいろいろある所でした。で、ヤクザ映画の全盛期の頃にはマキノ雅広さん、加藤泰さん、田坂具隆さんなど大先輩が闊歩していまして。高倉健さん、その前は錦之介さん、東千代之介さん。山の御大、海の御大と言った大河内伝次郎さん。大スター達が闊歩する、そういう撮影所で、独特だったとみんなが言います。それは東撮とも違うし、松竹大船とも、あるいは松竹太秦とも大映東京とも京都とも、全く違う撮影所だった。文太さんもそこに1967年に来られたわけですから、さぞ心細い思いをされたんじゃないかと思います。前の松竹では散々干されていたわけで、そこで知り合った鈴木コウフンさんと仲良くなった。その後『トラック野郎』で再会してヒットを飛ばすわけです。なんか必然的なような気がします。その理由をうんぬんするには『仁義なき戦い』からの新たな状況の転換があるわけですけれども。

ものを言うスター、それは文太さんが初めてじゃないか

司会 ちょっとお聞きしたいんですが、菅原文太さんがその『家畜人ヤプー』に興味を示していたというんですが、そういうものに対する役者っていうんですか、、あるいは表現者っていうんですか、その姿勢と、晩年の政治的な対応、時の権力に批判的な対応をとっていく、その整合性っていうのはあるんでしょうか。ちょっと曖昧模糊とした質問になっちゃうんですが。
藤山 彼は、役者である自分とスターである自分をはっきり分けて考えていたと思います。東北から出て来て、それでファッションモデルをしたり、とにかく食うため、役者になったのも食うためだという。これは当時の健さんなんかもそうですが、こう非常に高邁な思想で演技することに目覚めたとか、そんなことではなく、あの時代背景の中で俳優という職業を選んだということだと思うんです。実際、そういうふうに本人達も言ってました。そういうことで言うと、勝さんとか若山さんとか、あるいは錦之介さんとは全く違うわけです。錦之介さんの場合は、僕は『柳生一族の陰謀』というので初めて仕事をしたんですが、まあ生まれながらにして俳優ということです。そこで思うんですが、スターっていうのは、スターの役割というのは両刃の刃であって、石原裕次郎や勝さんが果たした役割というのを政治状況やそういった社会の秩序の中で、権力の側、支配者の側に使われる場合の方が多いんです。そうでない立場は、意外とつい最近までなかった。
アメリカや欧米なんかの場合は、ピーター・フォンダや、ジェーン・フォンダあるいはビートルズであっても、この世の中をいい方向に少しはもっていくことが出来るんだというようなことでやったスターがいました。実際に物凄いギャラを取ってますし、それを力に変換する形で運動に寄与できるという。ベトナム戦争の歴史からみても、現在もいろんなところで活躍するスターがいますね。ところが日本のスターにはそういうことはなかったわけです。ほとんどどころか全然なかった。それで今、ジュリーであり、菅原文太さんであり、吉永小百合さんであり、ものを言うと。で、世の中の大きな流れに対して、スターが自分の立場はどっちだというふうにはっきり言う、それは菅原文太さんが初めてじゃないかなあ。今は山本太郎が、といっても彼は本当の意味でスターだったというと、そうじゃないので。そういうことで言えば菅原文太は初めてのスターで……。

アウトローは影の部分でこそよく映える

司会 藤山さんは東映を辞めて海外に行くわけですね。そこでアメリカで、『仁義なき戦い』などの深作欣二監督に対しては、『パルプ・フィクション』をつくった監督のタランティーノなどはすごく買ってるわけですね。アメリカ人にとって『仁義なき戦い』みたいな実録もの、ヤクザものに対してどうなんでしょうか。もちろん、この『山谷-やられたらやりかえせ』の監督二人がヤクザに殺されてるんで、ヤクザに対しては、本質的には僕は大嫌いなんですけど。ただ、そういった映画における情念というか、そういうものはアメリカではどうなんですかねえ。
藤山 やっぱりアウトローを描くというのが、もともと西部劇からしてそうですから。人物本人もですけど背景が重要になってくるわけですね。僕はタランティーノと実際に『キル・ビル』の現場でお会いしたり、それから一緒に食事をしたり。深作一家っていうんで、僕は非常に歓待されましたね。文ちゃんの話も出ました。サム・ペキンパーあるいはタランティーノは深作さんを非常に評価してる。
アメリカ映画の現場的なことで言えば、ワンシーン・ワンカットで、ずうっと、タランティーノでもそうです。ワンシーンを回してタイトショットを刻んでいく。深作欣二監督で僕達が初めてハリウッドと合作でやった『復活の日』という映画。角川映画だったんですけれども、資本は全部日本が出して、当時のお金で28億円という予算でした。カナダのトロントにセットを建ててやったんですけど、その時に、深作さんは日本のシステムだから日本の形でやりたいっていうんで、カットをかけるんですね。芝居の途中で。あるいはアクションの途中でもカットをかけるわけです。そうすると、アメリカのグレン・フォード、ロバート・ボーン、チャック・コナーズ、オリビア・ハッセーなどのハリウッドの大スター達はカットをかけられると、それはもう「俺の芝居は悪いのか」と。リズムを切っちゃうっていうことで、物凄く嫌われるというか。特にボー・スベンソンという準主役の、ハリウッドでもうるさ型で知られる男がもう食って掛かってきて。それで現場が混乱して、木村大作というキャメラマンは「これは日本の映画なんだから、日本の資本なんだから」ということで喧嘩を売るような形になって。大変な騒ぎになったこともあるんです。
そういうことを知っていたのかもしれませんが、タランティーノは「それでいいんだ」って言うんですけどね。ハリウッドの有名なギャングの映画はたくさんあるわけですけども、例えばコッポラの『ゴッド・ファーザー』。ああいう映画と対比して『仁義なき戦い』シリーズは、どちらかといえばサム・ペキンパーの方に近いわけです。だからといって相対するような関係性もない。やっぱり、映画はアウトローであったり、太陽の下でその光を燦々と浴びるように現象されたものよりは、影の部分にした方がよく見えるというような表現の方法なんじゃないかなと思います。
菅原文太さんは、そういう意味で言うと『仁義なき戦い』シリーズでのあれほどの迫力を、持って生まれた暗さと言いますか、それを逆に武器にして出す。また、チンピラヤクザが闇から闇に葬られていくということを表に出していって、世の中の矛盾を突いていく。そして成田三樹夫さんや金子さん、遠藤太津朗さんなどの役者群が見事に演じる、まあ本当のワル。そのワルに対してダメでも狂犬のようにかかっていく。それは、必ずしもいい方に闘っていくわけじゃないですね。しかも『北陸代理戦争』では、文ちゃんはこれを拒否したんです。実際にヤクザがたくさん亡くなっているわけです。で、そういう実録ものというのはもうネタがない。事実を忠実になぞっていくようなものは映画とは言わないわけですから。まあネタがなくなって笠原和夫さんという脚本家を使ったことも大ヒットにつながったんですけども。最後は高田宏治という脚本家になって。実録路線というのは衰えていく。

『仁義なき戦い』から『県警対組織暴力』、そして『トラック野郎』へ

深作さんというのはドラマトゥルギーに関しても、あるいは人物設定にしても本当に凝る。脚本段階で何人かの脚本家と一緒に書くというか、いろんな案を出します。すると、その時の彼のスタイルとしてはホワイ、なぜ。ホワイ、なぜです。例えば、僕あるいは神波史男さんという脚本家がずっとスジを、ストーリーを話していくんですが、途中でホワイ、ホワイと言われると完結していかないんですね。脱線するんです。脱線を楽しんでるふうが非常にありまして。だから脚本になった段階では、かなり完成度が高い。そういう深作さんだったんですけど、5本目になる『完結篇』では、もう嫌になっちゃってたんですね。それでその後『ガルシアの首』ていう映画があった頃に、『新仁義なき戦い・組長の首』がつくられるわけです。そして『県警対組織暴力』になっていきます。『県警対組織暴力』にいたってはデカでありながら、そのヤクザの上前をはねる悪徳デカを文ちゃんがやるわけです。ですから、本人の倫理感もシナリオの中でよほどこなれてないとやってられねえやという感じになると思うんですね。
その後に『トラック野郎』になるんですね。鈴木則文さんが監督をすることになって、文ちゃんとしては今までやったことのないようなひょうきんな――『まむしの兄弟』でそのきざしはあったんですが――まあひょうきんではあるけど、アイロニーというか、まさに役者というその有り様を示した作品だったと思うんです。それが10本のヒットシリーズになった。でも、最後の方はもうやる気をなくしてたみたいで、「10本でやめるんだ」って言ってやめたわけです。だから、いろんな時代というか、時々でスタイルは変わってくるんですが、彼自身の役者としてのラディカリズムを追求する、この意志というのはずっと一貫してあったと思うんですね。
僕が最後に彼と仕事をしたのは『リメインズ』というサンカの話です。これは熊に襲われた部落のサンカ達がその熊に対して復讐を果たしていくという話です。その頭領の役を文ちゃんがやったんです。冬でした。山頂で撮影するにはヘリで上がらないといけないんですが、主役の真田広之と監督であった千葉真一と大喧嘩になりました。千葉真一は初めての監督なので監督に専念してまして。これを企画したのが深作欣二。松竹映画でした。ただ、スタッフで東映から行ったのは僕だけでしたが、東映勢が多数出演してました。その山頂で、真田広之と千葉真一がおりる、おりないの話になったんです。その場は1日休みにして、なんとかなったわけですけども、その後も冬の作品なのに7月に松竹京都でまだ撮影していた。これは深作欣二が悪いんですけどね。そんな状態で、実際9月に封切ったんですが、まあ文ちゃんにはギャラは払われたと思うんですけど、僕なんかにはギャラが払われなくって、大変なことになった。それで、文ちゃんは初日舞台あいさつを拒否するということになって。そんな作品があったんです。

3.11以降、様々なところで接点があったんですが…

それを最後に、僕はアメリカへ渡るわけです。そして、文太さんは当時、東麻布に住んでおられたんですが、「アメリカ行きます」と僕が報告に行くと、いくらかでもくれるかと思ったら「逃げるのか」と……。UCバークレーのタワーを安田講堂に見立ててインターナショナルな、つまり日本人の学生ばかりではなくて、当時世界を揺るがした60年代後半の世の中を、革命へのテーゼとして描きたいっというふうに思った。それはハリウッドでしか作れないだろうと勝手に思ったわけです。東映で18年間、助監督としては15年間在籍しました。結局、B班監督とかはやりましたけど、監督にはなれずでした。僕より年上の助監督が何人もいましたので、こんな所にいたらもう監督にもなれないと思って、アメリカ行きを決意したわけです。そこでは、自分がプロデューサーとしてやろうという話もあったんです。でも、僕が日本に戻る前に勝さんは亡くなり、そういった意味での海外での収穫みたいなものは消え去ったわけです。で、1998年に日本に戻りました。文太さんはその頃テレビなんかに出ていたと思います。息子さんが亡くなった時も、知ってはいたんですけども、お悔やみを言うわけでもなく、3.11になってしまいました。その直後から彼は表舞台で、反原発の動きをされるようになりました。
前後しますが、日本に帰ってきてから、第一次安倍内閣が改憲をするぞというような動きの中で、僕は9条改憲阻止の会という団体を立ち上げることに参加しました。それで今も9条改憲阻止の会は経済産業省の横にテントを張って。反原発運動の拠点になっているわけですけれど。そのテントを一番最初に張った2011年の9月11日、その時から運動に参加していて、なおかつずっと現在までドキュメンタリーとして撮影をしています。そして、日本に帰ってきてすぐの、第一次安倍内閣の時に『We命尽きるまで』というドキュネンタリー映画を撮りまして、劇場公開もしました。今、入口の所にそのポスターを貼ってあります。
僕は東映にいる時よりも、アメリカに行って帰ってきて、2006年からの方が政治運動を具体的に行っていて、今は一応活動家になっています。ということは、菅原文太さんとは2011年以降、様々なところで接点があったんです。大きな集会で僕がキャメラを回して、レンズの向こうに文太さんを見るという状況が何度かありました。経産省テントで青空放送というインターネットテレビを開局して放送をしていたんですが――今ここにもスタッフの一人が来ております――その中で文太さんに登場してもらおうとい話はあったんです。ただ、交渉する以前に局そのものがなくなってしまいました。とにかく文ちゃんに会わなきゃ、会っていろいろ今後のことも、運動のことも話さなきゃ。そして今、僕が準備している、3.11をテーマにした劇映画があるんですが、その映画にも文太さんに協力してもらいたいと。しかし、会おう、会おうと思っているうちに訃報を聞くことになってしまいました。本当に心の底から、僕は残念だし哀悼の意を表したいと思っているんです。
それで先ほどの話に戻ります。勝手に170人くらいで追悼集会をやったっていうんで、非常に頭にきているところです。3日前に発行された『現代思想』という本の中で、インタビューを受ける形になって文ちゃんのことを僕が話しています。そして今日こういう会が開かれるのは、冒頭にも言いましたが、本当にありがたいと思っています。

菅原文太が遺した二つのこと――映画を通しての発信を

司会 そろそろ時間も少なくなってきました。何か質問や意見がありましたらどうぞ。ございませんか。はい。
参加者 藤山監督がおっしゃってた中で、経産省の前に今、脱原発テントが建って、今年で4年近くになるわけです。そこに右翼が押し寄せて来て、暴力を振るう。しかし、一切マスコミは報道しないですね。経産省の真ん前で、経産省の建物は映すんだけど、絶妙な角度で絶対にそこを映らないように建物を映す。まあこれはある意味、プロだなあと思うんですよ。ちょっと引けば映っちゃうんだから。そういう運動があるんだと、全世界や日本国中に知らしめることが出来るはずなのに、それをないがごときにする。また右翼なんかが暴力を振るっても、これも全然マスコミは報道しない。そこで、ネット放送で、青空放送っていうことで、自分達でそういう武器を使って世界に広めようと。藤山さんなんかの発案があって、僕は言われて看板の背景描きに行ってたりしたんですけどね。それが今4年目にして判決が出されて、「出て行け」と。それから今まで居座った分の賃貸料を2000万とか3000万とかを出せっていうようなことになってます。今、沖縄の問題とか、それからテントの問題とか、突出している事がモグラ叩きみたいに出ては潰され、出ては潰されっていう状況をどのようにこれからつなげて、やっていくのかっていうことをちょっとお聞きしたいと思いまして。
藤山 方針に関する問題が提起されました。文太さんは、沖縄で「弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」という発言の前に、こうも言っています。「政治の役割は二つあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと」と。そして、奥さんの文子さんもこう書いています。「小さな種を蒔いて去りました、一つは無農薬有機農業を広めること、もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないということ」と。文太さんが、最後に種を蒔きました。重いテーゼを遺しました。かつて僕らが概念的だった、なんでもかんでも運動、運動をやればいいということだけでもない。でも、なおかつそこに撤するべきだという、いろんな反省を含めてやっていかなきゃいけないと思うんです。
いずれにせよ、テントに関しては、これは表現の問題である。憲法21条に国民は集会をする、あるいは表現をする権利がある。つまり経産省のあの小さな地域にテントを張って、そこで原発の是非を問う、責任を問う、あるいは廃炉に向けたあらゆる方針を提起していく。福島から本当のことを世界に向かって発信する拠点として、あの位置を確保するということは表現の問題である、というふうに解釈します。で、僕達は映画というものを通して、その表現、思想を、そして政治的なテーゼを世界に向けて発信していきたい。今の質問に答える形にはならないのかもわかりませんが、具体的に例えば強制代執行が行われるかもしれない。あるいは右翼の大攻勢があるかもしれない。それに対して、暴力的に実力闘争で立ち向かうかというと、僕個人としては今だに暴力主義者ですけれども、暴力をそのまま行使しても、それはあまりいい方法ではないなあと。テントがもし壊されるならば、それはもういい。右翼が襲って来るならば襲わせればいい。僕らは逃げます。ただ1日逃げるだけです。すぐ帰って来ます。すぐ帰って来て、また建てます。あるいはまたそこに放送局をつくるかもしれない。僕らは映画という方法を持っています。で、僕はドキュメンタリーもやりますが、やっぱり劇映画出身ですので、劇映画として世の中を震撼させるようなものをつくって、それを武器とすることが出来ればと思います。
テントをどこまで維持し、なおかつその趣旨をどこまで広範囲に広げていくかという問題があります。また映画監督協会の一つのテーゼとして表現の自由っていうのを掲げています。経産省テントの行動様式が表現の問題に関わっているのと同じように、映画監督協会の著作権の問題で、表現の自由ということがテーマにあがっています。共闘という関係がこれからつくられていくと思います。現在、集団的自衛権、秘密保護法に代表される敵の側のひどい攻勢、そして予測される憲法改悪に向けての流れがあって、非常に切迫した形になっています。僕は、まず頭を使って行動することを訴えていきたいと思っています。
司会 そろそろ時間になってしまいました。まだ話が続きそうなんですが、ここは片づけなどもあってそろそろお開きにしなければなりません。ただ、隣の部屋で飲み物なども用意してあります。時間がある方は、そちらに移動して藤山さんの話の続きをお聞きください。それから最後に一つ、入口の所に藤山さんが監督をなさいました映画が二つあります。一つはさっき話に出ました『We命尽きるまで』、それからもう一つは『みなまた 海のこえ』というDVDで、両方とも3000円です。もし興味がありまして、なおかつ懐にちょっと余裕のある方がありましたら、ぜひお買い求め下さい。本日は寒い中をどうもありがとうございました。藤山さん、どうもありがとうございました。

[ 2015 , 3.14   plan-B ]

2015年5月16日

plan-B 定期上映会

「テロルの季節」から──「インパクション」休刊に寄せて―
講演 / 深田卓(インパクト出版会)

左派の運動誌「インパクション」が昨年末に休刊した。1979年の創刊だから(創刊当時は「インパクト」)、35年間、別冊などを加えると200点を超 える ことになる。そのひとつひとつの「特集」をたどってゆけば、80年代、90年代、そして21世紀冒頭の問題群が次々と浮かびあがってくる。
休刊号(197号)の「編集後記」にあるように「この雑誌の周辺に、世代も考え方も違うさまざまな人が読者だったり執筆者になったりして雑誌と絡まりあい、並走しながら時代と格闘してきたのだ」。
そ の第197号の特集は(なんと!)「テロルの季節」。いかにもこの運動誌らしく、時代の予兆を写し取っているといえよう。この35年間は、それ以前の「過 去」と呼ばれる時間帯と切れることなく結びついており、また「未来」とも陸続きの35年間である。わたしたちは何を問題とし、どのような世界を思い描いて いたか?──「インパクション」編集人・深田卓さんをお招きして語っていただく。

みんなの公園──野宿者排除と「公共」のアクティヴィズム

浜邦彦(早稲田大学教員・ストリート研究会)
 
 こんにちは。早稲田大学で教えてます、浜と言います。もう一つの肩書きは「ストリート研究会」となってます。これは大学教員なんかが科学研究費を貰って3年間の期間限定のプロジェクトでやっている研究会です。私が代表になっていて、これは、渋谷のアートアクティヴィズムというか、アートを使って野宿者排除と闘うというか、これからお話する「表現」──公共的な表現とそれから公共性という名の下に排除が進んでいく、その間のせめぎあいみたいなことをテーマにして研究会を少しやってきました。そうした話を映像もお見せしながら話したいと思っています。
非常にインパクトの強い映画『山谷』を観たばかりですが──実はこれまで何度もこの映画を観る機会があったにもかかわらず、その機会を逃し続けてきて、今回上映委から話してくれって呼ばれて、ようやくそのDVDお借りして観たのが2ヵ月くらい前なんですけれども──今日改めて観て、例えば最後の方に出てくる筑豊の山の中にいきなりドカンとコンクリートの建造物が廃墟のように出てきたりとかですね、ちょっとびっくりするんですよね。
それは2011年の3月11日以降のあの風景。もちろんこの『山谷─やられたらやりかえせ』という映画は、日雇い労働者を中心に撮っているわけですが、最後に「Romusha」って言葉が出てきましたね。なかば棄民の様にしてどんどん移動していく人達。そしてそれは80年代だとやっぱり建設労働が多いと思うんですけれども──寿(横浜)の場合だと港湾労働なんかもありますが──しかしその建設労働だけでなくて、実はその原型はどうやらエネルギー産業にあったらしいと。筑豊にロケをして、そこに今はもう半分廃墟みたいになっている炭鉱の町ですね、そここそが飯場の原型だったのだというようなことが指摘されています。今日、びっくりしたというのは、この映画だと思ってなかったんですよ、あの映像を。もちろん観た記憶はあるし、2ヵ月くらい前に観た映画の内容を、もうすでに忘れているんじゃなくて、もうこの映画だと思わないくらいに自分の中に染み付いていた風景なんですね。それは最後の方の、石がただ置いてあるだけの朝鮮人のお墓ですね、その近くに日本人の立派なお墓かと思いきや、実はペットのお墓だったなんていう、あのシーンにしてもそうです。ぼくは、今日改めてそういうことがよみがえってきたような印象を受けています。
そこからどうやって今日の私のテーマである「みんなの公園」というところにつなげていくかっていうのは、話ながら皆さんと考えてみたいというか、皆さんからもいろいろ意見を聞きたいと思っています。時間も限られていますので話に入っていきたいと思います。
はじめに「246表現者会議」、2番目に宮下公園の「ナイキ公園」化、3番目が「公共性」っていう順にハンドアウトを作ってみました。まず宮下公園の映像──1分くらいの短い部分ですけれど『ゴーストトラヴェリング』という映像を観てみましょう。ちょっとしたミニミニショートフィルムです。

渋谷・宮下公園――
*『ゴーストトラヴェリング』上映

お分かりになったでしょうか。これが2010年の3月くらいですか。原宿駅を出て山手線でずっと渋谷まで行く間に一瞬ですけれども宮下公園の前を通った所に大きなバナーがあって、「ナイキ悪い」とか書いてあったりするんですね。ご覧になって気が付いた人、あるいはリアルタイムで見たことある人はいらっしゃいますか?(数名が手を上げる)。ああそうですか。その「移動」っていうことで言うならば、おそらくこの1分ちょっとですかねえ、原宿駅を出てから渋谷駅まで。これが2010年の私達──例えば僕のような電車で通勤してるような人間にとっては、かなり日常的な移動の風景だったりするわけですね。何気なく毎朝見ている。その中にこう一瞬だけなんか書き込まれてるというか、むしろ切り取られてるようなそういう場所があって、それがこれからお話する宮下公園の、ナイキ公園にされてしまうということに対する抗議のバナーだったんですね。
どれだけの人がこれに気が付いていたかわからないんですけども、でもこの活動は相当にユニークな表現をいろいろに使っていました。そして日雇い労働者というわけでは必ずしもないかもしれませんが、宮下公園には一時期は30人くらいの人がずっとそこに居住していました。そういう空間である宮下公園が今ひらがなで「みやしたこうえん」っていうふうになっていて、実質ナイキジャパンが管理するような、そういう空間になってしまった。その過程でそこに住んでいた人達も排除されていく、そうしたことが起こっていた場所なんですね。と同時にそれに対する様々な抵抗の表現が、特に2010年くらいにワァッと集中して出現した。ある意味、あえてこんな言葉を使うとしたら「ホットスポット」のような、そういう場所であったんじゃないかという感覚を僕は持っています。
ホットスポットなんて言うとちょっとびっくりするかも知れません。最近では、放射能汚染のホットスポットっていうような使い方がもっぱらされているわけですけれど、例えば山口県の上関原発の建設予定地──あの田ノ浦ですね。向かいに祝島っていう島があって、そこの漁師さん達がもう30年くらいずっと建設に反対している、その田ノ浦の海が生物多様性のホットスポットと呼ばれていたりします。あるいは沖縄の普天間基地のいわゆる移設先とされている大浦湾、辺野古の海ですね。そこも絶滅危惧種であるジュゴンが住んでいるようなホットスポットであったりとか。そういうような意味で、もしかしたら私達のそうした、日常性の中にどんどん埋め込まれていってしまう──映画『山谷』がずっと山谷から寿、さらには筑豊までさかのぼって取り出してみせたような大きく言えば近代の日本、その脈々と受け継がれてきた「棄てられた者達の記憶」のようなものですね。そうしたものが立ち現われてくるような、そういう特異点というか、それを「ホットスポット」という比喩で言ってみようかというふうに思ったわけです。もしかしたらそういうものが一瞬あったかもしれない。それが、僕は2010年の渋谷・宮下公園だったんじゃないかと思うんですね。
まず、僕自身がどういうふうにそのことを知るようになったかということから順に話をしていきたいと思います。1番目の「246表現者会議」。

246表現者会議――
*「新宿区ダンボール絵画研究会」のサイトから新宿西口の映像
http://kenkyukai.cardboard-house-painting.jp/

これは武盾一郎さんっていう、僕と同い年のストリートペインターというか、画家の絵です。
1995年から6年くらいにかけて、新宿の西口の地下にたくさんのダンボールハウスがワァッと密集していた時期があったんですね。野宿者の人達が新宿西口に集まって、かなり立派なダンボールハウスをどんどん建てていき、そこにダンボールハウス村ができるという、そういう時期がありました。さっき観た『山谷─やられたらやりかえせ』は80年代前半ですけれども、80年代の後半になると日本経済が、今日で言う「グローバル化」にシフトしていき、外国人労働者がものすごく増えてくるんですね。それが90年代に入ると、いわゆるバブルの崩壊の時期になる。80年代後半というのはもう建設ラッシュで、こういう(plan-Bのような)コンクリート打抜きみたいな建物があちこちにボンボンできたりした、そういう時期だったんですけど、それが90年代に入ると今度はどんどん不況になっていって、いわゆるホームレスが街中に目につく形で増えてきた。これが90年代の半ばから後半、そして2000年代にかけてではないかと思うんです。
その頃に、新宿西口の地下にあったダンボールハウス=ダンボール村に、こういう絵を描いて活動をしていたのが武盾一郎さんや、山根康弘さんとかですね。これはダンボールの持ち主、まあ家ですからね、その家主さんであるセンパイ達──「センパイ」っていうのはさっき『山谷』でも使っていましたけど、野宿者の仲間のことをセンパイと呼ぶんです。センパイ達に1軒1軒「ここに描いてもいいですか」と聞いて、そしてその場で感じたインスピレーションを、ペンキで作品にしていくというものです。それが僕には非常に面白かったんですね。その頃僕は大学院生でしたけれども、そこを通るたびに何ていうかなあ、気持ちが高揚するというか、なんか癒されるような、そういう感じがありました。しかし、この西口地下っていうのは1日何十万人か、そのくらいの人が往来する場所です。しかも新しい都庁が新宿にできました。そしてそこへ向かう人達が一度はここを通って行くわけですね。で、目障りだと、通行の邪魔だと。ここはみんなの場所であると、公共の場所であると。そんな所を勝手に占拠して住んでいる汚らしい人達は迷惑だと。まあこんなふうな言い方をされて、そして当時の都知事だった青島幸男をはじめとする東京都が、とにかくダンボールの家を撤去するということが1996年に起こるわけです。──その話を詳しくするとそれだけで終わっちゃうんで、今はこういう表現があったってことをぜひ皆さんに知っておいて欲しいと思います。今日のハンドアウトの後の方に参考としていくつかURLを書いてありますが、その中のこれは「新宿区ダンボール絵画研究会」のサイトからリンクしている武盾一郎さんのサイトです。ここでこうした写真を色々見ることができますので、ぜひご覧になってください。
その武さんに、僕は2008年になって再会したんです。それは確か「フリーターメーデー」かなんかだったと思うんですけど。彼は95年、96年にこういう活動をしていて、96年の1月にダンボール村が撤去されると、今度は神戸に行くんです。つまり95年の阪神淡路大震災の後、仮設住宅にたくさんの人が住んでいると。まだ街は更地がいっぱい残っているような、そういう状態ですね。そこに行って活動していたようです。で、2008年に僕が彼に再会した時には、「246表現者会議」っていうのがちょうど立ち上がってくる頃でした。これは何かって言うと、渋谷駅の恵比寿側に、246玉川通りと直角に交わっていて、そこがガードになっています。そのガード下を246通りが通ってるんですけど、そこにたくさんのダンボール──人が一人横になれるくらいの大きさのダンボールの、まあ「ロケット」っていうんですけども、その仮の宿が並んでいたんです。ところがそこに、2007年の10月かな、「移動のお願い」っていう貼紙がいきなり貼り出されたんですね。この貼紙の主は「アートギャラリー246」とか渋谷区の「渋谷桜が丘まちづくり協議会」。たぶん近くにある日本デザイナー学院の学生さん達を使って描かれただろう、何か奇妙な壁画が、のっぺりとした壁画が描かれて、そしてそこに「移動のお願い」っていう貼紙が出されたんです。何の「移動」かっていうと、つまり野宿者の人達が住んでいるその「ロケット」を片付けなさい、撤去しなさい、ここにいてはいけませんということなんです。なぜならここは「アートギャラリー」だからですと。その「アート」っていうのがつまり「ペンキ絵」ですね。ペンキで日本デザイナー学院の学生さん達が描いたとおぼしきペンキ絵が、確かに言われてみれば「あ、そうかな」という形で描かれているんですね。確かに武さんも新宿西口地下で、行政には無許可でペンキで絵を描いていました。しかしこの二つは全く違う性質のものだと思います。
それに一番最初に反応したのは、代々木公園のテント村に「エノアールカフェ」っていう、ルノアールならぬエノアール──絵のあるカフェっていう物々交換で開いてる喫茶店というか、そういうスペースがあるんですけども、そこに暮らしているいちむらみさこさんと小川てつオさんたちです。自ら野宿生活をしているアーチストですね。特にこのいちむらさんは、246のガード下の排除──それも「アートギャラリー」という名で、アートの名を借りて野宿者を排除するっていう、そのことに鋭く反応をして、自らそこに「ロケット」を作って住むという形で活動を始めたわけです。いわばパフォーマンスですね、アートパフォーマンス。それ自体がアートであるというような形での活動です。それにショックを受けて、あるいはインスピレーションを受けて集まった人達が、渋谷の駅のまわりでこうダンボールを敷いて、「表現者会議」っていうことを始めたんです。

表現と差別――
*映像
http://minnanokouenn.blogspot.com/

まあこんな感じでです。よく見ると壁の所になんか模様があると思いますけど、あれがたぶん「アートギャラリー」の部分です。いろんな人が入れ替り立ち替り参加していて。路上にダンボールやブルーシートを敷いて、そこで表現と排除に関わることの会議をやるという、そういう活動をもう既に30回くらい重ねてきています。本当にいろんな人が来ていて、最近話題になったChim↑Pomの卯城竜太さんも参加していたりとか。まあ非常に面白い活動だなあと思って、僕も何度かそれに参加させてもらうようになったんですね。
 この「246表現者会議」が、表現の問題ということで、例えば上野公園──上野公園にもブルーシートの小屋がたくさんあったんですけど、それが撤去された。そのことを巡って、台東区がやったコンペティションに応募する作戦を立てたりとかしました。あるいは新宿駅の東口の地下に「BERG」というお店があります。この「BERG」で「246表現者会議展」をやったりとか。「BERG」は、武盾一郎さんの新宿西口の作品を──あれは全部撤去されちゃったんで現物が残ってないんですよね。写真としてしか残っていない。でもその写真をずっと撮ってきた方がいて、それを展示したりとか。まあそういう小さなスペースです。さっきの言い方で言うならば、それも「ホットスポット」かなと思うんですけども。そういったことに関心を持った人達が集まる場所になっていったんですね。2008年には、北海道の洞爺湖でG8サミットがありましたが、それに対抗して「渋谷G‐サミット」なんてのをやったりとか。あるいは、「BERG」は、新宿の駅ビルのルミネがそういう小さい飲食店をなくしたいということで、追い出しにかかったんですけど、それに対抗してルミネの中で仮装して歩き回ったりとかしました。それもある種のパフォーマンスアートで、様々な形で都市空間、あるいは公共空間と排除の問題を訴えるような活動を続けてきたんです。

 「アーチスト・イン・レジデンス」

最初は、ナイキジャパンとの命名権、ネーミングライツの契約ということで渋谷区立宮下公園を「ナイキ公園」に変えるというような、そういう話だったんです。でも、実はその命名権契約というのが大変問題がある内容でした。渋谷区にしてみれば、宮下公園にホームレスの人達が住んでいて、夜になると危ないとか、そんなふうな声があるということで、そういったものを一掃して、新しくスポーツ公園に作り替えるんだということでした。よく調べてみると、渋谷区にとっては、これは「整備計画」という言葉が使われていたり、それをどうやらナイキジャパンに肩代わりさせる、そういう計画だったらしい。実際ネーミングライツ──本来はネーミングライツの契約ですから、渋谷公会堂が「C.C.Lemonホール」っていうふうに名前を変えたように名前だけ使わせて、それで契約料を取るという約束のはずだったんです。まあ結果的に、ナイキジャパンは「公園の名前は変えません」と言って、今あの公園はひらがなの「みやしたこうえん」という名前になっちゃってるんですけども。その宮下公園をナイキジャパンっていう一私企業とはいえグローバルな企業ですね、この企業の力を借りてというか、ほとんどそれに任せて、区立公園にもかかわらず、有料のスポーツ公園に変えてしまうということになった。そのことに対して2008年くらいから「みんなの宮下公園をナイキ公園化計画から守る会」、通称を「MIKE」といいますけれど、その「MIKE」の活動が始まりました。そこに、ずっと渋谷で活動してきた「野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合」(通称「のじれん」)なんかも加わって、とにかくこの宮下公園からの野宿者排除をやめさせるという活動が2008年から9年、10年くらいにかけてどんどん高まってきたんですね。その中で先ほど言った「246表現者会議」のいちむらさんとか小川てつオさんとかが2010年くらいから、「アーチスト・イン・レジデンス」ということを始めます。アーチスト・イン・レジデンス──「滞在するアーチスト」ですけれども、この宮下公園に実際テントを張って、そこに文字通りレジデンス(居住)して、住みながら制作をするという活動です。普通はアーチスト・イン・レジデンスというと、実はあちこちでやってるのは、例えば廃校になった小学校とか、そういう所をアーチストに貸し出すような形。アーチストはそこに普通は通って制作をしていくという、そういう長期滞在型の制作用スペースのことをいいます。それを、いわばスクオッティングのような形でやるという。どうしてかといえば、この「整備計画」──公園の改修というふうに言っているんですけども──それを始める期限は本当は2009年の9月からだったんです。それで「MIKE」や「のじれん」が主催して、その前の2009年8月の30日、31日という宮下公園を公園として使える最後の2日間に、ここで「サマーフェスティバル」をやったんです。そこで、例えば「ストリート研究会」は「アートと公共性」という公開シンポジウムをやりました。その翌日からは工事が着工する予定になっていたと。でそうなると、もうこれを食い止めるある種の座込みのような、そういう形でとにかく食い止めるしかないっていう段階に入ってきます。実際この闘いは1年半にわたって、その工事の着工を阻止してきたんです。ただ2010年に入ると、いよいよその追い出しが厳しくなってきました。それに対抗して、アーチストたちがとにかく率先して、座込みですね、完全に──沖縄の辺野古の闘いでやっているような、常にそこに人がいて、阻止するんだと。ただこの活動のとにかくユニークなところは、それをあくまでもアートとして、あるいは表現としてやっていくっていうことでした。それがこの「アーチスト・イン・レジデンス」という形だったんです。

ユニークで豊かな表現による抵抗――
*映像 
http://minnanokouenn.blogspot.com/

これは最近の、もう「みやしたこうえん」になっちゃった後です。たくさんの写真や、それから映像資料もふんだんにあるので、ぜひご覧になっていただきたいと思います。この「表彰状」ってあるのは「聞く耳持たないで賞」っていう、ナイキジャパンのCEOに宛てたものです。こんなことをやったり、いろんな看板とかを制作して出したり、とにかく、言葉で紹介してもとても伝えきれないくらい、非常にユニークで豊かな表現による抵抗をずっと試みてきました。その中には、「夏祭り」のような大きなお祭りもありますし、そうでなくても日常的な「炊き出し」だったり「フリマ」だったり。2010年に入ると、いよいよアーチスト達がその場所に常に誰かが住んで、そこにカフェを開いたりします。そして、例えば今日来ていらっしゃる山川さんの映画の上映をやったり、さらには「宮下公園大学」っていう──これは結局1回しかできませんでしたが──フランスを中心にした持たざる者の国際連帯「NO-VOX(ノーボックス)」という運動の支援をやってる稲葉奈々子さんを呼んで、そうした「宮下公園大学」をやったりしました。
それに、しょっちゅうデモをやっていました。その中でも特にユニークなのは「手作りサウンドデモ」ですね。これは野宿の人達にとってすごく日常的というか、身近な素材として空缶があるわけですけれども、その空缶にどんぐりとか石とか入れる。そうするとマラカスができますよね。そういった、とにかく音の出る物を持ち寄ってするんです。サウンドデモっていうとなんかでっかいサウンドカー、サウンドシステムや巨大なスピーカー積んでというイメージがあるかもしれないけども、そうじゃなくて、自分達で持ち寄れる物、音が出せる物、それでもってやっていくというものです。その中で、サウンドカーに先導されたのとは違う、独特なリズムが自然発生的にできてくる。その面白さみたいなのがあって、僕なんかは非常に感銘を受けて、本当に行って良かったと思えるような、そういうデモができていたんですね。あるいは公園で「ドラムサークル」をやったり、様々なワークショップをやったり、とにかく東京の渋谷の街中にこんな空間があるのかというくらい創造的な、クリエイティブなスペースになってきていたんです。
今日の上映会でこの話をする時に、一つにはやっぱり映像と運動っていうことが頭にあったんです。特に1980年代と2000年代と何が一番違うかっていうと、今はもう誰でも映像を撮れるということです。例えばデモがあったらどこかで誰かがカメラで、それこそ携帯で撮れるわけですから、撮ってるわけですね。で、それがもう翌日くらいには「ユーチューブ」にあがっているというような形があるわけです。映像を介した形で広がっていく。そういう部分がとても大きかったと思うんです。その中で、例えば藤井光さんのような映像作家がいます。
──彼に関しては、参考の所に「NIKEPOLITICS」http://www.youtube.com/user/nikepolitics というのをあげておきました。
──ナイキとか、アディダスなんかもそうですけども、非常に洗練されたCMのフィルムを作りますよね。そういうのをちょっとパクッてというか、パロディにしたような非常にすぐれた映像作品をたくさん作っています。最初に観た『ゴーストトラヴェリング』は山川宗則さんという人の作品なんですけども、あれはクリップとしてただ電車の窓から撮ってるだけなんだけど、非常に完成度の高い、見ことのないクリップなんじゃないかと思います。そういうものを次々とネット上に出していく。アートとか作品っていうと、何か限定されたスペースの中での展示っていう固定概念があるかと思うんですけれども、まさに「246」や、それ以前の新宿西口のダンボール村の頃から、こうしたストリートのアートの一つの大きな特徴としては、それが限定された、密閉された空間の中とは限らない、むしろ表現自体が移動していくというか、広がっていったり、旅をしていくっていう、そういう性質を持っていることですね。
そうして移動し拡散していく中で、しかし時に、それがワッと集まる場所がその都度その都度できていくっていう。それを僕は「ホットスポット」という比喩で言ってみてもいいんじゃないかと思うんです。拡散するっていうことがまず前提にあります。拡散していったものがどこかに溜まるんですよ。凝集する、集まるんですね。で、そうすることによってできるのが、ホットスポット。もちろん放射性物質のホットスポットは10年や20年ではなくならないですけれども、生物多様性のホットスポットを考えると、これも100年とか1万年とか続くかもしれない。でも移動していく、変わっていく可能性もあるわけです。常に、いわば生成変化していく、そういう場所です。そうしたことが、僕が排除と、それからそれに抵抗する表現活動ということを考える時のイメージなんですね。
宮下公園の経緯としては、昨年の9月に強制的に封鎖されて、そしてその後「行政代執行」という形で、住んでいた人だけじゃなく、そこでアーチストが作っていたいろんな作品も全部撤去されてしまったわけですが、それから半年以上たった、今年の4月30日に、ひらがなの「みやしたこうえん」がリニューアルされてオープンしました。たまたまその日は渋谷でちょっと大きめのデモがあったんです。それは「脱原発」デモです。ツイッターで呼び掛けて、ツイッターだけを媒介にして集まった1000人くらいがこの日デモをして、その後、参加者の何人かが「みやしたこうえん」に行って、そこで「NONUKES」っていう原子力にも核にも反対の小さいステッカーを張ったんです。ところが、「お前、今、NONIKEって張っただろ」、「ノーナイキってステッカー張っただろ」って公安警察がやってきて、逮捕しました。それに抗議していた支援者もまた捕まってしまった。なんと「みやしたこうえん」オープン初日にして2名の逮捕者を出すっていう、実にみっともないっていうか、浅ましいようなことが起こったわけです。

「公共性」とは

最後に「公共性」っていうことです。はじめに触れた、新宿西口の地下に、色とりどりのダンボールの家を作って住んでいる人達に対して、「ここは公共の場所である」「みんなが利用する場所である」と、だから勝手に汚い家を置いて住んではいけない。そんな「公共の場」という言い方、公共にふさわしくない人達を排除するというような言い方になってしまう。これが日本の社会を考える時の一つの重要なポイントではないかと思っているわけです。では、日本社会における「公」というのは何のことだろう。二通りの意味があるはずなんですね。一つは「公(おおやけ)」。それはパブリックということのはずなんだけれども、どちらかというと日本では「おおやけ」っていうのはお上のもの、権力、公権力が管理しているオフィシャルなものであるというような意味の方が強いんじゃないかと思います。誰もが、民主的に利用できるという開かれた、パブリックなものというよりは、何かこうお上が管理しているもの。だから下々が勝手に使ってはいけないというような、そういう理屈にすり替えられる。「公」がもしそんなものだとしたら、私達が本当に取り返したいのはむしろ「共」の方ですね。コモンの方です。それをコモンと言ってみたい。「公共性」を巡る議論は、最近いろんな形で議論されるようになってきてるんですけど、その古典の一つであるユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』という本があって、そこで使われている「公共性」という言葉は「Öffentlichkeit」っていう言葉です。「オッフェン」っていうのは英語で言うと「Open」ですね。ですから、「開かれてあること」っていうのが元々の意味であるはずです。それがどういうふうに変容してきたか、それぞれの社会の系譜学的な調査をする必要があるとは思いますけど。その「開かれている」っていうことの意味がどんどんすり変わって、日本ではそれが「お上のもの」であり、さらに宮下公園の例でも明らかなように、「プライバタイゼーション」──私企業によってプライバタイズ(民営化)されていく。そういう形で公共の空間というのが、全く閉じられた利害の為にのみあるかのように、しかもそれを誰もが当然だと思っていて、それに反対するような活動を迷惑だとか、邪魔だとか、あるいは危険だとかするんですね。そういう感受性が私達の社会の中にはびこっちゃってるんじゃないか。そのことを強く思うわけです。
最後に一つ、5分くらいの映像を観せたいと思います。これは、まだ宮下公園が封鎖される前の、少人数のデモの映像です。何のデモかというと、「自殺者3万人連続12年」の追悼デモです。

*「自殺者追悼デモ」上映

『山谷─やられたらやりかえせ』と比べて観ると、この20年以上の断絶という、それは大きいような気がします。何よりも、僕が今『山谷』という映画を観てつくづく思うのは、言葉がぶつかり合っていた時代だったということですね。みんなが言葉によって闘って、そして確実に勝ち取っていけるものがあった、そういう感じがするんです。それに比べると、ごく少人数の、しかも極めてマイナーな闘いです。それは言葉よりも、むしろ音楽だったり、アートだったり、踊る身体だったりするんですね。そういうようなものを通して抵抗していく。ある意味では、そういう形でしか、もう抵抗が成り立たなくなっているのか。どうなんでしょうか。そういうことを問題提起させていただき、終わりにしたいと思います。
                                                                                                                                                             (「山谷」制作上映委員会責任編集 2011・9・3/Plan-B)

2015年3月14日

plan-B 定期上映会

「弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」 ―追悼・菅原文太―
講演 / 藤山顕一郎(映画監督)

昨年11月28日、菅原文太が亡くなった。そのひと月前の11月1日の沖縄知事選挙「オナガ雄志 うまんちゅ 1万人大集会」で、彼は映画『仁義なき闘い』における台詞を引用した応援演説で会場の1万3000を超える人びとに熱い想いを語った――
「仲井・・真・さん、弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」
「この台詞にこめられた意味は彼自身の存在論的意味に於いて、あまりにも政治的だ。これほど現在、この国に於ける政治状況全般を比喩的に包括し方針を提起した言葉は在るまい、少なくとも僕はそう感じる。それは約40年前、東映京都撮影所の熱気に満ちたセット、深作欣二監督の発する、ヨーイ・スタートの掛け声、カチンコが鳴る、〝弾、もう一発残っとるがよ〟と、同じ台詞が彼の肉体から発せられる。カチンコを打つのは僕だ。レインコートに赤腕章を巻いている。すでに終わったはずの冬季闘争なのだが、僕は東撮地区から始まっていた『東制労闘争』に参加していて臨戦態勢を解いてはいなかった。そんな僕に対し彼は、いつも暖かい目線を送ってくれていて……」(藤山顕一郎)
12月「今、最も危険な政権(菅原文太の言葉)」である安倍政権の仕掛けた総選挙で、沖縄では自民党候補に対する「オール沖縄」候補が4戦全勝、それを彼が知ることはなかった……
今回、『仁義なき闘い』シリーズで助監督をつとめ、菅原文太と公私とも懇意にしていた映画監督・藤山顕一郎さんに「菅原文太」を語ってもらう。

なにが意気かよ! Part2 ─佐藤満夫監督虐殺 30年の集い─

12月13日(土)pm4時〜

◯入場料:2,000円
◯交流会:500円

【第1部】 pm4:00〜
映画『山谷─やられたらやりかえせ』
監督 佐藤満夫・山岡強一
ドキュメンタリー/16mm/カラー/1時間50分
●上映後、参加者からの発言あり

【第2部】 pm6:20ころ〜
●対談 小野沢稔彦 vs 天野恵一
「佐藤満夫と同時代の映画を語る」
小野沢稔彦(映像作家・批評家、著書『大島渚の時代/時代のなかの大島 渚』『境界の映画/映画の境界 映画は危機を挑発するか!』)
天野恵一(反天皇制運動連絡会、著書『災後論』『「日の丸・君が代」じかけの天皇制』ほか多数)
●会場からの発言あり

【第3部】 pm7:50ころ〜
●「この時代に、ブレヒトを歌う」
歌/演奏:こぐれみわぞう、大熊ワタル、他

※【番外】 〜11:00ころまで
●交流会(呑み会)

パレスチナに平和と愛を

三井峰雄

マレーシア航空機はなぜ撃ち落とされたのか

三井と申します。よろしくお願いします。中東のことですけれども、僕はジャーナリストでも研究者でもありません。アラブ諸国に行ったのも、もう20年近く前が最後で。その後はずっと仕事なんかで忙しくて、現地情報もそんなに集めてるわけでもなかったんですが、今年の夏にイスラエルのガザ爆撃があって、何度か集会や抗議行動、デモにも参加してはいました。で、ともかく今年は非常に頭にくるというか、そんな話をしているうちに、「だったらお前書いてみろ」と。これは「市民の意見30の会」という市民運動団体のニュースレターに、専門家でもジャーナリストでもない立場から反戦運動に参加してる立場の人間として書いてみたらどうなのかと、その編集委員をやってる人に言われまして。何年か前には、若い頃には中東に行って映画を撮る仕事もちょっとしてたものですから、そういうところから書いてみたらどうなのかと言われて、文章を書きました。短い原稿でしたけれど書くこと自体が、何年ぶりのことだったので、一つひとつのことが間違ってないかとかいろいろ調べたりしながら書いて、まあそれって当たり前なことだと思いますが、僕にとっては本当に久しぶりなことでした。で、これを書くにいたるまでのいろいろな経過を今日はちょっと話して勘弁していただきたいなと思ってるんですけ。
一番頭にきたのは、メディアとかマスコミで語られている、このガザに対するイスラエルの攻撃のことですね。それがどういうふうに報じられてるか、非常におかしいと思うことがたくさん重なってきました。個人的な感想も含めて言わせてもらいたいと思うんですが、7月の初めにイスラエルがガザ攻撃を始めたその直後にウクライナでマレーシア航空機が撃墜されるという事件がありました。まあプーチンやその影響下にあるグループがやったんではないかって言われてます。でも、イスラエルが戦争を始めたその直後に大きな事件が別の所で起こるっていうのは、国際ニュースのトップに、自分達がやる戦争をもってきたくない者が起こしたんじゃないかなって、その時僕は思ったんです。数ヵ月前にもマレーシア航空機が行方不明になって、今もその残骸すら見つからない状況があります。このことを指してイスラエルやアメリカが関与したことだ、犯罪なんだっていう人達はその前からいて。その人達の話を聞いたこともあるんです。僕としてはまさかそんなことはってずうっと思ってたんですが、ガザの攻撃が始まった直後にもう一度マレーシア航空機が落ちて、ちょっとこれは関連性があるのではないかって、ふと思いまして。
その中でマレーシアっていう国がどういう位置にあるのかをみていくと、いわゆるイスラム銀行とかイスラム金融という、イスラムの法に則ったところでお金を動かすと。投資をしたり蓄財をしたりする。もちろん、イスラムを国教とする国というのはいくつかあります。それを細部においては国情に任せるんですが、一応基本的なイスラム法に則って。僕が知ってる限りで言うと、お金そのものに利子を付けるのではなくて、お金で儲かった、投資によって得られた利益についてはその投資の比率において利益は分けるんですけども、投資したお金そのものに利息を付けない。あるいは借金の証文に値段を付けて売り買いをしない。そういうのがイスラム法で、そうするとこの間のアメリカに端を発する金融危機などは、まあ起こらないわけです。そういう最低限のことは守りながら、その国情に合わせたイスラム金融の世界が、すでに世界の金融の30パーセントくらいに及んでいる。これは、日本経済新聞のウェブ版で見たことです。
で、そのマレーシアの外務大臣が昨年ガザを訪れて、ガザと西岸で分裂しているパレスチナ指導部の統一をどうも呼び掛けていたらしい。しかもイスラム金融の主要な舞台としてマレーシアが名乗り出て、実際動き始めている時期です。当然お金の絡む話として、パレスチナの指導部の統一をマレーシアの外務大臣は呼び掛けていたようだ。だから太平洋のどっかにマレーシア航空機が落ちたのはそこからきてるんだという人はいたんです。そこにまた、ガザ攻撃が始まった直後にウクライナでマレーシア航空機が撃ち落とされた。しかもウクライナで民主化運動という名の下で以前の大統領を追い落としていった、非常に暴力的な右派セクターの勢力には、イスラエルの国防軍も支援で入っているという話を読んだり聞いたりしていたものですから。これはひょっとしてガザ攻撃に際して、国際ニュースの時間帯を半分はウクライナの航空機の事故で埋めようという、そういう作為なのではないかなと、その時初めて思って。

67年の占領地――西岸地区へのイスラエルによる入植

では、この戦争がどういうふうに報じられたのかと。とにかくハマスに対しては、ガザ地区を実効支配する「イスラム原理主義組織ハマス」という言い方をした上でハマスが……というふうに言われます。2006年のパレスチナ自治選挙というのがあって。日本の選挙に似ていて比例代表と地区ごとの選挙に分かれてるんですが、その比例代表でハマスが圧倒的に得票をして議席を得たという結果があります。まあハマスがガザを実効支配してるという言い方をするならば、日本はなんて言うんでしょうか。「日本原理主義組織安倍政権」に実効支配されている日本っていう言い方になるんでしょうか。実際には、あの選挙で得票を得たハマスがガザの政権を取っていると。本当はガザの政権じゃなくて、ガザと西岸地区の政権、つまりパレスチナ自治区と呼ばれているところの政権を取ったはずのハマスなんですけれども。それが最近の報道では実効支配をしている、暴力で支配をしている。実力で政権を奪ってしまったハマスという報道の仕方がずうっと続いて。これもおかしいんじゃないか。2006年の自治政府の選挙というのは、日本政府からも国際監視団を送ってます。で、この監視団の代表はジミー・カーターっていう昔アメリカ大統領をやっていた人です。そのジミー・カーターさんが書いた最近の論文のなかで、とにかくハマスを政権としてきちっととらえることが中東和平になるのだ、選挙で選ばれた政権をなぜそのように排除しようとするのか、ということを訴えています。そのように実際に選挙があった。しかも選挙で選ばれたハマスと、ファタハというPLOの主流派が統一政権を作ろうとしたにもかかわらず、横槍を入れたアメリカとイスラエルが、ハマスではなくてファタハの側に資金を援助し、武器も与え、そしてハマスの排除を狙った。というのが2006年の選挙直後から2007年に至る状況であったわけです。それでガザと西岸でそれぞれの政権が出来てしまったという経緯がありました。
ではこの地図を見てください。パレスチナっていう場所がどこなのかというのは、この一番左側の枠の中の黒い歴史的パレスチナというところが、パレスチナというふうに言われているところです。ただ、パレスチナという国の王様がいて国境を作ったとか、そういうわけではありません。その北側にはレバノン、西側にはヨルダン。そして左下の斜めの線のところはシナイ半島ですから、そちらはエジプト。オスマン帝国が崩壊した後でイギリスとフランスがアラブの国境を定めたんだと、されている。そのように、エジプトとヨルダンとレバノンの国境が定められたことによって残った場所がパレスチナと呼ばれている。だからパレスチナ人などはいないのだと、よくイスラエルの戦後の指導部が言ってます。たしかに国があってそこに住んでいる国民がパレスチナ人だっていうような歴史的な経緯ではなくて、まわりに国境が出来たことによって、そこがパレスチナ地方という歴史的な名前で括られたっていうのがこの国境線の実際ではないんでしょうか。
このパレスチナですが、47年に国連で分割案が出ます。黒いところがアラブ人の地域、白いところにユダヤ人の国、ヨーロッパから植民してきたユダヤ教徒の国をつくったらどうかということが、47年の国連分割決議案です。それで、翌年、国連に反発するアラブ諸国とイスラエル勢力によって戦争が、第一次中東戦争が起こります。この右側の広いのがヨルダン川西岸地区、左側の狭いところがガザ地区と呼ばれるようになったわけです。で、これが1967年の戦争では、西岸地区とガザ地区、あの左上の地図の黒いところまでイスラエルの軍事占領下におかれてしまいました。48年に国連に加盟した白い部分のイスラエルはともかくとして、この黒い西岸とガザ地区は軍事占領下なので、ここをイスラエルは返すべきである、撤退すべきである、と。67年以降ずっと中東和平と言われる度に、とりあえずこの67年の占領地を返還すべきではないか、イスラエルは撤退すべきではないかと、いろんな場所で、国連や国際会議などで言われてきたことなんです。その右側のパレスチナ周辺図を見るとわかると思います。ヨルダン川西岸地区とガザ地区です。
返すべきではないかと言われているこのヨルダン川西岸地区に、その右側の地図あるいはそのもう一つ右側の地図も見ればわかりますけども、ドンドコドンドコ入植地というのをイスラエルは作ってしまっています。入植地に行くための道路、専用道路まで作ってしまって。しかも入植地を作るだけではなくて移民を受け入れて、その入植地に移り住ませるという政策をイスラエルはずうっと続けている。その移民っていうのはどこから来るかっていうと、冷戦崩壊後はまずロシアからたくさんのユダヤ教徒達が来ました。それでも足りないというのでエチオピアとかモロッコなどの北アフリカからもユダヤ教徒達をセッセコセッセコと移民を集めてきます。集めてきては、軍隊に送り込んだり、まあイスラエル国内にも住んでますが、西岸、ガザの占領地域へ送り込む。そして、ここはユダヤ教徒の、ユダヤ人の国なので、これを守らなければならないといって、世界中からドンドン援助金を集める。まあ一種の貧困ビジネスみたいな面も見えます。それが西岸の占領地域だと思うんです。ガザからは2005年に、イスラエルは全面撤退してるんですが、そのガザを今度は高い壁で封鎖して、国境線も制限して物が入らなくする。あるいは出稼ぎ労働者が外に出られない、漁民が海へ出られないっていう状況をずうっと作ってきた。西岸においては、入植地をドンドンドンドン広げていく。このように、一番左の地図のような、黒いところが67年戦争で全部占領下に置かれたんですけど、それを元に戻したらどうか、67年の戦争の前の状況に戻したらどうかという要求を、70年代からずうっとイスラエルは拒み続けてきたという経緯があります。

来日したイスラエル・ネタニヤフ首相がとった
統一政府への露骨なまでの敵対的態度

ハマスが2006年に選挙で大勝をして。それからPLOの主流派だったファタハ、亡くなってしまいましたがアラファト議長の配下の勢力とハマスとがまあ内ゲバをやって。そのアラファト議長派の方をイスラエルやアメリカが支援をする。あるいはEUも支援をする。そしてパレスチナがこの西岸地区とガザ地区に分裂してしまう。それで、こういう状況を、今年の4月に解消しようという動きが始まった。ガザ地区のハマスと西岸地区のアラファト派、ファタハが統一政府を作るという宣言をしたのが4月だったんですね。イスラエルのネタネヤフ首相が5月に日本に来ました。日本に来て安倍首相と会談をした時の要約が外務省のホームページに出ています。それを見てちょっと僕はびっくりしたんです。この4月に発表されたハマスとファタハの分裂を解消して統一政府を作るという――もともと統一自治政府があったわけですから、西岸とガザが分裂してるのがおかしいわけで――その宣言に対してネタニヤフは露骨な敵対をしていて。ファタハの奴らはあんなガザの原理主義者のハマスと手を組むなんていう方向に向かっていきやがった。それはもうファタハが我がイスラエルとの和平を作り上げるという熱意がなくなった証拠だ。あんなものはどうしようもないんだっていうことを一生懸命安倍に訴えてるわけです。それが5月の段階です。
6月に入ってガザと西岸の統一政府の発足を宣言するわけです。その発足したことに対してアメリカも日本もEUも大歓迎はしないけど「良かったね」という反応を示しているんです。EUの日本語のホームページに載っていたことですが、英字新聞なんかでもEUの宣言として、非常にこの部分については注目されているところなんです。西岸の政権の、EUの日本語版ではアッバス議長って書いてあったんですけどプレジデントなんです。これは大統領と訳した方がいいんじゃないか。実際、選挙で選ばれた大統領なんで。アッバス議長、大統領が1967年国境に基づく二国家解決の原則に触れていて。それをEUが支持している、歓迎している。つまり西岸やガザ、特に西岸にこれだけ入植地や分離壁や道路が出来ちゃってるけれども、本来この67年戦争以前の状態に戻るというのが、和平と呼ぶものなのではないか、ということを言っている。EUも改めてここで支持を、ちょっと遠回しですけれども、してることになるわけです。
ところが、イスラエルの指導部というのは、もうとにかくこれをつぶしたくてしかたがない。いったい今までいくら金をつぎこんで入植地を作ってきたんだ、道路作ってきたんだ、と。地元のアラブ人達にファタハを通して、パレスチナ暫定政府を通して金を払い、情報をあげ、便宜をはらい、武器まで渡してきたじゃないか。それを今更この西岸を返せ、ガザも解放せよ、だと。せっかく今まで何度も戦争を仕掛けて、分離壁で閉じこめてきた、あそこも含めて統一政府を作るのか。西岸の入植地まで返せというのか。我がイスラエルの隣にパレスチナなどという独立国は作らせないっていうのが、ネタニヤフのいるリクード連合です。リクードの綱領としてあるわけです。それなのにパレスチナ側が統一して改めてこの原則に基づいて撤退を要求してきた。土地を返せ。ここに自分達が独立国をつくる権利があるんだっていうことを言い始めた。それをEUまで支持するとは何事だ、というので物凄く怒って。

起こっていることを伝えないメディアの報道

この右から2番目の2000年くらいの古い地図なんですが、問題になってるエルサレム北部入植地っていうのがあります。その東側の方から北にかけての土地を、この6月の統一自治政府の発足直後に、また強引に買収して入植地の建設を始めた。それから1ヵ月後にガザ攻撃を始めて。50日間の非常にひどい戦争を始めたというのが実情ではないかと僕は思っているんです。にもかかわらずマスコミは、いつまでたっても和平交渉に応じない、武装闘争を続けるイスラム原理主義の悪いハマスが、またあのちゃちなロケットをイスラエルにボンボコボンボコ撃つから――年間5000発ほど撃ってるそうですけれども、そんなことをするのでイスラエル国防軍がガザに攻め入った。これはしかたがないんだ。暴力の連鎖が起こっているのだ。これは両者の戦争なんだっていう言い方で、ずうっとこう報道をしてきて。実際は入植地があり、圧倒的な軍事力による抑圧があり、また封鎖をされ、分離壁という15メートルくらいの凄い壁が作られている。これは右から2番目の地図に載ってます。そういう状況の中で、抑圧されているパレスチナ人達の抵抗運動を更に分裂させようとしている。その分裂を回避して、自分達で統一しようという動きをつぶそうというものとして、ガザに対する攻撃がこの夏あったんではないかなと。しかもその報道の仕方が本当に起こっていることの実情を伝えない。言いたくないことは言わない。言いたいことだけをつなげて情報を操作するということを非常に強く感じました。
パレスチナだけじゃなくて、例えば今エボラ出血熱のことが盛んにニュースのトップで語られていて。アメリカはどうだった、スペインはどうだったって言われてます。でもキューバの医療団のことは、AFPかなフランスの報道機関だと思うんですが、そこが伝えていることですけども、キューバからシエラレオネに医者が60人、看護師が105人、全員志願制で6ヵ月間滞在するっていう医療団の派遣が10月の初めにあったんです。でもテレビでも新聞でも全く触れることがない。それで、そのわずかな報道によると、キューバの医療団というのは、自分達はこういうものにぶちあたって、成果をあげた経験がある、だから今回も絶対やってやるんだというふうに語っているというんですね。その成果って何だろうと思うと、冷戦が崩壊してソ連も崩壊してしまったら、キューバにはクスリも農薬も全く入らなくなっちゃった。で、その時に何をやったかっていうと、まずいわゆるオーガニックっていうのか、無農薬有機農法を奨励して。農薬が無いなら有機農法で野菜を作ろうとなって成果があがったものですから、ハリウッドのセレブ達はキューバ産のオーガニック野菜を食いたがっているというような現状になっちゃう。それから薬が入らないんだったら自分達で開発をして。それは、ただの薬の開発だけじゃなくて、医療のシステムを作り出そうということで立ち向かったのがエイズだったんです。詳しいことは知りませんけども、成果が出たらしくて。ラテンアメリカ諸国はエイズの、中南米のエイズの治療センターとしてキューバを持ち上げて、資金を援助している。高いアメリカ製の薬なんか買えない人達がエイズ治療に頼るのはキューバしかないという状況を作り上げて。そういうことを成果だと言っていると思うのです。それで、その人達がシエラレオネに行っているにもかかわらず、全く報道されないのを見ていると、これはやっぱりエボラで一儲けしようと思っていたアメリカや他の製薬会社や、そこに金を出してる連中が、キューバなんかに安い薬を開発されたら大変なことになるという危機感から、報道されないんじゃないかっていうふうにも思える。このように報道がウソもすぐバレるようなことをやり続けてる状況に非常に腹をたてながら、パレスチナについてのこのような文章を書いてしまった次第です。
司会 最後はキューバの医療班のことですね。キューバはずいぶんアフリカにコミットしてましたんで。昔は軍事的にもコンゴやアンゴラなんかに行ってましたね。ただ今の医療団のことはちょっと知りませんでした。エイズ特効薬を作るのはもしかしたらキューバじゃないかっていうのを、確か中南米研究の太田昌国さんから聞いたことがあります。話がちょっと飛びましたけど、パレスチナっていうのは、ひどいことがおこなわれているなあと思いながらも、なかなか難しい。地図で少しずつ説明してもらったんで、少しわかるんですが。では今の話に対して、何か質問でも意見でもありましたらどうぞ。私はこう思うとか、何でもいいんです。もちろん「山谷」の映画についてでもかまいません。どなたかございませんか。はい。
参加者A 東京などでガザ攻撃に対する反対運動やってて思うところを少しお話し願いませんか。
三井 主催者の趣旨を支持して参加してただけなんです。で、イスラエル大使館前っていうのは日本テレビのビルの角を曲がって、狭い道を入って、その先にこう入っていった所にあります。いつも日テレの駐車場の向こう側あたりで抗議行動やってたんですが、今年は日テレのある通りから中へ入れさせない。金属の柵をつくって、警察官がいっぱい並んで、入れさせなくなった。近所迷惑だからっていうんですが、そんなことは昔からなのに。とにかく入れさせない。あるいはトランジスターメガフォンを持って大使館前に行った人は、あれまで壊されたり。何十メートルの差といえばそれまでなんですが、イスラエル大使館に付いている警察の警備はきつくなった。これは政権との関係があるのかなって思いました。もう一つは、これは新宿で8月の初めに凄く暑い日にデモをやったんですが、何人かが「ハマスは停戦を守れ」っていう紙切れを持っていたりしました。これはPLO東京事務所のまわし者かと思うような外国人が、ハマスは戦争をやることでいくらイスラエルから金をもらってるのかっていう。そういうプラカードを持って参加している人達もいたんですよね。まあ戦争に反対するっていう大括りの中でやってることですから……そこでガチャガチャ言ってもしょうがないことなんですが、そういう人達もいるのかなと思いました。僕は別にハマスの支持者でもないし、ハマスこそが未来を切り開くと信じてるわけでもないんですが、ただハマスのあそこが悪いここが悪いって遠くから言ったってしょうがないってことです。起こってる事態を、そしてやっぱり戦争には反対すると。不正が行われてることには反対するんだっていうところでは、行動を起こしてけばいいかなと思っているんです。その辺も含めてメディアの報道が変なところにいくと、思い入れ、思い込みが強い人ほどハマスも停戦を守って欲しい。ハマスがロケット弾を撃つからイスラエルの攻撃が続いて、一般市民がああやって殺されていく。だからハマスは抵抗をやめて欲しいというようなスローガンにいってしまうのはちょっと残念です。平和裏の交渉が進むんだったら、なにもハマスもロケットなんか撃ちゃしないだろうと思いますし。今年の夏もそうですけども、もう十数年にわたって無人機やヘリコプターで、宗教的な組織ですから宗教的な指導者をドンドンドンドン殺されています。ですから、ハマスという組織だけじゃなくてパレスチナの人達にとっても本当に痛手でしょうし。そのハマスに向かって停戦を守れっていうスローガンを出すのはちょっと残念だと思いました。

ユダヤ人とアラブ人が共にデモをすることと
イスラエル国内での反動と暴力

あとは、ロンドンで5万人、パリで何万人だ、何十万人だっていうのを見てると、800人いるかなと思ったら主催者発表で650人だったんで、もっと人が来て欲しい。一発くらい大きなデモをやりたいなあって思いました。ちょっと忙しくて、そういうデモを準備する会議に出ている立場でもないので、あまり不平を言ってもしょうがないかなと思いますけれど。これはユーチューブで見ているんですが、ロンドンでもパリでも、アメリカの大きな都市でもユダヤ人、ユダヤ教徒がたくさんデモに出ていて。自分達は、私達はユダヤ人だけれどもイスラエルとは関係ない、イスラエルっていう国は我々の代表ではないと。それから、アメリカなんかで、髭をはやして黒い服着たユダヤ教の聖職者達が、アメリカにいるアラブ人と一緒に、パレスチナの旗を振りながら一緒にデモをやるというのがかなり増えてきたんだなと思って。非常に元気づけられました。一方で、イスラエルの国内の反戦運動に対する物凄い弾圧ですね。もう国内総在特会化してるんじゃないかっていうくらいで。読んだ記事なんですけれども、1500人ほどが集まって反戦派のデモを始めようとしたら、その何倍ものユダヤ教徒のイスラエル国民が集まって「お前達は売国奴だ」と。「お前達はイスラエルから出ていけ」と言って、そのデモをつぶすという。それでもう警察が間に入らないと大変なことになるくらいの騒ぎが起こったっていうのが何回か記事で読んだことがありました。それから朝、BSでやってる国際ニュースの、BBCだったと思うんですけども、国連の運営するガザにある学校をイスラエルが空爆して何人も亡くなったっていうニュースが出た後で、若者が「ガザには学校なんてないんだ」「ガザには子供なんていないんだ」ってギャーギャーギャーギャー叫んでいる。そういうのを見ると、ああなんか在特会だなこれはと思って。イスラエル国内の経済格差が非常に大きくなり、そして移民が増え、政府が移民を呼んでおきながら移民を排除する。アフリカ人は出て行けみたいな運動もあったり。それが入植地において組織的で過激な暴力的行動に出るようになる。パレスチナの居住区の上にバキュームカーを何台も持ってきて、糞尿を垂れ流すとか。子供を誘拐してはリンチして返すとか。そういう事件が日常茶飯になっているという記事を読んだりすると、イスラエル国内が凄いことになっている。それとは逆に、国外では「イスラエルとは関係ないぞ」と。「あんな戦争支持しないぞ」というユダヤ人の行動が大きくなってきている。まあそういうこともあって、東京でデモやった時にもうちょっと人がいっぱい来て欲しいなっていう気になりました。
参加者A ありがとうございます。
参加者B 東京新聞だけ読んでて、日本にいる。ネタニヤフが日本に来たのも全然知らなかった。でも東京新聞を読んで気付いたのは2つの記事です。1つは、それは秘密保護法の流れだと思うんですけど。日本がイスラエルと軍事的に条約じゃないんですけど、協力するというのを宣言してて。で、サイバーテロの技術を共同で開発するっていうのがあった。もう一つはパレスチナの空爆がまだ終わってない8月くらいの段階で。イランのテレビの放送を東京新聞は載せていて。それはイスラエル軍が使っていた無人機にソニーのカメラ技術が使われてた。イランのジャーナリストとテレビ局がソニーがイスラエル軍と一緒に武器を作っているというふうに報道してたんですね。だから、なんかつながってるのかなあって、ちょっと気になったんですよ。日本とイスラエルと、あと日本の動きの中で何が起こってるのかと。詳しいのがあれば。それから、マレーシア航空機のことは全然考えたことはなかったんですけれど、常識なのは、イスラエルは空爆する目標リストを持ってるんですね。都合のいい所に空爆するんです。一番わかりやすいのは9.11の後にすぐに空爆があったんです。あれは確か西岸のファタハの当時の政府のビルを全部壊したんですね。

イスラエルの占領ビジネスとしてのセキュリティシステム

三井 確かに、ガザの爆撃現場で落ちていた武器の破片の中で、電子基盤みたいなのが落ちていて。それはもう明らかにソニーと、写真によってはメイドインジャパンまで書いてあるのがわかって。これを今言われたイランの女性のジャーナリストが拾って、写真で広めたっていうのもあります。日本から行ってたトシクニさんなんかも写真を送ってましたけれど。実を言うと、昔からソニーのビデオ技術というのは性能がいいので80年代から軍事的に転用されていました。パーツで出ちゃうとどこにどう使われてるかわからないとか言いますが、わからないはずはないんですけれども。日本が今までやってきたような武器輸出三原則の中には収まらない。本当に民生用にも使えるし軍事用にも使われちゃう技術として、ソニーは昔から時々聞いたことがあります。ただ、今回のあそこまで執拗に人がいる所をピンポイントで狙うような武器にまで使われてるのを既成事実化させてはいけないとは思います。今、イスラエルの製品、特に西岸地区の占領地で作られた製品をボイコットしようという運動が盛んです。ヨーロッパなんかではかなり進んでいて。イスラエルのいくつかの企業は本当に困ってるらしい。それを日本で推進しようという運動体、ストップソーダストリームっていうんです。家庭内で薬と水を入れるとシューっと炭酸が出てきて、おいしいのが飲めるぞという。これが西岸の占領地に工場を作って、現地のパレスチナ人を雇って、文句言えばすぐ首切られる状態で作られている製品なんです。これをボイコットしようと日本でやっている人達が、今ソニーに公開質問状を出していますが全く返答がない。返答がないので、今公開しています。ウェブでBDSとかストップソーダストリームとか、イスラエルボイコットとかって検索すればすぐ出てきます。そこにはソニーに対して、これだけの人を殺傷する兵器に使われてるものを平気で輸出していいのかっていうことで追及してますので、読んでみたらいかがでしょうか。
それからサイバーテロに関してですね。今も東京オリンピックの警備のことが言われてます。僕はコンピューターとかの電子機器には詳しくないんですけど、例えばロンドンオリンピックの警備はチケットから、入場者のチェックから、何から、選手団の入国から全てイスラエルとイスラエルの企業が請け負ったっていう話を聞いています。冷戦体制下ではだいたいソ連をはじめ旧社会主義圏や、キューバなどのラテンアメリカ諸国、独立を遂げた国々はイスラエルを批判してパレスチナを一生懸命盛り上げたりしている側に立ってたんだけど、なぜか中国はいきなりイスラエルと国交回復しちゃったんですよね。今、中国の警察とイスラエルにとって共通の敵としているのはイスラム過激派ですから。中国でも西域の人達が時々爆弾仕掛けたりやってますから、そういう共通の利益なのかどうか知りませんけど、中国の警察の治安システムの多くがイスラエルと提携して、イスラエルの企業が入っている。あるいは中国の企業とイスラエル企業が技術提携をして防御システムや監視システムを作っていると言われてます。だから、ここ数年中国で事件が起こるとやたらに監視カメラの映像がニュースで使われてませんか。天安門広場で車が突っ込んで火つけたとか。刀を振り回してなんかやったとか。あれは全部イスラエルが中国の警察の下請けに回って提携しながら、そして中国の企業とも提携しながらやってる、そういうセキュリティシステムなんですよ。だから日本もオリンピックの警備やらで、それを導入してるのかなと思うと、かなりぞっとしてきますけどね。占領地を持っていて、占領地の人間を全部管理して、しかもそこからイスラエル国内に出稼ぎに来る労働者を監視しなきゃいけない。時間が来たら、イスラエル国内に止まらせないで、働いたら何時までに必ず西岸なりガザなりに返せという出稼ぎ労働を受け入れているイスラエルですから。人々を監視する。ナンバーを付ける。出入りを管理する。占領地とその外との交通を監視するっていうことに関しては、非常に長けている。そういうような条件の中でイスラエルの技術は成長してきたんじゃないかなって思います。イスラエルは占領地ビジネスのうまいところをロンドンでも北京でも東京でも行っている、あるいは行おうとしているんじゃないかなと。それが日本、イスラエルのこういう関係強化というのに含まれてるんじゃないかと思います。
司会 そろそろ時間なんで。よろしいですか。それじゃあ今日はこの辺で。隣で飲み物を用意しています。時間がある方はもうちょっとこの続きの話や、リラックスして観点を変えての話など、ご歓談ください。本日はどうもありがとうございました。どうも三井さんありがとうございました。
[2014.10.18プランB 文責・山谷制作上映委員会]