2016年7月23日

plan-B 定期上映会 <山岡強一虐殺 30年 山さんプレセンテ!>

第4回 在日朝鮮人の運動との<接点>をたどる
講演 / 平野良子(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会)

シリーズ「山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ!」の第4回目。今年1月から始めたこのシリーズは、第1回目にいまだこのクニの「ありかた」を規定してやまない(象徴)天皇制について天野恵一さんに、3月には使い捨て労働力として除染・収束作業に狩り出される下層労働者の問題を被ばく労働を考えるネットワークのなすびさんに、そして5月には世界中でわき起こる支配層に対する抵抗闘争、ことにその<暴力>をめぐって鵜飼哲さんに話していただいた。

今回は山岡さんが運動の重要な柱のひとつとして考えていた、在日朝鮮人運動との<接点>をたどり直してみたい。
山岡さんたちが山谷で活動を再開した1979年は、韓国では釜山・馬山で民主化の大闘争が勃発し、朴正煕大統領が側近に射殺された年でもあった。そして翌年には全国の学生らが決起し、光州での蜂起へとつながってゆく…。山さんらはそれをしっかりと見据えて運動を継続していったにちがいない。現に、82年日雇全協結成後いちはやく「全泰壱(チョン・テイル)デー」の開催を提起し、その意味を「…日朝労働者の連帯を具体的に実践するために、…在日朝鮮人との共同闘争に向けて、…特に在日朝鮮下層労働者との戦線形成」とし、「自己の排外主義との闘い」であるともした。それはまた、70年代の現闘委の総括から導き出された「流動的下層労働者と被植民地人民の闘いの水路構築」というスローガンの実践でもあった。

今回の上映会では、いくつかの現場で山さんと共に闘った平野さんのお話をうかがいながら、そうした山岡さんの問題意識と行動を具体的にたどり直し、70年代以降の在日朝鮮人たちの運動との<接点>を、下層の視点からもういちど見つめてみたい。聞き手は上映委の池内文平。
映画上映は午後6時から、お話は8時くらいからです。

引続く棄民政策と被ばく労働者

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第2回

なすび(被ばく労働を考えるネットワーク)

 被ばく労働問題を運動に組み込めなかったこと

ぼくが最初に、この映画『山谷―やられたらやりかえせ』を観たのは、山岡さんが殺されて4カ月後の1986年5月のことです。当時ぼくは某工業大学の3年生だったのですけども、東大の五月祭で農学部が毎年面白い企画をしていると聞いて行ったところ、この映画の上映でした。じつはその頃のぼくは山谷という所など全く知らなかったので、この映画を観て非常に衝撃を受けました。というのは、ぼくの大学は工業大学ですから建築とか土木の学科もあるわけですが、でも、その産業の末端で、こんな労働実態があるなどということは教えないからです。
この時、上映後、現地報告に来られていた日雇全協(全国日雇労働組合協議会)の方にお会いし、自分の大学でも是非上映会を開催したいと相談をしたところ、上映委員会の方を紹介してくださった。そこからぼくは山谷に関わることになりました。
じつは、ぼくがこの映画を東大の五月祭に観に行った日は小雨の降る日だったのですが、その雨にびくびくしながら出かけたという記憶があります。それはなぜかというと、その前月の4月26日にチェルノブイリ原発事故が起き、放射能が風に乗って日本にも達しているので、雨にあたるのは危ない、という情報が流れていたからです。
ぼくの大学では、その年の秋の学園祭で『山谷』の上映会をやりましたが、その前に学内の社会系サークルが、公害被害者や被ばく労働者の撮影で著名な写真家・樋口健二さんを招き、講演会がありました。その時、樋口さんが話した「山谷、釜ヶ崎など寄せ場の労働者が、一番最初の除染現場、一番酷い環境で働かされている」という指摘も、ぼくには衝撃的でした。
そういう経緯もあって、ぼくは山谷に関わり始める最初から被ばく労働者問題というのがずっと頭にあったのですけれど、山谷での労働運動では、被ばく労働問題に対するきちんとした取り組みはできませんでした。それにはいろいろ理由があるのですが、そこは時間がないので省略します。
ですから、3・11の原発事故が起こった時に一番最初にぼくが思ったのは、山谷の中で被ばく労働問題についての取り組みをしてこなかったことへの、もの凄い後悔でした。
あの時、ぼくたちは、爆発する福島第一原発の映像と、ベントをするとかしないとか、海水で原子炉を冷却するとか、本当に手の付けられないような状況を伝えるテレビの報道を、為すすべもなく見ているしかありませんでした。誰かが原子炉の近くに行って作業しなければならないのではないか、と日本中の誰もが感じていた。でも誰が現場へ行くのか?
ぼくらはこの社会で最も虐げられている労働者の労働運動に取り組んできたけれど、被ばくを避けられず、そしてある確率で死が避けられない被ばく労働者の問題にきちんと取り組んでこなかった事実に、福島原発事故により直面したわけです。
実際の話、通常の運転でも、原発は被ばく労働者なしには動かないのです。福島原発事故が起こる前、例えば、慶応大学の物理の教員だった藤田祐幸さんが、横浜寿町の寄せ場で「労働者が働くことを拒否すれば、原発は止まるんだ。被ばくしながらそんな仕事をすべきではない」と警鐘を鳴らす話をしていたことを、ぼくは憶えています。でも、ぼくたちは、そのことを運動に組み込むことはできなかった。98年に行われた福島第一原発でのシュラウド交換の時は、「原発に行くな!」というビラを藤田さんとともに労働者に撒いてキャンペーンをやりましたが、それも一時的な取り組みでした。

「被ばく労働自己防衛マニュアル」

しかし、福島原発事故が起きてしまったあの時点において、危険だから福島第1原発などへ行くな、と言えたであろうか。誰かがその作業をしなければ壊滅的状況になるかもしれない、そんな緊急事態が起きていたからです。そういう大きな矛盾に直面し、これはやっぱりぼくらにも責任があるんじゃないかと、ぼくは強く感じました。
そしてぼくはその直後に、「被ばく労働自己防衛マニュアル」というものを作りました。それは、ぼくが山谷に行き始めた頃、寄せ場の日雇全協が作った「労働者手帳」をベースにしています。「労働者手帳」には、労働者が労働に従事する際の様々な注意事項や、下層の労働者が歴史的にどういう時代の中でどのように生きてきたか、殺されてきたか、という労働史などをコンパクトにまとめられています。それを参考に、原発労働者の雇用問題や放射線に関する問題点を列挙して作成したのが「被ばく労働自己防衛マニュアル」です。
先ほどぼくは福島原発事故に遭遇して、ぼくたちが被ばく労働問題にきちんと取り組んでこなかったことに強く後悔したと述べましたが、被ばく労働問題にきちんと取り組んできた運動というのは、いくつかの事例を除いて日本全体でもそれほどありません。ごくわずかの例としては、例えば岩佐訴訟や長尾訴訟のような労災認定を要求する裁判や、80年代に敦賀原発で原発下請労働組合が結成されたという事例がありますけれど、それ以外には、下請け被ばく労働者の労働運動について継続的にきちんと取り組み、その全貌の分かっている人はじつはほとんどいなかったのです。
ですから、これまでこの問題に取り組んできた方、警告を発してきた方、例えばさっきちょっとご紹介した藤田祐幸さんとか写真家の樋口健二さん、あるいは敦賀原発で組合を作った斉藤征二さんなど多くの方々に教えを乞うかたちで、この「被ばく労働自己防衛マニュアル」は作りました。
この「マニュアル」の制作過程で様々な関わりができ、この問題を運動として取り組んでいくためには、それまでやりきれていないみんなが集まって、知恵を出し合っていくしかないと感じました。そしてこうした取り組みが、その後、被ばく労働ネットワークというネットワーク組織を作る契機となったわけです。
ぼくたちは、下請け労働者で、とりわけもっとも被ばく量の多い所に送り込まれている労働者たちとどのように繋がり、その人たちを守りながら運動を進めていけるかという点を強く意識していました。当初、ぼくらは福島に拠点がなかったので、福島現地の労働組合に協力していただいて、そこでビラまきを行ったり、除染活動をしている労働者から相談を受けるという取り組みを始めました。

 ピンハネされていた危険手当

国の除染事業が本格的に始まったのは、福島第一原発事故の起きた翌年の2012年からですが、除染に行っていた知人(ここではAさんと呼びます)から「危険手当を払うと業者から言われたのだけれど、仕事や宿舎が同じなのに人によって金額がだいぶ違う。そのへんのことを調べてくれないか?」という相談を受けました。じつはぼくらは、その相談を受けた時、「危険手当」というものを知りませんでした。そこで調べてみると、除染事業を所轄している環境省のホームページに元請けが入札する際の工事仕様書があり、そこには除染作業に従事する全ての労働者に1日1万円の危険手当が出されることが記されていました。
で、そのことをAさんに伝え、仲間の労働者にも伝わりました。既にAさんを含む労働者仲間は業者に説明会を求めていましたが、その説明に納得しない4人が現地労組の組合員となり、「国から危険手当が出ているはずだ。それを労働者にきちんと支払え!」という団体交渉を業者と始めました。これがたぶん日本で最初の除染労働者による労働争議の発端なのです。
しかし、この時分かったことなのですが、じつは危険手当が出ていることをほとんどの雇用業者が知りませんでした。というのは、除染作業は、環境省からゼネコンが受注していて、その下に何次もの下請け業者がいるという構造の下で行われているからです。除染作業は公共事業なので、元請けのゼネコンは、設計労務単価で1人当たり1万5000円(2013年)、プラス1人当たり1日1万円の危険手当を国から受け取っています。けれども、そこからいくつもの下請けを経て実際の雇用は行われていて、下位の業者は詳細な明細のない人工(にんく)いくらの契約で上位会社から請け負っているので、本来そこに業者が手を付けられない危険手当が含まれるべきであることを知らなかった。結局、労働者の受け取るべき賃金のかなりの部分が、ゼネコンや上位の業者がピンハネしていたわけです。この争議のことを朝日新聞が取り上げてくれたことで、危険手当問題が一挙に日本中に広まったという経緯があります。
その新聞記事が出ると、ぼくたちの連絡先にひっきりなしに相談が飛び込んでくるようになるのですが、相談の内容は危険手当の問題だけではなく、時間外勤務手当が支払われていないことや、労災がもみ消されているケース、暴力支配が行われている業者など、様々な問題がバラバラと出てきました。そのほとんどの労働者が、雇用契約書すらありませんでした。少なくとも除染に関していえば、ウソ・騙しや違法状態が蔓延していました。
そういう除染作業を誰がやっているのかというと、収束作業などもそうですけれども、半分ぐらいは福島の労働者、あとの半分は全国各地から集まって来ています。最近は外国人労働者もけっこう増えています。
ぼくたちは、3・11福島原発事故を契機に被ばく労働問題について本格的な取り組みを始めたのですが、その時点において山谷はどういう状況であったかということについてちょっと見ておくと、山谷にはほとんど仕事が無いという状況になっていました。そして山谷のドヤでは8割以上が生活保護を受けて暮らしている人びとで占められるようになっていた。もちろん山谷でドヤ暮らしをしていて、そこから仕事に行っている人もいましたけれど、それは少数者になっていた。つまり、山谷は、労働市場としてはほぼ壊滅していたのです。つまり、山谷には労働という現場がほとんど無くなっていて、棄民化された状態の人たちの集住地域になっていたのです。

とんでもない条件で働かされる労働者たち

けれども、被ばく労働問題に取り組み始めてみて痛感させられているのは、被ばく労働者たちの明日の状況は、現在の山谷の状況なのではないかという思いでした。先ほど皆さんが観た『山谷』のドキュメンタリー映画に提起されているような、労働者が動員されて搾取の中に突っ込まれ、さんざん絞りあげられ、最後には棄民化されていくという流れが、福島原発事故の収束作業や除染作業において、いま現在進行形で観て取ることができるからです。
ぼくらが相談を受けてきた、まともな労働者として契約もされず、とんでもない状況で働かされている労働者たちの、少し具体的な事例をご紹介します。
これは福島で除染作業に従事しようとはるばる鹿児島からやってきたBさんという人の話です。Bさんは鹿児島で失業して職探しをしていたのですが、なかなか働く所が見つからず、ネットで見つけた福島での除染作業の仕事に応募しました。作業員を募集していた業者に連絡すると、「日当は1万5千円。すぐに車で来なさい」と返事がもらえました。Bさんは奥さんともトラブルを抱えていたので、離婚して自宅も売りに出し、そこでの生活を全て清算して出発しました。そして指示されるままに大阪に向かい業者に会ったところ、日当は1万2千円だと言われました。もう帰るところもないので泣く泣くこれを飲んだBさんは、高速は使わず下道で福島まで行くよう地図を渡されました。何とかいわき市に着くと、宿舎に空き室がないので、今晩はマンガ喫茶に泊まってくれと言われ、最初の一夜を過ごしました。そして次の日からは業者の経営する中古車店の倉庫の片隅をあてがわれ、しばらくここを住居にしてくれと、マットと寝袋を与えられ、寝泊まりさせられていました。そこから1週間ほど大工の手元の仕事をさせられた後、除染ではなく「現場は福島第一原発に決まった」と言われました。しかし、実際に仕事に就けたのはほぼ1カ月後でした。待機が続いただけでなく、食費は自己負担しなければならなかったので、手持ちのお金はたちまち底をつき、業者に借金しなければならなくなりました。
Bさんは、ここではとても働けないと思い、他の業者の所に面接に行きました。「今、どちらの会社で働いているのですか?」と訊かれたので、「××建設です」と答えたところ、「あそこは○○会(ヤクザ)だから…」「うちが潰される」と断られてしまいました。それでBさんは困り果て、ぼくらの所に相談に駆け込んだというわけです。
じつはこういう業者が少なくないんですね。なにしろ元請けから2次、3次の下請けはまだいいほうで、実際には6次くらいまで下請けがあるといわれています。そういう末端の下請け業者には、正式な下請け業者としての資格を有してないだけでなく、法人登記もなく、携帯電話1本で人集めして、ただ右から左へ労働者を送り込むだけという所が少なくないのです。こういう業者は、もちろん労働者と契約など交わしません。
ある除染業者などは、古民家が宿舎ですと称して人集めをし、実際には山の中の壁が破れ床が抜けたような廃屋に労働者を寝泊まりさせていたというケースもありました。食事は朝晩のみで、その食事もおかずは目刺し数本と野菜一掴みというものでした。さすがにこれは数少ない事例のようですが、労働者を暴力的に拘束して働かせている業者もいます。
こういうとんでもない業者というのは、もちろん一部であって全部ではないのですが、けれども除染作業や収束作業では、違法派遣で労働者を雇用することが普通に当たり前のことのように行われ、そのことが許されているという構造的な問題のあることは否めません。

 搾取の最末端から棄民となる――80年代の山谷と同じ状況

被ばく労働というのは、ある確率でガンになって死ぬということが前提になっている仕事です。そういう仕事に労働者を従事させるのは問題ではないか、と山谷に通い始めた当初から憤りを感じていました。
しかし、震災後にその問題に取り組み始めると、被ばくの問題以前に、基本的な労働問題、前述したようなデタラメな雇用問題に直面しました。ぼくたちが80年代半ばに山谷で取り組んでいた状況が、そのまま放置され、福島にも同様に存在しているという事実に対して、ぼくは愕然としました。
現実問題として、ともかく労働者の場合は、賃金の問題というのが当面一番大きな問題なわけですから、ぼくたちは最初の取り組みとしては、雇用者に対して労働者の当たり前の権利をまともに実行させることが必要だということで、労働相談や労働争議を積み重ね、国や元請けとの交渉を並行して行うという活動を2012年から続けてきました。
先ほども述べましたように、この問題は構造的な問題なので、個別の問題をそれぞれ解決すれば済むという話ではありません。原発事故直後は、収束作業に対して関心が集まりましたので、メディアも注目して問題点を突いた報道をしたため一定程度は以前よりは改善したところもありますが、根本的な問題の解消には未だ至っていません。とりわけ、収束作業の場合は、発注者が東電なので、契約関係がすごく見えにくく、賃金や危険手当などが今でもかなりグレイな感じは否めません。
というわけで、この映画の中で活写されている、過疎の地域から、あるいは貧困から、不当な労働に突っ込まされざるを得ない労働者たちがいて、かれらが搾取の最末端で使い捨てられ、最後は棄民となる状況、そのことが今、福島で再現されているのだということを、ぼくは福島に通い始めて改めて感じたわけです。

ある割合での死を容認されている被ばく労働

次に、被ばく労働の本質的な底知れぬ問題点、放射線被ばくの問題について話します。
被ばく労働者は、今、平均で年間20ミリシーベルトに達するとだいたいクビになります。少し大きな会社やまともな業者だと配置転換され、解雇はされませんが、前述したように実体の怪しい業者に不安定雇用されている場合は、仕事ができなくなれば即お払い箱となります。線量が危険水域に達したらクビというのは、本来労基法上は問題なわけですが、収束作業や除染作業に従事している被ばく労働者に対してはかなり多く当たり前のようにそれがまかり通っているのです。
では、多くの被ばく労働者がその制限値に達すると仕事ができなくなるという20ミリシーベルトというのはどういう数字なのでしょうか。これは基本的に原子力産業を進めているICRP(国際放射線防護委員会)が被ばく労働に従事する者に対して定めた被ばく放射線量の許容値で、日本でもこの数字を適用して5年間で100ミリシーベルト(年平均20ミリシーベルト、ただし1年で50ミリシーベルトを超えない)を限度と定めています。この20ミリシーベルトという数字は、人が18歳頃から働き始めて、仕事を終えるまでの期間を大体50年としますと、1年間に20ミリシーベルトを浴びた場合、50年間で1,000ミリシーベルト(=1シーベルトという値になります。その値を浴びる続けると、毎年0.1%ずつガンで死ぬ人が増えていくと見なされています。ということは、この被ばく放射線量許容値というのは、毎年0.1%の被ばく労働者がガンで死ぬということを、ある意味容認しているということも言えるわけです。
0.1%という数字がけっこう大変な数値だということは、例えば現在、福島第1原発の現場では、1日7,000人の作業員が働いているわけですが、その0.1%ということは7,000人のうち7人がガンになって死ぬという確率になります。
じつは、産業全分野の労災で亡くなる人のリスク確率は0.1%とされていて、被ばく放射線量許容値はそれと同じ数値が設定されているわけです。これは産業の利益とリスクとのバランスを考慮した場合、容認できる数値であるという位置付けなんですね。しかし、他の労働での労災は原理的にはゼロに近づけることができるけれど、被ばくを前提とした仕事は、それを完全に防ぐためには100%鉛で覆ったロボットスーツでも着て作業しない限り被ばくはするのであって、原理的にリスクをゼロにすることはできない。ですから、じつはICRPでさえ、しきい値はなく被ばく線量に応じて影響が出る可能性があると言っている。つまり、被ばく労働においては、0.1%の労働者がガンで死ぬということを、あらかじめ容認するしか術がないわけです。そこが他の労災と被ばく労働のリスクの本質的に違う点なのです。

 二重の意味での棄民労働

被ばく労働というのは、不当な雇用問題に加え、被ばくというのが避けられない労働という意味で二重の意味で棄民労働だ、と思わざるを得ません。
収束作業に従事した労働者は、3・11以降後、今では2万人を超えていますが、その中で国がきちんと責任をもって健康診断している人は、じつは900人程度です。もう少し具体的に見ておきますと、事故発生当初から同年12月に野田首相(当時)が収束宣言をするまでの期間、国が特例緊急作業と位置付けた収束作業に従事した労働者が主な対象で、50ミリシーベルト以上の被ばくをした人には白内障の検査、100ミリシーベルト以上被ばくした人にガン検査を、国は行っています。しかし、50ミリシーベルト未満の人は、その後の職場の健康診断で十分なので国は何もしない、ただし検査結果のデータは提出せよ、という対応です。つまり、国は、緊急事態宣言を発して労働者を最悪の危険な現場に突っ込んでおきながら、そのうちの900人程度しか国の責任で健康管理をフォローせず、残りの者は切り捨てているのです。50ミリシーベルト未満でもしきい値などなく、確率的にリスクを負っていることは明確なのにもかかわらず、国は対応をしない。これぞまさに棄民ではないか。と、ぼくは思いました。
日本の被ばく労働問題に対する対応は現在までのところ、そんな状況なのですが、しかし世界の原発所有国を展望しても、被ばく労働問題にきちんと取り組んでいる国は、じつはまだほとんどないというのが現状です。例えば、ドイツのように近年反原発運動が活発になり原発ゼロ宣言を打ち出した国でも、反原発運動の中でやはり被ばく労働問題というのが置き去りにされてきたという指摘がされています。

 被ばく労働についての国際連帯

今年はチェルノブイリ事故30年ということで、来月、ドイツで開催される反原発集会にぼくらの仲間が1人、呼ばれて行きますが、最近は他の国の運動機関からも「福島で働いている労働者の声を聞かせて欲しい」という話がよくあります。外国のメディアからの取材も増えています。けれども、被ばく労働問題に対する関心はやはり海外でも希薄な感じがします。
そういう思いもあって、ぼくたちは今、被ばく労働問題は日本から発信していかなければならないという思いと、国際連帯ということを強く意識し始めています。その取り組みの第1弾として、来週、「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016]」という催しが東京で開催されます。その中で、福島第一原発周辺へのツアーを行うとともに、福島県いわき市でも集会を行います。このフォーラムで、ぼくたちは被ばく労働問題の分科会とシンポジウムを準備しています。チェルノブイリ原発事故で収束作業に従事した労働者2人をウクライナから招きますし、世界で一番原発を使っているフランスの原発施設で下請け労働をしているフランス人労働者や、お隣の国・韓国からも原発で働いている2人の非正規労働者をゲストにお呼びしています。
核と被ばくに反対していこう!というフォーラムなのですが、もちろん各国それぞれ事情は異なりますし、原発に対する考え方にも温度差があります。その中でも、末端で働いている労働者にはある種の共通性があるのではないかという思いから開催する集まりなので、自分たちがどうやってこの問題を受けとめて、取り組んでいくかということを大いに議論していきたいと考えています。

 国が進める姑息な動きに抗して

ご存知のように、今、国は原発再稼働に向けた取り組みに邁進しています。原子力規制委員会は検査結果の報告において「規制基準はクリアーしているが、原発は絶対安全とは言えない」と述べているのですが、「規制基準をクリアーしたんだから、さあ再稼働だ!」と国は勇み立つ一方で、例えば懸案事項の一つだった事故が起きた際の住民の避難計画なども絵に描いた餅のように現実性のないプランだけを掲げ、再稼働に向け突っ走ろうとしています。
また、上限100ミリシーベルトという緊急作業の被ばく放射線量許容値を、それでは労働者の仕事の場を狭めてしまうからと、いかにも労働者の味方みたいな理由を挙げて、250ミリシーベルトに倍増するため法改正の準備をしており、ぼくたちはこの危険極まる許容値案の改正に対して反対運動を起こしています。
それからこれもご存知の方が多いと思いますが、昨年10月、福島第1原発で働いた後に白血病を発症し現在治療中のCさんが労災認定を受けました。厚労省はこの労災認定を公表する際、科学的因果関係が証明されたわけではないとマスメディアに強調し、救済のために労災認定をしたといったニュアンスの説明を行いました。しかし、ぼくたちは今年の1月にCさんにお会いしお話を伺ってきましたが、決して認定基準を満たしているからと一律に決めるような通り一遍の手続きで認定されたのではなく、多岐にわたる検査データを国は医療機関に提出させていて、さらに親族の病歴までも調べて資料にしています。それらを元に専門家による検討会で審査され、Cさんの白血病は、他の要因というよりも、被ばくによる影響と見なすのが妥当と判断されて、認定されたものでした。それを率直に認めない厚生省の態度は、できるだけ被ばくによる労災認定は避けたい、他の労働者への波及を避けたい、という姑息な方針から出たものとしか思えません。ぼくたちは厚労省に抗議し、説明のやり直しを求めています。
この事例でも窺えるように、国・東電、そして収束作業・除染作業を国や東電から受注している業者が一体になって被ばく労働者の被害の隠蔽をはかろうとする動きが着々と進行しています。一方、そういう状況の中で、ぼくたちは、一昨年から毎年「被ばく労働者統一春闘」という形で、福島での情宣と相談活動、国・東電・元請企業への統一要求書の提出と交渉を行っています。そしてその報告集会を兼ねて、5月には250ミリシーベルト問題や労災認定問題を追求する集会を予定しています。その詳細が決まりましたらアナウンスしますので、われわれの取り組みに合同して参加していただければと思います。長くなりました。以上で終ります。
(2016年3月19日  plan‐B)

テリーのいる風景

■日時:2016年6月18日(土曜日)
(午後1時〜終電まで)
■会場:plan-B

通称テリー・新井輝久(1962~2015)
ある時は舞台の音響オペレーターとして地下音楽の現場を寡黙に支え、また100回を超えるドキュメンタリーフィルム『山谷 − やられたらやりかえせ』のplan-B上映会では独学でマスターした映写技術を駆使して30年間にわたって映写し続けた。生前、年齢・実名ほか自分に関しては何も明かさなかった超シャイな永遠の少年テリーとは誰だったのか?
テリー・トリビュート文集「テリーのいた風景」刊行と、友人達のライブパフォーマンスで語りあう。

● 開場 13:00〜
テリーが集めていた膨大なスクラップ(高さ、目算8メートル。重さ、推定100キログラム)の展示をします。
● トーク開始 16:00〜
● パフォーマンス開始 19:00〜

■ ライブ+パフオーマンス
◎ 黒田オサム
◎ 霜田誠二
◎ 花上直人(予定)
◎ リュウセイオー龍
◎ A-Musik
◎ コテキタイ2016

■ トーク
◎ テリーのみた風景
  スクラップを通じて蘇る
◎ テリーの歩いた風景
  反日アンデパンダン、東京クライデ―、上映委
◎ テリーの愛した風景
  音楽、舞台etc.

●料金・予約 ¥3000
    当日 ¥3500 ※いずれも文集「テリーのいた風景」付きです

●予約・問い合わせ
テリーミーティング
090-1836-3430(上映委/池内)

■plan-B
中野区弥生町4-26-20-B1
丸ノ内線「中野富士見町駅」より徒歩約5分
中野駅より京王バス、「富士高校」バス停下車 最寄
*plan-Bの入り口は中野通り沿いです*

2016年5月21日

plan-B 定期上映会 <山岡強一虐殺 30年 山さんプレセンテ!>

第3回  「生きてやつらにやりかえせ!――歴史・民族・暴力」
講演 / 鵜飼哲(フランス文学・思想)

「山岡強一虐殺30年   山さん、プレセンテ!」シリーズの第3回目。今回は鵜飼哲さんをお招きして「暴力」をめぐる問題を考えていきたい。
寄せ場労働者の自己表現(力)のひとつは「暴動」だ。あるひとは暴動を「被抑圧者の言葉」であると言った。実際に、どんな切っ掛けで起ころうが、寄せ場の暴動は常に目に見える権力者(交番、警察署…)へと向かう。1959年末から60年代を通して十数波にわたって巻き起こった山谷の暴動もそのようなものであった。
寄せ場の活動家たちがまず直面した課題は、地から湧き上がる、そうした「暴力」とどう向き合うかであった。その中から生み出された合言葉が「黙って野たれ死ぬな」であり「やられたらやりかえせ」である。
いま私たちは、メディアなどを通じて世界中の「暴力」を見聞きしない日はない。北アメリカやヨーロッパ各国による空爆攻撃、ISの台頭、内戦…、それらが生みだす難民たち、そして行き場のない人びとを取り巻き、排除しようとする「排外主義」という暴力。パリやブリュッセルから聞こえてきた爆発音は、もうひとつの「被抑圧者たちの言葉」なのか?   私たちはその「言葉」とどう向き合い、どんな自分たち自身の「言葉」を紡ぎ出し発することができるのか?

鵜飼さんには、中東、アフリカ、ヨーロッパ…でいま起こっていることを、自身の経験を踏まえて語っていただきます。奮ってご参集ください。(なお、今回も映画上映は午後6時〜、トークは午後8時くらいからです。お間違えなきよう、ご注意を。)

2016年3月19日

plan-B 定期上映会  <山岡強一虐殺 30年   山さんプレセンテ!>

第2回   引続く棄民政策と被ばく労働者
講演 / なすび(被ばく労働を考えるネットワーク)

この3月23日から「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム(反核WSF)2016」が開かれる。福島原発事故から5年。自民党政権は自分たちの責任には頰被りして原発再稼働や原発輸出に突き進んでいる。反核WSFはこうした現状に異をとなえ、国内の反核運動と世界の運動をつないで「もうひとつの世界」を実現していこうという試みのひとつだ。
核技術開発は軍事利用や商業利用にかかわらず巨額の投資を必要とする国家規模のプロジェクトだ。そこには最高度の危険をともなうがゆえの秘密性や暴力・強制が必ずまとわりついている。また原料のウラン採掘から核のゴミ処理にいたる核燃料サイクルは、被ばく被害を地方や下層に押しつける差別性に貫かれている。いっぽうで「安全神話」をこねあげ、何の根拠もない「規制値」を上げ下げして、ウソをウソとも感じなくなった御用学者やマスメディアをつくりあげ、他方、税金や電気料金で吸い上げたカネを積み上げ、原発立地地域をがんじ搦めに縛りつけて被ばく被害のリスクを一方的に押しつけている。原発は(たとえ、万が一、放射能が漏れ出さなくとも)人格破壊・地域破壊の極みであるといえる。
そして被ばく労働者たち。福島原発事故以前から、全国の原発の現場でもっとも危険な作業に携わってきたのは下層の労働者たちである。重層的下請構造のシワ寄せに加え、イノチを切り売りする被ばく労働の実態は、いま除染労働・廃炉作業が進むなかでより一層の過酷さを増している。3・11以降にこのクニで進行しているのはむき出しの棄民政策と被ばく労働の増大である。「山さん、プレセンテ!」の第2回目は寄せ場からの視点でこの問題を考えてみたい。
お話は、山谷での活動歴も長く、また今回の反核WSFの呼びかけ団体でもある「被ばく労働を考えるネットワーク」のなすびさん。いつもより上映時間が早まります(午後6時〜上映)。ご注意を。

象徴天皇制の〈変貌〉

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第1回

天野惠一(反天皇制運動連絡会)

 二人の監督の死をめぐって

与えられているテーマは「天皇制の変容について」ということなのですが、本論に入るまえに、皆さんが先ほどご覧になったドキュメンタリー映画『山谷―やられたらやりかえせ』の初代監督でこの映画の制作途上で右翼暴力団の刺客により殺されてしまった佐藤満夫君と、佐藤君の遺志を継いでこの映画を完成させた直後に同じ右翼暴力団のテロにより殺されてしまった山岡強一さんの2人の監督と僕がどういう関係だったのかということをちょっとお話することで、自己紹介を兼ね自分の立ち位置をご説明しておきたいと思います。
僕が佐藤君と知り合うのは、80年代に入ってから僕らの立ち上げた「山谷越冬闘争を支援する有志の会」に彼が飛び込んで来て、「有志の会」のメンバーに加わり、「1年ぐらい山谷にはりついてドキュメンタリー映画を撮りたい」と宣言して以降のことでした。全共闘世代で逮捕歴もある彼は、全共闘の敗北後、商業映画やテレビの助監督をしていたのだが、その稼業から足を洗い、寄せ場に常駐し日雇労働に従事しながら山谷のドキュメンタリー映画を撮りたいと、僕らの仲間に加わってきたのだ。しかし僕は映画制作にはタッチしていませんでしたので、たまに「支援する有志の会」の会合で出会うくらいの関係だった。
ところが、佐藤満夫は、映画がクランクインしてまだ1カ月もたたない1984年12月22日に日本国粋会金町一家西戸組組員の凶刃により殺されてしまった。佐藤君は僕と同じ齢の37歳だった。
この年、僕たちは「反天皇制運動連絡会」という組織を立ち上げ、11月25日「日韓―核安保―天皇制を考える」というシンポジュームを開催しているのだが、この会の途中に彼が入ってきたのを、司会をしていた僕は確認している。それが僕にとっては佐藤満夫と接した最後になってしまった。
山岡強一さんは1940年生まれ。北海道の炭鉱労働者の息子です。山岡さんというと、なんだかよそよそしいので、僕たちの仲間が日頃呼んでいた「山さん」と言わせてもらいますが、山さんは68年に上京して寄せ場(山谷)に入り、「山谷悪質業者追放現場闘争委員会」を結成、81年に「山谷争議団」を結成、82年には「全国日雇労働組合協議会」を結成するなど、寄せ場労働者の運動に率先尽力してきた。また、山さんは、僕たちがやっていた「山谷越冬闘争を支援する有志の会」や「反天皇制運動連絡会」の運動にも精力的に関わっていた。言わば山さんは僕たちの同志だったわけです。
こうした山さんをリーダーとした山谷の運動や、その運動をテーマにしたドキュメンタリー映画の制作に対し、山谷での手配利権を脅かす存在として敵対したのが右翼ヤクザの金町一家西戸組で、その露骨な武装襲撃の標的にされたのが佐藤君と山さんだった。
山さんは、こうした運動を続ける中で、志半ばで斃れた佐藤君の遺志を継いで、ドキュメンタリー映画『山谷―やられたらやりかえせ』の監督を引き継ぎ、この映画を完成させたわけですが、その直後の1986年1月13日早朝、自宅近くの新宿の路上で日本国粋会金町一家の組員により狙撃され殺されてしまった。45歳の無念の受難だった。
実は山さんは、右翼テロの凶弾に斃れる10時間ほど前まで運動仲間たちと座談会をやっていて、その最中に僕は、山さんも参加していた「反天皇制運動連絡会」の機関紙の座談会のゲラに手を入れる作業をやってもらっていたのです。ですから凶報を聞いたときは、耳を疑うというか、一瞬頭が真っ白になった。
あの『山谷―やられたらやりかえせ』というドキュメンタリー映画を撮ろうとしていた監督2人が2年足らずの間に相次いで右翼テロによって殺されてしまうという異常事態に遭遇した僕たちは、直ちに「警察とヤクザの癒着を監視する会」という組織を立ち上げ、活動を展開しました。これ以上犠牲者を出さないためにはどうしたらいいかという防御策を必死に講じなければならないと考えたからです。
例えば、日本社会党(と当時まだ呼ばれていた政党)の議員に働きかけて山谷を定期的にパトロールしてもらいました。そうすると警察と裏でつるんで暴力を揮う右翼暴力団の動向があまり露骨でなくなりました。また、マスメディアの山谷報道が、まるで暴力団同士の抗争のように、「暴力団と山谷労働者の抗争」といった図式でしか報じられないデタラメさを解消させるため、閉鎖的な寄せ場の状況を正しく認識してもらうような情報発信していく活動もいろいろ行いました。それから寄せ場の孤立した閉鎖社会状況を、世の中にもっと広く正確に認知してもらおうという目的で、大学教授たちが中心になって「寄せ場学会」が結成されましたが、この結成にも僕たちは少しは協力しました。
完成した『山谷―やられたらやりかえせ』は、上映実行委員会が有志によって結成され、今日まで各地での上映会を続けてきたわけですが、当初は当時古書店をやっていた僕の店が映画の連絡先になっていた。店主の僕は店番をしてくれていた書店員に「右翼が襲撃してきたら、さっさと逃げろ」と言っていました。当時はそんな状況だったのです。
佐藤君と山さん、そして2人が監督して作った映画と僕との関係は、以上です。

整理し分析し、思想的に論理化していた山岡強一

では、本論に入ります。テーマは「天皇制の変容」についてということなのですが、さてどのようにお話しようかな、と考えていて、そうだ山さんも天皇制についてかなり論じていたなということを思い出しまして、彼の書いた本『山谷 やられたらやりかえせ』(現代企画室 1996年)を今回改めて通して丁寧に読み直してみました。で、改めて思ったのは、山さんという人物が、ものすごく「普通」ではないなってことでした。僕の思う「普通ではない」というのは、運動家としてあれだけ忙しく過酷な運動をしていた中で、論じるべき物事や問題点を本当によく調べて整理し、分析し、思想的に論理化しているからです。こういう人ってあまりいません。
山さんの本は、通常、学者たちが行っているような、研究者として、対象を客観的、論理的に整理し、分析するという手法で書かれたものではない。山さんのこの本は、寄せ場の歴史、運動を論じている本なのですが、それは自分自身が寄せ場の労働者であり、寄せ場で闘ってきたことを前提にしたうえで、自分たちがどういう存在なのかということを、歴史的に明らかにしているのです。つまり自分たちの存在が、社会的、構造的にどういうものなのかということについて、自分たちの運動という文脈の中で、歴史的に全体として整理し、緻密に分析し、思想的に論理化しているわけです。
特徴的なのは、ひじょうに古典的な労働者階級主義者だった山さんは、既存の大きな労働組合が中心の労働運動が、従来、寄せ場の下層労働運動を運動として評価せず見捨ててきた点を痛烈に批判していることです。一貫して寄せ場の下層労働運動に従事してきた山さんは、下層労働の労働様式、存在様式の方こそが本源的な労働者なのだと位置付けており、それを組み込んでこなかった従来の労働運動はまともな労働運動とは言えず、真っ当な労働運動の歴史にはならないだろうと指摘してきた。
僕は昨今、原発再稼働反対運動にも関わり、地方へも足をはこんでいるのですが、原発事故を起こし、すさまじい放射能被害を浴びて原発施設内で労働に従事している下層労働者たちは、放射能汚染は除去され、もう安全なので帰還しなさいと言われている避難住民たちと同様に、完全にあいかわらず国策民営化原発下の棄民政策の受難者だと思います。もし、山さんが生きていたら、この状況、この構造を、どのように分析し、思想的に論理化し、どんな運動として取り組むだろうか。そんなことが頭をかすめました。

戦前天皇制のアナロジーとして象徴天皇制を批判するという問題

またズレました。さて、どのように天皇制は変容したのかということです。根本的に天皇制が大きく変わったのは、敗戦を迎え占領下の時間の中でした。どう変容したのかと言えば、それまでの大日本帝国憲法下の天皇制体系から、戦後の日本国憲法下の天皇制体系へ、変わったということです。両体系の大きく異なる点は以下の点です。
まず戦前の大日本帝国憲法では、天皇は主権者として位置付けられています。主権者であり、現人神であり、神聖にして侵すべからずといった宗教的な存在として君臨していた。それから「統帥権」を持っていた。統帥権とは、軍隊を指揮監督する最高指揮権で、これを天皇のみが有していた。いわば軍隊は天皇の私兵だったわけです。警察も天皇のための「陛下」の警察でした。つまり国家機関全体が天皇のために存在するという構造になっていた。
一方、戦後の日本国憲法では、国民が主権者であって、天皇は国民の総意にもとづく象徴として位置付けられている。新憲法には、次の3つの原則があります。民主主義・平和主義・人権主義です。この原則からすると、象徴天皇制というのは原理的にそぐわないように思うのですが、そういうあいまいな構造の天皇制体系に変わったわけです。
以上の違いをご覧いただければ、戦前と戦後の天皇制体系が大きく変容していることがお分かりいただけるのではないかと思います。どうしてこのことにこだわるのかというと、あとで説明しますけれど、その変容について認識しておかないと、天皇制を批判する際に見当違いの誤解やあいまいな容認という問題が生じかねないからなのです。
実はこのことは山さんの天皇制批判や山谷争議団の運動における天皇制批判などにも認められるし、僕たちの運動においても、そういう傾向がなかったわけではないのですが、これまでの一般的な天皇制批判には、どこかに大日本帝国憲法下の天皇制をアナロジー(類推)して、現在の天皇制を批判するみたいな力学が働いているんですね。
山さんの本にも、戦後の新憲法において天皇制体系が変容したことについては触れているのですが、原理的にかなり変わってしまった象徴天皇制というものを、どのように捉え、分析し、現代の問題として思想的に論理化するかという思考の痕跡はない。もちろん、山さんのこの本は、天皇制問題を主題にしていたわけではないのですから、その部分の論考が欠落しているからといってあながち批判するのは失礼なのかもしれません。
僕たちが天皇制の変容についての認識にあいまいさがあったのではないか、と、ちょっと批判がましいことを言いつつ、そのあいまいさを黙認せざるを得なかったのは、当時、山谷では、寄せ場の下層労働者たちの労働運動が、天皇制右翼ヤクザの暴力的な襲撃にしばしば遭遇していて、実際に佐藤君や山さんが右翼テロで殺されるという現実に直面していたからです。リーダーの山さんが、これは戦前の天皇主義的なファッショ体制が再興してきているのではないかという危機感を抱いたとしても無理もない、そんな状況だったからです。
ご承知のように、戦前の日本では社会主義者たちに対する弾圧は過酷なものでした。天皇制の批判など公的には絶対に許されなかった。不敬罪という法律があって、最高刑は死刑に処せられた。作家の小林多喜二のように公安警察の過酷な暴力によって殺された者や、不当に獄に繋がれた者も少なくない。大日本帝国憲法下の天皇制時代においては、そういうことが公然と容認されていたわけです。
しかし戦後の日本国憲法では、天皇は「国民の象徴」といった極めてあいまいな存在として規定されてはいるが、主権者ではなく、不敬罪という悪法もなくなった。僕たちの仲間だった佐藤君や山さんを襲撃して殺したヤクザ組織の犯人は天皇主義右翼を標榜する組員だったが、だからといってそれが必ずしもまるごと象徴天皇制のもたらした犯罪だと決めつけることはできない。冷静に判断をするなら、それは市民社会の外の寄せ場に突出して生じた資本主義の闇の部分を構成する闇の軍団による卑劣な暴力と認識すべきではないかと考えられるからです。

ソフトな天皇というイメージに変容する中で…

戦前の天皇制について、中国文学者で魯迅の本の翻訳者として知られる竹内好という人が、それは「げんこつ」みたいな存在だったと言っています。要するに言うことを聞かない奴をガツンガツンとぶん殴る存在だというわけです。しかしこれには注が付いていて、天皇制というのは実は右手で言うことをきかない奴を殴るけれど、他方左手でよく言うことを聞く国民の頭をなでる慈父のような機能も備えており、この2つの機能を分析しなければ、天皇制の批判はとどかないと敗戦後から遠くない時間で述べています。これは天皇制の変容について考察する際にも、とても分かりやすい比喩ではないかと思います。
象徴天皇制になって何が変わったかということについて前述しましたが、非政治的・非宗教的存在として位置付けられたことです。つまり天皇は直接的に財政や軍事に口出しできない存在、政治権力から遠ざけられた身分になったわけです。これは昭和天皇と呼ばれた裕仁(ヒロヒト)が戦前まで軍服を着た天皇だったことをふり返れば大きな変容です。戦後の象徴天皇制が、その理念にそった実体だとすれば、「げんこつ」のイメージは後景に退いたことになります。しかし昭和天皇の在位時代は、大日本帝国憲法時代の天皇制のイメージの残像を払拭するまでには至っていなかった。
天皇制のイメージが決定的に変わるのは、昭和天皇が死去し、皇太子明仁(アキヒト)が天皇に即位して以降なのです。というのは、周知のように、明仁天皇こそが平和憲法下の象徴天皇にマッチした天皇という評価というか空気が広まり、軍隊や警察の暴力というイメージが後景に遠ざかり、平和憲法下のソフトな天皇というイメージが本格的に定着する第一歩が踏み出されているからです。
ところが全く皮肉な話なのだが、まさに天皇制の変容する、その時間に重なるように、山谷の寄せ場においては、天皇制右翼の暴力により佐藤君と山さんは殺されている。僕たちは、股裂きされたようなそんな時間と状況下で、変容した天皇制の問題をどのように考え、分析し、対決していくべきかという事態に直面したのだと思う。

反安倍の人たちもナショナリズムに取り込む天皇制

問題は、天皇制の変容により、ひじょうにソフトでやさしい、国民のことを常におもんぱかる天皇というイメージが定着する中で、国家が今、具体的には安倍政権が何をしているかということです。安倍は政権に復帰以降「戦後レジームのチェンジ」というスローガンを掲げて、勝手な憲法解釈をして集団的自衛権を主張できる法案を強行採決し、日本を戦争のできる国にする基盤固めを着々としている。そして平和憲法の改正を目指しています。つまりファッショ的国家主義的な国づくりを押し進めるという蛮行を果敢に展開しているのです。
これとは対照的に天皇明仁は、震災被害地へのお見舞いや太平洋戦争の内外の犠牲者にたいする慰霊の旅を行ってきた。昨年の8・15の式典では、日本が引き起こした戦争について反省の言葉を述べた。それに対して安倍が「戦後70年談話」で日本の戦争責任について自分の言葉で語らなかった態度は多くの人から批判を浴びた。
こうした中で安倍政権に批判的な朝日・毎日・東京新聞などでは、天皇の態度を褒め称え、「安倍のような軍国主義者に陛下はひじょうに困っている」といった論調の記事が散見されるのだが、安倍政権を支持し擁護している読売やサンケイは、安倍批判はせずに、もっぱら「天皇の平和を思う心は素晴らしい!」という論調の記事を書いている。
反安倍と安倍擁護の両陣営は、一見、意見が真っ二つに割れて見えるかも知れないが、実は「天皇(制)は素晴らしい!」という点では挙国一致しています。
メディアにおいては、安倍対天皇一族の関係は、今、そういう図式で描かれている。国民の間でもそういう空気が支配的です。しかし、それは事実としてどうなのか?
例えば、天皇制には、安倍に対してやや批判的な態度を見せることで、反安倍派の人たちを全部国(ナショナリズム)の内側に取り込んでしまうという機能があるからです。天皇制というのは、そういう機能を果たしている。実はそれは安倍にとっても長い目で見れば必要なことなのです。なぜなら、両者には、日本国と天皇の侵略戦争責任を問わないという共通の思想があるからです。
戦後の日本国家は、そういう形で成立し、そういう統合形態が形成されてきた。ですから、天皇が素晴らしいなんてことは全然無いのですが、「戦後レジュームからの脱却」を宣言し、戦前の日本帝国との継承性や復権を掲げて暴走する安倍とは対比的に、明仁の言動は平和憲法に見合っているというイメージが定着しつつある。
つまり、かつて山さんたちが闘っていた時間の中で暴力化した天皇主義右翼と対決し進めてきた国家再編とはかなり違った象徴天皇制国家の在り様が現実化してきているのです。それゆえ、こういう時代の中で天皇制批判を行うことがひじょうに複雑化し難しくなってきている。すなわち、戦後の保守権力の基盤で作ってきた戦後民主主義社会の全体をガードしようという天皇(制)と、それとはズレている安倍政権、それが一見は対立しつつ協力しあっている構造的全体、そういう国家の在り様みたいなものと闘わないと、現実的な運動は展開できなくなってきているのです。これは特殊な寄せ場空間で闘わされている言語では無理ではないか。僕はそう思ってきた。
今、僕たちが直面している課題は、象徴天皇制というひじょうにあいまいなイデオロギーで民衆を国家の中へ囲い込んでいこうとしている思想と体制に対して、どのように闘っていくかということです。
天皇制をめぐる運動においては、そういう問題が、今現在の問題としてあるということです。山さんたちが運動していた時代から30年経った今の時代の中で、いろいろ見えてきた課題について改めてどういうふうに考えていくべきか。山さんたちがやれたこととやり切れなかった問題をどういうふうに乗り越えていくべきか。そんな思いもあって、こういう報告をさせていただきました。ちょうど時間となりましたので終わりにします。
(2016年1月16日 plan‐B)

追悼 相倉久人 ――― たかが風景、されどジャズ

平井玄(批評家)

ぼくは相倉さんとは、3〜4回ぐらいしか会っていないんだけれど、いつも穏やかな人だったなあという印象をもっています。ときどき眼がキラッと光る時もありましたが、公家みたいなウリザネ顔で、起きているものごとをグッと離れてみる余裕を感じました。
今日、ここに来ている人の多くはぼくより相当若い方たちだから、これからお話する「相倉久人」って一体どんな人物なんだ?という人も多いと思います。
それで、相倉久人のプロフィールを紹介する前に、まず、60年代にジャズ評論家として活躍していた頃に、彼自身が関わった出来事の映像をちょっと見てもらいます。その空気を味わってもらいたい。そこから始めましょう。

 バリケードの中の相倉さん

まずこれは当時、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のディレクターだった田原総一郎による「ドキュメンタリー青春」というドキュメンタリー・シリーズの1本です。1969年に撮られた『バリケードの中のジャズ』と題した番組の映像です。場所は大学闘争真っ盛りの早稲田大学、学生たちが占拠する4号館の大教室で、演奏しているのは山下洋輔トリオです。最初期のメンバーで、ピアノの山下さんにテナーサックスの中村誠一さん、ドラムスの森山威男さん。山下洋輔については、強力なフリージャズのピアニストとして今も活躍している人ですので、みなさんもご存知の方が多いのではと思います。
学園祭でのコンサートというのは今ほどではないが、当時もありました。でも学生と大学側とが対立していた混乱の最中の、しかも校舎を封鎖したバリケードの中でのジャズ・コンサートというのは、大学当局にとっては挑戦的な暴挙と映ったはずです。阻止できない勢いが学生たちにあったんですね。しかもこの時、山下洋輔の弾いているピアノは大隈講堂内に置かれていたものでした。早稲田に芸術系の学部はないので、ピアノは勝手に講堂から会場に運び込んだものだった。これを企てた学生側の張本人と、ぼくは40年後に仕事仲間として偶然出会うことになるんです。
いくつもの割拠した校舎に旗を掲げて陣どる左派学生グループ間の抗争、学内統治を回復しようと焦る大学当局の監視と、授業再開に向けて右派を使った襲撃、そして所轄や公安警察の包囲網が錯綜する中で、なにが起きても不思議はない。この緊張の中でコンサートを仕掛ける学生や押しかける学生たちがいて、臆せず出演するジャズマンがいた。しかもそれを撮影してテレビに放映をしている。そういうことが可能な時代でもあったわけです。物騒な事件が絶え間なく起きる。濃厚な空気が街に漂う毎日でした。
ご覧いただいた1シーンのなかに、「誰も席を立たない、バリケードとゲバ棒の中でのジャズ。彼はジャズについて一言も語らない。ジャズとは何か? 何のために? と彼に問う学生はいない」というナレーションがありますよね。ここで「彼」と呼ばれているのが山下洋輔であり、このジャズ・コンサートのプロデユースと司会を務めた相倉久人さんでした。この政治性が過剰な空間でいっさい言語的な説明をしない。音が創り出す空間性に賭ける。ここに相倉さんの頑強な姿勢がうかがえるんですね。
相倉さんは、山下洋輔さんと濃密な付き合いをしてきたジャズ批評家だった。実はジャズについて評論する人と現実にジャズを演奏する人との関係はなかなか難しいんです。音楽家の中でもとくにジャズマンは。1980年代に、ぼくもアメリカのあるジャズマン(ジョン・ゾーンですが)から「クリティックは裏切り者だ」と面と向かって言われたことがあります。フリージャズ派は一瞬の即興的な音に賭けている。横から余計なことをガタガタ言うなっていう気持ちが強いのでしょうね。しかしジャズに憑かれた者としては、時に演奏者と敵対してでも書かなければならないことがある。そういう覚悟がいる。なまなかなことは書けない。
その点、相倉さんと山下さんの関係は特別でした。相倉さんは、山下さんら当時の若いジャズメンたちと一緒にフリー・ジャズ運動を起こした批評家です。出来上がった作品だけを事後的に批評する立場でも、離れて楽理的に語る位置でもない。演奏法やスタイルに関しては、こうしたらいいんじゃないか――といった音楽的な指導や忠告めいたことは決して言わなかった。新宿ジャズの中心的なライブハウス「ピット・イン」に出演する山下トリオの司会役をさりげなく務めるだけ。それでも山下さんに対して、演奏の場の在り方や他のミュージシャンとの間で醸し出される音楽的空間についてはつねに示唆を与えていたと思います。ジャズメンたちに溶け込んで、演奏と同じ次元にいたんです。この時代、とびきり濃いマニアや猛烈にうるさい連中が集まる新宿で、自由でありながら緊張した「空気」を創り出していた。それがそのまま批評行為であり、かつ創造行為だったんじゃないか。まだ高校生だったぼくは、同じ建物で背中合わせにあった喫茶店の裏口から、その空間に忍び込んでいたわけです(『愛と憎しみの新宿』ちくま新書)。

映画に介入する相倉さん

それではもう1本の映像。やはり1969年に制作された『略称・連続射殺魔』(監督・足立正生)というドキュメンタリー映画を紹介しましょう。ほんとうはもっとずっと長い題名で、これはそのさわりのシーンだけですが。
当時、1968年の10月から69年の4月にかけて、日本の各地で4人の互いに無関係な人たちが銃弾で撃ち殺されるという事件が起こる。「連続射殺魔」と呼ばれたその実行犯はまだ19歳の少年でした。これは「永山則夫」というその人が生まれてから辿った足跡を、列島あちこちに追ったドキュメンタリー作品です。
無念なことに20年前の1997年に処刑されてもうこの世にいない人ですが、北海道の網走、番地のない呼人(よびと)番外地で生まれました。8人兄弟の下から2番目。父親はリンゴ栽培の剪定師でした。ところが父は博打に耽って家庭は崩壊、母もいなくなり、5歳の永山は残された3人の幼い兄弟たちとともに小屋の中に遺棄されてしまう。豪雪の中で食べるものもなく、港で魚を拾いゴミを漁る生活だったといいます。やがて母が帰った青森に引き取られるんですが、行商で母親は家にいない。家族にも疎まれて、何度も家出します。どうにか中学を卒業して東京に出ても、あちこちの底辺労働をさまよう前半生でした。
そこから連続殺人を起こして逮捕されるまでのジグザグな道のりが、「主人公がいない風景をひたすら映像化する」という手法で描かれている。ほんとうに日本列島を釘で引っ掻くような動きをした。どこにも定着できないんです。40年以上たった今見ると、埃くさい道とモルタルの家が連なる60年代の地方と都市の光景がたんたんと映っているだけ。なんだかNHKの「新日本紀行」みたいに見えますよね。このことはまた後で話しましょう。
この映画の音楽監督を相倉久人さんが務めていました。ここではまた別のフリージャズ音楽家たちの演奏をサウンドトラックとして用いる。富樫雅彦さん(ドラム)と高木元輝さん(サックス)の二人でした。相倉さんが、このころ火を吹く勢いの山下トリオではなく、富樫と高木の二人を用いたのはなぜでしょうか。これがどうも、ジャズに浸りきった活動家たちには不可解だったんです。山下トリオの演奏はくっきりとしたドラマツルギーを生み出していく。アメリカのジャズとも違うんですが、メロディが異なるどんな曲でも「起承転結」みたいな構造を帯びる。半世紀近くたって聴くと、これはどこか「浪曲的」かもしれない。とにかく聴く者に猛烈なカタルシスを与えてしまう傾向があったんです。だから若くて行動的な連中に人気があった。猛烈にヤル気がでるんです。
それに対して、より生成的というか、まったく音のない時間を含んだフリーフォームというより「アンフォルメル」(無定形)な音をこの二人は生み出していました。いわば「物語性」をギリギリまで削ぎ落としている。この即物的なぶつかり合いこそ、この映画にふさわしいと相倉さんが判断したからだと思います。この選択には鋭いものがあった。むしろ映像への「介入」なんじゃないか。といえるのは、だいぶ時間がたってからでしたが。これが『連続射殺魔』ではぎ取られた空間に関わっている。
そのように、相倉さんは、「場の在り方」とか「空間の質感」というものをいつも大事に考えていたと思います。「場」が立ち上がる瞬間や都市空間と音楽についてはとてもセンシティブで、いつも神経を研ぎ澄ませていたようです。たんに黒人たちの音楽だから、そのファンキーな感覚が好きだからというのではない。気流を感じ取るセンサーが鋭く働く人でした。軽い言葉で語っても、そこには巨視的な奥行きがあった。
ところが彼は、70年代の初めあたりからジャズについて書かなくなります。これに遅れてきたジャズ餓鬼どもは驚く。その理由として、激しい即興演奏が出現する場所、聴くにふさわしい濃厚な場、「ジャズが立ち上がる密室」のような空間が失われてしまったからだ、と彼自身が書いています。街頭も大学拠点も機動隊に征圧されて動乱の時間が断ち切られる。白茶けた70年代が幕を上げるとともに、空間の濃度が拡散していったと語っています。実際に、職業的な音楽評論家である相倉さんが1年間ほとんど何も書けない時期があったんです。
その後の相倉さんは、ロックを語りはじめ、さらにもっと密度の希薄な場所にふさわしいポップな音楽の分野に分け入っていく。いわば「無重力空間」の音楽を論ずる活動を長い間行ってきました。彼自身「宇宙人」なんて自称していた。80年代以降に音楽を聴いて育った人たちには軽妙な「ポップスおじさん」として知られてきたのだと思います。

「ジャズ批評」と「映画批評」

60年代末の高校時代からジャズにのめりこんだぼくが、ジャズについて何か書くようになったのは、相倉久人と平岡正明の二人に電撃的な影響を受けたからでした。1966年ごろ、中学時代にボブ・ディランやハードロックから黒人のブルースを聴きはじめ、ソニー・ロリンズのレコードを初めて手に入れる。高校に入ると、モヒカンの先輩がサックスを持って登校してきたり、クラスには増尾好秋という当時注目を浴びたジャズ・ギタリストの弟子がいたりした。まあ「ジャズの街」新宿の真ん中に飛び込んだわけです。68年からはピットインというジャズの店に入り浸りになってしまう。そういうちょっと尖った餓鬼にとって、相倉さんはライブハウスの暗がりで遠くからその存在を仰ぎ見ていたジャズ評論家でした。
そんなこともあって、だいぶ後、90年代半ばに何かの企画で新宿の喫茶店「らんぶる」の地下で相倉さんと初めて会う機会があったときに、かつて相倉さんと平岡さんがジャズを通して緊密なタッグを組んでいた時代の話になった。なにせ、この二人の書くものに出逢わなかったら、ぼくはこんな風にドロップアウトすることもなかったかもしれない。いや、いい意味でたいへんな恩人なんです(笑)。そのあたりを知りたくて訊ねたんですが、相倉さんは例の柔和な笑顔で「いや困った奴で平岡は……」と言っただけで、あまり多くを語らなかったんですね。意外でした。たしかにジャズに固執し続けた平岡さんと別のグルーヴに向かった相倉さんは、1970年代に入ると静かに別れていったように思えるんですが、そこを聞きたかった。以来ぼくは、その時の響きが頭の片隅に残り続けてきました。
すこし解説すると、相倉さんと平岡さんが知り合って思想的なコンビを組むようになるのは、『ジャズ批評』誌が創刊される1967年のすこし前でした。ぼくは68年に新宿高校に入学したんですが、先ほど言ったように、その直後からジャズに凝りはじめ評論も読み始めていたので、当時先鋭なリトルマガジンとして注目を浴びていた『ジャズ批評』も読みかじる。中学生の時に読んだ『スイング・ジャーナル』にはもう飽き足らなくなっていたんです。「黒人音楽」が「黒人革命」なんて言葉とセットになって飛び交う時代でした。そこで相倉さんや平岡さんの存在を知り、二人に誘われてジャズの世界に足を踏み入れたといっても過言ではありません。
ですから1970年に、この二人が松田政男、足立正生、佐々木守とった人たちと「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊すると、この雑誌の読者にもなる。映画雑誌と銘うっても、政治や思想、芸術を横断する総合批評誌でした。今どきの言葉でいえばエッジの利いた雑誌だった。ところが、相倉さんは『第二次・映画批評』の同人メンバーのはずなのに遂に一度も書いていないんですよ。平岡さんの書くものとは別の次元で期待していたぼくは、このことを「一体なにがあったんだろう?」と長い間にわたって気になっていた。だから相倉さんに初めて会ったときに、その疑問を発したわけなのですが、その答えがさっきの「困った奴で……」というなんとも曖昧な言葉だったのです。
相倉さんと平岡さんの間に、どんな「齟齬」(そご)があったのか。個人的な感情の問題じゃなくて、その後もアジアの政治的な革命に賭けた平岡さんと音楽の感覚的な変容に賭けた相倉さんとの間で、なにか根本的な対立が生まれていたんじゃないのか? 相倉さんは正面切ったことは何も述べませんでしたが、先に触れた70年代にジャズ評論を止めてしまった理由と繋がるものがあるように思えるんです。

音楽と風景

それは別の言葉に言い換えると、今日の話のタイトルに掲げた「たかが風景、されどジャズ」ということではないか。つまり「均質な風景とどう闘うか」という時代の到来に、相倉さんはいち早く気づき、それまでの「ジャズの形」に別れを告げたのです。一方で平岡さんは、かえってジャズ的な密度や濃度にますます没入していく。
1969年1月に大学闘争の象徴だった東大安田講堂のバリケードが権力の強圧によって破壊されるわけです。この年を跨ぐと、大きく「時の手触り」みたいなものが変化していく。そう気づくのはしばらく時間がたってからでしたが、そんな曲がり角だった。ぼくらの世代というのは、小学生時代から「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)と喧伝された家電製品がだいたいどこの家にでもある。大都会だからでしょうが、そんな高度成長の時代を生きてきた。高校生になるころには、資本主義というか企業の力は一層増大し、街にどんどんビルが建って、気がついたらぼくらの生きている空間は商品によって埋め尽くされていた! 騒乱罪によって人々が一掃され、運動も解体しバラバラにされて街に一人立つと、そういう大変容に改めて気づくわけです。空気が一変している。夢から醒めたのか、それともこれそのものがまた新たな夢なのか。
生まれ育った新宿の街並みについて振り返ってみても、60年代初めまでは目抜き通りの新宿大通りでさえ8階建てのビルは戦争で焼け残った伊勢丹と三越ぐらいでした。東口駅ビルも紀伊國屋本店も建ったのは64年。ほとんどが4階か5階ぐらいのビルだったんです。その中で、相倉さんや山下洋輔さんがジャズの主戦場にしていたライブハウス「ピット・イン」は、大通りに面した洋品店の裏側にありました。つまり紀伊國屋裏の路地にあるモルタル2階建ての構えだった。ジャズ喫茶はその洋品店の2階。ブティックとかブランドショップじゃなくて、ほんとによく駅前にあった昔風の洋品店です。これが60年代までの新宿という街の質感だったわけです。
ところが50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争の後方生産基地としてこの国が貯め込んだ富のおかげで、街の光景も大きく変容していくんです。そのことをぼくらの眼にはっきりと見せたのは、1969年に京王プラザホテルが着工されたことでした。これが新宿西口副都心計画の超高層ビル第1号でした。この国最初の超高層ビル街が出現するのは1970年代の終わりですけれど、69年はまさにその分岐点だったんです。

音の思想家

相倉さんは、70年代の後半に『機械じかけの玉手箱』(1977年)、『ロック時代〜ゆれる標的〜』(1978年)という2冊の本を書いています。『ジャズからの挨拶』(1968年)や『ジャズからの出発』(1973年)というジャズ時代の本ほど注目されず、もう忘れられていますが、ぼくは今も時々読み返すことがある。これらの中に出てくる「機械じかけ」「ゆれる標的」「大量の音」という言葉を、変容した空間を解く重要なキータームと受けとめてきました。繰り返しますが、音楽の焦点も生演奏のジャズから電気的なロックへと一気に移る。その変容の特色として挙げられるのが、エレキ・ギターに代表される電気楽器やコンピュータ制御のシンセサイザーが登場したことです。現在ではアナログシンセさえノスタルジーの対象だから、不思議な言い方に聞こえるでしょうね。つまり、人間が手や口という生身に近いところで作り出す音ではなく、機械によって複次的に加工された音が音楽のベースになってきたことを、相倉さんは「世界」のなにか重大な変化の徴候として感じ取ったんですね。そこを批評の標的にしているのです。しかもテクノロジーは刻々と進化するから、音楽は常に動き揺れているわけです。
実は3年前に、ぼくは原発労働者たちの運動に関わるんですが、その後は肝臓の病気で足が遠くなってしまった。それはともかく、その立ち上げに際して、日本で最初に原発労働者組合を作った斎藤さんという人に話を訊く機会がありました。そのとき彼がこんな話をしてくれたのでちょっと解説しながら紹介します。
「半永久的に24時間にわたって大量の排水や排気が必要な原発施設内には、無数のダクトが張りめぐらされているのですが、地震とか津波で何か事故を起きると、振動でダクトが一斉にガタガタと物凄い音を立てるんですよ。高周波の金属音が機械だらけの広くて高い天井の構内で反響し合って、何十時間も続く。それはもうとても耐えられない大量の音なんです!」。
この話が喚起するイメージは強力でした。というのも、これは究極のインダストリアルノイズ・ミュージックじゃないか。長く留まれば死にいたる真っ暗な密室で何百というダクトがガンガン音を立て続ける。それは決して原発施設内に限るものではない。ぼくたちが暮らす日常の音環境が極限まで行った姿だろうと思うわけです。こういう「大量の音」に囲まれた生活世界がだいたい1970年代前半くらいに始まったんだと思います。事実、原発立地を札束で確保する「電源三法」が成立して、原発建設が始まったのは74年です。1980年代のドイツにも「アインシュテルツェンデ・ノイバウテン」という金属ノイズによる音楽ユニットが現れました。相倉さんは革命運動の敗北や社会的な思想についてはほとんど語らない。けれども、音をめぐる人々の感覚が変わっていくことを敏感に捉えていたと思います。それも「質」ではなく「量」として摑む。そういう意味では間違いなく「音の思想家」でした。

50年後に生きる音

東日本大震災で福島原発事故が起きた2011年3月から3か月ほど経った夏のことでした。ぼくは福島の脱原発集会に参加する機会に、南相馬の福一から20キロ圏ギリギリの地点まで行ったことがあります。経産省前のテントを立てた人たちのバスに便乗して行ったわけです。放射線検知センサーが鳴る高音の中、窓から見ると、太平洋から押し寄せた津波に人間の痕跡が完全に剝ぎ取られている。浜通りの海岸に近づくほど人が誰もいない。屍体は片付けられていました。家も土台しかない。そのもう少し手前でも瓦礫のすき間に放たれた動物が見えるだけ。夏の陽に照らされて静まり返っている。そんな村里の風景がひじょうに「きれい」で、高濃度の放射能で汚染されていることも一瞬忘れてしまう。ああ、これが自然なのかなあ! と錯覚してしまうほどでした。
さきほど『略称・連続射殺魔』の映像を少しご覧いただきましたが、少年の足跡をたどった風景は一見どこも風光明媚ですよね。緑が生い茂ったのんびりとした田舎の光景に見える。少年が劣悪な環境で幼いころを過ごした網走や青森の風景からは、とても食べるものもない生活など想像もできない。実家だったバラック長屋が軒をつらねる青森の町は、原発事故後の福島浜通りの町と異様なほどよく似ている。1968年の青森板柳町と2011年の福島南相馬の間には半世紀近い時間が流れている。ビルもスーパーもコンビニも建てられた。原発こそ「風景化」の最たるものでした。そして、バブル崩壊などを経た時間には地方の衰弱が訪れていたはずですが、そんなデコレーションみたいな表皮はすべてペロリと剝がされてしまった。風景が征圧した地肌が剝き出しなっている。
『略称・連続射殺魔』は、日本列島各地に延々と永山則夫の足どりを追って、そこで眼に入る風景ばかりを撮ったドキュメンタリー映画です。最初の画面に文字で4件の犯行について事実だけが示されると、時おり永山の軌跡を簡潔に語る足立さん自身による言葉が入るだけ。生い立ちや背景を説明的に描くことも、それに対する擁護や告発を示唆する映像はなにもない。人間を語る「社会派ドキュメント」じゃないんです。永山が見ただろう風景だけを、いわば永山の眼になったように撮る。
「風景映画」じゃなくて「風景論映画」と制作者たちが呼んでいたように、観る者に「この1969年の光景をオマエはどう見るんだ?」と問いかけてくる映画なんです。軌跡というくらいだから、永山の流浪とともに動く列車がやたらと出てくる。今の鉄男くんたちには半世紀近く前の「お宝映像」かもしれない。句読点みたいに「青空をバックにした大輪のヒマワリ」がこちらを見つめるんです。そんな明るい場面ばかりです。アルジェリアで育ったフランスの作家アルベール・カミユを思う人もいるでしょうが、足立さん特有のユーモアにも見えてしまう。
観る者の心象を引っ張るのは、むしろ富樫雅彦のドラムスと高木元輝のソプラノサックスなんです。この音はとても密度が濃いが、同時にカラカラに乾いている。引きつけられるのは、一音一音がのどかな画面を切り裂くような演奏をしているからです。一見穏やかにしか見えない、幼い永山や兄弟たちが置き去りにされた呼人番外地の路地が映るんです。捨てられた魚の粗やゴミ箱の食い残しをあさっていた永山兄弟の眼差しのように、ドラムやサックスの音が刺さる。永山則夫を想像しながら即興演奏したものでした。
その物質的な喚起力がすごい。なんの「起承転結」もない。ただ音がズンズン立っている。もう聴く者たち、つまりバリケードを積み上げて石を投げ、あげく何度も何度も催涙ガスの中で機動隊に殴られていきり立った「オレたち」です。頭に血が上った若造どもの下腹から突き上げてくる「怒り」なんかじゃどうしようもない時代が来ている。大学生や都心の高校生であるオレたちとは全然違う道をたどって、この日本列島をのたうち回るように生きた人間が、そう遠くないところに収監されているわけです。
撮られてから映画は7年間にわたって封印され、1975年にやっと公開されます。それは反日武装戦線の年でした。その間に時代の気流は激変する。この間、私たちが触れられたのはこの二人による映画音楽だけでした。『ISOLATION』として作品化された音と、そして足立正生、松田政男、平岡正明らによる言葉が、妄想を膨らませていく日々があったんですね。山下洋輔トリオのドラマツルギー過剰な音、そして富樫+高木のドラマツルギーを拒否する音。この両者をぶつかり合わせるその先に、なにか突破口を見るというか、聴こうとしたんじゃなか?
これらの音楽は半世紀たった今こそ生きています。これらを同時に出現させ、衝突させた媒介こそが私にとって「相倉久人」でした。

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相倉さんは、70年代初頭に「ジャズ評論家」という仕事を降りてしまいましたが、「ジャズ的な世界との付き合い方」と決別してしまったわけではなかったと思います。亡くなったすぐ後に、『されどスウィング―相倉久人自選集―』という本が出版されていることでもわかるように、彼はやはり「ジャズの人」だったのです。と言ってしまうとちょっと薄っぺらになりかねないので、こう言い換えましょう。
ジャズは言葉も祈りもすべて根こそぎにされた人々が、「敵」の音、楽器、方法を身につける中から、身を揺るがせる力を生み出す方法でした。そう「スウィング」ですね。それは形を千万変化させてきた。相倉さんは、変貌する「ジャズ」と呼ばれた音の歴史の中に、つねに人間の「正史」とは別の方法、別の形、別の生の軌跡を追い求め、それを自らの生き方の中に組み込んで生きたのです。
(2015年11月14日、プランB)

2016年1月16日

plan-B 定期上映会  <山岡強一虐殺 30年   山さんプレセンテ!>

第1回   象徴天皇制の<変貌>
講演 / 天野恵一(反天皇制運動連絡会)

1986年1月13日の山岡強一虐殺から、30年がたつ。
2016年のplan-B<定期上映>では、山岡強一の山谷(寄せ場)での闘いを振り返り、彼が何と闘い、何を考えてきたかを、あらためて見つめなおしてみたい。
その第1回目は、天野恵一さんによる「象徴天皇制の<変貌> 」。
1989年1月7日に昭和の天皇・裕仁が病死し、長男の明仁が後を継いで「平成」がスタートした。それから27年、明仁天皇は裕仁から何を受け継ぎ、何を受け継がなかった(フリをしていた)のか?
夫婦で被災地を見学して回ったり、「賢妻」美智子のクローズアップ、長男の嫁さんへのバッシング、次男一家、殊にその長女の売り出し…と話題には事欠かない天皇ファミリー。イメージはずいぶん変わったように見えるが、果たしてその本質は? そもそも「象徴天皇制」とは、どのようなものなのか?
そしていま、戦争を前提とした法律を勝手に作り上げた自民党政権が思い描く「天皇制」とはどのようなものか?   わたしたちは、それにどう対抗してゆくのか?
天野さんには、山岡強一の思い出、寄せ場の闘いへの思い入れ、そして現・天皇制をめぐって、自在に話していただく。

下層のアナキズム――「米騒動」と大杉栄

栗原康 (大学非常勤講師・アナキズム研究)

 

❖「誰からも支配されない」という思想

栗原康です。最初に簡単な自己紹介をします。

この 8 月と 9 月はなにもしなかったので無職だったんですけど、ふだんは大学で週 1 回非常勤講師 をやっています。それだけでは食べられないので、週に 2 回塾で先生もしています。それでもまだ食 べていけないのですが、幸いにも実家に住んでいて、父親の年金で暮らしているというのが実情です。 今、ぼくは 36 歳になるのですが、36 歳で早くも年金生活者というわけです(笑)。でも、ぼくみたい な人間が最近増えているみたいで、こういう講演を、ぼくと同じぐらいか、ちょっと年下の若い人た ちのまえで行うとき、「ぼくは年金生活者です」と自己紹介すると、「おれも、おれも」と声を上げる 人が 50 人中 10 人くらいいるんですね(笑)。それで、「あゝそれが一般化しているのかなあ…」とお もったりします。

まあ、ぼくの場合は、実家で親の年金で暮らしているので恵まれているのでしょうが、そういう援 護も受けられず、非正規労働やフリーターとして働いていてひどい状態で暮らしている若い人たちが 増えているんですね。そういう下層が拡がっているのです。

今日は機会をいただきましたので、「下層のアナキズム」というテーマで、大正時代のアナキスト・ 大杉栄の<暴動論>についてお話したいとおもいます。

まず、アナキズムとは、どんな思想かということですが、ぼく流の簡単な定義をすると、「誰からも 支配されない」そういう状態・社会を目指していこう、という思想です。もうすこしわかりやすい言 い方をすると、「やりたいことしかやりたくない」そういう思想と生き方です。

大杉栄という人は、まさにそういうアナキストだった。

ぼくは、実は趣味が詩吟なんですね。ちょっと自分自身のテンションをやわらげようとおもうとき、 詩吟をします。ぼくの好きな歌があるので、それをご紹介します。

〽身を捨つる捨つる心を捨てつれば 思いなき世に墨染の袖

今、吟じたのは鎌倉時代の捨聖(すてひじり)と尊称された一遍上人さんの歌です。「墨染めの袖」 というのは、僧衣の袖のことで、捨聖の心境を詠んだ歌です。

ぼく流に援用すると、墨染めというのは真っ黒のことで、黒という色は他の色に絶対に染まらない 色ですよね。黒はアナキズムの旗の色です。この黒という色には「誰にも支配されたくない。やりた いことだけしかやりたくない」というアナキズムの思想と生き方が象徴されているのです。

❖カネ・カネ・カネという時代の到来と下層の増大

先ほど皆さんとみた、映画『山谷―やられたらやりかえせ』には、山谷の下層労働者たちの暴動が 生々しく活写されていて、たぶん皆さんもそうだったとおもいますが、ぼくも、その暴動のシーンに 熱い共感を覚えました。

これからご紹介する大杉栄の暴動論は、彼が 33 歳の時に目撃した 1918 年の「米騒動」によって具 体的なイメージがかたちづくられたと見られています。この米騒動については、皆さんも歴史の教科 で学んでご存知のこととおもいますが、同年 7 月 22 日、米価の高騰に激怒して立ち上がった富山県 魚津町の主婦たちの行動に端を発し、燎原の火のように全国各地に拡がった暴動で、参加延べ人数は

1 千万人と言われています。当時の日本の人口は 6 千万人でしたから、実に日本人の 6 分の 1 の人び とが蜂起しているという規模で、日本最大の暴動と言われてきました。

では、米騒動はなぜ起きたのか?きっかけは 1917 年から 18 年にかけて米の価格がめちゃくちゃに 高騰したことでした。問題はこの時期に米価がなぜ高騰したのか?という理由です。第 1 は明治から 大正にかけて資本主義が発展して工業化・都市化が加速的に進み、その頃まで 8 割位を占めていた農 業人口がどんどん減少したことでした。それにより米の生産も減少したのです。ところが、そういう 現象に反比例して日本人の米食需要が増大しているのです。これが第 2 の理由です。この点について は説明が必要でしょう。

日本人の主食は米と言われていますが、実はそれは嘘です。江戸時代までの庶民は、米ではなく粟 や稗を主食にしていたのです。米は年貢として作られていたもので、庶民の口には通常入らなかった。 米が主食として食べられるようになるのは、明治に入って洋食が普及するようになって以降のことで、 明治後半から大正前期にかけカレーライスやトンカツといった和風洋食の普及にともない白米のご飯 が庶民の主食として一般化するようになったのです。日本の食文化が大きく変わったという側面に留 意する必要があります。

つまり、工業化の促進と和風洋食の発展により、米の需要と供給のバランスが崩れ、米不足と米価 高騰をもたらし、米騒動が起きているのです。

もう 1 つ理由を挙げると、1918 年にロシア革命が起き、日本軍がシベリアへ出兵することになり、 軍に対して大量の米を供給しなければならなくなった事態も見逃せません。

しかし、米騒動が起きた要因がたんに米の価格が高騰したことに対する人びとの不満が暴発しただ けととらえるのは表層的な見方です。

工業化・都市化が進み、和風洋食文化が普及するようになったということは、工場や会社勤めをし て賃金を得て生活する人びとが増え、それにともない消費文化が形成され発展したということでした。 要するに、カネを稼いでモノを買い、暮らしていくという資本主義のライフスタイルを身に着けた市 民が形成され、そういう市民規範が、1920 年代になると定着してきたことを物語っています。つまり、 カネ・カネ・カネという時代が到来し、カネを稼ぐために生きなければならない、そんな市民規範が 定着するわけです。けれども、そんな市民規範の網の目から漏れた人びと、つまりカネが稼げない者 は落ちこぼれ、ダメな人間として位置付けられてしまいます。そういう下層も増大します。この下層 が 1918 年の米騒動を引き起こす深層の要因だったのです。

❖大杉栄が見た「米騒動」

大杉栄は、1918 年 8 月、大阪・釜ヶ崎界隈で米騒動を目撃しています。彼は著名な社会主義者と して東京を拠点に活動していたのですが、その頃きわめて困窮していたため、パートナーの伊藤野枝 の郷里である九州・福岡に身を寄せる旅に出ていたのですが、その帰路に大阪に立ち寄り、たまたま 米騒動に遭遇したのであって、この大暴動を引き起こそうと駆け付けたわけではなかった。各地に米 騒動の火の手が上がると、首都東京在住の大杉栄の仲間たちの社会主義者、アナキストたちはかたっ ぱしから危険人物として警察に予防拘束されていたのですが、大杉は幸いにも免れ、大阪で米騒動を 目撃することができたのです。

当時、社会主義者の巨魁として官憲から厳しくマークされていた大杉栄には、都落ちした旅先にも 尾行がつけられていたので、米騒動に参加することはできなかったから、野次馬として見物するしか なかったですが、その見聞に大杉栄は大いに興奮し「愉快、愉快!」と面白がり、「すっかり浮かれて いた」と、連れ添った仲間たちが伝えている。

実際、大阪の米騒動はもの凄いものだった。主婦たちを交えた群衆が米屋に押し入り、店主をつる し上げて廉売所を設けさせ、自分たちで勝手に値段を設定して販売させたり、米屋が言うことを聞か

なければ、米を略奪する者も現れたし、聞き入れない店主の米屋を投石して打ち壊したり焼き討ちす るといった事件も起きた。消防活動にあたっていた消防ホースを日本刀で切断したり、市外電車の線 路に丸太棒を置いて止めてしまったり、米屋以外の商店のショーウインドーや不在の交番を打ち壊し た。竹槍隊まで出現した。大阪の米騒動参加者は約 60 万人、騒動の発生地点は 500 ヶ所ともいわれ る。暴動に加わる群衆の数があまりにも多すぎて警察もお手上げ状態となり、遂に陸軍1個師団が投 入され鎮圧にあたっている。大阪の米騒動では、死者2人、重傷者9人、軽傷者 370 人、逮捕者 2300 人という記録が残されている。完全な騒乱状態だったわけです。

大杉栄の目撃した大阪の米騒動は、暴動がピークを迎える 1 日前の 1 日だけで、つまりほんの束の 間の体験だったのだけれど、そんな時間帯のなかで暴動に参加するため街中をもの凄い勢いで駆け巡 っていた勇敢な主婦たちに「××町の米屋でも今こんな騒ぎが起きているぞ」と扇動したり、市内の 新聞社を回って「今、釜ヶ崎で大暴動が起きているぞ」といったデマゴーグ的な情報を流している。

大杉栄にとって、大阪の米騒動はすごく重要な体験だったようで、その後の労働運動に関わってい くうえで大きな影響を与えているのですが、その体験に関しての著述は意外なことにほとんど残して いない。理由としては、大阪から帰京すると待ち構えられていたようにすぐに予防拘束され、全国的 な展開された米騒動が沈静化したため 6 日後に拘束を解除されるということもあって、その件に関し ての言動に注意を払っていたからではないかと考えられています。わずかに官憲側の資料(内務省警 保局「大杉栄の経歴及言動調査報告書」)のなかに、大杉が大阪から帰るまえに仲間たちに語ったとさ れる次のような言葉が残されているので紹介します。<自分は今回の暴動事件を目撃して、社会状態 はますます吾人の理想に近づきつつあると信ず。しかし今日の勢いをもって進めば、後幾年を経ずし て意外の好結果を来たらすかも計り難し。政府も今度ばかりは少々目を醒ましたるらん。貧者の叫び、 労働者の狂い、団結の力、民衆の声、嗚呼愉快なり。>

❖「ガラガラ・バラバラ・ドシン」

しかし、 ぼくが大杉栄の著作の中から見つけた、大杉栄の米騒動についての所感は、「一言で言 えば、ガラガラ・バラバラ・ドシンという印象だよ」といったはなはだ大思想家にふさわしくない表 現だった(笑)。大杉栄は、その言葉、表現で、一体何を言わんとしているのでしょうか?ぼくは次の ように解読しました。

米騒動という未曽有の大暴動が起きた要因は、先ほども指摘しましたけれど、たんに米の値段が高 騰したことに対する怒りの抗議からだけだったとはおもえません。では、他の要因とは何だったのか? この点も前述しましたが、それはこの時代になると日本人の暮らし向きが完全に資本主義経済(端的 に言えば、金を稼げ、稼いだ金で消費しろ!という市民規範)に律していかなければやっていけなく なるという社会が形成されているのですが、その網の目から漏れた下層の人びとにとっては、そんな 資本主義的なライフスタイルや市民規範などは無縁なものであったから、形式だけの押し付けに対し ては息苦しさを感じ、反発もあったにちがいない。そんなマグマが米騒動という形でブチ切れたのだ。 大杉栄は、そのように考えていたのです。

要するに米騒動という暴動で、下層の人びとが何を訴えたかったのかと言えば、資本主義のライフ スタイルや市民規範で律しられるような生き方ではない、もっと別な生き方があっていいのではない か、そんな生き方もあるのだということを示したかったのだろう。群衆がショーウインドーを叩き割 ったり、主婦たちが米屋に押し入って勝手に米の値段を決め、廉売所を設けたり、群衆が米屋の焼き 討ちをするといった暴動に走ったのは、労働者として賃金をもらい、消費者として生きる、そういう 市民規範を一度完全にブチ壊し、市民としての自分を捨て去り、ゼロになり、そして別の生き方をや っていくんだ、という意思表示だったというのです。大杉栄が米騒動の所感を「ガラガラ・バラバラ・ ドシン」という表現で評したのにはそんな意味が込められていたのだとおもいます。

そしてこんなことも言っています。暴動というのは酔っ払った時のような感覚かも知れない。それ は一時的なものかも知れない。だが、その酔い心地、酔うことが自分にも出来たという感覚は手放さ ないようにしよう。そして時が訪れたら先ずは酔っ払え!と。

こういう大杉栄のもの言いは、知識人の革命論といった類のものではない。ものすごく庶民感覚や 気持ちを掴んだ言葉であり、思想だった。何でかと言うと、大正期まで、いや昭和に入ってからも、 長屋で暮らしていたような下層の庶民たちには、食べものを分け合ったり、味噌や醤油の貸し借りを したり、隣近所の子どもの面倒を気軽にみたり……といったお互いに助け合って暮らしていくコミュ ニティがまだ存在したからです。だが、社会の趨勢は繰り返し指摘したように、カネを稼ぎ、消費す るというライフスタイルが急速に形成され、それが市民規範とされる社会へと雪崩を打つように変容 していくわけです。その波に乗り損ねた下層の人びとにとって、そんな社会は息苦しく、ムカつくも のだったに違いない。そこに暴動の起きる火種があるのだ。大杉栄は、そう確信していたのである。

❖暴動は下層労働者の自己表現だ!

大杉栄は、大正時代に活躍したアナキストの思想家ですが、暴動論は現代でも十分通用する思想で す。先ほど皆さんとみた『山谷―やられたらやりかえせ』は 1980 年代に制作されたドキュメンタリ ー映画ですが、60 年末から 70 年代にかけ山谷・釜ヶ崎で日雇労働者の労働運動を指導した伝説の活 動家・船本洲治さんという人物がいるのですけれども、彼は「暴動は下層労働者の自己表現なのだ!」 と定義しています。これはまさに大杉栄の思想を引き継ぎ、さらに一歩前進させた思想といえるでし ょう。

船本洲治が対象として規定している下層労働者というのは、映画の中に登場していた日雇労働者や 当時の用語でいうルンペン・プロレタリアート、現代ならフリーターや野宿者たちなんですね。暴動 は、そういう彼らの自己表現なのだと言っているのです。これはその時代にあってはとても画期的な 思想だった。

それはなぜかと言えば、当時山谷や釜ヶ崎では、年間何件も暴動が起きていたのですが、左翼の人 たちは極めて無関心だったり、「連中はただ暴れまわっているだけ」と否定的な意見が多かったからで す。社会党や共産党などの左翼政党も、日雇労働者ら下層労働者が組織化されていなかったことや、 毎日酒を浴びるように飲む自堕落な人が多いという理由から、まともに支援をしていませんでした。 そういう状況の中で船本洲治は、下層労働者の暴動を「彼らの自己表現」と、極めてポジティブに位 置付けたのです。

大杉栄と船本洲治に共通する点は、 従来、一般社会からだけではなく、革新を標榜する左翼陣営 からも、三流市民などと低く見做されてきた下層労働者に対して、「市民のカラや市民規範など全部ブ チ壊していいんだ!」と呼びかけていることです。そして「下層労働者であることに開き直ろう」と も言っている。これは下層として下に見られるのではなく、自分から下層に落ちて行け、という考え 方です。ぼくのちょっと好きな言葉で言うと「自己野蛮性」を獲得せよということになりますし、開 き直った言い方をするなら『水滸伝』の主人公のように山賊になろう!ということです。

ぼくたちは今、山谷化・釜ヶ崎化があまねく一般社会に拡がっているという危機的な情況の中に生 きているようにおもいます。それゆえぼくら自身も暴動を必要としているのかも知れません。暴動と いうものをたんに物を打ち壊す行動と捉えるのではなく、これまでとは別の生き方を探し求めていく ために暴れて生きること、そういう生き方も広い意味での暴動ではないかとおもいます。

結論は、「暴れる力を取り戻せ!」、こんなところで終わらせていただきます。

(2015・9・26 プランB)

2015年11月14日

plan-B 定期上映会

相倉久人の居た風景
講演 / 平井 玄 (批評家)

相倉久人さんが亡くなった。7月8日、享年81歳。相倉さんは1950年代からジャズ批評を手がけ、70年代以降はロック、ポップス、歌謡曲にまで守備範囲をひろげていた。plan-Bでも80年代からずっと「重力の復権」というパフォーマンス・ジョッキーを続け、私たちの上映会でも87年11月にトークをしていただいた。
今回は、その相倉久人さんの追悼の意味をこめた上映会としたい。
お話をお願いするのは平井玄さん。上映委の初期メンバーでもあり、なによりニホンのジャズシーンとは切っても切り離せない新宿という土地に生まれ育った。平井さんは先ごろ『ぐにゃり東京』(現代書館)という奇妙なタイトルの本を上梓した。副題に「アンダークラスの漂流地図」とある通り、これは下方から切り上げた逆袈裟切り的都市論ともいえよう。
ジャズはなによりも〈場〉の音楽である。そしてジャズ・スポットとは、点は点でも、交差点というモノもヒトも行き交う場の一瞬間のことにちがいない。相倉さんはそういうスポット(点=場)に立ち続け、時代の半歩先と格闘するコトバを紡ぎ出していった。
もちろん、そうした相倉さんの当代一級の批評言語を読み解くことは大切なことだが、今回は平井さんが「漂流」し、歩きながら見た風景の中の「相倉久人」を語っていただくことにした。