2019年2月23日

plan-B 定期上映会

「「3・1独立運動」から100年めに “恨日” を語る
お話し/ 朴容福 (元・指紋押捺拒否予定者会議)

今年は、1919年に朝鮮全土で闘われた「3・1独立運動」から100年を迎える。1910年の「韓国併合」を経て、より苛烈になる日本の植民地支配に抗して、民衆が「朝鮮独立万歳!」を叫び、全土にくり広げていった闘いだ。
それから100年。1945年の敗戦を経ても、日本政府はその歴史的な犯罪の責任をなんら明らかにはしていない。また、植民地支配の実態そのものである強制連行や強制労働(徴用工)、従軍慰安婦らの具体的な被害者にも謝罪や補償をしないばかりか、企業に賠償を命じた韓国の司法(裁判所)の判断には、政府の面々が文句をつける始末だ。この政府が昨年末に強行採決した外国人労働者の移入拡大を目指した法律(改定入管法)は、「共生社会」の掛け声にもかかわらず、共に生きるべき人間ではなく、かつての「連行」と同じように「労働力だけの動員」であることは目にみえているのではあるまいか。
1980年代なかばに「反外登法」「指紋押捺拒否」の運動が多くの在日韓国・朝鮮人、中国人たちによって闘われ、その結果、昭和天皇の最後の勅令を基にした「外国人登録法」は、それ自体としては廃止された。そのころから「多文化の共生」ということが語られはじめたのだが、はたしてその「共生」は人びとのあいだに根づき、社会のなかに息づいたのだろうか? 今回のミニトークでは、かつて「指紋押捺拒否予定者会議」を立ち上げ、運動の中心をになった朴容福さんをお招きし、現在の日本社会について、その思いを語っていただく。共生/連帯とは、まずは「現在」に対する痛烈な批判から始まるものであるから…。ぜひ、ご参集ください。

2018年12月15日

plan-B 定期上映会

「白手帳」と寄せ場・寿町の現在
お話し/ 近藤 昇 (寿日雇労働者組合)

映画上映後の「ミニトーク」は、新シリーズ〈映画を、聞く〉として、この映画に出てくる、あまり一般には馴染みのない事柄について、話を交わします。今回のテーマは「白手帳」。横浜の寿日雇労働者組合の近藤昇さんをお招きし、話を聞きます。

* * *
「年末一時金」の受給に並ぶ、大勢の労働者たちの列。この映画の後半の1シーンなのだが、ナレーションでは「この年の受給者の数は8250人であった」と語られる。つまりこの映像が撮影された1984年当時の山谷では、「白手帳」の保持者が、8千人以上はいたということだ。
映画では、「白手帳」は職業安定所のシーンや、釜ヶ崎のシーンにも出てくる。
「白手帳」とは、日雇労働者のための雇用保険、つまりは「失業保険」だ。就労した日に事業主がこの手帳に印紙を貼り、その種類や枚数に応じて「失業手当(アブレ手当)」が支払われる。仕事の全くない年末年始にも、この手帳をもとに「一時金」が支給されるという制度だ。不安定な雇用状態に置かれた日雇労働者にとっては、生きていく上で必要な制度であり、大事な権利だ。
だが行政は、この制度をなくそうとして動いている。たとえば、以前はドヤ証明があれば本人証明とされたものが、住民票の提示を条件付けたり、より困難な条件を要求し、発行・更新自体を拒絶するというケースが相次いでいる。
釜ヶ崎では「職安への登録者数は1986年に約25000人であったが、現在(2015年)では1500人前後」といわれている。山谷では、昨年の職安(玉姫労働出張所)での9月の更新時では、「手帳の所持者は更新の前後で約500人から約100人へと激減した」(「東京新聞」17年11月)とある。
かつては使い捨て可能な労働力の供給地として必要だった「寄せ場」に、労働者を留めおくための〈制度〉でもあったのだろうが、今はすでに「必要のないもの」として切り捨てようとしているのだろうか。
今回のミニトークでは、この「白手帳」の現状にみられるような「寄せ場」の労働境遇の変化、そしてそれに対する労働者の現在を、近藤昇さんに語ってもらいます。同時に寿町の現在などについても、お話しいただければと思っています。
* * *
〈映画を、聞く〉シリーズは、断続的に続けます。興味あるテーマがあったら、教えてください。

2018年10月27日

plan-B 定期上映会

〈天皇制ナショナリズムと
グローバル化する極右=排外主義〉と抗うために

お話し/ 小倉利丸 (現代資本主義論)

この映画が作られてから30数年。資本と国家はどう変わっただろうか?
使い捨て自由な〈労働力市場〉として形成されてきた釜ヶ崎や山谷などの《寄せ場》は、「支配権」をめぐる闘いから、生存を維持する闘いを経て、ジェントリフィケーション(都市「再開発」)攻撃の下で「なきもの」にされようとしている。もともと 《寄せ場》は「なきもの」とされてきており、必要なのは〈労働力〉であって〈人間〉ではなかった。その存在が社会的に「認知」されたのは唯一《暴動》によってで あった。それも治安問題と差別の対象としてで、そこで多くの労働者が「野たれ死に」していることは隠されてきた。なぜか? その存在そのものが資本主義の矛盾の集積場であるからだ。そしてそこでの《反乱》は資本主義批判そのものであったからに他ならない。
「そもそも今の社会の仕組みを批判すること自体が非現実的であり、現にあるシステムを受け入れざるを得ないのではないか」という、現にある社会への消極的肯定、あるいは 未来を展望できない閉塞感を利用して、安倍政権は、2020年 をメルクマールとして「歴史の転換をはかる」と「維新」を気取っている。改憲策動、天皇交換からオリンピックへと、ナショナリズムを煽って「総動員体制」をはかり、再度の「国民統合」の強化を狙っている。その後に来るものは何か? 近年の欧米をみても「トランプ現象」、「移民排斥」勢力が勢いを増し、〈右からの現状打破〉が跋扈してきている。
こうした状況をどう読み解くのか、そのイデオロギー的背景は何かーーこれらについて小倉利丸さんをお招きし、提起していただく中から、共に《カウンター》を模索していきたい。是非ご参加を! 《絶望のユートピア》を語り合いましょう!

50~60年代、まだ山谷にスラムのにおいがあった頃……

お話 黒田オサム

戦後、間もなくの山谷へ

小見 黒田オサムさんです。パフォーマーで画家という、今年喜寿を迎えました。さっそく、時間もありませんので始めたいと思います。実は三年前に黒田さんの、その時はパフォーマンスと話という形をとったんですが、今日はそれ以来の二度目の黒田さんの話を聞きたいと思います。このあいだ、黒田オサムさんの七〇歳を祝う会というのをやりまして、いろいろな人が集まって、いろいろな自分勝手なことをやったり、黒田さんの話やパフォーマンス、あと黒田さんは画家でもありますので、絵を展示したり……一日、六時間くらいのイベントをやりました。その時にこの「ちんぷんかんぷん」という黒田さんのパンフレットを作ったんです。その為にちょっと山谷に黒田さんと行きまして、話を聞いた訳です。その時に感じたんですけども、山谷がガラッとなんか普通の街みたいな感じになっちゃってる。ええっ、こんなところができちゃったのって。もう山谷という雰囲気ではなくって。「世界」という立ち呑み屋がなくなりました。それからデカいスーパーができて。その後で八月に夏祭りに行ったら今度は「大利根」という呑み屋も閉まっちゃってる。まあドンドン変わっている訳です。私はその十数年くらい前の八四年くらいの山谷から今までしか知らない訳ですけど。黒田さんは、まだ非常に体が柔らかくて、今でもバリバリのパフォーマーですけれど、今日は時間がちょっとないのでなしです。では、さっそくお話を伺いたいと思います。最初に黒田さんが山谷に登場した、行ったのはいつ頃ですか。
黒田 ああ、どうもみなさん今晩は、黒田オサムです。ええと山谷にはですね、昭和二〇年代の後半近くだったですねえ。
小見 まだ非常にお若かった。
黒田 そうです、そうです。二〇代ですね。二〇をちょっと超えたくらいだったでしょうかね。ええ二〇代前半ですねえ。
小見 その時の山谷の状況っていうか……
黒田 戦後の面影が、まだ山谷には大いにあった訳でしてね。まあ僕自身にしても兵隊さんの払い下げの服、それから雑嚢を下げて、山谷に現れた訳ですけども。
小見 このあいだ黒田さんから伺ったんですが、当時と言いますか、昔は山谷はヤマって言わなかったそうですね。
黒田 そうですね、それは上野の山の関係がありましてですねえ、大体ヤマと言うと、上野の山を指してたんですね。まあ御存知のように東京は焼けて上野の山に逃れて、そこでみんな住みつきまして。まあ不法占拠っていうことなんでしょうけども。今の青テントの元祖みたいなもので、上野の山には当時は青テントのようなものないけれども、小屋を作って住んだんですね。それがだんだんこう部落らしくなって葵部落って言いましたですね。葵部落っていうのは結局徳川の山ですからねえ、上野は。その葵の紋からきてるんでしょうねえ。葵部落と山谷は非常に関わり合いが深くって。葵部落の人が、山谷の泪橋に来て仕事を得るっていう。まあ労働市場になってますから、寄せ場になってますから。また山谷の人が都心の方に仕事に出て、それで上野あたりに来て、葵部落へ寄って。葵部落にみんな仲間がいますからねえ。葵部落の食堂で麦(ばく)シャリ。当時麦っていうのは安かったんですね。麦シャリの、まあ二五円くらいでおかず、味噌汁、お新香までも付いていて。お米じゃないですからねえ。麦は安かったんですね。そういうのを食べていくという。ですから、今は山谷のことをヤマと言っていますけども、山谷と上野の山とは非常に関わり合いが深いんですねえ。まあ当時のことをみなさんも写真画報なんかで御存知でしょうけども。浮浪者、浮浪児、戦災孤児ですねえ。上野にはたくさんいまして。で、冬になると、寒くなると……当時地下街っていうと上野しかなくて。浅草にもあったですけど小さかったですね。寒くなるとみんな地下道に来るんです。そこで刈り込まれて、そして山谷にもってこられたですねえ。今マンモス交番は移動していますけど、前はマンモス交番っていうのはちょうど泪橋の通りの左側、浅草の方に向かって左側にあったわけです。あの辺が浮浪者の収容施設になってたんですね。テント張りにしてそこに収容して。その辺から戦後の山谷のドヤ街が始まったんです。戦前からありましたけれど。まあ山谷らしくなってきたっていうのは、そのあたりから始まってた訳なんです。
小見 それは一九五〇年代の後半くらいですか。
黒田 昭和二〇年代ですねえ。二〇年代の、まあ中頃からですねえ。
小見 ああそうですか。当時どのくらいの日雇い労働者、それと野宿をしている人が……
黒田 そうですねえ、僕は学者ではありませんから統計的にはわかりませんけれども、かなり……山谷へ来れば食堂がある、山谷へ来れば寝泊まりできるっていうことで。山谷へ来れば、まあ労働市場ですから仕事を得られるということで、そういうことで東京からみんなが集まり、それから全国から集まるというようなことで。
小見 仕事はあったんですか。
黒田 僕が山谷に来た時分はまだ仕事はなくて、四日に一回くらいでしょうか。これは玉姫職安、労働出張所通してですね。あそこでマルミン、マルシツっていうのがありまして。マルミンなんかになると四日に一回程度だったでしょうかねえ。
小見 どういう意味ですか、それ。
黒田 ええと、これは民間紹介っていうことですね。
小見 ああマル民、マル失?
黒田 民間紹介です。労働市場の窓口っていうのは三つありまして。一つは日本国政府によって、国会の決議によって作られた失業対策法による失業者救済、これをマル失、そしてそれに該当しない人達がカードを得て、それはマル民って言ったですねえ。それから職安の窓口を通さない闇労働市場で、いわゆる立ちんぼ。当時はまだあんまり仕事は出てこなかったですけどねえ。その後、東京復興、復興っていうことで仕事が出てきました。マル民にしても闇労働市場にしても仕事がだんだん出てきたんです。で、小見さんとこのあいだ電話で話しました、あの吉展(よしのぶ)ちゃん事件。吉展ちゃん事件の前後の山谷の状態についてどうかというような話しでしたけども。吉展ちゃん事件っていうのはずっとあとですね、あれは昭和三八年。昨夜、ちょっと調べてみたら昭和三八年の三月三一日に吉展ちゃん事件っていうのがあったんです。みなさん御存知でしょうか?
小見 おそらくここにいらっしゃる方の多くは御存知ない。少年だった私には記憶があるんです。毎日のようにラジオ、テレビも出始めた頃でしたか。誘拐殺人事件という、今日渡した文章のなかにあるんですけれど。村越吉展ちゃんという四歳の男の子が山谷の近くで誘拐されまして、そして五〇万円要求されました。それで五〇万円取られたままわからなくなっちゃう。二年後に犯人は捕まったんですけど、もう既に、誘拐されたその日に殺害されていた。戦後間もなくの誘拐事件として、今でも伝えられているということなんですね。それで、山谷のそばに回向院という、そこにはねずみ小僧次郎吉とか高橋お伝とか、あと吉田松陰とか有名な人のお墓がいくつかあるんですけど、その門の前に吉展ちゃん地蔵という大きなお地蔵さんがあるんです。そういう事件が昭和では三八年、一九六三年に起きたということを、私ら五〇歳くらいの者は記憶してるんですね。

吉展ちゃん事件で僕ら日雇いに対する目が変わった

黒田 それが昭和三八年三月三一日ですね。山谷には玉姫公園っていうのがありますけれども、玉姫公園からずうっと上野の方、上野駅の近くの方に入谷公園ていうのがあるんですよ。入谷南公園ていうんですけれども、吉展ちゃんの家が近くて、吉展ちゃんの家は大工さんやってたらしいですね。それでいつものように吉展ちゃんが公園に遊びに出てって。それでいなくなった。なかなか犯人が挙がらなかったんですけども、電話の話し方のなまりとか、いろいろ推定して、まあ有名ななんとか刑事っていうのが、とうとう突き止めた訳なんです。犯人は小原保さん、さん付けていいのかどうかな。僕はすぐさん付けたくなっちゃうんですけど。小原保さんなんですよね。で白状して。このあいだ回向院に行きましたけども、回向院の親戚のようなお寺、あそこは三ノ輪橋って言ったですかねえ。王子電車で行く。今、東京で最後の都電、ちんちん電車ですね。その三ノ輪橋の近くにお寺さんがあるんですよ。そのお寺さんの墓石の下に蓋して入れていた。そこに今も供養する何かがありますねえ。これはもう僕らにも影響したんです。まあ仕事にあぶれた時なんかは浅草あたりで映画を観ようと。ところが映画観るのもお金かかるから。当時はコッペパン全盛時代ですからね。コッぺパン一個十円。僕らの年代だと当時若かったですからコッぺパン二つ、今は一つしか食べられませんけどね。いつもコッぺパン二つ買って、パン屋さんに、こう二つとも裂いてもらうんですね。で、一つにジャムを挟んでもらう。そうしてジャムついているのを分けますでしょう。もう一つの方はジャム付けてないんですよ。そうして付いたのと付いてないのをぺタンと合わせると二つにジャムが付いたことになるんですね。これは僕ばかりじゃなくてみなさん、そうやっていましたね。で、コッペパンかじりながら公園で、日向ぼっこをするなり、本を読むなり、あるいは僕はちょうど自転車を買ったばっかりなんで、まあ古い自転車ですけども、その自転車で公園をグルグル回ったりなんかしてました。でも、吉展ちゃん事件があってからは、なんか公園に近寄れないような状態っていうんですかねえ。僕は子供をからかったりするのが好きなんですよ。公園の砂場に行って物を創造するっていうんですか、絵を描く関係もありまして、大きな山やトンネルを作ったり、大きな船を砂場で作ってみたり。そうすると子供がみんな喜びましてねえ、子供が寄って来るんですね。子供が手伝ってくれて。大きいそういう創造物の上へ、最後には子供と上に乗っかってドシャーンとしてつぶしちゃうんですね。それがまたいいもんです。ところが吉展ちゃん事件があってからは、そういうことがやれなくなった。親御さんの方も変なおじさんのそばに行くなと言いまして。世間から見ると日雇い労働者っていうのは、まあ変なおじさんに見えたんでしょうか。僕はよく子供を自転車の後ろに乗せて走ってました。おじさん、乗せてって言うから乗せて公園一回りして。よくやったんです。子供も喜ぶし乗せた僕自身にしてもいいもんなんですよ。ところが、それもやれなくなってしまった。入谷の公園ばかりじゃなくて、玉姫公園にもけっこう子供が遊びに来てたんですよ。かつては山谷にもスラム的要素があって、家族持ちが住んでたりしたんですから。お父さんと子供、お母さんと子供とねえ、夫婦揃ってることはそうないんですけども。スラムとドヤ街っていうのは、一緒にしてますけれども、普通純粋なドヤ街というと寄せ場ですから、ドヤって言葉自体が「宿」っていう意味で、労働市場ですからねえ。そのスラム的要素がだんだんになくなってきている訳なんで。あとは、お父さんが仕事行ってしまうと子供は学校行かないのが多かったですね。未就学児童っていうんですか。学校行かないで、みんな公園で遊んでるんですよ。僕ばかりじゃなくて、仕事にあぶれたオッサンがけっこう公園へ来てて。それで子供と遊んだり。田舎から出て来て、東京へ来て、山谷に来ちゃった。田舎にはことによったら子供がいたんかもしれないですねえ。自分の子供と二重写しになって。遊ぶ事が、まあなんて言うのかな、癒しになるというんですか。残念ながら、吉展ちゃん事件があってからそういうことはできなくなってしまいました。その後、東京オリンピックを迎えるっていうことで、東京をきれいにしなくちゃなんていうことで、これは山谷ばかりじゃなくて山谷を中心とした隅田川のふちなんかにスラム街がありまして、それがみんな整理された。そして北多摩の方の都営住宅なんかに入れられたりして。だんだんにスラムという要素っていうのは東京からなくなっていったんですねえ。
小見 その吉展ちゃん事件が起きて、だんだんそういう日雇いの人に対する地域の人の目が変わったとおっしゃいました。今、山谷のマンモス交番が話に出ましたが、大体その時期と前後しまして、山谷の暴動が一回、それからもう一回くらい大きいのが起こってますね。それで警察は山谷の労働者は何するかわからん、とますます治安の対象としていく、世間の目も厳しくなっていく。最近は見られませんけれど、ついこのあいだまで、住所不定の労務者風の男がどうのこうのというようなマスコミの記述をずいぶん見ました。そこら辺の暴動が起こった時の地域の人達、まあ普通の人達や子供達との関係っていうんですか、見る目っていうんですか、そういうのはどうなんでしょうか。

目の上のタンコブ――敵はマンモス交番にあり

黒田 なんとか意識っていうのは学習して覚えるもんであって。ところが子供はそういうの学習してないですから、割に汚いかっこうしていても、まあ土方のかっこう、日雇い風のかっこうしていても、子供の方は差別感なくて面白いおじさんだっていうようなことで、非常に懐いてくるんですねえ。というのは、差別という問題はやっぱり大人からきていますね。山谷の立ちんぼと言いますけど、これはかつては王電の立ちんぼって言ったんですね。王電っていうのはさっきの三ノ輪橋の話の王子電車。あの辺に闇労働市場があって。それでまあ日雇いがあの辺の道路に立ってたんですよね。朝早くから立ってて、寒いから火を燃やすとか。両側に大人数がいたもんですから、町内の人がそこを通りづらいとか。ちょっと子供のことが心配ということで、いろいろな苦情が出て。それで徐々に泪橋の方へ移動させられたっていうね。その経過をみても、やっぱり周辺から差別っていうか特別な目で見られていたっていうことは、ずうっともう前からそういうことになってるんですよねえ。それで、山谷事件ってことですけれども、マンモス交番のことを触れましたけど、マンモス交番と非常に関わり持ってるんです。マンモス交番ができたのが、確か、安保闘争のあった六〇年です。六〇年安保闘争があります。六〇年と言いますと昭和三五年ですね。それ以前からいろいろな山谷の事件がありました。それで支配者階級は山谷を非常に重要視して、支配の一環として交番を作った。それであの三階建の交番が作られたんですよ。当時三階建の交番っていうのは珍しいですから、周辺にも大きい建物はなかったので非常に目立ったんですね。そこからマンモス交番っていう名前が付いたんです。当局側はマンモス交番って言ってないですけどね。まあ我々の側から見て、あんまり目立つからマンモス、マンモスと、マンモス交番ということになりました。その後、その憐にパレスハウスっていう大きな宿ができまして。近代的な建物ができたのでマンモス交番がちょっと小さくなっちゃったですけど。当時マンモス交番ができた時は非常に大きく見えたっていうことですね。その当時のいろいろな噂があるんです。ドヤ賃が平均一〇円くらい値上がりしたと、それがマンモス交番を作る費用の方へ回されたという、これは本当か噓かわかりませんけども、そういう噂も出たっていうことですね。実際、旅館組合の方ではマンモス交番に非常に期待を持ってた訳です。で、陰になり日向になりしてマンモス交番を非常に援助した訳ですよ。山谷の日雇いのみなさんはお巡りさんにはしょっちゅう不審尋問をくったり、いろいろされてますから。そこへ巨大なお巡りさんの、すぐさん付けにしちゃうんですねえ、どうも申し訳ございません。これ僕の癖で。マンモス交番が目の前にできちゃって。何とかのタンコブという建物ができた。何のタンコブって言うんでしたっけ?
小見 目の上のタンコブ。
黒田 あっ目の上。全くマンモス交番は目の上のタンコブなんです。それで昭和三五年の大きな山谷事件があって、交番焼き討ちっていうことになりました。ちょうど八月か七月の暑い頃で。何かちょっとしたことでパクられて、たいした罪じゃないのにパクったっていうことで、交番に押し寄せる。それで交番が焼き討ちされるという、まあ大騒ぎになった訳ですね。その後もいろいろな事件がありますと、別にお巡りさんと関係がない事件であっても必ず交番に向かって行くんですね。これ不思議なものですねえ。全く目の上のタンコブ。我々にとって、山谷の住人にとっては、ドヤモンにとっては全くのこのタンコブで。怒りのはけ口、持って行き所は、やっぱり交番、敵はマンモス交番にありっていうことなんです。で、その当時、ちょうど安保闘争があったんです。六月頃だったですねえ。よく安保闘争というと、勇敢な全学連の人達が、まあ今じゃあいいおじいちゃんになってる人達が今でもマスコミに取り上げられてますけどね。ところが山谷の人達も安保闘争に参加したんですよ。ところが、これ全然マスコミに取り上げられたことはない、今も誰も知らないんですよね。でも僕はよく知ってる、僕は行ったですから。それで八月に入ってからのマンモス交番襲撃事件にしても、時代の、安保反対のそういうものが反映してたんじゃないだろうかって思うんですよ。安保問題が出ましたから、ちょっとこの歌をうたわせてもらいましょうか、よろしいですか。
小見 どうぞどうぞ。
黒田 ♪立ち上がる時だ 大切な時は今 憎しみの火が燃え
ちょっと忘れたかなあ。これ安保反対の歌なんですよ。もう一度。
♪立ち上がる時だ 大切な時は今 子供達の未来の為に
憎しみの火 燃え上がらないうちに 一足早く絶やしてしまうのだ
立て立て 立ち上がれ 立ち上がれ
安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー! 岸内閣打倒!
っていうようなことで。ハハハハ。いやいや。(拍手)これは誰が作ったんでしょうかねえ。当時三〇万の人達が安保反対のデモに参加したと言われまして。で、よくうたわれてたんですよ、この歌が。僕は物好きだから覚えてたんで。他の人は忘れちゃってるでしょうねえ。デモっていえば、これは初めてフランスからの輸入のデモが取り上げられたっていうんですけど。フランス式デモっていうんですか。手をつないで、ハハハハ。道一杯に。今ちょっと考えられないですねえ。フランス式デモっていうことで、みんな手つないで。手つなぐっていいもんでねえ。
小見 道一杯に。全部占拠しちゃうやつですね。
黒田 道一杯にしないと、フランス式デモの意味がないですねえ。それで国会周辺デモをして、アメリカ大使館の前を通って、新橋の土橋で流れ解散ということなんですけどね。僕は大体人間がおとなしいんです。この「山谷」の映画みたいな勇敢なことはやれません。ものすごく気が弱いんですよ。だけどなぜかデモは好きでねえ。ですから安保の時はほとんど昼間もデモ、夜もデモっていうことでした。まあ日雇い人夫ですから休んだって別にクビになる訳じゃないですから。昼間と夜ずうっとデモばっかり行ってました。で、デモの中でさっきのような歌を覚えちゃって。デモはいいもんだなあと思ったりしてますけど。それで山谷の人達も行ったんだっていうことを知ってほしい。学生だけじゃないんですよ。樺美智子さんが亡くなったったあの闘争に。
小見 六・一五ですね。

全学連の事務所に連帯の挨拶に行ったんだけれども……

黒田 あの全学連が何年前に作られたのか知りませんが、僕は東京大学の構内の仕事に行ってたんですよ。道路の舗装ですね。道路の、油撒いてそこに砕石を撒いて。大きい一号サイズから始まって、最後にビリを撒いて、それで砂を撒いておしまいです。アスファルトですね。その仕事に行ってまして。で、学生食堂は安いですからよく行ってたんですよ。そうすると謄写版の刷ったチラシなんかを置いてありました。日本共産党東大細胞なんてのが書いてありましてねえ。で、その細胞の人達が代々木の本部へ行って暴れたとかどうのこうのなんて、これ新聞ざたになってたですけど。そこら辺から全学連の前身が作られていったんじゃないでしょうかねえ。それで僕はまだ学生さんのそういう運動をよく知らない時だったもんですから、安保の数年前だったでしょうか。東大の構内で学生さんが――全共闘時代でしたらヘルメット被ってたでしょうが……
小見 全共闘の時はそうでしたね。
黒田 全学連時代はまだヘルメット被ってなかったですね。それで東大の構内で何か学生さんがみんな集まって、リーダーがピピーって笛吹きまして、きちんと横隊に並んで。で、先頭は長い竹竿持って、それでピピーピー、ピピーピー、ピピーピー、ピピーピーとこう整然と行進してるんですね。これは何かねえ、運動会の練習かと思ったですよ。
小見 ハハハハ。
黒田 僕らも小学校時代には、ほら棒立てて、棒倒しやったですから、東大の学生さんも、あれかなあ、運動会の練習、棒倒しでもやるのかと思ったですねえ。まあそれがその後の全学連の国会突入ね。まあ弾かれたにしても突入した。彼らはそういうデモの練習をしてたんですね。そのデモが安保闘争の時に、非常に役に立ってたっていうんですか。その為の予行演習だったのかもしれませんねえ。それで本郷に、学校の中じゃあないんですが、全学連の事務所らしいものがありまして。たまたま安保の時に学生さんの活躍しているのを見まして、それで僕もすっかり感激しまして。本郷の全学連、果たして全学連かどうかわかりませんけれど、学生が集まっている事務所へ……。僕はその辺によく仕事に行ってましたから、これは全学連の事務所だなということで、わざわざ山谷から自転車で行って連帯の挨拶をしようと思ったんですよ。残念ながら全然相手にされなくてね。アハハハハハ。当時は、学生さんの運動は山谷とか釜ヶ崎とかそういう、いわゆる下の下の方に、まだ目が向いてなかったんでしょうねえ。連帯の挨拶を、それで行ったんですけれども、向こうの人はどういうふうにとったかねえ。変な人が来たなあと思ったのか、体よく追い出されちゃいまして。
小見 お一人でですか。
黒田 一人で。ウハハハハ。それから学生運動っていうのはあんまり好きになれなかった。その後、全共闘運動の日大、東大闘争を見て……。僕は非常におとなしいんですけど、ああいうパアーっと火の手が上がったようになると、なんか自分の中がカアーっと。これはアートの原点なんですけど。全共闘運動を見て、学生さんを見直したって言うと怒られちゃうかなあ。そんなような訳なんですよね。あと何だったですか?
小見 連帯の挨拶に行ったんですが、まあなんて言うんですか、階級が違うというか……。
黒田 そうなんですよねえ。
小見 彼らはいちおう共産主義者ですから。何を隠そう黒田オサムさんはバリバリのアナーキストで。
黒田 いやいやいや。ヘヘヘヘヘ。
小見 ついこの間、香港が中国に返され、まあ返還されたって言っていいんですか。その中国の香港でもって、目の敵にされているアナーキズム万歳ってやったという。そういう話もお聞きしてるんですが。

山谷が爆発すると釜ヶ崎が……
釜ヶ崎が爆発すると山谷が……

黒田 いやそれねえ、小さい声で言ったんですよ。アハハハハハ。大それたものじゃないですから。ほんとに気の弱い、ちっちゃなあれでして。で、安保闘争があったのは昭和三五年。同じ年に山谷の大事件が、交番焼き討ち事件がありました。一年経って三六年には、釜ヶ崎で事件があったんですよ。大きな暴動って言った方がいいですね。この「山谷」の映画にもありましたように、時代も違いますけれども、釜ヶ崎でも山口組系統の人達が、当局側を守るっていうことで出てきまして。日本刀まで抜いたっていう、そして猟銃まで持って来たって話です。一人死んでます。そういう事件で亡くなるっていうことは非常に珍しい訳で、これは大きな事件だったですねえ。山谷が爆発すると釜ヶ崎が爆発する。釜ヶ崎が爆発すると山谷も爆発すると。何か地下水脈で通じてるんでしょうか。東と西で。僕がたまたま釜ヶ崎に行ったんです。それで職安に行きまして、朝の紹介風景を見てたんですね。仕事あるかないか。山谷に比べてどうかなと見てましてね。そしたらね、一人ね、紹介順に並んでたのがね、オーオーって言うんですよ。見たら二、三日前に山谷で一緒に仕事やった人なんですね。山谷の玉姫職安の前に行っても見ないし、泪橋の立ちんぼの所に行ってもいない。どこ行っちゃったんかと思ったら、釜ヶ崎に来て紹介受けてるんですね。これには驚きです。まさに山谷と釜ヶ崎は地下水脈で通じていたんですねえ。最近は外国の方も日本へいらっしゃるし、日本の人も外国へいらっしゃる。外国の方も山谷にいるそうですね。
小見 一時いたんですが、最近はあんまりいなくなっちゃった。
黒田 いなくなったですか。
なすび (会場から)労働者ではあんまりいない。
黒田 労働者はいない。
なすび 最近はバックパッカー。
小見 バックパッカーって安いお金で旅行する人。
黒田 ああ旅行する人。そうですか。ヘヘヘヘー。それで、僕はひょっと考えたんですね。山谷と釜ヶ崎は、地下水脈で通じてると。これからは、グローバルの時代だって言うでしょう。事によると、ニューヨークに職安が、労働出張所があるかどうかわかりませんけど、山谷でしばらく見ないなって思っていた彼がニューヨークの職安にいたなんてことがありうるんじゃないかなあと。これからは資本側のグローバルじゃあなくて、労働者側のグローバル。グローバルっていうのをそういう意味で使ってもいいんですか。
小見 いいんじゃないですか。
黒田 いいんですか。グローバル化になるんじゃないかなと、予言と言っちゃおかしいけれど、そういう時代が来るんじゃないかなんて思いますねえ。話が飛んじゃいましたが、釜ヶ崎事件があって、それで翌三七年はまた山谷ですね。今度は釜ヶ崎があって山谷ってことですね。これはあのマンモス交番の……今マンモス交番は場所変わっちゃったので、このあいだ行きましてビックリしました。いろは通りの方に移ってますね。前の場所は泪橋の通りで。そのマンモス交番の真ん前に組合食堂があったんですよ。その後、朝日食堂って名前に変えたんですけど。で、彼なんて言ったかな、ちょっと名前度忘れしたですけど、まあ日雇いの人が朝日食堂で中華か何かとって、そのあとおかわりを注文したらば、店員がそっぽを向いて相手にされなかった。それで、彼が腹立てて、その中華丼のスープを、小ちゃいお椀に入ったスープをちょっとかけたそうです。そしたら、奥から朝日食堂のアンチャン、若い連中ですね、ピンピンした連中がドヤドヤっと出て来て。彼を引き摺り出して朝日食堂の真ん前で暴行を加えたっていうんですね。マンモス交番の真ん前ですから、見える訳ですよ。それでお巡りさんが出て来て、引っぱっていったのは、やられた方の日雇いだった。これは山谷ではよくあることなんです。交番側の弁解によると食堂側の加害者もいつ何時でも引っぱれるから、後から引っぱろうとしたんだって言うんですけどねえ。それにしても、加害者を引っぱっていかずに被害者を引っぱっていくっていうのは……。そこら辺から、それは違うんじゃないか、違うんじゃないか、おかしいじゃないか、おかしいじゃないかと人が集まりはじめまして。そして山谷のマンモス交番に抗議する。それから朝日食堂に抗議する。抗議は、しまいには実力行使になりまして、看板叩き割ったり大騒ぎになったですけどねえ。それがまあ昭和三七年の山谷事件なんです。それからまあ毎年、そのようなことが起こってました。大体、夏が多いんですね。当時は大体山谷の宿、ドヤは大部屋、あるいは小部屋。その部屋式が多かったんですけども、効率化を考えて、これは関西からそういう方式が入ってきたらしいですけど、ベッドハウスになったんですね、蚕棚の。その方が効率良く泊められて、効率良くお金が入る。まあ一畳に対して今まで一人だったのが一畳に対して二人分のお金が取れるという、ベッドハウスが完成した時分なんですよ。最近は、ビジネスホテル風になって非常に外観だけはきれいになってますけどねえ。当時は外観も悪かったし、中に人ると南京虫。夏は南京虫ですね。冷房暖房なんかもちろんないですから。それで人がいてその上に人が乗っかってるんですから、夏は暑い。どうしてもまあ外へ出て涼むということになって。むしろ宿で寝るよりもアオカンした方が気持ちがいいんですよ。まあ夏のナイターって言うんですかねえ。今晩始まんないかなあ、始まんないかってゾロゾロ交番のまわりに行ったり来たりしててね。もうそういう素地ができてんです。で、始まりますねえ。これは山谷ばかりじゃなくて、三ノ輪の方、あるいは南千住駅の向こうにもドヤ街はありまして、場合によっては北千住や西新井からも、なんか山谷ナイターを見に来るっていう。僕もそのナイターを見てました。それがまあ昭和三七年の山谷事件ですね。それから、昭和三八年に入って、吉展ちゃん事件です。で、昭和四〇年近くなってからかなあ。山谷の城北福祉センター、福祉センターの、労働センターの方ですね。旧館と新館がありまして。新館はおそらく昭和三八年か三九年頃にできたんでしょうか。それ以前の戦前に、昭和の初めに、生活に困ってる人や浮浪者、そうした人が泊れるようにということで東京都がコンクリ建ての建物を作ったんですね。大和寮といってたですけど。それが戦争中に大和寮は焼けちゃって。焼けビルです。地方へみんな疎開しちゃってるんで、東京のあちこちから人を集めて、いろいろな仕事を……。そしてそこに寝泊まりさせて管理したのが労務報国会っていうんです。最近は労務っていう言葉使わないですけど、戦時中は労務者とか労務って、よく使われたんです。東南アジアにはROMUSYAっていう言葉があるってことですね。日本軍に酷使されたまあ労務者ですか。で、戦時中に労務報国会が作られて、当局の要望に応じて人を出していった。そして、昭和二〇年八月一五日に敗戦です。アメリカ軍が日本へ入って来ました。そうしたら、彼らは労働組合を作れ作れって言い出したんですよ。その労務報国会の組織がまだ残ってたんですねえ。大和寮の労務報国会がそのまま日雇い労働者の労働組合になっていったんです。僕らが行った時はまだそういう名称は少し残っていました。あそこの寮には、その労働組合に入らないと泊まれないんです。玉姫組合と言いましたねえ。
小見 労務報国会が普通の組合の玉姫組合になったんですか。
黒田 そうです。
小見 労務でもって国に報いるということですから、全く国のための組織だったんですよね。それが掌を返したように労働者のための組合になっちゃったという……。
黒田 そうです、そうです。それと当時上野組合っていうのもありました。この上野組合と玉姫組合は親戚関係でしたね。上野組合の方は池之端の方に住んでる、泊まってる人達が多かったんですね。池之端に寮があったんですよ、厚生寮という。戦後、厚生省がいろいろ手を出して作ったんです。よく厚生っていう名前で作られたんですね。厚生寮の人達が大体上野組合。それから、大和寮の連中がかつての労務報国会の玉姫組合。その他にもいろいろな団体があったようなんですけれども。今日、大和寮はなくなって城北福祉センターの、労働センターになってますね。今はどうなんですか、労働センターは。機能してるんでしょうか。
小見 それは私よりも、なすびさんの方がよく知ってます。
なすび まあ東京都の職員で出向して来た者がやっていて、衛生局と福祉局の職員がいて、大体、福祉事務所の出張所みたいな機能はしているのと、一回一回一応仕事は出しています。
黒田 ああそうですか。
なすび 仕事の数はもうメチャクチャ少ないです。今この行政改革の中で城北福祉センター自身がつぶされようとしているっていう。

安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー!

黒田 ああそうですか。僕はたまに山谷へ出ていって歩くんです。昔、山谷にいた頃は、どこでも立ち小便したんです。でも最近はちょっと紳士って訳じゃないんですけど、なんか立ち小便しづらくなって、トイレはないかなと思って。そうするとあの城北福祉センターのあそこにトイレがありますね。あそこで借りるんですけれども、きったないですねえ。すごくきたないですねえ。アハハハハ。まあ日本でも珍しいじゃないんですか。まあ僕はきたないのは別に苦にならないですけど、とにかくきたないですねえ。
小見 黒田さんは、このようにドンドン続けてずうっと明日の朝までしゃべってしまいかねません。でも、この場での時間がそろそろなくなりました。ただ、この場ではなくて、隣の部屋でちょっと一杯呑みながら、もうちょっと直に詳しいことをお聞きしたい方はぜひ残ってください。まだ電車もあります。それから先程申しましたように黒田さんは、実はパフォーマーなんです。黒田さんのパフォーマンスは、これは必見です。画家でもあります。画を観せろって言われても困るんですけども、パフォーマンスは観られます。明日旧ジァンジァンですか。
黒田 そうですね。昔のジァンジァンですね。
小見 昔のジァンジァンでやります。アジアのパフォーマーも何人かいらっしゃいますが、とにかく黒田さんのパフォーマンスは素晴らしい。もし興味のある方はぜひ行ってご覧になってください。黒田さんの名前を受付で言えば前売りになるとかいうのはないですか。
黒田 ああそうですねえ、そういうふうに受付に言っときますよ。
小見 この場の人に限って、「黒田さん」と受付に言えば前売り予約OKだそうです。
黒田 明日と明後日です。明日は外国の珍しい方々がやります。僕は明後日です。
小見 それでは時間がある方はお残りください。それから受付のところに「山谷」の映画のパンフレットと、黒田さんの「ちんぷんかんぷん」というパンフレットありますので、お金に余裕のある方はお求めください。本日はどうもありがとうございました。
黒田 あの最後に、また歌をうたわせてもらいます。よろしいですか、それでおしまいにしたいと思います。さっきの安保反対の歌です。これは今でも有効だと思うんです。
♪立ち上がる時だ 大切な時は今 子供達の未来の為に
憎しみの火 燃え上がらないうちに 一足早く絶やしてしまうのだ
立て立て 立ち上がれ 立ち上がれ
安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー!
今の時代、アメリカは横暴ですからねえ。これは今でも有効です。どうもありがとうござ
いました。
小見 最後まで締めていただき、黒田さん、どうもありがとうございました。

        [2001年10月13日 plan-B]

サパティスタはなぜこの世界に登場し、 そしてそれはこの世界の何を変えたのか?

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第5回

太田昌国(民族問題研究、シネマテーク・インディアス)

佐藤さん、山岡さんと共有した時間
こんばんは、太田です。
「山谷」の映画のあとにこのようなテーマで話すという脈略が僕自身まだよく分かっていないのですが、まず5分ぐらい別なことを話しながら、考えていきたいと思います。この映画の最初の監督の佐藤満夫さんとは、1980年代の前半ですかね、いろいろな集会やデモで顔を合わせました。デモで隣り合わせて話すとか、集会の片隅で話すとか、そういうことをしておりました。僕は1980年から――ご存知の方もおられるかもしれませんが――ボリビアのウカマウ集団の映画を自主上映し始めていました。佐藤さんはもともと映画畑の人ですし、最初に自主上映したウカマウの「第一の敵」という映画を見ていて、その映画をめぐる感想を熱く語ってくれたりということがしばらくの間続いていました。
それであのような形で亡くなったあと、その「第一の敵」についての評論を何かの映画雑誌に投稿するために書いたという情報があったので、皆さんに探していただいたのですが、残念ながらそれは見つかりませんでした。ウカマウ集団の上映運動は今もう36年目になっていて、まもなく11本目の新しい長編作品が届きます。早ければ来年、遅くても再来年には、再び全作品回顧上映ができると思うのですが、そういう場で、1984年12月を最後にして佐藤さんと再会できないというのは非常に残念なことです。
二番目の監督の山岡さんとは、1979年頃知り合って、7年間ぐらいの付き合いであったと思います。これは亡くなったあとの追悼文で書いたことでもありますが、1985年の秋ぐらいですかね、「解放を求めるアジア民衆の会」を立ち上げたいということで、山岡さんが相談に来たことがありました。その頃東京に金明植さんという韓国の詩人がかなり長く滞在していました。8月15日に靖国に向けてデモをやりますね。その年によってデモコースは異なりますが、多くの場合神保町の交差点から九段の靖国神社の方へ向かいますが、「許可」されるデモコースは、靖国の手前の九段下で曲げられます。金明植さんがそれを見ていて、おまえたちはなぜあそこで曲がるんだ、なぜまっすぐ進まないんだ、と批判するのです。日本のデモで捕まった時のとてつもない長期拘留とか、あとの弾圧の問題とか、いろいろ山岡さんも僕も説明するんだけど、そんな弾圧を恐れていて一体何の運動なんだ、というわけです。それはそれで正論なんだけど、日本の特殊事情がちょっと分かっていないんだよなという感じで、いろいろやり合いになったことがあったりしました。かなり強烈な個性の人で、いろいろ話し合っていて面白い人だったんですね。彼の提起もあったと思うのですが、山岡さんから「解放を求めるアジア民衆の会」を立ち上げたいという相談があったのは、そんな経緯でした。
同じころだったと思いますが、山谷の夏祭りの後で夜更かしして一緒に飲んでいて、朝が明けて、なぜか僕の家に来ることになった。広島の中山幸雄さんも一緒だった。駅から家に行く途中の古本屋で、山さんが『小林勝作品集』を見つけて、ためらうことなく買ったというのも、忘れがたいエピソードです。お互いの精神の「近さ」を実感させられるエピソードだったから、です。
それから亡くなるまさに5日前、86年の1月8日、当時まだ神保町にあった僕の事務所に、いきなり山岡さんが5、6人の人たちと一緒にみえて、いよいよ映画「山谷 やられたらやりかえせ」が完成した、ついては上映運動を始めるんだけれども、太田がやっているウカマウの上映運動は自主上映としてはなかなかうまくいっているみたいだから、ノウハウを教えてくれないかというようなことを言われて、しばらくどんなふうにやろうかというようなことを一緒に考えたことがありました。
それから5日後、山さんは新大久保の路上で撃たれて亡くなりました。この映画に関わった2人とそういう関係があるせいもあって、「山谷」は僕にとってもなかなか忘れがたい映画であるということになります。
さて、これからはさきほど司会の池内さんが言った、非常に無理な接合をしてですね、「サパティスタはなぜこの世界に登場し、そしてそれはこの世界の何を変えたのか?」という問題を考えるわけですが、それは要するに何を考えなければならないかというと、僕が佐藤さんや山岡さん、この映画に関わった人たちと共有した時代、1980年代の前半から半ばにかけての時代と、それから30年経った今の時代というものが、何がどう変わったのかを考えることだろうと思うわけです。ですから、これからの話には年代・年号がたくさん出てくると思いますが、それはあまりこだわらなくていいので、大まかなスケッチとして、1970年代から80年代にかけての時代と、世紀末を過ぎて新しい世紀になってもう16年経っているわけですが、今の時代がどういう変貌を遂げたのか。その中でサパティスタが果たした、果たしてきた役割は何なのか、ということをお話したいと思います。

ソ連崩壊の決定的原因となったアフガン侵攻とチェルノブイリの原発事故
 この問題を考えるためには、どうしても20世紀の大きな存在であった社会主義という問題を考えなければならないと思います。20世紀の初頭――来年ちょうど100周年を迎えますが――1917年にロシア革命が起こって、これが世界最初の社会主義革命であった、常にそう思い起こされる時代が始まったわけですね。そして20世紀は大きな戦争、あとで名づけられた名称でいえば第1次世界大戦、第2次世界大戦をはじめとしていくつもの戦争があった。そして、革命も、その戦争を契機に、あるいはそれを利用しながら、ソ連に続くさまざまな革命が起こっていった。それもあって、20世紀は「戦争と革命の世紀」というふうに、僕らが若い頃、1960年代、70年代によくいわれました。最終的に、そのソ連の社会主義は1991年の12月、今から四半世紀前、25年前に潰えるという形になったので、この問題が世界全体の変貌にどういう意味合いをもったのかということを考えることから始めたいと思います。
山岡さんが亡くなった1986年の4月には、ソ連でチェルノブイリの原発事故が起きています。山岡さんが亡くなってから3ヵ月後の事態でした。ソ連はその7年前の1979年、アフガニスタンに軍事侵攻しています。これは一応、ソ連から言えば味方になる勢力が、アフガニスタンでクーデターによって政権を取り、その新しい革命政権の要請によってソ連軍が介入した、という説明を当時のソ連共産党第一書記のブレジネフはしたわけですが、ともかく1979年にソ連軍がアフガニスタンに軍事侵攻した。それが、それこそ「反テロ戦争」と「テロリズム」の応酬が世界を揺るがせている現在にまで繋がるさまざまな動きと関係してくるので、きわめて重要な現代史の出来事です。その後の歴史の流れも見ながらソ連邦の1991年の崩壊を決定的に原因づけた理由を考えると、最終的に決定づけたのは、79年のアフガニスタンに対する軍事侵攻という失敗と、86年のチェルノブイリの原発事故だったのではないかと思います。
僕が学生時代であったのは1960年代の半ばですが、社会を変革する、あるいは革命といってもいいのですが、そういうことに思想的に目覚めたとして、その時代のソ連の在り方が社会主義のモデルであるとはもはや思える時代ではなかった。すでに日本には1960年安保闘争以降の中で、新左翼と呼ばれるグループ、諸集団が生まれたということもありますが、加えて当時の左翼的な思想・文学を牽引した人たちなどにとってもソ連社会主義の在り方を批判するというのは当たり前のスタイルであった。どれほどそれが社会主義の名に値しない抑圧的なものであるかということがはっきりしていて、そのソ連社会主義の批判を行いながらなお、あるべき社会主義、広い意味での社会主義の在り方を模索するというのが、そういう思想に目覚めた人々にとっての普通のスタイルであった。
60年代、70年代のそういう模索が日本でも世界でも続いてきたと思うのですが、しかしその79年アフガニスタンに対する武力侵攻と86年チェルノブイリ原発の事故というのは、ソ連社会主義の最終的な崩壊を告知するような出来事であったと思われます。もちろん、例えば1968年にはソ連とワルシャワ条約軍は、「人間の顔をした社会主義」を求めるチェコスロバキアに武力侵攻していますから、ありふれたことではあったんです。アメリカ帝国ほどではないけども、自分達の「衛星」国だと思っている国々で何かクレムリンのモスクワ指導部から見て気に食わないことがあると、武力を使ってそれを潰すというのは当たり前のスタイルであったとはいえます。それがとうとうここまで酷い事態を巻き起こすのかということが、アフガニスタン侵攻によって明らかになったということですね。
それから、ソ連社会主義というのは、アメリカと競うにあたって、社会主義的なモラルの高さを基準にして競うのではなくて生産力競争をやった。いわば、「アメリカに経済的に追いつけ追い越せ」という形で、対峙しようとした。アメリカ的な超大国に生産力でどのような形で追いつき追い越すことができるかということを経済建設のメルクマールとした。そうすると、それは様々な分野でのアメリカとの競争ということになって、核兵器開発競争はもちろん、例えば宇宙における人工衛星あるいは有人飛行を巡る競争も含めて行われるという時代を迎えるわけですね。
59年でしたか、ガガーリンという最初の宇宙飛行士をソ連が打ち上げた。これこそ社会主義が資本主義に対して優越性をもつ決定的な証拠であるというふうにクレムリンは語る。日本を含めて世界各国で、社会主義への夢や希望を持つ人たちが、アメリカより先に有人飛行を成功させたソ連社会主義は偉大だ、アメリカに勝ったということになるわけです。そういうことが基本であったような生産力競争をしていたわけですね。もちろん、原水爆実験、そして原発というのもその現れで、競い合ってやったわけです。アメリカはインデアン居留地、内陸部の広大なかつては先住民が住んでいた、その地域を選んで水爆実験を行い、ソ連であればシベリア少数民族が住んでいる所、あるいは北極、そうしたいわゆる辺鄙な所、あるいは人が住んでいたとしても、クレムリンからすれば、その被害は無視できるような所を選んで軍拡競争を、原水爆実験を続けてきた。その一つの在り方が、同じエネルギーを使う原発事故となって、チェルノブイリで爆発をしたという結果になるわけです。
山岡さんはアフガニスタン侵攻までは知っているけれども、チェルノブイリの原発事故は知らないわけですね。山岡さんと社会主義の問題をめぐってまともな議論をしたことは記憶にないので、彼が社会主義なるものに、どういう夢を抱いていたか、どういう絶望を抱いていたかは知る由もありません。しかし、当時あの運動圏にいた人々にとっては、広い意味での社会主義というものが、どこかで矯正可能であると、ソ連がどんなに歪んでいても、あるいは中国の文化大革命でどんな酷い過ちを犯したとしても、もっと違うやり方での社会主義の再生というものが可能であるだろうというふうにどこかで思っているところがあり得たと思うのです。
僕はどちらかというと、人間社会というのはアナキズム的な理想によって成り立つだろうというふうに思っているところが若い時からあるので、広い意味での社会主義というのは、アナキズムも含めた形でのそういう展望で語っているわけです。あり得るかもしれない社会主義の範囲を、もう少し膨らませたところで話しているということは、感じておいていただきたいと思います。それが一つの問題ですね。もう少し現代のところでは、この問題を膨らませたいと思います。

朝鮮に対する植民地支配という問題に気づくのが
きわめて遅かった

もう一つは、朝鮮の問題です。「解放を求めるアジア民衆の会」というものを作ろうと山岡さんが言っていたのも、いろいろな思いがあったと思いますが、先ほど例をあげた金明植さんが非常に厳しい立場から日本の僕らの運動の在り方を批判する。歴史的な背景としては、植民地支配の問題があるし、そういう展望で批判する人物がいて、その人たちと一体どういう関係をつくることが可能かということは、当時、山岡さんも含めて僕らにとって大きな問題であったし、それはこのように情勢がすっかり変わってしまった現在もなお深刻な問題であるわけです。
その後に見えてきたこともふまえながら、この問題をどういうふうに考えるかというと、日本帝国に住んでいる我々が植民地問題というものを具体的な問題として気づいたのは、残念ながら非常に遅かったと、僕も含めて非常に遅かったと捉え返すことができると思います。
例えば、1965年に日韓条約が締結されます。このとき敗戦後20年の段階ですが、朝鮮半島に唯一合法的な政府は大韓民国政府であるということで、北朝鮮の存在を無視して、南の韓国政府とだけ国交正常化交渉を行って正常化したわけですね。このとき韓国では、学生を中心に非常に激しい条約締結反対運動が起こったし、日本でも60年安保が終わった後ですから、学生運動の水準でいうと運動が停滞して、それほど活発な学生運動が展開されていた時代ではなかったけれども、一定の日韓条約反対運動というものがあった。僕もそれに参加した。しかしそのときの意識を思い出してみても、朝鮮との間の植民地問題ということで問題をきちっと立てて、日本の敗北の20年後に結ばれようとしているこの条約にどういう反対の論拠をもつかということを仲間同士で論議した記憶はない。そのような意識が現れてくるのは、それから数年後の60年代後半です。ですから、植民地支配という問題を、支配側の日本帝国にいて、その現代史を生きていて、どのように捉えるかという問題意識が生まれたのはきわめて遅かった。社会全体の問題として、あるいは個別に僕らの問題としても遅かったといえると思います。
その具体的な現れの一つとして、例えば日韓条約反対の労働組合の反対運動のスローガンの一つは、当時の大統領は今の大統領の父親の朴正煕で、朴というのを日本語読みにすると「ぼく」ということになるから、「(請求権資金という)カネを朴にやるなら僕にくれ」、そういうスローガンがプラカードに書かれていた時代なんです。これが一事が万事、当時の私たちの思想状況・社会状況を表すものだと考えてくださればいいと思います。
その韓国では、その前年の1964年からアメリカの強い要請によって、ベトナム派兵を行うわけですね。米国がだんだんとベトナム戦争に深入りしていくのは60年代に入ってからです。それは54年にベトナムを支配していたフランス植民地主義がディエンビエンフーの作戦で軍事的に敗北を喫して、彼らは引いて行くわけです。そうするとアメリカ側から見れば、ソ連があり、49年には中国革命が起こり、50年から53年にかけては朝鮮戦争が起こって、北朝鮮が一時期ソウルを制圧し釜山にまで攻め込んでくるような事態になった。かろうじて53年の休戦段階で38度線を一つの休戦ラインにしたけれども、北にははっきりと社会主義を名乗る政権がある。ベトナムも北ベトナムが社会主義を名乗っている。そうするとユーラシア大陸からずっとアジア全域が、東アジアから東南アジアまで「赤化」しつつあるということになる。これはドミノ倒しである。このまま放っておいたらどうなるか分からないといって、フランス植民地主義に変わって、アメリカはインドシナ半島への具体的な介入を始めるわけですね。それが、やがて泥沼のベトナム戦争として75年まで続くわけです。
米国はベトナムへの介入を深めるにしたがって、日本には、沖縄にある米軍基地を軸にベトナムを爆撃する本拠地としてしっかり担ってもらう。韓国には、実際に兵を動員してベトナムで一緒に闘ってもらうということを朴正煕に提案し、朴正煕はこれに応じて、結果的に73年までの9年間、延べ30万人といわれる韓国兵がベトナムで、ベトナム民衆を相手に闘うということになるわけです。4,500人ぐらいの韓国兵が亡くなっています。そうすると、あとで僕らも気づくんですが、韓国の人たちからすれば特に女性からすれば、20年前の日本軍のアジア全域における侵略戦争のために夫をとられた。そして日本軍として戦わされた。その歴史を負っている人たちが1960年代半ばには、中年の年代で生きているわけですね。その間に朝鮮戦争がありますし、今度はベトナムに息子たちがとられる。そういう不安を抱いて暮らす農村部の女性たちが多かったわけです。これは日本に暮らしている私たちのどの世代も経験したことのない現実なわけで、こういう形でアジアの現代史は続いているんだということが、そばにいながら、しかしそれからはっきり隔てられた空間に住んでいる我々には気づくのが非常に遅かった。こういう問題として、韓国のベトナム派兵を捉えることはできなかった。今、山岡さんが元気であったら、語り合いたい一つのことは、こういう関係の問題ですね。

独裁というキーワードだけでは分析できない
流動化の進行

それから朴正煕のクーデターが1961年に起きて、延々と長い軍事政権の時代が続くわけです。70年代前半ぐらいから、岩波書店の『世界』という雑誌に「韓国からの通信」というレポートが載るようになる。これはT・K生という匿名の筆者が、毎月韓国でどんな事態が起こっているのかということを人からの伝聞とか、街の噂話とか、ビラとか、地下通信とか、様々な形で伝えてくれる非常に貴重な媒体であったわけです。これは88年まで続くので、ほとんど15年間毎月のように載っていて、「僕ら」と複数形で言っていいと思いますが、当時韓国に関心のある人たちの韓国情勢の把握を決定づけた一つの大きな媒体であったと思います。
僕は80年代の前半ぐらいになってちょっとこの通信の読み方に距離を置くようになって、それはどういうことかというと、それまで僕自身もそうでしたが、それを大きな情報源として韓国情勢を把握している限り、韓国は軍事政権の独裁下で、それだけをキーワードにして分析すればそれで一切分析ができてしまうような「暗黒の世界」だったわけです。ものすごい拷問が行われているし、弾圧も行われているし、死刑判決が連発され、執行もされている。集会・行動の自由もないし、言論の自由もないし、文学者も発言次第ですぐにしょっぴかれる。金芝河のように風刺詩という形で、非常に鋭く政権の在り方を風刺すると、それだけで逮捕される。そのような「暗黒の世界」があったことは否定しがたい事実なのですが、それだけで全て分析してしまうことができるのか。それは分析でもなんでもないんですけれどね、あとから思えば。
僕がちょっと違うなと思い始めたのは、文学作品、韓国の現代文学を読むことによってなんですが、黄晳暎っていう今も現役の作家がいます。彼は僕と同じ世代なので、徴兵にとられて実際にベトナムに行って、戦闘部隊や諜報部員として活動して、ベトナム経験を持っている世代の作家です。彼がベトナムから帰ってきて、その体験記をフィクションの形で書き始めるわけですね。そうすると、彼の書いているベトナム戦記を韓国の実際の民衆がどう受け止めているかというところで、意外な反応が出てくる。
例えば、ベトナム帰りの兵士たちというのは、一目でそれと分かる振る舞い方、あるいは格好をするわけだけども、そうすると韓国の市民はそれを見て、うまい稼ぎをしてきやがってとか、こっちに引き上げてくる時には、PXという、軍人専用の店で、日本の電化製品なんかを非常に安い値段で買える特別な店があるわけですね。まだ韓国が80年代の驚異的な経済成長を始める前の段階ですから、70年代というのは。そうすると60年代、70年代というのは、派遣された韓国兵で無事生きて来られる人は貯め込んだドルがある。戦地手当は日本の自衛隊と同じようにそれなりに大きいわけですから。帰る時に、そうやって韓国では貴重な日本製の電化製品やなんかを買い集めてくることができる。そして、兵士によってはそれを大量に買い込んできて、韓国で売りつけるような振る舞いをする者がいる。そうすると、韓国のベトナム帰還兵というのは、庶民からはそういう目で見られている。そういう二重構造といいますか、韓国社会の中で作られる別の構造が見えてくるわけですね。
今のは『駱駝の目玉』という小説なんですが、黄晳暎がもう少しあとに書く『熱愛』という小説だと、開発独裁という、当時の第三世界の独裁体制を規定する言葉があったのです。僕らが「独裁」に重点を置いてその社会分析をやっていたとすれば、もちろん「独裁」批判は当たり前のことではあるけれども、しかし一方で同時に「開発」というものも進んでいる。外資の積極的な導入による経済開発――それを第三世界支配のモデルケースにしようという、アメリカのような超大国の意志が働くわけです。その利益がどこに集中するかは明らかですが、にもかかわらず経済全体の底上げ、中産階級の形成も進行する。独裁というキーワードだけでは分析できない、流動化というものが韓国社会の内部で進んでいるのだということが分かってきたわけです。
そうすると、今までのような形で『世界』に載っているT・K生の「韓国からの通信」に依拠してそれ以上のことを深く分析しようとしない僕らの在り方というのは決定的に間違っていたのではないか、「開発独裁」体制の内部も知らなければならないのではないかというふうに思うわけですね。そういう問題意識も山岡さんが亡くなってから、はっきり僕の中に現れたことだと思うので、韓国などを分析する際に、一体どういう情報を大事にして接することができるかということも、山岡さんといろいろ話し合うことができたらなと思うことの一つであります。
『熱愛』という作品が書かれたのは、ソウル・オリンピックが開かれた1988年です。ソウル・オリンピックの前の数年間はオリンピック開催に向けての高度経済成長の時代を意味するわけですね、東京がそうであったように。1964年の東京オリンピックに向けて1960年ぐらいから新幹線の開発とか、そういうものを含めたインフラ整備が行われて、一気に離陸するわけです。あの敗戦直後の焼け野原の時代から。韓国であれば、日本の植民地支配を経て、あの苛烈な朝鮮戦争を経た53年以降の時代から、それでまだまだ貧しい時代の50年代、60年代が続いたと思いますが、経済成長の点で一時は北朝鮮に遅れを取っていたと、さまざま見聞した経済学者やジャーナリストが言っていた時代が70年くらいまでは続いていたわけですから。それを一気に覆すだけの経済成長を、あろうことか朴正煕の独裁政権下で成し遂げているわけで、その過程の問題を一体どういうふうに捉えるのかということが、その後の私たちの討論課題になったであろうと思います。
朝鮮半島には、もう一つの重要な問題があります。朝鮮民主主義人民共和国の在り方をどう考えるかということです。南の独裁のみを取り上げ、北の独裁は不問に付してきたのが、日本の「革新派」の大方の在り方でした。きょうは詳しくお話しする時間はありませんが、2002年9月17日、日朝首脳会談で金正日が拉致犯罪を行なっていたことを認め、謝罪したときに、自称「社会主義国」=北朝鮮のイメージは完全に崩壊しました。ソ連崩壊から10年、社会主義の理念と実践は、さらにどん底へと落ちたのです。こんな「社会主義」への侮蔑と、「朝鮮的」なるものに対する排外主義とが、奇妙な形で合体している現在の日本社会の状況は、この時点からの、まっすぐな延長上にあります。

グローバリゼーションという現代資本主義の
最高形態の登場
さて最初に言ったように、1991年12月、ソ連は瓦解しました。これは旧来型社会主義の全面的な敗北であったと当時も思いましたし、今も思っています。同時に、第三世界の解放モデルもほぼこの段階で(本当は、厳密にいえば、もう少し遡るのですが)低迷・後退を始めたということができると思います。キューバ革命初期に関して、ソ連社会主義に変わる新しい社会主義のモデルを提示しようとして、少なくとも最初の9年間、10年間はそのような模索も行われた、同時にキューバは第三世界解放の一つのモデルを提示しようとしていた――私は、その苦闘の在り方が現れていたと語ってきたのですが、この20世紀末の段階で、ほぼその形も破綻をきたし、そのまま一直線に進むことはなかったと言えると思います。
ですから、韓国の経済発展というのを考えると、60年代に経済理論として非常に多くの人々が読んだ従属理論――第三世界の経済発展というのは、宗主国、植民地支配を行った、あるいは経済的に支配している先進国との関係において規定されているのだからどうしても従属的な発展にしかならない、このような環を断ち切らない限り第三世界の経済発展は展望できない――というような考え方が一つの限界に達した。そうではなくて、中堅の新興工業国の発展というものが、80年代、20世紀の末から始まったわけです。
そのようなことを全て見たところで、僕のこだわってきた問題からすれば、ソ連崩壊後の翌年の1992年というのは、コロンブスがアメリカ大陸に到達して、地理上の「発見」とか、あるいは大航海時代といわれたあの時からちょうど500年目を迎えた年でした。この年が決定的に重要だと思ったのは、前の年にソ連社会主義というのが敗北して、社会主義の全面敗北、資本主義の一方的な勝利というように謳歌する政治指導者や資本家連中が多かったわけですが、僕はソ連社会主義の敗北は必ずしも資本主義の全面勝利を、あるいは最終的な勝利を意味しないと考えていました。資本主義はさらに困難な壁にぶつかるだろうと。5世紀前の、大航海時代と1492年の「新大陸の発見」によって、ヨーロッパ資本主義はその後、中世を抜け出て資本主義的な発展を全面展開していくだけの地理的に有利な条件と、そこを開発することによって資源的に有利な条件、それから植民地支配することによって労働力的に有利な条件を開発していった。つまりコロンブスの大航海というのは、あの時代から世界を二分する、交通路としては一つとなったわけだけれども、非常に有利なものと不利なものとが地域的に分かれることによって、世界が二分される、そういう条件づけを可能にした年の始まりであった。
その後、資本主義はこれだけの年数を経て、ソ連社会主義に打ち勝つだけの基盤を築き上げてきた。それが、ソ連崩壊後はネオリベラリズム、グローバリゼーションというひとつの形をとって現れたわけです。ですから、ソ連崩壊あるいは翌年の1992年の段階で、私たちは現代資本主義の最高に発達した段階としてのグローバリゼーションという、世界を単一の市場原理によって統治する、そのような趨勢との、新しい時代状況の中での闘いに入ったわけですね。これは先ほどから言っているように、資本主義の最終的な勝利ではない。グローバリゼーションという現代資本主義の最高形態が、これから世界各国で闘おうとする人たちの、社会主義は間違ったけれども、もっと別の原理を作りだしながら闘おうという人たちの、共通の敵であるという時代がきたというふうに考えました。

北米自由貿易協定に抗する1994年1月1日の
サパティスタの蜂起
それで、その2年後に起こったのが、メキシコ南東部のチアパスにおけるサパティスタの叛乱であるというのは必ずしも強引な結びつけ方ではないと考えています。武装蜂起という形をとった、先住民主体の叛乱でした。メキシコはご存知の通りメスティーソ、混血の人たちがかなりの割合を占めています。州によっては先住民人口も非常に多い国です。少数エリートの白人が当然のことながら特権階級としてピラミッドの頂点にいて、その中間に分厚い混血の層がいて、これは様々な形で中央権力や地方権力内で上昇したり、人間的に結びついた分厚い層を形づくります。そして、一番下の層に先住民の人たちがいる。先住民はメキシコに限らずラテンアメリカ全部がそうですが、社会全体の中で、いまだに徹底的な人種差別の対象となっています。
こともあろうに、その先住民の人たちが武装して、黒い覆面をして、目だけ出す帽子で、チアパスの主要都市を占拠して、メキシコ中央政府とチアパスの地方政府に対する抵抗の意志を表示したわけですね。
一つは、中央政府に対してはグローバリゼーションに反対する。ソ連崩壊のあたりから世界中で使われ始めた言葉ですが、グローブ、地球をグローブ、球として表現する、動名詞化してグローバリゼーションとなる。一つになる、地球が一つになる。それが何を意味するかというと、市場原理、資本主義的な市場原理によって一つになるということを意味したわけです。つまり、この我々の人間社会を決めるのは市場原理である。市場の中でどっちがいい物として選ばれるか、品質において、価格において、どれが選ばれて、どれが淘汰されていくのか。それに委ねていけば人間の社会は丸く治まるんだ。社会主義なんて夢のようなことはもうやめて、この市場原理に委ねればよいというのが、つづめていえばグローバリゼーションの考え方です。
その一つの現れが自由貿易協定という形で、いま世界で様々な形で試行錯誤されています。このサパティスタが蜂起した1994年1月1日には、もう各国議会で条約調印・批准も終わって発効しようとしていたのが北米自由貿易協定、カナダとアメリカとメキシコ3国間の自由貿易協定です。多国間、この場合は3国間ですが、自由貿易協定の先駆けですね。これはどういうことかというと、15年間、94年からですからもう過ぎてしまいましたが、15年間の移行期間を置いて3国間の関税障壁を撤廃するということです。自由貿易は市場原理に非常に叶った考え方ですね。保護貿易をやって自分たちの特産物を保護して、輸入品に関税をかけて自国品を有利に保とうとする、そのような時代は終わったんだと。世界は国境を越えた経済活動の時代になったのだから、もう全部その障壁を撤廃しようという考え方ですから、例えばメキシコのような第3世界の中では経済規模は大きいとはいっても、アメリカのような超大国と経済競争をやったら明らかに負けるわけです。
アメリカは農業大国で集約的な大規模農業をやりますから、そこで作っている小麦とかトウモロコシとか、そうしたものとメキシコのトウモロコシが勝てるはずがない。価格競争をやって、事実メキシコのトウモロコシはこの15年の期間を経て、いまや惨憺たる状況です。トウモロコシで食っていた農民はもう食えなくなった。しかもトウモロコシというのは、メキシコの人たちの文化的なアイデンティティーにも繋がるような重要な作物なのです。大切な日常食品であり、神話・伝説の世界から大事な産物として、貴重な物として扱われてきているのですから、いわば文化としてのアイデンティティーを破壊することになってしまう。しかしそんなことにおかまいなく、自由貿易協定というのは市場原理に基づいてやっていこうという考え方ですから、そうなってしまうわけです。
メキシコ憲法はロシア革命と同じ1917年に制定された、世界でもきわめて先駆的な、ある種の進取性を持つ憲法でした。そこでは先住民の共同体的土地所有を破壊しないように、外国資本に売ることを禁じている憲法規定があったんです。しかしアメリカとカナダと自由貿易協定を結ぶためには、その憲法の規定は阻害物になるわけですね。アメリカは変更を要求する。そうすると憲法を変えて、土地も売り買いの対象にできることにしたわけです。北米自由貿易協定を結んで以降、土地は先進国の食肉需要を満たすための牧草地として売られてしまうわけです。これが現在TPPとして進行している自由貿易協定の本質なわけですね。あとは時間がないので触れませんが、経済生活の在り方を根底的に変えてしまうだけの、そういう暴力的な要素をたくさん持っているわけです。
サパティスタは、これは自分たち先住民族に対する死刑宣告であるといって、これに反対するスローガンを正面から掲げました。あと国内的には、地方政府に対しては、住宅から、教育から、医療から様々な要求を掲げました。グローバルな要求とローカルな要求を、きわめて象徴的に組み合わせた非常にユニークなスローガンがこの時見られました。

ユニークで巧みなメッセージと
軍事至上主義をとらない叛乱
あと時間がないのでもう箇条書きのような説明になっちゃいますが、僕が文章を読んでいて面白かったのは、対外的なスポークスパースンであったマルコス副司令官というのは、都会の大学の教師もやっていた哲学の教師のインテリでした。それで、頭にマルクス主義を詰め込んだ十数人ぐらいの左翼が、都会からメキシコのもっとも貧しい先住民の農村地帯に行ってオルグをしようとしたというのが、1980年代初頭の発端となった動きです。都会での武装闘争に敗れて、これ以上メキシコの都会で闘争を展開しようとしても、展望は切り開けないだろうと。19世紀ロシアのナロードニキ(人民主義者)が「ヴ・ナロード」(人民の中へ)といって農民の間に入っていったように、20世紀メキシコの都会のインテリたちもチアパスの農民のところへ入っていったわけです。
結果的には、面白い組み合わせがそこでできた。一方的にマルクス主義を外部注入しようとしたマルコスたちは、それはそううまくはいかない現実にチアパスの山岳部で気づいたわけですね。そこで生き延びるために、先住民から、日常的に何を食うか、どの草木が食えるか、どの小動物をどういうふうに退治するかというようなことを含めて、学ぶ日々になっていった。それが僕の言葉でいえば、マルクス主義と先住民世界の自然哲学を含めた哲学・歴史観の類いまれな融合があって、そこで一つの今までのヨーロッパ・マルクス主義とまったく違うものが生まれた。先住民社会だけで育まれた世界観とも違う、不思議なサパティスト用語ができ上がって、それがメッセージとして発信された。きわめてユニークな言葉遣いと発想をもって歴史と現実を語りかけるスタイルが生まれたのです。すでに見た左翼の敗北情況は、それが用いる陳腐な政治言語によっても象徴されていましたから、それはヨリいっそう魅力的な響きをもって、人びとの心に訴えるものがあったのだと思います。
それと、武装蜂起をしながら、軍事至上主義ではなかったというのが、20世紀の様々な闘争とまったく異なった点だったと思います。武装蜂起といっても、アンダーグラウンドの武器市場で様々な武器を買うだけのお金もなかったし、ごくごく貧弱な武装でしかなかったわけで、政府軍が応戦した段階で彼らはまたジャングルの奥深く撤退してしまった。それですぐ政府に政治交渉を呼びかけたわけです。
その政治交渉の呼びかけ方が、文体からメッセージの発し方から非常に巧みであった、人の心を、世論を引きつけるやり方であった。それは国内世論ばかりか、もうインターネット時代に入りつつありましたから、スペイン語で発せられたその文章が、すぐに例えばテキサスとかカリフォルニアとかに伝達される。つい150年前まではメキシコ領であったカリフォルニアやテキサスには、たくさんのバイリンガルの人たちが住んでいるわけです。スペイン語が話せる人たちがたくさんいるわけで。その人たちがすぐインターネットで、英語に翻訳して、世界中にメッセージを伝達したわけです。このメッセージは、僕自身にとってもそうだったけれども、世界でそれを受け止める人にとっては、メキシコというごくごく世界の一地点から発せられたメッセージでありながら、きわめて世界的で普遍的な内容であったということをすぐ感知することができた。
それは先程言ったように、一つにはグローバリゼーション、新自由主義、あるいは市場経済の在り方、何よりも自由貿易協定に対する明確な「ノー」のメッセージがあったからです。当時世界は日本を含めてヨーロッパ、世界中の人々が同じような問題に直面していた。ソ連崩壊後の時代の中で、このまま自由市場経済が世界を制覇するという時代趨勢の中を生きていたわけですから、これに一体どうやって対抗するのかということが、地球上の誰にとっても大きな問題になっていた時に、彼らが発するこのメッセージはきわめて有効な指針を示すものであったというわけですね。
あと、民主主義を確立するための志向性というか、それが明確にあったということができるわけです。これは軍事至上主義でないということと関係するんですが、軍事至上主義であれば、解放軍であれ、ゲリラであれ、赤軍であれ、やはりその軍事力に頼ることになる。政府軍と戦っている時はいいかもしれない。武装している政府軍と戦って軍事的に勝利した段階で、そのあとの社会をどうやって建設するか。そうすると、今まではロシア赤軍も中国人民解放軍も全てそのまま政府軍として、国家の軍隊として改変されるわけです。かつては抵抗の軍隊として効果が発揮された軍事力は、今度は、新しい革命国家を名乗ろうと、社会主義国家を名乗ろうと、新しい権力機構の一部を成すわけです。明確に国家権力の一部として新しい軍隊は機能する。それがロシアの赤軍の場合に、中国の人民解放軍の場合に、どのように革命後の社会において機能したかというのを私たちは知ってしまった時代に生きているわけです。

前衛主義と無縁な、
あるいは権力を握ることを拒否する考え
では、サパティスタはどういうふうに考えたかというと、メキシコ全土に呼びかけて数千人もが集まって、何らかの討議をする会議を行います。そうすると、全国各地から集まる人たちに対して、自分たちは武力的にも有利な立場に立つ。だから自分たちは参画する権利、あるいは投票する権利を1人か2人に限定する。武装しているサパティスタが、ごくごく少数でしかないという形を一貫してとりました。
これは国際会議の時もそうでした。蜂起から2年後の1996年に、「人類のために、新自由主義に反対する大陸間会議」というのがチアパスで行われて、世界から数千人が集まりました。僕も参加していたのですが、そのとき60年代のベネズエラやペルーの武装ゲリラの指導者と会って話をしました。彼らが一様に言っていたのは、サパティスタは民主主義ということを本当によく考えている。自分たちがゲリラ闘争をやってた時にはまったく考えもよらないことを実践している。自分たちのゲリラはきわめて非民主的なもので、それでよしとしてやっていたけれども、やはり時代の変化というのはそれだけの価値観の転換というものが行われて、自分たちは今サパティスタたちから学ぶところが非常にある、ということを言っていました。それは、僕がその会議に出かける前、サパティスタ蜂起のニュースを聞きながら一年半の間できるだけたくさんの文章を書こうと思って分析をしたり話をしたりしていましたが、そのとき感じとっていた問題意識とまったく同じものでした。つまり前衛主義とは無縁だということにも辿り着きます。
日本にも、1960年以降様々な新左翼党派の潮流がありましたが、それは非常に前衛主義的な思考の、自分たちが革命の主体になってやれば全てがうまくいくという――どこまで本人が信じているか分からないけれど――ともかく政治言語としてはそのように主張する人たちが圧倒的に多かった。世界でもそういうのが主流を占めていた。だから、そういう個人が参集している党派が独裁的にふるまう、20世紀的な社会革命の末路を見てしまったわけです。
これを繰り返さないで、なおかつ現存する世界秩序を変革するためには、どのような運動論が必要なのか、どのような哲学が必要なのか。そのとき、前衛主義の克服というのは当然のことながら課題にならざるを得なかった。そうすると、様々な異なる課題を持った、それぞれの社会運動が一つの社会空間を、一つの共有空間を形作って、そこで繰り広げられる運動の可能性に賭けるしかない。これは、先ほどアナキズムへの思いを語りましたが、きわめてアナキズム的な考え方であるというふうには思います。
一つの党がある、あるいはきちっとした、それを軸にした思想、運動組織があってそれを中心に回っていくという発想ではなくて、様々な課題に取り組む社会運動体が構成する空間によって、その社会が本質的に変わっていく。だから権力を持ちたいと思わない。今ある権力を打倒して、自分たちが権力を握ろうという問題提起ではない。権力の問題は一切口にしない。そうではなくてその共同空間を形づくる社会運動の多義的な存在によってどれだけ豊かな空間がつくることができるか。これは実際にやってみた上での試行錯誤でなければできないことです。
僕が確信的なアナキストになれないでいるのは、小集団の中での、小グループの中でのある種の権力なき一つの社会形態というのを夢想することはできるけれども、それが何万人になった時、何十万になった時、1億3千万人になった時、60億になった時、一体それがどういうふうに可能なのかということが、具体的には見えないからです。
だから、冒頭に触れた権力志向の社会主義の失敗を繰り返さないで、なお人類史的な夢を、資本主義に変わる夢を抱こうとすれば、そういう権力なき空間、権力を行使しない、非権力、無権力の空間がどのような社会関係の中でできるのかということを、困難な課題として追求するしかないだろうと思います。
サパティスタに触れる時間がきわめて短くなりましたが、そのような意味において、サパティスタの持つアナキズム的な志向との共通性を感じるが故に、これからも注目し、何らかの発信を続けていきたいと思っています。彼らの蜂起から22年経ちました。いま彼らは対外的な発信をかつてほど頻繁には行っていません。蜂起から22年経ったということは、蜂起以降生まれた人たちが20歳を過ぎつつあるということです。自分たちが自主管理している共同体の内部で、教育や医療や生産、そうしたものをどのように可能にするのかという内部の問題が重要な時期にさしかかっているからです。いったい何十万人が自主管理区に暮らしているのかを彼らは明らかにしていません。法律的には、サパティスタも政府軍も武力を行使しないという取り決めがあるので、それをメキシコ政府が犯さない限りは、サパティスタは自分たちの管轄地域を維持することができるのです。それは、いわば「持久戦」ですから、なかなか困難な時期を迎えているとは思います。
世界的に見て、左翼はなぜ敗北したのか。この状況下にあってなお、世界秩序の変革を志すためには、何が必要なのか。サパティスタは、それに対するひとつの応え方を示しながら存在しているのだということを繰り返し述べて、終わります。

(2016年9月17日)
(おおたまさくに・民族問題研究、シネマテーク・インディアス)

在日朝鮮人の運動との〈接点〉をたどる ━ 山さんと一緒にやったこと

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第4回

平野良子(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)

池内 今日は、「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」の平野さんに「在日朝鮮人の運動との〈接点〉をたどる」というテーマでお話をうかがいます。
山岡さんは、船本洲治の思想を凝縮して「流動的下層労働者と被植民地人民との闘いの水路構築」という路線をうちたてるのですが、それに沿って、在日朝鮮人はなぜ「在日」でいなければならなかったのかという問題を含めたかたちで、下層労働者問題について考えていたと思います。
日本の戦後政治史での大きな転換点といわれる「55年体制」(自民党の保守合同、社会党の左右統一、春闘という経済闘争への一元化)は、実は在日朝鮮人の社会にも連動していて、前年(1954年)の朝鮮労働党による「海外公民規定」などを経て、大雑把にいって、在日朝鮮人たちは南の民団(在日本大韓民国民団)と北の総連(在日本朝鮮人総連合会)の2大民族組織に振り分けられてしまう。
ただ、「北」と「南」に分かれたといっても、実際にはそうした組織からこぼれ落ちる人もたくさんいるわけで、寄せ場や飯場にいて、そこから働きに出る人の中には在日朝鮮人もかなりの数がいると思います。もちろん寄せ場には、在日朝鮮人だけではなく、日本人の農村出身者や炭坑出身の労働者、あるいはウチナンチュー、シマンチューも、それぞれの事情を抱えて流れて来ている。けれども在日朝鮮人の場合は、かつて日本が朝鮮を併合し植民地化していたこと、そして多くの朝鮮人に対して強制労働を含めた徴用をしてきたという過去があるため、寄せ場で運動を進めていくと、どうしてもその問題にぶつからざるを得ない。今日の話にはそうした背景があります。
先ほど、平野さんのことを「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」というところに所属されていると紹介しましたが、まず平野さんご自身の在日朝鮮人問題との出会いと、「支援連」の活動、そして寄せ場との関係についてお話しください。

◆…◆…◆

平野 今日、みなさんに配布されたチラシのわたしの肩書に対してちょっと奇異に感じられた方がいらっしゃるんじゃないかと思います。今ご覧になった映画『山谷やられたらやりかえせ』あるいは監督の山岡さんと「支援連」とどういう関係があるのかと。それは追々お話しするとして、わたしもこの肩書で話をするのは本当に久しぶりで、この前はいつだったか忘れちゃったぐらいです。でも、今でも週に1回は「反日」の獄中者の一人に面会するため東京拘置所に通っていますし、地を這うような長い、長い、救援活動はずっと続けています。
在日朝鮮人問題との出会いということで言いますと、きわめて個的な体験からでして、それは大島渚監督の『忘れられた皇軍』というテレビドキュメンタリー(このドキュメンタリーは1963年に放送されたもので、その時点で観たわけではないのですが)について、『日本読書新聞』という書評紙に、宮田節子さんという朝鮮史の研究者の方が書かれていた記事を読んで、その事実に大変衝撃を受けたからでした。
今の若い方は、その姿を見たこともその光景に遭遇したこともないと思いますが、わたしの子どものころは、街頭や駅前、あるいは電車の中で、白衣を着て兵隊さんの帽子をかぶった、目が見えなかったり、片手片足をなくしたりといった人たちが献金を乞う姿をよく見かけました。当時、「傷痍軍人」と呼ばれていた人たちです。わたしが、そのドキュメンタリーのことを知って衝撃を受けたのは、そこに登場していた十数人の傷痍軍人が全員在日朝鮮人だってことを知ったからでした。と言うのは、先ほど池内さんも言ってたように、戦前日本は朝鮮を植民地にしていて、朝鮮人は「日本人」として扱われていたんです。朝鮮の人たちの現実は、言葉を奪われ、土地を奪われ、あらゆるものを奪われて、しかも成年男性は「日本人」として徴兵され、戦争に駆り出されたわけです。その結果、戦死した人も沢山います。負傷して帰還した人も沢山いました。けれども、その人たちは、戦後、もはや「日本人」ではないという理由で、日本政府は何の補償もしなかったのです。その人たちは、祖国の韓国政府にも訴えたのですが、それは日本の統治時代に施行されたものなのだから、日本が当然補償すべきものだと応じなかった。つまり、どちらの国の政府からも補償を受けられなかったわけです。
わたしは、『忘れられた皇軍』というドキュメンタリーで、その問題を初めて知って本当に驚きました。知らないということは本当に恐ろしいことだと思いました。そしてこれが日本という国はなんて駄目な国なんだろうと思った、最初の体験でした。そしてわたしは、この問題を知ったことがきっかけとなって、もっと朝鮮のことを知りたいと思うようになり、友人と学習会を始め、朝鮮の歴史などを勉強することになったのです。
その頃のことなのですが、わたしは1975年5月19日付の新聞で、前年8月30日に起きた三菱重工ビル爆破事件の容疑者として「東アジア反日武装戦線」を名乗る8人(1人は逮捕されてすぐに自殺しているので、実質的には7人)の人が逮捕されたという記事を読みました。この事件では、8人の死者と二百数十人の重軽傷者を出しているということもあって、容疑者たちに対して凄まじい批判が浴びせられていて、報道も然りだった。わたしはその時まで、「東アジア反日武装戦線」という組織について全然知らなかったのですけれど、あまりにも報道が酷いものだったので、容疑者とされた人たちは一体どういう人たちなのだろう?と逆に興味がつのり知りたくなったんですね。
たまたま「東アジア反日武装戦線」の救援会に関係していた知人にもらったパンフを読んで、三菱・三井といった財閥が明治時代から政府の後押しを受けて、武力による朝鮮や台湾への植民地侵略に加担していった〝死の商人〟であり、鹿島・大成・間組などのゼネコンは朝鮮人・中国人を強制連行したり徴用して、過酷な労働を強いたうえ多くの労働者を殺してきたということ、つまり、事件の動機は、日本が植民地支配に対する責任を全くとっていないということに対する警告と、また、それがアジアの人びとに対する日本人としての自分たちの責務だということ、そういう思いで起ち上がったのだということを、わたしは知ったわけです。彼らの闘いの方法には必ずしも賛成ではなかったけれど、問題意識には非常に共感するものがありました。
新聞報道などから極刑・重刑が予想され、日本の国家に彼らを裁く資格があるかという思いもあって、彼らのことがとても気になったわたしは、1977年6月頃、救援会の事務所を訪ねました。来年で40年になりますけれど、わたしはその時から救援活動にかかわるようになったのです。
池内 逮捕された人の中には黒川芳正さんという人がいて、彼は山谷で支援活動をやっていたのですが、それはご存知でしたか。
平野 知りませんでした。
池内 山岡さんのことに話を引き付けたいのですが、山岡さんはたぶん60年代の末に北海道から上京してきて、山谷や釜ヶ崎に入っているんですね。そして72年に山谷で現闘委(悪質業者追放現場闘争委員会)を仲間たちと作って激烈な闘争を始めている。しかし間もなく沈滞期に陥っています。そして今、平野さんがお話になった75年5月に「東アジア反日武装戦線」のメンバーが一斉逮捕された、その直後の6月25日には船本洲治さんが沖縄で焼身自殺をしている。それから4年後の79年6月9日には、磯江洋一さんが「船本さんが亡くなって5年目を黙って迎えることはできない」と単身決起して、山谷のマンモス交番の警官を刺殺しています。もちろん、船本さんも磯江さんも、山岡さんとは寄せ場の闘争において同志的な関係の間柄だった。
この磯江さんの単身決起後、「6・9闘争の会」というのが作られ、しばらく沈滞していた山谷の現場闘争が再開されてくる。その頃、山岡さんや「6・9闘争の会」の人たちが平野さんたちのところに相談に行っていますよね。その相談の内容ってどういうものだったんですか?
平野 磯江さんが単身決起された1ヶ月くらい後だったかなあ、「6・9闘争の会」の人たちがわたしたちの救援会の事務所にやって来て、「あなたたちは救援のノウハウを知っているのだから、磯江さんの救援もやってほしい」と依頼されたんですね。でも、その時、わたしがちょっとムッとしたのは、「オレたちは救援の会ではなく、闘争の会なんだ」ということを強調していたことでした。これを言ったのは、もう亡くなりましたけれど南さんという人でした。南さんはお酒を飲んでいて、いい調子でよくしゃべる人だった…(笑)。でも考えてみれば、一緒に闘ってきた大事な仲間である船本さんを失い、翌年に鈴木国男さんが大阪拘置所で殺され、今度は磯江さんが敵の手に捕えられるという無念を思えば、南さんがとてもシラフでは語れなかったのだろうという気持ちもわかりますけど。
池内 救援会の事務所はどこにあったんですか?
平野 南千住です。「6・9闘争の会」の事務所も同じ町内のすぐ近くで、いわばお隣さんでした。
池内 山岡さんはその場にいたんですか?
平野 いたと思いますけれど、山さんはあんまりしゃべらない人でしたね。わたしがその時ムッとしたのは、彼らのなかに「闘争の会」に対して「救援会」を下に見てる感じがあったからなんです。でも言わせてもらうと、「反日」の救援活動というのは、そんな生易しいものじゃなかった。彼らは東京拘置所に移されてから分離公判に反対したり不当な処遇に抗議したり、獄中闘争を果敢に展開し始めて、それに対する弾圧もすごかったし、77年の夏までは接見禁止だったから、獄中―獄外の意思疎通を図るのも大変でした。まだ地下に潜って逃げていた人たちもいたので、救援活動などをやっている者は残党じゃないかと権力側は思っていたんでしょうね。だから、電車に乗ると公安が必ず付いてくるし、何か起きると事務所も自宅アパートもガサ入れ(家宅捜索)された。職場や友人、親元にも公安がうろついていた。そういう日々緊張状態の中でやっていたんで、救援をそんなに甘く見てもらっちゃ困ると、わたしは強く思いましたね。それが山さんたちと最初に会った時の印象でした。
池内 不幸な出会い?――で、結局、どういうことになったんですか。
平野 その年(79年)の11月に「反日」の人たちの一審判決があったのですが、大道寺将司、片岡(益永)利明くんの2人が死刑、黒川くんは無期、荒井まり子さんは何もしてないのに懲役8年といった予想通りの極刑・重刑判決だった。さっき池内さんが言われたように、黒川くんは以前、山谷の支援として「底辺委員会」というところで活動していて、山さんも知っていたし、他にも何人か山谷にいたことがある人がいたので、抗議集会を山谷でやってくれないだろうか、と今度は逆にわたしの方から「6・9闘争の会」に頼みに行きました。そしたら「いいよ」ということになって、その年の12月に「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃に抗議する集会」を南千住駅近くの荒川第2出張所でやりました。そして、79−80の越年・越冬闘争に参加したのが、わたしの山谷との関わりの始まりでした。
池内 平野さんは、そういう流れで山谷に関わるようになったことが分かりましたけれど、その一方で79年10月から11月にかけて韓国で起きた「南朝鮮民族解放戦線」(南民戦)という組織のメンバー80人が逮捕・拘束されるという事件の支援と救援にも関わっていますよね。ちょっと当時の韓国の政治・社会状況に触れておくと、同時期に釜山や馬山で市民・学生が中心になった反独裁・民主化の大闘争が起きている。その渦中の10月26日には朴大統領が側近に射殺され、ソウルでは学生たちが決起して大反乱が起き、それが光州の蜂起につながっていくという、そういう非常に激動の時代だった。そんな状況下で「南民戦」という組織の弾圧も起き、平野さんはその人たちへの支援・救援組織を作って積極的に活動していくわけですね。
どういうきっかけで、その会の立ち上げから関わるようになったのですか。
平野 これも「反日」の時と同じように、新聞の記事を読んで知ったのがきっかけです。
池内 それって一般紙に載りましたっけ?
平野 あ、それは韓国の新聞です。日本の新聞じゃありません(笑)。わたしは当時習っていた朝鮮語の先生を訪ねて74年に初めて韓国に行ったのですが、その時に食事に入った店で、わたしが「朝鮮」という言葉を使ったら、「韓国では朝鮮って言葉を使うのはダメですよ」と忠告されたんですね。それなのに韓国の新聞で報じられた「南朝鮮民族解放戦線」の人たちは、「朝鮮」という語を堂々と使っている。なんて無謀な人たちなんだろうと、その組織名と人数の多さを見て衝撃を受けたのを覚えています。韓国の弾圧史上でも未曽有の事件でした。起訴されたのは73人でしたが、その経歴を見ていくと、あのすさまじい朴軍事独裁体制に対してさまざまな持ち場で民主化闘争を担い、また韓国の都市・農村の底辺でしいたげられた民衆とともに働いてきた人たちで、79年の夏以降、民衆の激しい抵抗闘争に恐れをなした朴政権が一網打尽にしようとしたことがわかってきました。
「これはなんとかしなくちゃ」とわたしを突き動かしたのは、「反日」のときと同じように「この人たちを闇に葬らせてはならない」「この人たちとつながっていきたい」という直感のようなものだったと思います。「なんとかしなくちゃ」と言っても「反日」の方もこれから控訴審という大事な時期で手を抜けない。実は「反日」の救援会は、81年の初めに「支援連」に移行してから若い人たちが次々と入ってきて支援体制も広がってきていたので、その人たちに任せてわたしは88年12月に「南民戦」の人たちがすべて釈放されるまで、その救援運動を続けることになりました。「南民戦」事件では、死刑判決を受けた2人のうち1人は処刑、1人は獄死、釈放直後に1人が病死という犠牲を払いましたが、この救援運動を通して学んだことはとても大きかったと思います。
「反日」の救援からは一時退いたとはいえ、獄中の彼らの刑が確定して若い人たちがそれぞれの場所に戻っていったら、私はここに戻ってくるつもりでした。実際、87年3月の確定判決から来年で30年になりますが、わたしは今も彼らの救援の場に立ち続けているし、80年代に全国から集まってくれた当時の若い人たちとは今もニュースなどを通じてつながっています。
池内 「南民戦」の活動にも、山岡さんは強い関心を持っていたようですが、その時に山さんと何か話をしたことがありますか。
平野 あまり話した記憶はないけど、山さんはいつもいるべきところにちゃんといてくれるという安心感はありました。判決に抗議するハンストをやってると、いつの間にか山さんがそこに座っているということがよくあったし、パネルディスカッションのパネリストとして発言してくれたこともありました。山さんとは、そういうふうな関わりでしたね。

◆…◆…◆

 池内 81年に「在日朝鮮人獄中者救援センター」というのを、平野さんは山岡さんたちと一緒に立ち上げていますが、そのことを。
平野 わたしが在日朝鮮人運動、あるいは韓国の反体制運動にかかわって、山さんと一緒にやったのは、さっきの「南民戦」救援会と後で触れる「解放を求めるアジア民衆の会」、そして「在日朝鮮人獄中者救援センター」ですが、わたしが今日、一番話したいのはこのセンターのことです。ちょっと乱暴な括りになるかもしれませんが、「南民戦」救援会も「アジア民衆の会」も広い意味で日本が犯してきた歴史的・現在的な責任を問う運動の一環だったのに対して「在日朝鮮人獄中者救援センター」はそういう運動の側面を持ちつつも、「誰とともに」「どういう運動をつくるのか」がリアルに鋭く問われていました。そこで体験した「失敗の教訓」は今の運動にも必ず生かされるはずなので、あえてお話ししたいと思います。
70年代終わりから80年代にかけてという時代は、三里塚闘争とか爆弾闘争、あるいは山谷の闘いで逮捕された人たちが、警察の留置場や拘置所に数多く勾留されるようになり、もともとはほとんどが一般刑事犯で占められていた留置場や拘置所内で相互に交流する機会が増えたんですね。そうした中で「獄中者組合」が作られ、「氾濫」という機関誌も発行されるようになりました。これは東京拘置所の例なのですが、刑事犯と政治犯とは扱いが違うんです。例えば、刑事犯には筆記用具を房内で所持することは認められていなくて、手紙を書く時などはいちいち看守に申し出てボールペンなどを借り、別室に行って書かなければならない。そういう規則があった。獄中者組合の当局に対する最初の要求というのは、「筆記用具の房内所持を認めろ」ということだった。そういうことから政治犯と刑事犯との交流が生まれました。
1975年10月24日付の「氾濫」に、在日朝鮮人のH・Pさんが「日本人にとって朝鮮人とは何か? 答えられるなら答えてください」という問いかけをした一文を寄稿しています。その文章の最初の部分を紹介します。

「私はちょうど30歳になりました。その間前科3犯になり、獄中生活も7年を越し、現在約5年の一審判決を加えると12年にも達します。無期刑を区切ってつとめているのと何ら変わらないのです(彼は「とびとび無期」という言葉を生み出した)。私の事件の現出した部分のみを見るならば、労働意欲の全くない、遊興費ほしさの、極悪非道な犯罪かもしれない。しかし私の犯罪の包含しているものは、これまでの民族差別による歪められた人間形成=日本人社会への反抗=罪悪感を抱かないという感情を持つ人間に形成されたこと、このことが諸悪の根源であると考えられるのです。…」

つまり、このH・Pさんの文章は、いかに幼少の頃から日本人に虐められ、差別されてきたかということを述べているものであり、そのことについて「お前ら日本人はどう思うのか?」と問題を突き付けているのです。
この文章を読んだ「反日」の獄中者で浴田由紀子さんという人が、「私たちの闘いは差別・抑圧された朝鮮人をはじめとする下層人民に届いていなかった。あなた方と合流できるよう闘い続ける」という手紙を次号の「氾濫」に書いている。
そしてこの浴田さんの手紙に応え、H・Pさんは「闘いこそ出会いの時を作る」と題して概略次のような返事を寄稿している。「…誰もが冷たいと言って渡れなかった川……水際でバシャバシャと水を浴びることによって、朝鮮問題をはじめとして、他の被抑圧民族のこともやりましたという『左翼』としての洗礼を受ける日本人と違い、体を張って渡ろうとした。いや、今ははっきりと渡ったと言える。渡ったんだ。その河を渡って体の濡れた者に『冷たかったでしょう』という言葉はいらないと思う。だまってその濡れた手足を拭き、凍っている手足を温め、〈さあ、一緒に撃とう〉という行為だけが必要なのです」。
わたしは思うんですけれど、H・Pさんが自分の主張、訴えを正面から受け止められた経験というのは、おそらくこれが初めてだったのではないかと思うんですね。
H・Pさんが出獄したのは、たぶん80年だったと思いますが、彼は出て来てすぐに「在日朝鮮人獄中者救援センター」を作りたいと、仲間たちに呼びかけて立ち上げるんですね。その動機には、出獄者に対して、これは日本人の出獄者に対してもそうなんだけれど、特に朝鮮人の場合はもっと根源的な差別があるので、出獄後まず就職が難しく、生きて行く術がないという問題があります。自分自身がそのことを経験してきているので、同胞の出獄者がそういう大変な経験をしないですむように、アパートを借りて、そこで靴製造の作業所を開く準備を始めた。仲間が出てきたら、手に職をつけさせて、何とか生きる術にしようという思いからでした。
池内 「救援センター」を作った理由の1つには、出獄者が社会に復帰してから再犯を起こさないような状況を自分たちで作っていこうということですね。そのことについて、山さんとその辺の具体的な話をしたことはありますか。
平野 これはわたしも本人から直接聞いた話なのですが、「シマンチュー」と呼ばれていた奄美大島出身のMさんという獄中者がいました。彼は幼い頃、家族と共に沖縄本島に移住しているのですが、沖縄でも「大島、大島」と言われて差別されていた。それでヤマト(日本本土)に集団就職するのですが、そこでも差別を受けた。そういう生い立ちをしたMさんが、どういう犯罪を起こしたのかは分かりませんが刑に服す。そして出獄するとすぐにまた犯罪を起こして再犯で入獄します。その時に山岡さんと出会うのですが、Mさんに山岡さんが送った手紙が残っていて、その手紙が山さんが殺されて10年後に刊行された遺稿集『山谷 やられたらやりかえせ』に収められているんですね。その手紙の抜粋をちょっと読みます。

「山谷の労働者は、よくグウタラな、怠け者と言われます。しかし、山谷で暮らすと、そうしたレッテルでは、山谷の事を何も語っていないことを身に沁みて解ります。山谷の人間は、政府の農業・産業政策によって、農業を捨て、炭鉱から追われた人たちであり、また日本の大資本によって海や土地を奪われた沖縄やアイヌの人たちであり、更に戦前・戦中日本帝国主義の植民地支配によって日本へ出稼ぎに来ざるを得なかったり、人間狩りの強制連行によって日本の飯場や工場・鉱山へぶち込まれ、日本の敗戦後もいろいろな事情で帰国できなかった人たち等によって、山谷―寄せ場の住人は構成されています。ということは、寄せ場の人間にとって、帰るべき所を奪われているか、帰るにも帰れない事情が、必ずあるということです。Mさんにも、そうした事情があると思います。自分の力だけでは、どうすることもできない事情です。そして、このことは寄せ場の人間に共通する問題ですので、この問題こそ、私たち弱い立場の者を結びつける要素であると考えます。」

山さんは、こうした考え方を持っていたからこそでしょうが、「在日朝鮮人獄中者救援センター」の会議などには必ず来ていました。
池内 センターでは、張明秀さんの強制送還阻止の闘いを、山さんと一緒にやられました。
平野 そう。センターの発足当初の取り組みは、朝鮮籍の張明秀さんの韓国への強制送還を阻止することでした。在日朝鮮人2世の張さんは、松本少年刑務所に8年、大村入管収容所に5年近く収容された上、その「犯罪歴」のゆえに、本人の意志に反して、全く生活基盤もなく、命の危険さえ伴う韓国に強制送還されようとしていました。ここには2つの大きな問題があります。その1つは少年法該当者に対する苛酷な措置だったこと、もう1つは張さんが「法126号」該当者だったことです。「法126号」というのは、日本の植民地時代から在留する朝鮮人の中で、戦後処理の曖昧さとして、「別の法律で定めるまで」在留資格と期間を定めずに在留できるという「例外規定」です。126号の子孫(張さんもそれに当たります)には明確な在留資格が与えられていないために、細かな「退去強制理由」を盾に絶えず国外退去の危険にさらされてきました。張さんは地元が静岡で、入管の管轄は名古屋だったので、仮放免後の毎月の出頭時には東京からも応援に駆けつけて、入管当局と粘り強い交渉を重ねた末に、83年の10月に張さんの強制送還は阻止できました。それがセンターの取り組みの大きな成果の1つです。

◆…◆…◆

 池内 83年というと、その間に山岡さんは「日雇全協」(全国日雇労働組合協議会。82年6月結成)の結成に尽力している。先ほど平野さんが紹介してくれた山岡さんの「Mさんへの手紙」でも分かるように、山岡さんは、寄せ場が置かれている状況というものを考え、それとの闘いに専念していただけではなく、獄中者の救援についても強い関心を持っていたことが分かります。例えば「〈寄せ場―暴力飯場―精神病院―監獄〉を貫く闘いの陣形構築」と山岡さんは言っていますが、何民族であろうと、下層に置かれていると、この「還流構造」の中に巻き込まれやすい。特に在日朝鮮人の場合は、日本社会に抜きがたい差別があるので、その「還流構造」の中に流されやすいということがあります。
時間が無くなってきたので少し端折りますが、山岡さんは86年1月に殺されてしまうわけですけれど、その前年10月に「解放を求めるアジア民衆の会」という組織を立ち上げるための準備会をもっていますよね。「在日朝鮮人獄中者救援センター」からの流れと考えてもいいですか ?
平野 「アジア民衆の会」は、83年から国際基督教大学(ICU)に韓国から留学していた金明植さんの指紋押捺拒否からビザ更新不許可処分に対する反対運動に始まり、「アジア民衆法廷」をやろうというふうに発展していったもので、「獄中者救援センター」の流れとは(人的なつながりは別として)あまりつながってないんですよ。山さんは「民衆法廷」をとても積極的に考えていて、明植さんも交えてずいぶん討論を重ねてきましたが「民衆の会」結成集会の直前に殺されてしまったのです。
「在日朝鮮人獄中者救援センター」の話に戻ると、83年に内部の非常に深刻な事情により閉じざるを得なくなったのです。確かに山さんと一緒にやった活動なのですが、僅か3年くらいしかやらなかったことを、山さんと一緒にやりましたと言うのもすごくおこがましくて、躊躇するところもあるんですね。でも、こういうことがあったということも、今ではあまり知られていないだろうと思うし、ほんの僅かの期間だったとはいえ、寄せ場と繋ぐ試みをやっていたってことは憶えておいてもらってもいいかなとは思いますが。
池内 今度の「山さん、プレセンテ!」という集会には、平野さんだけではなく、今日も来てくださっていますけれど、山谷で山岡さんと一緒に闘っていた人たちにも加わってもらい、「総括」という大げさな言葉は使いませんが、自分たちが実際にやってきたこと、残したいこと、あるいは失敗したことなどを出来るだけ検証して、現在に繋げたい。若い人たちや、いま実際に運動をやっている人たちに伝える、というより、役に立ちそうなものがあったら勝手に持ってってね、という感じなんですけど…。
最後に平野さんが今日一番話したかったと言っている「在日朝鮮人獄中者救援センター」と、その後について、もう少しお願いします。
平野 さっき非常に深刻な事情でセンターを閉じざるを得なくなったと言いましたが、その要因にはH・Pさんがかなり深く絡んでいるんですね。彼は結果的に去って行ったわけですが、そのことを話し合った会議には、山さんはいなかったのですけれど、後から他の人から聞いた話ですと、「平野さんがいるから大丈夫だろう」と、山さんは言ったというんですね。
池内 あ、僕もそう思いますけど(笑)。
平野 H・Pさんを糾弾する会議になってしまった時、誰もH・Pさんの立場に立って弁護しなかったし、わたしもそういう発言はできなかった。そのことがずっと澱のように残ってしまった。実はその後、特に90年に山谷労働者福祉会館ができてから、わたしは直接労働者と向きあうことが多くなって、労働者から突き上げられるという経験もすることになった。それまでは山さんたちが間に立ってくれたのですが、その楯が無くなってしまったからです。会館ができると、ここでしか生きていけない労働者たちが常にその周辺にいるわけですよね。そうすると撤退することもできない。本当に身を晒すような恰好になった。労働者たちに叱られたりどやされたりもしました。そういう経験をして、はたと気づいたのは、H・Pさんは彼なりの立場で同様の経験をして相当重圧を感じていたんじゃないかな、ということでした。その時になって初めてそう思った。しかしH・Pさんは逃げるわけにいかなかったんですね。なぜなら彼は「在日朝鮮人獄中者救援センター」という組織の象徴的な存在だったからです。運動の中で活動家たちに期待されていたし、その期待に精一杯応えようとしていたから。
そう気付いて、わたしは初めてH・Pさんに大変申し訳ないことをしたと思いました。その後、わたしは、いろいろと模索してきたし、試行錯誤し失敗もしながらやってきたわけですが、運動というものは当事者がつくりあげていくものだ、本当に当事者が中心になっているのか、活動家が知らず知らずに押しつけてないか、そのことをいつも点検しなければダメだな、ということをずいぶん後になって気づかせてくれたのがH・Pさんでした。「在日朝鮮人獄中者救援センター」でH・Pさんに出会ったこと、そして一緒に活動をやってきたことが、今のわたしの活動にまだ不十分ではあるけれども糧になっているのかなと思っています。わたしは、そういう思いを実は山さんに話すことはできなかったのですが…。
池内 山岡さんにも、当然、そういう感覚はあったでしょうね。それに加えて、山岡さんにはもうひとつ、「階級」というものを常に考えていた。
平野 そうですね。わたしは直接山さんから聞いた記憶はあまりないんですが、遺稿集『山谷 やられたらやりかえせ』には随所に「根本の問題は〈階級〉だ」ということが出てきますね。それで思い出したんですが、この遺稿集が発行された日、山さんが殺されて10年目の追悼集会で反天連の天野さんがこう言ってます。「船本さんと山岡さんに共通する一連の流れの中で、いったい彼らは寄せ場の中で何を発見したのか、寄せ場に何をもたらしたのか、どういうことを実現しようとして動いたのかというと、寄せ場労働者の位置づけについて、その基軸的な価値観の転換をはかったんだと思う。(中略)マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』のテーゼに依拠して下層労働者をプロレタリアートと位置づけ、解放の普遍的主体としての流動的下層労働者という位置に問題を置きかえることによって、市民社会の中で下位に位置づけられているものをむしろ積極的な価値として打ち出した。そして下層労働者は組織されたり工作されたりする客体ではなく、自らの社会性と歴史性の中から(内側から)全体的に世の中を変革していく展望を見定めていく、下層労働者の差別されている肉体自身が一つの価値の源泉だという論理に立った」(「記録 山岡強一虐殺10年 山さん、プレセンテ! 追悼集会」より)。
ちょっと飛躍かもしれませんが、山さんはH・Pさんの提起と「在日朝鮮人獄中者救援センター」に、そんな展望をもっていたのかなと、天野さんの話を聞いて思いました。気付くのが遅すぎましたけど。
こういう機会をいただいて振り返ってみると、80年代前半は、わたしもずいぶんいろんなことをやってきたなと思います。時代がそうさせたということもありますが、やはり山さんの影響を抜きには考えられません。
池内 山さんは30年前に亡くなってしまったけれど、今も健在なら、世界情勢の変化の中で、山さんの「階級」に対する考え方も変わったかも知れない。まあ、誰とつながってゆくのかということですが。また、平野さんのような感性で運動を続けていることにも注目したでしょうね。人との付き合いでも山さんは抜群な温かさを持っていた人なので…。そういう点なども含めて10月の集会では考えてみたいと思います。

(2016年7月23日)
(ひらの・りょうこ/東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)

生きてやつらにやりかえせ ー 歴史・民族・暴力

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第3回

鵜飼 晢(フランス文学・思想)

昨年は船本洲治さんの没後40年でしたが、今年は山岡強一さんが殺害されて30年ということで、今秋大きな追悼の催しが準備されていて、「山さん、プレセンテ!」というこのトーク・シリーズもその一環であるとうかがっています。

私が司会の池内文平さんやこの映画の上映委員会の方々とお付き合いをするようになったのも80年代でした。この間にすでに亡くなられた方も何人かいます。そのことに同時に思いを馳せないと、今日のテーマは語れません。
あれから30年後の現在の時代は、当然のことながら30年前とはいろいろな点で違ってきている。その違いをどう考えるかということについては、この社会に一般に流通している言葉のなかには正しい認識はないのではないかと思っています。そういうもどかしさを抱いて生きている人たちが、今日のみなさんたちのように、『山谷−やられたらやりかえせ』という映画を観に来られているのではないか。つまり、この時代はどういう時代なのか、そのことを考える基準点みたいなものを求めてこの映画を観に来られているのではないか。だからこそこの映画の上映運動は、ずっと続いてきたのではないでしょうか。私は仕事柄教育にかかわっていますので、何世代かの学生たちに接してきましたが、そのなかの多くの学生が、どこかでこの映画を観ているのです。そんなことを背景に、お話させていただきたいと思います。

「テロル」が色分けできた時代
「生きてやつらにやりかえせ−歴史・民族・暴力−」というテーマでお話したいと思っているのですが、もう少し具体的に言うと、この「生きてやつらにやりかえせ」というスローガンが、今何を私たちに語りかけてくるかということを中心に話を進めたいと考えています。
今から30年前というと、80年代中頃のことですけれど、一体どんな時代だったのでしょうか? 例えば「まだソ連があった」と思う方がいるかもしれません。冷戦の最後の時期にあたっていたからです。今日のテーマに則して定義すると、私は「テロルの色分けがまだできた時代」と言えるのではないかと思います。つまり、テロルに<赤色テロル>とか<白色テロル>といった色分けができた時代だったということです。
「テロル」とは単なる情念の発露でも犯罪一般でもなく、基本的に政治的な暴力を意味します。過去2世紀ほどの世界のなかで「テロル」の歴史を振り返ると、まずフランス革命の「恐怖政治」に行き当たります。しかし、あえて言えば、この最初の「テロル」には色がありませんでした。ナポレオンの敗北に続く王政復古以降、反革命の報復が起きるのですが、その後期に<白色テロル>という言葉が使われるようになりました。一方、<赤色テロル>という言葉は、ロシア革命によってボリシェヴィキ政権を樹立したレーニンが、反革命派を徹底的に粛清した際に使われるようになった用語です。
つまり、<白色テロル>と<赤色テロル>という言葉が同時に使われ始めたわけではないのです。最初は<白色テロル>だけでした。現在、世界中で、被抑圧者の政治的暴力としてもっとも突出している現象は、30年前には、すでに<赤色テロル>とは言えなくなっていたでしょう。そして、<白色テロル>の方が、そういう呼び方はもはや一般になされないとしても、結局生き残っているのです。ここがまず、非常に重要な点ではないかと思います。
佐藤満夫さんと山岡強一さんの虐殺は、山谷の労働者たちの労働が収奪されている状況が、このドキュメンタリー映画によって広く世に知られることを恐れた右翼暴力団勢力による明白な<白色テロル>であり反革命の政治的暴力でした。
30年前には、もう<赤色テロル>といえるものは見えなくなっていたと言いましたが、それでも少なくともわれわれの想像力の地平には、<赤色テロル>を引き受ける思想や実践が、まだ存在はしていたのです。必ずしも「テロル」と観念されない「組織された暴力」は、私たちが学生の頃から多少なりとも関わってきた諸闘争の核心にあった思想でした。60年代まで遡れば、三派全学連によるヴェトナム反戦や安保・沖縄闘争にもそれは認められるし、67年10月8日のデモ隊と機動隊が激突した羽田闘争は、権力の側の絶大な暴力に、佐藤栄作首相の南ヴェトナム訪問に反対する学生・労働者の側の「組織された暴力」が挑戦したもので、まさにこの思想で闘われました。
69年から70年代前半にかけて登場した共産同赤軍派や東アジア反日武装戦線の人たちの武装闘争は――後者の方たちは<赤>ではなくて<黒>だと言われるかもしれませんが――革命的テロルの主体に自己を変革することに人生を賭けていて、まさに<赤色テロル>と定義できるものでした。しかし、こうした学生運動家を中心とした「テロル」の行使は、ほどなく鎮圧されたり自壊して、姿を消していきました。
その後、組織された政治的暴力が発現する場は、山谷や釜ヶ崎などの寄せ場や、三里塚空港建設反対闘争などに限定されていきます。80年代初めの釜ヶ崎では、「来たれ暴動の町へ!」といったビラが貼られていたことを想いだします。そのような言葉が若者たちの心を捉えていた、まだぎりぎりそのような時代でした。しかし、30年後の今日、社会運動の地平にテロルが存在しているかというと、少なくとも当時と同じようには存在していません。

私は1984年の秋からフランスに留学しました。今のようにインターネットで即座に情報が入手できる時代ではなかったので、山岡さんの虐殺を、パリの日本語書店で販売されていた週刊誌を立ち読みしていて知りました。そして非常に強い衝撃を受けました。
そのことがきっかけとなって、私は『山谷−やられたらやりかえせ』のフランスでの上映運動にかかわることになります。この映画の公開は紆余曲折の末、山形ドキュメンタリー映画祭のフランス版といわれる「シネマ・デュ・レエル」という映画祭で行われたのですが、監督が2人も殺された映画はこの作品しかなかったという特異性もあって大変注目を浴びました。上映会では、私がこの映画や2人の監督について解説役も務めました。映画はその後マルセイユでも上映され、この地でも反響を呼びました。
私は留学中ジャン・ジュネという作家の研究をしていたのですが、山岡さんの訃報を知った86年には、その年の4月にジュネも亡くなりました。ジャン・ジュネは『花のノートルダム』、『泥棒日記』などで知られる世界的な作家ですが、82年には当時イスラエルの占領下にあったレバノンのパレスチナ人難民キャンプで起きた民間人虐殺事件に遭遇し、「シャティーラの四時間」と題するルポルタージュを書いています。この文章を翻訳するということが、私の最初の仕事になりました。『インパクション』(51号 1988年)という雑誌に掲載されたのですが、この翻訳の「あとがき」に、私はこんな一文を記しています。「このささやかな作業を、日本の地で政治暗殺に斃れた人々、とりわけ佐藤満夫、山岡強一、(朝日新聞社阪神支局襲撃事件で殺された)小尻知博の各氏に捧げたい。」
この一文は、当時の日本で、<白色テロル>がしばしば行使されていたことを想起させます。今から考えると、その時期は、昭和天皇の「Xデー」(運動圏では昭和天皇の死去の日がそう呼ばれていました)が近づきつつある時期でした。おそらくそのことと関連して、右翼の側が非常に暴力的になっていた時期でもありました。新たな「Xデー」が近づきつつある今、そのことをしっかり想起しておかなければならないと思います。
1987年に山岡さんの追悼文集『地底の闇から海へと』が出版されました。そこで山岡さんがジュネの『泥棒日記』を読んでおられたことを知り、一層親近感を抱いたことが思い出されます。

『シャルリ・エブド』襲撃事件
30年後の現在、思想的には非常に異なる衝撃的な暴力事件が頻発しています。私は2014年春からフランスにいました。2015年1月7日に起きた『シャルリ・エブド』本社襲撃事件の時には、当日共和国広場で開かれた抗議集会に参加しています。ところが、その4日後に行われた「共和国行進」は、だいぶ色合いの違った官製集会に変わっていました。ご承知のように、この事件は風刺週刊紙『シャルリ・エブド』がイスラームの預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに端を発するものです。事件当日の抗議集会では、共和国の女神像に登って抗議のメッセージを掲げる人の中にファシストも加わっていたようで、私の周りには「ファシストは帰れ!」とヤジを飛ばす人もいました。また、若い人たちのなかにはフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌う者たちもいて、これに対して後ろから「ここで歌うのはおかしいぞ」とか、「インターナショナルを歌え」と叫ぶ声もあったりして現場は相当に混乱していました。
かつて『シャルリ・エブド』では、シネという伝説的な風刺画家が活躍していました。彼は新聞が親イスラエル的になり、同時に反イスラームの風刺に傾斜する時期に編集部から追い出されています。シネは先日亡くなりましたが、彼はジャン・ジュネの友人でした。この事件のあと、私はアルジェリアへ行きましたが、アルジェの国立美術館には、シネがアルジェリア戦争中に画いた作品が展示されていました。『シャルリ・エブド』紙にはこういう人が数年前まではいたのです。それが近年、急速に変質していった。1991年の湾岸戦争から、フランスの左派のドラスチックな崩壊が始まります。現在の『シャルリ・エブド』社は当時湾岸戦争に反対したグループによって再結成されたのであり、当時はまだ、抵抗の姿勢を示していたのです。この新聞の変質は、2001年の9・11以後、深刻になっていきました。この新聞は言わば、フランスの左翼全体の変質を、一歩遅れてたどっていったのです。
『シャルリ・エブド』に集った風刺画家たちにはそれぞれ独自の表現領域があって、みなが同じように攻撃的なイスラーム風刺に特化していたわけではありません。私は数年前まで『インパクション』という雑誌の編集委員をしていましたが、この雑誌には貝原浩さんという画家が天皇及び皇室のカリカチュアをよく掲載されていました。これが怪しからんということで右翼に襲撃され、編集委員のわれわれが殺されるという事態が起きたとしても、1961年の『風流夢譚』事件などを思い出せば、あながち想定外とも言えません。このような想定と通じる性格が、『シャルリ・エブド』社襲撃事件にあったことは明らかです。現にあの事件の後、「反天皇制運動連絡会」の友人は、街宣右翼から、「お前たちもああしてやる」と脅されたと聞いています。右翼からすれば、日本で『シャルリ・エブド』に当るのは反天皇制を掲げる左翼なのであり、襲撃者側に同一化してあの事件を見ていたわけです。彼らには彼らなりの筋があることを見落としてはならないでしょう。
当然のことながら、この数十年の米欧・イスラエルによる中東に対する侵略政策、そして現在のフランスでアラブ=イスラーム系移民及びその子弟が置かれている超差別的な現実については、話しだすときりがないくらい具体的な事例があります。『シャルリ・エブド』事件の実行者たちは、明らかに、この差別的なフランス社会と決着をつけることに人生を賭けた。そのこともまた、一方では事実です。
しかし、10年前には、差別的なフランス社会に対する抵抗は、都市郊外叛乱として表現されていました。2005年秋の郊外蜂起には、宗教的色彩は全くなかったことを思い出すべきでしょう。あの叛乱後も移民系住民の状況は何も変わらない。むしろどんどん悪くなっていく。当時の内務大臣で蜂起のきっかけとなった若者の死亡事件の責任者ニコラ・サルコジは大統領になり、フランス社会は一気に荒廃していきます。サルコジの再選を阻んだ社会党政権のもとでも、何も状況が改善しない。2014年という年は、何か起こらずにはすまないという予感が社会に充満していて、パリの空気は本当にピリピリしていました。そういうなかであの事件が起きた。人々は単純に衝撃を受けたというより、ああ予感されていたのはこういうことだったのかというような反応だったように感じました。
あの事件で殺された風刺画家の一人であるカビュは75歳でした。彼はアルジェリア戦争に徴兵され、軍隊のなかで反戦意識を持ったことがきっかけで政治的に自己形成した人物です。フランスでは左派のなかですらむしろ例外的な徹底した平和主義者で、反核兵器・反原発という思想を堅持していました。日本に来たこともあり、福島第一原発事故に心を痛めていました。そのような内容の晩年のインタビューが、亡くなったのち、ラジオで再放送されていました。
ベルナール・マリスという経済学者も同じ場所で殺されていますが、この人は『資本主義と死の欲動』というネオ・リベラリズム批判の著作を近年出していました。こういう人びとが、ことイスラームの問題になると、あのような差別的な風刺画を、意固地に擁護する立場を取っていたのです。
この新聞の編集長はシャブという風刺画家ですが、この人の座右銘は、「膝をついて生きるより立ったまま死んだほうがいい」というものでした。どこかで聞いたような言葉ですね。反対側の人たち、事件の実行者たちも、同じ内容の信念を抱いていたはずです。この事件は実は、このタイプのマッチョな性格の持ち主たちの意地の張り合いの果てに起きたという側面があります。事件に至る経緯については風刺画の掲載を合法としたフランスの司法の問題がもうひとつ重要ですが、話が逸れてしまいますので、今日はそこには触れないでおこうと思います。一言で言うと、私は殺された人たちについてもその思想の経歴をきちんと理解しようと努めるべきであり、襲撃の実行者たちの思想にも、できる限り接近したいという考えを持っています。
この事件についてパスカル・オリという歴史家は、「錆びついた無神論的無政府主義(『シャルリ・エブド』)と研ぎすまされた宗教的共同体思想(クアシ兄弟)の衝突」と評しています。共和国行進を高く評価するこの人の主張にはかならずしも賛成できないのですが、この形容そのものはけっこう本質を言い当てているのかなと思っています。ここからが今日の本題ですが、『シャルリ・エブド』襲撃の実行者たち、また11月のパリ6箇所同時襲撃事件を起こした人たちは、最初から死を覚悟している、むしろ死を望んでいるといってもいい。自爆攻撃を敢行する、あるいは治安部隊によって殺害されることを覚悟している。一言で言えば、死にに行っているわけです。ここが非常に重要な点で、というのも、アラブ=イスラーム世界では、彼我の武力の差が圧倒的だった独立戦争や脱植民地闘争、例えばアルジェリア戦争のような過程でも、政治的な自死は非常に稀だったからです。それはひとつには、イスラームでは基本的に自死を禁止しているからです。その禁忌が、80年代以降、急に解かれていった。これをどう考えたらいいのか。より苛酷な植民地時代にもなかったことがなぜ今急増しているのか。そういうことが問われているのではないかと思います。
その背景にイスラエル=パレスチナの抗争があることは間違いないし、自己の死と引き換えに敵に打撃を負わせるという戦術の歴史上画期となったのが、1972年5月30日、日本赤軍が行ったリッダ闘争、いわゆるテルアビブ空港乱射事件だったことも忘れられてはならないでしょう。イスラーム圏ではあのタイプの闘争は、それまではほとんどなかったからです。

〈殉教者〉とは何か?
『シャルリ・エブド』襲撃事件とは一体何だったのかと言うと、要するにこれは、預言者の仇を取るための復讐なのです。ユダヤ教では人間の復讐を原則禁止している。復讐は神がするものだとされているからです。キリスト教はさらに厳格に復讐を非難しています。イスラームでは復讐は一定の範囲以内では制度的に容認されていますが、基本的にはやはり禁止の方向です。それが今日のように自爆攻撃が常態化してしまったことについては、二つのポイントが考えられます。
70年代初頭、ハイジャックはプロパガンダのための戦術として闘争の歴史に現れました。当時のハイジャックは、飛行機を乗っ取り、自分たちの闘争の大義を宣伝し、人質にした乗客は指定した目的地の空港で全員解放し、そして飛行機は爆破して自分たちも逃走するというものでした。つまり、人は誰も傷つけないという配慮とともに練り上げられた合理的な作戦だったのです。今から考えると、なんと穏和な「テロリズム」でしょうか。よど号事件の時などは、実行者側との交渉に応じて、政府の要人が乗客の身代わりに人質になっている。なんとも牧歌的な時代だったと思わざるをえません。
ところが、その後世界の治安権力は、人質が取られても実行者側の要求は認めない、交渉などもってのほか、人質が犠牲になろうと「テロリスト」は抹殺すべしという方針を純化させていきました。1972年のミュンヘン・オリンピックの際のパレスチナ・ゲリラ「黒い九月」によるイスラエル選手村占拠事件以降、この傾向は一気に加速していきました。
9・11を見直すと、ご承知のように、この作戦はハイジャックした飛行機で直ちに目的が達成されるように構想されていました。ハイジャックした飛行機で、実行者が乗客を道連れに自爆をする。このような作戦は突然歴史に出現したのではなく、9・11に至る戦術の歴史があるのです。この30年の政治的暴力の性質の変化ということを考える場合には、このこともまた、思い出しておく必要があります。
2015年11月13日に起きた「パリ6箇所同時襲撃事件」は、サッカー場、コンサートホール、レストランなど、パリ内外で同時に展開された襲撃ですが、『シャルリ・エブド』襲撃よりもさらにいっそう自殺的な傾向は強まっています。「生きてやつらにやりかえす」のではなく「死んでやりかえす」、そのような傾向の政治的暴力の発動が、今世界で多発しているのです。ここで真剣に考えなければならない点は、そのことが自己にとって究極の行為であると実行者が観念している、その主体性の問題です。
イスラームには「殉教して天国へ行けば永遠の至福に与れる」という思想があって、それが自爆攻撃を助長しているという俗説がありますがそれは事実に反します。アラブ=イスラーム世界の抗争で自爆攻撃が頻繁に採用されるようになったのは80年代前半、イスラエル軍占領下のレバノンからです。イスラエル軍に対するものもあれば、レバノン内部の武装勢力間の抗争で劣勢の側が採用する場合もありました。ジュネの遺作『恋する虜』は彼の死後、1986年4月に出版されたものですが、そこには早くも、レバノンで起きた2人のパレスチナ人女性の「自爆」をめぐるエピソードが記されています。
最初は中東でこうしたかたちで出てきた周縁的な現象が、9・11以降、アフリカを含むイスラーム世界で全面化して今の状況になっていったのです。現在イスラーム世界では<殉教者>とは何かが厳しく問われ、非常に深刻な葛藤が続いています。 だいぶ前になりますが、パレスチナ自治区で2000年秋から始まった第2次インティファーダ(イスラエルに対する民衆の抵抗闘争)で殺された最初の100人の遺品展にかかわったことがあります。この遺品展のタイトルは「シャヒード、100の命」でした。しかし、この人たちはかならずしも闘争のなかで殺されたわけではなく、家のなかにいて誤爆によって殺された人も含まれていたため、はたしてその人たちも<殉教者>なのかどうかという論争が起きました。
一方、 現在の聖戦主義的な武装闘争、自爆攻撃を実行する人々のなかには、自分の意思で<殉教者>になれると信じている人が少なくありません。しかし本来イスラームは「神の道のために努力・奮闘すること」を「ジハード」と呼んできました。この「ジハード」という用語が、近年パレスチナ紛争や欧米との摩擦が高まるにつれもっぱら「異教徒」との闘いを指すようになり、やがて特に「自爆攻撃」の同義語になり、そしてこの「ジハード」によって命を落とした者が<殉教者>と呼ばれることになったのです。本来の信仰のあり方としてはみずから死を求めてはならないはずであり、「ジハード」のなかで天に召される者を選ぶのはあくまでも神であり、神に選ばれた者が<殉教者>なのですが。これは伝統的なイスラームがむしろ解体しつつある過程であって、「純粋な」「始源」のイスラームがこのようなかたちで復興していると見るべきではないでしょう。
私の友人に、マグレブ系の移民が多く住むパリ北郊外のサン・ドニという街で30年以上診療活動を続けているフェティ・ベンスラーマという精神分析家がいます。『イスラームにおける主体性の戦争』(2014年)という著書で彼は、イスラーム世界で自殺的傾向を募らせている人々はかならずしも「聖戦」志願者ばかりではなく、もっと広範な人びとが「自分は正しい生き方をしていないのではないか?」という深い不安を抱えていると指摘しています。そしてこうしたイスラーム世界における自死の観念の変容について、ベンスラーマは、チュニジア革命の発端となったといわれるブアジジーの焼身自殺の事例を挙げています。これはチュニジアの地方都市で行商を営んでいたひとりの青年が、ある日理由もなく自分の商売道具や商品を警官に没収されてしまい、それに抗議して警察署の前で焼身自殺を図った事件です。
かつてこのような事件はイスラーム世界ではまれでした。もちろん宗教的な動機による自死ではありません。イスラームの教義からすれば、自ら地獄に飛び込むような行為です。亡くなった当初、ブアジジーは、ムスリムの墓地に埋葬されることさえ許されませんでした。 しかし、実際には、まさにこの事件がきっかけとなって「アラブの春」は始まったのです。生と信仰から同時に離脱するという、非常に強い衝動を内心に覚えていなければ、とてもこんな行動はできません。独裁体制や社会の腐敗に対する批判への共感というだけではなく、ブアジジーを行為へと駆り立てた力に共鳴する人々が無数に存在しているということを、「アラブの春」は明らかにしたのです。伝統的なイスラームの聖職者たちも、宗教の戒律を破った自殺者だという理由でムスリムの墓地に埋葬させないということができなくなり、結局世論に押されるかたちで、ブアジジーは狂気に侵されたという口実で、ムスリムの墓地への埋葬を許可するにいたりました。このことについてベンスラーマは、このように言っています。「アラブ諸国民は自死の新たな高貴化の道、社会的大義の道を承認したのである。このことは<殉教>という観念を、さらに一歩その世俗化の方にずらすことになった。」
今アラブ世界では、こうした矛盾した動きが激しく衝突しているのです。イスラーム世界はけっして一方向に進んでいるわけではない。むしろこれまでの考え方がどちらからみても通用しなくなっている。そういう深い変容の時期にあるのだと思います。

「復讐」という観念
さらに、アラブ、アフリカでは、難民の問題も深刻化しています。「難民」と言っても、遭難のリスクを冒して地中海を渡ろうとするブラック・アフリカからの難民と、内戦で国が崩壊してしまったシリアからの難民とは、動機も事情もまったく違う。ただし共通項もあります。それはこれらの人々が、自国の現状のなかに、自身が存在する価値を見いだせないという認識です。そういう声が、自分自身の中に非常に強く響いているがゆえの決断だという点です。そこにはやはり、生と自国からの離脱をうながす、やむにやまれぬ衝動が働いています。このような難民の心理状態について、ベンスラーマは次のように述べています。「もはやこの生はお前に相応しくない、もはやこの生はお前に相応しくない……存在することの恥を逃れるために他に道がない人々の耳に聞こえているのは、超自我のこんな残酷な判決である」(…)。
2011年のアラブ世界の叛乱は、すべて尊厳と正義の要求を掲げて闘われたもので、「神」「宗教」「師」といった古来のビッグネームは、そのスローガンのなかに不在でした。革命はチュニジアなどでは半ば成就したけれども、その後の政治状況は混迷したまま今日に至っています。リビアなどは国がなくなってしまいました。にもかかわらず、そのなかに新しい芽も生まれてきている、そういう新しい芽を育てていこうとしている人びとが、どの国にも現れてきています。

もうひとつ考えておきたいこととして、聖戦主義者の闘いの理念、スローガンの中には「復讐」の思想が認められます。
「復讐」などという言葉を持ち出すと、現代の人々にはひどく野蛮な響きがするのではないかと思います。しかしこれもまた、この30年間の変容のひとつと考えなければなりません。1980年代でもまだ、「復讐」が即座に野蛮であるという立場を、私たちは取っていなかったはずです。端的に言って、「革命」という観念から「復讐」という要素を完全に抜き去ることは考えられませんでした。もっとはっきり言うと、「復讐」は、ほんの少し昔には、ひとつの崇高な理念だったのです。
私は当時日本にいなかったので正確には分かりませんが、佐藤さんや山岡さんが殺された後の「追悼集会」では、おそらく「同志は倒れぬ」という歌が歌われたのではないかと思います。そして、この歌の最後には、「いざ、復讐へ」という語句があったはずです。さらに古い事例として、中野重治の「雨の降る品川駅」という詩を思い起こすなら、あの詩の最後は「報復の歓喜に泣き笑う日まで」というフレーズで結ばれていました。中野重治などは日本の革命派のなかで最も非暴力的な思想の持ち主ではなかったかと思うのですが、そういう人でも「報復」という言葉を用いていた。「革命」の理念と「復讐」の観念は、これほど切り離し難いものだったということでしょう。

私はこの20年の間に何回か暴力の問題について真摯に考え直す機会がありました。実をいうと、私自身は性格的にそれほど「復讐好み」ではないと思いますが、理論的に大事な理念のひとつであると判断して、できる限り考えてみようと努めてきました。ニーチェによれば、人間の共同体は、「復讐」を通してのみ、まず集団的な平等の観念に達したのであり、平等という考え方自体が、長い年月の間の復讐の実践からしか生まれなかったものです。これはなかなか深い思想だと思います。つまり、人間は「復讐」によって、お互いに人間であるという認識に到達することができたという見方もありうるのです。なぜ「復讐」が崇高でありうるか、その理由はここにあるのではないでしょうか。
今の時代に、もう一度「復讐」の観念を往年のままに復権させようとしても意味がないことは重々承知しています。そうではなくて、「復讐」の観念に内在している大切なものを、暴力一般を否定する時代の傾向に抗いつつ救い出すことは、私は必要だと思いますし、できることだと考えているのです。
「復讐」の観念が平等の原則と不可分のものならば、それはけっしてなくなるはずはないし、抑圧しても歪んだかたちで繰り返し回帰してくるでしょう。歪み方が過剰になると、それはもはや「復讐」としてみなされなくなります。「復讐」を頭から否定していると、自分たちのやっていることがいよいよ分からなくなってくる。そういう回路に入ってしまうことのほうが、はるかに危険なのです。

〈革命的自殺〉
だいぶ長くなりました。最後にもう一点、私が、その意味を掘り下げてみたいと思っている言葉についてお話します。それは「闘いに命を賭ける」という言葉です。これはアメリカのブラックパンサー党の創設者の一人だったヒューイ・ニュートンという人が、『革命的自殺』(1973年)という著作でテーマにした理念です。
この本は彼の自伝的な著作で、BP党を結成した経緯などから書き進められています。それによると、この党は本来武装闘争を行うために結成されたわけではなく、抑圧され、虐げられていた都市部のゲットーに居住する黒人共同体を、自分たちの力で防衛するという明確な目的がありました。ところが1968年に非暴力の公民権運動指導者だったキング牧師が暗殺され、そののちニュートンたちは、武装闘争を主張するようになりました。
アメリカでは武器の所持が憲法によって保証されています。黒人である彼らも、この憲法の理念に則って武装したのですが、武器を携行した黒人の政治活動家は、体制にとってもっとも危険な存在とみなされ、警察の手で次々に殺されていきました。そうした事態を憂い、白人リベラル派からは「黒人が武器を持って街頭に出るのは自殺行為だ。止めた方がいい」という忠告を受ける。しかし、不当な弾圧に抗し、解放に向かって進み始めた黒人たちは、もはや聞く耳を持ちませんでした。その意思の思想的表明として、ニュートンはこう書いています。「<革命的自殺>というフレーズを鋳造することで、私は二つの既知のものを取り上げて組み合わせ、一つの未知のもの、新しい傾向のフレーズを作ったのであり、このフレーズのなかでは<革命的>という言葉が<自殺>という言葉を、異なる次元と意味を持つ、新しく複雑な状況に適用可能な思想へと変革しているのである。」
ひとたびコミットしたら長く生きることはもう望めない、そのような闘いに確信を持って参加すること、それをニュートンは「革命的自殺」と呼んだのです。フランスの社会学者デュルケームの説(『自殺論』)を援用しつつ、ニュートンは、アフロ・アメリカンの自殺の主要な原因が人種差別的な社会環境の圧力であることを指摘します。この圧力に屈し酒や薬に溺れて死んでいくことと、圧力を跳ね除けるために立ち上がり敵の弾圧を受けて死ぬこと、「箒で吐き出される」存在であることと、「棍棒で叩き出される」存在であることは同じではないと。「黒人がその名に相応しい生への欲求に突き動かされるとき、人間的尊厳を欠いた生活は不可能になる。」そう、彼は書いています。「生きてやつらにやりかえせ」という寄せ場闘争の理念と響き合う同時代の思想が、ここに息づいているのではないでしょうか。というのも、この「生きて」という言葉には、寄せ場の労働者の「革命的自殺」への強い傾向が、確かに踏まえられているように思われるからです。
ブラックパンサーの 「革命的自殺者」ということで、もう一人、ジョージ・ジャクソンの名を挙げたいと思います。彼は17歳の時にガソリンスタンドでほんのちょっとした盗みを働いただけで懲役判決を受け、その後の一生を牢獄で過ごすことになりました。彼は獄中でブラックパンサーになり、結局獄中で殺されてしまいます。ジョージにはジョナサンという弟がいました。ジョナサンは、兄の裁判の公判の際、折り畳み式の銃を隠し持って法廷に入り、判事たちを人質にとって兄の解放を要求し、結局射殺されてしまいます。
ジャン・ジュネは、このジャクソン兄弟の死について、次のような考察を残しています。
「ジョナサンがジョージに対して抱いていた尊敬が彼を兄の模倣へと向かわせたのだとすれば、ジョナサンが死んで、自由のなかで−ニュートンの表現を使えば、<革命的自殺>によって−死んで、今度はジョージがジョナサンに尊敬の念を抱いて、彼を模倣したいと欲するにいたったのだ。私たちが目にしているのは、おそらく、ジョージア・ジャクソン(ジャクソン兄弟の母)の二人の息子のこのように縒り合わさった尊敬であり、彼らは互いの力を得て、黒人意識と革命の契機になろうとしていたのである。」(『ジョージ・ジャクソンの暗殺』まえがき、峯村傑訳)
私はこれから、ジャクソン兄弟と『シャルリ・エブド』事件を起こしたクアシ兄弟の、深く重なり、遥かに隔たる、思想の旅をたどる作業を行いたいと思っています。

(2016年5月21日)
(うかい・さとし/フランス文学・思想)

2018年7月21日

船本洲治『黙って野たれ死ぬな』新版刊行 特別上映

黙って野たれ死ぬな!

1975年6月25日、沖縄の地において、「皇太子訪沖阻止! 朝鮮革命戦争に対する反革命出撃基地粉砕!」を叫び、日雇・下層労働者の解放のその日を確信して、炎に身をつつまれた船本洲治──享年29歳。かれは、寄せ場─流動的下層労働者の闘いの画期となる釡共闘─現闘委の運動をけん引し、発言し、ことばどおりからだをはって闘った。
焼身決起から43年、旧版から30数年をへて、船本の遺稿集『黙って野たれ死ぬな』があらたな編集と装いで刊行されることになった。旧版刊行当時、山谷の地で激烈に闘われた天皇主義右翼暴力団との闘い、そして今日へとつづく運動の磁場からいったん身をほどき、船本の生きてきた時代とかれの立場(思想)を、いま現在を生きる私たちひとり一人が自由にくみとり、未来につなぐ時が訪れたのではないか。ともに語らいあう場としたい。多くのご参加をおねがいします。

2018年7月21日(土)
午後4時〜(開場3:30)

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【第1部】 16:00〜

●映画『山谷 やられたら やりかえせ』
ドキュメンタリー/16㎜/カラー/1時間50分

【第2部】 18:15 ころ〜
●船本洲治の「今」を語る
中山幸雄(元・現場闘争委員会)
風間竜次(元・釜ヶ崎共闘会議)
小美濃彰(東京外国語大学・院生)
 … 他
●交流会 〜 22:30ころまで

■入場料 1500円(「第2部」のみは 500円)

会場 plan-B 中野区弥生町4-26-20-B1 (入り口は中野通り沿い) 地下鉄・丸ノ内線 中野富士見町 徒歩5分
予約・問い合わせ 「山谷」制作上映委員会  044-422-8079 090-3530-6113

◆船本洲治遺稿集刊行会 +(株)共和国 +「山谷」制作上映委員会 共同主催

2018年5月19日

plan-B 定期上映会

「搔き消された「声」に 耳をそばだてること」
お話し/ 細谷修平 (美術・メディア研究/映像作家)

東日本大震災による経験は、わたしたち(少なくともわたし)に、過去を省みることの必要を気づかせ、わたしたちは一層とその営みに意識的になったように思われます。過去の忘れられた出来事に向き合い、それとの衝突によって、集団の想像力が蜂起すること。わたしはそれを信じているようです。
 しかし8年目を迎えた今、資本主義はわたしたちのこうした気づきだけでなく、震災という出来事そのものを「ノスタルジー」として回収・消費し、2020年の東京五輪へと加速の一途を辿っています。国家による国民の歴史はいくらでもつくられるでしょう。それでは、人民による人民の歴史はどうでしょうか。
 今回は、わたしが関心を持って研究に取り組む60年代70年代の政治と藝術の動向、80年代の光州民衆抗争とそれへの呼応などを通して、記録の可能性/不可能性について、みなさんと考える機会になればと思います。

 映像メディアが氾濫し、ことばが軽んじられる現在においてこそ、「山谷」の上映会という「場」で対話と考察を深められればさいわいです。

2018年1月13日

plan-B 特別上映会

ジョーの詩を読む 「あさってのジョ—たちへ」

自称 “日雇完全解放戦士”川口五郎。ぼくらはみんな彼のことをジョーと呼んでいた。
川崎で<日雇い>の息子として育ち、釜ヶ崎で「鈴木組闘争」に遭遇。「コーチャン(船本洲治)の一番弟子」と語るときの、少しはにかみながらも誇らしげな表情を思い出す。過剰なまでの暴力性を売り物にしつつ、実はシャイで優しい男だった。彼の死から既に一年半以上もたった今、彼がかつて獄中で書いた詩集を再刊し、「追悼会」まで準備しているのは、その魅力のせいでもあるだろう。
「良くも悪くも “寄せ場” の活動家の典型であった(詩集掲載の追悼文より)」ジョーとは、あの時代の “寄せ場” が生んだ活動家だった。そこには幾人もの “ジョーたち” がいたのだ。
“寄せ場” が労働市場としての機能を失くしていき、「仕事に行けたら教えてくれよ と言って/様々な情報交換をする場所/俺達の社交場 井戸端会議の場所 (「寄せ場の朝」)」を失いつつある現在。ぼくらはあの、跳ね上がりながら、活き活きと動き回っていた “ジョーたち” と出会う機会をも奪われてしまっている。
「ジョー = 川口五郎 追悼」。ぼくらは彼の生きた時間や場所を、もう一度振りかえってみようと思う。まだ見ぬ「あさってのジョーたち」との出会いに備えて。

2018年1月13日(土)
『山谷 やられたらやりかえせ』上映

ジョーの詩を読む「あさってのジョーたちへ」
● 詩を読む 水野慶子/大谷蛮天門
● お話 元釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)メンバーから / 寿日労(寿日雇労働者組合)メンバーから
● 演奏 吉野繁