2009年2月4日・5日

国際基督教大学( ICU )上映会(4回上映)【日時/会場】

2月4日(水)・5日(木)
両日とも 午後1時~(大学本館367号教室)/午後7時~(ハーバーホール:ICU教会幼児園)
~午後3時頃より話+ディスカッションあり~
(話:4日=池内文平〔上映委〕/5日=濱村篤〔上映委・日本寄せ場学会〕)
【料金】
一般 1,000円/学生 500円
【問い合わせ】
0422-33-3323(国際基督教大学・宗務部)
(三鷹市大沢3-10-2)

都市のこわれかた-②68-08/新宿

「68年の神話」から遠く離れて――1960~80年代新宿の顕微鏡的階級地図

平井玄(音楽批評)

(レジュメ)
・ひび割れた「若者文化と世界革命の物語」のアスファルトを引き剥がすと
そこには、この街にへばりついて生きる人たちの砂漠が広がっていた。

・密林の戦争を体験し、反戦運動に加わった開高健は、「ベトナムで起きて
いるのは本当に人間の〈解放〉なのか?」と呟いて、高揚の最中の68年、
「ベトナムに平和を!市民連合」から静かに離れる。
『日本三文オペラ』で大阪の在日たちの地を這う抗いを描いた彼は、
「自由のため」と「民族解放」の名の下で国家と国家の間ですり潰される
南ベトナムの人々の姿を見ていた。

・だが作家は、「しょせん国家間戦争」と言いたかった訳ではない。
単線的な「発展」のヴィジョンに抵抗できない「社会主義」の下で、
より低い賃金を求めて中国から彼の地へ日本企業が急ぎ足で生産拠点を
移している今、開高のこの問いが鈍い光を放って浮かび上がる。
初期の南ベトナム解放民族戦線が「南」の雑踏に生きる実に雑多な人々に
荷われているのを、作家の眼は見る。そうした人々をあの闘いはいったい
どのように「解放」したというのか?

・68年の新宿で、16歳の新左翼活動家になる以前、2丁目の路地裏にある
洗濯屋の頼りない長男として生きていた「自分」とは誰なのか?

・「騒乱群衆にして地元民」という、なんとも奇妙な二重存在。
地場に生きる零細な自営業者の息子にとって「68年」とは何だったのか?
滅びゆく「旧中間階級」か、多少の家産にまどろむ小ブルジョワなのか?
解放されるべき「主体」たちは、どこか別の所にいたというのだろうか?
小さな家族労働の場に「後ろ髪」を引かれ続けた「自分」とは誰なのか?

・60年代後半に始まる都心の小自営業衰退とは、新自由主義による
シャッター街化の最初の兆候だった。
「自分探し」ではなく、フリーターとして生きる無数の「自分」たちの
現在に向けて「68年」を大きく切り開くために、こうした問いが現れる。

・支配文化になったサブカルチュア(小林よしのり、「嫌韓流」)と
最後のページが閉じられた新左翼運動史の語りから、
「68年」を解放すべき時が来ている。

・2本の映画と2つの小説を交差させる。
網走→五所川原   『初恋』小説・映画
永山則夫     中原みすず
↓        ↓
『無知の涙』→ 【1968年新宿】 ←佐藤満夫←新潟
小説『木橋』     ↑        ↓
2丁目の洗濯屋 →映画『山谷 やられたらやりかえせ』

山岡強一 山谷←北海道

・「3億円事件」を新宿のカオスから描いた『初恋』の主人公は、映画では
女子校の生徒とされる。しかし、校門から街への近さやジャズ喫茶の人々
が醸す雰囲気が、私に新宿高校の旧「同志たち」を直感させた。

・高級官僚や大学教授、文芸・思想誌の編集者、そして共産党幹部の家で
育った仲間たちの横顔に「余計者」めいた影が差す。伯父にもらわれた
私生児の語る小説は、パリに亡命した19世紀のロシア知識人たちが抱く
「余計者」の憂愁を描いたツルゲーネフの『初恋』を意識していただろう。
ジャズ喫茶こそ彼らの「亡命地」である。だが、私だけが極端に違っていた。
「亡命地」は地元であり、私は「余計者」ではなく「労働力」だったのである。

・洗濯屋の労働構造60年代から70年代への激変

【60年代の三層構造】
主人の家族  (私@新宿二丁目)
通いの職人
住み込み店員 (永山則夫@川崎の洗濯屋)

【70年代のプロレタリア化】
機械・資材産業→経営者家族全員の家内労働者化

・『初恋』の主人公たちは、「亡命地」から東芝・府中工場の現金輸送車を襲う。
永山則夫は「寄港地」としての新宿から、4連続「誤射」事件へ突き進む。
私自身は、家族労働の場としての2丁目の路地裏から全共闘へ向かう。
――いずれも新宿騒乱の近傍にいたが、中心にはいなかった。

・寄せ場は残酷な「本源的蓄積」の場所だった。
80年代の山谷への大きな迂回こそが、新宿二丁目の「自営労働者」として
の自分自身の姿を見出す道へと誘う。

・今起きていることは「100年に一度の大恐慌」ではない。
「終わりなき本源的蓄積」が中心部に回帰した姿である。
資本主義はリセットと再起動を何度でも繰り返す。
そして自営業の衰退とは、新たなエンクロージャー(囲い込み)の一環である
(ベルクの追い出し、下北沢の再開発)。

・80年代の民活法から、90年代の規制緩和―新自由主義、そして「再階級化」へ。
そして今、フリー・カメラマン労組の出現――自営労働者(フリーター)の運動へ
「素人の乱」が高円寺で店舗を始める――自助システムの模索へ

——————————————————————-

平井と言います。よろしくお願いします。レジュメを用意してきました。これを話すとたぶん2時間くらいになるんで、後でゆっくり読んでいただくとして、僕にとって大切な記憶が刻まれたこのplanB地下の壁からにじみ出るような話ができればと思います。

■……アスファルトを引き剥がす……■

いわゆる「68年」、1968年に世界中で若い人たちだけでなく、そして日本とかフランスとかの資本主義の発達した国だけでもなく、様々な場所で連続的 に色々な行動が起きて社会を変えようという運動があったことは、皆さんご存じだと思います。それから40年ということで映画もできれば本も出る。ヨーロッ パではシンポジウムが行われ、写真集みたいなものまで出ているようです。そういう中で、僕はこの時代についてちょっと特異なこだわり方をしてきたもので、 今日話せということになったと思います。この映画の上映運動が始まった頃、僕も微力ながら参加しました。このことが「68年以降」の僕の生き方に大きく影 を落とす。だから、そのことに関わって今日の話をしていきたいと思います。
今日ここに来る前に渋谷の勤労福祉会館で「フリーター全般労組」という非正規労働者たちの組合を中心とした集会がありました。シンポジウムを1時くらい からほとんど1日中やってるんですけども、その会を中座してこちらに来たということです。明日渋谷でデモがあります。麻生首相の家に向けて、松濤にある東 急Bunkamuraの奥の方に、なんかでっかい屋敷があるらしいですけれど、そこに向けてデモするようです。渋谷でつい1ヵ月前にそこに向かう歩道を歩 いていただけで若い人が3人捕まってしまいまして、それでリターンマッチみたいな感じでデモをする。今日はその前日の集会ということで行ってきました。
今ここに持ってきたチラシは、そこで配られていたものです。東京の品川駅前に「京品ホテル」っていう古いホテルがあるんですが、その経営者が60何億円 という負債をかかえこんでホテルをむりやり潰そうとしている、その策謀に抗議する組合のものです。リーマンブラザースという、ついこの間破綻したアメリカ の金融資本の系列会社に負債を払ってもらうために、再開発が進む一等地のホテルを廃業することを条件に5億9000万という金をもらう。そういう形で明治 時代から続いた3代目の社長が採算の取れているホテルを潰し、従業員を全部放り出してしまうというひどい話です。それに対して労働者たちがホテルを占拠し て、自分たちで営業している状態なんですね。使われている人間たちが働いている職場を占拠して、なんとか自分たちで食っていこうという運動で、僕には勇気 づけられる話が渋谷でありました。
もう一つ、フリーター全般労組でがんばっている人から聞いたことですが、これからフリーのカメラマンたちによる労働組合ができるそうです。フリーのカメ ラマンってどういう立場かというと、機材や材料費、交通費は全部自分持ちで、新聞や雑誌、テレビとかの取材企画ごとに一時的に雇われて映像を撮る仕事で す。だから自営業者なんですね、商法や税法上では。年度末の確定申告用書類では「自営業者」のところに丸を付けるという人たちなんです。まあ僕みたいな校 正のフリーターっていうのもそうなんですが、自営業者は古典的な言い方で「労働者か資本家か」といったら、かつては小さな資本家だとされてきた。つまり 「生産手段」を持っているから。ところが今や個人の小規模自営業って、どんどん技術進化が進むITの機材や設備を自前で借金して揃えなければ、まったく仕 事にならない。カメラとかパソコンとかソフトですね。だからクライアントだけでなくIT産業にも、なんの保証もなく時給いくらでこき使われるようなもんで す。こういう形があらゆる分野に広がったわけです。
今日どうしても話をしたいのは、1968年の運動、特に当時の新宿の街で起きたことの話になると……そこのレジュメに「若者文化と世界革命の物語」と書 きましたが、誰でも決まり文句のように言い出すことへの違和感です。今ここに、いらっしゃる皆さんの顔を見ているとたぶん20代から30代の方だと思うん ですけれども、当時は昼間から学生たちが溜まっている喫茶店で「世界革命」なんてことが会話に出てきちゃうような、たしかに不思議な時代ではあったんで す。映画や小説の中で、最近では歴史研究や文化研究においてさえ、そういうストーリーが語られてしまう。ところが、そこに「アスファルト」って書きました けれども、そういう物語を一回引き剥がしてみないことには、もはや1968年にいったい何があって、どんな可能性があったのかということが、見えなくなっ てるんじゃないか。40年たって、もはやその使い古された物語から身を引き剥がさないと、もう何かを考えていることにならないんじゃないかなと、僕は非常 に強く思っています。
今年「68年から40年」ということなんで、当時新宿をうろついていた「高校生」としてこだわってきたんだから、何か書けとか話せとか言われるんですけ ども、なかなかどうもねぇ。言いたいような言いたくないような、できたらやり過ごしたい気分なんですね。それはなぜかと言うと、あまりにもサブカルチャー と新左翼運動をめぐる出来合いの物語がべったりと貼り付いてるからなんです。そのアスファルトを引き剥がしたいと思ってます。ちなみに「アスファルトを剥 がすと、そこは砂漠だった」というのが、パリ5月革命の最中に現れた壁の落書きでした。もう一度、それをやってみたい。
さっき自営業者をめぐる話をしたのは、僕自身が「新宿二丁目」という変な所で生まれたからです。つまり江戸時代の甲州街道沿いにあった岡場所(塀のない 街道筋の買売春地帯)から始まって、その裏の沼地に移動して遊廓になり、そして戦争を挟んで赤線、青線に、70年代後半にはゲイの集まる街になったのが、 現在の「新宿二丁目」でした。そこで長年営まれてきた洗濯屋に生まれ育った人間なんです、僕は。ちょうどこの時間、8~9時くらいからゲイの皆さんは通り に集まってだんだん賑やかになってきます。午前3時、4時くらいが一番最高潮で、毎日そんな状態ですね。土日の方がむしろ賑わうという、夜昼全く逆転した 街があそこに相変わらずあるわけです。たまたま、その真ん中にある自営商店の長男として育つんですね。このことが、僕に「1968年」に対して人には分か りにくい奇妙なこだわり方をさせたんだ、と最近になってようやく腑に落ちるようになりました。
というのは、その68年の新宿で10月21日ですから秋の夜に、いわゆる「新宿騒乱事件」が起きた。10万人くらいの大群衆が東口駅前に集まる。ベトナ ム戦争で使われるジェット燃料を立川基地に運ぶ列車が通っているのを阻止するために集まった活動家たち。そこまでかっちりした組織には加われないけれど、 何か黙ってはいられない学生や工員やサラリーマンたち。さらにその周りにどこからか湧き出るように雑多な人間たちが集まってくる。酒を飲みに来たりフラフ ラと遊びに来たりする若い男女の連中、いわゆる「野次馬」と呼ばれた人たちですね。「野次馬」っていうのは「付和雷同の無責任な暴民」みたいに当時の警察 や新聞は言ったけれど、むしろ何か言葉で言い表せない憤激と怒りを強く持った「中産階級」以前の「雑民」とか「下民」ですね。こういう雑多な人間たち、そ のたぶん誰も意図しなかった合力が、戦後最初に「騒乱罪」が適用される暴動となって爆発したわけです。
まさにこの年、機動隊に突き飛ばされながら花園神社の境内では唐十郎たちの「状況劇場」がテント芝居を打っていた。紀伊国屋書店本店の裏通りでジャズの ライブを演っていたピット・インでは、麻薬所持容疑で帰れないドラマーのエルヴィン・ジョーンズが日本人ジャズマンたちとセッションを続ける。そして明治 通りを挟んで伊勢丹向かいの新宿アートシアターでは、ゴダールたちのヌーヴェル・ヴァーグ映画がかかり、風月堂などの喫茶店には物書きやヒッピーたちが屯 する。世界にも稀なアンダーグラウンド文化の発信地だったと、最近では外国から驚くほど熱心な研究者たちが出現しています。それを目の当たりにした僕もと てつもない影響を受けてきたと思います。このことは既にいくつかの本の中で書いてきました。

■……首都中心部の「二重存在」……■

しかし、長い間僕自身が理解できなかったのは、自分が騒乱する側の人間でありながら、同時に物をぶち壊されたりするその街に住む地元民でもあったという ことなんです。親たちが毎日そこで働いて暮らしている。言葉で説明できない。それでも、この奇妙さにどうしてもこだわらざるを得なかった。というのは、た またまアパートを借りていたとかじゃなくて、そこが三代にわたって商売していた場所だったんですね。そのうえ「洗濯屋」というなんとも地場にへばりついた ような商売だった。その割り切れない「二重存在」……例えば、自分の通ってる高校では大げさなアジ演説をしたり、集会をやったり、あるいは街に出てもっと 大きな行動に参加するわけですね。何千人とか、時によっては何万人というレベルのデモがあり、そこで何かしら世界を変えるというような言葉の文脈に沿っ て、今思えば恥ずかしいことをやっていた。16歳ですからね。しかし、歩いて数分で自分の実家がそこにあるんですね。そこでは父や母たちが、家内制手工業 の小さな町工場のような洗濯屋をやっている。
このギャップというのは、当時16歳の人間にとってはどうにもならない。その当時、社会や世界の変革をめぐるいろいろな議論がありました。古典的なマ ルクス・レーニン主義から、もっとリベラルな立場、それから高級知識人的な西欧マルクス主義みたいなもの、それから「第三世界」を歴史的な動力とする考え 方まで、論議は世界中で沸騰していた。ところがいかんせん、こういう巨大都市のど真ん中の訳のわからない「二重存在」みたいなものを説明してくれる論理と いうのはどこにも、どんな本を読んでも出てこないんです。ですから、そのことを抱え込まざるをえなかった。
だからといって、じゃあ家業を継いで洗濯屋さんになれるかといえば、やっぱりなれないんです。とてもじゃないけど面白くない、あの街で自営業者をやるの は。でも目の前で親たちは苦労している。どんどん縮小していくんですね、当時60年代から70年代にかけての町場の洗濯屋っていうのは。小学生時代、50 年代終わりに7、8人の店員がいるそれなりの店だったのが、10年たって仕上げの職人さんが1人だけ最後までいました。その人もいなくなるという形で、家 族3人でやっている家族営業になるんですね。大きなチェーンのフランチャイズにならなければ生き残れない。都心部ではそういう小さな自営の洗濯屋はもう絶 滅しつつあると思います。
というより、あらゆる小自営業っていうのは絶滅寸前ですね。これは地方都市のシャッター街の話じゃない。首都の中心部で起きたこと。例えば、新宿駅の東 口地下にある「ベルク」っていう喫茶店が店として成り立っているのに追い出されるという今の事態につながっている。どこかのIT企業のエリートだったか、 竹中平蔵だったか、非効率で収益性の低い都心部の自営業者はあってはならない、絶滅するのは当然だ、というようなことを露骨に言ったらしい。まさにそうい う状態になってますね。
それで、40年たったからようやく見えてくることがあります。僕は1952年生まれですから68年に高校に入った時が15才から16才になるところで す。まったくのガキ。ところがその当時、既に高校には中学時代から運動に関わっている人がいました。まあ、反戦高協の中学生部隊ですね。もう既に高校1年 でそういう経験をしている。あるいは後に逮捕され、はっきりと武器を取って闘うところまでいった人たちも同年代でいました。彼らの多くは、高級官僚や大学 教授、文藝誌や思想誌の編集者、共産党幹部や歴史家といったインテリ家庭の出身者でした。僕など家にものを考えるための本など1冊もない。1年の時、小田 実を「おだみのる」なんて読んで笑われていた。そういう意味で考えたら、1968年の運動に後からついていった人間にすぎないんですね。15、6の時分で 「自らの意志で」とはなかなか言えない。言えないというか思考する枠組みそのものができていない。より上の世代がつくる運動の場や言葉に乗っていくしかな かったわけで、しょせんはそういう人間だったと思うんです。長い間そのことにある種の後ろめたさとか、気後れみたいなものがありましたね。それは事実だと 思います。その「気後れ」がどういうことなのかを考えるのが、たぶんこの40年という時間だったと思います。
先ほど観ていただいた「山谷」という映画は、その自分についての訳のわからなさを考えるのに何より大きな糧になるものだったんですね。もちろん山谷の日 雇労働者たちは、自営業者――洗濯屋のように機械類があって、店があって、借地だけれど新宿の真ん中に一応住むところがあるというような存在では全くな い。立場があまりにも違います。だから、けっして重ね合わせることはできないんだけれども、僕が新宿の街で見ていた人間たち、家の洗濯屋のお客さんという のは、尋常ではない人たちでした。具体的に言うと水商売で働いている女や男たち、しかも普通の意味での客商売というよりも、もっと底に近い人間たちです ね。体を売っているような女性たちでしたし、男性でもいわゆる工場の産業プロレタリアというより、風俗産業みたいないかがわしく怪しい連中。通常のマルク ス主義的な立場から言えば「労働者」とはとても認められないような存在でした。僕は幼い時からそういう人種しか知らなかった。
では、この人たちは労働者じゃないんだろうか? とすると「労働者」ってなんだ? 政治的、思想的に物心ついた68年以降、そういうことを考えざるをえ ないんですね。この人たちは解放されるべき、あるいは解放する側に回るような主体じゃないのか。いったい何なんだろうかと。つまり新宿の街に「労働者」が いるとしたら、そういう人間たちでしかないんですね、ほとんどが。もちろん、ちょっと周辺に行けば印刷工場もいっぱいある。新宿区の北側、文京区や豊島区 との境には大小の印刷に関連した工場がたくさんあります。東京の東部や南部にはもっとありました。いわゆる「プロレタリア」らしい工場労働者たちはそこで 大量に働いていた。でも「それ以下」といいますか、そうじゃない人間を僕は見ながら育ったんですね。

■……「山谷」そして「永山則夫」……■

そういうわだかまりを抱えたまま、1974年に実家の洗濯屋に戻ることになります。父親の交通事故がきっかけでしたが、それ以前に、もはや大学に行く気 力を失っていた。これだけ機動隊の暴力に制圧された、何の自由もない大学に行ってどうなるんだと。当時「アウシュビッツ化」と言われましたけれども、大学 の周りに工事現場のような金属ボードが張り巡らされて、いちいち荷物検査され学生証を見せないと入れない。そんな状態が全国どこの大学でも見られた時代で すね。そんな大学で今さら何を学ぶんだと中退する人間たちが大量に現れた。たくさんの人たちが田舎に帰ったりして、そこでまた反基地、反公害、反原発と いった地域闘争に参加する。工場に入っていく人たちも当然いた。ところが僕が帰った「田舎」は新宿2丁目だったんです。ブーメランのように戻ってしまう。 高校時代の仲間たちが大企業に就職していくのを尻目に、洗濯屋を手伝わざるをえない。とにかく、もう一度現実に帰っていかなきゃならないと……。
音楽について書いたり、演奏の場に関わることは続けていました。その縁で数年後に、今僕を紹介してくれた司会のIさんたちと一緒に山谷に行くことになる んです。そして映画で観ていただいたような事態が出現して、僕もその端っこで何ごとかを経験していったわけです。結局それが、割り切れない二重存在として の自分について大きく考え直させることになったと思います。
というのは、僕が新宿の街中で実際に付き合ってきた人たちというのは、社会的に組織化されていませんし、それこそ彼らが登場するのは68年10・21の 新宿騒乱のような時だけです。「選挙」のような制度は彼らの欲望を二重、三重のフィルターにかけて脱色してしまう。ところが諸政党によって与えられたメ ニューでは満たされない欲望がある。水商売の労働者たちが警察権力とまともにぶつかるようなね。それはとても大きな可能性だったわけで、その時に一瞬だけ 出現するんですね。それ以降、再び社会の表面から消えるわけだけれど……。
けれど、山谷に行けばそうじゃない。山谷に行って、今日の映画に出てくるような人たちは、新宿とは色合いが違うかもしれないけど、やはりある意味で体 しかない、売るものは体しかないという人たちだったんです。その中で自分の「わだかまり」が掻き混ぜられていく。60年代終わりの経験がもう1回、80年 代の初めくらいに山谷へ行くことによって大きく攪拌されて、そうしてその問いを40年間ぐるぐる掻き回し続けたっていうところがあるんです。
「自営業者」って何だろう? 都会の真ん中で家族で働いている小さな自営商店が衰退していくのは自然現象なのか? これはいわゆる解放運動とか労働者 の闘いとか、少なくともまともに人間が生きていけるような世界を創ろうとする営みとは関係ないのか? そんな素朴な問いをずうっと抱え続けることになるわ けなんです。レジュメの図(下図)は、主人の家族と通いの職人と住み込み店員という、たぶん江戸時代くらいから60年代まで続いてきた商店で働く人間たち の構造を略図にしてみたものです。上からこういうヒエラルキーになっているんじゃないか。永山則夫さんという、1968年に不幸にして4人の見ず知らずの 人たちを射殺してしまい、その結果死刑にされてしまった人がいます。彼が書いた『木橋』という小説集があるんですが、その中に川崎の多摩川に近い町でク リーニング屋さんに勤めていた頃の体験を描いたものがある。まあ、やっぱり「洗濯屋」って言いましょう。洗濯屋って差別語らしいですね。新聞社がつくる用 字用語集には使わない方がいい言葉として出ています。「クリーニング店」と言い変えると出ています。だから、あえて「洗濯屋」と言った方がリアリティーを 僕は感じるんですけれども……。

主人の家族……私          機械・資材産業
通いの職人           ⇒     ↓
住み込み店員…永山則夫(川崎)   家族の家内労働者化

彼は少年院から出た後、川崎の洗濯屋に勤めていました。そこに店主の家族の姿が出てくるんですけれども、それはもううちの家族そのものですね。その 主人の長男として私がいて、中学校卒の住み込み店員として永山則夫さんめいた人がうちにもいました。そういう「経営者と使われる人間」という関係が70年 代には激変して、完全に家族だけになり、全員が家内労働者化していく。経営者なのに、技術進化する作業機械や資材を生産する巨大な企業に従属させられてし まう。そこに僕は帰っていくわけです。そういう技術革新についていこうとすると「債務奴隷」になるしかない。希望はありませんでした。その中でどうしても 自営業者の家庭で育った自分というものを考えざるをえなかったんです。

■……「リセット」する資本主義……■

少々理論めいたことを言うと、19世紀に資本主義について執拗に考えたマルクスっていうおじさんがいました。20世紀を振り回した人といってもいいと思 いますけれども、そのマルクスが言ったことで二つ重要なことがある。戦後のフランスに現れたアルチュセールっておじさんが、それは「剰余価値」と「本源的 蓄積」という資本主義の秘密を発見したことだと言ってます。剰余価値の方はとんでもなく膨大な論争史があるので、専門家に任せましょう。「本源的蓄積」っ て何かっていうと、ようするに資本主義の「出生の秘密」です。こういう社会システムを作り出して回転させるためには一定のインフラストラクチャーがなきゃ いけない。蒸気、水道、電気、ガス、石油といったエネルギー網。鉄道、道路、船舶、飛行機といった交通網。それから事務所、工場、住宅地といった空間を配 置する都市の計画。知識を集積し、技術を開発する大学や研究所とか、いろいろな社会環境ですね。
ところが、人間と自然だけは「商品」として生産するにはどうしても無理がある。そのためにそれまで農民の共有地だったような所を囲い込んで、資源を奪い 土地を奪って、人間を追放してしまう。その結果、都会に出て来ざるを得なかった人間たちを「労働者」という新型ロボットとして成型するわけです。それが資 本主義の始まりであるとマルクスの『資本論』第1巻に出てきます。今の言葉で言えば「初期化」でしょう。パソコンのように資本主義というシステムを初期化 するんです。そして立ち上げる。これまで資本主義って、最初に1回軌道に乗っちゃえば、資本を投下して商品が生産され貨幣が流通する、そういう自動回転す るシステムみたいに思われてきた。人間と自然を力まかせに変形する「本源的蓄積」は最初に1回だけ起きるやむを得ない過程だと。ところが、その非常に暴力 的な過程が何度も何度も行われるんだってことが、最近の事態を踏まえた議論の中で出てくるようになりました。つまり資本主義は何度も「リセット」して再起 動を繰り返してるんだと。これはここ十数年くらいの津波のようなインターネット化、IT化による変動を省みれば実感できると思います。
今起きていることはまさに資本主義の「リセット」です。新たな「本源的蓄積」です。リセットするキーが押されてるんですね。巨大な「囲い込み」エンク ロージャーが進行している。フリーター、ニート、引きこもり、派遣社員、こうしたことはすべて人間的自然のエンクロージャーだった。僕らがさらされている 現実っていうのは、心理的な現象ではなくて、それまでの資本主義社会の形を1回徹底的にぶちこわす暴力でした。小泉というあの最悪の首相が言いました、 「ぶっこわす」と。そのとおりですね。まさに人間をぶっこわしたんです。そして、こういう「リセット」「エンクロージャー」「本源的蓄積」は山谷のような 場所では日常茶飯のことでした。この体験が新宿二丁目で起きたことを別の目で見せてくれるようになる。
その目でもう一度見ると、「若者たちのサブカルチャーと世界革命」という68年の物語の下から現れてくるものがある。「ひび割れたアスファルトを引き剥 がす」というのは、先ほど言ったように再帰的なパロディーです。つまり「パリの舗道の敷石を引き剥がすとそこには砂漠が広がっていた」というパリ5月革命 の時に壁に書かれた落書きは、ランボーやニザンが遺した言葉の跡に上書きされたものでしょう。「砂漠」って何か。ランボーやニザンが赴き、そこで死んだア ラビア半島の砂漠なんです。つまり機動隊に投石するために敷石を剥がすと、そこに現れたのは「第三世界」だった。そして40年が過ぎて、もはやひび割れた 「68年の物語」をもう一度引き剥がしてみると、そこにはこの街に生きてきた人間、へばりついて生きざるを得なかった人間たちの砂漠が広がっていた。それ は資本主義の容赦ない「リセット」に晒された自分自身の姿じゃないか。高度成長の頃から「第三世界」に押し付けられた「本源的蓄積」がそうやって中心部に 回帰する。そのことを発見するために40年という時間が必要でした。そのために「山谷」への大きな迂回は不可欠だった。この映画なくして、この経験なくし てはありえなかったと思うんですね。

■……「68年」春、暮れ、そして地下水道を通って……■

今や零細な自営業と、こき使われるフリーターや派遣、それからホームレスや日雇労働者との境目がグラデーションのようになってきた。千人単位で派遣契約 の解除が行なわれていますけれども、おそらく来年あたり、大都会の真ん中の路面で20代、30代の人たちがゴロゴロせざるを得ない状態がやってくる。すで に大阪ではその兆候が出ている。その時、「68年に起きたこと」は何か通りやすい言葉として、あるいは団塊オヤジ向けの懐古番組で使われるような、『三丁 目の夕日』の映画に描かれるようなものではなくて、別の姿を現すだろうと思います。少なくとも僕はそれを非常に強く感じていますね。
ある種の自営業と労働者の境目が薄くなってきたことの兆候をいくつか挙げれば、新宿駅の地下にある「ベルク」っていう小さな喫茶店があります。新宿東口 の改札を出てすぐ左に行くと、「フードパーク」という小さなスポット、路地か穴蔵みたいなスペースがあるんですね。その中に、20人も入れば満杯になって しまう小さな喫茶店があるんですが、その店をやってる人たちが駅ビルを所有するルミネから追い出されかかっている。そこには納得できる理由など何も示され ていない。それから下北沢の真ん中にに余計な道路が作られて再開発される。大阪の長居公園でのテント村撤去なんかもそうでした。これらはすべて新たなエン クロージャーというべきです。今起こっている事態を、単に「格差社会」とか「反貧困」とか、運動的に分かりやすいスローガンとして語られるのはしかたがな いと思いますけれども、こういう言葉で語る時期はもはや過ぎつつあると僕は思っています。資本主義そのものの問題として真っ向から捉えるべき時が来る。い や、もう来ている。そうしないと何もはっきり見えない時代が来ているんだと思います。
高円寺の北口を降りて左に行くと「北中通り」と書かれたアーケードを掲げた商店街があります。そこに「素人の乱」という名のリサイクルショップ、古本 屋、スナック、小さなスペースなど、何だかおかしな店が十店近くあるんです。彼らも自営商店ですね。僕の友人がそこに関係しているせいもあって、彼らの実 態が伝わってくるんだけれど、店を始めた連中は、町起こしの運動をやりたいわけじゃない。商店街の長老みたいなそば屋のおじさんと仲良くしたり、なかなか しぶとい奴らです。自分たちが買える値段で食い物を出す。自分たちと同じような奴らがとにかく生活していけるシステム、いわば自助システムをつくるという のに近い。そこから発展していろんなことをやっている連中なんですね。そういう意味では自営業でありながら食えない連中とともに、これをやってる連中自身 がそうなんですけども、生きていく方法を模索している。
同時に、例えば札幌での反G8デモで友人が捕まれば、すぐさまその通りで300人規模のデモが起きる。地元の人たちと付き合って、地場の空間を創り出し ながら、自分たちの言いたいことを言う。食えない奴らが、なんとかやろうとしているんですね。危ういところをなかなかしぶとく綱渡りしつつ動いていると思 います。そういう運動が現れてきました。僕にとっては、もう一つの「68年」が地下水道を通り抜けてこういうところに噴き出している。
ですから1968年を、団塊オヤジたちの「俺たちの若かった頃はー」という話にするのはもうやめた方がいいと思います。そういう話は僕も聞きたくもな いし、したくもありません。そういう形で68年の神話から遠く離れてみると、そこに見えてくるものは、もっと大きな可能性なんですね。
1968年春の段階では、友人たちの中に新左翼系の政治組織に参加している者もいて、彼らとまあ一緒に行くっていう感じだな。それでデモや集会ごとにど んどん行動的になって、本も読んでいく。そういう感じだったから、いわば近傍にいたんだけれど、大きな政治性を帯びた運動の中心にはいなかった人間なんで すね。むしろ学内でちょっと変わった発想の動きを始めて、その先頭にはいた。無届け集会が禁止されれば、授業中に一斉にトイレに集結するとかね。何だか 「ダメ連」や「素人の乱」に似てますね。それでも68年の暮れからは「活動家」めいた顔になっていたでしょう。
 政治運動の中心にいた人だからこそ見え ているものは、確かにあると思います。長い間辛い獄中生活に耐えた人たちも相当数います。僕にはそういう経験はない。ただ近傍にいて、後ろからついていっ た人間にしか見えないものが、あるんだろうと思うんです。そのことを語っておかなければと長い間考えてきました。雄々しく闘ったのではなくて、父親や母親 が夜昼なく働き続ける姿、その影に後ろ髪を引かれながら68年を生きた人間にとって、あの時代の「叛乱」っていったい何だったのか。それが今にどう繋がっ てくるのかということを、非常に駆け足ですけれども、皆さんにお話したかったということです。

●———–【質疑応答】————–●

司会 平井さんのお話は、観念的ではなくて、きわめて身体的かつ内発的な話だと思います。今のことに関してでもよろしいですし、映画のことに関してでも結構ですから何かご質問とかご意見はありませんか。
参加者A 一つは映画についてなんですけども、20年以上前から、その後いくつかの段階があると思うんですけども、現状は山谷に限ってどう いうふうな状況になっていたのか。説明をしていただきたい。あともう一つ、お話の最後の方で「素人の乱」のこととからめながら、新たなエンクロージャーと それに対する、対抗運動というか対抗の流れみたいなことをお話されたと思うんですけれども。まあエンクロージャーに対してエンクロージャーされるコモンズ というのがあったと思うんですね。例えば、家業のクリーニング店のことも念頭におかれ、新たなコモンズのあり方を探求されながら考えていると思うんですけ れども、その新たなコモンズの形というのをもうちょっと大きなデザインの中でお話をいただければと思います。よろしくお顔いします。
司会 じゃあ前半は僕で、後半が平井さんということにしましょう。山谷の20年。ご覧になったのは84・85年の20年前の風景なんですけ ども、風景自体はいまもほとんど変わっていません。けれども、内容が相当変わっています。ヤクザとの闘い、映画の中では大日本皇誠会は山谷を引き払ったと いうことになっていますが、その後、西戸組はつぶれました。でも、その上部団体である金町一家は、依然として事務所もあり残っています。そのさらに上部の 日本国粋会は、詳しい説明は省きますが、そこの組長が今年だったかな、ピストル自殺しました。まあ、ヤクザ同士の「内部矛盾」ですね。それから山谷自体が 20年たって、だんだんと高齢化してきています。つまり新しい若い人が入ってこなくった。いまは、寄せ場を経由せず、携帯電話などで手配され、ひとりひと りが分断されています。映画の中にも出てましたが、怪我したり病気になったら働けない。即捨てられるという状態はあいかわらず続いています。それが大きい 問題として、山谷だけでなく、全国の寄せ場で起こっています。生活保護の問題であるとか膨大な野宿者、山谷の近くには浅草、隅田川がありますけれど、そこ にブルーシートの小屋がたくさんあります。そういう状態で、かなり「疲弊」した状態にはなっています。そのなかで、新しい運動も模索され実践されてきてい ます。山谷はそんな現状です。

■……「コモン」の兆し……■

平井 マルクス主義的な知識が前提となってない方もたくさんいらっしゃるわけだから、「コモン」って何かと言うと、例えばキノコを採るため に農民たちが入って行く土地。一応そこは土地の所有権を持ってる人がいるんだろうけれども入れるんですよ。現在でも分かりやすく残っているのは、そういう ようなところしかない。それは個々の人間が所有しているんじゃない、一定の人間たちに開かれた共有地っていうことなんですね。それがヨーロッパでも、世界 中どこでも、もっと広大にあったんです。だいたい私有権なるものが近代国家の力によって認めさせられたのは、せいぜいここ200~300年の間ですから、 それまでは個人が土地を囲い込んで持つなんていう概念自体がない。神に与えられたものとしての「共有」というのかな、それは教会や領主との力関係とか複雑 なものがあるんだけれども、修道会の荘園や国王領以外は、生きていくために共同体として使っていくという要素を持ってたんですね。それが近代の資本主義化 によって登記されて私有地になってしまう。それによって、それまでキノコを採っていたところも入れなくなる。牧草地でもなんでもそうですね。この国の田ん ぼや畑にもそういう共有の関係あったと思うんだけど、そういうものもみんな囲い込まれていくんです。その囲い込みのことを「エンクロージャー」と言うんで すね。とりあえず、助け合って一緒にやっていけるような空間、「コモン」という言葉をわかりやすくしておきます。
まあ、今まで話した高円寺の「素人の乱」とか、それから品川駅前のホテルを占拠した動きっていうのは、そのごくごく小さな反攻の兆候としてはあると思 います。「山谷」の映画にも、泪橋の飲み屋で語り合う場面とか、筑豊のシーンに出てくるお風呂の場面とか、ホッとするような印象的な映像がありました。も ちろん、それで山谷の街全体が「コモン空間」だったとはとても言えないと思うけれども、最低限どうにか助け合おうというものはあったと思います。それがな かったら、あの労働者たちの運動は成立していなかったと思うんですよ。そういう労働者のいわば最後の、ギリギリの協働っていうかな。体のつなぎ方みたいな ものに組合が依拠するというか、そういう見えない空間と交渉しながらというか、そういう関係を豊かにしながら運動が進むということだったと思うんですよ ね。あの飲み屋での語り合いみたいなのがありますね。「俺は九州の炭鉱から来たんだ」とかね。「こんな一生懸命働いているのに、まだかあちゃんももらえな いよ」とか話してるんだけれども。ああいう所での付き合いから野宿者に向けた夜回りの運動みたいなものまで、あるいは玉姫公園での越冬闘争、夏祭りとか ね。そういうものを含めて、たぶんそう言えると思うんですよ。なんか大きな建物があるとか、恒久的なシステムや制度としてきちんとできているものじゃない けれども、そういうものがコモンの兆しというふうに考えられると思うんですよ。そういう意味では、今もいろんな連中が懸命になってそういうものをつくろう としています。それはまだまだ非常に小さな力でしかないことは確かなんだけれども、でもずいぶん久しぶりにそういう兆しが現れてきたということは感じてる んですよ。
例えば、新宿東口地下の「ベルク」に対するあまりにひどい追い出しに反対してたくさんの署名が集まるとか。その店を経営する一人、カメラウーマンの友人 は95年にあった西口広場からの段ボール村排除に抵抗して、ハウスとそこに描かれた絵を写真に残した人です。それから品川のホテルの労働者たちによる自主 運営についても、ちょっと予想外の支持が集まっているようですね。大きな高輪のホテルに来るいい格好をしたビジネスマンが署名していくとか、町の小学生が 署名していくとか。つまり40年たってここまで貧困が裸出した。単純に食えない人が増えたわけです。これはもう他人の問題ということではない。たぶんここ に来てくれた若い人たちにとっては、大学を出たら即どうするんだという話になってるでしょう。年配の人たちはますますそうです。おそらく安定した職に就い ている人は少ないんじゃないかと思います。そういう事態の中でどうしたって助け合わざるをえない。その中にやっぱり大きな可能性あるわけで、それは「コモ ン」などと言えるものではまだないと思います。共有地なんてとても言えない。しかし「コモン」や「エンクロージャー」、そして「逃散」というような言葉の 系から浮かび上がってくる動きの可能性が重要です。そういう言葉が意味を持つ要因がドンドン現れてきてることは確かなので、僕としては68年の経験を生か すとしたら、単に昔の物語にしないために、そういう努力をしていきたいなと思ってるんです。

■……再開発イデオローグの破産……■

参加者B 都市のこわれかたというお話で大変興味深く聞かせていただいたんですけど、現在の都市を見ていくと再開発というのが非常に進んで いると思います。そういった再開発によって今まであった都市の多様性というものがだんだんなくなっているような感じがします。東京の中で見ていくと、新宿 であるとか浅草であるとか、今まで多様な人々が住んでいて、多様な価値観が残されていた、許されていたように思うんですけれども。そういった再開発の顕著 な所が横浜じゃないかなと思います。私は横浜の出身なんですけれども、20年くらい前までは今のみなとみらい地区が造船工場で、あと寿町とか黄金町とか、 そういったダーティなイメージのある街だったんですけれど、全く今そういうのがない。たまに横浜に行ってみるとすごくきれいになって。寿町でもだんだん高 齢化が進行していって、まあ規模は300メートル四方ですけれども、ドヤがやっているんだかやってないんだかわかんないような活気がない状態になってい る。都市が再開発されていく中で、そういった多様性というものがなぜ排除されていくのかというのを、ちょっとお考えを聞きたいなと思いまして。
平井 まあ地方都市では再開発すらされないというか、単にただ破壊されているだけという感じですね。僕の連れ合いの実家がある九州に行く と、繁栄らしき風情を見せているのは福岡だけです。あとは全て福岡の従属都市。他の県庁所在地の駅前なんかも空き地で草ぼうぼうでした。新幹線ができてど うなるかというと、駅の目の前なのに居住用マンションが建つんです。つまり福岡まで何十分で行けるというのが唯一の売りになって、県庁所在地も完全に従属 化されている。せいぜい開発っていえばそんなもの。そこから離れた商店街はただただシャッター街。コンビニさえ車に乗っていくという状態です。多様性って いうのも、まあもともとあんまりなかったのかもしれないけれども、もはや欠片もない。大きな郊外モールも次々とできては、次々とモールそのものがシャッ ター街になる。福岡だけじゃない、仙台、広島という地方の中心都市だけが栄える。そこも実は栄えているかどうかわからない。これからちょっと恐ろしいこと になっていくのは、その中心都市で派遣の首切りが始まってるということです。
そういう状態なんだけど、ただ、東京だけは多様性がむしろ豊かになったかのように見えるところもあるんですよ。わかりやすい話で新宿に特化しちゃうと、 歌舞伎町の再開発が行われています。あれはなかなか恐ろしいところがあって。裏では暴力組織の再編が進んでるわけですね。地場のヤクザ、東京各地にはび こっていた大小の組織が山口組に制圧される。裏の世界もネオリベ化で山口組が一極支配する。それで表の世界では、薄汚いものをとことん排除してしまう。 1968年について、特に「68年の新宿」について僕が語りたくないという強い衝動がなぜあるかというと、歌舞伎町を「68年都市」のテーマパークのよう にしようとする動きがあるんですよ。つまりジャズ喫茶を再生したりして、団塊世代が安心して夫婦で来られる街にする。『三丁目の夕日』のCG映像そのまま に毒も怒りもない「68年」が出現する。そういう都や区が警察と結託した策謀が実際に進んでるわけです。久しぶりに足を運んでみると確かに、かつてぽん引 きがはびこっていた薄暗い裏通りはずいぶんきれいになっている。アメリカ人じゃないアフリカ系の客引きとかはまだいますよ。でも、不気味なくらい裏通りは 静かになった。これが可能なのはやっぱり裏を仕切る暴力組織の一元化が進んでるからでしょう。行政や治安当局がその単一支配と何らかの取引をしている。
そういう「68年」を回収する動きが見える。もうあの物語が最終的に行き着く果てです。ちょうど『三丁目の夕日』の映画が持てはやされるように。表面は 多様性のように見えて全くそうじゃない。もっと恐ろしい一元化だと思うんですね。まあ映像としてわかりやすい例で言えばそういうことだと思います。
参加者C 再開発のことについてうかがいます。例えば、下北沢に限らずよく言われる主張で、そこに住んでいる人にとっては、その当事者に とってはすごく大変なことだけれども、大きな規模で考えると、それがより大きな利益につながるんだというような主張がよくなされると思うんです。もちろ ん、個人的には違和感をすごく覚えるんですけれども、それに対抗していくような説得的なロジックみたいなものはどういったことがあるんでしょうか。
平井 それたぶん「あの人」のことだと思います。東浩紀っていう現代思想系の人がいます。彼は今やただの「再開発イデオローグ」です。潰れ そうなディベロッパーの回し者です。ファストフード化される街はいいんだ、自分にとっては心地いい。実はみんなそう思ってるはずだということをひたすら言 う。自分はあそこで育ったんだ、ああいう空間に対してノスタルジックな昭和商店街みたいなことを言う奴は「反動」なんだ。資本主義の進化っていうのはそう いう「自然過程」なんだ。そうやってきれいになって、そこからまた別の可能性があるんだ、ということをさんざん書いた。それがついこの間までベストセラー になっていました。しかしこの1年で激変したと思いますよ。そういう言葉が現実によって完全に反駁される時代がやってきた。つまりファストフード化した都 市であろうが、巨大モールだろうがなんだろうが、食えない奴が道にゴロゴロするということになるんですよ。彼は「社会空間の工学的変貌には抵抗できない」 というようなことを言うわけです。つまり、テクノロジーの進化には何かしら意図があって、支配者が搾取するために街を変えていくとか、そういう物語は終 わったんだと言う。テクノロジーはいわば自然の変化であって、それには抵抗できない。生物種が進化していくように都市も変わり、社会空間も変容するんだと いう簡単なストーリーです。
それに対しては、金融工学のように破綻するというしごくシンプルな答えが現実から提出された。今それが急激にはっきりしてきたということです。彼の屁理 屈に惑わされる必要はありません。現実に私たちは食えない。どうやって生きていくか。ファストフードであろうが、高円寺の一見ノスタルジックな商店街であ ろうが生きていかなくてはならない。でも、高円寺とか下北沢がノスタルジックな街だっていう言い方は、ごく単純に言って間違ってると思いますよ。例えば高 円寺北中通りの入り口付近は、歌舞伎町みたいな客引きのお兄ちゃんたちがうるさいピンサロ街です。路地に入ると右の角には「球陽書房」という60年代サブ カル的な古本屋がまだある。でもその先に行くと、これはあきらかにニューカマーの中国人たちがやっている中華屋さんがいくつも並んでいるんです。それから 「抱瓶」という沖縄料理屋がある。その先に「素人の乱」の店が点在している。その辺には古いそば屋のオヤジさんが「素人の乱」を応援しながら、「でも、君 たちはちょっと危ないんじゃないの」とか言ったり、「まあ、しようがないかな」と呟いたりしてる。そういう通りで鍋の宴会もあれば、デモもある。これは生 きた街でしょう。都市はファストフード化するというロジックが砕け散る時代がやってきたんですよ。東浩紀は倒産したディベロッパーの管財人です。北田暁大 はそこまでなりきれない半端な奴というだけのことです。

■……都市の影の部分を歩く……■

参加者D この中野の周辺の方南町で生まれて、遊び場は大体中野か高円寺っていう感じで20年間過ごしてきました。「素人の乱」に出入りし ている存在で、ラジオにも時々います。出入りしている人間から言うのも変ですが、私が20年生きてきて芸大に入って、平井さん達と芸大のネグリがらみの活 動で一緒にして思ったのですが、「素人の乱」以降が全然出てこないっていう印象がすごく強くて。私のまわりではもう「素人の乱」は昔のお話っていう感じで す。あそこは松本さんというスーパーヒーローがいて、彼の人気でいろいろ動いているけど、あの人達は私たちの世代の中ではかなり有名というか、神話化とい うと大げさですけど、されちゃって。平井さんは「素人の乱」以降の、もっと若い人達の中で、もっとわけのわからない、もう名前も付かない人達の可能性を、 もし感じたことが最近あったら教えてください。
平井 なんかロックスターを探すような話ですけれど。松本くんには確かにそういう変なカリスマ性があるんですよね。なにせ警察や機動隊を前 に、最高におもしろい頃の植木等そこのけの仕草をする人ですからね。ただ、これもわかりやすいエピソードで答えた方がいいと思います。松本くんは秋に大阪 に行って来たのかな。それで、「ああ俺たちは負けてる」とYouTubeかなにかで言ってました。「大阪には俺みたいな奴が1000人いる」と。ごく普通 にゴロゴロしていると驚いて帰って来ました。別に「素人の乱」も松本君1人でやってるわけじゃないですから、変な奴らがゴロゴロいます。この間、「素人の 乱」の12号店で「地下大学」と名づけた講座みたいな会を持ったんですけれど、そこにやって来たのは松本君たちが「素人の乱」を始める前にもともと高円寺 で遊んでいた1人です。数人のグループがあったらしい。この人たちには普通言われるような「政治性」はゼロです。脳天気なミニコミをいろいろと出してまし た。この連中がただ生き延びるためにおかしな店をやりはじめた。しょぼ過ぎるミニコミをタダ同然で売って、その稼ぎでどうにか食おうとした。おフザケな奴 らです。人間もおフザケ、ミニコミもおフザケなんだけど。彼らと「法政の貧乏くささを守る会」という奇妙な運動やっていた連中が合体して「素人の乱」がで きる。その元の奴らの方がもっとメチャクチャなんです。松本くんが学生運動時代の発想から脱皮したのはその連中と付き合ったからだという。だから松本君1 人を「素人の乱」と思ったらいけないと思う。いろいろ起きてます、変なことが。そのうちまた表面化するでしょう。その手の動きっていうのは大阪に見られる ように飛び火しています。
松本くんは永井荷風の研究家の息子なんだよね。妙な話なんだけど親と同じ松本哉って名前なんです。親は自分と同じ名前を付けたんですよ。落語家の何代目 じゃないんだけどね、二代目なんですよ。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアとか、マルコム・リトルと同じなんだよ。彼の思想はなんとか主義ではありま せん。不埒な街歩きの思想が根にある。都市の遊歩者の思想なんです。ようするに都市の影になった部分を歩く人間の思想なんですよ。そこで生きていこうって いう思想なのね。これが彼の、マルクス主義とか、なんとか主義とか、アナーキズムとかとはとりあえず関係ない「土着思想」なんじゃないか。地面から湧いて 出たみたいな「貧乏くささを守る会」なんていうのは、どう考えたってなんとか主義と関係ないです。そういう世界の下の方から汲み取ってきた考え方が、彼の 変な言葉と変な行動になって出ている。学ぶべきはそれなんですよ。彼のスター性じゃないんだよ。まあ、キャラも面白い人なんだけど。で、学ぶべきというか 伝染しちゃうのはそっち、みんなが感染するのはそれなんで。そういう人が、たぶんどこかでまた次に準備されていると思いますよ。福岡にも変なのがいるし、 いろいろいます。そういう状態じゃないかと思いますね。
司会 そろそろ時間なんでこの場はとりあえずしめます。隣の部屋がロビーみたいになってまして、平井さんを交えての、話の続きができるようになっていま す。平井さんはお酒飲まないんですけども、お酒も用意してありますし。新宿のことといえば「新宿プレイマップ」、昔の、伝説の「新宿プレイマップ」を編集 されていた方も今日はいらっしゃっていますので、新宿に関しては最強のメンバーが揃ってますので。今日はどうもありがとうございました。
(2008・11・29 プランB)

2008年11月29日

plan-B 定期上映会

講演:「都市のこわれかた②──68-08/新宿」
講師:平井玄(音楽批評)
* * * * *
「1968年」について、みんなが何か言えという。
―困ったことだ。だって私は、あの年の春に高校に入ったばかりの16歳。正確にいえば15歳と11か月で、小田実を「おだみのる」と読んで、新しくできた 友達に鼻で笑われるような少年だったからだ。そのマシュルーム・カット(初期ビートルズのあの髪型)のY君は、そのころ筑摩書房から出ていた『展望』とい う雑誌の編集長の三男坊だった。
そこから「怒濤のような3年間」が始まった―ような気も確かにするけど、そんな訳はない。うろうろ、ごそごそと、後ろからついていっただけ。いつも何かに 「後ろ髪」を引かれ続けていたのだった。だから私の「68年」は、実は1972年に始まる。前川國男の新宿紀伊國屋本店から2丁目の薄暗い路地裏へ。
聞き飽きた「世代の物語」を超えて、40年後に何を語ることができるのだろうか?

反貧困プロジェクト『山谷-やられたらやりかえせ』札幌上映会

「山谷-やられたらやりかえせ」は1985年に発表されたドキュメンタリーです。東京の一角にある寄せ場と呼ばれる日雇い労働者の街の生活実態や悪徳事 業者に対する闘いが記録されています。日雇い派遣・フリーターなど非正規雇用者が増加し、日本社会全体の寄せ場化が進んでいるといわれる今、この映画が映 し出す底辺におかれた労働者の状況と、それを支える資本や国家、搾取や暴力の構造について知り、現在の私たちの状況とどう結びつくのか、状況を覆すにはど うしたらいいのか考えます。

10月5日(日)14:00開場 14:30~1回目上映
16:40~「山谷」制作上映委員会のメンバーによるトーク
18:00~2回目上映
会場:北海道大学学術交流会館(札幌市北区北8西5)
主催:NPO法人 さっぽろ自由学校「遊」

2008年9月29日

ドキュメンタリー・ドリーム・ショー-山形in東京2008

「山谷は日雇い労働者が集住する東京の「寄せ場」。右翼やヤクザに搾取され、雇用者の言いなりの彼らは、組合を組織して労働条件を改善しようと激しい争議 を始める。監督佐藤満夫が撮影11日目に刺殺される。制作上映委員会が使命を引き継ぎ、全国の労働者の生き様を描く映画を完成。”派遣労働”が切り捨てら れる今と照らし合わせても興味深い。」

9月29日(月) 21:00~ ポレポレ東中野

2008年9月15日・16日

カナザワ映画祭フィルマゲドン

「労働者の町 山谷での日雇い労働者と、天皇主義右翼を名乗って労働者を暴力的に支配・統合しようとする暴力団との闘いを記録。佐藤監督はこの作品の撮影中に、その遺志 を継いだ山岡監督はこの作品の完成後に暴力団が放った殺し屋により殺害された。佐藤監督が襲撃され命を奪われる瞬間からこの作品が始まる。」

9月15日(月・祝日) 12:20~  金沢21世紀美術館シアター21
9月16日(火) 18:15~  シネモンド

フリーターって、誰?

映画「山谷」とフリーター労組

山口素明(フリーター全般労働組合)

フリーター労組をやっている山口といいます、よろしくお願いします。この『山谷』の映画は、僕が学生の時に、僕は86年に大学に入っているので、その時 に大学祭で観たのが一番最初でした。まあ、まさかその20年後、労働組合やっているとは思わなかったのですけれども。この『山谷』の中でいろいろ、越冬の シーンとか出てきますけれども、そこにも支援に行ったりしていました。それからまあいろいろあって、フリーター労組っていう組合をいまやっています。
この映画、今自分たちが扱っているというか、やっている事と、非常に距離のある部分とすごく共通する部分があるなあと思って、今回観ていました。
距離のある部分っていうのは、まだ僕らがやっている組合はすごく小さく、まあショボショボやっている感じなので……。映画の途中で悪徳手配師を追及した りとか、あるいは飯場に押し掛けて行って団交やったりとかのシーンがいろいろ出てきたと思うのですけれど、そこまでしっかり自分たちはできているかという と、やっぱり距離があるし。あるいは、山谷っていう地域、場所があって、その場所の中で、野垂れ死にをゆるさないということや賃金不払いだとか、様々な不 当な扱いをゆるさないっていう闘いができていると思うんですが。フリーター労組で扱っているケースだとそういった特定の場所を持てないというか、特定の場 所がなくて、いろいろ様々な現場で仲間がなく孤立して、それでもうギリギリになって、どうしたらいいかっていうふうに相談がくるケースが多いので、そうい う地域っていうか場所を持てないというところですごく開きがあるなあという感じがしました。
共通しているのは、フリーターにしろ、派遣で働いている人にしろ、あるいは最近多いのは自営化されて個人請負ということで労働法の保護の下に入らないか たちで働かされている人たちがいまして。その人たちが多く経験するのが、結局徹底的に物扱いされて不要、いらないもの扱いされていくっていうことです。そ の点がすごく共通していて……。それに対する怒りというか、そこをどうしてもゆるさないっていう気持ちで相談に来る人たちがいます。それを人間として生き ているということをどうやって認めさせていくか、まともな扱いをさせるかっていうところに関してはすごく共通しているなと思いました。
学生の時は気が付かなかったんですけれども、今日この映画を観ていて初めて気がついたのは、押し掛けて飯場で団交やっている時に何を要求しているかって 言ったら、まずちゃんと話をしようっていう事を要求しているんですね。ああそうだった、そうだった、ちゃんと話をしようということを要求しているのかと 思って。その辺りは、今僕らが、交渉を申し入れて応じない所に対して、とにかくちゃんと話をしろよという形にもっていくのとまったく同じだなあと思って。 ちょっと自分的には感じ入るところがあったなあと思いました。
ここでちょっとフリーター労組を紹介しておきますと、フリーター労組っていうのは2004年にできた組合で、フリーターでも正規の雇用でも入れる、不安 定な暮らしを強いられている人たちの組合ということです。結成してから4年弱、まもなく4年になるわけなんですが、大体100名弱の組合員がいます。僕は 少しフリーター労組って言うには年かさがいっているんですが、まあだいたい20代、30代が中心の組合です。
それで相談に来るケースを、ちょっと紹介しておきますと……いちばん最初に僕らが扱ったのは、ある歯医者さんに勤めていた女性のケースなんです。メール で「明日から来なくていいから」と。で「気まずいだろうから、荷物は送ってあげるよ」と。「もう二度と来なくていいよ」っていうようなメール一本で解雇さ れた、そういうケースでした。もう絶対にゆるせない、もちろんそんな所で二度と働きたくないっていう思いもありつつ、しかしそんな扱いはゆるさないという ことで、相談に来て。それで交渉して解雇を撤回させるっていう交渉をやってきました。
あるいはネットワークビジネスの人とか。これも映画の中で出てきたシーンで、凍えそうになってこうやって固まっているオッチャンの姿がありますけれど、 おじやもらって「大丈夫?」って声かけられて、それで「オレはやるよ」っていうことを言うんですね。あの場面、僕も学生のとき観てすごく印象に残ってい て。そこをどう観るかっていうのはすごく複雑な、まあいろいろな議論があると思うんですけれども。やる気を見せるとか、働けるとか、自分はそこでやってい く力があることを見せ続けていくっていうのが、このネットワークビジネスの人の相談を聞いていて思い出されたんです。それがすごく労働者を苦しめていくん ですね。ネットワークビジネスなんて関係を食い潰していく仕事で、本人はネットワークビジネスの管理の側で就職したんで、むしろそれをやらせている形に なっていたわけなんですけれども。むしろ解雇されてね、そういう悪徳商売に関わらずにすんで良かったんじゃないかって話もあるんですが。
とにかく仕事をする能力を見せろと。「仕事をする能力がちゃんとお前ないだろう」ということでずうっといじめられて、それで解雇になるんですね。
そういった人たちが基本的にフリーター労組に加盟しているという感じになっています。
労組の活動としてできていることは、まだそんなにたいしたことではなくて。これからいろいろやっていかなきゃいけないことも多いんですけれども……。

かつての「寄せ場」が溢れだした
―「自己責任」という言葉にさらされて

映画で描かれている80年代の半ばから20年経て思うのは、この寄せ場の状況というのは、山谷をはじめ笹島、釜ヶ崎などが映画に出てきましたけれども、 かつてはそういう地域の中に押し込められていたと思うんですね。ところが今起こっている状況は、それがすごく外に溢れだしてきているっていうことなんじゃ ないかと思います。非正規雇用全体というのは、今は全雇用者の3分の1ぐらいを占めています。その雇用だけじゃなくて、先程言ったような個人請負というこ とで労働法の保護に入らないかたちで働かされている人たちも増えてきていると。
映画の中で典型的な飯場の原型が、福岡の例で紹介されていましたけれども、それと同じように、今もレストボックスというかたちで、住居も与えて仕事も与 えると。そこで働かせるっていうのは山手線の周辺にいくらでもあります。そういうかたちで非正規の問題であるとか、あるいは飯場労働の問題であるとかは、 今もこの社会の中に偏在っていうか、あちこちに見られるようになってきていると思うんです。
その中で僕らが直面してきたのは自分たちが厳しい状況に置かれて、例えば、まともに賃金を貰えないとか、あるいは不当な扱いを受けて解雇されるとかに対 して、これまでずっと「自己責任」という言葉ですまされてきて。そんな不安定な状況を選んだのは自分の責任じゃないかと、そういう不安定な状況に陥って貧 しいのは自分の責任じゃないかというような言葉がずっと投げ掛けられていて。それを働いている側もすごく内面化してきて、自分がそうなんだっていうふうに 思ってきたところがあると思うんですね。
けれども、フリーター労組は、それはそうじゃないっていうことを、これは社会責任の問題であって、賃金がまともに支払われないのは経営の問題であって、 働いている側の問題じゃないっていうことをずうっと言い続ける組合として活動してきています。それがこの社会の中で、人が物として扱われて人間として扱わ れないというような状況を変えていく一つのきっかけになっていけばいいかなと思ってます。
ええ、よくわからないままザアっと話してしまったので、少し何か質問をくれればありがたいかなと思います。

ヤクザ支配よりひどいシステム
―グッドウィルは4割ピンハネ

 司会 それではちょっと山口さんに、何か、今の労働者の現状ですとか、運動の状況だとかに関して質問といいますか、聞きたいことを具体的に出していただければ、山口さんの方も少し話がしやすいかなあと思うのですが。何かないでしょうか?
 参加者A この映画だとけっこう暴力団が関わってきてたんですけれど、現在の派遣労働とかには暴力団は今どういうかたちになっているんですか。
 山口 どうなんでしょうねえ。僕らが出会っているところではそんなかたちでは出ていないと思いますけれど、やっぱり飯場労働だとか目に見 えなくなっているところに関しては、ずっと歴史的に存在する問題で、それは排除されているわけじゃないと思いますよね。どちらかというと派遣労働とかは、 この映画の中で出ていたかたちが少し洗練されて、外に広がったっていう事だと思うんですよね。例えば、グッドウィルは廃業を決めちゃいましたけど、あれ だって結局4割、ピンハネしているわけですよね。仕事を請け負ってきて4割はねて。で、そのかわり自由な働き方ができますよ、こうやって携帯電話でできま すよというようなかたちでやってきたわけで……。直接の、そういうヤクザの暴力支配が及ぶような範囲よりも、はるかにはみ出しておこなわれてるのが現状で す。もちろん、例えば水商売のケースだとか、そういうヤクザがからんでいるところだっていくらでもありますけれども、一般的に広がってる派遣に関しては、 ヤクザが思いっきり浸透しているっていうわけじゃあないと思います。でもこっちの方がもっと恐いなあと。普通の人が普通に仕事を左から右に流して利ざやを 取って、それ以外の人たちをハケン君というかたちで差別してね、まともな権利も与えない。この映画の一番最初の方を観ていて、僕はびっくりしたんだけど、 手配師が仕事を紹介するシーンの時に、9500円って言ってたのね。20年前ですよ。20年前で9500円って……。いま派遣で9500円のデズラある かっていったら、まあ7~8000円で働いてるのが普通で。ひどい所になると、いろいろ天引きされてね、もっと減っちゃうのがありますから。ヤクザ支配も もちろん今なお一部で残っていて問題だけども、それよりもそういったシステムが広がっているっていうことが、問題なんじゃないかと思うんですけどね。
 参加者A ありがとうございました。
 参加者B 今のでちょっと関連して言いますと、労働者派遣法(1986年施行)ができたのはこの映画のすぐ後ですからね。だから映画に出 てくる手配師っていうのは、当時も全部違法なんですよね。で、派遣法で何が変わったのかというと違法が合法になったっていうことですから。だから、昔グッ ドウィルがやったら、グッドウィルはヤクザではないんだけれども非合法だったんですよね。で、非合法でできるのはヤクザだけだったということですよね。
 山口 そうですね、合法化されたんですね。

雇用の形態をめぐって
―経営側によるかってな首切りを許さない

 参加者B それと関連してちょっと聞きたいんですけども、例えば今、かたちが変わってグッドウィルみたいな日雇い派遣というようなかたち になったじゃないですか。で、最近秋葉原の事件とかがあって、じゃあそういうのは止めた方がいいって厚生労働大臣が言ったじゃないですか。でも、ニュース などで見てみるとグッドウィルなんかにすごい頼っていた人が困っていたりするんですけど。山口さんとしては、こういう派遣労働が厚生労働大臣の言うように 一律廃止になっていいと思っているのですか。あるいは、もし廃止された場合その有り得べき姿というのはどういうかたちがいいと考えてますか。
 山口 これはいろいろ論争になってるんですよね。日雇い派遣、日々雇用のかたちっていうのは基本的にこれを違法化しても、もとに戻るだ けっていう話でね。ヤクザ支配に戻るとかいうような話だったら話にならないんだけども。必要な仕事であれば、仕事がそれでなくなるというのは、これはウソ なわけですよね。例えば、そういう日雇い派遣を全面禁止にすると、日雇い派遣で働いてきた人たちは失業してしまうのではないかという議論があるわけなんだ けど。これはまずおかしくて。つまり、そこにそういう仕事があって労働者が必要であれば、常雇いで基本的にやればいいわけでね。長期の雇用を前提として雇 えばいい。それで、長期の雇用を受けた場合に、これは誤解があるんだけども、こちら側の例えば辞める自由がなくなるのかといったら、なくなるわけじゃない わけですよね。今の状況、日雇い派遣の状況っていうのはいくら持続的に仕事したいと思ってもできないし、向こう側が簡単に日々首切れるっていう状況ですよ ね。で、日々首切れるっていうような経営者側の自由をなるべく抑制させていくっていうことが、僕は必要なことだと思います。
働き方の理想っていうのは、それは個々人が本当は選べばいいだけなんですが、今の状況だとこちらが選ぶ余裕もないというか、選ぶような自由度なんかない わけですよね。だからそういう経営側の自由っていうのを何とか抑制していく方向で、やっていかなけりゃいけないというふうには思っています。
 参加者C 登録制で、派遣で働いている方が、山谷に今けっこういるというのを記事で見たことがあるんですけども、山谷で今暮らしている方と山口さんは関わりを持たれているんですか。
 山口 関わりというのは?
 参加者C 組合に入られている方とか。
 山口 ウチの組合の事務所は新宿で、山谷地域とはやっぱり距離があるんで、そこから来る人というのは今のところウチの組合にはいません。 登録型の派遣でいうと、これもいろいろ言われていて本当はちゃんと調べなくちゃいけないことだと思うんですけれども。山谷地域で実際に登録型派遣で働いて いるような、特に若い人たちが山谷地域にどれだけいるのかっていうのも、僕らはちゃんと把握してないんですね。一時期は山谷を忌避して、山谷で仕事を貰う ということではなしに、他の所で仕事貰っているって話はよく聞くんですけどもね。山谷地域で多いんですかねぇ……。
 参加者C 雑誌の記事かなんかでそういうのを見たことがあって、現状はどうなのかなと思いまして。
 山口 すいません、現状として山谷地域でどうかっていうことは、ちょっと把握してないんです。
 司会 おそらくその雑誌の記事というのは、ネットカフェ難民っていう言葉が社会的に取り上げられたあと、そういった若者たちが泊まれる場 所ということでドヤが新たに注目されて。つまり労働者が泊まっていた簡易宿泊施設ですよね。それが、山谷の労働者が高齢化して生活保護を取っていく中で、 ドヤにお客っていうか労働者が来なくなって。それで一時期バックパッカーの人たち……。
 山口 バックパッカーの利用は増えているって話ですね。
 参加者D 今高校1年生で中学3年の後半から貧困の勉強をしているんですけど、さっき「生きさせろ」ということを訴えただけで警察に捕 まったり殺されたりした人がいたじゃないですか。佐藤さんとか山岡さんとかもそういう犠牲者だと思うんですけども。今も「生きさせてほしい」と声を上げた だけで警察に捕まったりする例がありますよね。その事に対してはどう思いますか。
 山口 うん、良くないと思います。昨日も北海道でG8の行動があって、それで新自由主義に反対するデモの中で4人の逮捕者が出ています。 あるいはフリーター労組でも、2年前ですけどね、渋谷、原宿でデモをした時にサウンドデモを中止させられて。それで合計3名が逮捕されています。これは、 この日本社会の中の法意識っていうのがすごく歪んでいて、どんな主張をするにせよ、何かちゃんと人に迷惑を掛けずに、そして法律を守ってというような、ま あ法律は守ってやってるんですけどね。そういうような言い方が多くて。それで一旦逮捕されると、ものすごく不利益がある。その懲らしめのために逮捕する。 例えば、事件にして起訴をするんじゃないとしても、とりあえず捕まえてしまえば23日間拘留できるから。そうなれば働いてる人だったら23日間、「すいま せんけど逮捕されたんで休みます」とか言うわけにもいかないんで。ものすごくみんな萎縮させられる状況にあるんですよね。そういう不当に逮捕されること が、この世の中では普通にあるっていうことをふまえて、それをゆるさないようにしていかなきやいけないと思っています。

労働と生存のための組合
―社会運動と繋がる

 参加者E 映画の中で被害にあわれたというか、辛い目にあわれているのが在日朝鮮人や部落の方もいるということだったんですけれども、今 もそういった方たちの声が組合のほうによく届くのかということと、あと、今政府で外国人の移民一千万人計画というのが進んでいて。それが、例えば新しい カーストというか、すごい低賃金の労働力としてもし使われるようになったら、より日本の人たちの仕事がなくなっちゃうと思うんですけども。そういった移民 計画、今後の労働、仕事を探していくうえでどういうふうにみていけばいいのかを、もし考えていましたら教えて下さい。
 山口 まず一点目の在日の方、あるいは部落出身の方が多いかっていうことで言うと、僕らの組合はまだものすごく小さいですから。そこに対して特に多いっていうふうには言えないですね。
組合といっても、どういう接点で相談に来るかっていうこともあるんですね。ネットを通じて相談に来たりとか、あるいは電話を掛けてきたりとか、直接来所 の相談があったり、あるいは組合員の知り合いの知り合いとかのかたちで来るので。そこからすると、まだまだ僕らは手が無いっていう状況です。
ただやっぱり増えているっていうか、すごく扱ってるケースで多いなと思うのは、英会話学校とか語学学校の、アメリカ人などの外国人ですね。語学学校はひ どいですよ、状況が。日本の法制度の中では労働組合は地域に存在していいんですね。会社に存在しなくたって地域に存在して、その地域に存在する労働組合に 加入していれば、その職場にはたった一人であっても交渉の権利を持つんですよね、交渉権を持ってるんですよね。つまり会社に根ざすことができない組合で も、その権利を利用して個々の企業に対して交渉を行なうことができるんですね。ところが、アメリカは事業所ごとにその過半数の従業員を組織していない組合 というのは交渉権がないんですね。過半数組織しないと交渉権がないんですね。英会話学校の経営者がアメリカ人だったりすると、例えば交渉を申し入れたとす ると、「そんなのはアメリカでは通用しないぞ」っていうような言い方をするわけですね。アメリカでは通用しないと言われてもちょっと困るんだけれど。そう いうかたちで、外国人講師がものすごくひどい労働条件で雇われていたりする事が多いんです。
あと先程の移民一千万人計画っていうことですけれども、これはまず低賃金で働く人たちを入れるという、そもそもの発想に問題があるわけですよね。つま り、外国人だったら低賃金で働くだろうと。日本人が働かないような現場でも外国人だったら低い労働条件で働くだろうということですよね。そのことがまずお かしいわけですよね。それは同一価値労働、同一賃金の原則でちゃんとやるべきだということを、やっぱり組合としては主張していかなければいけないわけで す。そしてもう一つは、この背景というのは東アジア地域における圧倒的な賃金格差がありますよね。その賃金格差の問題は、そこからくるわけだから、それを どうやって是正させていくのかっていうことが、これはまあ単に労働組合だけではできない課題ですけれども、あると思っています。そのためにどうやって、ま あ古い言葉で言えば国際連帯になるんだけれども、繋がっていけるかっていうことを考えています。
 参加者F 活動拠点が新宿という話だったんですけれども、これまで新宿区とかの行政と関わりが活動の中であったりしたんですか。
 山口 まだないですね。先々はやはり、地域の問題として区役所にちゃんと要求をしていかないといけないなと思っているんですけども。ま あ、何せまだ小さな組合なんで、今受けている争議だとか相談に取り組んでいくことがまず第一になっていて。でも、今やっていることは、単に不当解雇を止め させるだけとか、賃金をちゃんと支払わせるだけじゃ、やっぱり終わらないと思うんですよね。例えば仕事をどうやって作っていくかとか。不安定な就労で、結 局どこかの企業に雇われなければ暮らしていけないという状況じゃなくて、どういうふうに仕事を確保していくかとか。特に東京地域だけじゃないんですけれど も、いろんな所で問題になっているのは住居の問題で。日本はすごい住居の、特に東京は住居のコストが高いですよね。賃金安くて、それでクビになったりする と、たちどころに家賃が払えなくなって追い出されちゃう。そういうことをどうしていくのかっていう問題は大きいんですね。そうすると単に企業との交渉だけ ではなくて、行政に対しても何かやっていかなきゃいけないだろうし、そういう手を考えていかなきゃいけないとは思っています。
労働組合っていうのは、単に労働の問題だけで終わらないんですよね。居住の話であるとか、あるいは人の繋がりの問題ですよね。孤立しないでどうやって繋 がっていけるか、繋がりをどうやって作っていくか、あるいは先程も話題になった外国人の人たちとの連携をどうしていくのか。差別をどうやって乗り越えてい くのかということをしっかりやっていかなきゃいけないんですね。そういう意味で社会運動と繋がっていかないといけないし、社会運動的にならなければいけな い側面がものすごく強いんですね。だから僕らは労働組合なんだけど、労働と生存のための組合というふうに主張して、活動の幅をちょっと広げていこうかなと は思っています。まだまだちょっと行政交渉はその先の課題ですけども、そのうちやっていきたいと思っています。
 参加者F ありがとうございます。

「生きたい」と「自由でいたい」
―二つを主張する言葉としてのフリーター

司会 ちょっとお聞きしたいんですけど、今、フリーターの労働者といったときにセーフティネットということが一つ大きな問題になっている と思うんです。で、『山谷』の映画の中に出てきた日雇労働者手帳というか、日雇労働保険ですよね。しばらく前に、あの保険をフリーター層にも適用するとい うような話が出たわけですが、ああいうのは現在セーフティネット的なものとして活用とか機能しているんでしょうか。
山口 これはあそこにね、その専門家が座っているから彼に聞いたほうがいいかもしれないけれど……。グッドウィルとかフルキャストとか有 名な日雇い派遣の会社がありますよね。印紙を貼らせなきゃいけないですよね。印紙を貼る許可を厚生労働省が出さないといけないわけですよね。ところが厚生 労働省がずっと渋っていて。で、フルキャストの渋谷店だったと思うんだけど、渋谷店のみにそれを認めたんですね。だから渋谷店に登録している人はそこの渋 谷店で印紙貼ってもらって、あれ14日稼働か……。
司会 1カ月14日ですね。
山口 そうですね、14日稼働だったらその後アブレ手当てが貰えるっていう仕組みなんですけれども。初めてそういう話を聞く人もいるかも しれないから、ちょっと説明しなきゃいけないけれど、つまり日雇いの人って雇用保険に入れないわけですよね。継続して同じ場所で働いてるわけじゃないか ら、日々別の場所で働くわけだから、失業した時の手当てが貰えないという事があって。それで日雇労働保険に入ると白手帳って言われてたんですけども、手帳 をもらって、日雇いの人たちは働きに行って、そこで手帳に印紙を貼ってもらって、それが月14日以上働いていると、あとは仕事がないときに一定のアブレ手 当て、つまり失業保険が貰えるという事になるわけなんですけど。それがいわゆる日雇い派遣で働いている登録型の派遣の人たちにも適応されるべきだろうとい うことはあったんですけれども。結局、それを適応すると言いながら厚生労働省はそのフルキャストの渋谷店のみに出して。で、ずうっと、例えば他の派遣ユニ オンだとか、グッドウィルユニオンだとかも要求してはきてるんですけれども、なかなかそれは認めない。厚労省そのものが認めない。日雇労働保険を拡大した くないっていうのがすごくあるみたいですね。
参加者G 昔は日雇いという働き方を選んだ本人が悪いっていう見方があって、だんだん変わってきたという話をされていたと思うんですけれど。今、実際活動されていて、企業とか政府とかではなく、一般の見方とか風当たりとかって、どのような感じなんでしょうか。
山口 これはまあ風当たり自体は主観的なものだから。かつてはというか、僕がそういうのを始めた時には、本当に「自己責任」、フリー ターっていったら、もう「自己責任」でおしまいという言われ方をものすごくされたんですね。ところが、まあいろいろ、そうじゃないんじゃないかっていう議 論も出てきて……。「自己責任」だったら自分の問題だから、自分が我慢するか、しないかの話になっちゃうわけだけど。けれど我慢しなくていいんだと。自分 の責任じゃなくて、これはやられてる事が不当なんじゃないかというふうに思う人たちが、組合にけっこう来るようになったし。それで周りからのバッシング も、まあそうですねえ、もしかしたらだんだん慣れてしまって聞こえなくなってるのかもしれないんだけど。
参加者G 変わってきたなって具体的に感じたのは、周りがじゃなくて、そういう不当だって言う人が増えてきたっていうことですか。
山口 そうそう。だから世の中全般からすると、それは「自己責任」って言う人が多いと思いますよ。でも、そういういろんな繋がりができてきて、それは変えられるんだっていうのが、まあ少し広がってきているかなという、希望的な観測をしているんです。
参加者G ありがとうございます。
司会 フリーターという言葉自体が、果たしていいのかどうかっていう気はしますけど、その辺は。
山口 僕は1986年に大学に入った世代なんで、ちょうどまあバブルの時に大学生活を過ごして。かといってバブルの恩恵なんか全くなかっ たんですけどね。それで、だからちょうどフリーター第一世代なんですよ。ただね、僕の時は、多分「自己責任」かなっていう感じもしないでもないんですけど ね。統計を見ると、大学を出ていわゆる非正規雇用に就く人たちの比率って5パーセントくらいだったんですね。ところが、今大学出て就職する人たちのだいた い40パーセントくらいが非正規雇用なんですよね。この数字見ただけで、これは自分の責任じゃないっていうことはわかるわけなんですよね。
ただね、そのフリーターという言葉にこだわるわけでもないんだけれども……。思うのは、今社会的な排除を受けている人たちと繋がり合いながら、自分たち もこの世の中でいらないものとされながらも、でも生きてるって現実はあるわけだから。よく「生きさせろ」とか言いますけれども、生存しているっていうこと を突き出していくことが第一なんですよ。しかし一方で、じゃあ生きるんだったら自由を我慢しなさい。自由にやりたいんだったら生きる事に関して辛くても しょうがないでしょう、みたいな、自由であることと生きること、生存のことを引き替えにしようっていう主張がものすごくこの社会に強いですね。で、これは わがままでも何でもなく、やっぱり生きたいし、そして自由でいたいって両方とも主張したいし、両方とも必要だと思ってるんですね。まあ、だから両方とも主 張する言葉としてフリーターというふうに名乗っていると、そういう意味もあるんです。
司会 だいぶ長くなってしまいました。この場はこれで終わりにしたいと思います。ただ、隣の部屋で少し話ができるような場所を用意してま すので、この映画を観た感想ですとか、あと山口さんにもう少しざっくばらんに聞いてみたいという方は残っていただいて、時間の許す限りご歓談ください。今 日はどうもありがとうございました。
[2008/7/6 planB]

2008年7月6日

plan-B 定期上映会

フリーターって、誰?
山口 素明(フリーター全般労働組合)

フリーター。もうずいぶん前からよく使われている言葉だが、この自由人(?)たちの「自由」は、そんなにロマンチックなものでもない。
そう、──「なるほど諸君は自由だ。ただしその自由は飢える自由だ」──そういう類いの「自由」にちがいない。「フリーター」という言葉の周りには「非正 規雇用」「ワーキング・プア」という語がまとわりついている。これは「不安定」「貧困」と直接に結びつく意味あいがあるだろう。するとフリーターとは、飢 えに至る貧困という不安定な自由を持ったひと、ということになる。
けれどもその「貧困」はフリーターひとりの生活状態というものではなく、人ひとりを「飢え」に至らしめる社会全体の「貧困さ」なのではないか?
今回のミニ・トークは、「フリーター」とともにこの社会の「ありかた」を鋭く問うているフリーター労組の山口素明さんに語っていただきす。──<サミット>前夜に。

都市のこわれかた ① 

北京───「農民工」のなかから
                         孫歌(sun ge:探求者)

 

孫歌 この映画を観て私は日本を見直しました。さっき隣の部屋でこんな話をちょっとしました。今まで、正直に言いますと私は東アジアの中 で最も高く評価したのは韓国社会です。韓国社会は政治社会だ、韓国人は政治的に自分の未来を考えられる人達だと。日本社会も政治性を持ちながら、韓国には 到底かなわないと。なぜそう言っていたかというと、日本には政治運動が足りないとか、あるいは日本人ががんばっていないとかという意味じゃなくて、日本人 が政治参加によって社会環境を改善しようとする努力について、私にはそれを理解するチャンスがほとんどなかったからです。要するに、このような映画を私は 観た事がありませんでしたからです。

……与えられた思考パターン……

少し個人的な話で恐縮ですけれども、私が一回目に日本に来たのは1988年の時です。つまりこの映画がつくられてから三年後の事ですね。その三年の間には日本社会はそれほど根本的に変わったはずがないけれども、私はその時、この社会の存在を知りませんでした。
1988年は中国の天安門事件の前の年でもありました。そして翌年に天安門事件によって中国社会も根本的に変わりました。日本のメディアも、西側のメ ディアも天安門事件は民主主義の運動が弾圧された事件だというふうに一言で片付けましたけれども、実際の歴史はそれほど単純な事ではありませんでした。む しろ天安門事件をきっかけにして、中国のいわゆる市場経済が全面的に展開されまして、そしてその後、農民工という出稼ぎの農民達という人たちも大量に動き 始めました。
1988年に私が初めて日本に来た時に農民工は中国にはいませんでした。その時は貧富の差もそれほど顕著ではありませんでした。それはいわゆる改革開放 の初期の段階にあたる時期でもありまして、その改革が一番成功したのは、都市ではなくてむしろ中国の農村でした。請負制という形で農民達は何十年ぶりに、 自分の使用できるような畑が与えられまして、それで農業も何年かの間、大豊作になりました。
そして、私は日本に滞在する時期に、同じやり方で、つまり土地の使用権を、それは所有権ではなくて使用権を個人に与えるという形で、都市でもやれないか という事で中央指導部の内部で激しく対立した時期でもありました。その時の中国社会の生活レベルは基本的に低い、我々はそれほど豊かではない、近代的では ない生活をしていました。
その時、日本に来て、私は初めての外国での生活をし始めました。目にしたのは本当に豊かな、安定した日本社会。テレビを見たらそういう情報だけ。新聞を 読んだら日本はいかに豊かな生活の中でちょっとした悩みを抱えているという、そういう描き方ばっかりです。だから山谷の存在は私には夢にも思いませんでし た。
そんな時にある日、上野でホームレスの人達を見ました。そしてまわりの日本人に私はこう聞きました。「日本は豊かだと、散々言われたのに何でホームレスがいるんですか?」。
彼らはこういうふうに答えたんです。「日本はねえ、社会は豊かですから、だから働かなくても食べていけるんです。ホームレスなんだけれども、誰かから残り物をもらうとかして、なんとかやっていけますよ。彼らはねえ、いろんな理由で働きたくないだけです」と。
それを信じていいのか。
当時、私は深く考えませんでした。中国にはその時期、こういう現象はほとんどありませんでした。なかったというのは、豊かだったというわけではないで す。自由な移動がその時に許されてなかったんですから、つまり山谷現象はその時の中国では生じる条件が揃っていませんでした。
その時、なぜ日本人はそういうふうに考えているかという疑問をいだいたんです。まあ簡単に結論だけを先に言えば、それこそメディアの作り上げた考え方なん ですよね。がんばれば豊かになる、がんばらない人間はホームレスになる、という考え方です。日雇い労働者は、ホームレスではないのですが、失業してしまえ ば、そうなる可能性があります。彼らの労働条件と生活条件の厳しさについて、「かわいそう」という一言で片付けられます。それで、普通の日本人もついそう いうふうに思うようになったわけです。
だから、この山谷についての映画を観た時に、私は物凄くショックを受けました。この世界の存在自体は私も知っています。だけれども、私の知り方自体、監 督さん達の眼差しとの間にかなりギャップがあるんです。なぜかというと、このような世界を、私達は常にメディアから与えられた思考パターンで把握して考え る、そして感じるわけです。それはつまり、彼らはかわいそうな人間で、搾取されている。なぜそういうふうになっているか。まあ社会は貧富の差を作ってこう いう人達が現れた、と。しかし、いわゆる「貧富の差」はなにか、どの仕組みで再生産されているか、それについて、一向知りません。

……近代社会の基本的構造……

実は全く同じような現象が中国の90年代以後も生じました。そしてそれは日本より遥かに規模は大きいわけです。中国の農村人口は合わせて9億人に近いで すが、しかし与えられた土地はせいぜい3、4億人分くらいしかありません。だから、残りの人間は結局出稼ぎという形で都市に入り込む、そういう選択肢しか ありませんでした。
もちろん他の模索もありました。たとえば、農村で工場を作るとか、いろんな加工の産業を営むとか、それで違う問題も生じるわけです。例えば日本でよく知 られている中国の環境汚染の問題。この環境汚染の問題はどうして発生したか。各地域の労働力を吸収するために、非常に汚染度の高いような、化学工場とか、 あるいは他の加工業とか、そういう場がたくさん作られている。それで環境汚染の問題も生じるわけです。その上、グローバル化の中で先進国の資本も進出し て、自国でやりにくい汚染度の高い産業を中国に移して、汚染問題がますます深刻になります。だけれども、汚染が酷いことだと分かりながらも、なかなかそれ をなくす事は難しいんです。
つまり、なくしてしまえば失業者も出てくるわけです。そして、この映画で描かれている一つのいわゆる近代社会の基本的な構造が、中国にも存在してます。 その構造というのは、社会の富を少数の人間、あるいは少数のグループに集中するために最大限の搾取をしなければならないということです。その搾取の対象に なっているのは、山谷の日雇労働者達を始めとした下層部で生きている人間です。中国の場合には特に農民工という人達がそれにあたります。そして、その搾取 の仕組み自体はけっして政治権力、国家権力に還元できません。目に見えない形で資本と、そして暴力団、それから社会のいろんなレベルの組織、それはすべて ある種の搾取の枠組みの中で組織されています。
この『山谷』の映画は、とっても鮮やかな形で、国家と警察と暴力団と病院と、それから役所などとの、そういう共犯関係を描き出したと思います。このよう な共犯関係は中国の市場経済化のプロセスの中でも形成してしまいました。しかも山谷の労働者より中国の方は楽観的とは言えません。むしろ、合理化された資 本の力と暴力団というような明確な輪郭を持たない、いろんな形で存在している暴力的な勢力が結び付けられて、社会の底辺で生きている、あるいは生きるため の手段をほとんど持たない、貧しい人々を残酷に搾取しています。この搾取が広げていけば、国家でも、社会でも、崩れてしまう可能性があります。
日本の場合と違いまして中国は社会主義の歴史を持っておりました。それは成功したとは言えません。ある意味では社会主義のテストはうまくいかなかったか ら、今の中国は市場経済化という形で資本主義に近いようなシステムに転換しつつある、そういう段階にあたります。その転換のプロセスの中で、じゃあ昔の中 国の社会主義の要素はどのように今日の、この新しい社会システムに組み入れられるか、ということが問われるわけです。これはおそらく政権にとっても大きな 課題ですし、社会にとっても、そして普通の人間にとっても大きな課題になるわけです。

……中国の「ふたつのシステム」……

いくつかの例を上げたいと思います。農民工達は都市に入って大体、都市の人達のやりたくない仕事をします。これはほとんど日本の状況と変わらないと思い ます。彼らは短期間の訓練をうけて、技術的な要求がそれほど高くない仕事をします。たとえば、建築現場で働く農民工達はもともとは農民ですから、ほとんど 建築の技術は持ってないわけですが、短時間の訓練を受けまして、一応、そういう仕事をするわけです。リフォームの仕事も彼らはするわけです。まあ当然彼ら の技術はプロには追いつかないですから、都市の一番重要な建築作業は彼らには任せません。国の建築会社というのは長い間、国営の形で経営されていて、保障 はついている。そこで働く人達はプロの労働者なんです。農民工達はある意味では素人の労働者として雇われていて、給料も非常に低い。そして彼らは国営の会 社ではなくて個人経営の、あるいは民間資本のグループ経営の、そのような会社に雇われています。
彼らが給料を貰えないという事はしばしばあります。一年間働いて、雇い主から給料を貰えない。だからお正月の時にふるさとには戻れないです。これは、か なり一般的な現象なんです。そして抵抗しようとすればたちまちクビにされます。さっきちょっと言及したんだけれども、中国には日本と違って農村人口は膨大 にありますので、だから安い労働力はどんどん都市に入り込むわけです。で、農民工の間に競争関係ができまして、給料が上がらなくても彼らは働かなければな らない。つまり、もし抗議すればクビにされちゃって、都市に来たばかりの農民工が雇われる。そういう状況は長い間続いていたんです。
しかし1999年以後、この問題は社会的に暴露されまして、農民工も含めて各層の良心的な人達、都市の市民達も含めて一緒に抗議運動を起こしました。そして2003年、中国の新しい政権交替がありまして、農民工の待遇の問題を解決するという時期がやってきたんです。
これは日本の状況と違いまして、中央指導部から圧力をかけて上から下にこの農民工の待遇の問題を解決しようとしたんです。温家宝首相は着任して翌年に天 津で談話を発表して「首相として農民工の給料を要求します」と。つまり、雇われた農民は自分の給料を貰うべきだと。これは最低限の常識なんだけれども、一 国の総理がそういうふうにメディアで談話を発表して解決しようとする。これはどういう事なのか。
要するに中国では今二つのシステム、強いて言えば社会主義の名残り、そして資本主義のシステム、それもまだどっちもある意味では中途半端なんですけれど も、この二つの仕組みが併存して互いに交じりあって葛藤している、そういう状況の反映だと思います。だけれども、きれいな社会主義ときれいな資本主義とい うものはそもそも存在しませんので、私達は結局システムからみるんじゃなくて、状況の中でいろんな要素を判明させ、それを区別しなければならないのです。

……温鉄軍の分析……

もう一つ例を上げます。中国では農村建設運動をある意味ではずっとリードした人がいます。温鉄軍さんという、今中国人民大学の教授なんですけれども、彼は1980年代に農村改革の現場でいろいろ実験をやった方でもあります。
彼には一つの一貫した主張がありました。中国の農村改革で土地の使用権を個人に与える、これは結構です。しかし所有権は個人に与えてはいけません。国有にしておかないと危ない事になる、という。
なぜそういう話をしたかというと、彼は日本の山谷の事は知りませんけれども、南アメリカにいた時に、例えばメキシコに行ってそこで大規模なスラムを見た 事があります。その農民達は土地を持たない、だから居場所がない。大都市に入り込んで都市も私有化しているから、個人の土地に踏み込んじゃいけないから、 結局国有の鉄道のそばでスラムを作ったんです。同じ現象はインドにもあるようです。だから農民達は、土地を持たなければいかに危険な事になるかと。彼らは 結局一番危ない鉄道のそばで暮らさなければならないのです。
で、温さんは中国政府は国有という形で土地の所有権を握る事によって、全ての農民達が自分の土地の使用権を持つという最低限の権利を守ろうと強く主張しているんです。
それについて今中国で激しく論争しているんです。結論はまだ十分には出されてないですけれども、いわゆる民主主義を主張する自由主義者達は、中国の国有 はいかにひどい事か、いかに普通の人間の権利を奪っているかと批判して、全ての農民達に土地の所有権を与えるべきだと、そういうふうに強く主張しているん です。そして、温さんに対しては、政府のペットだ、政府のために働いていると批判しています。
だけれども、農民達に本当に土地を与えたらどういう現象になるか。これは温さんの分析なんだけれども、農民達には、巧みに自分の土地によって富を作れる 人達もいるし、下手な人もいるんです。土地を貰った貧しい農民達は、できる人はこの土地によっていろんな農産物を作る事を考えるんだけれども、できない人 はたちまちそれを売ってしまう。ですから、私有化になっておそらく短い間に土地は少数の人達の手に集中してしまうだろう。それで土地を失ってしまう人達は 村から出なければならない。彼らの未来を誰が保障できるか。小国だったら、人口が少ない場合だったら、それはまだ問題はひどくないけれども、中国のような 大きな農民国の中で、土地を持たない農民を多数作り出すという事は一体これはどういう事なのかと。これが温さんの論理なんです。
私は現場で働いた、あるいは調べた事はないけれども、でも経験で考えれば温さんの判断には一理あると思います。ただし、一つ問題になるのは、その土地の 所有権を国に与える場合には、国はこの所有権を正しく守れるかどうか、そこはおそらく温さんの予想を越えた問題なんです。
農民工達が90年代の初め頃に現れてもう20年近い、そういう時間が経ちました。農民工達も都市に住んでいて、慣れていて成長しました。彼らは都市の新 しい人間として今自分の居場所を作っている、そういう時期に入ってきたんです。そして『山谷』という映画の中で表現されたような農民工達の集団的な抗議活 動、自分を搾取する雇い主とのやりとり、そういう事は中国各地で増えつつあります。

……「下からの圧力」……

この映画の話に戻りますと、この映画で私が一番学んだのは、中国社会の在り方を政治的に見るという事なんです。つまり農民工達はかわいそうな人間だ、搾 取をされている、格差があるんだと、そういう一般論で中国社会と中国の農民工を見ないで、もっとこの両監督の眼差しで、農民工の実際の置かれている状況に 即して、彼らの在り方を見る。そして彼らと中国社会の関係を見る、ということなんです。
確かに中国をどう見るかというのは、問題になります。おそらく日本のメディアによって再生産されてきた中国のイメージは非常に動かない、そして単純なも のだと思います。例えば中国政治で言えば言論不自由、そして民主主義は足りない。で、人民には権利が与えられていない、と。そして独裁社会から徐々に徐々 に民主化していくと、そういう枠組みで中国社会を見ているわけです。
逆に中国の中で、農民工達を見る場合には、いかにして差別をなくすかという事はホットな話題になるわけです。特に大都市の市民は、ある微妙な難題に直面 しています。差別をなくすというスローガンによって、ある意味では自分の優位を確認するという、まあ一種の矛盾する思惟構造をも作り出しているんです。
しかし、農民を、特に農民工の在り方を見る事によって、中国社会の在り方を考えるという思考法はまだ十分にはできていないわけです。これだけの農村人口 があって、そして、かなり不安定な生活を送りながら中国社会のバランスがどうやって取れるか、こういう悩みは中央政府と民間人の間で、中身はともかくとし てほとんど一致していると思います。中国社会が安定していなければ、おそらく世界も安定しないでしょう。
そこで我々にとって、一つの政治的な課題も生じるわけです。いかにして中央部から各層の官僚機構まで政治権力を最大限に動員して、あるいは圧力をかける 事によって、それを利用して、中国の農民工の問題を解決できるか、というのですね。そのためには、「下からの圧力」はまず必要です。
去年から中央政府は圧力を受けまして新しい政策を発表しました。農民を国民にするという政策で、つまり都市の人達と同じ権利を与えることです。
これはどういう事かというと、新中国、つまり1949年以後の中国は工業化を実現するために、農村人口と都市人口を分けて、違う制度を作ったんです。農 村人口は総人口の三分の二以上、あるいは五分の四に近い、そういう多数の人達は農村人口にして、この人達は戸籍上では都市に入ってはいけない。そして都市 には労働者という階層を作りました。労働者の待遇は農民の待遇と違います。つまり、医療の保障はある程度付いている。そして生活の保障もされています。た だ、その時に都市と農村の経済的な差はそれほど大きくはありませんでした。そこから動員された経済力は全部工業化に投入されたんです。
そしていわゆる文化大革命が発生しました。これは日本でイメージされたのは非常に単純なものですけれども、中国の文化大革命はそう簡単なものではありません。
中国の工業化は文革中に完成しました。そして農村のインフラ整備も文革中に完成しました。その時、私も高校を卒業して農村に下放されました。つまり入隊 した経験があります。私もその時の農村インフラ整備の建設運動に参加しましたが、それは全部タダでやりました。給料なし、お金は一銭も貰えない。都市もほ とんど同じやり方でした。みんなタダで働いてこの国を良い国にしようとしたんです。
非常にユニークな現象でもありますけれども、中国の農村の請負という制度ができたのは1981年でした。その翌年に全国的に大豊作になりました。で、な ぜそうなったか。現象面で考えれば、個人的な積極性が出たから、と考えられるでしょうが、実はそうではありません。何年か経ってからもあれだけの豊作はあ りませんでした。なぜそれはできたかというと、あの文革の最後の時期にできたインフラ整備が、請負制度が出来たその時になって威力を発揮したんです。けれ ども、その後、個人経営になってしまってインフラ整備を続けた人間は一人もいませんでした。それで豊作もだんだんと出来なくなってしまいました。

……太陽は屈折して昇る……

それで、もう一度農村でそういう協力の枠組みを作ろうと、合作社という形で今、新農村建設運動はおこなわれています。その運動によって、打工者として都 市に出た農民達がUターンという形で農村に戻ろうとする、その動きも今あらわれました。ですから、打工者の運命もこれからは違う形で展開していくだろうと いう事も仮説としてありうるわけです。その一方、不正な扱いを受けながらも、がんばって都市で市民権を取ろうとする打工者も大勢いるんです。彼らは今でも 都市でがんばっています。
『山谷』という映画で描かれた、そういう国家と暴力団と資本と、そしていろんな社会層の差別、搾取の構造自体は中国でも、今できて、消えていないです。 その中でどのように新しい可能性を作り出せるかと、これは我々の課題でもありますし、おそらく日本の課題でもあると思います。
この『山谷』は、唯一の映画として永遠に残っていくだろうと、今、私は日本人の代わりに誇りを持って、そう思っています。だけれども、山谷での厳しい現 象はおそらく今の日本で、違う形で存在しているだろう。それは解決にはならないでしょう。この映画の最後に太陽が昇っていくんです。正直に言って私は最初 の時は不満でした。これは中国でよくいう「明るい尻尾」というものだ、と思いました。そういうむりやりに希望を与えるものなら、リアリティが足りますか、 と考えていました。
だけど、もし私がこの映画を作れば、どういう尻尾をつけるのでしょうか。結論で言えば、やはり私も太陽を昇らせようと、それしかないと、考えました。け れども、その太陽は一直線に昇ることはできないかもしれません。私達は屈折した昇り方をつくらなければならない。私はこの映画を観て最初に不満だったけれ ども、最後に納得した理由はこれなんです。これは、二人の監督さんの残してくれた大きな課題だと思います。私たちは屈折した形で、太陽を昇らせましょう。

……暴力そのものの存在……

司会 最後は力強いアジテーションで終わりました。時間はあまりないんですけれども、いまの孫歌さんのお話に質問かご意見がありましたら、二、三、受けたいと思います。
 大変素晴らしい話で物凄く嬉しかったですね。それでは、ちょっと聞きたいんですけども、『長江哀歌』っていう中国映画、去年僕は日本 で観たんですよ。それは、長江の三峡ダムの建設をめぐるもので、それこそ農民工の人達を描いたものだったんです。原題はブレヒトの辞をもじったものだった んです。で、その映像が、僕は『山谷』の映画に似てるなっていう事を強く感じて、かつそれがブレヒトの辞のもじりであるっていうところに……。実はこの映 画の音楽を担当した人達がブレヒト達と一緒にやった音楽家達の影響を受けているというので、そういうのも感銘受けたんですけども。あの映画はどういうふう にご覧になりましたか。
孫歌 申し訳ないです、私はまだ観てないです。ただ、その映画は良かったという定評を聞きました。ずうっと、DVDを探してまだ見つかっ ていないんです。その時、日本で大変尊敬された張藝謀・大監督が自分のつまらない商業映画を一斉に映画館に出して、それでその映画は排除されてしまったら しいです。だから私が観ようとした時には、もうどこにも上映していませんでした。
 今の孫歌さんの話の中で、暴力団というか、非合法的な勢力の事が出てきましたよね。日本の場合は暴力団という存在は、江戸時代から あったと思うんですけども、近代化の過程によっていろいろ彼らも変質してきていて、あんまり単純には言えないかなとは思うんですが、では中国の場合、彼ら は今どんな在り方なんでしょうか。
孫歌 これは本当に重要な問題です。中国には日本のような暴力団は存在してません。けれども闇の社会、つまり非合法的な事をするために必要とされる暴力 が存在します。日本の暴力団について私はあまり詳しくないんですけれども、非常に組織的にある特徴を持っているんですよね。中国のは暴力団というより、い ろんな形で存在している暴力そのものです。
例えば、ある村の人達が自分の土地を守るために、土地を安いお金で買って住宅を建てようとする会社と衝突する。その時、農民達は自分の土地の上でテント を建てて住み込む。そうすると、この会社は暴力団とは言えないけれども何ものかを雇って、この農民達を殴って死者も出すくらいの大事件がありました。この ような衝突は農村のあちこちで生じているんです。
農民達はその後、法律によって自分を守るという行動を取るわけです。けれども、一番考えさせられるのは、この暴力的な存在自体は非合法的でありながら裁 かれていない。ただ、警察は全部彼らを無視するわけでもない。場合によれば、この暴力を振るった人達は、ある程度処罰される。だから状況はちょっと一定し てないです。しかし、この暴力が持続するかどうか、つまり持続する事自体が暴力団の特徴なんですから、中国のそういう暴力的な勢力はどういう形で持続して いるのか、今それについての情報は私にはわかりません。けれども暴力の存在自体は確かなんです。

……農民工と労働者の差異……

 最近中国で労働者について語るのはタブーだって聞いたんです。僕はずうっと中国は労働者の国だと思っていたんですけども、どういう定 義を今してるのか。既存の枠から漏れるような労働者、例えば山谷労働者は漏れちゃうじゃないですか。農民工というのはどういう位置付けでどういう背景で労 働者として語られているのか。さっき孫歌さんの話の中で、温家宝首相が農民工の問題を解決しなければならないって言った、その時の農民工の扱いというのは どういう労働者だったのか、ちょっと聞きたいんですけども。
孫歌 毛沢東時代には、労働者と農民は二種類の人なんです。共に中国の主人公なんですが、労働者、農民と兵隊、この三者はその時の若い人 にとって、憧れの対象ではあるんだけれども、でも、労働者とか兵隊とかに、若い人達は憧れていたんです。農民になろうとする人間はあるにはあるのですが、 少ないです。
その時の労働者とは、都市で訓練を受けて技術を持っている。そして技術的な、あるいは肉体的な労働に従事する人達、それが労働者というイメージなんで す。今でもそういうプロの労働者達は存在しています。農民の場合には元々の仕事は畑仕事なんで、畑仕事のプロなんですよ。私は下放されて、そういうプロは 簡単になれないことがよく分かりました。しかし、改革開放によって彼らは都市に入ってきて、そして都市の労働者達のやらない仕事、あるいはやろうとしない 仕事をやります。例えばエアコンを付けるとか、電気屋の製品配達とか、そういう仕事はほとんど農民工がやってるんです。都市の労働者達は、例えばでかい建 物を、国家のオペラ座とかを建てるんです。そして普通のアパートの内装とかの仕事も農民工がやってるんです。アパートを建てる事も農民工はやってるんで す。そういう区別はあるんだけれども、今はだんだんとその境界線が曖昧になってきたんです。打工の人達もかなり技術を身に付けてプロの労働者になっている んです。
そこからもう一つ潜在的な差異があります。昔ながらの労働者達は都市の戸籍を持っています。しかし、彼ら打工者達は都市の戸籍を持たない人間が多数派な んです。例えば北京のような所に来た打工者達はほとんど北京の戸籍を持たないです。それはどういうことを意味するかというと、たとえば、彼らの子供は、学 校に入る時に、北京の子供より多めにお金を払わなければならない。つまり北京人ではないから。北京の学校は限られているから。
でも最近は北京の人達の努力によって、そういう差別はなくされたようです。私は小学校と付き合うチャンスはないから確認してないけど、新聞で読んで打工 者の子供達も北京の子供と平等に学校に入れるようになったと、そういうふうに報道されていました。あとは保険の問題とかいろんな問題は打工者と都市の労働 者との間に、やはり違いがあります。
(了)
(2008年3月15日 Plan-B )─見出し等は上映委がつけました。

2008年3月15日

plan-B 定期上映会

上映後の講演:都市のこわれかた──①北京 「農民工」のなかから
講師:孫 歌(sun ge : 探求者)

『山谷』の視線から学んだこと
激しく発展している中国をどう見るか。中国の打工者をどう思うか。格差、安い賃金、厳しい労働条件、都市の市民権が得られない「二等国民」…… そしてこのような打工者は、国境を越えて日本にも進出して日本労働者との競争に強いられているのだ。
その一方、中国では、ひどい汚染を伴う大量な「違法産業」、農地の廃置や食料安全の破壊など、いわば近代過程のつき物も後を絶たせない。
今日の世界は、資本の論理で作られている。国家権力、警察システム、法律の「中立」は、いずれもその論理を免れない。暴力団の暴行はどの社会においてもこのようなシステムの本質を象徴している。
『山谷』は、このような矛盾を濃縮して見せてくれた。鮮烈な形で差別の構造を顕にしたこの傑作は、日本社会に内在している病を暴露することに止まらず、グローバル化の中で、先進国の日本と途上国の中国の間、すでに現れている新たな差別構造をも暗示しているのだ。
そしてわれわれは、山谷の労働者から、佐藤、山岡両監督のまなざしから、いったい何が得られるのであろうか。