2008年11月29日

plan-B 定期上映会

講演:「都市のこわれかた②──68-08/新宿」
講師:平井玄(音楽批評)
* * * * *
「1968年」について、みんなが何か言えという。
―困ったことだ。だって私は、あの年の春に高校に入ったばかりの16歳。正確にいえば15歳と11か月で、小田実を「おだみのる」と読んで、新しくできた 友達に鼻で笑われるような少年だったからだ。そのマシュルーム・カット(初期ビートルズのあの髪型)のY君は、そのころ筑摩書房から出ていた『展望』とい う雑誌の編集長の三男坊だった。
そこから「怒濤のような3年間」が始まった―ような気も確かにするけど、そんな訳はない。うろうろ、ごそごそと、後ろからついていっただけ。いつも何かに 「後ろ髪」を引かれ続けていたのだった。だから私の「68年」は、実は1972年に始まる。前川國男の新宿紀伊國屋本店から2丁目の薄暗い路地裏へ。
聞き飽きた「世代の物語」を超えて、40年後に何を語ることができるのだろうか?

反貧困プロジェクト『山谷-やられたらやりかえせ』札幌上映会

「山谷-やられたらやりかえせ」は1985年に発表されたドキュメンタリーです。東京の一角にある寄せ場と呼ばれる日雇い労働者の街の生活実態や悪徳事 業者に対する闘いが記録されています。日雇い派遣・フリーターなど非正規雇用者が増加し、日本社会全体の寄せ場化が進んでいるといわれる今、この映画が映 し出す底辺におかれた労働者の状況と、それを支える資本や国家、搾取や暴力の構造について知り、現在の私たちの状況とどう結びつくのか、状況を覆すにはど うしたらいいのか考えます。

10月5日(日)14:00開場 14:30~1回目上映
16:40~「山谷」制作上映委員会のメンバーによるトーク
18:00~2回目上映
会場:北海道大学学術交流会館(札幌市北区北8西5)
主催:NPO法人 さっぽろ自由学校「遊」

2008年9月29日

ドキュメンタリー・ドリーム・ショー-山形in東京2008

「山谷は日雇い労働者が集住する東京の「寄せ場」。右翼やヤクザに搾取され、雇用者の言いなりの彼らは、組合を組織して労働条件を改善しようと激しい争議 を始める。監督佐藤満夫が撮影11日目に刺殺される。制作上映委員会が使命を引き継ぎ、全国の労働者の生き様を描く映画を完成。”派遣労働”が切り捨てら れる今と照らし合わせても興味深い。」

9月29日(月) 21:00~ ポレポレ東中野

2008年9月15日・16日

カナザワ映画祭フィルマゲドン

「労働者の町 山谷での日雇い労働者と、天皇主義右翼を名乗って労働者を暴力的に支配・統合しようとする暴力団との闘いを記録。佐藤監督はこの作品の撮影中に、その遺志 を継いだ山岡監督はこの作品の完成後に暴力団が放った殺し屋により殺害された。佐藤監督が襲撃され命を奪われる瞬間からこの作品が始まる。」

9月15日(月・祝日) 12:20~  金沢21世紀美術館シアター21
9月16日(火) 18:15~  シネモンド

フリーターって、誰?

映画「山谷」とフリーター労組

山口素明(フリーター全般労働組合)

フリーター労組をやっている山口といいます、よろしくお願いします。この『山谷』の映画は、僕が学生の時に、僕は86年に大学に入っているので、その時 に大学祭で観たのが一番最初でした。まあ、まさかその20年後、労働組合やっているとは思わなかったのですけれども。この『山谷』の中でいろいろ、越冬の シーンとか出てきますけれども、そこにも支援に行ったりしていました。それからまあいろいろあって、フリーター労組っていう組合をいまやっています。
この映画、今自分たちが扱っているというか、やっている事と、非常に距離のある部分とすごく共通する部分があるなあと思って、今回観ていました。
距離のある部分っていうのは、まだ僕らがやっている組合はすごく小さく、まあショボショボやっている感じなので……。映画の途中で悪徳手配師を追及した りとか、あるいは飯場に押し掛けて行って団交やったりとかのシーンがいろいろ出てきたと思うのですけれど、そこまでしっかり自分たちはできているかという と、やっぱり距離があるし。あるいは、山谷っていう地域、場所があって、その場所の中で、野垂れ死にをゆるさないということや賃金不払いだとか、様々な不 当な扱いをゆるさないっていう闘いができていると思うんですが。フリーター労組で扱っているケースだとそういった特定の場所を持てないというか、特定の場 所がなくて、いろいろ様々な現場で仲間がなく孤立して、それでもうギリギリになって、どうしたらいいかっていうふうに相談がくるケースが多いので、そうい う地域っていうか場所を持てないというところですごく開きがあるなあという感じがしました。
共通しているのは、フリーターにしろ、派遣で働いている人にしろ、あるいは最近多いのは自営化されて個人請負ということで労働法の保護の下に入らないか たちで働かされている人たちがいまして。その人たちが多く経験するのが、結局徹底的に物扱いされて不要、いらないもの扱いされていくっていうことです。そ の点がすごく共通していて……。それに対する怒りというか、そこをどうしてもゆるさないっていう気持ちで相談に来る人たちがいます。それを人間として生き ているということをどうやって認めさせていくか、まともな扱いをさせるかっていうところに関してはすごく共通しているなと思いました。
学生の時は気が付かなかったんですけれども、今日この映画を観ていて初めて気がついたのは、押し掛けて飯場で団交やっている時に何を要求しているかって 言ったら、まずちゃんと話をしようっていう事を要求しているんですね。ああそうだった、そうだった、ちゃんと話をしようということを要求しているのかと 思って。その辺りは、今僕らが、交渉を申し入れて応じない所に対して、とにかくちゃんと話をしろよという形にもっていくのとまったく同じだなあと思って。 ちょっと自分的には感じ入るところがあったなあと思いました。
ここでちょっとフリーター労組を紹介しておきますと、フリーター労組っていうのは2004年にできた組合で、フリーターでも正規の雇用でも入れる、不安 定な暮らしを強いられている人たちの組合ということです。結成してから4年弱、まもなく4年になるわけなんですが、大体100名弱の組合員がいます。僕は 少しフリーター労組って言うには年かさがいっているんですが、まあだいたい20代、30代が中心の組合です。
それで相談に来るケースを、ちょっと紹介しておきますと……いちばん最初に僕らが扱ったのは、ある歯医者さんに勤めていた女性のケースなんです。メール で「明日から来なくていいから」と。で「気まずいだろうから、荷物は送ってあげるよ」と。「もう二度と来なくていいよ」っていうようなメール一本で解雇さ れた、そういうケースでした。もう絶対にゆるせない、もちろんそんな所で二度と働きたくないっていう思いもありつつ、しかしそんな扱いはゆるさないという ことで、相談に来て。それで交渉して解雇を撤回させるっていう交渉をやってきました。
あるいはネットワークビジネスの人とか。これも映画の中で出てきたシーンで、凍えそうになってこうやって固まっているオッチャンの姿がありますけれど、 おじやもらって「大丈夫?」って声かけられて、それで「オレはやるよ」っていうことを言うんですね。あの場面、僕も学生のとき観てすごく印象に残ってい て。そこをどう観るかっていうのはすごく複雑な、まあいろいろな議論があると思うんですけれども。やる気を見せるとか、働けるとか、自分はそこでやってい く力があることを見せ続けていくっていうのが、このネットワークビジネスの人の相談を聞いていて思い出されたんです。それがすごく労働者を苦しめていくん ですね。ネットワークビジネスなんて関係を食い潰していく仕事で、本人はネットワークビジネスの管理の側で就職したんで、むしろそれをやらせている形に なっていたわけなんですけれども。むしろ解雇されてね、そういう悪徳商売に関わらずにすんで良かったんじゃないかって話もあるんですが。
とにかく仕事をする能力を見せろと。「仕事をする能力がちゃんとお前ないだろう」ということでずうっといじめられて、それで解雇になるんですね。
そういった人たちが基本的にフリーター労組に加盟しているという感じになっています。
労組の活動としてできていることは、まだそんなにたいしたことではなくて。これからいろいろやっていかなきゃいけないことも多いんですけれども……。

かつての「寄せ場」が溢れだした
―「自己責任」という言葉にさらされて

映画で描かれている80年代の半ばから20年経て思うのは、この寄せ場の状況というのは、山谷をはじめ笹島、釜ヶ崎などが映画に出てきましたけれども、 かつてはそういう地域の中に押し込められていたと思うんですね。ところが今起こっている状況は、それがすごく外に溢れだしてきているっていうことなんじゃ ないかと思います。非正規雇用全体というのは、今は全雇用者の3分の1ぐらいを占めています。その雇用だけじゃなくて、先程言ったような個人請負というこ とで労働法の保護に入らないかたちで働かされている人たちも増えてきていると。
映画の中で典型的な飯場の原型が、福岡の例で紹介されていましたけれども、それと同じように、今もレストボックスというかたちで、住居も与えて仕事も与 えると。そこで働かせるっていうのは山手線の周辺にいくらでもあります。そういうかたちで非正規の問題であるとか、あるいは飯場労働の問題であるとかは、 今もこの社会の中に偏在っていうか、あちこちに見られるようになってきていると思うんです。
その中で僕らが直面してきたのは自分たちが厳しい状況に置かれて、例えば、まともに賃金を貰えないとか、あるいは不当な扱いを受けて解雇されるとかに対 して、これまでずっと「自己責任」という言葉ですまされてきて。そんな不安定な状況を選んだのは自分の責任じゃないかと、そういう不安定な状況に陥って貧 しいのは自分の責任じゃないかというような言葉がずっと投げ掛けられていて。それを働いている側もすごく内面化してきて、自分がそうなんだっていうふうに 思ってきたところがあると思うんですね。
けれども、フリーター労組は、それはそうじゃないっていうことを、これは社会責任の問題であって、賃金がまともに支払われないのは経営の問題であって、 働いている側の問題じゃないっていうことをずうっと言い続ける組合として活動してきています。それがこの社会の中で、人が物として扱われて人間として扱わ れないというような状況を変えていく一つのきっかけになっていけばいいかなと思ってます。
ええ、よくわからないままザアっと話してしまったので、少し何か質問をくれればありがたいかなと思います。

ヤクザ支配よりひどいシステム
―グッドウィルは4割ピンハネ

 司会 それではちょっと山口さんに、何か、今の労働者の現状ですとか、運動の状況だとかに関して質問といいますか、聞きたいことを具体的に出していただければ、山口さんの方も少し話がしやすいかなあと思うのですが。何かないでしょうか?
 参加者A この映画だとけっこう暴力団が関わってきてたんですけれど、現在の派遣労働とかには暴力団は今どういうかたちになっているんですか。
 山口 どうなんでしょうねえ。僕らが出会っているところではそんなかたちでは出ていないと思いますけれど、やっぱり飯場労働だとか目に見 えなくなっているところに関しては、ずっと歴史的に存在する問題で、それは排除されているわけじゃないと思いますよね。どちらかというと派遣労働とかは、 この映画の中で出ていたかたちが少し洗練されて、外に広がったっていう事だと思うんですよね。例えば、グッドウィルは廃業を決めちゃいましたけど、あれ だって結局4割、ピンハネしているわけですよね。仕事を請け負ってきて4割はねて。で、そのかわり自由な働き方ができますよ、こうやって携帯電話でできま すよというようなかたちでやってきたわけで……。直接の、そういうヤクザの暴力支配が及ぶような範囲よりも、はるかにはみ出しておこなわれてるのが現状で す。もちろん、例えば水商売のケースだとか、そういうヤクザがからんでいるところだっていくらでもありますけれども、一般的に広がってる派遣に関しては、 ヤクザが思いっきり浸透しているっていうわけじゃあないと思います。でもこっちの方がもっと恐いなあと。普通の人が普通に仕事を左から右に流して利ざやを 取って、それ以外の人たちをハケン君というかたちで差別してね、まともな権利も与えない。この映画の一番最初の方を観ていて、僕はびっくりしたんだけど、 手配師が仕事を紹介するシーンの時に、9500円って言ってたのね。20年前ですよ。20年前で9500円って……。いま派遣で9500円のデズラある かっていったら、まあ7~8000円で働いてるのが普通で。ひどい所になると、いろいろ天引きされてね、もっと減っちゃうのがありますから。ヤクザ支配も もちろん今なお一部で残っていて問題だけども、それよりもそういったシステムが広がっているっていうことが、問題なんじゃないかと思うんですけどね。
 参加者A ありがとうございました。
 参加者B 今のでちょっと関連して言いますと、労働者派遣法(1986年施行)ができたのはこの映画のすぐ後ですからね。だから映画に出 てくる手配師っていうのは、当時も全部違法なんですよね。で、派遣法で何が変わったのかというと違法が合法になったっていうことですから。だから、昔グッ ドウィルがやったら、グッドウィルはヤクザではないんだけれども非合法だったんですよね。で、非合法でできるのはヤクザだけだったということですよね。
 山口 そうですね、合法化されたんですね。

雇用の形態をめぐって
―経営側によるかってな首切りを許さない

 参加者B それと関連してちょっと聞きたいんですけども、例えば今、かたちが変わってグッドウィルみたいな日雇い派遣というようなかたち になったじゃないですか。で、最近秋葉原の事件とかがあって、じゃあそういうのは止めた方がいいって厚生労働大臣が言ったじゃないですか。でも、ニュース などで見てみるとグッドウィルなんかにすごい頼っていた人が困っていたりするんですけど。山口さんとしては、こういう派遣労働が厚生労働大臣の言うように 一律廃止になっていいと思っているのですか。あるいは、もし廃止された場合その有り得べき姿というのはどういうかたちがいいと考えてますか。
 山口 これはいろいろ論争になってるんですよね。日雇い派遣、日々雇用のかたちっていうのは基本的にこれを違法化しても、もとに戻るだ けっていう話でね。ヤクザ支配に戻るとかいうような話だったら話にならないんだけども。必要な仕事であれば、仕事がそれでなくなるというのは、これはウソ なわけですよね。例えば、そういう日雇い派遣を全面禁止にすると、日雇い派遣で働いてきた人たちは失業してしまうのではないかという議論があるわけなんだ けど。これはまずおかしくて。つまり、そこにそういう仕事があって労働者が必要であれば、常雇いで基本的にやればいいわけでね。長期の雇用を前提として雇 えばいい。それで、長期の雇用を受けた場合に、これは誤解があるんだけども、こちら側の例えば辞める自由がなくなるのかといったら、なくなるわけじゃない わけですよね。今の状況、日雇い派遣の状況っていうのはいくら持続的に仕事したいと思ってもできないし、向こう側が簡単に日々首切れるっていう状況ですよ ね。で、日々首切れるっていうような経営者側の自由をなるべく抑制させていくっていうことが、僕は必要なことだと思います。
働き方の理想っていうのは、それは個々人が本当は選べばいいだけなんですが、今の状況だとこちらが選ぶ余裕もないというか、選ぶような自由度なんかない わけですよね。だからそういう経営側の自由っていうのを何とか抑制していく方向で、やっていかなけりゃいけないというふうには思っています。
 参加者C 登録制で、派遣で働いている方が、山谷に今けっこういるというのを記事で見たことがあるんですけども、山谷で今暮らしている方と山口さんは関わりを持たれているんですか。
 山口 関わりというのは?
 参加者C 組合に入られている方とか。
 山口 ウチの組合の事務所は新宿で、山谷地域とはやっぱり距離があるんで、そこから来る人というのは今のところウチの組合にはいません。 登録型の派遣でいうと、これもいろいろ言われていて本当はちゃんと調べなくちゃいけないことだと思うんですけれども。山谷地域で実際に登録型派遣で働いて いるような、特に若い人たちが山谷地域にどれだけいるのかっていうのも、僕らはちゃんと把握してないんですね。一時期は山谷を忌避して、山谷で仕事を貰う ということではなしに、他の所で仕事貰っているって話はよく聞くんですけどもね。山谷地域で多いんですかねぇ……。
 参加者C 雑誌の記事かなんかでそういうのを見たことがあって、現状はどうなのかなと思いまして。
 山口 すいません、現状として山谷地域でどうかっていうことは、ちょっと把握してないんです。
 司会 おそらくその雑誌の記事というのは、ネットカフェ難民っていう言葉が社会的に取り上げられたあと、そういった若者たちが泊まれる場 所ということでドヤが新たに注目されて。つまり労働者が泊まっていた簡易宿泊施設ですよね。それが、山谷の労働者が高齢化して生活保護を取っていく中で、 ドヤにお客っていうか労働者が来なくなって。それで一時期バックパッカーの人たち……。
 山口 バックパッカーの利用は増えているって話ですね。
 参加者D 今高校1年生で中学3年の後半から貧困の勉強をしているんですけど、さっき「生きさせろ」ということを訴えただけで警察に捕 まったり殺されたりした人がいたじゃないですか。佐藤さんとか山岡さんとかもそういう犠牲者だと思うんですけども。今も「生きさせてほしい」と声を上げた だけで警察に捕まったりする例がありますよね。その事に対してはどう思いますか。
 山口 うん、良くないと思います。昨日も北海道でG8の行動があって、それで新自由主義に反対するデモの中で4人の逮捕者が出ています。 あるいはフリーター労組でも、2年前ですけどね、渋谷、原宿でデモをした時にサウンドデモを中止させられて。それで合計3名が逮捕されています。これは、 この日本社会の中の法意識っていうのがすごく歪んでいて、どんな主張をするにせよ、何かちゃんと人に迷惑を掛けずに、そして法律を守ってというような、ま あ法律は守ってやってるんですけどね。そういうような言い方が多くて。それで一旦逮捕されると、ものすごく不利益がある。その懲らしめのために逮捕する。 例えば、事件にして起訴をするんじゃないとしても、とりあえず捕まえてしまえば23日間拘留できるから。そうなれば働いてる人だったら23日間、「すいま せんけど逮捕されたんで休みます」とか言うわけにもいかないんで。ものすごくみんな萎縮させられる状況にあるんですよね。そういう不当に逮捕されること が、この世の中では普通にあるっていうことをふまえて、それをゆるさないようにしていかなきやいけないと思っています。

労働と生存のための組合
―社会運動と繋がる

 参加者E 映画の中で被害にあわれたというか、辛い目にあわれているのが在日朝鮮人や部落の方もいるということだったんですけれども、今 もそういった方たちの声が組合のほうによく届くのかということと、あと、今政府で外国人の移民一千万人計画というのが進んでいて。それが、例えば新しい カーストというか、すごい低賃金の労働力としてもし使われるようになったら、より日本の人たちの仕事がなくなっちゃうと思うんですけども。そういった移民 計画、今後の労働、仕事を探していくうえでどういうふうにみていけばいいのかを、もし考えていましたら教えて下さい。
 山口 まず一点目の在日の方、あるいは部落出身の方が多いかっていうことで言うと、僕らの組合はまだものすごく小さいですから。そこに対して特に多いっていうふうには言えないですね。
組合といっても、どういう接点で相談に来るかっていうこともあるんですね。ネットを通じて相談に来たりとか、あるいは電話を掛けてきたりとか、直接来所 の相談があったり、あるいは組合員の知り合いの知り合いとかのかたちで来るので。そこからすると、まだまだ僕らは手が無いっていう状況です。
ただやっぱり増えているっていうか、すごく扱ってるケースで多いなと思うのは、英会話学校とか語学学校の、アメリカ人などの外国人ですね。語学学校はひ どいですよ、状況が。日本の法制度の中では労働組合は地域に存在していいんですね。会社に存在しなくたって地域に存在して、その地域に存在する労働組合に 加入していれば、その職場にはたった一人であっても交渉の権利を持つんですよね、交渉権を持ってるんですよね。つまり会社に根ざすことができない組合で も、その権利を利用して個々の企業に対して交渉を行なうことができるんですね。ところが、アメリカは事業所ごとにその過半数の従業員を組織していない組合 というのは交渉権がないんですね。過半数組織しないと交渉権がないんですね。英会話学校の経営者がアメリカ人だったりすると、例えば交渉を申し入れたとす ると、「そんなのはアメリカでは通用しないぞ」っていうような言い方をするわけですね。アメリカでは通用しないと言われてもちょっと困るんだけれど。そう いうかたちで、外国人講師がものすごくひどい労働条件で雇われていたりする事が多いんです。
あと先程の移民一千万人計画っていうことですけれども、これはまず低賃金で働く人たちを入れるという、そもそもの発想に問題があるわけですよね。つま り、外国人だったら低賃金で働くだろうと。日本人が働かないような現場でも外国人だったら低い労働条件で働くだろうということですよね。そのことがまずお かしいわけですよね。それは同一価値労働、同一賃金の原則でちゃんとやるべきだということを、やっぱり組合としては主張していかなければいけないわけで す。そしてもう一つは、この背景というのは東アジア地域における圧倒的な賃金格差がありますよね。その賃金格差の問題は、そこからくるわけだから、それを どうやって是正させていくのかっていうことが、これはまあ単に労働組合だけではできない課題ですけれども、あると思っています。そのためにどうやって、ま あ古い言葉で言えば国際連帯になるんだけれども、繋がっていけるかっていうことを考えています。
 参加者F 活動拠点が新宿という話だったんですけれども、これまで新宿区とかの行政と関わりが活動の中であったりしたんですか。
 山口 まだないですね。先々はやはり、地域の問題として区役所にちゃんと要求をしていかないといけないなと思っているんですけども。ま あ、何せまだ小さな組合なんで、今受けている争議だとか相談に取り組んでいくことがまず第一になっていて。でも、今やっていることは、単に不当解雇を止め させるだけとか、賃金をちゃんと支払わせるだけじゃ、やっぱり終わらないと思うんですよね。例えば仕事をどうやって作っていくかとか。不安定な就労で、結 局どこかの企業に雇われなければ暮らしていけないという状況じゃなくて、どういうふうに仕事を確保していくかとか。特に東京地域だけじゃないんですけれど も、いろんな所で問題になっているのは住居の問題で。日本はすごい住居の、特に東京は住居のコストが高いですよね。賃金安くて、それでクビになったりする と、たちどころに家賃が払えなくなって追い出されちゃう。そういうことをどうしていくのかっていう問題は大きいんですね。そうすると単に企業との交渉だけ ではなくて、行政に対しても何かやっていかなきゃいけないだろうし、そういう手を考えていかなきゃいけないとは思っています。
労働組合っていうのは、単に労働の問題だけで終わらないんですよね。居住の話であるとか、あるいは人の繋がりの問題ですよね。孤立しないでどうやって繋 がっていけるか、繋がりをどうやって作っていくか、あるいは先程も話題になった外国人の人たちとの連携をどうしていくのか。差別をどうやって乗り越えてい くのかということをしっかりやっていかなきゃいけないんですね。そういう意味で社会運動と繋がっていかないといけないし、社会運動的にならなければいけな い側面がものすごく強いんですね。だから僕らは労働組合なんだけど、労働と生存のための組合というふうに主張して、活動の幅をちょっと広げていこうかなと は思っています。まだまだちょっと行政交渉はその先の課題ですけども、そのうちやっていきたいと思っています。
 参加者F ありがとうございます。

「生きたい」と「自由でいたい」
―二つを主張する言葉としてのフリーター

司会 ちょっとお聞きしたいんですけど、今、フリーターの労働者といったときにセーフティネットということが一つ大きな問題になっている と思うんです。で、『山谷』の映画の中に出てきた日雇労働者手帳というか、日雇労働保険ですよね。しばらく前に、あの保険をフリーター層にも適用するとい うような話が出たわけですが、ああいうのは現在セーフティネット的なものとして活用とか機能しているんでしょうか。
山口 これはあそこにね、その専門家が座っているから彼に聞いたほうがいいかもしれないけれど……。グッドウィルとかフルキャストとか有 名な日雇い派遣の会社がありますよね。印紙を貼らせなきゃいけないですよね。印紙を貼る許可を厚生労働省が出さないといけないわけですよね。ところが厚生 労働省がずっと渋っていて。で、フルキャストの渋谷店だったと思うんだけど、渋谷店のみにそれを認めたんですね。だから渋谷店に登録している人はそこの渋 谷店で印紙貼ってもらって、あれ14日稼働か……。
司会 1カ月14日ですね。
山口 そうですね、14日稼働だったらその後アブレ手当てが貰えるっていう仕組みなんですけれども。初めてそういう話を聞く人もいるかも しれないから、ちょっと説明しなきゃいけないけれど、つまり日雇いの人って雇用保険に入れないわけですよね。継続して同じ場所で働いてるわけじゃないか ら、日々別の場所で働くわけだから、失業した時の手当てが貰えないという事があって。それで日雇労働保険に入ると白手帳って言われてたんですけども、手帳 をもらって、日雇いの人たちは働きに行って、そこで手帳に印紙を貼ってもらって、それが月14日以上働いていると、あとは仕事がないときに一定のアブレ手 当て、つまり失業保険が貰えるという事になるわけなんですけど。それがいわゆる日雇い派遣で働いている登録型の派遣の人たちにも適応されるべきだろうとい うことはあったんですけれども。結局、それを適応すると言いながら厚生労働省はそのフルキャストの渋谷店のみに出して。で、ずうっと、例えば他の派遣ユニ オンだとか、グッドウィルユニオンだとかも要求してはきてるんですけれども、なかなかそれは認めない。厚労省そのものが認めない。日雇労働保険を拡大した くないっていうのがすごくあるみたいですね。
参加者G 昔は日雇いという働き方を選んだ本人が悪いっていう見方があって、だんだん変わってきたという話をされていたと思うんですけれど。今、実際活動されていて、企業とか政府とかではなく、一般の見方とか風当たりとかって、どのような感じなんでしょうか。
山口 これはまあ風当たり自体は主観的なものだから。かつてはというか、僕がそういうのを始めた時には、本当に「自己責任」、フリー ターっていったら、もう「自己責任」でおしまいという言われ方をものすごくされたんですね。ところが、まあいろいろ、そうじゃないんじゃないかっていう議 論も出てきて……。「自己責任」だったら自分の問題だから、自分が我慢するか、しないかの話になっちゃうわけだけど。けれど我慢しなくていいんだと。自分 の責任じゃなくて、これはやられてる事が不当なんじゃないかというふうに思う人たちが、組合にけっこう来るようになったし。それで周りからのバッシング も、まあそうですねえ、もしかしたらだんだん慣れてしまって聞こえなくなってるのかもしれないんだけど。
参加者G 変わってきたなって具体的に感じたのは、周りがじゃなくて、そういう不当だって言う人が増えてきたっていうことですか。
山口 そうそう。だから世の中全般からすると、それは「自己責任」って言う人が多いと思いますよ。でも、そういういろんな繋がりができてきて、それは変えられるんだっていうのが、まあ少し広がってきているかなという、希望的な観測をしているんです。
参加者G ありがとうございます。
司会 フリーターという言葉自体が、果たしていいのかどうかっていう気はしますけど、その辺は。
山口 僕は1986年に大学に入った世代なんで、ちょうどまあバブルの時に大学生活を過ごして。かといってバブルの恩恵なんか全くなかっ たんですけどね。それで、だからちょうどフリーター第一世代なんですよ。ただね、僕の時は、多分「自己責任」かなっていう感じもしないでもないんですけど ね。統計を見ると、大学を出ていわゆる非正規雇用に就く人たちの比率って5パーセントくらいだったんですね。ところが、今大学出て就職する人たちのだいた い40パーセントくらいが非正規雇用なんですよね。この数字見ただけで、これは自分の責任じゃないっていうことはわかるわけなんですよね。
ただね、そのフリーターという言葉にこだわるわけでもないんだけれども……。思うのは、今社会的な排除を受けている人たちと繋がり合いながら、自分たち もこの世の中でいらないものとされながらも、でも生きてるって現実はあるわけだから。よく「生きさせろ」とか言いますけれども、生存しているっていうこと を突き出していくことが第一なんですよ。しかし一方で、じゃあ生きるんだったら自由を我慢しなさい。自由にやりたいんだったら生きる事に関して辛くても しょうがないでしょう、みたいな、自由であることと生きること、生存のことを引き替えにしようっていう主張がものすごくこの社会に強いですね。で、これは わがままでも何でもなく、やっぱり生きたいし、そして自由でいたいって両方とも主張したいし、両方とも必要だと思ってるんですね。まあ、だから両方とも主 張する言葉としてフリーターというふうに名乗っていると、そういう意味もあるんです。
司会 だいぶ長くなってしまいました。この場はこれで終わりにしたいと思います。ただ、隣の部屋で少し話ができるような場所を用意してま すので、この映画を観た感想ですとか、あと山口さんにもう少しざっくばらんに聞いてみたいという方は残っていただいて、時間の許す限りご歓談ください。今 日はどうもありがとうございました。
[2008/7/6 planB]

2008年7月6日

plan-B 定期上映会

フリーターって、誰?
山口 素明(フリーター全般労働組合)

フリーター。もうずいぶん前からよく使われている言葉だが、この自由人(?)たちの「自由」は、そんなにロマンチックなものでもない。
そう、──「なるほど諸君は自由だ。ただしその自由は飢える自由だ」──そういう類いの「自由」にちがいない。「フリーター」という言葉の周りには「非正 規雇用」「ワーキング・プア」という語がまとわりついている。これは「不安定」「貧困」と直接に結びつく意味あいがあるだろう。するとフリーターとは、飢 えに至る貧困という不安定な自由を持ったひと、ということになる。
けれどもその「貧困」はフリーターひとりの生活状態というものではなく、人ひとりを「飢え」に至らしめる社会全体の「貧困さ」なのではないか?
今回のミニ・トークは、「フリーター」とともにこの社会の「ありかた」を鋭く問うているフリーター労組の山口素明さんに語っていただきす。──<サミット>前夜に。

都市のこわれかた ① 

北京───「農民工」のなかから
                         孫歌(sun ge:探求者)

 

孫歌 この映画を観て私は日本を見直しました。さっき隣の部屋でこんな話をちょっとしました。今まで、正直に言いますと私は東アジアの中 で最も高く評価したのは韓国社会です。韓国社会は政治社会だ、韓国人は政治的に自分の未来を考えられる人達だと。日本社会も政治性を持ちながら、韓国には 到底かなわないと。なぜそう言っていたかというと、日本には政治運動が足りないとか、あるいは日本人ががんばっていないとかという意味じゃなくて、日本人 が政治参加によって社会環境を改善しようとする努力について、私にはそれを理解するチャンスがほとんどなかったからです。要するに、このような映画を私は 観た事がありませんでしたからです。

……与えられた思考パターン……

少し個人的な話で恐縮ですけれども、私が一回目に日本に来たのは1988年の時です。つまりこの映画がつくられてから三年後の事ですね。その三年の間には日本社会はそれほど根本的に変わったはずがないけれども、私はその時、この社会の存在を知りませんでした。
1988年は中国の天安門事件の前の年でもありました。そして翌年に天安門事件によって中国社会も根本的に変わりました。日本のメディアも、西側のメ ディアも天安門事件は民主主義の運動が弾圧された事件だというふうに一言で片付けましたけれども、実際の歴史はそれほど単純な事ではありませんでした。む しろ天安門事件をきっかけにして、中国のいわゆる市場経済が全面的に展開されまして、そしてその後、農民工という出稼ぎの農民達という人たちも大量に動き 始めました。
1988年に私が初めて日本に来た時に農民工は中国にはいませんでした。その時は貧富の差もそれほど顕著ではありませんでした。それはいわゆる改革開放 の初期の段階にあたる時期でもありまして、その改革が一番成功したのは、都市ではなくてむしろ中国の農村でした。請負制という形で農民達は何十年ぶりに、 自分の使用できるような畑が与えられまして、それで農業も何年かの間、大豊作になりました。
そして、私は日本に滞在する時期に、同じやり方で、つまり土地の使用権を、それは所有権ではなくて使用権を個人に与えるという形で、都市でもやれないか という事で中央指導部の内部で激しく対立した時期でもありました。その時の中国社会の生活レベルは基本的に低い、我々はそれほど豊かではない、近代的では ない生活をしていました。
その時、日本に来て、私は初めての外国での生活をし始めました。目にしたのは本当に豊かな、安定した日本社会。テレビを見たらそういう情報だけ。新聞を 読んだら日本はいかに豊かな生活の中でちょっとした悩みを抱えているという、そういう描き方ばっかりです。だから山谷の存在は私には夢にも思いませんでし た。
そんな時にある日、上野でホームレスの人達を見ました。そしてまわりの日本人に私はこう聞きました。「日本は豊かだと、散々言われたのに何でホームレスがいるんですか?」。
彼らはこういうふうに答えたんです。「日本はねえ、社会は豊かですから、だから働かなくても食べていけるんです。ホームレスなんだけれども、誰かから残り物をもらうとかして、なんとかやっていけますよ。彼らはねえ、いろんな理由で働きたくないだけです」と。
それを信じていいのか。
当時、私は深く考えませんでした。中国にはその時期、こういう現象はほとんどありませんでした。なかったというのは、豊かだったというわけではないで す。自由な移動がその時に許されてなかったんですから、つまり山谷現象はその時の中国では生じる条件が揃っていませんでした。
その時、なぜ日本人はそういうふうに考えているかという疑問をいだいたんです。まあ簡単に結論だけを先に言えば、それこそメディアの作り上げた考え方なん ですよね。がんばれば豊かになる、がんばらない人間はホームレスになる、という考え方です。日雇い労働者は、ホームレスではないのですが、失業してしまえ ば、そうなる可能性があります。彼らの労働条件と生活条件の厳しさについて、「かわいそう」という一言で片付けられます。それで、普通の日本人もついそう いうふうに思うようになったわけです。
だから、この山谷についての映画を観た時に、私は物凄くショックを受けました。この世界の存在自体は私も知っています。だけれども、私の知り方自体、監 督さん達の眼差しとの間にかなりギャップがあるんです。なぜかというと、このような世界を、私達は常にメディアから与えられた思考パターンで把握して考え る、そして感じるわけです。それはつまり、彼らはかわいそうな人間で、搾取されている。なぜそういうふうになっているか。まあ社会は貧富の差を作ってこう いう人達が現れた、と。しかし、いわゆる「貧富の差」はなにか、どの仕組みで再生産されているか、それについて、一向知りません。

……近代社会の基本的構造……

実は全く同じような現象が中国の90年代以後も生じました。そしてそれは日本より遥かに規模は大きいわけです。中国の農村人口は合わせて9億人に近いで すが、しかし与えられた土地はせいぜい3、4億人分くらいしかありません。だから、残りの人間は結局出稼ぎという形で都市に入り込む、そういう選択肢しか ありませんでした。
もちろん他の模索もありました。たとえば、農村で工場を作るとか、いろんな加工の産業を営むとか、それで違う問題も生じるわけです。例えば日本でよく知 られている中国の環境汚染の問題。この環境汚染の問題はどうして発生したか。各地域の労働力を吸収するために、非常に汚染度の高いような、化学工場とか、 あるいは他の加工業とか、そういう場がたくさん作られている。それで環境汚染の問題も生じるわけです。その上、グローバル化の中で先進国の資本も進出し て、自国でやりにくい汚染度の高い産業を中国に移して、汚染問題がますます深刻になります。だけれども、汚染が酷いことだと分かりながらも、なかなかそれ をなくす事は難しいんです。
つまり、なくしてしまえば失業者も出てくるわけです。そして、この映画で描かれている一つのいわゆる近代社会の基本的な構造が、中国にも存在してます。 その構造というのは、社会の富を少数の人間、あるいは少数のグループに集中するために最大限の搾取をしなければならないということです。その搾取の対象に なっているのは、山谷の日雇労働者達を始めとした下層部で生きている人間です。中国の場合には特に農民工という人達がそれにあたります。そして、その搾取 の仕組み自体はけっして政治権力、国家権力に還元できません。目に見えない形で資本と、そして暴力団、それから社会のいろんなレベルの組織、それはすべて ある種の搾取の枠組みの中で組織されています。
この『山谷』の映画は、とっても鮮やかな形で、国家と警察と暴力団と病院と、それから役所などとの、そういう共犯関係を描き出したと思います。このよう な共犯関係は中国の市場経済化のプロセスの中でも形成してしまいました。しかも山谷の労働者より中国の方は楽観的とは言えません。むしろ、合理化された資 本の力と暴力団というような明確な輪郭を持たない、いろんな形で存在している暴力的な勢力が結び付けられて、社会の底辺で生きている、あるいは生きるため の手段をほとんど持たない、貧しい人々を残酷に搾取しています。この搾取が広げていけば、国家でも、社会でも、崩れてしまう可能性があります。
日本の場合と違いまして中国は社会主義の歴史を持っておりました。それは成功したとは言えません。ある意味では社会主義のテストはうまくいかなかったか ら、今の中国は市場経済化という形で資本主義に近いようなシステムに転換しつつある、そういう段階にあたります。その転換のプロセスの中で、じゃあ昔の中 国の社会主義の要素はどのように今日の、この新しい社会システムに組み入れられるか、ということが問われるわけです。これはおそらく政権にとっても大きな 課題ですし、社会にとっても、そして普通の人間にとっても大きな課題になるわけです。

……中国の「ふたつのシステム」……

いくつかの例を上げたいと思います。農民工達は都市に入って大体、都市の人達のやりたくない仕事をします。これはほとんど日本の状況と変わらないと思い ます。彼らは短期間の訓練をうけて、技術的な要求がそれほど高くない仕事をします。たとえば、建築現場で働く農民工達はもともとは農民ですから、ほとんど 建築の技術は持ってないわけですが、短時間の訓練を受けまして、一応、そういう仕事をするわけです。リフォームの仕事も彼らはするわけです。まあ当然彼ら の技術はプロには追いつかないですから、都市の一番重要な建築作業は彼らには任せません。国の建築会社というのは長い間、国営の形で経営されていて、保障 はついている。そこで働く人達はプロの労働者なんです。農民工達はある意味では素人の労働者として雇われていて、給料も非常に低い。そして彼らは国営の会 社ではなくて個人経営の、あるいは民間資本のグループ経営の、そのような会社に雇われています。
彼らが給料を貰えないという事はしばしばあります。一年間働いて、雇い主から給料を貰えない。だからお正月の時にふるさとには戻れないです。これは、か なり一般的な現象なんです。そして抵抗しようとすればたちまちクビにされます。さっきちょっと言及したんだけれども、中国には日本と違って農村人口は膨大 にありますので、だから安い労働力はどんどん都市に入り込むわけです。で、農民工の間に競争関係ができまして、給料が上がらなくても彼らは働かなければな らない。つまり、もし抗議すればクビにされちゃって、都市に来たばかりの農民工が雇われる。そういう状況は長い間続いていたんです。
しかし1999年以後、この問題は社会的に暴露されまして、農民工も含めて各層の良心的な人達、都市の市民達も含めて一緒に抗議運動を起こしました。そして2003年、中国の新しい政権交替がありまして、農民工の待遇の問題を解決するという時期がやってきたんです。
これは日本の状況と違いまして、中央指導部から圧力をかけて上から下にこの農民工の待遇の問題を解決しようとしたんです。温家宝首相は着任して翌年に天 津で談話を発表して「首相として農民工の給料を要求します」と。つまり、雇われた農民は自分の給料を貰うべきだと。これは最低限の常識なんだけれども、一 国の総理がそういうふうにメディアで談話を発表して解決しようとする。これはどういう事なのか。
要するに中国では今二つのシステム、強いて言えば社会主義の名残り、そして資本主義のシステム、それもまだどっちもある意味では中途半端なんですけれど も、この二つの仕組みが併存して互いに交じりあって葛藤している、そういう状況の反映だと思います。だけれども、きれいな社会主義ときれいな資本主義とい うものはそもそも存在しませんので、私達は結局システムからみるんじゃなくて、状況の中でいろんな要素を判明させ、それを区別しなければならないのです。

……温鉄軍の分析……

もう一つ例を上げます。中国では農村建設運動をある意味ではずっとリードした人がいます。温鉄軍さんという、今中国人民大学の教授なんですけれども、彼は1980年代に農村改革の現場でいろいろ実験をやった方でもあります。
彼には一つの一貫した主張がありました。中国の農村改革で土地の使用権を個人に与える、これは結構です。しかし所有権は個人に与えてはいけません。国有にしておかないと危ない事になる、という。
なぜそういう話をしたかというと、彼は日本の山谷の事は知りませんけれども、南アメリカにいた時に、例えばメキシコに行ってそこで大規模なスラムを見た 事があります。その農民達は土地を持たない、だから居場所がない。大都市に入り込んで都市も私有化しているから、個人の土地に踏み込んじゃいけないから、 結局国有の鉄道のそばでスラムを作ったんです。同じ現象はインドにもあるようです。だから農民達は、土地を持たなければいかに危険な事になるかと。彼らは 結局一番危ない鉄道のそばで暮らさなければならないのです。
で、温さんは中国政府は国有という形で土地の所有権を握る事によって、全ての農民達が自分の土地の使用権を持つという最低限の権利を守ろうと強く主張しているんです。
それについて今中国で激しく論争しているんです。結論はまだ十分には出されてないですけれども、いわゆる民主主義を主張する自由主義者達は、中国の国有 はいかにひどい事か、いかに普通の人間の権利を奪っているかと批判して、全ての農民達に土地の所有権を与えるべきだと、そういうふうに強く主張しているん です。そして、温さんに対しては、政府のペットだ、政府のために働いていると批判しています。
だけれども、農民達に本当に土地を与えたらどういう現象になるか。これは温さんの分析なんだけれども、農民達には、巧みに自分の土地によって富を作れる 人達もいるし、下手な人もいるんです。土地を貰った貧しい農民達は、できる人はこの土地によっていろんな農産物を作る事を考えるんだけれども、できない人 はたちまちそれを売ってしまう。ですから、私有化になっておそらく短い間に土地は少数の人達の手に集中してしまうだろう。それで土地を失ってしまう人達は 村から出なければならない。彼らの未来を誰が保障できるか。小国だったら、人口が少ない場合だったら、それはまだ問題はひどくないけれども、中国のような 大きな農民国の中で、土地を持たない農民を多数作り出すという事は一体これはどういう事なのかと。これが温さんの論理なんです。
私は現場で働いた、あるいは調べた事はないけれども、でも経験で考えれば温さんの判断には一理あると思います。ただし、一つ問題になるのは、その土地の 所有権を国に与える場合には、国はこの所有権を正しく守れるかどうか、そこはおそらく温さんの予想を越えた問題なんです。
農民工達が90年代の初め頃に現れてもう20年近い、そういう時間が経ちました。農民工達も都市に住んでいて、慣れていて成長しました。彼らは都市の新 しい人間として今自分の居場所を作っている、そういう時期に入ってきたんです。そして『山谷』という映画の中で表現されたような農民工達の集団的な抗議活 動、自分を搾取する雇い主とのやりとり、そういう事は中国各地で増えつつあります。

……「下からの圧力」……

この映画の話に戻りますと、この映画で私が一番学んだのは、中国社会の在り方を政治的に見るという事なんです。つまり農民工達はかわいそうな人間だ、搾 取をされている、格差があるんだと、そういう一般論で中国社会と中国の農民工を見ないで、もっとこの両監督の眼差しで、農民工の実際の置かれている状況に 即して、彼らの在り方を見る。そして彼らと中国社会の関係を見る、ということなんです。
確かに中国をどう見るかというのは、問題になります。おそらく日本のメディアによって再生産されてきた中国のイメージは非常に動かない、そして単純なも のだと思います。例えば中国政治で言えば言論不自由、そして民主主義は足りない。で、人民には権利が与えられていない、と。そして独裁社会から徐々に徐々 に民主化していくと、そういう枠組みで中国社会を見ているわけです。
逆に中国の中で、農民工達を見る場合には、いかにして差別をなくすかという事はホットな話題になるわけです。特に大都市の市民は、ある微妙な難題に直面 しています。差別をなくすというスローガンによって、ある意味では自分の優位を確認するという、まあ一種の矛盾する思惟構造をも作り出しているんです。
しかし、農民を、特に農民工の在り方を見る事によって、中国社会の在り方を考えるという思考法はまだ十分にはできていないわけです。これだけの農村人口 があって、そして、かなり不安定な生活を送りながら中国社会のバランスがどうやって取れるか、こういう悩みは中央政府と民間人の間で、中身はともかくとし てほとんど一致していると思います。中国社会が安定していなければ、おそらく世界も安定しないでしょう。
そこで我々にとって、一つの政治的な課題も生じるわけです。いかにして中央部から各層の官僚機構まで政治権力を最大限に動員して、あるいは圧力をかける 事によって、それを利用して、中国の農民工の問題を解決できるか、というのですね。そのためには、「下からの圧力」はまず必要です。
去年から中央政府は圧力を受けまして新しい政策を発表しました。農民を国民にするという政策で、つまり都市の人達と同じ権利を与えることです。
これはどういう事かというと、新中国、つまり1949年以後の中国は工業化を実現するために、農村人口と都市人口を分けて、違う制度を作ったんです。農 村人口は総人口の三分の二以上、あるいは五分の四に近い、そういう多数の人達は農村人口にして、この人達は戸籍上では都市に入ってはいけない。そして都市 には労働者という階層を作りました。労働者の待遇は農民の待遇と違います。つまり、医療の保障はある程度付いている。そして生活の保障もされています。た だ、その時に都市と農村の経済的な差はそれほど大きくはありませんでした。そこから動員された経済力は全部工業化に投入されたんです。
そしていわゆる文化大革命が発生しました。これは日本でイメージされたのは非常に単純なものですけれども、中国の文化大革命はそう簡単なものではありません。
中国の工業化は文革中に完成しました。そして農村のインフラ整備も文革中に完成しました。その時、私も高校を卒業して農村に下放されました。つまり入隊 した経験があります。私もその時の農村インフラ整備の建設運動に参加しましたが、それは全部タダでやりました。給料なし、お金は一銭も貰えない。都市もほ とんど同じやり方でした。みんなタダで働いてこの国を良い国にしようとしたんです。
非常にユニークな現象でもありますけれども、中国の農村の請負という制度ができたのは1981年でした。その翌年に全国的に大豊作になりました。で、な ぜそうなったか。現象面で考えれば、個人的な積極性が出たから、と考えられるでしょうが、実はそうではありません。何年か経ってからもあれだけの豊作はあ りませんでした。なぜそれはできたかというと、あの文革の最後の時期にできたインフラ整備が、請負制度が出来たその時になって威力を発揮したんです。けれ ども、その後、個人経営になってしまってインフラ整備を続けた人間は一人もいませんでした。それで豊作もだんだんと出来なくなってしまいました。

……太陽は屈折して昇る……

それで、もう一度農村でそういう協力の枠組みを作ろうと、合作社という形で今、新農村建設運動はおこなわれています。その運動によって、打工者として都 市に出た農民達がUターンという形で農村に戻ろうとする、その動きも今あらわれました。ですから、打工者の運命もこれからは違う形で展開していくだろうと いう事も仮説としてありうるわけです。その一方、不正な扱いを受けながらも、がんばって都市で市民権を取ろうとする打工者も大勢いるんです。彼らは今でも 都市でがんばっています。
『山谷』という映画で描かれた、そういう国家と暴力団と資本と、そしていろんな社会層の差別、搾取の構造自体は中国でも、今できて、消えていないです。 その中でどのように新しい可能性を作り出せるかと、これは我々の課題でもありますし、おそらく日本の課題でもあると思います。
この『山谷』は、唯一の映画として永遠に残っていくだろうと、今、私は日本人の代わりに誇りを持って、そう思っています。だけれども、山谷での厳しい現 象はおそらく今の日本で、違う形で存在しているだろう。それは解決にはならないでしょう。この映画の最後に太陽が昇っていくんです。正直に言って私は最初 の時は不満でした。これは中国でよくいう「明るい尻尾」というものだ、と思いました。そういうむりやりに希望を与えるものなら、リアリティが足りますか、 と考えていました。
だけど、もし私がこの映画を作れば、どういう尻尾をつけるのでしょうか。結論で言えば、やはり私も太陽を昇らせようと、それしかないと、考えました。け れども、その太陽は一直線に昇ることはできないかもしれません。私達は屈折した昇り方をつくらなければならない。私はこの映画を観て最初に不満だったけれ ども、最後に納得した理由はこれなんです。これは、二人の監督さんの残してくれた大きな課題だと思います。私たちは屈折した形で、太陽を昇らせましょう。

……暴力そのものの存在……

司会 最後は力強いアジテーションで終わりました。時間はあまりないんですけれども、いまの孫歌さんのお話に質問かご意見がありましたら、二、三、受けたいと思います。
 大変素晴らしい話で物凄く嬉しかったですね。それでは、ちょっと聞きたいんですけども、『長江哀歌』っていう中国映画、去年僕は日本 で観たんですよ。それは、長江の三峡ダムの建設をめぐるもので、それこそ農民工の人達を描いたものだったんです。原題はブレヒトの辞をもじったものだった んです。で、その映像が、僕は『山谷』の映画に似てるなっていう事を強く感じて、かつそれがブレヒトの辞のもじりであるっていうところに……。実はこの映 画の音楽を担当した人達がブレヒト達と一緒にやった音楽家達の影響を受けているというので、そういうのも感銘受けたんですけども。あの映画はどういうふう にご覧になりましたか。
孫歌 申し訳ないです、私はまだ観てないです。ただ、その映画は良かったという定評を聞きました。ずうっと、DVDを探してまだ見つかっ ていないんです。その時、日本で大変尊敬された張藝謀・大監督が自分のつまらない商業映画を一斉に映画館に出して、それでその映画は排除されてしまったら しいです。だから私が観ようとした時には、もうどこにも上映していませんでした。
 今の孫歌さんの話の中で、暴力団というか、非合法的な勢力の事が出てきましたよね。日本の場合は暴力団という存在は、江戸時代から あったと思うんですけども、近代化の過程によっていろいろ彼らも変質してきていて、あんまり単純には言えないかなとは思うんですが、では中国の場合、彼ら は今どんな在り方なんでしょうか。
孫歌 これは本当に重要な問題です。中国には日本のような暴力団は存在してません。けれども闇の社会、つまり非合法的な事をするために必要とされる暴力 が存在します。日本の暴力団について私はあまり詳しくないんですけれども、非常に組織的にある特徴を持っているんですよね。中国のは暴力団というより、い ろんな形で存在している暴力そのものです。
例えば、ある村の人達が自分の土地を守るために、土地を安いお金で買って住宅を建てようとする会社と衝突する。その時、農民達は自分の土地の上でテント を建てて住み込む。そうすると、この会社は暴力団とは言えないけれども何ものかを雇って、この農民達を殴って死者も出すくらいの大事件がありました。この ような衝突は農村のあちこちで生じているんです。
農民達はその後、法律によって自分を守るという行動を取るわけです。けれども、一番考えさせられるのは、この暴力的な存在自体は非合法的でありながら裁 かれていない。ただ、警察は全部彼らを無視するわけでもない。場合によれば、この暴力を振るった人達は、ある程度処罰される。だから状況はちょっと一定し てないです。しかし、この暴力が持続するかどうか、つまり持続する事自体が暴力団の特徴なんですから、中国のそういう暴力的な勢力はどういう形で持続して いるのか、今それについての情報は私にはわかりません。けれども暴力の存在自体は確かなんです。

……農民工と労働者の差異……

 最近中国で労働者について語るのはタブーだって聞いたんです。僕はずうっと中国は労働者の国だと思っていたんですけども、どういう定 義を今してるのか。既存の枠から漏れるような労働者、例えば山谷労働者は漏れちゃうじゃないですか。農民工というのはどういう位置付けでどういう背景で労 働者として語られているのか。さっき孫歌さんの話の中で、温家宝首相が農民工の問題を解決しなければならないって言った、その時の農民工の扱いというのは どういう労働者だったのか、ちょっと聞きたいんですけども。
孫歌 毛沢東時代には、労働者と農民は二種類の人なんです。共に中国の主人公なんですが、労働者、農民と兵隊、この三者はその時の若い人 にとって、憧れの対象ではあるんだけれども、でも、労働者とか兵隊とかに、若い人達は憧れていたんです。農民になろうとする人間はあるにはあるのですが、 少ないです。
その時の労働者とは、都市で訓練を受けて技術を持っている。そして技術的な、あるいは肉体的な労働に従事する人達、それが労働者というイメージなんで す。今でもそういうプロの労働者達は存在しています。農民の場合には元々の仕事は畑仕事なんで、畑仕事のプロなんですよ。私は下放されて、そういうプロは 簡単になれないことがよく分かりました。しかし、改革開放によって彼らは都市に入ってきて、そして都市の労働者達のやらない仕事、あるいはやろうとしない 仕事をやります。例えばエアコンを付けるとか、電気屋の製品配達とか、そういう仕事はほとんど農民工がやってるんです。都市の労働者達は、例えばでかい建 物を、国家のオペラ座とかを建てるんです。そして普通のアパートの内装とかの仕事も農民工がやってるんです。アパートを建てる事も農民工はやってるんで す。そういう区別はあるんだけれども、今はだんだんとその境界線が曖昧になってきたんです。打工の人達もかなり技術を身に付けてプロの労働者になっている んです。
そこからもう一つ潜在的な差異があります。昔ながらの労働者達は都市の戸籍を持っています。しかし、彼ら打工者達は都市の戸籍を持たない人間が多数派な んです。例えば北京のような所に来た打工者達はほとんど北京の戸籍を持たないです。それはどういうことを意味するかというと、たとえば、彼らの子供は、学 校に入る時に、北京の子供より多めにお金を払わなければならない。つまり北京人ではないから。北京の学校は限られているから。
でも最近は北京の人達の努力によって、そういう差別はなくされたようです。私は小学校と付き合うチャンスはないから確認してないけど、新聞で読んで打工 者の子供達も北京の子供と平等に学校に入れるようになったと、そういうふうに報道されていました。あとは保険の問題とかいろんな問題は打工者と都市の労働 者との間に、やはり違いがあります。
(了)
(2008年3月15日 Plan-B )─見出し等は上映委がつけました。

2008年3月15日

plan-B 定期上映会

上映後の講演:都市のこわれかた──①北京 「農民工」のなかから
講師:孫 歌(sun ge : 探求者)

『山谷』の視線から学んだこと
激しく発展している中国をどう見るか。中国の打工者をどう思うか。格差、安い賃金、厳しい労働条件、都市の市民権が得られない「二等国民」…… そしてこのような打工者は、国境を越えて日本にも進出して日本労働者との競争に強いられているのだ。
その一方、中国では、ひどい汚染を伴う大量な「違法産業」、農地の廃置や食料安全の破壊など、いわば近代過程のつき物も後を絶たせない。
今日の世界は、資本の論理で作られている。国家権力、警察システム、法律の「中立」は、いずれもその論理を免れない。暴力団の暴行はどの社会においてもこのようなシステムの本質を象徴している。
『山谷』は、このような矛盾を濃縮して見せてくれた。鮮烈な形で差別の構造を顕にしたこの傑作は、日本社会に内在している病を暴露することに止まらず、グローバル化の中で、先進国の日本と途上国の中国の間、すでに現れている新たな差別構造をも暗示しているのだ。
そしてわれわれは、山谷の労働者から、佐藤、山岡両監督のまなざしから、いったい何が得られるのであろうか。

僕が山谷に関わったのは二十歳のときだった…

宇賀神寿一

宇賀神寿一といいます。通称はシャコといいます。この『山谷』の映画をやるというので、山谷の昔の関わりなんかを話して欲しいという事でよばれました。私 は、まあ元テロリストという事です。昔ね、爆弾を仕掛けて、その件で指名手配をくって、7年くらい全国を逃げまわって。その上で逮捕されて21年獄中に 入って、四年前に刑務所からやっと出てきて、今はこうやって生活をしています。現在は、救援連絡センターの事務局で働いています。そういうような経歴なん ですが、私自身自分のやってきた事に関しては後悔という事は大してというか全くないというか。自分自身が一つ一つ判断して決断してここまでやってきました から、そういう意味ではあんまり後悔してないんですね。ただ、意図せず人を傷つけてしまったことについては、反省し、謝罪しなければならないと思っていま す。私自身が山谷に関わったのが、私が爆弾を仕掛けるにいたったきっかけというようなもんだと思います。
私はいま55歳、1952年生まれです。私が政治活動に入ったのは高校生です。まあ17、18。当時68年、69年というのは、まだ反戦全共闘運動が盛 んだった頃です。私の高校は明治学院高校、明治学院大学と同じキャンパス内にあった高校で、大学での闘いを身近に見て、その中で政治的な意識に目覚めてい きました。私の場合はエスカレートという事で、そのまま大学に上がってその大学の中で活動していって、クラス闘争委員会というものに入ってやっていたんで す。学費値上げとか学内で不当逮捕された学生に対する救援等々やっている中で、結局自分もまた逮捕されて。18の時ですね。練馬鑑別所、あのネリカンと呼 ばれる少年鑑別所に入ったんですが、まあそれが初めての獄中入り。で、その後どんどん坂道を転がるように、奈落の底へ落ちていくという(笑)。まあそうい う事で、どんどんどんどん入っていって。
71年、72年……72年の頃になると連合赤軍のあさま山荘、あるいは妙義山のリンチ事件とかありまして、私自身もそういう中で、気持ちの上でかなり影 響があったと思います。いわゆる、あの時代の「鉛の時代」、鉛の気持ちをずうっと抱いたというか、持ち続けていました。その運動の中で閉塞感というのが あったわけですよ。その時に「リッダ闘争」という、日本赤軍の、アラブにいた日本人の三人がイスラエルの空港に銃撃戦を仕掛けて、決死の闘いをしたという 事もあって。それは、私の中で非常にインパクトがあったんですよ。そのリッダ闘争の追悼集会みたいのが京都大学で72年の8月頃あって、その時に私は京都 大学へ行って。
そうしたら、ちょうどその時、大阪の釜ヶ崎で暴動闘争っていうのが連日ありまして、72年の5月からずっと。釜ヶ崎で、日雇労働者に対して不当労働行為を していた手配師やなんかに対する追放闘争が労働者自身の手によっておこなわれていた、そういう釜ヶ崎の闘いがあったわけです。そしてその時に、釜ヶ崎の闘 いをどういうふうに支援するかという、大阪あたりの人達の会議があったんです。で、その会議に出た時に、釜ヶ崎の闘いの指導的な部分だった船本洲治さんと いう人に出会って。その出会いが山谷の闘いへ私を引き入れたというかね、関わりを付けたという事ですね。その会議に出て東京に戻ってから、山谷の日雇労働 者の越冬闘争の第一回の準備会というものを始めるという事で、それに参加したのが山谷への関わりの第一歩です。
それまでは、山谷に対しては私自身も偏見というか、あまり労働者に対していいイメージは持っていなかった。やっぱり敗残者的な、そういう気持ちで見ていた ところがありました。でも山谷との関わりの中で、いろいろ考えて、こういう労働者こそが本当に社会を変えていく、私自身は当時マルクスとかレーニンとかの 本を読んでて、「ああ、プロレタリアート」とか、「国家権力を奪取する」とか、そういう事を考えていまして。日雇労働者こそ本当のプロレタリアートではな いかというふうに考えて。それで、自分が今まで考えた革命運動に対して必要な階級であると、「ああ、これだ」という感じを私自身思ったんです。私は、こう いう人前で話した事があんまりないので、うまくしゃべれないんですけど。まあそういう形で関わりを持っていったんですね。
いまは山谷という一つの限られた地域じゃなくて、渋谷とか新宿とかいろんな所にどんどんどんどん野宿している人が増えてますよね。昔は山谷とか釜ヶ崎、 ある一定の区域に集まって、冬場になると仕事が少なくなる時に野宿をせざるをえない人達が出てきて。それに対して支援する、炊き出しとか医療活動とか、体 調崩している人には医療行為をするとか、そういう事を目的に越冬闘争というのはやられてたんです。そういう活動に私自身参加していきました。その中での労 働者の連帯感、自分らが貧しくてあんまり持つものもないけれども、困っている人間には持っているものをみんなで分け合ってしのぐというかね。そういうとこ ろを見て「ああ、いいなあ」というふうな気持ちを持ったりして。そういうところで私は山谷に関わっていきました。
まあ、その中でこの映画『山谷』の中で出てきた人達とも付き合ってきましたね。ただ映画に出てくる人達は私よりもっと新しいというか、私はもうちょっと 古い時代というか、時間的に古いんですよ。この人達は80年代だと思いますけど、私の場合は70年代で。まだ暴動ができる、非常にいい時代だった。暴動が できないというのは、ある意味で完全に管理された、非常に閉塞感のある社会。本当は連帯すべき人間同士が敵同士になってしまうような。つまり仲間同士喰い 合うというか、そういうような社会にいまはなってきているなあと思っていますけど。
なぜ私自身が山谷での関わりの中から爆弾を仕掛けるというか、そういう方向に、いわゆるテロリストへと変わっていったのかっていうと、基本的にはやっぱ り山谷や釜ヶ崎のいわゆる暴動の中で……。私が釜ヶ崎に行った時に、非常に高く売り付けるような店があって、その店に対して労働者が抗議した事で暴動が始 まりそうになったんですよ。その時に、普通の労働者の格好をした私服の警察官が隅々に散らばっていて、労働者が抗議の声をあげるとナチ棒という特殊警棒 で、その長い警棒で労働者の頭をぶちのめす。そういう事で労働者達が抗議をするのをつぶしていく、抗議行動をつぶしていく。ああ、このままでは労働者達の 闘い、自分らの正義を求める闘いがつぶされていく、そういう暴力によってつぶされていく、警察の暴力によってつぶされていくっていうところを見ていてね。 「これはなんとかしなければいけない」っていう思いを持ったんです。それが私がいわゆる武装闘争に入るきっかけだったんですね。うん、そういう事ですね。 だから私自身は何度も言いますが、結構まあ面白かったと。面白かったというのは不謹慎なんですが、それなりに結構良かったと思ってます。何か質問があれ ば。
A 釜ヶ崎に行った時に、船本洲治さんに会ったという事ですが、釜共闘の、いわゆる鈴木組闘争の時ですか?
宇賀神 そうですね、悪徳手配師の追放闘争という事で始まった闘いですね。あの時はもう連日暴動が釜ヶ崎で起こっていて。その中で手配師がそれまで握って いたヘゲモニーが、労働者によって奪い返されて、労働者が支配するっていうかね。今まではヤクザとか手配師が大きな顔をしていたんだけど、労働者が自分達 で自分らの寄せ場を管理していく、自治していくという事になったんですね。ただそれも、警察の圧倒的な力でもって封じ込められていったという経緯がありま すけどね。
A 僕が宇賀神さんの代わりに喋っちゃうのもなんですけど、鈴木組闘争っていうのは鈴木組というヤクザが寄せ場を支配していて。そこに船本洲治さんらの新 しい運動家たちが出てきて、ヤクザが日本刀で襲ってきたのを逆にやっつけた。そうしたら、その日からガラっと寄せ場の雰囲気が変わった。つまり暴力支配で 汲々としてたところが、やろうと思ったらやれるんだ、というふうになって運動が一気に盛り上がった。そこから発されたのが映画『山谷』のサブタイトルにも なってますけど、「やられたらやりかえせ」という言葉です。釜ヶ崎では釜ヶ崎共闘会議っていうのができてるんですけど、東京ではそれに呼応して山谷で現場 闘争委員会がつくられます。たぶん、山谷に戻ってきた時は現場闘争委員会っていうのが……。
宇賀神 そうですね、できてますね。
A その中で山岡さんとも出会いましたか?
宇賀神 山岡さん、そうですね、出会いました、はい。ただまだ私の方が20歳くらいの若い時でしたから、それほど活動は……山谷にそれほど入っていくって いう事はしてなかったんです。大学の方で、クラス闘争委員会や部落(解放)研究会で部落解放運動に関わっていたりしていたので、山谷にはまだまだ関わって いなかった。ですから、山岡さんとの関係はあんまり深くはなかったですね。
A その当時の部落解放運動や大学の雰囲気ってどんなだったんですか?
宇賀神 71年ですから、すでに反戦全共闘運動っていうのは消えかかっていまして、当時ほとんどの学園闘争がつぶされてました。だから残ってたのは、いく つかの大学だけ。明治学院は結構長くやってた方ですよ。72、73年頃まで。私のいた71年頃はまだバリ占、バリケードストライキをやっていましたから。 そういう意味ではまだまだ燃えてた大学でしたね。また、狭山差別裁判糾弾闘争を軸に部落解放運動が元気のあった時代でしたね。
A さっきおっしゃってた山谷での第一回越冬闘争準備委員会っていうのは、それは何年ですか?
宇賀神 72年の9月か10月だと思います。
A 72-73年越冬闘争っていうことですね。
宇賀神 そう、第一回の越冬闘争。
A それはどんな雰囲気だった?
宇賀神 最初はまず9月頃から準備会を何度かやって、それでまあ支援態勢をつくっていく。あと物資をどういうふうに集めるのかとか、そういう事をずっと話し合って。とにかく、初めての試みでしたから、手探りの状態での準備が進んでいったと思います。
B 最初の越冬闘争は玉姫公園?
宇賀神 そうですね。
B 玉姫公園でやろうといっても、もちろん行政はやらせない。
宇賀神 うん、そうですね。あそこにビニールで覆ってテントを作って。それで警察が介入してこないように入口に支援の防衛隊が立っているという、結構緊張 した状態でした。私服がバッと来て一名拘束して連れていこうとしたので、それに対してその人を取り返そうと思ってやりあった事がありました。私服何人か と。私は一度すでに逮捕されてるわけですけど、まあそういう間違えれば逮捕されるという場面もありました。そういう意味では緊張した状態だったと思いま す、第一回の場合は。
B 越冬闘争を始めようとしたのは、どういう議論っていうか経緯からですか。玉姫を占拠して、仕事がない期間、収容所に入らないで、仲間を野垂れ死にさせない、みんなでなんとか闘い抜いていこうっていう事を。
宇賀神 自分らの力で、自分らの命を守っていくという事ですね。まあ詳しい事は、この本(『ぼくの翻身』)に書いてあります。これは、私が以前、裁判を受 けていた時に書いた最終意見陳述なんで、まだまだ熱い時に書いたものですから(今はちょっと冷めてきた)、結構面白いと思います。
A 山谷から、反省のない「正しいテロリスト」といいますか、変身していくわけですけれども、さっきナチス棒っていうか特殊警棒で労働者の頭を殴ったりす るのを目撃したのがきっかけだとおっしゃっていましたけど、思想的といいますか考え方といいますか、それを山谷とか寄せ場から汲み取った事は?
宇賀神 重層的差別構造の中で、差別抑圧されている者たちが、より弱者へと矛盾を転嫁することなく、第一の敵へ向けて闘っていき、ともに解放されていけるのか、という課題を解くカギを下層労働者の闘いの中にやっと見つけたと思いましたね。
A 宇賀神さんは独演会がどうも苦手らしいので、どんどん聞いた方がいいようですよ。稀にみる明るい懲役囚だったといわれる人ですから、面白い話がいっぱい聞けると思います。
宇賀神 それから、話が少し変わりますが、先日25日にバイオヘルス健康法講座っていうのを救援連絡センター主催で、NPO法人「世界快ネット」の協力を 得てやったんです。私の方で企画した獄中者の為の健康法という事です。誰でもどこでもできる、獄中でもできる健康法。これは、コロンビアにいるバイオヘル スという健康運動をやってる人を講師に招いておこないました。私自身、獄中で医療が全くない、無医村的な状況下にずうっと置かれてたんで、どうしても自分 の体は自分で守るっていう事で、そういう健康法を結構やりました。
今も結構やってます。例えば、私が一番やっているのは飲尿療法ですね。オシッコを飲むという、一番簡単で誰でもどこでもできる。これは、ずうっともう20 年以上続けてますね。拘置所に入った時に知って、それからもう20年以上やってます。結構、体にはいいと思います、うん。皆さんも、いつ逮捕されて刑務所 に入るかわからないです。いま裁判員制度とかいろいろありますよね。裁判員制度、それぞれの人が本当にちゃんと自覚的に考えて審査できればいいんだけど、 マスコミのキャンペーンなんかで、それにのせられた形で物事を見てしまう。だからマスコミが「こいつが犯人だ」というふうにいえば、犯人だと思ってしま う。そういうふうにして、結局裁判の中で思い込んだ人間を犯人だと判決してしまう。そういう事も起こり得るような制度だと思うんですけど。そういう危ない 制度でもあるんですね。だから将来的に、誰でも塀の中に入る可能性があるんで、健康法もやっておいた方がいいと思いますよ。獄中では、ガンになったらこれ はもうおしまいですから。本当に、ガンになったら死ぬだけです。とにかく自分でできることは自分でやるという事で、この健康法を皆さんも今からでもやって 下さい。
[2007/12/2 planB]

2007年11月2日

plan-B 定期上映会

映後の講演:僕が山谷に関わったのは二十歳のときだった…
講師:宇賀神寿一

僕が山谷に関わったのは、二十歳のときにひょんなことからだった。武装闘争に関心があった僕は、京都大学で行われたリッダ闘争戦士追悼集会に行った。そ の集会後に釜ヶ崎の闘いを支援するための会議にたまたま参加し、そこで船本洲治たちに出会ったのが、日雇労働者の闘いに僕を結びつけたキッカケだった。帰 京した僕は、その秋には、第一回山谷越冬闘争の準備会に参加して、あれよあれよという間に、日雇労働者の闘いを非公然に支援する部隊のメンバーとなって いった。当時、「武装闘争」に一番マッチしていたのが、暴動闘争中の山谷?釜ヶ崎だったから。なるほどナッ!の運命とでも言うべきかもしれない。
その後に敗北があり、指名手配の逃亡者となり、逮捕・受刑者となり、21年経って出所しても、僕の闘いは、まだ続いている。当分続きそうである。エライコッチャ!それもこれも山谷との関わりがあればこそ。映画『山谷』を観る時、僕は懐かしい顔をいつも探している。