「見せしめ」のポリティクス

丸川哲史(台湾文学・東アジア文化論)

今晩は、丸川と申します。今、私の専門を紹介して頂いたんですけど、台湾文学というジャンルだけでは狭いので、大学では中国文学、中国映画、それから中 国の現代史、そういうものも教えております。話しながら自分がどういう人間かっていうことを紹介していった方がいいと思うんですけど…。司会の池内さんと は、実は劇団関係で知り合うようになっていたのでした。まず1984年ことです。この映画の舞台になっている年代に私は大学に入学しています。この映画 『やられたらやりかえせ』の最後のクレジットにも載っていましたけど、「風の旅団」という劇団がありまして、1985年、86年くらいにそのテント劇公演 を観に行った経験があったんです。そういう人間関係、グループ関係がありまして、この映画を観るのもおそらく4回目か5回目くらいということにはなりま す。あともう一つこの映画との因果を申し上げますと、身近に知っている人も出ているのですね。林歳徳さんという方がいらっしゃっていましたけど、あの方は 台湾出身の方で、明治大学の守衛さんだったんですね。私が入った頃、ちょうど守衛を辞める時期だったんですけども。その当時、いわゆる在日外国人の指紋押 捺拒否の運動をされていて、私もちょっと彼のお手伝いした経験があります。それで、守衛であった林歳徳さんは大変良い方で、我々の側と言うか、学生運動す る側がストライキやる時にですね、すぐに鍵を学生側に引き渡してくれるんです(笑)。そういう良い方だったんです、非常に協力的で。かつての大学では、そ ういう良き時代もあったのですね。しかしそれが崩れてしまって、で今私はそこの大学で教えているという、ちょっと妙な感じでいます。この映画を今この現時 点で観る時に、司会の池内さんから私に振られた話として、私が大学でアジアのことを教えていたり、アジアをネタにしてものを書いているということがあっ て、「アジア」とくっつけてこの『やられたらやりかえせ』にもう一度別の光を当てて語ることが出来ないかということでした。
私 は、あとは立教大学で映画史を教えていまして、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)という映画監督が中国にいるんですけども、その映画を観せていろいろ論評すると いうこともしています。それで何故か彼の作った作品と似た感覚を持つんですよね。何となく、共通の肌触りみたいなものがあるんです。どういうことかという と、例えば、『やられたらやりかえせ』の一番最後。争議団がある悪徳手配師を囲んで彼のやって来た罪状を白状させるシーンがありますね。その周りを労働者 のおっちゃん、おばちゃんが取り囲んで見ている。要するに、「見せしめ」ですね、その場面が映っていますね。ジャ・ジャンクーの第一作と言われている作品 で日本語の題名は『一瞬の夢』という映画があります。その映画の最後のシーンも、スリであるシャオ・ウーが捕まって、警察によってどっかに引っ張られて行 くんだけど、街中でお前ちょっと待っていろと言われ、手錠で腕を電柱かなんかに掛けられ放置されるシーンが出て来ます。しばらくそのシャオ・ウーをカメラ は映しているんですけども、そのうちにワラワラと集まって来るストリートの人間がファインダーに入って来る。そうすると結局、この映画を観ている観客が見 られていると言うか、観客がスリとして捕まった人間の位置に転換し、街の人々の視線を浴びるっていう構図になるんです。こういうことは、ある種普遍的と言 いますか、「アジア」的とも言える光景だと思うんです。もちろん、普遍性と言ってもいろいろな普遍性があると思うのですが…。『やられたらやりかえせ』で も最初のナレーションで、つまりヤマという土地が江戸時代には死刑執行人が死刑を執行し、そして死体を処理する、そういう刑場から発展したものだ、という 具合に街の由来が説き起こされていますね。権力と人間の死に関わる歴史的因縁があった、という前振りです。その連鎖として、この映画は、ヤマという土地を 表象しようとしている、という繋がりになっている。
私は、大陸中国には一年間いた経験がありまして、それから台湾にも三年いた経験があります。そういう経験の中で、処刑される身体、あるいは審判される身 体に出会わざるを得ませんでした。例えば台湾にいた頃のことですが、テレビのニュースの一部ですけども、重大な強盗殺人を犯した人間が処刑されるまでの様 子がずっとテレビで中継されるということがあるわけです。最後に手錠を掛けられた死刑囚が、「私は国家に対してすまない」とかって大声で叫んで刑場(屋 内)の中に入って行って、ズドーンって銃声が聞こえる――それを中継していました。これは1991年のことでしたから1990年代までそういう「見せし め」が通常のことであったわけです。それで大陸の方でも、2000年代に入ると公開の処刑はなくなりますが、公開審判というものがまだある。つまり広場の ような所に連れて来られて、裁判官が、お前はこういうことをおこなってうんぬん――そのようなプロセスがネット新聞などに載っているわけです。また、重大 な審判が下される法廷の様子はテレビで中継されるんです。いわゆる囚人といいますか犯人が、「はい、そうです」とか、「いや、そうではない」とか、弁明の 機会のようものも設定されています、そういうシーンを見る、とはどういうことなのか。つまりこれはヒューマニズムっていう言葉で簡単に批判できることなの か? 日本ではそういう習慣は基本的には既にありませんね。公権力によって、また公権力が自分自身の権能を全く隠してしまっている、ということです。そこでもう 一度考えたいのは、この『やられたらやりかえせ』が有する、いわゆる記録性というものです。1980年代の寄せ場というところで出てきたいろんな闘争と言 いますか、やっぱりこれは政治闘争記録なのだと思うのですけども、そういうものがきちんと記録されていて、それを私達が知ることが出来るという、根本的な 意味での記録性です。
さて、私が言いたい普遍というのはこういうことです。ミシェル・フーコーという人が『監獄の誕生』という本を書いた。この本には「監視と処罰」という副 題が付いています。この第1章と第2章の中でかつての「身体刑」のエピソードが出てくる。つまり処刑する時に身体そのものに打撃を与えて死なせて行く。そ して大衆は、それをずっと見守るわけです。骨を砕いたり、馬を使って身体を引き裂いたり。また、熱い鉛を身体にかけたりとか。またその際に、キリスト教の 導師がいちいちその囚人に向かって聞くわけです。「お前は、悔い改めているか」とかですね。そしたらその囚人が、「神のご加護を」と言うのか、あるいは神 に唾するような何かを言うのか、というようなことを大衆が見守る。どんどん刑が進行していって、最後その人間が絶命するまで見届けるわけですね。しかし、 そのような身体刑は手順がきちんと決まっている。ある種の作法に則ってやっていることですから、それに反したり失敗すると執行する側も後で処罰されること になっていた。しかし時代が下って来ますと、その身体刑が消えていくわけです。次に何に変わっていくかというと絞首刑なりギロチンになっていくわけです。 この時にフーコーが言っているのは面白くて、つまりギロチンになったのは「ヒューマニズム」が浸透したからだ、と言うのです。つまり苦痛の時間を出来るだ け縮減するためなんだという、こういう考え方が出て来る。つまりそれまでは、完全なる祝祭空間がそこで機能していたわけですが、それが「残酷なものであ る」ということになって、その苦痛の時間をどんどん縮減し、ギロチンになって、さらに密室の瞬間の死刑になって行く。そして最後に、フランスの場合には死 刑を廃止するという、こういう順番になって行くわけです。このような死刑に関わる人類史からすると、フランスという国はつまり「進歩」の国ですから、最後 には死刑廃止にまで突き抜けていく。しかしその間にあるプロセスにおける「進歩」の内実は、実は私たち東洋人にとって必ずしも自明なものではない。こうい うプロセスは、そのままアジアの国で「実現」するかというと、多分そういうふうにはなかなかいかない。もちろん私は、死刑廃止賛成派であるわけですけれど も。しかしこういった人間の死というもの、つまり権力がある人間に対して加える死というものをどのように考えるか、という際に、フーコーが企図したような 記録は決定的であるように思います。
これまでフランスの話をしましたけども、中国の場合には次のようなことがあったんです。みなさんご存じでおそらく読んだことあると思うんですけども、魯 迅という人の小説に『阿Q正伝』というのがあります。最後はやっぱり処刑のシーンですよ。で、それからまた別の魯迅の自伝的な小説で『藤野先生』という小 説にも処刑のシーンが出て来ます。つまり自分の同胞が処刑される幻燈(スライド)のシーンを観て、仙台医科専科学校にいた魯迅はそのショックのために、医 学をやめて文学を志すという、ある意味では神話化された有名な話ですね。いずれにせよ、魯迅という人は処刑に非常に敏感に反応していた作家であるわけで す。魯迅は処刑を記録し続けていた、と言えるでしょう。『阿Q正伝』が書かれたのは1921年前後なんですけども、この時に魯迅はこういうふうに言いま す。阿Qが処刑されている時の観客は「狼の目」だって。つまり残酷な眼差しだという感覚です。これが阿Qの滑稽さとかも含めて、魯迅の1920年代前半に おける処刑と人間に対する観方だった。しかしその後魯迅はこの処刑という問題について別の記録を遺します。それは、1936年で魯迅が死ぬ直前のことで す。魯迅の書いた有名なエッセーとして「深夜に記す」があるんですけども、この中で魯迅はこのように言っております。自分はかつて公開処刑というものは残 酷なもので、非常に不快なものだ思っていた。しかし私は少し考え方を変えたい、と言ったわけです。その間に何が入っているのかというと、国家権力による大 量虐殺が起きています。それからもう一つ重大な出来事は、1931年満州事変が起こる年ですけども、自分の弟子達が反動政府によって闇で処刑されるという 出来事が置きます。捕まって密室で処刑されたわけです。どこで死んだのかも年月もはっきりわからないまま自分の弟子、一番愛していた弟子達が殺されること になりました。で、魯迅は先ほどの「深夜に記す」というエッセイの中で、要するに、「密室の死の方がよほど寂しい」と言っているのです。中国語で「寂莫」 という字で「ジーモウ」と発音しますけども。よほど恐ろしいことなんだ、と言ったわけです。その前提として、国家権力が人間の死をどのように演出するの か、その手法が激変していたわけです。それは虐殺であり、また密室の処刑です。そうすると文学者たる魯迅も、それに対して「態度」を変えなくてはいけない ということになった。
しかし魯迅に即して考えますと、公開の処刑の方がよっぽど良いというような結論ではない。つまり時間を逆戻りにすることはおそらく出来ないということで す。しかし人類史的に言うと、権力が与える人間の死の光景が大衆によって欲望され享受されてきた歴史が厳然としてある。フーコーが言っているのは、大衆は そこで何を聞きたいのかというと、「真実」の声を聞きたいという欲望です。身体の上に課せられる刑罰によって絞り出される声、それを聞くことによって「真 実」が開示される、と信じていたということです。しかし、そういうことをやめさせたわけですね。なぜやめさせたか、様々な観方があるわけですが、一つに、 囚人が実は潔白である可能性があるということになると、刑を執行する権力に対して大衆は逆に反逆するという事件が起きてくるわけです。最終的にフランス革 命では、死刑を執行していた側がギロチンによって斬首せられる、ということになる。つまり、処刑する/されるの関係がひっくりがえるわけです。元々は権力 の強さを見せつけるために「身体刑」を施していたわけですが、やればやるほど権力主体の疑わしさも露呈され、最終的には大衆の反乱が懸念されるようになっ た――その関係の反転を禁ずるということが処刑の秘匿化であった、ということになる。こう言った観点から観るならば、実に中国や台湾という社会は、さきほ ど言った「真実」の声を聞きたいという欲望がまだ禁圧され切っていない社会、ということにもなります。いわずもがなのことですが、何が理想的な社会状態 か、ということは私は申し上げていません。ただいずれにせよ、私たちは、そのような中国や台湾と同時代史的に生きている、ということです。
その意味でも、ジャ・ジャンクーの『一瞬の夢』の最後のシーンがやっぱりものすごく面白い、爆発的に面白い。つまり大衆が罪を帯びていると考えられる人 間をストリートから観るということ、またその罪人を観ている民衆を見返すということは、どういうことか。それはつまり、何千年もの歴史の堆積を堆積として 受け止めつつ、それを反転した結果であるわけです。で、こういうことが「アジア」的と言っていいのかどうかわかりませんけども、私が言いたい問題の磁場で す。またちなみに、農民人口がまだ55パーセントから60パーセントある中国においては、田舎町に行けばそういうような感覚を持った人間がまだ大勢いると いうことです。多数派だと思うんです。そういうものと私達の社会は実は地続きなのです。中国社会で生産されているモノを食べ、それらを購入して生きている のですから。そういう地続きである中国において農民暴動とか、工場における争議とか、そういうことがまさに巻き起こっている。1984年、85年に撮られ 『やられたらやりかえせ』のような現場は今の中国に地続きにある、というふうに考えていいと思うんです。で、そういうことの中にあって一番つまらないの は、「日本社会と違っていまだに野蛮なことが行なわれているんですね」という反応です。はじめに魯迅が1921年段階で書いたようなことですけども、その 次に魯迅が1936年に書いたことを見せて、それを引っくり返すというのが私の大学での授業なんです。
そこで、1920年代から30年代にかけてどのような変化があったのか、もう少し補充した方が良いようにもいます。先ほど言いましたように、それ自体、 中国における戦争と革命過程が深化して行きまして、国家権力は、死刑を密室化していくという傾向を帯びるわけです。これは世界的な同時代性としても考察で きることです。国民党政権というのは1930年にですけど、かなり強い体制を確立したわけですが、その30年代の模倣モデルは実はドイツなんです。 1937年くらいまではドイツと非常に蜜月期にありました。蒋介石という人はある時期まで非常にヒトラーの物真似みたいな服を着てですね、ちょび髭も生や していました。それ以前の中国は、孫文と共産党による合作期ですから、ソ連がモデルなのでした。いずれにせよ、その時に考えるべきことは、中国は、中世的 な残酷さを残しながらも、国家の「進歩」にあった、ということです。しかしそれは魯迅が遺した言葉で言うと、以前の地獄に対してより強烈な地獄、昔の地獄 を覆い隠すような地獄がやって来ているんだ、という知見に繋がります。そこで向かいの地獄が懐かしい、美しいイメージになってしまう、と述べていました。 「失われたよい地獄」というエッセーが、『野草』という短篇小説集に書かれています。つまり魯迅の意図したものは、そのような意味での「進歩」の観念を壊 していくということでした。そういうのがおそらく、「アジア」的な批評なのだ、と思います。
で、日本の場合にはみなさんご存じのように、死刑囚といわれている人々は親類以外の接見を禁止されるわけです。まさに新しい地獄ですね。権力が人間に与 える死を極限にまで匿秘化しようとしているわけです。こういうふうに考えてくると、こういう映画、つまり『やられたらやりかえせ』のあのラストのシーン ――公開審判という形でその場を、政治的な場を構成するという民衆の力ですけれども――こういう政治の磁場がきちんと記録されていた、ということです。こ れは本当に素晴らしいことだ、と私は思います。で、こういうことを今どのように実現するのかということで、イメージでこういうものだ、とは中々言えないわ けですが。やはり例えばテント演劇ですね。テント演劇の中で試みられていることとは、つまりこの『やられたらやりかえせ』でやっていた、「見せしめ」とい う名のコミュニケーションの再現動化であるわけです。ある「電圧」をかけられた身体、その身体から絞り出される声に「真実」を見たい、あるいは見せたい、 という欲望。そういう欲望は、やはり人類史の中から、私たちの中から消えないと思うのです。それをまた花開かせて革命に持っていきたいのか、と言われた ら、それはちょっと自信持って言えませんけども。だけどもそういうものが社会の中から消えないのは、つまりテント演劇みたいなものを観たいという欲望が社 会の中に、まだあるからです。で、そういうことがおそらく「アジア」的なものなのだと思います。

司会 どうもありがとうございます。最後テント演劇ってさっぱりわからないかもしれないんですけども、僕とか何人かがテントで芝居をやって いるっていう経験、最初に丸川さんがおっしゃった80年代に「風の旅団」というテントでの芝居をご覧になったということに結びつくという話でした。時間が そんなにはないのですけど、みなさんのご都合によりますけど、何か今の丸川さんのお話に関してご質問があったら。じゃあどうぞ。
参加者A 大変興味深いお話でありがとうございました。権力と人間の死ということを人類史的問題として捉えるという視角はとても興味深かっ たんですけれども。こういう人類史的な問題ということになると釈迦に説法になってしまって恐縮なんですが、ヘーゲル経由でマルクスが「人類史のアジア的な 段階」ということを言っていて。それが吉本隆明なんかは特別の意味合いを込めて重視しているというようなことがあるわけなんですけれども。あと公開審判っ ていうのが今でも残存しているということにおいては、まあ吉本風の言い方にしちゃうと、共同幻想の中に残っている「幻のアジア」みたいなことになるんじゃ ないかと思うんですが。そういう点で、「アジア」的なものというのは貫徹されているのかどうか。だから丸川さんは批評をする立場としての「アジア」的とい うことをおっしゃったんですけれども、制度の側にその「アジア」的な問題っていうのは残存しているのかどうか。そこにおいて日本というのは異質なものとし てあるのかどうかという点をおうかがいしたいと思います。
司会 かなりハードな質問ですね。
丸川 高度な質問でびっくりしましたけど。そうですね、「アジア」というのはやっぱり多様なので、半島のアジアと、列島のアジアと、大陸の アジアとかいろいろあるとは思うのですけれど。中国だけに視点を移しますと、皇帝権力的なもの、ずっとこう、毛沢東もそういうものの化身として考えられる というようなことはまあよく言われておりますけれども。わりとヘーゲルが定式化したような考え方からすると、中国の場合すごく面積が広くて、また河が長い ですね。そうすると、ぜひとも、農業社会を成立させるために潅漑工事をやらなくてはいけない。その長い河を管理するためにどうしても広域権力が必要だとい うことになります。それが皇帝型権力の起源にある。ヘーゲルが言ったように、だからギリシャとかそういう入り組んだ海岸線のある土地はそういう社会形態は 採り得ないんです。皇帝権力ではなくて都市国家という形で、ポリスという形で政治がおこなわれる。いわゆる西洋によって理想化されるシティズンがその都市 国家から生まれる、というストーリーになりますね(しかしその代りに、シティズンではない奴隷が必要にもなる)。谷川雁という人は、中国との対比におい て、日本社会の特色を言おうとしていました。日本の社会の二重性というコンセプトですね。建前としての国家と実体としての共同体社会の二重性がそこから生 まれる、などと言ってました。一方、常に私の大学での授業でもそうですけれど、学生は得てしてつまらない比較論にはまってしまう。それは日本内部のどうし ようもないぬるい空気の反映にすぎないのですが。その時に例えば先ほど言いましたけれども、ヨーロッパからの補助線を引いて、例えばフランスでなぜギロチ ンに到ったというと、それは「ヒューマニズム」だったというような刺激的な言い方をわざわざして、物事を分からなくさせる、という手段を講じています。ま たさらに逆のことを言いますと、中国の方がいわゆる西洋型のいろいろなものを取り入れて、それを革命に転化してきた歴史があります。つまり、西洋の文脈を 逆なでしながら、マルクス主義国家を新たに作ったわけです。ただ一見すると、あきらかに中国の方が頑固に自分自身の何かをずっと保存しているという傾向も 見受けられるわけです。そこで中国現代史は、結果的に「進歩」の幻想から逃れることによって自身に回帰した、という言い方が成り立つのだと思います。そう いった特色が最も色濃く出ている思想が魯迅にはありますね。
少し話題がズレますが、日本においても、いわゆるアムネスティ・インターナショナルなどという組織の支部があって、フランス型の運動を行っているわけで す。死刑制度廃止も含めて。しかし忘れてはならないのは、死刑にかかわる問いは1970年代における東アジア反日武装戦線といわれている人達のある種の一 連の行動を受けたところから出てきた思想として取り扱わなければ意味がないように思います。人を殺傷してしまった、爆弾で。そのことを反省しながら、しか しまた死刑に反対する。記録するに足りると言ったら変だけど、今でもその運動は続いているわけです。そして、まだ生きているのです、監獄の中で彼らや彼女 らは。先ほど私が言いましたけども、独特の反応の仕方で権力と死の問題を捉まえて、それをずっと表現してきた歴史が1970年代からずっとある、ってこと だと思うんです。『やられたらやりかえせ』もその途中で出て来た一つの作品(記録)であるわけです。こういったことが、つまり「アジア」的な主題である、 と私は思うわけです。さらに遡れば、どこから始まるかっていうと1910/11年の大逆事件です。その大逆事件と繋がっているのは、まさに韓国併合という 暴力であるわけです。こういうことを前提にして考えるということが、やはり「アジア」的な批評なのだと思います。
司会 大逆事件からちょうど百年ということで。
丸川 そうですね。
司会 東アジア反日武装戦線、75年にパクられてますんで、35年という時間軸の中で今話されました。ただ、ちょうどこの場は時間というこ とで、今日はここでいったん終わらせて頂きます。ですが、時間のある方は隣に移って具体的な話を丸川さんを交えて話したいと思います。それから、ここに NDUの井上さんがいらっしゃっていますが、明日はこのシリーズの最後で『出草之歌』を上映して、井上さんご自身が登場して何かをやります。『出草之 歌』、ご覧になってない方は、これは絶対に必見ということでぜひお薦めしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

plan B映像週間第1弾「NDUの軌跡」&『山谷やられたらやりかえせ』

NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)は、「早大150日間ストライキ」を担った早大中退者を中心に1968年に結成された映像集団である。その映画 づくりは小川プロ、土本典昭らと同時代にあって学生運動高揚期から長期にわたって闘争の現場を撮り続けてきた。その視線は労働者・学生運動とベトナム反戦 でもりあがる新宿から、沖縄―先島諸島―台湾―朝鮮半島へと歩を進め、国境をまたいで流浪する労働者の姿を追い続け、「“アジア”への視点」を独特の地平 から切り開いていった。


■日時:6月1日(火)〜6月6日(日)PM7:00〜(上映後、ゲストのトーク)
6/1【火】「出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦」(2005年/112分)
ゲスト:桜井大造(野戦之月海筆子)
6/2【水】「鬼ッ子 闘う青年労働者の記録」(1969年/78分)
「倭奴へ・在韓被爆者無告の二十六年」(1971年/52分)
ゲスト:土屋トカチ(映像作家『フツーの仕事がしたい』監督)
6/3【木】「沖縄エロス外伝・モトシンカカランヌー」(1971年/87分)
ゲスト:小野沢稔彦(映像作家・批評家)
6/4【金】「アジアはひとつ」(1973年/100分)
ゲスト:平井玄(音楽批評)
6/5【土】〈特別上映〉「山谷─やられたらやりかえせ」監督 佐藤満夫・山岡強一(1985年/110分)
ゲスト:丸川哲史(台湾文学・東アジア文化論)
6/6【日】「出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦」(2005年/112分)
ゲスト:井上修(NDU)
■場所:plan-B:地下鉄方南町線(丸の内線)中野富士見町駅下車5分
東京都中野区弥生町4-26-20モナーク中野(地下1階) 03-3384-2051
■『山谷─やられたらやりかえせ』(監督:佐藤満夫・山岡強一)以外の5作品は企画・制作/NDU
■料金:1日券1000円、通し券3000円

都市の辺境

山谷・釜ヶ崎・深川から生まれた 六〇年代のフォーク・ムーブメント再考

本間健彦(リトルマガジン『街から』主宰)

今日の仕事はつらかった
あとは焼酎あおるだけ
どうせ山谷のドヤ住まい
ほかにすることありゃしない

まずイントロに流して聴いていただいた曲は、フォーク・ソングの『山谷ブルース』です。一九六〇年代後期にフォーク・ムーブメントという 現象が巻き起こります。ギターを弾いて歌えることを知った若者たちが、自分の心情や不条理な社会に対する怒りや抗議、また反戦といった意思表示を、自分た ちの歌として作り、歌い始めたのです。当時、フォーク・ソングは「プロテスト・ソング」とも呼ばれています。
この『山谷ブルース』という歌は、フォーク・ムーブメントの旗手的な存在であり、「フォークの神様」と称された岡林信康のデビュー曲です。そしてこの歌は、岡林青年の山谷体験から生まれたと伝えられてきました。
岡林信康の『山谷ブルース』という歌については、私も昔、よく聴いていたので知っていましたが、この歌が歌い手の岡林信康の山谷体験から作られたのだと いう極めて興味深いドキュメントを知ったのは最近のことで、私は、京都在住のライター田頭道登という方の著書により、そのドキュメンタリーを見聞すること ができました。
というわけで、田頭さんの本を紹介するという構成で、当時の山谷とフォーク・ソングの関わり、山谷がその頃有していた意味というか、もうひとつの側面についてお話をしたいと思います。
田頭道登さんは、これまでに、『山谷キューバフォーク』(一九七九年刊)、『岡林信康黙示録』(一九八〇年刊)、『私の上申書―山谷ブルース―』(二〇 〇四年刊)と題した三冊の本を出されています。現在、七八歳。京都在住の方です。本のタイトルでもおわかりのように、田頭さんは、六〇年代、彼の三十代の 大半を山谷で過した人です。
そしてこの山谷で、まだ歌手になる前の大学生だった岡林信康に出会い、歳はかなり違っていたのですが、二人は同志的な絆を結びます。そして岡林が大学を 中退して、フォーク歌手になり、高石友也事務所(後のURC=アンダーグラウンド・レコード・クラブ)に所属すると、岡林に誘われて同事務所に就職し、 フォーク歌手集団の裏方、マネージメントを担うようになります。
URCには当時、フォーク・ムーブメントを牽引していた関西フォークとかアングラ・フォークと呼ばれていたフォーク・グループの拠点で、高石友也・岡林 信康・高田渡・中川五郎や、『帰って来たヨッパライ』という歌で大ヒットを飛ばしたフォーク・クルセダーズ(北山修・加藤和彦・端田宣彦)らが所属してい ました。つまり、田頭さんは、裏方として当時の最先端のフォーク・ムーブメントに関わっていたのです。
では、田頭さんは、どんな経緯で山谷に辿り着いたのか。その足跡を簡単に見ておくと――。一九三二年(昭和七)四国の愛媛県生まれ。十八歳の時、プロテ スタント教会で受洗。一九五三年(昭和二十八)二十一歳の時、父親と喧嘩して家出し上京。新聞配達などに従事、自活の道を模索しますが、学歴がないことな どもあって正規就労ができずに二十代を過しています。
田頭さんが山谷入りするのは一九六三年(昭和三十八)、彼が三十一歳の時だった。彼はドヤ暮らしを始め、日雇い労働者として働き始めました。その頃の山 谷は約二万人のドヤ暮らしの人々が棲息していたといわれる寄せ場でした。高度経済成長時代へ邁進している最中であり、そのうえ東京オリンピック開催前夜で 東京の街はビルや道路などの建設ブームで湧いていましたから仕事にあぶれることはなかった。だが、仕事はどれも過酷な肉体労働ばかりで、そのうえ山谷の日 雇い労働者は世間から蔑視され、差別され、落伍者のように扱われるという視線に晒されてきました。
一日の労働を終え、帰る処はドヤで、そこは畳一枚敷きの押入れのようなスペースで立ち上がることもできない。おまけに南京虫との共棲が当たり前という環 境だった。夏など暑くて寝苦しいので、焼酎を飲み、酔っぱらって路上にぶっ倒れ寝てしまう者がおおぜいいた。酒の呑み過ぎや青カンで体を壊し病死したり自 殺する者も少なくなかった。当時、夏になると夏祭りのように山谷で暴動事件が頻発していたのは、そんな情況から生じていたのです。
その頃、「蒸発人間」という流行語がありましたが、職を失って家に居づらくなったり、犯罪を犯して身を隠すためとか、晴れて刑務所を出所したものの家や 故郷に帰ることができずに住所不定になっていた男たちのことを指した呼称で、山谷はそのような「蒸発人間」の巣窟とも言われていました。
十八歳で家出を図り、家に帰ることなく都会で棲息していた田頭さんも、「自分も“蒸発人間”だった」と語っていますが、山谷入りしたのは、働く場所を求 めて、という理由のほかに、こんな動機があった、といいます。それは、当時山谷にドヤ暮らしをしながら伝道している中森幾之進と伊藤之雄さんという二人の 牧師さんがいるということを知って、是非会ってみたかったということだった。
つまり田頭さんは、山谷のドヤ街に「イエス」を発見し、その二人の牧師に導かれるように山谷へ赴いたのです。そして田頭さんは、二人の牧師が設立した日本基督教団隅田川伝道所の書記に任命されています。
こうして山谷暮らしを始めた田頭さんは、このほかにも山谷労働者協力会、山谷地区学習会、小さなバラ子供会、地域誌『人間広場』の編集など、諸活動に関 わっていただけでなく、『山谷のキリスト者』というミニコミ誌をガリ版刷りで週に一回発行しているのです。もちろん、これらの活動は生活の資を得るための 日雇い労働の合間を縫って行われていた作業だった。
田頭さんは、なぜ山谷で、そういう生き方を積極的に行ったのだろうか? その答えは彼のつぎのような思考の中に読み取れます。

私は、山谷で、人間が、この社会でいかに尊いものか、それと共に、どれほど疎外され、抑圧され、苦しみを与えられ続けているかを教えられた。
山谷こそ、私を救い、前進せしめ、私の精神と肉体をギリギリに追いこみ、人間社会について開眼せしめた場所であり、自分は「山谷大学」の学生であったのだ。

そして田頭道登さんは、この山谷でフォーク歌手としてデビューする前の神学生時代の岡林信康と出会うのです。田頭さんの本には、岡林からの私信が沢山紹介されていますが、岡林青年の真摯な青春像がうかがえ感動を覚えます。
岡林信康は牧師の子息で、牧師になろうと、同志社大学の神学部に入学しています。だが、次第に自分が進もうとしている世界にムシャクシャするようにな り、自分をブッこわしたくなるといった衝動に駆られるようになります。収録されている岡林の手記には山谷へ行こうと思い立った心境がつぎのように記されて います。

ちょうどその年の夏、うちの教会に来ていた札つきの非行少女が、あることで警察にあげられました。その少女をめぐって、「教会は、そんな子の来る 所じゃない」という声が、教会員の中におこりました。信徒の偽善とエゴイズム……それに、彼女を恐れて関わっていくことをしなかった自分、自分の持ってい たと思う信仰……既成の教会に対する反発と、自己自身のキリスト教信仰に対する疑問、劣等感がとうとう爆発し、一九六六年八月の終りに「山谷」で活動して いる牧師に会いたい気持ちと、ヤケクソ半分の、どうでもなりやがれ的な気持ちで山谷に飛び込んだわけです。(『人間広場』七〇年二月・NO.8)

田頭さんの本には、その裏付けがこんなふうに記録されています。

(六六年)このころ、岡林信康君(当時、同志社大学神学生)消沈しきって、山谷の私達を訪れた。労働センター前の私の宿泊していたドヤでの生活 で、私が上、彼が下段だった。一泊百六十円の前払いであった。彼は稼いだ金でボクシングのグローブを買って滋賀県近江八幡の実家(教会)へ帰って行った。

翌年夏にも岡林は再来していて、つぎのように記されている。

六七年の夏、岡林君は、同じ神学部の平賀久裕君と共に山谷に来た。平賀君も山谷の現実には驚いたようだった。坊主頭の彼は、ドヤでウイスキーを コップであおって「神は死んだ!!そういったニーチエも死んだ!!と、大声で酔っぱらい叫んでぶったおれた。現在の教会の不甲斐なさ、神の死んだ教会のあ り方を彼は神学部の「夏季研修報告」で告発した。このとき岡林君は、山谷で質流れのギター(三千二百円)を買って近江八幡へ帰った。(『私の上申書―山谷ブルース―』)

岡林信康の山谷体験は、大学の夏休みを利用しての一種の体験学習であり、アルバイトの日雇い労働であった。山谷から家に帰る際に、稼いだ金でボクシング のグローブや質流れのギターを土産に買っているところに、そのことはよく示されています。けれども、父親の主宰している教会や自分が入学した大学の神学教 育の問題点に、青年らしい潔癖な感性で疑問を抱き、悩み、それをなんとか克服したいという気持ちで、山谷体験に臨んでいる姿にも注目しないわけにはいきま せん。なぜなら、この時の山谷体験から、岡林信康は『山谷ブルース』という歌を作り、フォーク・ソングを歌い始めているからです。
田頭さんの本によると、この『山谷ブルース』の誕生の経緯がつぎのように記されています。

京都に帰った平賀から、山谷の体験を綴った(一傍観者の作による『山谷ブルース』)という詞が送られて来た。私はこれを「山谷のキリスト者」(第三号)に掲載した。

この冊子は岡林にも送られた。すると、これを読んだ岡林から、山谷の田頭につぎのような手紙が寄せられた。その一節を紹介しましょう。

山谷からかかえて帰ったギター。こいつがとんだ事を引き起こしました。自分でギター弾きながら作った歌が一五曲あまりになったのですが、去る十一 月二十三日、草津で高石友也という知る人ぞ知るフォーク歌手(釜ヶ崎にいた事があるそうです。立教大学八年生!!)が反戦集会に来た時、俺も自作の歌二曲 を歌わせてもらいました。(中略)週報(山谷のキリスト者)に記されていた平賀の詞(山谷ブルース)にさっそく曲を作ってみました。かなりの線の曲ができ たによって、また聞かせます。たのしみにしとれ。 

この岡林信康の手紙で興味深いのは、日本のフォーク・ソングがどのような状況の中から生まれたのかということが、この記述からうかがえることです。例え ば、岡林より少し先輩で「アングラ・フォークの創始者」と位置付けられている高石友也は東京の立教大学に籍があったのですが、ほとんど大学の講義には出席 していなかったようで、のみならずなぜか大阪の、山谷と並び称された釜ヶ崎に流れ込んでいて、そこからフォーク・ソングを歌い始めていることです。岡林は 前述したように京都の同志社大学生だったのに、夏休みに二年にわたり山谷に来ていて、二度目の山谷体験後にフォーク・ソングを作り始め、歌い始めていま す。
また、岡林についていえば、大学を中退してフォーク歌手としてデビューする直前には、山谷で暮らしていた田頭さんを、自分の故郷の近江八幡に呼び寄せ、 二人で日雇い労働などに従事しながら共同生活をし、被差別部落の運動に関わっています。そしてその運動の中で、その後デビューして話題を呼ぶ、『チュー リップのアップリケ』『がいこつの歌』『友よ』などが作られています。
このようなドキュメントに接すると、日本のフォーク・ソング草創期の旗手を務めた高石友也と岡林信康の二人が山谷と釜ヶ崎の体験の中から歌を紡ぎ、歌い始めていることに注目しないわけにはいきません。
山谷と釜ヶ崎は東西の最大の寄せ場で、日本が高度経済成長の時代へと驀進を開始する六〇年代に活況と矛盾を露呈させた坩堝だったわけですが、この坩堝 に、大学生という身分からドロップ・アウトして飛び込んだのが高石であり、岡林だったわけです。そしてそこから日本のフォーク・ソングは産声を挙げていた のだというルーツを発見することができます。

 ところで、私は昨年暮れに、『高田渡と父・豊の「生活の柄」』という本を社会評論社から出しました。実はこの高田渡も、岡林信康や高石友也と共にフォーク・ムーブメント草創期の旗手の一人で、「フォークの吟遊詩人」と称された伝説的なフォーク歌手です。
高田渡は、二〇〇五年四月十六日、ライブ・ツアー先の北海道釧路白糠町で倒れ亡くなりました。五十六歳だった。彼は類稀な詩精神と反時代的ともいえるよ うな反骨の生き方を飄々と貫いた人物なのですが、その独特な存在感や彼の目指した「生活の柄」が、どこに由来し、どのようにして形成されたのか。その源流 を辿ってみよう。そういう動機から私はこの本を書きました。
高田渡は岐阜県北方町の出身です。祖父が材木商で一代を築き、町の中でも五本の指に入る大きな家で、渡は生まれました。
父親の豊は青年時代、佐藤春夫門下の詩人でしたが、戦争が終わるまでは京都や東京でずっと編集者でした。戦後、郷里の北方で家族と共に暮らすようにな り、牛乳販売店や保育園の創設や共産党に入党して町長選に立候補して惜敗するなど、戦後の混乱期、様々なことを意欲的にやっていますが、詩人気質が抜けき れなかったのかどうか、何をやってもうまくいかなかった。
高田家が大きな転機を迎えるのは、一九五七年に豊の妻信子が死去したことから始まっています。豊はこの時五十二歳。男の子ばかりの四人兄弟の末っ子だっ た渡は八歳だった。妻が亡くなると、その数ヵ月後に豊は、大きな家を処分し、仕事がうまくいかなくなっていたことや、かなり借財もあったようでしたので、 その清算ということもあったようですが、四人の息子を引き連れて上京します。この子連れの上京は、妻を失った喪失感による発作的なものだったのではないか という見方もされています。というのも、何か目算があったわけでもなかったからです。豊は就職もせずに、僅か半年たらずのうちに四回も安アパートの引越し をくりかえし、遂に所持金を使い果たし、深川の収容施設に入居することになるからです。かつての編集仲間を頼れば、校正の仕事の口ぐらいはあったはずなの ですが、それもしなかった。
深川の施設は山谷のドヤと同じような部屋で、一人一畳当てのスペースだったが、夜行列車の二段ベットのように上下に区切られていて、隣室との壁もないし、普通に立って生活することもできない。そんな所だった。
この深川の収容施設に入居後、高田豊は、ニコヨンと呼ばれた、日雇い労働者として働き始めます。十八歳の長男は、家族を離れて浅草の牛乳店に住み込んで 働きながら、定時制高校に通い始めます。彼は岐阜県では名門受験校の県立岐阜高校に通っていたのですが、もはや自活の道を切り開くしかなかったからです。 次男は中卒後、町工場に勤めましたが、日雇い労働のほうが賃金が高いという理由で、工場をやめ、毎朝父親と一緒に高橋の職業斡旋所に出かけるようになっ た。三男は中学生、渡は小学五年生だった。
高田渡は、給食代が払えなくてよく貼り紙に書かれた。小学校の卒業式の予行演習のとき、国歌斉唱の練習で、渡一人が歌わないでいたら、先生から「どうし て歌わないのだ」ととがめられます。すると渡は「うちのお父さんが“君が代は日本の国歌だとは認められない。あれは艶歌だ、と言ってるので、僕は歌いませ ん”と答えたという。小学校六年生の時、一九六〇年六月十八日、渡は「おいデモに行こう」と、父親に誘われ、豊が属していた全日本自由労働組合(日雇い労 働者の全国組織)の大人達に混じって国会議事堂周辺のデモに参加し、「安保反対!岸を倒せ!」と、よくわからなかったけれど、シュプレヒコールを叫んでデ モ行進をしたという。ニコヨンの仕事を終え、帰宅すると、豊は渡を連れて近所の銭湯へ出かけ、湯から上ると、銭湯の並びの一杯飲み屋に立ち寄り酒を飲ん だ。渡は父親のとなりで鍋焼きうどんなどを食べた。そんな父と息子だったのです。
高田渡は、同世代の大半がけっして経験することのなかったような体験を、少年時代を過ごしたこの深川の生活で見聞したのです。そしてこの深川での暮らしが自分のその後の人生を生き抜いていくうえでの根っこになったと言っています。
高田家は上京して五年後に、ようやく深川暮らしを脱出し、武蔵野市三鷹の都営住宅に引っ越します。渡は中学を卒業すると、「赤旗」を印刷していた印刷会 社に就職し、植字工として働き始めます。そして彼が十八歳の時、厳しい肉体労働や深酒で身体を壊していた父親の豊が六十二歳で他界しています。
高田渡は、父の死後、家を出て新宿若松町に三畳一間の安アパートを借り、自活を始めます。印刷会社を辞め、業界紙の新聞配達をしながら、定時制高校へ通っています。そしてこの頃からギターを独習するようになり、フォーク仲間に加わって歌い始めるのです。
そして高田渡は十九歳の時、『自衛隊に入ろう』という自作の曲を歌ってフォーク・シンガーとしてデビューをしています。最早約半世紀前の歌ですから、ご存知ない人の方が多いでしょう。ちょっと聴いてみましょう。こんな詞の歌です。

 みなさんの中に
自衛隊に入りたい人はいませんか
ひとはたあげたい人はいませんか
自衛隊じゃ 人材をもとめてます
自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう
自衛隊に入れば この世は天国
男の中の男はみんな
自衛隊に入って 花と散る

この『自衛隊に入ろう』という歌は、高田渡が十八歳の時に作った曲です。つまり前述したように彼が新宿区若松町の谷底のような場所の安アパートに住み、 業界紙の配達の仕事に従事しながら夜間高校に通っていた時代に作り、歌い始めたものです。その頃、彼が暮らしていた谷底のような町からは、丘の上に聳え立 つは防衛庁の庁舎が見えました。この歌が作られ、歌われるようになって二年後、三島由紀夫が自衛隊員の決起を促す悲壮な演説をぶち割腹自殺事件を起こした 舞台です。けれども、当時の自衛隊は、三島由紀夫が憂国の士としてそんな事件を起こさなければならないほど存在が希薄だった。今のように海外派兵などでき る状況ではなかったし、「日本は中国へ侵略などしていない」といった勇ましい論文を発表する幹部もいなかった。日本中の大半が中産階級化したと言うこの時 代の青年達に「自衛隊に入りたい」という者はほとんどいませんでした。それゆえ町内会の掲示板や電柱などには「自衛隊員募集」のビラがよく貼り出されてい ました。高田渡は、その自衛隊員募集広告のコピーからヒントを得て、この歌の詞を作ったと言われます。ちなみに曲は、マルビナ・レイノルズの作詞・作曲し た『アンドラ』というアメリカのフォーク・ソングの原曲が活用されています。
高田渡は、アマチュア・フォーク・グループ「アゴラ」のメンバーに加わって歌い始め、添田唖蝉坊の演歌や自作の『自衛隊に入ろう』などを歌っているうち に、「へんな歌を歌っているヤツがいる」と口コミで評判になり、歌い手になっていますが、これは当時のフォーク歌手の典型的なパターンでした。そんなある 時、テレビ局から出演の依頼があり、婦人番組のコーナーで『自衛隊に入ろう』を歌ったところ、番組終了後、自衛隊から連絡が入り、「自衛隊のPRソングに 使用させてもらえまいか」という依頼を受けたといいます。だが、この話は、さてどうしたものかと考える暇もなく、すぐに先方から断わりの連絡が入ってお じゃんになった。のみならず、この歌は、間もなく放送禁止歌のブラックリストに入っています。これは有名な高田渡伝説のひとつとして語り継がれて来まし た。
言うまでもなく、高田渡は、この歌を「反戦歌」として作ったのです。それなのに先方の早トチリとはいえ、一度は自衛隊のPRソングにしたいと望まれた歌 でもあった。この歌の詞だけを読んだら、極めて諧謔精神の溢れた「反戦歌」であることがわかります。だが、いかにもアメリカの音楽、それも明るく軽快な マーチ風の旋律で「自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう」と歌われる、この歌には、もしかしたら自衛隊のPRソングなのかな、と思わず聴き違えてしまいそうな ノリの良さがあります。歌の面白いところ、怖いところ、なのかも知れません。おそらくそのあたりのミス・マッチ的な効果を高田渡は狙ったのだろうとおもい ます。
六〇年代末という時代は、日本社会が経済高度成長の基盤を成し遂げ、さらに上を目指そうと驀進した時代でしたけれど、一方、水俣病や四日市喘息など悲惨 な公害被害や炭鉱閉鎖・労働者解雇に伴う労働争議、各地の大学で次々に蜂起された大学紛争やベトナム反戦闘争など、様々な社会問題が噴出するといった戦後 日本の曲がり角の時代でもあった。そうした時代背景の中から、ポピュラー音楽の世界にも大きな変化が生まれ、「関西フォーク」とか「アングラ・フォーク」 と呼ばれる、それまでのカレッジ・フォークと一線を画したフォーク・ムーブメントが起っているのです。その旗手だったのが、高石友也や岡林信康で、彼らの 歌に代表されるその頃のアングラ・フォークはストレートに社会の問題点を歌で表現するプロテスト・ソングが主流だった。間もなく高田渡も彼らのムーブメン トに合流するのですが、彼は独自のスタンスと歌のスタイルを貫いた。どんなスタンスだったのか。彼は伝記にこう書いています。

僕の歌は、反権力という点で根っこは同じでも、主義主張を正面からぶつけるのではなく、遠回しに表現するタイプのものが多かった。あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだったのだ。

話題を呼んだ『自衛隊に入ろう』という歌は、まさにそういう方法論で作られたのであり、このスタンスはその後の高田渡の歌の基調となるものだった。しか し私は、十八歳の高田渡が『自衛隊に入ろう』という歌を作った動機について思いを馳せないわけにはいかなかった。彼は単に反戦歌を作ろうと思って、この歌 を作ったのだろうか。そんな単純な動機とは思えなかったからです。
そういう想念を抱いたのは、その数年後、高田渡が、連続射殺事件で死刑囚となった永山則夫が獄中で書いた詩のなかから『ミミズのうた』と『手紙を書こう』という二篇の詩を歌にしていることを知ったからです。「ミミズのうた」には、「目ない 足ない おまえはミミズ/暗たん人生に/何の為生きるの」という詩句がみとめられます。また、「手紙を書こう」には、「書いたら少しは/望みも湧いて/明日も恐がらなくとも/良いだろうに」…そんな詩句が記されています。二篇とも暗い、絶望的な詩です。永山則夫は、他の著書同様、これらの詩も獄中で書いています。つまり、永山は死刑囚の身になって文の才能が開花したのです。彼は、そのことを著書『無知の涙』で悔いていますが、手遅れだった。
永山の犯した連続殺人事件は一九六八年六月から十月にかけて起きたものですから、その前年に作られた『自衛隊に入ろう』の創作動機に直接結びついていた わけではありません。注目したかったのは、永山の生い立ちと境遇だった。青森の極貧の家庭に生まれ育った永山則夫の十九歳までの人生の歩みは、思春期から だけを追っても、中学卒業後の集団就職、転職の数々、二度にわたる海外密航の失敗、定時制高校への入学と退学、自衛隊に入隊志願し一次試験には合格したも のの保護観察中であることが発覚して不合格――といった惨憺たるもので、このあと永山則夫は横須賀の米軍ハウスに侵入し、留守宅から22口径拳銃と実弾 50発を盗み出します。そしてこのピストルと弾丸が、その後の連続殺人事件を起こす引き金となっているのです。
高田渡が、永山則夫に関心を抱き、彼が獄中で書いた詩を歌にしたのは、同年生まれの同じ歳だったことや、その境涯に共感するものがあったからでしょう。 端的にいえば、高田渡は、もし自分に歌への志がなかったら、自衛隊員になったとしてもなんの不思議はないという境遇を強く意識していたのです。このような 感情は、永山則夫が事件を引き起こす以前から、高田渡自身の心の奥底に滓のように澱んでわだかまっていたに相違なく、そんな屈折した思いが十八歳の高田渡 に『自衛隊に入ろう』という歌を作らせたのではないか。私は、そのような考察をしないわけにはいきませんでした。
高田渡が、からくも永山則夫のような人生を歩まずに済んだのは、彼には歌への志があったことと、たまたまと言うか幸運にも、彼の青春がフォーク・ムーブ メントの興隆期に出会えたという点も見逃せないでしょう。と言うのも、高田渡は、この時代に数多く出現したフォーク少年の一人で、業界紙の新聞配達をしな がら定時制高校に通う十八歳の時に、『自衛隊に入ろう』という曲を作って小さなフォーク集会で歌い始め、それが評判を呼ぶようになり、高石友也や岡林信康 が出演した京都で開かれたフォークキャンプに招かれて出演し、これがきっかけとなって高石事務所に入ることになり、定時制高校を中退して京都へ移り住み、 十九歳でフォーク歌手としてデビューを果たしているからです。
このフォーク・ムーブメントの旗手となる高石・岡林・高田のデビュー前夜の東奔西走ぶりには、幕末期の坂本竜馬や高杉晋作ら志士の行動を彷彿させるものがあり、そんなところも興味深いものがあります。
高田渡は、二〇〇五年四月十六日、ライブ・ツアー先の北海道の釧路で倒れ、五十六歳の生涯に幕を閉じたわけですが、生涯変らない生活態度を持ち続けた人 でした。たとえば住居なども、デビュー以来ずっと吉祥寺の安アパートに住み続けて来ています。八〇年代にフォーク・ソングが忘れ去られ、歌う場が殆んどな くなった時も、求められればどんなにギャラが安くても全国各地のライブハウスを巡業し続けたといいます。「一年間で日本を二周くらいした。二周しても年収 は普通の月給取り以下だった」そんな話を面白おかしく語っています。「僕は、死ぬまで歌い続けるのが歌い手だと思っている。歌わなくなった時が終りだ」と も、彼は言っていましたが、そのとおり、まさに「フォークの吟遊詩人」としてその生涯を全うしました。
そんな生き方を貫けたのは、普通の同世代の若者やミュージシャン仲間が体験できなかった、型破りな父親と共に深川の貧民窟で少年時代を過ごしたということが、彼のその後の精神を形成した原点にあったからではないかとおもわれます。
現代の日本社会は、日本の社会全体が「山谷化」してしまったのではないかという不安や危機感が深まっています。こんな時代だからこそ、「新しい文化の萌芽は辺境から生じたのだ」という一九六〇年代現象を今一度思い起こしてみる価値があるようにおもえます。

2010年4月3日

plan-B 定期上映会

「フォークの吟遊詩人高田渡と、詩人高田豊」 『高田渡と父・豊の「生活の柄」』(社会評論社)の著者・本間健彦さんをお迎えして。

沖縄上映会

特集『闘う労働者たちの記録 ’85→’08』
『山谷 やられたらやりかえせ』 『フツーの仕事がしたい』

■3/6(土)〜3/12(金)  13時ごろより、2作品を上映。(入れ替え制)
■2作通し券:一般2,200円 会1,800円
■会場 桜坂劇場ホールC
■住所:〒900-0013 沖縄県那覇市牧志3-6-10
電話番号:098-860-9555(劇場窓口)
桜坂劇場のホームページはこちら
「高度経済成長を終えた80年代、山谷にあふれた労働者とその搾取の構造を追い、二人の中心人物を惨殺されると言う、文字通り命をかけた映画作りの果てに生れた名作『山谷やられたらやりかえせ』。そして現代のトラック運転手の過酷な労働状況をフツーの目線で捕え、フツーがフツーに手に入らないものだという現実を提示し、海外の映画祭でも話題を呼んだ『フツーの仕事がしたい』。いづれも特定の職業を描いた作品ながら、現代の我々に繋がる物をもっており、単独で見ても見応えのある作品です。しかし、四半世紀近く離れた二つの時代のドキュメンタリーを並べ、類似点と相違点を見比べることで、我々自身の現在から未来を考えるヒントが見えてきます。(桜坂劇場 真喜屋力)」
初日には両作品の関係者も来場し、詳しくお話をお聞きするトークショーも開催。
<初日トークショー>
時間 15:00ごろ(『山谷』上映終了後)
ゲスト:映画『山谷』上映委員会より、中山幸雄氏
土屋トカチ監督(『フツーの仕事がしたい』監督)
※上記2作品を鑑賞どちらかを鑑賞、または2回券をお持ちのお客様はトークショーをご覧になれます。
※トークショーは『山谷』上映後、『フツーの仕事がしたい』の上映前の時間に行いますので、『山谷』の話題を中心に進行しつつ、『フツー?』の前フリをする形になる予定です。

ドキュメンタリーに監督・作家はいらない、勿論、編集だって不要だ ?!

井上修
(NDU日本ドキュメンタリストユニオン/『出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦』撮影・編集

NDU日本ドキュメンタリストユニオンとその時代

井上 初めまして、井上修と言います。1947年生まれですので、今年62才です。UNDと言っても、知っている人は? NDUの再結成以 前は、映画4本作りました。1974年まで約5年やってました。それで作品を4本作りました。当時のことをご存じの方はいらっしゃいますでしょうか。作品 を観た人とか。いない。その池内さん(司会)レヴェルの……おいくつでございますか?
司会 恥ずかしながら50を軽く越しています。
井上 50を越してる。ああ、だったらそうですよね。まだ、なんか炎が少しだけ残ってるという、そういう時代であったと思います。NDUと いう名前だけ知っている人は? もう皆さん何にも知らない。アッハッハッハッ。ほんとに。名前くらい聞いたことがあるとかっていう、そういう人もいない。 えー、わかりました。じゃあ、1967年当時の社会の状況とか、そこらへんのところから。ようするに、NDU、日本ドキュメンタリストユニオンという名前 で、映画の活動というかドキュメンタリーをとにかくやりたいという、そういう人間が早稲田で。何て言うか……学生運動っていうのも知らない。ええっ。全共 闘という名前も知らない。そういう時代の歴史を学習したことがある? ない。 アッハッハッハッ。では、当時の状況というのを実感的に何か文献で読んだこ とがあるとか、そういうのに興味があるとかっていう方なのかしら。それとも、そういうのには興味がなくて、ドキュメンタリー映画、ドキュメンタリー作品と いうものに対して興味があるのかしら。興味の指向が違うと話しても噛み合うところがなくて、私としては糠に釘というようなことになっても困るから。皆さん 何に興味がある? ドキュメンタリーに興味がある? それとも当時の40年前のような状況で、私達がドキュメンタリー映画を作りながら、社会と関わってき たというようなことに興味がある? そこらへんのところで話の筋道を一本まず付けましょう。何が聞きたい?
参加者A 後者。
井上 後者。40年前のこと。彼はそう言ってるけど。
参加者B 私もそうです。
井上 そう。あなたの場合には何でそういうところに興味がある?
参加者B そういう話、そういう本とかでたくさん見たり勉強したり会ったりしてきたんですけど、実感として……
井上 わからない。
参加者B つきつめればつきつめるほどわからない。
井上 あなたは?
参加者A 私は、その時代に実際作っていた人がどう思われていたのかなあと。その状況とかを知りたい。
井上 確かに、そういう意味では今と全然違う。まあ全共闘、我々自身が全共闘だって言ったわけじゃあなくて、それぞれ各大学で個別に東大な り日大なり早稲田なり明治なり、まあとにかく東京だけじゃなく全国各地で学生の運動があったんですよ。と同時に労働者の運動というのもあったんですよ。と にかく学生と労働者が一体化して連帯して運動を展開する、そういう活動を学生が基本的にやるのが仕事であったんですよ、当時は。勉強はその次にやってれば いい。それで簡単に言うとねえ、楽しかったんですよね。デモをやることが。運動をやることが。それこそ大学に立てこもって、そこで大学封鎖とか大学占拠と か授業ボイコットとか、教授を団体交渉、団交で吊し上げるとか。そういうようなことをやることが学生としてすごく楽しいことであったからやったんですよ。 連帯って言葉はあんまり使いたくないけれども、そういうことをみんなで一緒にやろうという気運は残念ながら今ないと私は思う。個別に楽しくやってるけど、 楽しそうにやってるけど、何て言うか実際に楽しくないと思うんですよ。何となく人の顔色を見ながら、私の一番最近嫌な言葉、そう風を読む。冗談じゃない よ、馬鹿野郎って。ようするに、その雰囲気に自分の考えを当てはめる、そういうのは当時はなかったです。とにかく大学に行っても討論すればいつも喧嘩にな る、時には殴り合いも辞さない。まあ当時の彼らはまともに教育を受けたっていうのは数少ないだろうとは思うけれども、それでも自分はこうしたい、自分はこ ういう話をあなたにしたいんだっていうようなことを、それぞれの人が持ってて。それで時には意見が合わなければ殴り合うのも辞さないというようなことを やっていたんじゃないか。だから、どうして今の学生を含めて若い人達がこういう腑抜けた、腑抜けたというのも変だけども、状況になっちゃったのっていうの がとにかく歯痒い。学生はねえ、若い人はね、何をやってもいい。社会の規範に添うような形で、意見を述べなくてもいいし、生きていなくてもいいわけなんで すよね。少なくとも学生レヴェルでは社会に責任があるわけじゃない分だけ、何をやってもいい。むしろ、そういう存在でなければいけないのじゃないかという のが、今の若い人達に対する私の大きな不満で、「馬鹿なんじゃない、この人達」って皆さんにもほんとに言いたいんですよね。でも「冗談じゃない、そういう ふうに言われる筋合いは我々は一つもねえ」って思う人がここにいたら、誰か言って下さい。私が「君達はみんな馬鹿だ」って言ったって、誰も私に反論をする 人はいないでしょ。いる? ああ言って下さい。
参加者C そんなに若くなくて今40なんですけど……
井上 駄目だよ、30代以下の人。
参加者C 今39、本当は。
井上 39、よーし。あなたよりも下の世代が、私みたいな年代の人から「腑抜け野郎、この野郎」って言われて反論するような、ようするに自 分の確固たるしたもの、確固たるした、確固たる、ハハハハ。最近ねえ、日本語があんまり喋れなくてねえ。歯が悪いから、歯が無いからねえ。すごく喋りにく いんです。すいません。
参加者C 全共闘の運動があった頃と、今の大学生とちょうど真ん中くらいの、僕は90年代初頭に大学生活を送ってたんですけど。その時も感 じてたし、全共闘世代の人が言うことを聞いてても感じる、よく若い者は元気がないと。それはよく言われてて、僕も下の世代を見るとそうなのかなと思った り、でもそう思う層っていうのはいつも一定いたと思うんですよ。全共闘世代の人も、例えばその上の戦争行ってた人から見みれば、元気がないって言われてた んじゃないかな。
井上 全然。我々NDUが最初に作った映画、題名『鬼っ子』っていうんですよ。わかります? 親に似ぬ子は鬼っ子だって言うんですよ。とに かく我々は前の世代を否定した、彼らよりもより良い社会を作っていこうという、そういう意欲でもって。それこそ我々の上の世代から向こう見ずと言われよう と、とにかくやりたいことはやるんだっていうふうにやってきました。
参加者C まあ私は当時の状況がよくわからないで、想像だけで喋ってるんですけど。

感動こそがドキュメンタリーの原点

井上 象徴的に言えば鬼っ子であった。若い人達は少なくとも鬼っ子であったんですよ、当時は。鬼っ子でいられることは名誉であったし、鬼っ 子にならなければいけないし。だから、そういう意味で言うと秋葉原のあの人、すごく私としては尊敬しちゃうんだよね、逆にね。あのくらい、ようするに人を 殺してまでね、自分のアイデンティティというか自分の存在意義を認めさせようと思うなんて、ある意味では、私はすごく共感したし感動しちゃう。
参加者C じゃあ連合赤軍も肯定ですか?
井上 もちろんです。ええ感動しちゃう。感動を求めない、というのはやっぱりおかしいと思うんですよね。どんなことであっても感動しなきゃ いけない。私に言わせれば、例えば今の『山谷』の映画みたいにね、虐げられた存在であったとしても、彼らが生きているってこと自体が感動的なことなんだ よ。そういう感覚が今の若い人達はないんだよ。ある? 生きていて、どこかで何かをしてね、誰かと会って話をしたりね、何かに出くわした時にね、感動する ことが皆さんないでしょう。こんなに感激的な状況がこの間あったんだよ、と誰かに伝えたいと思った人ここにいます? そういう人はドキュメンタリーが作れ る。それ以外の人はドキュメンタリーを作っちゃいけない。映画を作っちゃいけないとさえ私は思っています。映画では、そういう感動的なシーンをみんなに見 てもらいたい。私こんな感動的な場面にあったんだよ、それで私だけが体験するのはまずいから、みんなに見せてあげると思うのがドキュメンタリーを作る動機 なんですよ。ヴィデオだから簡単だけど、シャッターさえ押せば何でも出来るけれども、何にも出来ない。感動したことを多くの人に伝えたい。そこがとにかく スタート。この中に、私でもヴィデオ、映画、ドキュメンタリーを作ることが出来るだろうかと思っている人がいたら、まずそれぞれの人が、こういう感動的な 場面に出くわした、これは私だけのものにしとくわけにはいかない、というような状況に自分を置いて。どういう状況でもいいんだ、それは。日々いろんな人と 接する時に対局出来るようなね。時には喧嘩をして殴り合って、それこそ命からがら助かったとか。それでもいいしね。そういうような日常的にありえない、ほ とんどありえないようなことを再現する。そういうことであると私は、少なくともドキュメンタリー映画はそうだと思ってるんですよ。そうでなければ、ドキュ メンタリーはやっちゃいけないと思うし。もしここに映画を作りたいという人、ドキュメンタリーを作りたいという人がいるとしたら、少なくとも最低限スター トはそういうような感動を元にして欲しい。だから、皆さんが日々感動を感じられるような、そういう状況を作るように日々努力しなさい。例えば、警察と右翼 と出てくるシーンってありますよね。今でもあるんですよ、本当に。この中で、最近、デモに行ったことある人いないでしょう。いる? ああ駄目だよ、もう。 いる?
参加者D 1年前ですが。
井上 1年前。いいけど。だけど今のデモって、『山谷』のシーンに近くない、全然近くない。
参加者D ぶつかりましたよ、機動隊と。
井上 そう。でも、もう昔のデモに比べて……ようするに警察が取締を最大限に発揮して日本が安全だということをデモンストレーションするような、警察のデモなんだから。我々のデモは半分。
参加者D でも、それは新左翼の方々が武装を過激化させてどんどん孤立していったからじゃないですか、民衆から。デモに関して言えば。
井上 デモに関して言えば?
参加者D はい。
井上 うん。
参加者D (1967年の)10・8闘争(第一次羽田事件)でですか、あそこから角材が出てきたじゃないですか。そうやってどんどん民衆から離れていって、結局人数を集められなくなって、武装が激化したじゃないですか。それで離れていっちゃった。
井上 民衆と離れた原因というのはいろいろあって。
参加者D あると思いますよ。一般学生は出られなくなっちゃったじゃないですか。
井上 そこらへんはですねえ、当時学生の人達、労働者の人達が、何に対して一番反対していたかというと、アメリカのベトナム戦争でした。学 生も労働者も「インターナショナル」などという歌をうたいながら……わかるでしょう、インターナショナルな感覚。ようするに全世界ですよ。でも、当時の日 本の学生や労働者が、東アジアの台湾なり韓国なり朝鮮なり中国なりの人達に対して、少なくとも日本には在日という外国人がいるわけだから、インターナショ ナルを標榜するんならば、連帯の対象にしなきゃいけない。それをやらなかった、全共闘は。新左翼は。新左翼、今でもインターナショナル、連帯と言ってるけ れども、実際は運動としてインターナショナルな展開はたぶん一つもしてない。そういう意味で、正しい運動の指標というのをどこも見出せなかった。後から考 えたんだけど、日本人は新左翼であっても、やっぱり島国根性だったんだよね。それが運動が衰退した原因。もちろんそれ以外にも、高度成長でみんなお金が儲 かるようになったからさあ。それ以降バブル景気。山のようにお金が稼げたから。運動馬鹿くせーなんて思って、運動やらずに金儲けやったっていう側面もあ る。私もある。アッハッハッハ。だけど、当時の新左翼が民衆というか、人民というか、彼らから支持を得られなかったのは、運動の……
参加者D ラジカリズムが原因ではないと。
井上 間違っていたんだと私は思うんですよね。
参加者D もう一つ全共闘世代の人に聞きたいんですけど、全共闘運動っていうのは個人が圧殺されてることに対して、個人の力をもっと強くしようとか、個人として生きようというような運動ではないわけでしょう。

戦前の日本帝国主義に対するオトシマエをつける

井上 全共闘? 一言で言うのは非常に難しい。それより全共闘という形でやったけど、問題の一つずつはそれぞれの問題でありましたよ。東大 では、医学部の人達が最初に立ち上がったでしょ。早稲田は、学費学館闘争というのをやってました。それが運動のテーマでした、基本的には。だから個別的な それぞれの問題を抱えて、運動を展開してたわけであって。全共闘、新左翼というのはマスコミ用語かなっていう気もするんですよね。運動自体は個別という か、個別テーマ。個別であるのが運動の基本なんですよ。今は、そういう個別テーマの運動っていうのは……私の場合には靖国合祀反対運動なんですよ。靖国の 問題は、いろいろ考えれば戦前の日本の帝国主義支配のオトシマエをまだつけていないということなんですよ。東アジアの、韓国、台湾、中国、オキナワ。オキ ナワは私は日本とは別に考えたい。その四地域の人達を植民地支配した。そのオトシマエを彼らから突き付けられている。それを真摯に受けとめなければいけな いっていう運動を個別的には展開出来るかどうか。もうそれだけしか今ないのではないかという運動なんですよ。いずれにしても、1回デモに行った方がいいん じゃない、おもしろいから。本当に。
参加者E 若者が元気がないっていう話なんですけど、それについて思うんです。かつての全共闘世代、それよりもちょっと前でもいいと思うんですけど、その時には反体制の側に夢があったと思うんですね。
井上 でしょう。夢があったんだよ。楽しかったんだよ。
参加者E 夢というか、理論というか。つまりマルクスやレーニン、あるいは毛沢東、ああいうふうにやれば貧困とか差別とかっていう目の前に ある問題は解決されるんだと。やっぱり心ある若者は盛り上がると思うんですよ。でも、どうでしょう。レーニンとか毛沢東を信奉した人達が作った国は正直日 本よりいい国でしょうか?
井上 国単位で見るからねえ。中国は今、社会主義市場経済とかわけのわからないような社会を作ってるわけじゃないですか。悪い例をあげて、 社会主義なり共産主義、ようするにイデオロギー全体を否定するのは、私としては間違ってると思う。あのキューバ50年、今年50年だよ、革命が起きてか ら。それでなおかつベネズエラなんていう、そばにある国が社会主義が楽しい、楽しいかどうかわからないけど、やってみようかっていう地域だってあるわけ じゃない。だからね、中国とか北朝鮮とか、そういう悪い例だけを取り上げてイデオロギー全体を否定するというのは間違ってると思います。だって今、お金儲 けが楽しいというような新自由主義、そういう資本主義の当然の帰結でみんな仕事がなくなったり、貧困が問題となったりしてるけれど、そんなの当たり前のこ とでね。じゃあ、自由主義、新自由主義に未来がありますか?
参加者E いや。
井上 ないでしょう。
参加者E 現状に問題があるっていうのは、わかってるんですよ。ただ、どうしたらいいのかっていうのが、抽象的な議論ではなくて具体的な形として……
井上 そう、だから問題は個別的にやりましょうってことさ。
参加者E デモに参加したら、こういう良い社会になるっていう道筋が見えてればいいんですけども。
井上 だったら、例えば、戦前の日本の植民地支配、帝国主義支配に対して、そのオトシマエをまずつけなければいけない、というようなことを やってみましょうよ。そういうことなんだよ。個別なんだよ、問題は。ようするに全世界が一遍に、うまくいくなんてことはありえないんだよ。個別的な問題 を、そういうふうにとらえながら、それこそ連帯を求めるというようなやり方がスジだと思うんですよ。何でこんなことを私が気が付いたかというとね、台湾原 住民、このヴィデオの台湾原住民の人達は社会主義を信じるんですよ。良いか悪いかわかんない。諸々の弊害、障害、悪い所はあるにしても、その社会主義しか ないんですよ。今のところ。だから、うん、それはやっぱり信じなきゃいけない。これが常識だと私は思ってる。確信してる。

いろいろの問題が顕在化しないということ

参加者F 基本的なことを聞いていいですか。
井上 基本的なことはわかんないよ、私は。そういう学習をしたわけじゃあないから。
参加者F 全共闘世代についてなんですけど、大学生がそういうことをやってたのか、それとも学歴に関係なくいろんな人達が……
井上 ああ関係ない。全然関係なく。
参加者F 純粋にその世代の人達がやってたわけですか。あともうひとつ、学生運動の人達って卒業したらどうしちゃったんですか。
井上 方針が立たなくて、みんな散り散りバラバラになって。私達の世代はとにかく企業の歯車になって、お金を儲けちゃったよ。みんなお金 持ってるんだよ。定年間近の人達が、どうやってお金つかおうかって困ってるじゃない。今、沖縄に別荘というか第二の家を作るのが、定年の人達のあれでしょ う。そういう意味では、お金があるの、日本は。若い人達は、お金がない、仕事がない、困ってるって言うけどね、60才以上の人達はお金持ってるよ。私は別 だけどね。
参加者F 社会主義って分配するのが、お金みんなに分配するのが……
井上 分配するっていうか、例えばキューバなんか、すごくよくわかるんだけど、医療費タダ、学校タダ。そういうものはね、どんなに困ってもやらなきゃいけないの。
参加者G 今、キューバの話が出てきたんで。私、2年程前にキューバに行ってきて。私もそういう国民を、キューバ国民をちょっとみたくて、 いろいろ聞いてみたんですけども、みんな口をそろえて「共産主義は悪だ」って言うんですね。キューバの国民が。キューバが共産主義だからこんなに悪い国に なったって。アメリカに亡命する人も何人もいて。
井上 そういう人は当然いますよ。
参加者G はい。
井上 でもねえ、じゃあ、じゃあ、どうして体制が変わらないのよ? 革命が、反革命だよね。反革命がなぜ起こらないんだよ。
参加者D 北朝鮮でも起こっていませんよ。
井上 え?
参加者D 北朝鮮でも反革命は起こっていませんよ。さっき否定されていましたが。
井上 反革命?
参加者D はい。
井上 今一応体制としては社会主義でしょう。
参加者D 社会主義です。さっき否定されているようなことをおっしゃってましたが。
井上 さっき否定?
参加者D はい、何か北朝鮮は悪い社会主義だみたいな。
井上 言った? そんなこと。
場内 (笑い)
参加者D 言いましたよねえ。
井上 まあ確かに良いとは言えないけども。反革命が起きないのはさあ、今に起きますよ。
場内 (笑い)
参加者E それでさっきの話の続きなんですけど。だから若者が元気がないのは、若者の個人的な資質の問題ではなくて……
井上 もちろんですね。
参加者E 置かれた時代的状況の反映じゃないかと私は思うんです。例えば、先ほどの秋葉原の彼でも、もしちゃんとした夢とか理論とかがあっ て、そして現状についての、正しいという表現はいいかどうかわかんないですけど、合理的と言ってもおかしいかもしれないけど、何らかの方法で行動をすれば 社会はこう変わっていって、置かれた状況は変わるっていうものが彼の中にあれば、ああいう行為に走らなかったとは思うんです。
井上 そりゃそうだよ。
参加者E 私のまわりの若い人達も、私も含めてみんな元気ないです。私もデモなんか行ったことないです。みんな、世界を見ると日本が一番良 いんだって言うんですよ。この前、友人がイランに行ってきたんです。イランの治安なんてめちゃめちゃで、テヘランからペルセポリスに旅行に行けないんだそ うです。ボディガードを雇わないと行けない。日本が退屈でしかたがなくて行ったんだけど、中東の国を見てきて、いかに日本が平和かわかって帰ってきたって 言うんですね。世界を見ると、どうも日本が一番良さそうだと。だから、日本にある問題をどうやって解決したらいいのかわからない……
井上 問題はだからわからないってことさ。問題が顕在化しないってことさ。学校のシステムとかで、ようするに問題を、歴史を……。歴史の勉 強なんかみんなしてもらってないでしょう、学校で。そこなんだよ。そういうふうになったんだよ、日本の1970年以降の教育のシステムは。それにジャーナ リズムが輪をかけて、そういう歴史認識をなるべくなるべく、若い人達に持たせないようにしてきたんだもの。もう半分以上はジャーナリズムの責任、教育の責 任だよね。
参加者E 戦争に負けて、それで焼け野原になって、日本は言ってみればどうしようもない国になったわけですけども、ほんの60年くらい前 に。で、このどうしようもない国を、例えばアメリカのような豊かな国にしたい、例えばソ連のような国にしたい、いろんな考えの人が夢を持って、頑張ってた と思うんですよね。学生運動のような形、あるいは高度経済成長のような形でみんな頑張った。それは若々しい、素晴らしい時代だったと思うんです。でも、今 の日本はどうも当時とはちょっと違うような気がするんです。問題があるのはわかってるんです。不景気ですし。それをどうやったらいいのか、どこを目指して いけばいいのか。たぶん今、ソ連や中国や北朝鮮のようになりたいと思っている人はいないと思うんですね。これは右も左も関係なく。結局、みんな蛸壷の中に 入っちゃってると思うんですよね。

豊かさというのはやっぱり「搾取」の結果なんだ

井上 田中角栄とか、池田勇人。知らないでしょう、池田勇人の所得倍増論。皆さん、お金をたくさん儲けましょうっていうプロパガンダが今ま でずうっと続いてきましたよね。では、その成功の歴史、日本のお金の儲け方を考えてみようよ。確かに、日本人が勤勉でどうのこうの、それはあるでしょう。 でも、ちょっと客観的に考えれば、それは悪いことだったんだよ。どうしてか。お金って、ようするに何か悪いことをしなきゃ儲からないんだよ。 そう思わな い? そうなんだよ。我々がお金を持ってるのは、どういうことをしたからか。アジアから、アフリカから、それこそ世界のあらゆる所から、日本人が搾取し た、それ以外に考えられない。そう考えなきゃいけないと思う。我々がね、あなたがね、日本がね、豊かに見えるのはやっぱり搾取のたまものなんだよ。
参加者A 日本にお金が集まったから、発展途上国にインフラが整ったんじゃないですか?
井上 え?
参加者A 日本が発展途上国にインフラを……
井上 ないって言ってるんじゃないか。だって全然ない。整ってないよ、日本と比べりゃあ。
参加者A 日本と比べたらしょうがない。
井上 全然違うよ。
参加者A 先進国の1か所にお金が集まることで大資本が生まれて、ある一定の指向性を持ったインフラが整うんじゃないですか。
井上 途上国に? 何で。
参加者A 必要な施設ですもん、そこをお金儲けに使うからですけど。
井上 でしょう。
参加者A 結果的にはプラスに……
井上 結果的にじゃないよ。それは、ようするに日本が儲かるためにだよ。海外に投資してそれでまたお金を儲けようっていう、そういうサイクルを続けることなんだよ。
参加者A その過程で、その国の人達は生活が出来ます。
井上 でもねえ、じゃあお金はどっから来るの? 日本人の勤勉さ?
参加者A いや違います。
井上 やっぱり搾取なんだよ、それは。彼らに日本人の同じとは言わない、半分もいったか? いってないでしょう。いってしまったら日本が海外投資なんかする必要ないの。やっぱり搾取のたまものなんだよ。
参加者A だって搾取なんて人類の歴史を振り返ってみりゃあ……
井上 やっちゃいけないって、社会主義、共産主義は言ったんだよ。だから信じるに値するんだよ。
参加者A 衰退してるじゃないですか。
井上 え?
参加者A 共産主義は衰退してるじゃないですか。
井上 衰退してるなんて全然思わない。
場内 (笑い)
井上 何で? ああ、お金が儲からないことが衰退? それは間違ってるよ。そういう考えは。
参加者E まあ搾取と言ってしまえばそうなんですけど、聞きかじった話なんで専門家じゃないんですけど、資本主義っていうのは基本的に……
井上 私も専門じゃないから、その質問は本当は困るのよ。
場内 (笑い)
参加者E まあ私も詳しくは知らないですけど、資本主義っていうのは基本的には等価交換で成り立っている。で、等価交換っていうのを前提と して考えると、こっちが与えたものを向こうが受け取って、向こうが与えたものをこっちが受け取っていれば、相互的にうまくいくはずなんですけど、なぜか 我々は儲かるけど彼らは儲からないシステムになってる。ずうっと疑問で、経済学の先生に聞いてもなかなか納得いく答えがなかったんですけど。
井上 私もわかんない。いずれにせよ現実を見れば富が偏在してるわけでしょ。お金がある奴もない奴もいるわけでしょう。
参加者E で、よく考えたんですよ。等価交換を前提にして、何でこんなことが起こるんだろうと考えたら、今の私の中の結論はやっぱり壊してるっていうことなんですよ。第三世界の人達が。
井上 第三世界の人達が?
参加者E 内戦とか戦争で。先進国は、少なくとも日本は戦争をしないんで富が壊れないんですよ。会計用語で言うと火災損失とか戦災損失とか で、どんどん富が消えていくんですよ。でも、日本は戦争しないから富が蓄積されていくんです。どうも搾取の論理っていうのは、ここらへんにあるんじゃない か。つまり戦争をしてるから、いつまでたっても豊かになれないんじゃないか。この場合、内戦も含むんですけれど。
井上 アメリカなんかずっと戦争してたけど、ずっと豊かじゃない?
参加者E いや、だからアメリカは赤字で悩んでるわけですよね。
井上 最近までは儲かってたよね。それに1960年代から70年代にかけて戦争してても儲かってたじゃない。そこらへんはちょっとわかんないのよ、私。経済学者じゃないから。誰かわかる人に聞いて。
参加者E 憲法が我々の豊かさを守ってるというのが私の今の実感なんですね。
井上 憲法が?
参加者E 憲法9条が。ようするに戦争しないから富の蓄積が可能なんだろうと。
井上 まあそういうのも一理はあるでしょうね。
参加者E 等価交換を前提にして一方だけ富が蓄積されるっていうのは、やっぱり理屈としておかしいですよねえ。
参加者H 経済学の先生にお聞きになったって言いましたけれども、もう今はほとんど先生いなくなっちゃったんですけれども、マルクス主義経 済学っていうのがかつてありまして。それを認めない先生が今たくさんいらっしゃるんですよ。近代経済学と言ってね。それでその方達に「搾取」という言葉を 使ってものを聞いても相手にされない。
井上 アハハハハ。
参加者H それでつまり「剰余価値」を蓄積して、資本がどんどん大きくなっていくということを言ったのがマルクスの『資本論』なわけです よ。だから、そこのところは等価交換じゃないよ、そこから複雑な問題が生まれてくるよ、ということを言ったのがマルクス主義経済学の根底にあるわけです よ。等価交換を前提にって話になると、それは話が全然違うところにいっちゃう。
参加者I 最後に一つだけいいですか?
井上 はい、どうぞ。

テーマに確信があればお金は天から降ってくる

参加者I 政治的な問題じゃなくて、ドキュメンタリー映画の制作技法について。
井上 制作技法、ありません。
場内 (笑い)
参加者I わかります。ただ面白いこと、感動したことを人々に伝えたいから作るっておっしゃってたと思うんですけども。そうすると、もう既にそれは始まってることなんですよね。そこから切り取って、時空間を切り取ってドキュメンタリーは始まるわけですよね。
井上 うん、まあそうですよね。
参加者I そこからカメラをまわすんだけれども、予定調和で終わらないままで……
井上 予定調和で終わることはない。
参加者I つまり現場主義で、どういう方向にいくかわからないし、作ってみて初めてそれが自分が目指したものなのか?
井上 自分で目指したものなんかありません。
参加者I じゃあ、(74年までに)4本作品をNDUで作られてきたという話ですけれども、最初の面白いものが撮りたいっていうのは監督の、自身の、一人の考えで始めるわけですか?
井上 いや、最初10人くらいいたけれどね。これが面白いんじゃない、おー、それにのったって、そんな感じだよ。
参加者I 当時だと16ミリフィルムで結構しますけど、今だったらハイビジョン、HDDでいつでも誰でも出来るわけです。つまり制作会議なんか必要なく、感じる前からカメラをまわしていれば、誰でもドキュメンタリーが出来る時代なんですよ。
井上 もちろん出来ちゃう。でも逆に言えば、そういうテーマの現場に居合わせるっていうのは至難です。自分だけでは出来ません。
参加者I 今の連中は若い心を持ってないとか言うけれども、でも表現者として言うならば、実はみんなが、それぞれがドキュメンタリー映画の 監督だと思うんですよ。例えば、これから家まで帰る途中、自分を撮ったとしても今日一日の自分のドキュメンタリーじゃないですか。つまり今日ここでこう やって話し合ってみんなで考えた、それで家に持ち帰る。そこまででも一つのドキュメンタリーなんで。
井上 もちろんそうです。
参加者I もう少し積極的にドキュメンタリー映画を、気楽な感じで作れれば……それでこのような立派な先生から、ちょっと技術的なところも拝借して。
場内 (笑い)
参加者I 気楽に撮って。
井上 気楽にっていうかね、そういうものなんですよ。編集もいらないって言っちゃうけど、正しいんです。なぜか。例えば、家庭のお父ちゃん が自分の子供を撮ります。3時間撮ります。編集なんかしません。映ってるのはぜーんぶ感動的なんです。そういうもんなんだよ。感動的っていうのは。それは 人に見せるものじゃないけど、でもそれを見た親族はみんな、孫が映ってれば、子供が映ってれば感動するんだよ。嬉しいんだよ、楽しいんだよ。これなんだ。 これを社会的なテーマにすればいい、それだけなんだよ。
参加者I ドキュメンタリー宣言を今日はここでした。
井上 そう、そういうことなんだよ。逆に言えば、プロフェッショナルっていうのが必要ない。毎日、お金を稼ぐためにやるようなもんじゃない もの。そういう感動的なシーンは、いつ来るかわかんないんだからさ。職業にならない。だから職業にしないという覚悟でドキュメンタリーはやらなきゃいけな い。でも、面白いんだ。映画を一人でやっててもね、そこそこ海外へ行かなきゃいけない。私の場合、台湾に行かなきゃいけない。ちょっと来いって言われたら 行かなきゃいけないわけ。だけど、この『出草之歌』を作るまでに、私が自腹でお金を出したことはないの。このテーマはぜひ世の中に出なきゃいけないもの だ、と私は確信してた。そうするとね、お金が天から降って来るんだよ。
場内 (大笑い)
井上 本当に。このテーマ、こんな感動的なテーマは、私一人のものにしておくことは絶対ありえない。みんなに見せたい。こういう確信を持っ て、人を口説けばお金をその人がくれる。お金持ちだから。本当に。だから、そういうふうに思って、ドキュメンタリーを作る覚悟でいれば、素晴らしいものが 出来る。これが私の秘訣。大変よ。私は今だって撮影してんだから、皆さんのことを。わかるだろう? ねえ、わかってる? 撮影してんだ、私。さっきも言っ たように感動的なシーンは、いつ、どこで来るかわかんない。そのとき映像と音声が記録されていなければ、ドキュメンタリーを作るなんて言ったって話になら ない。私は今、沖縄の靖国訴訟を取材しているんだけれど、法廷内の撮影はどこでも禁止されている。でも私は法廷内で原告の人たちが証言するシーンを絶対に 記録に残さないといけない。言ってみればそれは、次の世代そしてその次の世代の人々に歴史の記録として残すというのがドキュメンタリストとしての私の役割 だと思っている。裁判所の規則だから撮影はまかりナラン、だから法廷内の映像や音声は残せない。そんなことは、それこそ歴史を正しく伝えていかないという ことに等しい行為であって絶対にあってはならない。どんなことをしてでも、映像と音声の記録を残すというのがドキュメンタリストの仕事だと思っている。私 が今この場を撮影しているということに皆さん気がつかない、それと同じように沖縄の裁判所の警備人にもまだ私が撮影していることがばれていない、だから撮 影できるんだ。私の考えるドキュメンタリーの基本のひとつは、言ってみればそういうような方法を毎回毎回考えて撮影を実行していく、ということなんですよ ね。これって、どう考えてもキャメラマンの仕事ですよね、絶対に監督や作家なんかじゃない。
司会 かなりの挑発から始まって、最後うまくドキュメンタリー風に終わった雰囲気になってきましたが、この会場を片付けなきゃいけません。 今、監督がお金が降って来るって言いましたが、その方法も含めて個人的には興味があります。隣の部屋に飲み物が用意してあります。終電まではまだ時間があ りますので、そこで時間のある方はお付き合い下さい。

 

2009年12月12日

plan-B 定期上映会

講演「ドキュメンタリーに監督・作家はいらない、勿論、編集だって不要だ?!」
井上 修(NDU/『出草之歌』撮影・編集)
「ドキュメンタリー」はなりよりもまず、素敵な対象に巡り会うことだ。多くの場合、彼らは過酷で困難な状況に置かれているだろう。しかし状況がどんなに困 難であっても、いやだからこそ彼らが果敢にそれに立ち向い、状況を切り開いていこうとする姿を、多くの人に知ってもらい、感動を持って欲しい。それが私に とっての「ドキュメンタリー」であると思っている。だから「ドキュメンタリー」に所謂「作家、監督、ディレクターなどなど」はいらない。必要なのは映像と 音声を的確に収録して、それらを順番に並べていく(これは断じて編集じゃない)ことができるスタッフだけだ。でも残念ながら、日本の「ドキュメンタリー」 の主流はどうやらそうではないらしい。たとえば、NDU日本ドキュメンタリストユニオンの最新作『出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦』では……おっと、この先のお楽しみ(?)は、会場で!

2009年6月6日

無期囚磯江洋一さん 山谷6・9決起30年 問われ続ける、山谷・監獄・貧困...」

2009年6月6日(土) 午後2時~

日暮里区民事務所ひろば館(301洋室) 東京都荒川区東日暮里6-17-6 (JR日暮里駅北口東側出口・日暮里中央通り沿い徒歩10分)
≪第1部≫午後2時~
『山谷─やられたらやりかえせ』DVD上映(1時間50分)
≪第2部≫午後4時30分~
発題:6・9闘争と寄せ場の闘い(松沢哲成)/磯江さんを支えて30年(丸山康男)/6・9以降の山谷の闘い(荒木剛)/無期囚の終身刑化について(山際永三)/獄中の処遇、医療について(永井迅)/「貧困」とはなにか(加名義英逸)/山谷からの報告(山谷労働者会館)他
磯江さんからのメッセージ
≪第3部≫
討論(全員)
資料費/1,000円
連絡先:090-1836-3430(「山谷」制作上映委員会)

働く権利から見たパレスチナ問題

田浪亜央江(大学非常勤講師)

どうも今晩は、田浪と申します。私は学生時代からパレスチナ問題に関わっていて、それで今日この場でお話をさせて頂くことになりました。「働く権利から 見たパレスチナ問題」というテーマを選んだのは、日本社会で過去何十年のことを考えても、これだけ働くこととか労働問題が語られるようになったことはない と思うからです。昨年のイスラエルによるガザ侵攻は、ちょうど年末でしたが、それ以前からガザは封鎖されていて、普通の暮らしが成り立っていない。日本で も「派遣村」ができたりとか、いろいろ福祉や行政の窓口が閉まった時期ということで、すごく厳しい時期と重なったこともあって、私の周辺でもガザのああい う状況と自分の状況を重ね合わせて話をする人も出てきたっていうのもあります。レジュメの最初のところで「日本雇用環境と、ガザ150万住民の『雇い止 め』」という言葉を書きましたけれど、これはこの間のイスラエルによるガザ侵攻の反対運動をやってるなかで誰かが言っていた言葉です。いまの日本社会の状 況と対比して、ガザの150万人があの狭い地区に押し込められていて、そこで彼らは仕事ができない状況にずうっといた。この攻撃が始まる前から、そういう 状況になっていたわけです。
いままで私は日本っていう、わりと経済的にも豊かで恵まれた立場にいる人間が、同じ立場であるかのようにパレスチナ問題とかパレスチナ難民のことを代弁し ているかのように話すのは、あんまり好きじゃなかったんです。でもいま、そういうふうに重ね合わせてみることがすごくリアルな問題で。それはわざと目線を 下げているとか、難民になったつもりになるとか、そういうこととは全然違って、現実問題としてもう一度いまの日本社会の問題とパレスチナの状況を重ね合わ せて考えることが切実なことだと思ったからです。
それから私の個人的な経験なんですけど、春で辞めたんですけども、この二年間契約職員として働いていたんです。そこで正規の職員との間で差別的な扱われ 方をしたっていう経験があります。私自身はアラビア語ができて、一応中東専門家みたいな立場で雇われたという、ちょっとプライドもあったんですけども、そ ういう自分の専門性を活かせるとか、自己実現とかといった、労働に託すちっぽけな思いっていうのが無惨に裏切られるような。夜中まで毎日残業しても残業代 が出ないとか。これだけ頑張ってやっても、契約なので三年経てばハイサヨウナラっていうことで、働く意味をすごく考える機会になったんですね。私自身の経 験ではないですが、職場の中で正規の職員と派遣労働者の立場が違うということで、階級っていうのか、やっぱり全然違うわけですよね。そういうありようを見 て、私自身もう一度イスラエルとパレスチナの問題を日本の環境の中で考えるきっかけとなったということがあります。
イスラエルの建国を支えたイデオロギーということでレジュメに入れたんですけれども「労働を通じて自立し他者と対等な関係をもつという理想」という言葉 があります。やっぱり働く時の倫理とか理想っていうものをもたないと、なかなか人間っていうのは働けないわけです。だけれど同時に、実際は労働のなかで他 者を支配するという現実があります。この言葉は一般的な労働のありようということで書いたので、個別にイスラエルの状況から考えると少し不正確かもしれな いですけれども。何でイスラエルの中でこういうことが起こっちゃったのかということを少し問題提起したいと思います。
イスラエルっていう国は――。まずヨーロッパの中で差別されてきたユダヤ人、特に農業、土地のなかで生きることはできなくて、金融業に代表されるような 特定の職業にしか就けなかったユダヤ人、まあユダヤ教徒ですけれども、彼らが働くことを通じて自分たちの社会を築いていく、自分たちの解放をかちとってい くと。ヨーロッパ社会の中で、「寄生虫」という表現が使われていましたけれども、そうではなくて、土地を獲得して働く、一生懸命土地を耕作することを通じ て自分たちの自立した社会をつくっていくという。簡単に言うと、そういうイデオロギーによってつくられた国なわけです。で、それ自体はすごく美しい理念で あったわけです。そもそもはパレスチナにいるパレスチナ人を排除したり追い出したり殺したりすることを目的にしていたわけじゃなくて、あくまで差別されて きたユダヤ人である彼ら自身が自ら働くことを通じて自分たちの社会をつくっていこうという、まあまっとうな一つの理想だったわけです。それがいまのような 状況を生みだしている場所になってしまっている。
それぞれの人間はそういう理想に燃えていたけれども、実際にはパレスチナ人の排除に繋がってしまった。それはもうしょうがない、人間それぞれの理念、理 想と、それから生みだされてしまった不幸な現実とのギャップ。というところで、問題がぼかされてしまっているというか。責任者も見えないし、そうやってし かたがないことだったという話になってしまうわけですよね。イスラエルの中で、こういう言い方は普通にあるわけです。ただ調べてみると、確かにユダヤ人の それぞれの労働者が主観的に理想に燃えていたことは事実だとしても、そもそもそうした理念そのものにちょっと嘘があったというか。
イスラエル建国以前に、パレスチナにはユダヤ人労働総同盟という労働者を組織する一種の組合みたいなものができるわけですけれども、そこでもうすでにヘ ブライ労働という方針ができています。最初は当然現地のパレスチナ人も雇い入れなきゃいけない。で、一緒に働いていくと、現地のパレスチナ人はユダヤ人よ りも安い給料でも働くわけです。長時間労働も厭わない。ユダヤ人は労働力として競争に負けてしまうからアラブ人ばかり雇われるようになる。そうすると、 せっかくパレスチナの地にユダヤ人が移民してきても何の意味もないわけで。それでアラブ人労働は排除して、ユダヤ人労働、ヘブライ労働という言い方で、ユ ダヤ人しか雇わない、アラブ人とユダヤ人の労働を分けるということがずっと進められたわけです。
建国の理念は社会主義シオニズムということで、社会主義と言われるとなんとなくいいイメージがあって。社会主義に基づく理念であったイスラエルの建国当 時の理想が、どうしていまのような社会をつくってしまったのか、みたいな言い方になりかねないんですけれども。そうじゃなくて、社会主義シオニズムの当初 からパレスチナ人の労働力は排除して、ユダヤ人だけが土地を持ち、生産手段を持ち、労働を支配する。そういう理念が最初からつくられていたわけです。
そうやってできたイスラエルですが、簡単に建国後の話をしますと――これはレジュメの右側に書いてある表をざっと見て頂きたいんですけれども。占領地と 書きましたが、ここではおもにガザの話です。ガザは最初エジプトの占領下にしばらくあったわけですが、UNRWAという国連の機関に雇われるパレスチナ人 はいました。あとはエジプト政府からパスポートを取って湾岸諸国とか海外に出稼ぎに行くパレスチナ人もいました。それが1967年にイスラエルがガザ地区 それから西岸地区を全部占領してしまう。それで建国の理念はユダヤ人労働、ヘブライ労働だったにも関わらず、ここで一気に政策を転換して、占領地のパレス チナ人をイスラエル国内に入れていくわけです。イスラエル国内だから、ユダヤ人よりは賃金が安いにしても、占領地にいるパレスチナ人からみるとすごく良い 条件です。そこでどんどんどんどんイスラエル国内にパレスチナ人労働が増えていって、特に建築労働に入っていくわけです。いまのイスラエルの基盤となって いる建物は全てパレスチナ人がつくったんだという自負がパレスチナ人にはあります。
労働者として受け入れるって言うとすごいきれいごとなんですが、それは労働者の労働力だけを搾取するというやり方です。例えば、イスラエル国内でパレス チナ人は宿泊することは認められないんですね。それでガザから毎朝早朝乗り合いタクシーでテルアビブなんかに行く。狭い地域なので3、40分でガザからテ ルアビブまで行けるわけです。そこで建築労働なりレストランの掃除夫だとかとして働いて、夜になるとまたガザに戻るという生活ですね。ところが、雇用者と してはそれだと効率が悪いというか、翌日必ず労働者が来るという保証もないということで、例えば当局には内緒でパレスチナ人の労働者を集めて一室に寝泊り させたりするんです。ですが、外に勝手に出られないように、外から鍵掛けちゃうわけです。そこで火事が起こって中にいた労働者が全部丸焼けになったとか、 そういう事件も起こっています。
そうやって占領地の人間を自分たちに都合のいい労働形態、雇い方の形態で働かせる。そこでは本来的な意味での労働とは違って、例えば技術を身につけて少 し違う仕事に就くとか、お金を貯めて自分で経営をするとか、そういった展望なんかも全然描けないような、本当にイスラエル経済に都合がいい形での仕事しか 与えられなかったわけです。これ自体すごく問題があったわけですが、ただいまから思うと、この時期はそういう形であれ、パレスチナ人達は働いてお金を得て ガザでの生活を多少は豊かにすることができたわけです。それがまたまた転換してしまいます。
それが現在までのありように繋がるわけです。1993年日本ではオスロ合意ということで、イスラエルとパレスチナが相互承認して、パレスチナ人の国家を つくっていくための話し合いのスタートということで平和が、中東和平が訪れたみたいな感じですごく宣伝されました。けれども、実はこの頃からイスラエルは 占領地を切り離していこうとする政策に変えていくわけですね。つまりイスラエルはパレスチナ人と対等なパートナーとなることをもともと希望していないの で、アメリカが仲介しているオスロ合意を受け入れたことにして、同時にパレスチナを対等なパートナーではなくて、むしろパートナーたりえない条件に陥れ る、そういう政策に出ます。いわゆる自爆テロを口実にしながら、占領地の封鎖をこの頃から始めるわけです。それと同じ年、オスロ合意のこの年からパレスチ ナ人労働者ではなくて外国人労働者の受け入れを始めるようになります。中国人とかフィリピン人、それからルーマニアなんかの東欧の人たちがイスラエルの中 に入って来て、これまでパレスチナ人がやっていた労働に変わっていくわけです。
それからあと労働者の問題だけじゃなくて、例えば、イスラエル国内にも少数ですけどパレスチナ人が住んでいますが、彼らが占領地のパレスチナ人と結婚す ると、占領地に住んでいたほうの人はイスラエルに住むことができたんですね、結婚後は。それが認められなくなります。つまり占領地の人間とイスラエル国内 に住む人間が結婚するのは勝手だけれども、占領地出身の相手方がイスラエル国内に住む許可は全然下りない。結果的に海外で暮らすとか、そういう状態になっ てしまう。ほとんど結婚そのものができないような状況になっています。
イスラエルがいままではずうっと使ってきた労働力の市場だった占領地を、一方的に切り捨てていく。それが行き着いた先が2005年にガザから撤退したと いうことです。これはもちろん他のいろんな側面があるわけですけれども、労働力という問題からすると本当にもう占領地は必要ない。完全にそうした底辺の労 働とかは外国人労働者に依存するという形になってしまって。占領地がそういう形では必要がなくなったので、まさに棄民政策ですよね。ガザの出入りをイスラ エルが管理するという占領自体は変わらないのに、一方的に撤退だけするわけです。占領地がこういうイスラエルの経済のありように、もうずうっと左右されて きたことがわかると思います。
イスラエルは、いまでは外国人労働者もこれ以上は入れない政策に出ています。あまりにも外国人労働者が増えてきたということに対する、イスラエル国内の もともとの排外主義ですね。治安の悪化とを理由に国内で反対する人間もどんどん出てきたので、いまはもう一度イスラエル人による労働、いままで外国人が やっていたこともまたイスラエル人にとって代わらせるという方向に政策転換しています。
レジュメにグラフを載せていますが、これはサラ・ロイさんという、このあいだ来日したユダヤ人の研究者が作成したグラフです。アメリカのユダヤ人です が、ガザの状況についていろいろ研究をしてきている方で、イスラエルの占領政策に強く反対している立場の人です。ガザっていうのはもともとレモンとかオレ ンジなど柑橘類がたくさん獲れていた豊かな土地だったんです。それが占領後、生産高がどういうふうに変わったかという例なんです。イスラエルがガザを占領 する前は、開発が低い状態、低開発だったけれども、かろうじて少しずつ経済が発展していた。ところが、イスラエルが占領して以降はもう開発そのものが全然 ありえない状況、De-developmentになってしまった。サラさんはそういうことを、彼女がまとめたガザ経済の本の中でいろいろ分析して示してい ます。普通の状態だったら生産高も上がっていくのに、それがこういう状態になっているということを示しています。
イスラエルの占領政策で、いろいろ細かい軍法があるんですけれども、例えば占領地で新しい建物を建てることも禁止なんですね。禁止というか、イスラエル 当局の、軍政府の許可を得ないと駄目っていうことで、実際には許可なんて何年も出ない。だから人口は増えていくのに、社会全体が発展しようがない状況に なっちゃう。レモンの例だと新しいレモンの木を植えることが禁止になっている。もともと占領以前からあった木からは収穫できますが、しばらく経つと古く なって実がならなくなるわけですよね。それを伐採して新しい木を植えることが軍法によって禁止されているわけです。でも、そういう状況にも関わらず税金は 取られて、それもイスラエル国内と同じ税率なんです。ユダヤ人社会の農民は政府からたくさん援助を受けて、生産高もすごく高いわけです。それと同じ、その 生産高に基づいた税率が、占領地で生産コストをカバーできないくらいの生産高しか得られない農業をやっている人にも課せられている。そういうことを彼女は 本のなかで指摘しています。
いままでパレスチナの難民というと、パレスチナの地に戻りたいと願っている難民たちの感情に思いを寄せるということ、彼らの帰還権を訴えていくことが中 心とは言えないにしても、結構ポイントだったと思うんです。そうなんだけれども、それだけだと彼らの存在を逆に抽象化しちゃって、私達にはまあ関係がない 難民の人たちっていう括り方ですませてきちゃった感じがしていて。帰る展望がないなかで、彼らは日々生活していかなきゃいけないわけで、そこではやっぱり 労働、働いて日々生活していくという環境が必要なわけですよね。そうした働くことがそもそもすごく困難であるという状況をもう少し具体的に見ていくこと で、パレスチナ人、パレスチナ問題ともっと繋がる手立てがこの日本の今の状況の中で見えてくるんではないかなと感じています。
あんまり長く話すなという圧力を感じますので、なるべく早めに終わらせようと思いました。とりあえずここまでにしておきます。

司会 そんなプレッシャーはかけてないんですけどね。では、まあ討論というか、質問や考えがある方がいましたどうぞ。
 根本的なことなんですけど、ユダヤ人とイスラエル人は違いますよね。いまの話だとイスラエルの人達とそれから占領地の人達、パレスチナ人の話でしたよね。さっきおっしゃったように、イスラエルの中にもパレスチナ人はいて、彼らはイスラエル人なんですか。
田浪 国籍から言えばイスラエル人です。イスラエル国籍をもっていますね。
 イスラエル人の中にもいろんなところから来た人がいるから、例えばある時期から旧ソ連邦から逃れてイスラエルに来て、その人達は普通の イスラエル人よりも下にみられるという話を聞いたことがあるんですよ。そういうイスラエル人っていうのはすごく下層なわけですよね。僕はよく知らないんだ けど、法制度で基本的人権とかありますよね。こういった場合、イスラエル人一般にあてはまるような労働権などの権利はあるんですか。現実的なカテゴリーの 中で具体的に処遇の違いがあるんだったら、どのように違うのかを聞いてみたいんです。そうするとイスラエルの中の処遇の違いと、それといま話されたガザの パレスチナ人の違いと、もっとくっきりすると思うんですよね。その辺をちょっと補足してほしいんですけど。
田浪 イスラエル国内にもパレスチナ人が住んでいます。それで彼らと一般の、他のユダヤ人との待遇の違いがあるのかということですけれど。 イスラエルの中にいるパレスチナ人は一応イスラエル国籍を取っているわけですね。そういうことで言うと、同じイスラエル人なので、イスラエル国内の法律が 適応されていて、労働条件だとか最低賃金だとか、そういうものは当然イスラエル国民として同じ法律の下で守られているというのが建前にはなっています。た だ実際には、そういう法律ではカバーしきれないいろんな状況があって、やっぱり職場の中でもアラブ人差別はすごくあるんですね。そもそも一般のユダヤ人の 会社にはアラブ人はなかなか雇われません。アラブ人はどうしてもアラブ人の経営している小さな職場とか、自営業とか、あとアラブ人の町村の小学校、中学校 の先生だとか、そういう仕事を選ばざるをえなくなってるんですね。
それと法律的には平等ということになっていますが、アラブ人は兵役につきません。ユダヤ人の中にも少数だけれども兵役拒否する人もいますが。そうすると 仕事募集の新聞広告なんかを見ると、何歳以上とか大学の専攻とか、条件が書いてあるところに必ず「兵役済」っていう条件が書いてあるんですね。兵役を終え てない人は雇わないぞと。もちろん、ユダヤ人の雇用主はそれをアラブ人差別だって絶対言いません。兵役を経験することは、そこで基本的な生活のスタイル、 朝早く起きて体を整えて仕事に出るという、基本的な労働者としての生活スタイルや意識、国民としての自覚みたいなものを二年間叩き込まれるわけですね。 で、兵役を終えてないってことは社会人としてのそういうまともな経験などを備えてない、労働者として駄目な人間だから雇わないんだと。そうして、結果的に それがアラブ人を排除する形になっています。
それから国家のセキュリティーに関わるような高度な科学技術なんかは、アラブ人は大学で専攻できないようになってるんですね。法律があるわけじゃないん ですけど、実際にアラブ人は成績が上でも、そういった専攻では大学に入学できません、面接なんかもあったりして。そうすると当然そういう部門の仕事には就 けないわけですね。だからイスラエル国内のアラブ人がいくら頑張っても、例えば宇宙開発だとか、イスラエルはそういう科学技術がすごく盛んですけれども、 そういう方面の仕事には就けない。そこでイスラエル国内のアラブ人、特に優秀な人なんかは自分たちがいくら頑張っても就きたい仕事に就けないんだっていう 不満をよく言っています。
それと、占領地のパレスチナ人についてはイスラエル人ではないのでイスラエル国内の法律が全然カバーされていないわけですね。だからイスラエル人だったら守られる最低賃金だとか保障とか、そういうのから排除されています。
B 占領地の中で軍法とかでがんじがらめの状態の中で、政治的なことで解決する方法ももちろんあると思うんですけれども、それ以外、例えば 隙間産業ではないんですけれども、何か産業みたいなものは出てきてないんですか。とりあえず、いま食べていかなきゃいけないという時に、新しい抜け道では ないですが、食っていける産業みたいなものが出てきたりはしないんですか。
田浪 まさにそういう発想で、オスロ合意以降進んできたと思うんですよ。オスロ合意で一応イスラエルとパレスチナが両方とも和平へのスター トラインに立ったということで、海外の投資がたくさん入りました。占領地の中で自立できるような産業を育成しようという方向ができたわけです。でも、逆に そうした方向がますますパレスチナ人が自立できない状況を作っているんですね。というのは、占領自体終わってないわけです。そこで海外から投資がきて、占 領は終わってないけれども、とりあえずパレスチナ人が生活できるように何か産業を興そうという。日本政府も、ヨルダン川西岸地区のヨルダン渓谷という場所 で農業団地をつくって、そこでパレスチナ人がつくった生産物を湾岸の方に輸出するという事業を打ち出しているわけですけれども。それは占領の状況を全然変 えないで、占領状況の中でとりあえず食べていく、実際にはそれだけでは食べていけないわけですが、ともかく占領状況を変えないまま、とりあえず産業をつく るという。
イスラエルもその路線を支持しているわけです。占領を固定化したまま、とりあえず海外の資本が投下され、そういうことをやってくれる。パレスチナ人の労 働者を雇って、パレスチナ人の不満を少なくしてくれるなら、それはイスラエルにとっては願ったりかなったりの話で。そうした状況は、レジュメにも「現状認 知の力学」と書きましたが、むしろ占領のノーマライゼイション、固定化に繋がっていると思います。
ガザという所は本当にこう狭くて、川もないし、周辺から孤立した状況で、あの場所だけで発展するってことはありえないわけです。だから普通の社会ではあ りえないような不自然な形で、例えばUNRWAが一度やろうとしたのは電話交換手、いまそこに住んでる人じゃなくても遠い海外でも英語が話せる人が電話 取って電話交換、そういうことはできますよね。日本でも、いま電話交換手を海外でやらせようかという話が出てると思うんですけれども。それで、ガザの人を 雇おうというような話が出たりしてました。でも、とりあえずの雇用は確保しても、とりあえず日当を貰えるとしても、それはガザの社会を本当の意味で発展さ せることには全然繋がらないわけですよ。占領が終わらない限り、とりあえず食いつなぐだけのこういう仕事しかないわけですね。それでは社会の発展はありえ ません。
司会 ガザの状況、西岸もそうでしょうけれど、特にガザの現状はどうなんでしょうか。僕らも通信とかテレビくらいでしか状況は知りえないの ですけれども。逃げられない状態で相当ひどい爆撃を受けるという。田浪さんもいろいろガザと通信をされていると思うんですけれども、具体的にどういうふう にガザの人々の声をお聞きになってきたのでしょうか。
田浪 うーん、私自身はこのかんガザに入ってないんで、ガザの現状はこうですというというような報告は、ちょっとできないんです。最後に私 がガザに行ったのは2001年だったんですが、そこで付き合いのあった人たちは電話ももってないし通信手段もないので、連絡も取れない状況になってしまっ ているんです。
ガザの状況を話してください、それからひどい状況だけれども何か打開策はあるのか、何か希望の見える話をしてくださいってよく言われるんです。ただ希望 と言っても、私たちの気休めのためにそういう話をすることにしかならないと思うんです。ガザだけでなく、いまガザが一番ひどい状況にありますけれども、あ れはパレスチナ占領地全体の先行例に過ぎないと思います。イスラエルは本当にもうパレスチナ全体をなくしていく方向に動いてるとしか考えられないわけで す。口に出すのもすごく嫌なんですけれども、パレスチナが消滅に向かっているとしか言いようがないです。
それでは、じゃあ私たちに何ができるかということですが、パレスチナの状況を気に病んでいるだけよりは、イスラエルそのもの、イスラエルの占領政策をと にかく変えていく。いまや私たちはパレスチナの人たちに抵抗や闘うことを求めたる立場にないわけです。私たちの責任として、いまのイスラエルの政策を何と か変えていくように働きかけること、それが外部の人間にできることではないのか、と思っています。宣伝みたいになっちゃうんですけども、チラシをここで 配っていいですか。5月の31日にちょっとしたイベントをやるので、もし関心があったら参加して頂けたらいいなと思います。もちろんパレスチナに心を寄せ るとかパレスチナの人たちと連帯するとか、そういうことはすごく大切だと思うんですが、それだけだと何かこう……。日本政府がそもそもイスラエルのやって ることを黙認してるわけですね。許可を与えているわけですね。そういう国に住んでる私たちの責任っていうのもあるわけです。占領地のことを心配するより も、まず私たちがいまやれるのは、イスラエルの政策を変えていくために何ができるかを考えることではないかと思っています。
司会 5月31日日曜日の13時から18時30分までYMCAで……。
田浪 お茶の水と水道橋のあいだにある在日韓国YMCAという所でやります。日本の中でずっとパレスチナと関わる団体とか運動って結構ある わけです。でも、同じことの繰り返しになりますけれども、パレスチナ人と連帯するぞっていうところで、なんか終わっちゃってるんですね。そういう気持ちは すごく大切だと思うし、私自身もそれは否定しないんだけれども、私たちの日本社会全体は、どっちかっていうとイスラエルの側に立った社会なわけですよね。 だからこそ、なんとかイスラエルの政策を変えていく、それからそういうふうに日本政府に働きかけるようなことをやっていくのがすごく必要だと思っていま す。
[2009年5月9日、プランB]

2009年5月9日

plan-B 定期上映会

講演 働く権利から見たパレスチナ問題
講師 田浪亜央江(大学非常勤講師)

難民であることによって居住国での職 業選択が制限され、働く場を求めて国境を超えることもままならないパレスチナ人。イスラエルで日雇いとして差別的に使われた揚句に労働市場から締め出さ れ、今や被占領地のなかで就ける仕事などほとんどないパレスチナ人。イスラエル国内で市民権をもつパレスチナ人がまずぶつかる壁も、彼らの働ける場がユダ ヤ人に比べて極めて限られていることだ。ユダヤ人が働き自立する場として作られた国家は、労働においてこそ非ユダヤ人を差別し、分断する社会となった。労 働を通じて自立し他者と対等な関係をもつという理想と、労働のなかで他者と支配/被支配関係が作られ、自らの人間性を失っていく現実。日本社会の中から、 今こそパレスチナ問題がより切実に見え始めている。