都市の辺境

山谷・釜ヶ崎・深川から生まれた 六〇年代のフォーク・ムーブメント再考

本間健彦(リトルマガジン『街から』主宰)

今日の仕事はつらかった
あとは焼酎あおるだけ
どうせ山谷のドヤ住まい
ほかにすることありゃしない

まずイントロに流して聴いていただいた曲は、フォーク・ソングの『山谷ブルース』です。一九六〇年代後期にフォーク・ムーブメントという 現象が巻き起こります。ギターを弾いて歌えることを知った若者たちが、自分の心情や不条理な社会に対する怒りや抗議、また反戦といった意思表示を、自分た ちの歌として作り、歌い始めたのです。当時、フォーク・ソングは「プロテスト・ソング」とも呼ばれています。
この『山谷ブルース』という歌は、フォーク・ムーブメントの旗手的な存在であり、「フォークの神様」と称された岡林信康のデビュー曲です。そしてこの歌は、岡林青年の山谷体験から生まれたと伝えられてきました。
岡林信康の『山谷ブルース』という歌については、私も昔、よく聴いていたので知っていましたが、この歌が歌い手の岡林信康の山谷体験から作られたのだと いう極めて興味深いドキュメントを知ったのは最近のことで、私は、京都在住のライター田頭道登という方の著書により、そのドキュメンタリーを見聞すること ができました。
というわけで、田頭さんの本を紹介するという構成で、当時の山谷とフォーク・ソングの関わり、山谷がその頃有していた意味というか、もうひとつの側面についてお話をしたいと思います。
田頭道登さんは、これまでに、『山谷キューバフォーク』(一九七九年刊)、『岡林信康黙示録』(一九八〇年刊)、『私の上申書―山谷ブルース―』(二〇 〇四年刊)と題した三冊の本を出されています。現在、七八歳。京都在住の方です。本のタイトルでもおわかりのように、田頭さんは、六〇年代、彼の三十代の 大半を山谷で過した人です。
そしてこの山谷で、まだ歌手になる前の大学生だった岡林信康に出会い、歳はかなり違っていたのですが、二人は同志的な絆を結びます。そして岡林が大学を 中退して、フォーク歌手になり、高石友也事務所(後のURC=アンダーグラウンド・レコード・クラブ)に所属すると、岡林に誘われて同事務所に就職し、 フォーク歌手集団の裏方、マネージメントを担うようになります。
URCには当時、フォーク・ムーブメントを牽引していた関西フォークとかアングラ・フォークと呼ばれていたフォーク・グループの拠点で、高石友也・岡林 信康・高田渡・中川五郎や、『帰って来たヨッパライ』という歌で大ヒットを飛ばしたフォーク・クルセダーズ(北山修・加藤和彦・端田宣彦)らが所属してい ました。つまり、田頭さんは、裏方として当時の最先端のフォーク・ムーブメントに関わっていたのです。
では、田頭さんは、どんな経緯で山谷に辿り着いたのか。その足跡を簡単に見ておくと――。一九三二年(昭和七)四国の愛媛県生まれ。十八歳の時、プロテ スタント教会で受洗。一九五三年(昭和二十八)二十一歳の時、父親と喧嘩して家出し上京。新聞配達などに従事、自活の道を模索しますが、学歴がないことな どもあって正規就労ができずに二十代を過しています。
田頭さんが山谷入りするのは一九六三年(昭和三十八)、彼が三十一歳の時だった。彼はドヤ暮らしを始め、日雇い労働者として働き始めました。その頃の山 谷は約二万人のドヤ暮らしの人々が棲息していたといわれる寄せ場でした。高度経済成長時代へ邁進している最中であり、そのうえ東京オリンピック開催前夜で 東京の街はビルや道路などの建設ブームで湧いていましたから仕事にあぶれることはなかった。だが、仕事はどれも過酷な肉体労働ばかりで、そのうえ山谷の日 雇い労働者は世間から蔑視され、差別され、落伍者のように扱われるという視線に晒されてきました。
一日の労働を終え、帰る処はドヤで、そこは畳一枚敷きの押入れのようなスペースで立ち上がることもできない。おまけに南京虫との共棲が当たり前という環 境だった。夏など暑くて寝苦しいので、焼酎を飲み、酔っぱらって路上にぶっ倒れ寝てしまう者がおおぜいいた。酒の呑み過ぎや青カンで体を壊し病死したり自 殺する者も少なくなかった。当時、夏になると夏祭りのように山谷で暴動事件が頻発していたのは、そんな情況から生じていたのです。
その頃、「蒸発人間」という流行語がありましたが、職を失って家に居づらくなったり、犯罪を犯して身を隠すためとか、晴れて刑務所を出所したものの家や 故郷に帰ることができずに住所不定になっていた男たちのことを指した呼称で、山谷はそのような「蒸発人間」の巣窟とも言われていました。
十八歳で家出を図り、家に帰ることなく都会で棲息していた田頭さんも、「自分も“蒸発人間”だった」と語っていますが、山谷入りしたのは、働く場所を求 めて、という理由のほかに、こんな動機があった、といいます。それは、当時山谷にドヤ暮らしをしながら伝道している中森幾之進と伊藤之雄さんという二人の 牧師さんがいるということを知って、是非会ってみたかったということだった。
つまり田頭さんは、山谷のドヤ街に「イエス」を発見し、その二人の牧師に導かれるように山谷へ赴いたのです。そして田頭さんは、二人の牧師が設立した日本基督教団隅田川伝道所の書記に任命されています。
こうして山谷暮らしを始めた田頭さんは、このほかにも山谷労働者協力会、山谷地区学習会、小さなバラ子供会、地域誌『人間広場』の編集など、諸活動に関 わっていただけでなく、『山谷のキリスト者』というミニコミ誌をガリ版刷りで週に一回発行しているのです。もちろん、これらの活動は生活の資を得るための 日雇い労働の合間を縫って行われていた作業だった。
田頭さんは、なぜ山谷で、そういう生き方を積極的に行ったのだろうか? その答えは彼のつぎのような思考の中に読み取れます。

私は、山谷で、人間が、この社会でいかに尊いものか、それと共に、どれほど疎外され、抑圧され、苦しみを与えられ続けているかを教えられた。
山谷こそ、私を救い、前進せしめ、私の精神と肉体をギリギリに追いこみ、人間社会について開眼せしめた場所であり、自分は「山谷大学」の学生であったのだ。

そして田頭道登さんは、この山谷でフォーク歌手としてデビューする前の神学生時代の岡林信康と出会うのです。田頭さんの本には、岡林からの私信が沢山紹介されていますが、岡林青年の真摯な青春像がうかがえ感動を覚えます。
岡林信康は牧師の子息で、牧師になろうと、同志社大学の神学部に入学しています。だが、次第に自分が進もうとしている世界にムシャクシャするようにな り、自分をブッこわしたくなるといった衝動に駆られるようになります。収録されている岡林の手記には山谷へ行こうと思い立った心境がつぎのように記されて います。

ちょうどその年の夏、うちの教会に来ていた札つきの非行少女が、あることで警察にあげられました。その少女をめぐって、「教会は、そんな子の来る 所じゃない」という声が、教会員の中におこりました。信徒の偽善とエゴイズム……それに、彼女を恐れて関わっていくことをしなかった自分、自分の持ってい たと思う信仰……既成の教会に対する反発と、自己自身のキリスト教信仰に対する疑問、劣等感がとうとう爆発し、一九六六年八月の終りに「山谷」で活動して いる牧師に会いたい気持ちと、ヤケクソ半分の、どうでもなりやがれ的な気持ちで山谷に飛び込んだわけです。(『人間広場』七〇年二月・NO.8)

田頭さんの本には、その裏付けがこんなふうに記録されています。

(六六年)このころ、岡林信康君(当時、同志社大学神学生)消沈しきって、山谷の私達を訪れた。労働センター前の私の宿泊していたドヤでの生活 で、私が上、彼が下段だった。一泊百六十円の前払いであった。彼は稼いだ金でボクシングのグローブを買って滋賀県近江八幡の実家(教会)へ帰って行った。

翌年夏にも岡林は再来していて、つぎのように記されている。

六七年の夏、岡林君は、同じ神学部の平賀久裕君と共に山谷に来た。平賀君も山谷の現実には驚いたようだった。坊主頭の彼は、ドヤでウイスキーを コップであおって「神は死んだ!!そういったニーチエも死んだ!!と、大声で酔っぱらい叫んでぶったおれた。現在の教会の不甲斐なさ、神の死んだ教会のあ り方を彼は神学部の「夏季研修報告」で告発した。このとき岡林君は、山谷で質流れのギター(三千二百円)を買って近江八幡へ帰った。(『私の上申書―山谷ブルース―』)

岡林信康の山谷体験は、大学の夏休みを利用しての一種の体験学習であり、アルバイトの日雇い労働であった。山谷から家に帰る際に、稼いだ金でボクシング のグローブや質流れのギターを土産に買っているところに、そのことはよく示されています。けれども、父親の主宰している教会や自分が入学した大学の神学教 育の問題点に、青年らしい潔癖な感性で疑問を抱き、悩み、それをなんとか克服したいという気持ちで、山谷体験に臨んでいる姿にも注目しないわけにはいきま せん。なぜなら、この時の山谷体験から、岡林信康は『山谷ブルース』という歌を作り、フォーク・ソングを歌い始めているからです。
田頭さんの本によると、この『山谷ブルース』の誕生の経緯がつぎのように記されています。

京都に帰った平賀から、山谷の体験を綴った(一傍観者の作による『山谷ブルース』)という詞が送られて来た。私はこれを「山谷のキリスト者」(第三号)に掲載した。

この冊子は岡林にも送られた。すると、これを読んだ岡林から、山谷の田頭につぎのような手紙が寄せられた。その一節を紹介しましょう。

山谷からかかえて帰ったギター。こいつがとんだ事を引き起こしました。自分でギター弾きながら作った歌が一五曲あまりになったのですが、去る十一 月二十三日、草津で高石友也という知る人ぞ知るフォーク歌手(釜ヶ崎にいた事があるそうです。立教大学八年生!!)が反戦集会に来た時、俺も自作の歌二曲 を歌わせてもらいました。(中略)週報(山谷のキリスト者)に記されていた平賀の詞(山谷ブルース)にさっそく曲を作ってみました。かなりの線の曲ができ たによって、また聞かせます。たのしみにしとれ。 

この岡林信康の手紙で興味深いのは、日本のフォーク・ソングがどのような状況の中から生まれたのかということが、この記述からうかがえることです。例え ば、岡林より少し先輩で「アングラ・フォークの創始者」と位置付けられている高石友也は東京の立教大学に籍があったのですが、ほとんど大学の講義には出席 していなかったようで、のみならずなぜか大阪の、山谷と並び称された釜ヶ崎に流れ込んでいて、そこからフォーク・ソングを歌い始めていることです。岡林は 前述したように京都の同志社大学生だったのに、夏休みに二年にわたり山谷に来ていて、二度目の山谷体験後にフォーク・ソングを作り始め、歌い始めていま す。
また、岡林についていえば、大学を中退してフォーク歌手としてデビューする直前には、山谷で暮らしていた田頭さんを、自分の故郷の近江八幡に呼び寄せ、 二人で日雇い労働などに従事しながら共同生活をし、被差別部落の運動に関わっています。そしてその運動の中で、その後デビューして話題を呼ぶ、『チュー リップのアップリケ』『がいこつの歌』『友よ』などが作られています。
このようなドキュメントに接すると、日本のフォーク・ソング草創期の旗手を務めた高石友也と岡林信康の二人が山谷と釜ヶ崎の体験の中から歌を紡ぎ、歌い始めていることに注目しないわけにはいきません。
山谷と釜ヶ崎は東西の最大の寄せ場で、日本が高度経済成長の時代へと驀進を開始する六〇年代に活況と矛盾を露呈させた坩堝だったわけですが、この坩堝 に、大学生という身分からドロップ・アウトして飛び込んだのが高石であり、岡林だったわけです。そしてそこから日本のフォーク・ソングは産声を挙げていた のだというルーツを発見することができます。

 ところで、私は昨年暮れに、『高田渡と父・豊の「生活の柄」』という本を社会評論社から出しました。実はこの高田渡も、岡林信康や高石友也と共にフォーク・ムーブメント草創期の旗手の一人で、「フォークの吟遊詩人」と称された伝説的なフォーク歌手です。
高田渡は、二〇〇五年四月十六日、ライブ・ツアー先の北海道釧路白糠町で倒れ亡くなりました。五十六歳だった。彼は類稀な詩精神と反時代的ともいえるよ うな反骨の生き方を飄々と貫いた人物なのですが、その独特な存在感や彼の目指した「生活の柄」が、どこに由来し、どのようにして形成されたのか。その源流 を辿ってみよう。そういう動機から私はこの本を書きました。
高田渡は岐阜県北方町の出身です。祖父が材木商で一代を築き、町の中でも五本の指に入る大きな家で、渡は生まれました。
父親の豊は青年時代、佐藤春夫門下の詩人でしたが、戦争が終わるまでは京都や東京でずっと編集者でした。戦後、郷里の北方で家族と共に暮らすようにな り、牛乳販売店や保育園の創設や共産党に入党して町長選に立候補して惜敗するなど、戦後の混乱期、様々なことを意欲的にやっていますが、詩人気質が抜けき れなかったのかどうか、何をやってもうまくいかなかった。
高田家が大きな転機を迎えるのは、一九五七年に豊の妻信子が死去したことから始まっています。豊はこの時五十二歳。男の子ばかりの四人兄弟の末っ子だっ た渡は八歳だった。妻が亡くなると、その数ヵ月後に豊は、大きな家を処分し、仕事がうまくいかなくなっていたことや、かなり借財もあったようでしたので、 その清算ということもあったようですが、四人の息子を引き連れて上京します。この子連れの上京は、妻を失った喪失感による発作的なものだったのではないか という見方もされています。というのも、何か目算があったわけでもなかったからです。豊は就職もせずに、僅か半年たらずのうちに四回も安アパートの引越し をくりかえし、遂に所持金を使い果たし、深川の収容施設に入居することになるからです。かつての編集仲間を頼れば、校正の仕事の口ぐらいはあったはずなの ですが、それもしなかった。
深川の施設は山谷のドヤと同じような部屋で、一人一畳当てのスペースだったが、夜行列車の二段ベットのように上下に区切られていて、隣室との壁もないし、普通に立って生活することもできない。そんな所だった。
この深川の収容施設に入居後、高田豊は、ニコヨンと呼ばれた、日雇い労働者として働き始めます。十八歳の長男は、家族を離れて浅草の牛乳店に住み込んで 働きながら、定時制高校に通い始めます。彼は岐阜県では名門受験校の県立岐阜高校に通っていたのですが、もはや自活の道を切り開くしかなかったからです。 次男は中卒後、町工場に勤めましたが、日雇い労働のほうが賃金が高いという理由で、工場をやめ、毎朝父親と一緒に高橋の職業斡旋所に出かけるようになっ た。三男は中学生、渡は小学五年生だった。
高田渡は、給食代が払えなくてよく貼り紙に書かれた。小学校の卒業式の予行演習のとき、国歌斉唱の練習で、渡一人が歌わないでいたら、先生から「どうし て歌わないのだ」ととがめられます。すると渡は「うちのお父さんが“君が代は日本の国歌だとは認められない。あれは艶歌だ、と言ってるので、僕は歌いませ ん”と答えたという。小学校六年生の時、一九六〇年六月十八日、渡は「おいデモに行こう」と、父親に誘われ、豊が属していた全日本自由労働組合(日雇い労 働者の全国組織)の大人達に混じって国会議事堂周辺のデモに参加し、「安保反対!岸を倒せ!」と、よくわからなかったけれど、シュプレヒコールを叫んでデ モ行進をしたという。ニコヨンの仕事を終え、帰宅すると、豊は渡を連れて近所の銭湯へ出かけ、湯から上ると、銭湯の並びの一杯飲み屋に立ち寄り酒を飲ん だ。渡は父親のとなりで鍋焼きうどんなどを食べた。そんな父と息子だったのです。
高田渡は、同世代の大半がけっして経験することのなかったような体験を、少年時代を過ごしたこの深川の生活で見聞したのです。そしてこの深川での暮らしが自分のその後の人生を生き抜いていくうえでの根っこになったと言っています。
高田家は上京して五年後に、ようやく深川暮らしを脱出し、武蔵野市三鷹の都営住宅に引っ越します。渡は中学を卒業すると、「赤旗」を印刷していた印刷会 社に就職し、植字工として働き始めます。そして彼が十八歳の時、厳しい肉体労働や深酒で身体を壊していた父親の豊が六十二歳で他界しています。
高田渡は、父の死後、家を出て新宿若松町に三畳一間の安アパートを借り、自活を始めます。印刷会社を辞め、業界紙の新聞配達をしながら、定時制高校へ通っています。そしてこの頃からギターを独習するようになり、フォーク仲間に加わって歌い始めるのです。
そして高田渡は十九歳の時、『自衛隊に入ろう』という自作の曲を歌ってフォーク・シンガーとしてデビューをしています。最早約半世紀前の歌ですから、ご存知ない人の方が多いでしょう。ちょっと聴いてみましょう。こんな詞の歌です。

 みなさんの中に
自衛隊に入りたい人はいませんか
ひとはたあげたい人はいませんか
自衛隊じゃ 人材をもとめてます
自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう
自衛隊に入れば この世は天国
男の中の男はみんな
自衛隊に入って 花と散る

この『自衛隊に入ろう』という歌は、高田渡が十八歳の時に作った曲です。つまり前述したように彼が新宿区若松町の谷底のような場所の安アパートに住み、 業界紙の配達の仕事に従事しながら夜間高校に通っていた時代に作り、歌い始めたものです。その頃、彼が暮らしていた谷底のような町からは、丘の上に聳え立 つは防衛庁の庁舎が見えました。この歌が作られ、歌われるようになって二年後、三島由紀夫が自衛隊員の決起を促す悲壮な演説をぶち割腹自殺事件を起こした 舞台です。けれども、当時の自衛隊は、三島由紀夫が憂国の士としてそんな事件を起こさなければならないほど存在が希薄だった。今のように海外派兵などでき る状況ではなかったし、「日本は中国へ侵略などしていない」といった勇ましい論文を発表する幹部もいなかった。日本中の大半が中産階級化したと言うこの時 代の青年達に「自衛隊に入りたい」という者はほとんどいませんでした。それゆえ町内会の掲示板や電柱などには「自衛隊員募集」のビラがよく貼り出されてい ました。高田渡は、その自衛隊員募集広告のコピーからヒントを得て、この歌の詞を作ったと言われます。ちなみに曲は、マルビナ・レイノルズの作詞・作曲し た『アンドラ』というアメリカのフォーク・ソングの原曲が活用されています。
高田渡は、アマチュア・フォーク・グループ「アゴラ」のメンバーに加わって歌い始め、添田唖蝉坊の演歌や自作の『自衛隊に入ろう』などを歌っているうち に、「へんな歌を歌っているヤツがいる」と口コミで評判になり、歌い手になっていますが、これは当時のフォーク歌手の典型的なパターンでした。そんなある 時、テレビ局から出演の依頼があり、婦人番組のコーナーで『自衛隊に入ろう』を歌ったところ、番組終了後、自衛隊から連絡が入り、「自衛隊のPRソングに 使用させてもらえまいか」という依頼を受けたといいます。だが、この話は、さてどうしたものかと考える暇もなく、すぐに先方から断わりの連絡が入ってお じゃんになった。のみならず、この歌は、間もなく放送禁止歌のブラックリストに入っています。これは有名な高田渡伝説のひとつとして語り継がれて来まし た。
言うまでもなく、高田渡は、この歌を「反戦歌」として作ったのです。それなのに先方の早トチリとはいえ、一度は自衛隊のPRソングにしたいと望まれた歌 でもあった。この歌の詞だけを読んだら、極めて諧謔精神の溢れた「反戦歌」であることがわかります。だが、いかにもアメリカの音楽、それも明るく軽快な マーチ風の旋律で「自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう」と歌われる、この歌には、もしかしたら自衛隊のPRソングなのかな、と思わず聴き違えてしまいそうな ノリの良さがあります。歌の面白いところ、怖いところ、なのかも知れません。おそらくそのあたりのミス・マッチ的な効果を高田渡は狙ったのだろうとおもい ます。
六〇年代末という時代は、日本社会が経済高度成長の基盤を成し遂げ、さらに上を目指そうと驀進した時代でしたけれど、一方、水俣病や四日市喘息など悲惨 な公害被害や炭鉱閉鎖・労働者解雇に伴う労働争議、各地の大学で次々に蜂起された大学紛争やベトナム反戦闘争など、様々な社会問題が噴出するといった戦後 日本の曲がり角の時代でもあった。そうした時代背景の中から、ポピュラー音楽の世界にも大きな変化が生まれ、「関西フォーク」とか「アングラ・フォーク」 と呼ばれる、それまでのカレッジ・フォークと一線を画したフォーク・ムーブメントが起っているのです。その旗手だったのが、高石友也や岡林信康で、彼らの 歌に代表されるその頃のアングラ・フォークはストレートに社会の問題点を歌で表現するプロテスト・ソングが主流だった。間もなく高田渡も彼らのムーブメン トに合流するのですが、彼は独自のスタンスと歌のスタイルを貫いた。どんなスタンスだったのか。彼は伝記にこう書いています。

僕の歌は、反権力という点で根っこは同じでも、主義主張を正面からぶつけるのではなく、遠回しに表現するタイプのものが多かった。あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだったのだ。

話題を呼んだ『自衛隊に入ろう』という歌は、まさにそういう方法論で作られたのであり、このスタンスはその後の高田渡の歌の基調となるものだった。しか し私は、十八歳の高田渡が『自衛隊に入ろう』という歌を作った動機について思いを馳せないわけにはいかなかった。彼は単に反戦歌を作ろうと思って、この歌 を作ったのだろうか。そんな単純な動機とは思えなかったからです。
そういう想念を抱いたのは、その数年後、高田渡が、連続射殺事件で死刑囚となった永山則夫が獄中で書いた詩のなかから『ミミズのうた』と『手紙を書こう』という二篇の詩を歌にしていることを知ったからです。「ミミズのうた」には、「目ない 足ない おまえはミミズ/暗たん人生に/何の為生きるの」という詩句がみとめられます。また、「手紙を書こう」には、「書いたら少しは/望みも湧いて/明日も恐がらなくとも/良いだろうに」…そんな詩句が記されています。二篇とも暗い、絶望的な詩です。永山則夫は、他の著書同様、これらの詩も獄中で書いています。つまり、永山は死刑囚の身になって文の才能が開花したのです。彼は、そのことを著書『無知の涙』で悔いていますが、手遅れだった。
永山の犯した連続殺人事件は一九六八年六月から十月にかけて起きたものですから、その前年に作られた『自衛隊に入ろう』の創作動機に直接結びついていた わけではありません。注目したかったのは、永山の生い立ちと境遇だった。青森の極貧の家庭に生まれ育った永山則夫の十九歳までの人生の歩みは、思春期から だけを追っても、中学卒業後の集団就職、転職の数々、二度にわたる海外密航の失敗、定時制高校への入学と退学、自衛隊に入隊志願し一次試験には合格したも のの保護観察中であることが発覚して不合格――といった惨憺たるもので、このあと永山則夫は横須賀の米軍ハウスに侵入し、留守宅から22口径拳銃と実弾 50発を盗み出します。そしてこのピストルと弾丸が、その後の連続殺人事件を起こす引き金となっているのです。
高田渡が、永山則夫に関心を抱き、彼が獄中で書いた詩を歌にしたのは、同年生まれの同じ歳だったことや、その境涯に共感するものがあったからでしょう。 端的にいえば、高田渡は、もし自分に歌への志がなかったら、自衛隊員になったとしてもなんの不思議はないという境遇を強く意識していたのです。このような 感情は、永山則夫が事件を引き起こす以前から、高田渡自身の心の奥底に滓のように澱んでわだかまっていたに相違なく、そんな屈折した思いが十八歳の高田渡 に『自衛隊に入ろう』という歌を作らせたのではないか。私は、そのような考察をしないわけにはいきませんでした。
高田渡が、からくも永山則夫のような人生を歩まずに済んだのは、彼には歌への志があったことと、たまたまと言うか幸運にも、彼の青春がフォーク・ムーブ メントの興隆期に出会えたという点も見逃せないでしょう。と言うのも、高田渡は、この時代に数多く出現したフォーク少年の一人で、業界紙の新聞配達をしな がら定時制高校に通う十八歳の時に、『自衛隊に入ろう』という曲を作って小さなフォーク集会で歌い始め、それが評判を呼ぶようになり、高石友也や岡林信康 が出演した京都で開かれたフォークキャンプに招かれて出演し、これがきっかけとなって高石事務所に入ることになり、定時制高校を中退して京都へ移り住み、 十九歳でフォーク歌手としてデビューを果たしているからです。
このフォーク・ムーブメントの旗手となる高石・岡林・高田のデビュー前夜の東奔西走ぶりには、幕末期の坂本竜馬や高杉晋作ら志士の行動を彷彿させるものがあり、そんなところも興味深いものがあります。
高田渡は、二〇〇五年四月十六日、ライブ・ツアー先の北海道の釧路で倒れ、五十六歳の生涯に幕を閉じたわけですが、生涯変らない生活態度を持ち続けた人 でした。たとえば住居なども、デビュー以来ずっと吉祥寺の安アパートに住み続けて来ています。八〇年代にフォーク・ソングが忘れ去られ、歌う場が殆んどな くなった時も、求められればどんなにギャラが安くても全国各地のライブハウスを巡業し続けたといいます。「一年間で日本を二周くらいした。二周しても年収 は普通の月給取り以下だった」そんな話を面白おかしく語っています。「僕は、死ぬまで歌い続けるのが歌い手だと思っている。歌わなくなった時が終りだ」と も、彼は言っていましたが、そのとおり、まさに「フォークの吟遊詩人」としてその生涯を全うしました。
そんな生き方を貫けたのは、普通の同世代の若者やミュージシャン仲間が体験できなかった、型破りな父親と共に深川の貧民窟で少年時代を過ごしたということが、彼のその後の精神を形成した原点にあったからではないかとおもわれます。
現代の日本社会は、日本の社会全体が「山谷化」してしまったのではないかという不安や危機感が深まっています。こんな時代だからこそ、「新しい文化の萌芽は辺境から生じたのだ」という一九六〇年代現象を今一度思い起こしてみる価値があるようにおもえます。

2010年4月3日

plan-B 定期上映会

「フォークの吟遊詩人高田渡と、詩人高田豊」 『高田渡と父・豊の「生活の柄」』(社会評論社)の著者・本間健彦さんをお迎えして。

沖縄上映会

特集『闘う労働者たちの記録 ’85→’08』
『山谷 やられたらやりかえせ』 『フツーの仕事がしたい』

■3/6(土)〜3/12(金)  13時ごろより、2作品を上映。(入れ替え制)
■2作通し券:一般2,200円 会1,800円
■会場 桜坂劇場ホールC
■住所:〒900-0013 沖縄県那覇市牧志3-6-10
電話番号:098-860-9555(劇場窓口)
桜坂劇場のホームページはこちら
「高度経済成長を終えた80年代、山谷にあふれた労働者とその搾取の構造を追い、二人の中心人物を惨殺されると言う、文字通り命をかけた映画作りの果てに生れた名作『山谷やられたらやりかえせ』。そして現代のトラック運転手の過酷な労働状況をフツーの目線で捕え、フツーがフツーに手に入らないものだという現実を提示し、海外の映画祭でも話題を呼んだ『フツーの仕事がしたい』。いづれも特定の職業を描いた作品ながら、現代の我々に繋がる物をもっており、単独で見ても見応えのある作品です。しかし、四半世紀近く離れた二つの時代のドキュメンタリーを並べ、類似点と相違点を見比べることで、我々自身の現在から未来を考えるヒントが見えてきます。(桜坂劇場 真喜屋力)」
初日には両作品の関係者も来場し、詳しくお話をお聞きするトークショーも開催。
<初日トークショー>
時間 15:00ごろ(『山谷』上映終了後)
ゲスト:映画『山谷』上映委員会より、中山幸雄氏
土屋トカチ監督(『フツーの仕事がしたい』監督)
※上記2作品を鑑賞どちらかを鑑賞、または2回券をお持ちのお客様はトークショーをご覧になれます。
※トークショーは『山谷』上映後、『フツーの仕事がしたい』の上映前の時間に行いますので、『山谷』の話題を中心に進行しつつ、『フツー?』の前フリをする形になる予定です。

ドキュメンタリーに監督・作家はいらない、勿論、編集だって不要だ ?!

井上修
(NDU日本ドキュメンタリストユニオン/『出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦』撮影・編集

NDU日本ドキュメンタリストユニオンとその時代

井上 初めまして、井上修と言います。1947年生まれですので、今年62才です。UNDと言っても、知っている人は? NDUの再結成以 前は、映画4本作りました。1974年まで約5年やってました。それで作品を4本作りました。当時のことをご存じの方はいらっしゃいますでしょうか。作品 を観た人とか。いない。その池内さん(司会)レヴェルの……おいくつでございますか?
司会 恥ずかしながら50を軽く越しています。
井上 50を越してる。ああ、だったらそうですよね。まだ、なんか炎が少しだけ残ってるという、そういう時代であったと思います。NDUと いう名前だけ知っている人は? もう皆さん何にも知らない。アッハッハッハッ。ほんとに。名前くらい聞いたことがあるとかっていう、そういう人もいない。 えー、わかりました。じゃあ、1967年当時の社会の状況とか、そこらへんのところから。ようするに、NDU、日本ドキュメンタリストユニオンという名前 で、映画の活動というかドキュメンタリーをとにかくやりたいという、そういう人間が早稲田で。何て言うか……学生運動っていうのも知らない。ええっ。全共 闘という名前も知らない。そういう時代の歴史を学習したことがある? ない。 アッハッハッハッ。では、当時の状況というのを実感的に何か文献で読んだこ とがあるとか、そういうのに興味があるとかっていう方なのかしら。それとも、そういうのには興味がなくて、ドキュメンタリー映画、ドキュメンタリー作品と いうものに対して興味があるのかしら。興味の指向が違うと話しても噛み合うところがなくて、私としては糠に釘というようなことになっても困るから。皆さん 何に興味がある? ドキュメンタリーに興味がある? それとも当時の40年前のような状況で、私達がドキュメンタリー映画を作りながら、社会と関わってき たというようなことに興味がある? そこらへんのところで話の筋道を一本まず付けましょう。何が聞きたい?
参加者A 後者。
井上 後者。40年前のこと。彼はそう言ってるけど。
参加者B 私もそうです。
井上 そう。あなたの場合には何でそういうところに興味がある?
参加者B そういう話、そういう本とかでたくさん見たり勉強したり会ったりしてきたんですけど、実感として……
井上 わからない。
参加者B つきつめればつきつめるほどわからない。
井上 あなたは?
参加者A 私は、その時代に実際作っていた人がどう思われていたのかなあと。その状況とかを知りたい。
井上 確かに、そういう意味では今と全然違う。まあ全共闘、我々自身が全共闘だって言ったわけじゃあなくて、それぞれ各大学で個別に東大な り日大なり早稲田なり明治なり、まあとにかく東京だけじゃなく全国各地で学生の運動があったんですよ。と同時に労働者の運動というのもあったんですよ。と にかく学生と労働者が一体化して連帯して運動を展開する、そういう活動を学生が基本的にやるのが仕事であったんですよ、当時は。勉強はその次にやってれば いい。それで簡単に言うとねえ、楽しかったんですよね。デモをやることが。運動をやることが。それこそ大学に立てこもって、そこで大学封鎖とか大学占拠と か授業ボイコットとか、教授を団体交渉、団交で吊し上げるとか。そういうようなことをやることが学生としてすごく楽しいことであったからやったんですよ。 連帯って言葉はあんまり使いたくないけれども、そういうことをみんなで一緒にやろうという気運は残念ながら今ないと私は思う。個別に楽しくやってるけど、 楽しそうにやってるけど、何て言うか実際に楽しくないと思うんですよ。何となく人の顔色を見ながら、私の一番最近嫌な言葉、そう風を読む。冗談じゃない よ、馬鹿野郎って。ようするに、その雰囲気に自分の考えを当てはめる、そういうのは当時はなかったです。とにかく大学に行っても討論すればいつも喧嘩にな る、時には殴り合いも辞さない。まあ当時の彼らはまともに教育を受けたっていうのは数少ないだろうとは思うけれども、それでも自分はこうしたい、自分はこ ういう話をあなたにしたいんだっていうようなことを、それぞれの人が持ってて。それで時には意見が合わなければ殴り合うのも辞さないというようなことを やっていたんじゃないか。だから、どうして今の学生を含めて若い人達がこういう腑抜けた、腑抜けたというのも変だけども、状況になっちゃったのっていうの がとにかく歯痒い。学生はねえ、若い人はね、何をやってもいい。社会の規範に添うような形で、意見を述べなくてもいいし、生きていなくてもいいわけなんで すよね。少なくとも学生レヴェルでは社会に責任があるわけじゃない分だけ、何をやってもいい。むしろ、そういう存在でなければいけないのじゃないかという のが、今の若い人達に対する私の大きな不満で、「馬鹿なんじゃない、この人達」って皆さんにもほんとに言いたいんですよね。でも「冗談じゃない、そういう ふうに言われる筋合いは我々は一つもねえ」って思う人がここにいたら、誰か言って下さい。私が「君達はみんな馬鹿だ」って言ったって、誰も私に反論をする 人はいないでしょ。いる? ああ言って下さい。
参加者C そんなに若くなくて今40なんですけど……
井上 駄目だよ、30代以下の人。
参加者C 今39、本当は。
井上 39、よーし。あなたよりも下の世代が、私みたいな年代の人から「腑抜け野郎、この野郎」って言われて反論するような、ようするに自 分の確固たるしたもの、確固たるした、確固たる、ハハハハ。最近ねえ、日本語があんまり喋れなくてねえ。歯が悪いから、歯が無いからねえ。すごく喋りにく いんです。すいません。
参加者C 全共闘の運動があった頃と、今の大学生とちょうど真ん中くらいの、僕は90年代初頭に大学生活を送ってたんですけど。その時も感 じてたし、全共闘世代の人が言うことを聞いてても感じる、よく若い者は元気がないと。それはよく言われてて、僕も下の世代を見るとそうなのかなと思った り、でもそう思う層っていうのはいつも一定いたと思うんですよ。全共闘世代の人も、例えばその上の戦争行ってた人から見みれば、元気がないって言われてた んじゃないかな。
井上 全然。我々NDUが最初に作った映画、題名『鬼っ子』っていうんですよ。わかります? 親に似ぬ子は鬼っ子だって言うんですよ。とに かく我々は前の世代を否定した、彼らよりもより良い社会を作っていこうという、そういう意欲でもって。それこそ我々の上の世代から向こう見ずと言われよう と、とにかくやりたいことはやるんだっていうふうにやってきました。
参加者C まあ私は当時の状況がよくわからないで、想像だけで喋ってるんですけど。

感動こそがドキュメンタリーの原点

井上 象徴的に言えば鬼っ子であった。若い人達は少なくとも鬼っ子であったんですよ、当時は。鬼っ子でいられることは名誉であったし、鬼っ 子にならなければいけないし。だから、そういう意味で言うと秋葉原のあの人、すごく私としては尊敬しちゃうんだよね、逆にね。あのくらい、ようするに人を 殺してまでね、自分のアイデンティティというか自分の存在意義を認めさせようと思うなんて、ある意味では、私はすごく共感したし感動しちゃう。
参加者C じゃあ連合赤軍も肯定ですか?
井上 もちろんです。ええ感動しちゃう。感動を求めない、というのはやっぱりおかしいと思うんですよね。どんなことであっても感動しなきゃ いけない。私に言わせれば、例えば今の『山谷』の映画みたいにね、虐げられた存在であったとしても、彼らが生きているってこと自体が感動的なことなんだ よ。そういう感覚が今の若い人達はないんだよ。ある? 生きていて、どこかで何かをしてね、誰かと会って話をしたりね、何かに出くわした時にね、感動する ことが皆さんないでしょう。こんなに感激的な状況がこの間あったんだよ、と誰かに伝えたいと思った人ここにいます? そういう人はドキュメンタリーが作れ る。それ以外の人はドキュメンタリーを作っちゃいけない。映画を作っちゃいけないとさえ私は思っています。映画では、そういう感動的なシーンをみんなに見 てもらいたい。私こんな感動的な場面にあったんだよ、それで私だけが体験するのはまずいから、みんなに見せてあげると思うのがドキュメンタリーを作る動機 なんですよ。ヴィデオだから簡単だけど、シャッターさえ押せば何でも出来るけれども、何にも出来ない。感動したことを多くの人に伝えたい。そこがとにかく スタート。この中に、私でもヴィデオ、映画、ドキュメンタリーを作ることが出来るだろうかと思っている人がいたら、まずそれぞれの人が、こういう感動的な 場面に出くわした、これは私だけのものにしとくわけにはいかない、というような状況に自分を置いて。どういう状況でもいいんだ、それは。日々いろんな人と 接する時に対局出来るようなね。時には喧嘩をして殴り合って、それこそ命からがら助かったとか。それでもいいしね。そういうような日常的にありえない、ほ とんどありえないようなことを再現する。そういうことであると私は、少なくともドキュメンタリー映画はそうだと思ってるんですよ。そうでなければ、ドキュ メンタリーはやっちゃいけないと思うし。もしここに映画を作りたいという人、ドキュメンタリーを作りたいという人がいるとしたら、少なくとも最低限スター トはそういうような感動を元にして欲しい。だから、皆さんが日々感動を感じられるような、そういう状況を作るように日々努力しなさい。例えば、警察と右翼 と出てくるシーンってありますよね。今でもあるんですよ、本当に。この中で、最近、デモに行ったことある人いないでしょう。いる? ああ駄目だよ、もう。 いる?
参加者D 1年前ですが。
井上 1年前。いいけど。だけど今のデモって、『山谷』のシーンに近くない、全然近くない。
参加者D ぶつかりましたよ、機動隊と。
井上 そう。でも、もう昔のデモに比べて……ようするに警察が取締を最大限に発揮して日本が安全だということをデモンストレーションするような、警察のデモなんだから。我々のデモは半分。
参加者D でも、それは新左翼の方々が武装を過激化させてどんどん孤立していったからじゃないですか、民衆から。デモに関して言えば。
井上 デモに関して言えば?
参加者D はい。
井上 うん。
参加者D (1967年の)10・8闘争(第一次羽田事件)でですか、あそこから角材が出てきたじゃないですか。そうやってどんどん民衆から離れていって、結局人数を集められなくなって、武装が激化したじゃないですか。それで離れていっちゃった。
井上 民衆と離れた原因というのはいろいろあって。
参加者D あると思いますよ。一般学生は出られなくなっちゃったじゃないですか。
井上 そこらへんはですねえ、当時学生の人達、労働者の人達が、何に対して一番反対していたかというと、アメリカのベトナム戦争でした。学 生も労働者も「インターナショナル」などという歌をうたいながら……わかるでしょう、インターナショナルな感覚。ようするに全世界ですよ。でも、当時の日 本の学生や労働者が、東アジアの台湾なり韓国なり朝鮮なり中国なりの人達に対して、少なくとも日本には在日という外国人がいるわけだから、インターナショ ナルを標榜するんならば、連帯の対象にしなきゃいけない。それをやらなかった、全共闘は。新左翼は。新左翼、今でもインターナショナル、連帯と言ってるけ れども、実際は運動としてインターナショナルな展開はたぶん一つもしてない。そういう意味で、正しい運動の指標というのをどこも見出せなかった。後から考 えたんだけど、日本人は新左翼であっても、やっぱり島国根性だったんだよね。それが運動が衰退した原因。もちろんそれ以外にも、高度成長でみんなお金が儲 かるようになったからさあ。それ以降バブル景気。山のようにお金が稼げたから。運動馬鹿くせーなんて思って、運動やらずに金儲けやったっていう側面もあ る。私もある。アッハッハッハ。だけど、当時の新左翼が民衆というか、人民というか、彼らから支持を得られなかったのは、運動の……
参加者D ラジカリズムが原因ではないと。
井上 間違っていたんだと私は思うんですよね。
参加者D もう一つ全共闘世代の人に聞きたいんですけど、全共闘運動っていうのは個人が圧殺されてることに対して、個人の力をもっと強くしようとか、個人として生きようというような運動ではないわけでしょう。

戦前の日本帝国主義に対するオトシマエをつける

井上 全共闘? 一言で言うのは非常に難しい。それより全共闘という形でやったけど、問題の一つずつはそれぞれの問題でありましたよ。東大 では、医学部の人達が最初に立ち上がったでしょ。早稲田は、学費学館闘争というのをやってました。それが運動のテーマでした、基本的には。だから個別的な それぞれの問題を抱えて、運動を展開してたわけであって。全共闘、新左翼というのはマスコミ用語かなっていう気もするんですよね。運動自体は個別という か、個別テーマ。個別であるのが運動の基本なんですよ。今は、そういう個別テーマの運動っていうのは……私の場合には靖国合祀反対運動なんですよ。靖国の 問題は、いろいろ考えれば戦前の日本の帝国主義支配のオトシマエをまだつけていないということなんですよ。東アジアの、韓国、台湾、中国、オキナワ。オキ ナワは私は日本とは別に考えたい。その四地域の人達を植民地支配した。そのオトシマエを彼らから突き付けられている。それを真摯に受けとめなければいけな いっていう運動を個別的には展開出来るかどうか。もうそれだけしか今ないのではないかという運動なんですよ。いずれにしても、1回デモに行った方がいいん じゃない、おもしろいから。本当に。
参加者E 若者が元気がないっていう話なんですけど、それについて思うんです。かつての全共闘世代、それよりもちょっと前でもいいと思うんですけど、その時には反体制の側に夢があったと思うんですね。
井上 でしょう。夢があったんだよ。楽しかったんだよ。
参加者E 夢というか、理論というか。つまりマルクスやレーニン、あるいは毛沢東、ああいうふうにやれば貧困とか差別とかっていう目の前に ある問題は解決されるんだと。やっぱり心ある若者は盛り上がると思うんですよ。でも、どうでしょう。レーニンとか毛沢東を信奉した人達が作った国は正直日 本よりいい国でしょうか?
井上 国単位で見るからねえ。中国は今、社会主義市場経済とかわけのわからないような社会を作ってるわけじゃないですか。悪い例をあげて、 社会主義なり共産主義、ようするにイデオロギー全体を否定するのは、私としては間違ってると思う。あのキューバ50年、今年50年だよ、革命が起きてか ら。それでなおかつベネズエラなんていう、そばにある国が社会主義が楽しい、楽しいかどうかわからないけど、やってみようかっていう地域だってあるわけ じゃない。だからね、中国とか北朝鮮とか、そういう悪い例だけを取り上げてイデオロギー全体を否定するというのは間違ってると思います。だって今、お金儲 けが楽しいというような新自由主義、そういう資本主義の当然の帰結でみんな仕事がなくなったり、貧困が問題となったりしてるけれど、そんなの当たり前のこ とでね。じゃあ、自由主義、新自由主義に未来がありますか?
参加者E いや。
井上 ないでしょう。
参加者E 現状に問題があるっていうのは、わかってるんですよ。ただ、どうしたらいいのかっていうのが、抽象的な議論ではなくて具体的な形として……
井上 そう、だから問題は個別的にやりましょうってことさ。
参加者E デモに参加したら、こういう良い社会になるっていう道筋が見えてればいいんですけども。
井上 だったら、例えば、戦前の日本の植民地支配、帝国主義支配に対して、そのオトシマエをまずつけなければいけない、というようなことを やってみましょうよ。そういうことなんだよ。個別なんだよ、問題は。ようするに全世界が一遍に、うまくいくなんてことはありえないんだよ。個別的な問題 を、そういうふうにとらえながら、それこそ連帯を求めるというようなやり方がスジだと思うんですよ。何でこんなことを私が気が付いたかというとね、台湾原 住民、このヴィデオの台湾原住民の人達は社会主義を信じるんですよ。良いか悪いかわかんない。諸々の弊害、障害、悪い所はあるにしても、その社会主義しか ないんですよ。今のところ。だから、うん、それはやっぱり信じなきゃいけない。これが常識だと私は思ってる。確信してる。

いろいろの問題が顕在化しないということ

参加者F 基本的なことを聞いていいですか。
井上 基本的なことはわかんないよ、私は。そういう学習をしたわけじゃあないから。
参加者F 全共闘世代についてなんですけど、大学生がそういうことをやってたのか、それとも学歴に関係なくいろんな人達が……
井上 ああ関係ない。全然関係なく。
参加者F 純粋にその世代の人達がやってたわけですか。あともうひとつ、学生運動の人達って卒業したらどうしちゃったんですか。
井上 方針が立たなくて、みんな散り散りバラバラになって。私達の世代はとにかく企業の歯車になって、お金を儲けちゃったよ。みんなお金 持ってるんだよ。定年間近の人達が、どうやってお金つかおうかって困ってるじゃない。今、沖縄に別荘というか第二の家を作るのが、定年の人達のあれでしょ う。そういう意味では、お金があるの、日本は。若い人達は、お金がない、仕事がない、困ってるって言うけどね、60才以上の人達はお金持ってるよ。私は別 だけどね。
参加者F 社会主義って分配するのが、お金みんなに分配するのが……
井上 分配するっていうか、例えばキューバなんか、すごくよくわかるんだけど、医療費タダ、学校タダ。そういうものはね、どんなに困ってもやらなきゃいけないの。
参加者G 今、キューバの話が出てきたんで。私、2年程前にキューバに行ってきて。私もそういう国民を、キューバ国民をちょっとみたくて、 いろいろ聞いてみたんですけども、みんな口をそろえて「共産主義は悪だ」って言うんですね。キューバの国民が。キューバが共産主義だからこんなに悪い国に なったって。アメリカに亡命する人も何人もいて。
井上 そういう人は当然いますよ。
参加者G はい。
井上 でもねえ、じゃあ、じゃあ、どうして体制が変わらないのよ? 革命が、反革命だよね。反革命がなぜ起こらないんだよ。
参加者D 北朝鮮でも起こっていませんよ。
井上 え?
参加者D 北朝鮮でも反革命は起こっていませんよ。さっき否定されていましたが。
井上 反革命?
参加者D はい。
井上 今一応体制としては社会主義でしょう。
参加者D 社会主義です。さっき否定されているようなことをおっしゃってましたが。
井上 さっき否定?
参加者D はい、何か北朝鮮は悪い社会主義だみたいな。
井上 言った? そんなこと。
場内 (笑い)
参加者D 言いましたよねえ。
井上 まあ確かに良いとは言えないけども。反革命が起きないのはさあ、今に起きますよ。
場内 (笑い)
参加者E それでさっきの話の続きなんですけど。だから若者が元気がないのは、若者の個人的な資質の問題ではなくて……
井上 もちろんですね。
参加者E 置かれた時代的状況の反映じゃないかと私は思うんです。例えば、先ほどの秋葉原の彼でも、もしちゃんとした夢とか理論とかがあっ て、そして現状についての、正しいという表現はいいかどうかわかんないですけど、合理的と言ってもおかしいかもしれないけど、何らかの方法で行動をすれば 社会はこう変わっていって、置かれた状況は変わるっていうものが彼の中にあれば、ああいう行為に走らなかったとは思うんです。
井上 そりゃそうだよ。
参加者E 私のまわりの若い人達も、私も含めてみんな元気ないです。私もデモなんか行ったことないです。みんな、世界を見ると日本が一番良 いんだって言うんですよ。この前、友人がイランに行ってきたんです。イランの治安なんてめちゃめちゃで、テヘランからペルセポリスに旅行に行けないんだそ うです。ボディガードを雇わないと行けない。日本が退屈でしかたがなくて行ったんだけど、中東の国を見てきて、いかに日本が平和かわかって帰ってきたって 言うんですね。世界を見ると、どうも日本が一番良さそうだと。だから、日本にある問題をどうやって解決したらいいのかわからない……
井上 問題はだからわからないってことさ。問題が顕在化しないってことさ。学校のシステムとかで、ようするに問題を、歴史を……。歴史の勉 強なんかみんなしてもらってないでしょう、学校で。そこなんだよ。そういうふうになったんだよ、日本の1970年以降の教育のシステムは。それにジャーナ リズムが輪をかけて、そういう歴史認識をなるべくなるべく、若い人達に持たせないようにしてきたんだもの。もう半分以上はジャーナリズムの責任、教育の責 任だよね。
参加者E 戦争に負けて、それで焼け野原になって、日本は言ってみればどうしようもない国になったわけですけども、ほんの60年くらい前 に。で、このどうしようもない国を、例えばアメリカのような豊かな国にしたい、例えばソ連のような国にしたい、いろんな考えの人が夢を持って、頑張ってた と思うんですよね。学生運動のような形、あるいは高度経済成長のような形でみんな頑張った。それは若々しい、素晴らしい時代だったと思うんです。でも、今 の日本はどうも当時とはちょっと違うような気がするんです。問題があるのはわかってるんです。不景気ですし。それをどうやったらいいのか、どこを目指して いけばいいのか。たぶん今、ソ連や中国や北朝鮮のようになりたいと思っている人はいないと思うんですね。これは右も左も関係なく。結局、みんな蛸壷の中に 入っちゃってると思うんですよね。

豊かさというのはやっぱり「搾取」の結果なんだ

井上 田中角栄とか、池田勇人。知らないでしょう、池田勇人の所得倍増論。皆さん、お金をたくさん儲けましょうっていうプロパガンダが今ま でずうっと続いてきましたよね。では、その成功の歴史、日本のお金の儲け方を考えてみようよ。確かに、日本人が勤勉でどうのこうの、それはあるでしょう。 でも、ちょっと客観的に考えれば、それは悪いことだったんだよ。どうしてか。お金って、ようするに何か悪いことをしなきゃ儲からないんだよ。 そう思わな い? そうなんだよ。我々がお金を持ってるのは、どういうことをしたからか。アジアから、アフリカから、それこそ世界のあらゆる所から、日本人が搾取し た、それ以外に考えられない。そう考えなきゃいけないと思う。我々がね、あなたがね、日本がね、豊かに見えるのはやっぱり搾取のたまものなんだよ。
参加者A 日本にお金が集まったから、発展途上国にインフラが整ったんじゃないですか?
井上 え?
参加者A 日本が発展途上国にインフラを……
井上 ないって言ってるんじゃないか。だって全然ない。整ってないよ、日本と比べりゃあ。
参加者A 日本と比べたらしょうがない。
井上 全然違うよ。
参加者A 先進国の1か所にお金が集まることで大資本が生まれて、ある一定の指向性を持ったインフラが整うんじゃないですか。
井上 途上国に? 何で。
参加者A 必要な施設ですもん、そこをお金儲けに使うからですけど。
井上 でしょう。
参加者A 結果的にはプラスに……
井上 結果的にじゃないよ。それは、ようするに日本が儲かるためにだよ。海外に投資してそれでまたお金を儲けようっていう、そういうサイクルを続けることなんだよ。
参加者A その過程で、その国の人達は生活が出来ます。
井上 でもねえ、じゃあお金はどっから来るの? 日本人の勤勉さ?
参加者A いや違います。
井上 やっぱり搾取なんだよ、それは。彼らに日本人の同じとは言わない、半分もいったか? いってないでしょう。いってしまったら日本が海外投資なんかする必要ないの。やっぱり搾取のたまものなんだよ。
参加者A だって搾取なんて人類の歴史を振り返ってみりゃあ……
井上 やっちゃいけないって、社会主義、共産主義は言ったんだよ。だから信じるに値するんだよ。
参加者A 衰退してるじゃないですか。
井上 え?
参加者A 共産主義は衰退してるじゃないですか。
井上 衰退してるなんて全然思わない。
場内 (笑い)
井上 何で? ああ、お金が儲からないことが衰退? それは間違ってるよ。そういう考えは。
参加者E まあ搾取と言ってしまえばそうなんですけど、聞きかじった話なんで専門家じゃないんですけど、資本主義っていうのは基本的に……
井上 私も専門じゃないから、その質問は本当は困るのよ。
場内 (笑い)
参加者E まあ私も詳しくは知らないですけど、資本主義っていうのは基本的には等価交換で成り立っている。で、等価交換っていうのを前提と して考えると、こっちが与えたものを向こうが受け取って、向こうが与えたものをこっちが受け取っていれば、相互的にうまくいくはずなんですけど、なぜか 我々は儲かるけど彼らは儲からないシステムになってる。ずうっと疑問で、経済学の先生に聞いてもなかなか納得いく答えがなかったんですけど。
井上 私もわかんない。いずれにせよ現実を見れば富が偏在してるわけでしょ。お金がある奴もない奴もいるわけでしょう。
参加者E で、よく考えたんですよ。等価交換を前提にして、何でこんなことが起こるんだろうと考えたら、今の私の中の結論はやっぱり壊してるっていうことなんですよ。第三世界の人達が。
井上 第三世界の人達が?
参加者E 内戦とか戦争で。先進国は、少なくとも日本は戦争をしないんで富が壊れないんですよ。会計用語で言うと火災損失とか戦災損失とか で、どんどん富が消えていくんですよ。でも、日本は戦争しないから富が蓄積されていくんです。どうも搾取の論理っていうのは、ここらへんにあるんじゃない か。つまり戦争をしてるから、いつまでたっても豊かになれないんじゃないか。この場合、内戦も含むんですけれど。
井上 アメリカなんかずっと戦争してたけど、ずっと豊かじゃない?
参加者E いや、だからアメリカは赤字で悩んでるわけですよね。
井上 最近までは儲かってたよね。それに1960年代から70年代にかけて戦争してても儲かってたじゃない。そこらへんはちょっとわかんないのよ、私。経済学者じゃないから。誰かわかる人に聞いて。
参加者E 憲法が我々の豊かさを守ってるというのが私の今の実感なんですね。
井上 憲法が?
参加者E 憲法9条が。ようするに戦争しないから富の蓄積が可能なんだろうと。
井上 まあそういうのも一理はあるでしょうね。
参加者E 等価交換を前提にして一方だけ富が蓄積されるっていうのは、やっぱり理屈としておかしいですよねえ。
参加者H 経済学の先生にお聞きになったって言いましたけれども、もう今はほとんど先生いなくなっちゃったんですけれども、マルクス主義経 済学っていうのがかつてありまして。それを認めない先生が今たくさんいらっしゃるんですよ。近代経済学と言ってね。それでその方達に「搾取」という言葉を 使ってものを聞いても相手にされない。
井上 アハハハハ。
参加者H それでつまり「剰余価値」を蓄積して、資本がどんどん大きくなっていくということを言ったのがマルクスの『資本論』なわけです よ。だから、そこのところは等価交換じゃないよ、そこから複雑な問題が生まれてくるよ、ということを言ったのがマルクス主義経済学の根底にあるわけです よ。等価交換を前提にって話になると、それは話が全然違うところにいっちゃう。
参加者I 最後に一つだけいいですか?
井上 はい、どうぞ。

テーマに確信があればお金は天から降ってくる

参加者I 政治的な問題じゃなくて、ドキュメンタリー映画の制作技法について。
井上 制作技法、ありません。
場内 (笑い)
参加者I わかります。ただ面白いこと、感動したことを人々に伝えたいから作るっておっしゃってたと思うんですけども。そうすると、もう既にそれは始まってることなんですよね。そこから切り取って、時空間を切り取ってドキュメンタリーは始まるわけですよね。
井上 うん、まあそうですよね。
参加者I そこからカメラをまわすんだけれども、予定調和で終わらないままで……
井上 予定調和で終わることはない。
参加者I つまり現場主義で、どういう方向にいくかわからないし、作ってみて初めてそれが自分が目指したものなのか?
井上 自分で目指したものなんかありません。
参加者I じゃあ、(74年までに)4本作品をNDUで作られてきたという話ですけれども、最初の面白いものが撮りたいっていうのは監督の、自身の、一人の考えで始めるわけですか?
井上 いや、最初10人くらいいたけれどね。これが面白いんじゃない、おー、それにのったって、そんな感じだよ。
参加者I 当時だと16ミリフィルムで結構しますけど、今だったらハイビジョン、HDDでいつでも誰でも出来るわけです。つまり制作会議なんか必要なく、感じる前からカメラをまわしていれば、誰でもドキュメンタリーが出来る時代なんですよ。
井上 もちろん出来ちゃう。でも逆に言えば、そういうテーマの現場に居合わせるっていうのは至難です。自分だけでは出来ません。
参加者I 今の連中は若い心を持ってないとか言うけれども、でも表現者として言うならば、実はみんなが、それぞれがドキュメンタリー映画の 監督だと思うんですよ。例えば、これから家まで帰る途中、自分を撮ったとしても今日一日の自分のドキュメンタリーじゃないですか。つまり今日ここでこう やって話し合ってみんなで考えた、それで家に持ち帰る。そこまででも一つのドキュメンタリーなんで。
井上 もちろんそうです。
参加者I もう少し積極的にドキュメンタリー映画を、気楽な感じで作れれば……それでこのような立派な先生から、ちょっと技術的なところも拝借して。
場内 (笑い)
参加者I 気楽に撮って。
井上 気楽にっていうかね、そういうものなんですよ。編集もいらないって言っちゃうけど、正しいんです。なぜか。例えば、家庭のお父ちゃん が自分の子供を撮ります。3時間撮ります。編集なんかしません。映ってるのはぜーんぶ感動的なんです。そういうもんなんだよ。感動的っていうのは。それは 人に見せるものじゃないけど、でもそれを見た親族はみんな、孫が映ってれば、子供が映ってれば感動するんだよ。嬉しいんだよ、楽しいんだよ。これなんだ。 これを社会的なテーマにすればいい、それだけなんだよ。
参加者I ドキュメンタリー宣言を今日はここでした。
井上 そう、そういうことなんだよ。逆に言えば、プロフェッショナルっていうのが必要ない。毎日、お金を稼ぐためにやるようなもんじゃない もの。そういう感動的なシーンは、いつ来るかわかんないんだからさ。職業にならない。だから職業にしないという覚悟でドキュメンタリーはやらなきゃいけな い。でも、面白いんだ。映画を一人でやっててもね、そこそこ海外へ行かなきゃいけない。私の場合、台湾に行かなきゃいけない。ちょっと来いって言われたら 行かなきゃいけないわけ。だけど、この『出草之歌』を作るまでに、私が自腹でお金を出したことはないの。このテーマはぜひ世の中に出なきゃいけないもの だ、と私は確信してた。そうするとね、お金が天から降って来るんだよ。
場内 (大笑い)
井上 本当に。このテーマ、こんな感動的なテーマは、私一人のものにしておくことは絶対ありえない。みんなに見せたい。こういう確信を持っ て、人を口説けばお金をその人がくれる。お金持ちだから。本当に。だから、そういうふうに思って、ドキュメンタリーを作る覚悟でいれば、素晴らしいものが 出来る。これが私の秘訣。大変よ。私は今だって撮影してんだから、皆さんのことを。わかるだろう? ねえ、わかってる? 撮影してんだ、私。さっきも言っ たように感動的なシーンは、いつ、どこで来るかわかんない。そのとき映像と音声が記録されていなければ、ドキュメンタリーを作るなんて言ったって話になら ない。私は今、沖縄の靖国訴訟を取材しているんだけれど、法廷内の撮影はどこでも禁止されている。でも私は法廷内で原告の人たちが証言するシーンを絶対に 記録に残さないといけない。言ってみればそれは、次の世代そしてその次の世代の人々に歴史の記録として残すというのがドキュメンタリストとしての私の役割 だと思っている。裁判所の規則だから撮影はまかりナラン、だから法廷内の映像や音声は残せない。そんなことは、それこそ歴史を正しく伝えていかないという ことに等しい行為であって絶対にあってはならない。どんなことをしてでも、映像と音声の記録を残すというのがドキュメンタリストの仕事だと思っている。私 が今この場を撮影しているということに皆さん気がつかない、それと同じように沖縄の裁判所の警備人にもまだ私が撮影していることがばれていない、だから撮 影できるんだ。私の考えるドキュメンタリーの基本のひとつは、言ってみればそういうような方法を毎回毎回考えて撮影を実行していく、ということなんですよ ね。これって、どう考えてもキャメラマンの仕事ですよね、絶対に監督や作家なんかじゃない。
司会 かなりの挑発から始まって、最後うまくドキュメンタリー風に終わった雰囲気になってきましたが、この会場を片付けなきゃいけません。 今、監督がお金が降って来るって言いましたが、その方法も含めて個人的には興味があります。隣の部屋に飲み物が用意してあります。終電まではまだ時間があ りますので、そこで時間のある方はお付き合い下さい。

 

2009年12月12日

plan-B 定期上映会

講演「ドキュメンタリーに監督・作家はいらない、勿論、編集だって不要だ?!」
井上 修(NDU/『出草之歌』撮影・編集)
「ドキュメンタリー」はなりよりもまず、素敵な対象に巡り会うことだ。多くの場合、彼らは過酷で困難な状況に置かれているだろう。しかし状況がどんなに困 難であっても、いやだからこそ彼らが果敢にそれに立ち向い、状況を切り開いていこうとする姿を、多くの人に知ってもらい、感動を持って欲しい。それが私に とっての「ドキュメンタリー」であると思っている。だから「ドキュメンタリー」に所謂「作家、監督、ディレクターなどなど」はいらない。必要なのは映像と 音声を的確に収録して、それらを順番に並べていく(これは断じて編集じゃない)ことができるスタッフだけだ。でも残念ながら、日本の「ドキュメンタリー」 の主流はどうやらそうではないらしい。たとえば、NDU日本ドキュメンタリストユニオンの最新作『出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦』では……おっと、この先のお楽しみ(?)は、会場で!

2009年6月6日

無期囚磯江洋一さん 山谷6・9決起30年 問われ続ける、山谷・監獄・貧困...」

2009年6月6日(土) 午後2時~

日暮里区民事務所ひろば館(301洋室) 東京都荒川区東日暮里6-17-6 (JR日暮里駅北口東側出口・日暮里中央通り沿い徒歩10分)
≪第1部≫午後2時~
『山谷─やられたらやりかえせ』DVD上映(1時間50分)
≪第2部≫午後4時30分~
発題:6・9闘争と寄せ場の闘い(松沢哲成)/磯江さんを支えて30年(丸山康男)/6・9以降の山谷の闘い(荒木剛)/無期囚の終身刑化について(山際永三)/獄中の処遇、医療について(永井迅)/「貧困」とはなにか(加名義英逸)/山谷からの報告(山谷労働者会館)他
磯江さんからのメッセージ
≪第3部≫
討論(全員)
資料費/1,000円
連絡先:090-1836-3430(「山谷」制作上映委員会)

働く権利から見たパレスチナ問題

田浪亜央江(大学非常勤講師)

どうも今晩は、田浪と申します。私は学生時代からパレスチナ問題に関わっていて、それで今日この場でお話をさせて頂くことになりました。「働く権利から 見たパレスチナ問題」というテーマを選んだのは、日本社会で過去何十年のことを考えても、これだけ働くこととか労働問題が語られるようになったことはない と思うからです。昨年のイスラエルによるガザ侵攻は、ちょうど年末でしたが、それ以前からガザは封鎖されていて、普通の暮らしが成り立っていない。日本で も「派遣村」ができたりとか、いろいろ福祉や行政の窓口が閉まった時期ということで、すごく厳しい時期と重なったこともあって、私の周辺でもガザのああい う状況と自分の状況を重ね合わせて話をする人も出てきたっていうのもあります。レジュメの最初のところで「日本雇用環境と、ガザ150万住民の『雇い止 め』」という言葉を書きましたけれど、これはこの間のイスラエルによるガザ侵攻の反対運動をやってるなかで誰かが言っていた言葉です。いまの日本社会の状 況と対比して、ガザの150万人があの狭い地区に押し込められていて、そこで彼らは仕事ができない状況にずうっといた。この攻撃が始まる前から、そういう 状況になっていたわけです。
いままで私は日本っていう、わりと経済的にも豊かで恵まれた立場にいる人間が、同じ立場であるかのようにパレスチナ問題とかパレスチナ難民のことを代弁し ているかのように話すのは、あんまり好きじゃなかったんです。でもいま、そういうふうに重ね合わせてみることがすごくリアルな問題で。それはわざと目線を 下げているとか、難民になったつもりになるとか、そういうこととは全然違って、現実問題としてもう一度いまの日本社会の問題とパレスチナの状況を重ね合わ せて考えることが切実なことだと思ったからです。
それから私の個人的な経験なんですけど、春で辞めたんですけども、この二年間契約職員として働いていたんです。そこで正規の職員との間で差別的な扱われ 方をしたっていう経験があります。私自身はアラビア語ができて、一応中東専門家みたいな立場で雇われたという、ちょっとプライドもあったんですけども、そ ういう自分の専門性を活かせるとか、自己実現とかといった、労働に託すちっぽけな思いっていうのが無惨に裏切られるような。夜中まで毎日残業しても残業代 が出ないとか。これだけ頑張ってやっても、契約なので三年経てばハイサヨウナラっていうことで、働く意味をすごく考える機会になったんですね。私自身の経 験ではないですが、職場の中で正規の職員と派遣労働者の立場が違うということで、階級っていうのか、やっぱり全然違うわけですよね。そういうありようを見 て、私自身もう一度イスラエルとパレスチナの問題を日本の環境の中で考えるきっかけとなったということがあります。
イスラエルの建国を支えたイデオロギーということでレジュメに入れたんですけれども「労働を通じて自立し他者と対等な関係をもつという理想」という言葉 があります。やっぱり働く時の倫理とか理想っていうものをもたないと、なかなか人間っていうのは働けないわけです。だけれど同時に、実際は労働のなかで他 者を支配するという現実があります。この言葉は一般的な労働のありようということで書いたので、個別にイスラエルの状況から考えると少し不正確かもしれな いですけれども。何でイスラエルの中でこういうことが起こっちゃったのかということを少し問題提起したいと思います。
イスラエルっていう国は――。まずヨーロッパの中で差別されてきたユダヤ人、特に農業、土地のなかで生きることはできなくて、金融業に代表されるような 特定の職業にしか就けなかったユダヤ人、まあユダヤ教徒ですけれども、彼らが働くことを通じて自分たちの社会を築いていく、自分たちの解放をかちとってい くと。ヨーロッパ社会の中で、「寄生虫」という表現が使われていましたけれども、そうではなくて、土地を獲得して働く、一生懸命土地を耕作することを通じ て自分たちの自立した社会をつくっていくという。簡単に言うと、そういうイデオロギーによってつくられた国なわけです。で、それ自体はすごく美しい理念で あったわけです。そもそもはパレスチナにいるパレスチナ人を排除したり追い出したり殺したりすることを目的にしていたわけじゃなくて、あくまで差別されて きたユダヤ人である彼ら自身が自ら働くことを通じて自分たちの社会をつくっていこうという、まあまっとうな一つの理想だったわけです。それがいまのような 状況を生みだしている場所になってしまっている。
それぞれの人間はそういう理想に燃えていたけれども、実際にはパレスチナ人の排除に繋がってしまった。それはもうしょうがない、人間それぞれの理念、理 想と、それから生みだされてしまった不幸な現実とのギャップ。というところで、問題がぼかされてしまっているというか。責任者も見えないし、そうやってし かたがないことだったという話になってしまうわけですよね。イスラエルの中で、こういう言い方は普通にあるわけです。ただ調べてみると、確かにユダヤ人の それぞれの労働者が主観的に理想に燃えていたことは事実だとしても、そもそもそうした理念そのものにちょっと嘘があったというか。
イスラエル建国以前に、パレスチナにはユダヤ人労働総同盟という労働者を組織する一種の組合みたいなものができるわけですけれども、そこでもうすでにヘ ブライ労働という方針ができています。最初は当然現地のパレスチナ人も雇い入れなきゃいけない。で、一緒に働いていくと、現地のパレスチナ人はユダヤ人よ りも安い給料でも働くわけです。長時間労働も厭わない。ユダヤ人は労働力として競争に負けてしまうからアラブ人ばかり雇われるようになる。そうすると、 せっかくパレスチナの地にユダヤ人が移民してきても何の意味もないわけで。それでアラブ人労働は排除して、ユダヤ人労働、ヘブライ労働という言い方で、ユ ダヤ人しか雇わない、アラブ人とユダヤ人の労働を分けるということがずっと進められたわけです。
建国の理念は社会主義シオニズムということで、社会主義と言われるとなんとなくいいイメージがあって。社会主義に基づく理念であったイスラエルの建国当 時の理想が、どうしていまのような社会をつくってしまったのか、みたいな言い方になりかねないんですけれども。そうじゃなくて、社会主義シオニズムの当初 からパレスチナ人の労働力は排除して、ユダヤ人だけが土地を持ち、生産手段を持ち、労働を支配する。そういう理念が最初からつくられていたわけです。
そうやってできたイスラエルですが、簡単に建国後の話をしますと――これはレジュメの右側に書いてある表をざっと見て頂きたいんですけれども。占領地と 書きましたが、ここではおもにガザの話です。ガザは最初エジプトの占領下にしばらくあったわけですが、UNRWAという国連の機関に雇われるパレスチナ人 はいました。あとはエジプト政府からパスポートを取って湾岸諸国とか海外に出稼ぎに行くパレスチナ人もいました。それが1967年にイスラエルがガザ地区 それから西岸地区を全部占領してしまう。それで建国の理念はユダヤ人労働、ヘブライ労働だったにも関わらず、ここで一気に政策を転換して、占領地のパレス チナ人をイスラエル国内に入れていくわけです。イスラエル国内だから、ユダヤ人よりは賃金が安いにしても、占領地にいるパレスチナ人からみるとすごく良い 条件です。そこでどんどんどんどんイスラエル国内にパレスチナ人労働が増えていって、特に建築労働に入っていくわけです。いまのイスラエルの基盤となって いる建物は全てパレスチナ人がつくったんだという自負がパレスチナ人にはあります。
労働者として受け入れるって言うとすごいきれいごとなんですが、それは労働者の労働力だけを搾取するというやり方です。例えば、イスラエル国内でパレス チナ人は宿泊することは認められないんですね。それでガザから毎朝早朝乗り合いタクシーでテルアビブなんかに行く。狭い地域なので3、40分でガザからテ ルアビブまで行けるわけです。そこで建築労働なりレストランの掃除夫だとかとして働いて、夜になるとまたガザに戻るという生活ですね。ところが、雇用者と してはそれだと効率が悪いというか、翌日必ず労働者が来るという保証もないということで、例えば当局には内緒でパレスチナ人の労働者を集めて一室に寝泊り させたりするんです。ですが、外に勝手に出られないように、外から鍵掛けちゃうわけです。そこで火事が起こって中にいた労働者が全部丸焼けになったとか、 そういう事件も起こっています。
そうやって占領地の人間を自分たちに都合のいい労働形態、雇い方の形態で働かせる。そこでは本来的な意味での労働とは違って、例えば技術を身につけて少 し違う仕事に就くとか、お金を貯めて自分で経営をするとか、そういった展望なんかも全然描けないような、本当にイスラエル経済に都合がいい形での仕事しか 与えられなかったわけです。これ自体すごく問題があったわけですが、ただいまから思うと、この時期はそういう形であれ、パレスチナ人達は働いてお金を得て ガザでの生活を多少は豊かにすることができたわけです。それがまたまた転換してしまいます。
それが現在までのありように繋がるわけです。1993年日本ではオスロ合意ということで、イスラエルとパレスチナが相互承認して、パレスチナ人の国家を つくっていくための話し合いのスタートということで平和が、中東和平が訪れたみたいな感じですごく宣伝されました。けれども、実はこの頃からイスラエルは 占領地を切り離していこうとする政策に変えていくわけですね。つまりイスラエルはパレスチナ人と対等なパートナーとなることをもともと希望していないの で、アメリカが仲介しているオスロ合意を受け入れたことにして、同時にパレスチナを対等なパートナーではなくて、むしろパートナーたりえない条件に陥れ る、そういう政策に出ます。いわゆる自爆テロを口実にしながら、占領地の封鎖をこの頃から始めるわけです。それと同じ年、オスロ合意のこの年からパレスチ ナ人労働者ではなくて外国人労働者の受け入れを始めるようになります。中国人とかフィリピン人、それからルーマニアなんかの東欧の人たちがイスラエルの中 に入って来て、これまでパレスチナ人がやっていた労働に変わっていくわけです。
それからあと労働者の問題だけじゃなくて、例えば、イスラエル国内にも少数ですけどパレスチナ人が住んでいますが、彼らが占領地のパレスチナ人と結婚す ると、占領地に住んでいたほうの人はイスラエルに住むことができたんですね、結婚後は。それが認められなくなります。つまり占領地の人間とイスラエル国内 に住む人間が結婚するのは勝手だけれども、占領地出身の相手方がイスラエル国内に住む許可は全然下りない。結果的に海外で暮らすとか、そういう状態になっ てしまう。ほとんど結婚そのものができないような状況になっています。
イスラエルがいままではずうっと使ってきた労働力の市場だった占領地を、一方的に切り捨てていく。それが行き着いた先が2005年にガザから撤退したと いうことです。これはもちろん他のいろんな側面があるわけですけれども、労働力という問題からすると本当にもう占領地は必要ない。完全にそうした底辺の労 働とかは外国人労働者に依存するという形になってしまって。占領地がそういう形では必要がなくなったので、まさに棄民政策ですよね。ガザの出入りをイスラ エルが管理するという占領自体は変わらないのに、一方的に撤退だけするわけです。占領地がこういうイスラエルの経済のありように、もうずうっと左右されて きたことがわかると思います。
イスラエルは、いまでは外国人労働者もこれ以上は入れない政策に出ています。あまりにも外国人労働者が増えてきたということに対する、イスラエル国内の もともとの排外主義ですね。治安の悪化とを理由に国内で反対する人間もどんどん出てきたので、いまはもう一度イスラエル人による労働、いままで外国人が やっていたこともまたイスラエル人にとって代わらせるという方向に政策転換しています。
レジュメにグラフを載せていますが、これはサラ・ロイさんという、このあいだ来日したユダヤ人の研究者が作成したグラフです。アメリカのユダヤ人です が、ガザの状況についていろいろ研究をしてきている方で、イスラエルの占領政策に強く反対している立場の人です。ガザっていうのはもともとレモンとかオレ ンジなど柑橘類がたくさん獲れていた豊かな土地だったんです。それが占領後、生産高がどういうふうに変わったかという例なんです。イスラエルがガザを占領 する前は、開発が低い状態、低開発だったけれども、かろうじて少しずつ経済が発展していた。ところが、イスラエルが占領して以降はもう開発そのものが全然 ありえない状況、De-developmentになってしまった。サラさんはそういうことを、彼女がまとめたガザ経済の本の中でいろいろ分析して示してい ます。普通の状態だったら生産高も上がっていくのに、それがこういう状態になっているということを示しています。
イスラエルの占領政策で、いろいろ細かい軍法があるんですけれども、例えば占領地で新しい建物を建てることも禁止なんですね。禁止というか、イスラエル 当局の、軍政府の許可を得ないと駄目っていうことで、実際には許可なんて何年も出ない。だから人口は増えていくのに、社会全体が発展しようがない状況に なっちゃう。レモンの例だと新しいレモンの木を植えることが禁止になっている。もともと占領以前からあった木からは収穫できますが、しばらく経つと古く なって実がならなくなるわけですよね。それを伐採して新しい木を植えることが軍法によって禁止されているわけです。でも、そういう状況にも関わらず税金は 取られて、それもイスラエル国内と同じ税率なんです。ユダヤ人社会の農民は政府からたくさん援助を受けて、生産高もすごく高いわけです。それと同じ、その 生産高に基づいた税率が、占領地で生産コストをカバーできないくらいの生産高しか得られない農業をやっている人にも課せられている。そういうことを彼女は 本のなかで指摘しています。
いままでパレスチナの難民というと、パレスチナの地に戻りたいと願っている難民たちの感情に思いを寄せるということ、彼らの帰還権を訴えていくことが中 心とは言えないにしても、結構ポイントだったと思うんです。そうなんだけれども、それだけだと彼らの存在を逆に抽象化しちゃって、私達にはまあ関係がない 難民の人たちっていう括り方ですませてきちゃった感じがしていて。帰る展望がないなかで、彼らは日々生活していかなきゃいけないわけで、そこではやっぱり 労働、働いて日々生活していくという環境が必要なわけですよね。そうした働くことがそもそもすごく困難であるという状況をもう少し具体的に見ていくこと で、パレスチナ人、パレスチナ問題ともっと繋がる手立てがこの日本の今の状況の中で見えてくるんではないかなと感じています。
あんまり長く話すなという圧力を感じますので、なるべく早めに終わらせようと思いました。とりあえずここまでにしておきます。

司会 そんなプレッシャーはかけてないんですけどね。では、まあ討論というか、質問や考えがある方がいましたどうぞ。
 根本的なことなんですけど、ユダヤ人とイスラエル人は違いますよね。いまの話だとイスラエルの人達とそれから占領地の人達、パレスチナ人の話でしたよね。さっきおっしゃったように、イスラエルの中にもパレスチナ人はいて、彼らはイスラエル人なんですか。
田浪 国籍から言えばイスラエル人です。イスラエル国籍をもっていますね。
 イスラエル人の中にもいろんなところから来た人がいるから、例えばある時期から旧ソ連邦から逃れてイスラエルに来て、その人達は普通の イスラエル人よりも下にみられるという話を聞いたことがあるんですよ。そういうイスラエル人っていうのはすごく下層なわけですよね。僕はよく知らないんだ けど、法制度で基本的人権とかありますよね。こういった場合、イスラエル人一般にあてはまるような労働権などの権利はあるんですか。現実的なカテゴリーの 中で具体的に処遇の違いがあるんだったら、どのように違うのかを聞いてみたいんです。そうするとイスラエルの中の処遇の違いと、それといま話されたガザの パレスチナ人の違いと、もっとくっきりすると思うんですよね。その辺をちょっと補足してほしいんですけど。
田浪 イスラエル国内にもパレスチナ人が住んでいます。それで彼らと一般の、他のユダヤ人との待遇の違いがあるのかということですけれど。 イスラエルの中にいるパレスチナ人は一応イスラエル国籍を取っているわけですね。そういうことで言うと、同じイスラエル人なので、イスラエル国内の法律が 適応されていて、労働条件だとか最低賃金だとか、そういうものは当然イスラエル国民として同じ法律の下で守られているというのが建前にはなっています。た だ実際には、そういう法律ではカバーしきれないいろんな状況があって、やっぱり職場の中でもアラブ人差別はすごくあるんですね。そもそも一般のユダヤ人の 会社にはアラブ人はなかなか雇われません。アラブ人はどうしてもアラブ人の経営している小さな職場とか、自営業とか、あとアラブ人の町村の小学校、中学校 の先生だとか、そういう仕事を選ばざるをえなくなってるんですね。
それと法律的には平等ということになっていますが、アラブ人は兵役につきません。ユダヤ人の中にも少数だけれども兵役拒否する人もいますが。そうすると 仕事募集の新聞広告なんかを見ると、何歳以上とか大学の専攻とか、条件が書いてあるところに必ず「兵役済」っていう条件が書いてあるんですね。兵役を終え てない人は雇わないぞと。もちろん、ユダヤ人の雇用主はそれをアラブ人差別だって絶対言いません。兵役を経験することは、そこで基本的な生活のスタイル、 朝早く起きて体を整えて仕事に出るという、基本的な労働者としての生活スタイルや意識、国民としての自覚みたいなものを二年間叩き込まれるわけですね。 で、兵役を終えてないってことは社会人としてのそういうまともな経験などを備えてない、労働者として駄目な人間だから雇わないんだと。そうして、結果的に それがアラブ人を排除する形になっています。
それから国家のセキュリティーに関わるような高度な科学技術なんかは、アラブ人は大学で専攻できないようになってるんですね。法律があるわけじゃないん ですけど、実際にアラブ人は成績が上でも、そういった専攻では大学に入学できません、面接なんかもあったりして。そうすると当然そういう部門の仕事には就 けないわけですね。だからイスラエル国内のアラブ人がいくら頑張っても、例えば宇宙開発だとか、イスラエルはそういう科学技術がすごく盛んですけれども、 そういう方面の仕事には就けない。そこでイスラエル国内のアラブ人、特に優秀な人なんかは自分たちがいくら頑張っても就きたい仕事に就けないんだっていう 不満をよく言っています。
それと、占領地のパレスチナ人についてはイスラエル人ではないのでイスラエル国内の法律が全然カバーされていないわけですね。だからイスラエル人だったら守られる最低賃金だとか保障とか、そういうのから排除されています。
B 占領地の中で軍法とかでがんじがらめの状態の中で、政治的なことで解決する方法ももちろんあると思うんですけれども、それ以外、例えば 隙間産業ではないんですけれども、何か産業みたいなものは出てきてないんですか。とりあえず、いま食べていかなきゃいけないという時に、新しい抜け道では ないですが、食っていける産業みたいなものが出てきたりはしないんですか。
田浪 まさにそういう発想で、オスロ合意以降進んできたと思うんですよ。オスロ合意で一応イスラエルとパレスチナが両方とも和平へのスター トラインに立ったということで、海外の投資がたくさん入りました。占領地の中で自立できるような産業を育成しようという方向ができたわけです。でも、逆に そうした方向がますますパレスチナ人が自立できない状況を作っているんですね。というのは、占領自体終わってないわけです。そこで海外から投資がきて、占 領は終わってないけれども、とりあえずパレスチナ人が生活できるように何か産業を興そうという。日本政府も、ヨルダン川西岸地区のヨルダン渓谷という場所 で農業団地をつくって、そこでパレスチナ人がつくった生産物を湾岸の方に輸出するという事業を打ち出しているわけですけれども。それは占領の状況を全然変 えないで、占領状況の中でとりあえず食べていく、実際にはそれだけでは食べていけないわけですが、ともかく占領状況を変えないまま、とりあえず産業をつく るという。
イスラエルもその路線を支持しているわけです。占領を固定化したまま、とりあえず海外の資本が投下され、そういうことをやってくれる。パレスチナ人の労 働者を雇って、パレスチナ人の不満を少なくしてくれるなら、それはイスラエルにとっては願ったりかなったりの話で。そうした状況は、レジュメにも「現状認 知の力学」と書きましたが、むしろ占領のノーマライゼイション、固定化に繋がっていると思います。
ガザという所は本当にこう狭くて、川もないし、周辺から孤立した状況で、あの場所だけで発展するってことはありえないわけです。だから普通の社会ではあ りえないような不自然な形で、例えばUNRWAが一度やろうとしたのは電話交換手、いまそこに住んでる人じゃなくても遠い海外でも英語が話せる人が電話 取って電話交換、そういうことはできますよね。日本でも、いま電話交換手を海外でやらせようかという話が出てると思うんですけれども。それで、ガザの人を 雇おうというような話が出たりしてました。でも、とりあえずの雇用は確保しても、とりあえず日当を貰えるとしても、それはガザの社会を本当の意味で発展さ せることには全然繋がらないわけですよ。占領が終わらない限り、とりあえず食いつなぐだけのこういう仕事しかないわけですね。それでは社会の発展はありえ ません。
司会 ガザの状況、西岸もそうでしょうけれど、特にガザの現状はどうなんでしょうか。僕らも通信とかテレビくらいでしか状況は知りえないの ですけれども。逃げられない状態で相当ひどい爆撃を受けるという。田浪さんもいろいろガザと通信をされていると思うんですけれども、具体的にどういうふう にガザの人々の声をお聞きになってきたのでしょうか。
田浪 うーん、私自身はこのかんガザに入ってないんで、ガザの現状はこうですというというような報告は、ちょっとできないんです。最後に私 がガザに行ったのは2001年だったんですが、そこで付き合いのあった人たちは電話ももってないし通信手段もないので、連絡も取れない状況になってしまっ ているんです。
ガザの状況を話してください、それからひどい状況だけれども何か打開策はあるのか、何か希望の見える話をしてくださいってよく言われるんです。ただ希望 と言っても、私たちの気休めのためにそういう話をすることにしかならないと思うんです。ガザだけでなく、いまガザが一番ひどい状況にありますけれども、あ れはパレスチナ占領地全体の先行例に過ぎないと思います。イスラエルは本当にもうパレスチナ全体をなくしていく方向に動いてるとしか考えられないわけで す。口に出すのもすごく嫌なんですけれども、パレスチナが消滅に向かっているとしか言いようがないです。
それでは、じゃあ私たちに何ができるかということですが、パレスチナの状況を気に病んでいるだけよりは、イスラエルそのもの、イスラエルの占領政策をと にかく変えていく。いまや私たちはパレスチナの人たちに抵抗や闘うことを求めたる立場にないわけです。私たちの責任として、いまのイスラエルの政策を何と か変えていくように働きかけること、それが外部の人間にできることではないのか、と思っています。宣伝みたいになっちゃうんですけども、チラシをここで 配っていいですか。5月の31日にちょっとしたイベントをやるので、もし関心があったら参加して頂けたらいいなと思います。もちろんパレスチナに心を寄せ るとかパレスチナの人たちと連帯するとか、そういうことはすごく大切だと思うんですが、それだけだと何かこう……。日本政府がそもそもイスラエルのやって ることを黙認してるわけですね。許可を与えているわけですね。そういう国に住んでる私たちの責任っていうのもあるわけです。占領地のことを心配するより も、まず私たちがいまやれるのは、イスラエルの政策を変えていくために何ができるかを考えることではないかと思っています。
司会 5月31日日曜日の13時から18時30分までYMCAで……。
田浪 お茶の水と水道橋のあいだにある在日韓国YMCAという所でやります。日本の中でずっとパレスチナと関わる団体とか運動って結構ある わけです。でも、同じことの繰り返しになりますけれども、パレスチナ人と連帯するぞっていうところで、なんか終わっちゃってるんですね。そういう気持ちは すごく大切だと思うし、私自身もそれは否定しないんだけれども、私たちの日本社会全体は、どっちかっていうとイスラエルの側に立った社会なわけですよね。 だからこそ、なんとかイスラエルの政策を変えていく、それからそういうふうに日本政府に働きかけるようなことをやっていくのがすごく必要だと思っていま す。
[2009年5月9日、プランB]

2009年5月9日

plan-B 定期上映会

講演 働く権利から見たパレスチナ問題
講師 田浪亜央江(大学非常勤講師)

難民であることによって居住国での職 業選択が制限され、働く場を求めて国境を超えることもままならないパレスチナ人。イスラエルで日雇いとして差別的に使われた揚句に労働市場から締め出さ れ、今や被占領地のなかで就ける仕事などほとんどないパレスチナ人。イスラエル国内で市民権をもつパレスチナ人がまずぶつかる壁も、彼らの働ける場がユダ ヤ人に比べて極めて限られていることだ。ユダヤ人が働き自立する場として作られた国家は、労働においてこそ非ユダヤ人を差別し、分断する社会となった。労 働を通じて自立し他者と対等な関係をもつという理想と、労働のなかで他者と支配/被支配関係が作られ、自らの人間性を失っていく現実。日本社会の中から、 今こそパレスチナ問題がより切実に見え始めている。

2009年2月4日・5日

国際基督教大学( ICU )上映会(4回上映)【日時/会場】

2月4日(水)・5日(木)
両日とも 午後1時~(大学本館367号教室)/午後7時~(ハーバーホール:ICU教会幼児園)
~午後3時頃より話+ディスカッションあり~
(話:4日=池内文平〔上映委〕/5日=濱村篤〔上映委・日本寄せ場学会〕)
【料金】
一般 1,000円/学生 500円
【問い合わせ】
0422-33-3323(国際基督教大学・宗務部)
(三鷹市大沢3-10-2)

都市のこわれかた-②68-08/新宿

「68年の神話」から遠く離れて――1960~80年代新宿の顕微鏡的階級地図

平井玄(音楽批評)

(レジュメ)
・ひび割れた「若者文化と世界革命の物語」のアスファルトを引き剥がすと
そこには、この街にへばりついて生きる人たちの砂漠が広がっていた。

・密林の戦争を体験し、反戦運動に加わった開高健は、「ベトナムで起きて
いるのは本当に人間の〈解放〉なのか?」と呟いて、高揚の最中の68年、
「ベトナムに平和を!市民連合」から静かに離れる。
『日本三文オペラ』で大阪の在日たちの地を這う抗いを描いた彼は、
「自由のため」と「民族解放」の名の下で国家と国家の間ですり潰される
南ベトナムの人々の姿を見ていた。

・だが作家は、「しょせん国家間戦争」と言いたかった訳ではない。
単線的な「発展」のヴィジョンに抵抗できない「社会主義」の下で、
より低い賃金を求めて中国から彼の地へ日本企業が急ぎ足で生産拠点を
移している今、開高のこの問いが鈍い光を放って浮かび上がる。
初期の南ベトナム解放民族戦線が「南」の雑踏に生きる実に雑多な人々に
荷われているのを、作家の眼は見る。そうした人々をあの闘いはいったい
どのように「解放」したというのか?

・68年の新宿で、16歳の新左翼活動家になる以前、2丁目の路地裏にある
洗濯屋の頼りない長男として生きていた「自分」とは誰なのか?

・「騒乱群衆にして地元民」という、なんとも奇妙な二重存在。
地場に生きる零細な自営業者の息子にとって「68年」とは何だったのか?
滅びゆく「旧中間階級」か、多少の家産にまどろむ小ブルジョワなのか?
解放されるべき「主体」たちは、どこか別の所にいたというのだろうか?
小さな家族労働の場に「後ろ髪」を引かれ続けた「自分」とは誰なのか?

・60年代後半に始まる都心の小自営業衰退とは、新自由主義による
シャッター街化の最初の兆候だった。
「自分探し」ではなく、フリーターとして生きる無数の「自分」たちの
現在に向けて「68年」を大きく切り開くために、こうした問いが現れる。

・支配文化になったサブカルチュア(小林よしのり、「嫌韓流」)と
最後のページが閉じられた新左翼運動史の語りから、
「68年」を解放すべき時が来ている。

・2本の映画と2つの小説を交差させる。
網走→五所川原   『初恋』小説・映画
永山則夫     中原みすず
↓        ↓
『無知の涙』→ 【1968年新宿】 ←佐藤満夫←新潟
小説『木橋』     ↑        ↓
2丁目の洗濯屋 →映画『山谷 やられたらやりかえせ』

山岡強一 山谷←北海道

・「3億円事件」を新宿のカオスから描いた『初恋』の主人公は、映画では
女子校の生徒とされる。しかし、校門から街への近さやジャズ喫茶の人々
が醸す雰囲気が、私に新宿高校の旧「同志たち」を直感させた。

・高級官僚や大学教授、文芸・思想誌の編集者、そして共産党幹部の家で
育った仲間たちの横顔に「余計者」めいた影が差す。伯父にもらわれた
私生児の語る小説は、パリに亡命した19世紀のロシア知識人たちが抱く
「余計者」の憂愁を描いたツルゲーネフの『初恋』を意識していただろう。
ジャズ喫茶こそ彼らの「亡命地」である。だが、私だけが極端に違っていた。
「亡命地」は地元であり、私は「余計者」ではなく「労働力」だったのである。

・洗濯屋の労働構造60年代から70年代への激変

【60年代の三層構造】
主人の家族  (私@新宿二丁目)
通いの職人
住み込み店員 (永山則夫@川崎の洗濯屋)

【70年代のプロレタリア化】
機械・資材産業→経営者家族全員の家内労働者化

・『初恋』の主人公たちは、「亡命地」から東芝・府中工場の現金輸送車を襲う。
永山則夫は「寄港地」としての新宿から、4連続「誤射」事件へ突き進む。
私自身は、家族労働の場としての2丁目の路地裏から全共闘へ向かう。
――いずれも新宿騒乱の近傍にいたが、中心にはいなかった。

・寄せ場は残酷な「本源的蓄積」の場所だった。
80年代の山谷への大きな迂回こそが、新宿二丁目の「自営労働者」として
の自分自身の姿を見出す道へと誘う。

・今起きていることは「100年に一度の大恐慌」ではない。
「終わりなき本源的蓄積」が中心部に回帰した姿である。
資本主義はリセットと再起動を何度でも繰り返す。
そして自営業の衰退とは、新たなエンクロージャー(囲い込み)の一環である
(ベルクの追い出し、下北沢の再開発)。

・80年代の民活法から、90年代の規制緩和―新自由主義、そして「再階級化」へ。
そして今、フリー・カメラマン労組の出現――自営労働者(フリーター)の運動へ
「素人の乱」が高円寺で店舗を始める――自助システムの模索へ

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平井と言います。よろしくお願いします。レジュメを用意してきました。これを話すとたぶん2時間くらいになるんで、後でゆっくり読んでいただくとして、僕にとって大切な記憶が刻まれたこのplanB地下の壁からにじみ出るような話ができればと思います。

■……アスファルトを引き剥がす……■

いわゆる「68年」、1968年に世界中で若い人たちだけでなく、そして日本とかフランスとかの資本主義の発達した国だけでもなく、様々な場所で連続的 に色々な行動が起きて社会を変えようという運動があったことは、皆さんご存じだと思います。それから40年ということで映画もできれば本も出る。ヨーロッ パではシンポジウムが行われ、写真集みたいなものまで出ているようです。そういう中で、僕はこの時代についてちょっと特異なこだわり方をしてきたもので、 今日話せということになったと思います。この映画の上映運動が始まった頃、僕も微力ながら参加しました。このことが「68年以降」の僕の生き方に大きく影 を落とす。だから、そのことに関わって今日の話をしていきたいと思います。
今日ここに来る前に渋谷の勤労福祉会館で「フリーター全般労組」という非正規労働者たちの組合を中心とした集会がありました。シンポジウムを1時くらい からほとんど1日中やってるんですけども、その会を中座してこちらに来たということです。明日渋谷でデモがあります。麻生首相の家に向けて、松濤にある東 急Bunkamuraの奥の方に、なんかでっかい屋敷があるらしいですけれど、そこに向けてデモするようです。渋谷でつい1ヵ月前にそこに向かう歩道を歩 いていただけで若い人が3人捕まってしまいまして、それでリターンマッチみたいな感じでデモをする。今日はその前日の集会ということで行ってきました。
今ここに持ってきたチラシは、そこで配られていたものです。東京の品川駅前に「京品ホテル」っていう古いホテルがあるんですが、その経営者が60何億円 という負債をかかえこんでホテルをむりやり潰そうとしている、その策謀に抗議する組合のものです。リーマンブラザースという、ついこの間破綻したアメリカ の金融資本の系列会社に負債を払ってもらうために、再開発が進む一等地のホテルを廃業することを条件に5億9000万という金をもらう。そういう形で明治 時代から続いた3代目の社長が採算の取れているホテルを潰し、従業員を全部放り出してしまうというひどい話です。それに対して労働者たちがホテルを占拠し て、自分たちで営業している状態なんですね。使われている人間たちが働いている職場を占拠して、なんとか自分たちで食っていこうという運動で、僕には勇気 づけられる話が渋谷でありました。
もう一つ、フリーター全般労組でがんばっている人から聞いたことですが、これからフリーのカメラマンたちによる労働組合ができるそうです。フリーのカメ ラマンってどういう立場かというと、機材や材料費、交通費は全部自分持ちで、新聞や雑誌、テレビとかの取材企画ごとに一時的に雇われて映像を撮る仕事で す。だから自営業者なんですね、商法や税法上では。年度末の確定申告用書類では「自営業者」のところに丸を付けるという人たちなんです。まあ僕みたいな校 正のフリーターっていうのもそうなんですが、自営業者は古典的な言い方で「労働者か資本家か」といったら、かつては小さな資本家だとされてきた。つまり 「生産手段」を持っているから。ところが今や個人の小規模自営業って、どんどん技術進化が進むITの機材や設備を自前で借金して揃えなければ、まったく仕 事にならない。カメラとかパソコンとかソフトですね。だからクライアントだけでなくIT産業にも、なんの保証もなく時給いくらでこき使われるようなもんで す。こういう形があらゆる分野に広がったわけです。
今日どうしても話をしたいのは、1968年の運動、特に当時の新宿の街で起きたことの話になると……そこのレジュメに「若者文化と世界革命の物語」と書 きましたが、誰でも決まり文句のように言い出すことへの違和感です。今ここに、いらっしゃる皆さんの顔を見ているとたぶん20代から30代の方だと思うん ですけれども、当時は昼間から学生たちが溜まっている喫茶店で「世界革命」なんてことが会話に出てきちゃうような、たしかに不思議な時代ではあったんで す。映画や小説の中で、最近では歴史研究や文化研究においてさえ、そういうストーリーが語られてしまう。ところが、そこに「アスファルト」って書きました けれども、そういう物語を一回引き剥がしてみないことには、もはや1968年にいったい何があって、どんな可能性があったのかということが、見えなくなっ てるんじゃないか。40年たって、もはやその使い古された物語から身を引き剥がさないと、もう何かを考えていることにならないんじゃないかなと、僕は非常 に強く思っています。
今年「68年から40年」ということなんで、当時新宿をうろついていた「高校生」としてこだわってきたんだから、何か書けとか話せとか言われるんですけ ども、なかなかどうもねぇ。言いたいような言いたくないような、できたらやり過ごしたい気分なんですね。それはなぜかと言うと、あまりにもサブカルチャー と新左翼運動をめぐる出来合いの物語がべったりと貼り付いてるからなんです。そのアスファルトを引き剥がしたいと思ってます。ちなみに「アスファルトを剥 がすと、そこは砂漠だった」というのが、パリ5月革命の最中に現れた壁の落書きでした。もう一度、それをやってみたい。
さっき自営業者をめぐる話をしたのは、僕自身が「新宿二丁目」という変な所で生まれたからです。つまり江戸時代の甲州街道沿いにあった岡場所(塀のない 街道筋の買売春地帯)から始まって、その裏の沼地に移動して遊廓になり、そして戦争を挟んで赤線、青線に、70年代後半にはゲイの集まる街になったのが、 現在の「新宿二丁目」でした。そこで長年営まれてきた洗濯屋に生まれ育った人間なんです、僕は。ちょうどこの時間、8~9時くらいからゲイの皆さんは通り に集まってだんだん賑やかになってきます。午前3時、4時くらいが一番最高潮で、毎日そんな状態ですね。土日の方がむしろ賑わうという、夜昼全く逆転した 街があそこに相変わらずあるわけです。たまたま、その真ん中にある自営商店の長男として育つんですね。このことが、僕に「1968年」に対して人には分か りにくい奇妙なこだわり方をさせたんだ、と最近になってようやく腑に落ちるようになりました。
というのは、その68年の新宿で10月21日ですから秋の夜に、いわゆる「新宿騒乱事件」が起きた。10万人くらいの大群衆が東口駅前に集まる。ベトナ ム戦争で使われるジェット燃料を立川基地に運ぶ列車が通っているのを阻止するために集まった活動家たち。そこまでかっちりした組織には加われないけれど、 何か黙ってはいられない学生や工員やサラリーマンたち。さらにその周りにどこからか湧き出るように雑多な人間たちが集まってくる。酒を飲みに来たりフラフ ラと遊びに来たりする若い男女の連中、いわゆる「野次馬」と呼ばれた人たちですね。「野次馬」っていうのは「付和雷同の無責任な暴民」みたいに当時の警察 や新聞は言ったけれど、むしろ何か言葉で言い表せない憤激と怒りを強く持った「中産階級」以前の「雑民」とか「下民」ですね。こういう雑多な人間たち、そ のたぶん誰も意図しなかった合力が、戦後最初に「騒乱罪」が適用される暴動となって爆発したわけです。
まさにこの年、機動隊に突き飛ばされながら花園神社の境内では唐十郎たちの「状況劇場」がテント芝居を打っていた。紀伊国屋書店本店の裏通りでジャズの ライブを演っていたピット・インでは、麻薬所持容疑で帰れないドラマーのエルヴィン・ジョーンズが日本人ジャズマンたちとセッションを続ける。そして明治 通りを挟んで伊勢丹向かいの新宿アートシアターでは、ゴダールたちのヌーヴェル・ヴァーグ映画がかかり、風月堂などの喫茶店には物書きやヒッピーたちが屯 する。世界にも稀なアンダーグラウンド文化の発信地だったと、最近では外国から驚くほど熱心な研究者たちが出現しています。それを目の当たりにした僕もと てつもない影響を受けてきたと思います。このことは既にいくつかの本の中で書いてきました。

■……首都中心部の「二重存在」……■

しかし、長い間僕自身が理解できなかったのは、自分が騒乱する側の人間でありながら、同時に物をぶち壊されたりするその街に住む地元民でもあったという ことなんです。親たちが毎日そこで働いて暮らしている。言葉で説明できない。それでも、この奇妙さにどうしてもこだわらざるを得なかった。というのは、た またまアパートを借りていたとかじゃなくて、そこが三代にわたって商売していた場所だったんですね。そのうえ「洗濯屋」というなんとも地場にへばりついた ような商売だった。その割り切れない「二重存在」……例えば、自分の通ってる高校では大げさなアジ演説をしたり、集会をやったり、あるいは街に出てもっと 大きな行動に参加するわけですね。何千人とか、時によっては何万人というレベルのデモがあり、そこで何かしら世界を変えるというような言葉の文脈に沿っ て、今思えば恥ずかしいことをやっていた。16歳ですからね。しかし、歩いて数分で自分の実家がそこにあるんですね。そこでは父や母たちが、家内制手工業 の小さな町工場のような洗濯屋をやっている。
このギャップというのは、当時16歳の人間にとってはどうにもならない。その当時、社会や世界の変革をめぐるいろいろな議論がありました。古典的なマ ルクス・レーニン主義から、もっとリベラルな立場、それから高級知識人的な西欧マルクス主義みたいなもの、それから「第三世界」を歴史的な動力とする考え 方まで、論議は世界中で沸騰していた。ところがいかんせん、こういう巨大都市のど真ん中の訳のわからない「二重存在」みたいなものを説明してくれる論理と いうのはどこにも、どんな本を読んでも出てこないんです。ですから、そのことを抱え込まざるをえなかった。
だからといって、じゃあ家業を継いで洗濯屋さんになれるかといえば、やっぱりなれないんです。とてもじゃないけど面白くない、あの街で自営業者をやるの は。でも目の前で親たちは苦労している。どんどん縮小していくんですね、当時60年代から70年代にかけての町場の洗濯屋っていうのは。小学生時代、50 年代終わりに7、8人の店員がいるそれなりの店だったのが、10年たって仕上げの職人さんが1人だけ最後までいました。その人もいなくなるという形で、家 族3人でやっている家族営業になるんですね。大きなチェーンのフランチャイズにならなければ生き残れない。都心部ではそういう小さな自営の洗濯屋はもう絶 滅しつつあると思います。
というより、あらゆる小自営業っていうのは絶滅寸前ですね。これは地方都市のシャッター街の話じゃない。首都の中心部で起きたこと。例えば、新宿駅の東 口地下にある「ベルク」っていう喫茶店が店として成り立っているのに追い出されるという今の事態につながっている。どこかのIT企業のエリートだったか、 竹中平蔵だったか、非効率で収益性の低い都心部の自営業者はあってはならない、絶滅するのは当然だ、というようなことを露骨に言ったらしい。まさにそうい う状態になってますね。
それで、40年たったからようやく見えてくることがあります。僕は1952年生まれですから68年に高校に入った時が15才から16才になるところで す。まったくのガキ。ところがその当時、既に高校には中学時代から運動に関わっている人がいました。まあ、反戦高協の中学生部隊ですね。もう既に高校1年 でそういう経験をしている。あるいは後に逮捕され、はっきりと武器を取って闘うところまでいった人たちも同年代でいました。彼らの多くは、高級官僚や大学 教授、文藝誌や思想誌の編集者、共産党幹部や歴史家といったインテリ家庭の出身者でした。僕など家にものを考えるための本など1冊もない。1年の時、小田 実を「おだみのる」なんて読んで笑われていた。そういう意味で考えたら、1968年の運動に後からついていった人間にすぎないんですね。15、6の時分で 「自らの意志で」とはなかなか言えない。言えないというか思考する枠組みそのものができていない。より上の世代がつくる運動の場や言葉に乗っていくしかな かったわけで、しょせんはそういう人間だったと思うんです。長い間そのことにある種の後ろめたさとか、気後れみたいなものがありましたね。それは事実だと 思います。その「気後れ」がどういうことなのかを考えるのが、たぶんこの40年という時間だったと思います。
先ほど観ていただいた「山谷」という映画は、その自分についての訳のわからなさを考えるのに何より大きな糧になるものだったんですね。もちろん山谷の日 雇労働者たちは、自営業者――洗濯屋のように機械類があって、店があって、借地だけれど新宿の真ん中に一応住むところがあるというような存在では全くな い。立場があまりにも違います。だから、けっして重ね合わせることはできないんだけれども、僕が新宿の街で見ていた人間たち、家の洗濯屋のお客さんという のは、尋常ではない人たちでした。具体的に言うと水商売で働いている女や男たち、しかも普通の意味での客商売というよりも、もっと底に近い人間たちです ね。体を売っているような女性たちでしたし、男性でもいわゆる工場の産業プロレタリアというより、風俗産業みたいないかがわしく怪しい連中。通常のマルク ス主義的な立場から言えば「労働者」とはとても認められないような存在でした。僕は幼い時からそういう人種しか知らなかった。
では、この人たちは労働者じゃないんだろうか? とすると「労働者」ってなんだ? 政治的、思想的に物心ついた68年以降、そういうことを考えざるをえ ないんですね。この人たちは解放されるべき、あるいは解放する側に回るような主体じゃないのか。いったい何なんだろうかと。つまり新宿の街に「労働者」が いるとしたら、そういう人間たちでしかないんですね、ほとんどが。もちろん、ちょっと周辺に行けば印刷工場もいっぱいある。新宿区の北側、文京区や豊島区 との境には大小の印刷に関連した工場がたくさんあります。東京の東部や南部にはもっとありました。いわゆる「プロレタリア」らしい工場労働者たちはそこで 大量に働いていた。でも「それ以下」といいますか、そうじゃない人間を僕は見ながら育ったんですね。

■……「山谷」そして「永山則夫」……■

そういうわだかまりを抱えたまま、1974年に実家の洗濯屋に戻ることになります。父親の交通事故がきっかけでしたが、それ以前に、もはや大学に行く気 力を失っていた。これだけ機動隊の暴力に制圧された、何の自由もない大学に行ってどうなるんだと。当時「アウシュビッツ化」と言われましたけれども、大学 の周りに工事現場のような金属ボードが張り巡らされて、いちいち荷物検査され学生証を見せないと入れない。そんな状態が全国どこの大学でも見られた時代で すね。そんな大学で今さら何を学ぶんだと中退する人間たちが大量に現れた。たくさんの人たちが田舎に帰ったりして、そこでまた反基地、反公害、反原発と いった地域闘争に参加する。工場に入っていく人たちも当然いた。ところが僕が帰った「田舎」は新宿2丁目だったんです。ブーメランのように戻ってしまう。 高校時代の仲間たちが大企業に就職していくのを尻目に、洗濯屋を手伝わざるをえない。とにかく、もう一度現実に帰っていかなきゃならないと……。
音楽について書いたり、演奏の場に関わることは続けていました。その縁で数年後に、今僕を紹介してくれた司会のIさんたちと一緒に山谷に行くことになる んです。そして映画で観ていただいたような事態が出現して、僕もその端っこで何ごとかを経験していったわけです。結局それが、割り切れない二重存在として の自分について大きく考え直させることになったと思います。
というのは、僕が新宿の街中で実際に付き合ってきた人たちというのは、社会的に組織化されていませんし、それこそ彼らが登場するのは68年10・21の 新宿騒乱のような時だけです。「選挙」のような制度は彼らの欲望を二重、三重のフィルターにかけて脱色してしまう。ところが諸政党によって与えられたメ ニューでは満たされない欲望がある。水商売の労働者たちが警察権力とまともにぶつかるようなね。それはとても大きな可能性だったわけで、その時に一瞬だけ 出現するんですね。それ以降、再び社会の表面から消えるわけだけれど……。
けれど、山谷に行けばそうじゃない。山谷に行って、今日の映画に出てくるような人たちは、新宿とは色合いが違うかもしれないけど、やはりある意味で体 しかない、売るものは体しかないという人たちだったんです。その中で自分の「わだかまり」が掻き混ぜられていく。60年代終わりの経験がもう1回、80年 代の初めくらいに山谷へ行くことによって大きく攪拌されて、そうしてその問いを40年間ぐるぐる掻き回し続けたっていうところがあるんです。
「自営業者」って何だろう? 都会の真ん中で家族で働いている小さな自営商店が衰退していくのは自然現象なのか? これはいわゆる解放運動とか労働者 の闘いとか、少なくともまともに人間が生きていけるような世界を創ろうとする営みとは関係ないのか? そんな素朴な問いをずうっと抱え続けることになるわ けなんです。レジュメの図(下図)は、主人の家族と通いの職人と住み込み店員という、たぶん江戸時代くらいから60年代まで続いてきた商店で働く人間たち の構造を略図にしてみたものです。上からこういうヒエラルキーになっているんじゃないか。永山則夫さんという、1968年に不幸にして4人の見ず知らずの 人たちを射殺してしまい、その結果死刑にされてしまった人がいます。彼が書いた『木橋』という小説集があるんですが、その中に川崎の多摩川に近い町でク リーニング屋さんに勤めていた頃の体験を描いたものがある。まあ、やっぱり「洗濯屋」って言いましょう。洗濯屋って差別語らしいですね。新聞社がつくる用 字用語集には使わない方がいい言葉として出ています。「クリーニング店」と言い変えると出ています。だから、あえて「洗濯屋」と言った方がリアリティーを 僕は感じるんですけれども……。

主人の家族……私          機械・資材産業
通いの職人           ⇒     ↓
住み込み店員…永山則夫(川崎)   家族の家内労働者化

彼は少年院から出た後、川崎の洗濯屋に勤めていました。そこに店主の家族の姿が出てくるんですけれども、それはもううちの家族そのものですね。その 主人の長男として私がいて、中学校卒の住み込み店員として永山則夫さんめいた人がうちにもいました。そういう「経営者と使われる人間」という関係が70年 代には激変して、完全に家族だけになり、全員が家内労働者化していく。経営者なのに、技術進化する作業機械や資材を生産する巨大な企業に従属させられてし まう。そこに僕は帰っていくわけです。そういう技術革新についていこうとすると「債務奴隷」になるしかない。希望はありませんでした。その中でどうしても 自営業者の家庭で育った自分というものを考えざるをえなかったんです。

■……「リセット」する資本主義……■

少々理論めいたことを言うと、19世紀に資本主義について執拗に考えたマルクスっていうおじさんがいました。20世紀を振り回した人といってもいいと思 いますけれども、そのマルクスが言ったことで二つ重要なことがある。戦後のフランスに現れたアルチュセールっておじさんが、それは「剰余価値」と「本源的 蓄積」という資本主義の秘密を発見したことだと言ってます。剰余価値の方はとんでもなく膨大な論争史があるので、専門家に任せましょう。「本源的蓄積」っ て何かっていうと、ようするに資本主義の「出生の秘密」です。こういう社会システムを作り出して回転させるためには一定のインフラストラクチャーがなきゃ いけない。蒸気、水道、電気、ガス、石油といったエネルギー網。鉄道、道路、船舶、飛行機といった交通網。それから事務所、工場、住宅地といった空間を配 置する都市の計画。知識を集積し、技術を開発する大学や研究所とか、いろいろな社会環境ですね。
ところが、人間と自然だけは「商品」として生産するにはどうしても無理がある。そのためにそれまで農民の共有地だったような所を囲い込んで、資源を奪い 土地を奪って、人間を追放してしまう。その結果、都会に出て来ざるを得なかった人間たちを「労働者」という新型ロボットとして成型するわけです。それが資 本主義の始まりであるとマルクスの『資本論』第1巻に出てきます。今の言葉で言えば「初期化」でしょう。パソコンのように資本主義というシステムを初期化 するんです。そして立ち上げる。これまで資本主義って、最初に1回軌道に乗っちゃえば、資本を投下して商品が生産され貨幣が流通する、そういう自動回転す るシステムみたいに思われてきた。人間と自然を力まかせに変形する「本源的蓄積」は最初に1回だけ起きるやむを得ない過程だと。ところが、その非常に暴力 的な過程が何度も何度も行われるんだってことが、最近の事態を踏まえた議論の中で出てくるようになりました。つまり資本主義は何度も「リセット」して再起 動を繰り返してるんだと。これはここ十数年くらいの津波のようなインターネット化、IT化による変動を省みれば実感できると思います。
今起きていることはまさに資本主義の「リセット」です。新たな「本源的蓄積」です。リセットするキーが押されてるんですね。巨大な「囲い込み」エンク ロージャーが進行している。フリーター、ニート、引きこもり、派遣社員、こうしたことはすべて人間的自然のエンクロージャーだった。僕らがさらされている 現実っていうのは、心理的な現象ではなくて、それまでの資本主義社会の形を1回徹底的にぶちこわす暴力でした。小泉というあの最悪の首相が言いました、 「ぶっこわす」と。そのとおりですね。まさに人間をぶっこわしたんです。そして、こういう「リセット」「エンクロージャー」「本源的蓄積」は山谷のような 場所では日常茶飯のことでした。この体験が新宿二丁目で起きたことを別の目で見せてくれるようになる。
その目でもう一度見ると、「若者たちのサブカルチャーと世界革命」という68年の物語の下から現れてくるものがある。「ひび割れたアスファルトを引き剥 がす」というのは、先ほど言ったように再帰的なパロディーです。つまり「パリの舗道の敷石を引き剥がすとそこには砂漠が広がっていた」というパリ5月革命 の時に壁に書かれた落書きは、ランボーやニザンが遺した言葉の跡に上書きされたものでしょう。「砂漠」って何か。ランボーやニザンが赴き、そこで死んだア ラビア半島の砂漠なんです。つまり機動隊に投石するために敷石を剥がすと、そこに現れたのは「第三世界」だった。そして40年が過ぎて、もはやひび割れた 「68年の物語」をもう一度引き剥がしてみると、そこにはこの街に生きてきた人間、へばりついて生きざるを得なかった人間たちの砂漠が広がっていた。それ は資本主義の容赦ない「リセット」に晒された自分自身の姿じゃないか。高度成長の頃から「第三世界」に押し付けられた「本源的蓄積」がそうやって中心部に 回帰する。そのことを発見するために40年という時間が必要でした。そのために「山谷」への大きな迂回は不可欠だった。この映画なくして、この経験なくし てはありえなかったと思うんですね。

■……「68年」春、暮れ、そして地下水道を通って……■

今や零細な自営業と、こき使われるフリーターや派遣、それからホームレスや日雇労働者との境目がグラデーションのようになってきた。千人単位で派遣契約 の解除が行なわれていますけれども、おそらく来年あたり、大都会の真ん中の路面で20代、30代の人たちがゴロゴロせざるを得ない状態がやってくる。すで に大阪ではその兆候が出ている。その時、「68年に起きたこと」は何か通りやすい言葉として、あるいは団塊オヤジ向けの懐古番組で使われるような、『三丁 目の夕日』の映画に描かれるようなものではなくて、別の姿を現すだろうと思います。少なくとも僕はそれを非常に強く感じていますね。
ある種の自営業と労働者の境目が薄くなってきたことの兆候をいくつか挙げれば、新宿駅の地下にある「ベルク」っていう小さな喫茶店があります。新宿東口 の改札を出てすぐ左に行くと、「フードパーク」という小さなスポット、路地か穴蔵みたいなスペースがあるんですね。その中に、20人も入れば満杯になって しまう小さな喫茶店があるんですが、その店をやってる人たちが駅ビルを所有するルミネから追い出されかかっている。そこには納得できる理由など何も示され ていない。それから下北沢の真ん中にに余計な道路が作られて再開発される。大阪の長居公園でのテント村撤去なんかもそうでした。これらはすべて新たなエン クロージャーというべきです。今起こっている事態を、単に「格差社会」とか「反貧困」とか、運動的に分かりやすいスローガンとして語られるのはしかたがな いと思いますけれども、こういう言葉で語る時期はもはや過ぎつつあると僕は思っています。資本主義そのものの問題として真っ向から捉えるべき時が来る。い や、もう来ている。そうしないと何もはっきり見えない時代が来ているんだと思います。
高円寺の北口を降りて左に行くと「北中通り」と書かれたアーケードを掲げた商店街があります。そこに「素人の乱」という名のリサイクルショップ、古本 屋、スナック、小さなスペースなど、何だかおかしな店が十店近くあるんです。彼らも自営商店ですね。僕の友人がそこに関係しているせいもあって、彼らの実 態が伝わってくるんだけれど、店を始めた連中は、町起こしの運動をやりたいわけじゃない。商店街の長老みたいなそば屋のおじさんと仲良くしたり、なかなか しぶとい奴らです。自分たちが買える値段で食い物を出す。自分たちと同じような奴らがとにかく生活していけるシステム、いわば自助システムをつくるという のに近い。そこから発展していろんなことをやっている連中なんですね。そういう意味では自営業でありながら食えない連中とともに、これをやってる連中自身 がそうなんですけども、生きていく方法を模索している。
同時に、例えば札幌での反G8デモで友人が捕まれば、すぐさまその通りで300人規模のデモが起きる。地元の人たちと付き合って、地場の空間を創り出し ながら、自分たちの言いたいことを言う。食えない奴らが、なんとかやろうとしているんですね。危ういところをなかなかしぶとく綱渡りしつつ動いていると思 います。そういう運動が現れてきました。僕にとっては、もう一つの「68年」が地下水道を通り抜けてこういうところに噴き出している。
ですから1968年を、団塊オヤジたちの「俺たちの若かった頃はー」という話にするのはもうやめた方がいいと思います。そういう話は僕も聞きたくもな いし、したくもありません。そういう形で68年の神話から遠く離れてみると、そこに見えてくるものは、もっと大きな可能性なんですね。
1968年春の段階では、友人たちの中に新左翼系の政治組織に参加している者もいて、彼らとまあ一緒に行くっていう感じだな。それでデモや集会ごとにど んどん行動的になって、本も読んでいく。そういう感じだったから、いわば近傍にいたんだけれど、大きな政治性を帯びた運動の中心にはいなかった人間なんで すね。むしろ学内でちょっと変わった発想の動きを始めて、その先頭にはいた。無届け集会が禁止されれば、授業中に一斉にトイレに集結するとかね。何だか 「ダメ連」や「素人の乱」に似てますね。それでも68年の暮れからは「活動家」めいた顔になっていたでしょう。
 政治運動の中心にいた人だからこそ見え ているものは、確かにあると思います。長い間辛い獄中生活に耐えた人たちも相当数います。僕にはそういう経験はない。ただ近傍にいて、後ろからついていっ た人間にしか見えないものが、あるんだろうと思うんです。そのことを語っておかなければと長い間考えてきました。雄々しく闘ったのではなくて、父親や母親 が夜昼なく働き続ける姿、その影に後ろ髪を引かれながら68年を生きた人間にとって、あの時代の「叛乱」っていったい何だったのか。それが今にどう繋がっ てくるのかということを、非常に駆け足ですけれども、皆さんにお話したかったということです。

●———–【質疑応答】————–●

司会 平井さんのお話は、観念的ではなくて、きわめて身体的かつ内発的な話だと思います。今のことに関してでもよろしいですし、映画のことに関してでも結構ですから何かご質問とかご意見はありませんか。
参加者A 一つは映画についてなんですけども、20年以上前から、その後いくつかの段階があると思うんですけども、現状は山谷に限ってどう いうふうな状況になっていたのか。説明をしていただきたい。あともう一つ、お話の最後の方で「素人の乱」のこととからめながら、新たなエンクロージャーと それに対する、対抗運動というか対抗の流れみたいなことをお話されたと思うんですけれども。まあエンクロージャーに対してエンクロージャーされるコモンズ というのがあったと思うんですね。例えば、家業のクリーニング店のことも念頭におかれ、新たなコモンズのあり方を探求されながら考えていると思うんですけ れども、その新たなコモンズの形というのをもうちょっと大きなデザインの中でお話をいただければと思います。よろしくお顔いします。
司会 じゃあ前半は僕で、後半が平井さんということにしましょう。山谷の20年。ご覧になったのは84・85年の20年前の風景なんですけ ども、風景自体はいまもほとんど変わっていません。けれども、内容が相当変わっています。ヤクザとの闘い、映画の中では大日本皇誠会は山谷を引き払ったと いうことになっていますが、その後、西戸組はつぶれました。でも、その上部団体である金町一家は、依然として事務所もあり残っています。そのさらに上部の 日本国粋会は、詳しい説明は省きますが、そこの組長が今年だったかな、ピストル自殺しました。まあ、ヤクザ同士の「内部矛盾」ですね。それから山谷自体が 20年たって、だんだんと高齢化してきています。つまり新しい若い人が入ってこなくった。いまは、寄せ場を経由せず、携帯電話などで手配され、ひとりひと りが分断されています。映画の中にも出てましたが、怪我したり病気になったら働けない。即捨てられるという状態はあいかわらず続いています。それが大きい 問題として、山谷だけでなく、全国の寄せ場で起こっています。生活保護の問題であるとか膨大な野宿者、山谷の近くには浅草、隅田川がありますけれど、そこ にブルーシートの小屋がたくさんあります。そういう状態で、かなり「疲弊」した状態にはなっています。そのなかで、新しい運動も模索され実践されてきてい ます。山谷はそんな現状です。

■……「コモン」の兆し……■

平井 マルクス主義的な知識が前提となってない方もたくさんいらっしゃるわけだから、「コモン」って何かと言うと、例えばキノコを採るため に農民たちが入って行く土地。一応そこは土地の所有権を持ってる人がいるんだろうけれども入れるんですよ。現在でも分かりやすく残っているのは、そういう ようなところしかない。それは個々の人間が所有しているんじゃない、一定の人間たちに開かれた共有地っていうことなんですね。それがヨーロッパでも、世界 中どこでも、もっと広大にあったんです。だいたい私有権なるものが近代国家の力によって認めさせられたのは、せいぜいここ200~300年の間ですから、 それまでは個人が土地を囲い込んで持つなんていう概念自体がない。神に与えられたものとしての「共有」というのかな、それは教会や領主との力関係とか複雑 なものがあるんだけれども、修道会の荘園や国王領以外は、生きていくために共同体として使っていくという要素を持ってたんですね。それが近代の資本主義化 によって登記されて私有地になってしまう。それによって、それまでキノコを採っていたところも入れなくなる。牧草地でもなんでもそうですね。この国の田ん ぼや畑にもそういう共有の関係あったと思うんだけど、そういうものもみんな囲い込まれていくんです。その囲い込みのことを「エンクロージャー」と言うんで すね。とりあえず、助け合って一緒にやっていけるような空間、「コモン」という言葉をわかりやすくしておきます。
まあ、今まで話した高円寺の「素人の乱」とか、それから品川駅前のホテルを占拠した動きっていうのは、そのごくごく小さな反攻の兆候としてはあると思 います。「山谷」の映画にも、泪橋の飲み屋で語り合う場面とか、筑豊のシーンに出てくるお風呂の場面とか、ホッとするような印象的な映像がありました。も ちろん、それで山谷の街全体が「コモン空間」だったとはとても言えないと思うけれども、最低限どうにか助け合おうというものはあったと思います。それがな かったら、あの労働者たちの運動は成立していなかったと思うんですよ。そういう労働者のいわば最後の、ギリギリの協働っていうかな。体のつなぎ方みたいな ものに組合が依拠するというか、そういう見えない空間と交渉しながらというか、そういう関係を豊かにしながら運動が進むということだったと思うんですよ ね。あの飲み屋での語り合いみたいなのがありますね。「俺は九州の炭鉱から来たんだ」とかね。「こんな一生懸命働いているのに、まだかあちゃんももらえな いよ」とか話してるんだけれども。ああいう所での付き合いから野宿者に向けた夜回りの運動みたいなものまで、あるいは玉姫公園での越冬闘争、夏祭りとか ね。そういうものを含めて、たぶんそう言えると思うんですよ。なんか大きな建物があるとか、恒久的なシステムや制度としてきちんとできているものじゃない けれども、そういうものがコモンの兆しというふうに考えられると思うんですよ。そういう意味では、今もいろんな連中が懸命になってそういうものをつくろう としています。それはまだまだ非常に小さな力でしかないことは確かなんだけれども、でもずいぶん久しぶりにそういう兆しが現れてきたということは感じてる んですよ。
例えば、新宿東口地下の「ベルク」に対するあまりにひどい追い出しに反対してたくさんの署名が集まるとか。その店を経営する一人、カメラウーマンの友人 は95年にあった西口広場からの段ボール村排除に抵抗して、ハウスとそこに描かれた絵を写真に残した人です。それから品川のホテルの労働者たちによる自主 運営についても、ちょっと予想外の支持が集まっているようですね。大きな高輪のホテルに来るいい格好をしたビジネスマンが署名していくとか、町の小学生が 署名していくとか。つまり40年たってここまで貧困が裸出した。単純に食えない人が増えたわけです。これはもう他人の問題ということではない。たぶんここ に来てくれた若い人たちにとっては、大学を出たら即どうするんだという話になってるでしょう。年配の人たちはますますそうです。おそらく安定した職に就い ている人は少ないんじゃないかと思います。そういう事態の中でどうしたって助け合わざるをえない。その中にやっぱり大きな可能性あるわけで、それは「コモ ン」などと言えるものではまだないと思います。共有地なんてとても言えない。しかし「コモン」や「エンクロージャー」、そして「逃散」というような言葉の 系から浮かび上がってくる動きの可能性が重要です。そういう言葉が意味を持つ要因がドンドン現れてきてることは確かなので、僕としては68年の経験を生か すとしたら、単に昔の物語にしないために、そういう努力をしていきたいなと思ってるんです。

■……再開発イデオローグの破産……■

参加者B 都市のこわれかたというお話で大変興味深く聞かせていただいたんですけど、現在の都市を見ていくと再開発というのが非常に進んで いると思います。そういった再開発によって今まであった都市の多様性というものがだんだんなくなっているような感じがします。東京の中で見ていくと、新宿 であるとか浅草であるとか、今まで多様な人々が住んでいて、多様な価値観が残されていた、許されていたように思うんですけれども。そういった再開発の顕著 な所が横浜じゃないかなと思います。私は横浜の出身なんですけれども、20年くらい前までは今のみなとみらい地区が造船工場で、あと寿町とか黄金町とか、 そういったダーティなイメージのある街だったんですけれど、全く今そういうのがない。たまに横浜に行ってみるとすごくきれいになって。寿町でもだんだん高 齢化が進行していって、まあ規模は300メートル四方ですけれども、ドヤがやっているんだかやってないんだかわかんないような活気がない状態になってい る。都市が再開発されていく中で、そういった多様性というものがなぜ排除されていくのかというのを、ちょっとお考えを聞きたいなと思いまして。
平井 まあ地方都市では再開発すらされないというか、単にただ破壊されているだけという感じですね。僕の連れ合いの実家がある九州に行く と、繁栄らしき風情を見せているのは福岡だけです。あとは全て福岡の従属都市。他の県庁所在地の駅前なんかも空き地で草ぼうぼうでした。新幹線ができてど うなるかというと、駅の目の前なのに居住用マンションが建つんです。つまり福岡まで何十分で行けるというのが唯一の売りになって、県庁所在地も完全に従属 化されている。せいぜい開発っていえばそんなもの。そこから離れた商店街はただただシャッター街。コンビニさえ車に乗っていくという状態です。多様性って いうのも、まあもともとあんまりなかったのかもしれないけれども、もはや欠片もない。大きな郊外モールも次々とできては、次々とモールそのものがシャッ ター街になる。福岡だけじゃない、仙台、広島という地方の中心都市だけが栄える。そこも実は栄えているかどうかわからない。これからちょっと恐ろしいこと になっていくのは、その中心都市で派遣の首切りが始まってるということです。
そういう状態なんだけど、ただ、東京だけは多様性がむしろ豊かになったかのように見えるところもあるんですよ。わかりやすい話で新宿に特化しちゃうと、 歌舞伎町の再開発が行われています。あれはなかなか恐ろしいところがあって。裏では暴力組織の再編が進んでるわけですね。地場のヤクザ、東京各地にはび こっていた大小の組織が山口組に制圧される。裏の世界もネオリベ化で山口組が一極支配する。それで表の世界では、薄汚いものをとことん排除してしまう。 1968年について、特に「68年の新宿」について僕が語りたくないという強い衝動がなぜあるかというと、歌舞伎町を「68年都市」のテーマパークのよう にしようとする動きがあるんですよ。つまりジャズ喫茶を再生したりして、団塊世代が安心して夫婦で来られる街にする。『三丁目の夕日』のCG映像そのまま に毒も怒りもない「68年」が出現する。そういう都や区が警察と結託した策謀が実際に進んでるわけです。久しぶりに足を運んでみると確かに、かつてぽん引 きがはびこっていた薄暗い裏通りはずいぶんきれいになっている。アメリカ人じゃないアフリカ系の客引きとかはまだいますよ。でも、不気味なくらい裏通りは 静かになった。これが可能なのはやっぱり裏を仕切る暴力組織の一元化が進んでるからでしょう。行政や治安当局がその単一支配と何らかの取引をしている。
そういう「68年」を回収する動きが見える。もうあの物語が最終的に行き着く果てです。ちょうど『三丁目の夕日』の映画が持てはやされるように。表面は 多様性のように見えて全くそうじゃない。もっと恐ろしい一元化だと思うんですね。まあ映像としてわかりやすい例で言えばそういうことだと思います。
参加者C 再開発のことについてうかがいます。例えば、下北沢に限らずよく言われる主張で、そこに住んでいる人にとっては、その当事者に とってはすごく大変なことだけれども、大きな規模で考えると、それがより大きな利益につながるんだというような主張がよくなされると思うんです。もちろ ん、個人的には違和感をすごく覚えるんですけれども、それに対抗していくような説得的なロジックみたいなものはどういったことがあるんでしょうか。
平井 それたぶん「あの人」のことだと思います。東浩紀っていう現代思想系の人がいます。彼は今やただの「再開発イデオローグ」です。潰れ そうなディベロッパーの回し者です。ファストフード化される街はいいんだ、自分にとっては心地いい。実はみんなそう思ってるはずだということをひたすら言 う。自分はあそこで育ったんだ、ああいう空間に対してノスタルジックな昭和商店街みたいなことを言う奴は「反動」なんだ。資本主義の進化っていうのはそう いう「自然過程」なんだ。そうやってきれいになって、そこからまた別の可能性があるんだ、ということをさんざん書いた。それがついこの間までベストセラー になっていました。しかしこの1年で激変したと思いますよ。そういう言葉が現実によって完全に反駁される時代がやってきた。つまりファストフード化した都 市であろうが、巨大モールだろうがなんだろうが、食えない奴が道にゴロゴロするということになるんですよ。彼は「社会空間の工学的変貌には抵抗できない」 というようなことを言うわけです。つまり、テクノロジーの進化には何かしら意図があって、支配者が搾取するために街を変えていくとか、そういう物語は終 わったんだと言う。テクノロジーはいわば自然の変化であって、それには抵抗できない。生物種が進化していくように都市も変わり、社会空間も変容するんだと いう簡単なストーリーです。
それに対しては、金融工学のように破綻するというしごくシンプルな答えが現実から提出された。今それが急激にはっきりしてきたということです。彼の屁理 屈に惑わされる必要はありません。現実に私たちは食えない。どうやって生きていくか。ファストフードであろうが、高円寺の一見ノスタルジックな商店街であ ろうが生きていかなくてはならない。でも、高円寺とか下北沢がノスタルジックな街だっていう言い方は、ごく単純に言って間違ってると思いますよ。例えば高 円寺北中通りの入り口付近は、歌舞伎町みたいな客引きのお兄ちゃんたちがうるさいピンサロ街です。路地に入ると右の角には「球陽書房」という60年代サブ カル的な古本屋がまだある。でもその先に行くと、これはあきらかにニューカマーの中国人たちがやっている中華屋さんがいくつも並んでいるんです。それから 「抱瓶」という沖縄料理屋がある。その先に「素人の乱」の店が点在している。その辺には古いそば屋のオヤジさんが「素人の乱」を応援しながら、「でも、君 たちはちょっと危ないんじゃないの」とか言ったり、「まあ、しようがないかな」と呟いたりしてる。そういう通りで鍋の宴会もあれば、デモもある。これは生 きた街でしょう。都市はファストフード化するというロジックが砕け散る時代がやってきたんですよ。東浩紀は倒産したディベロッパーの管財人です。北田暁大 はそこまでなりきれない半端な奴というだけのことです。

■……都市の影の部分を歩く……■

参加者D この中野の周辺の方南町で生まれて、遊び場は大体中野か高円寺っていう感じで20年間過ごしてきました。「素人の乱」に出入りし ている存在で、ラジオにも時々います。出入りしている人間から言うのも変ですが、私が20年生きてきて芸大に入って、平井さん達と芸大のネグリがらみの活 動で一緒にして思ったのですが、「素人の乱」以降が全然出てこないっていう印象がすごく強くて。私のまわりではもう「素人の乱」は昔のお話っていう感じで す。あそこは松本さんというスーパーヒーローがいて、彼の人気でいろいろ動いているけど、あの人達は私たちの世代の中ではかなり有名というか、神話化とい うと大げさですけど、されちゃって。平井さんは「素人の乱」以降の、もっと若い人達の中で、もっとわけのわからない、もう名前も付かない人達の可能性を、 もし感じたことが最近あったら教えてください。
平井 なんかロックスターを探すような話ですけれど。松本くんには確かにそういう変なカリスマ性があるんですよね。なにせ警察や機動隊を前 に、最高におもしろい頃の植木等そこのけの仕草をする人ですからね。ただ、これもわかりやすいエピソードで答えた方がいいと思います。松本くんは秋に大阪 に行って来たのかな。それで、「ああ俺たちは負けてる」とYouTubeかなにかで言ってました。「大阪には俺みたいな奴が1000人いる」と。ごく普通 にゴロゴロしていると驚いて帰って来ました。別に「素人の乱」も松本君1人でやってるわけじゃないですから、変な奴らがゴロゴロいます。この間、「素人の 乱」の12号店で「地下大学」と名づけた講座みたいな会を持ったんですけれど、そこにやって来たのは松本君たちが「素人の乱」を始める前にもともと高円寺 で遊んでいた1人です。数人のグループがあったらしい。この人たちには普通言われるような「政治性」はゼロです。脳天気なミニコミをいろいろと出してまし た。この連中がただ生き延びるためにおかしな店をやりはじめた。しょぼ過ぎるミニコミをタダ同然で売って、その稼ぎでどうにか食おうとした。おフザケな奴 らです。人間もおフザケ、ミニコミもおフザケなんだけど。彼らと「法政の貧乏くささを守る会」という奇妙な運動やっていた連中が合体して「素人の乱」がで きる。その元の奴らの方がもっとメチャクチャなんです。松本くんが学生運動時代の発想から脱皮したのはその連中と付き合ったからだという。だから松本君1 人を「素人の乱」と思ったらいけないと思う。いろいろ起きてます、変なことが。そのうちまた表面化するでしょう。その手の動きっていうのは大阪に見られる ように飛び火しています。
松本くんは永井荷風の研究家の息子なんだよね。妙な話なんだけど親と同じ松本哉って名前なんです。親は自分と同じ名前を付けたんですよ。落語家の何代目 じゃないんだけどね、二代目なんですよ。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアとか、マルコム・リトルと同じなんだよ。彼の思想はなんとか主義ではありま せん。不埒な街歩きの思想が根にある。都市の遊歩者の思想なんです。ようするに都市の影になった部分を歩く人間の思想なんですよ。そこで生きていこうって いう思想なのね。これが彼の、マルクス主義とか、なんとか主義とか、アナーキズムとかとはとりあえず関係ない「土着思想」なんじゃないか。地面から湧いて 出たみたいな「貧乏くささを守る会」なんていうのは、どう考えたってなんとか主義と関係ないです。そういう世界の下の方から汲み取ってきた考え方が、彼の 変な言葉と変な行動になって出ている。学ぶべきはそれなんですよ。彼のスター性じゃないんだよ。まあ、キャラも面白い人なんだけど。で、学ぶべきというか 伝染しちゃうのはそっち、みんなが感染するのはそれなんで。そういう人が、たぶんどこかでまた次に準備されていると思いますよ。福岡にも変なのがいるし、 いろいろいます。そういう状態じゃないかと思いますね。
司会 そろそろ時間なんでこの場はとりあえずしめます。隣の部屋がロビーみたいになってまして、平井さんを交えての、話の続きができるようになっていま す。平井さんはお酒飲まないんですけども、お酒も用意してありますし。新宿のことといえば「新宿プレイマップ」、昔の、伝説の「新宿プレイマップ」を編集 されていた方も今日はいらっしゃっていますので、新宿に関しては最強のメンバーが揃ってますので。今日はどうもありがとうございました。
(2008・11・29 プランB)