2011年9月3日

plan B定期上映会

みんなの公園――野宿者排除と「公共」のアクティヴィズム
浜邦彦(早稲田大学教員/ストリート研究会)

2007年10月、野宿者が暮らしている国道246号線渋谷駅 。ガード下に、野宿者への「移動のお願い」が掲示された。「お願い」の主は「渋谷アートギャラリー246」と記されており、なるほど、ガード下と地下道一帯の壁には、いかにも稚拙な「アート」の装飾がほどこされていた。2009年8月,渋谷区はナイキジャパン社と、区立宮下公園の名称を「宮下NIKEパーク」に変更し、有料スポーツ公園への全面改修工事を依頼する基本協定を結んで,宮下公園の野宿者排除に乗り出した。
こうした動きに、いち早く反応したのはアーチストたちである。かれらは「アート」の名において野宿者が排除されることに危機感を覚え、誰もが利用できるはずの公園が私企業の管理する空間へと変貌することに抗議の声を上げた。「246表現者会議」から「宮下公園アーチスト・イン・レジデンス」に至るアーチストたちの闘いは、さまざまな賛同者を集め、野宿者支援の運動とともに、宮下公園の「ナイキ化」を阻止する1年半以上の劇的な活動に結実した。
1980年代の山谷の闘いと、2000年代の渋谷の闘い、その連続と断絶を、「公共」というキーワードから考えてみたい。

山谷から震災・原発危機状況の福島へ

中村光男(日雇全協・山谷争議団)

仕事・住居・家族を失うこと――路上で死んでいった仲間への想い

中村 今晩は。これは被災地支援に行く時に、お金を集めるために作った最初のチラシなんで欲しい方は見て下さい。今、毎週日曜日に福島県 のいわき市に、いわゆる震災ボランティアみたいな形で行っております。最初に行ったのは4月2日です。当初はガソリンはない、電話、携帯はなかなか通じな いっていう状況の中で、被災地支援に行こうとしても行けない状況があったんですね。で、やっと4月に入ってからガソリンが手に入るっていう事で、ガソリン 何リットル積んだかなあ。見つかるとヤバイんですけども、毛布を被せてガソリンタンクを車の荷台に満載して、最初に仙台といわき市に行ってきました。
山谷、釜ヶ崎っていうのは、特にバブル崩壊っていうか93年位から仕事が全く途絶えて。この映画の中ではまだ元気な労働者が今はほとんど死んでます。ま あ99パーセント路上に出て、路上で死んでいかざるをえなかったっていうことが、この20年近くずうっと続いてるわけです。当時80年代、同じ労働者にも かかわらず、例えば元請けの労働者と一次下請けの労働者、二次下請け、三次下請け、四次下請けの労働者、末端の山谷労働者が同じ仕事をしてるのに賃金や労 働条件は全く違う。山谷地域という、ある意味、被差別空間の中に押し込められて、使い捨ての労働者として働かされていく。そういうものに対して、なんとか 山谷や釜ヶ崎の中で労働者と一緒に働きながら闘おうというふうには思ってきたんですね。ところが、90年代に入って全く仕事がなくなって、当時は本当に毎 日数百人規模でドヤ街、ドヤと言われている一泊いくらの宿舎から、バッグを片手に、みんな仲間はスポーツバッグ一つしか持ってないので、そこに作業着を詰 め込んで、ドヤからどんどんどんどん出てくるような状態でした。それで、僕らとしては、ともかく目の前の仲間の命を守らざるをえないっていう事で、80年 代の取り組みとはある意味、ガラっと変わるような形で取り組み始めたわけです。昨日まで日雇い労働者として働いてきた人間が、仕事がないっていう事で切り 捨てられて、路上で死んでいくしかないのかということで、いわゆる「反失業」とか失業に対する取り組みってのがこの10年、20年と続けてきました。
地震があった日、実は私は船橋にいました。普段だと車で45分位で帰って来れるんですけども、6時間かかりまして。その間、一番思ったのは山谷は大丈夫 だろうかという、そういう思いで帰って来たんです。仕事がなくなり、住む場所がなくなり、そして多くの家族をなくしたりする事がどんなに辛いことか、それ は路上で死んでいく仲間を通じてですね。それで、そういう時にみんなで命を支えていくっていうことが、本当にできるんだろうか。自分達としては10年、 20年やってきた取り組みの中で、どんな仲間であれ、どんな仕事をしてきた者であれ、生存を支えていく。「生存権」っていうのは、別に山谷、釜ヶ崎の労働 者だけの問題じゃなくて、全ての人間の問題だと。それこそが今問われてるっていう思いで、ともかく今「山谷圏ネットワーク」っていう形で、山谷に関わるい くつかのグループが緩やかな形のネットワークで支援活動をやっていこうというのが一つあったわけです。
もう一つ、実際4月行った時にはもう自衛隊と警察ばっかりなわけですよね。民間は全く行けない状態でした。で、そういうおクニ直轄で、上から人の命を支 えるなんてできるわけないと。アイツらが人の命について本当に真剣に考えてやったことあんのかという思いが、みんな「山谷圏」の連中は一方であって。やっ ぱり同じ境遇っていうか、寝場所も仕事も全て奪われた人々が、そこで力を合わして生き抜くような、そういう取り組みを考えていかないと、震災支援活動なん ていうのはできないでしょう。自分達のやってきたことをふまえればそういう思いが一つあったわけです。ただ、僕らは金もない、人もないんで、そのチラシに あるように当初はもういろんなところに行ったわけですね。でも、どこ行っても「社協ボランティアセンター」っていう仕組みの中で、全部役所主導なんです よ。私らみたいのが行ってもなかなか受け入れてくれない。ある意味、よそ者なわけですから、現地で知り合いがいて、受け入れてくれる団体がいて、そのつな がりの中で行かないとね。なかなか役所の仕組みの中に入り込まないとできないってのを、つくづく痛感しました。
それからやっぱり福島原発の事故ですね。まあ僕らとしては原発労働問題っていうのはほとんど取り組んでない。ここにある98年の実際に原発で働いた仲間 の聞き取りとか、そういうことを何度かはやってるんですけども。ある意味なんてのかな、クニの国策事業というか公共事業の一つみたいな、そういうとらえ方 があって。原子力があれほどの被害を及ぼす現実っていうことについて、僕ら自身もよくわかってなかったと思うんですね。当時言われてた、首都圏の電力が福 島原発によって供給されている。同時に原発のある地域は過疎地で仕事もなく、原発で働くしか地元で生きていくことはできない。そういう現実が、毎週いわき 市に行けば行くほど、普通の市民の方の口々から出てくるわけです。いわき市に行ったっていうのは日帰りで行けるんですよ。余力があんまりないんで日帰りで 行ける所があったっていう事で、それだったら一年二年継続して続けていけるだろうっていうのがあって。各地にいろいろ行ったんですけども、自分らとしては いわきにちょっと腰を据えてやっていこうというふうに今思ってます。
津波被害そのものは、いや本当にテレビで観るのと違って。例えば名取市、仙台のすぐ下ですけど、名取市に行った時はそこらじゅう黄色い旗を立ててあるん ですね。こう短い竹の先っぽに。最初、何だと思ったら遺体が発見された場所に全部こう旗を立ててる。それが無数に海岸沿いにワァーっと立ってるとか、そう いうのを現場で見てくると、やっぱりすごいな。テレビで観てるすごさってのとはまた違って、なんかうめき声が聞こえてくるような。そういう思いがもう本当 に感じられるというか。で、もともと過疎地で仕事もなくってという状態の東北地域がやられたわけですから、その風景っていうのを見て、これはもう退けない なっていう思いが、まあ行った一日目に実感としてあったんです。
いわきの方は、実は最初はもう全然受け入れてくれないんですね、役所が。どうにも何にもやれなくて。ただ地元の人と行く中で知り合うことができて。民間 の、全く役所にからんでない人達とのつながりの中で、老人ホームを一ヵ月間だけっていう限定だったんですけど借りられました。そこで鍼灸治療をやりなが ら、避難所で暮らす人達とただおしゃべりするだけなんですね。で、最初の一回目の時は、本当にみんな強ばった顔でニコリともしない。笑顔が全くない。そう いう人達の鍼灸治療をやりながら二回目、三回目でだんだん笑顔が出てきて、世間話を一緒にできるようになる。まあそういう過程をくぐって。例えば双葉町で あるとか、あの辺の福島原発の5キロ圏、10キロ圏の人達が相当数いわき市の方に避難してるんですよ。そういう実態を避難所の人達の口からひとつずつ聞く 事によって、私も「脱原発」より「反原発」っていう考えですけども、そういう話だけじゃなくて、では過疎地の中でどうやって生きていくのか、どんな仕事を 作っていくのか、どんな暮らしをしていくのかっていう、そこらも含めて考え直さなきゃいけないっていう思いが本当に強烈でした。そこは一ヵ月契約だったの で、今はいわき市の「ボランティアセンター」っていうところに、私なんかは表に出ないで、若い人を前に出して登録して、そこで毎週トラックとハイエースを 二台あるいは三台持ってって、海岸沿いの家屋のがれき片付けを毎週やってます。自分達としては、できれば地元のグループとつながりながら、役所ルートでは ない拠点を――地域の中でこぼれ落ちる避難者の方もたくさん出てくると思うんですよね。そういう方がこう集まれて、暮らしていくために支え合っていけるよ うな、いわき市内に地域の拠点をなんとか一年がかりでもいいから、地元の人達と作っていきたいなあというふうに今は考えてます。
いわき市っていうのは非常に反動的な市政で、放射能情報とかを住民の人達にほとんど流さないんですよね。福島原発から27キロ地点の末続町っていう所が あるんですけれども、そこのがれき片付けをやって欲しいというふうに言われて。27キロ地点ですから、つい一週間前までは30キロ地点は危険地域だってい う事で指定されてて、それが一週間前に福島県が安全宣言出したんですが、そこのがれきを片付けてくれって言われて。でも、いくらなんでも、ただ安全だって 言われたってこっちは納得できないじゃないですか。それで、放射能が実際どの程度出てんのか、そういうきちんとした情報は持ってるはずだから、きちんと伝 えて欲しいというふうに言ったら、全然伝えてくれないわけですよね。あなた方がやる気がないんだったら他のグループにやってもらいますっていう態度なわけ です。僕らも相当我慢をしながらやってんですけど、もうあまりにも無視するんで、とうとう「ボラセン」で活動してるみんなにちゃんと放射能の数値を公開し て明らかにしろっていう申入れ書みたいのを作って提出したんです。それが三週間前で、いつ回答が出てくるのかわかんないような、まあそういう状態です。放 射能問題どうすんのかっていう事で、反原発運動を昔からやってるいわき市の市議会議員の人がいるんですが、その人達の集まりが先週ありました。そこに行っ て来たんですけども、900人から1,000人位の若いお母さんとかお父さんとか子連れの人が集まって来てました。いわき市内で初めて放射能問題の集会が 開かれたっていう事で、質問時間になると、もう一斉にみんな手を上げて、「こういう場合はどうしたらいいんだ」っていう質問がバンバン出るわけですね。そ の集会の最後に、「いわき市民の最大のこれからの闘いは内部被曝との闘いだ」という言葉で締め括られたんですが、それは相当象徴的な言葉で、今後も続く言 葉なんだと思いました。

被曝労働――命を削り落としながら働く

それと、いわき市にいわき湯本っていう温泉街、旅館街があるんですね。そこに実は福島原発の中に入って仕事をしてる協力業者の宿舎がいくつもあるわけで す。僕らが、そういう、まあボランティア活動っていう言い方もあんまり好きじゃないんですけど、支援活動をやりながら同時に、今いろいろ話をこう拾い集め てるんですけども、協力会社っていうか下請け会社の事務所が新しく作られるっていう事で、どうもいわき湯本が拠点になって労働者を全国から集めて、そこか ら原発に送り込むシステムがいよいよ本格的に稼働するのかな、というような状況がいわき市の中で起こってます。そういう問題も含めて、いわき市民の放射能 被害の問題と、それから原発の中で働く労働者の、もう本当に劣悪な労働環境ですね。それを震災支援活動とつなぎ合わせながら、できれば地元の人達とこれか ら一年二年かけて作っていきたいなと。で、福島原発の廃炉、廃炉っていう事になると、少なくとも10年から20年かかるっていわれてます。そうすると、そ の間、原発労働に動員される人達が命を削り落とすような被曝労働をせざるをえないわけですね。
この冊子の中に、98年の時に原発労働を実際に行った野宿していたおっちゃんからの聞き取りが入ってるんですけど。いやあほんまにこの間報道されてきた 被曝労働の実態ってのは、我々も正直言ってびっくりするっていうか想像つかないほどありえない話なわけです。例えば、水が溜まってる所を長靴を履かないで 入っちゃって被曝したなんて、普通の公共工事だってありえないことですよ。僕らが普段仕事する時、こういうコンクリートを打つ時に、長靴履かないともうす ぐ肌がやけちゃいますから、長靴持ってないと現場からすぐ帰れって話になりますよ。普通の一般の公共事業でもありえない話。それから60歳で死んだ人が被 曝が原因ではなくて、持病が原因だっていうふうに報道されていましたが、それもありえないわけです。普通、公共事業でも、仕事に入る前に新人教育っていう のがあって血圧を測ったり持病があるかどうか調べて入れるんですね。それがないと仕事に就けないわけです。血圧が高い人は、もうその最初の入口ではねられ ますから。ですから、それもありえないわけですよね。
釜ヶ崎の通称Tさんっていう人がだまされて福島原発に入った。その報告も逐一全部あがってきてるんですけども、これも健康診断、働く前の健康診断は一切 やってない。それから放射能計測器をぶら下げて入るわけですけど、それを渡されたのが4日目。なおかつ放射線管理手帳も渡されてない。管理手帳にはこう毎 日毎日何時から何時まで仕事して、どの位の被曝量を受けたのかっていうのが記入されてて、それを本来労働者が持たなきゃいけないわけだけど、それが本人に は渡っていない。相談に来て、それで弁護士と一緒に追及して、やっと被曝、内部被曝の検査を柏崎の原発近くで受けることができたと。こういう文字通り命を 削り落としながら働くしかないような状況ってのが今なお続いてるんだと思うんです。私達が98年の時にやった時には、原発に行くなって言ったんですね。原 発の仕事は声かかるだろう、だけど行っちゃならんと。もうこれは完全に被曝労働が前提だし、死ぬの覚悟してそんな仕事するなっていうふうに出したんです。 しかしまあ、今、福島原発事故の終息を誰かがやらなきゃいけない。やってもらわないとこれまた大変なことになるわけですね。じゃあ誰がやるのか、やってる のかっていう事。実際に被曝労働をしているのは、東電の社員とか元請け会社の労働者ってのはわずかで、全体の被曝量の5パーセントくらい。95パーセント の被曝量は下請け労働者が被ってるわけですよ。これは今でも変わらないと思うんです。

闇に隠れた求人ルート――暴力団の存在

それとこの映画でも出てきますけれども、暴力団ルートで求人募集が行われてるっていう実態が確実にあるわけです。本当に箝口令が引かれていて、まだその 実態について本当につかめないんですけども、例えば会社の名前を書いてない、携帯番号と名前だけ書いて福島原発に行かないかっていう手配師が山谷に来たと か、あるいは寄せ場とは関係ない小金井のハローワークに仕事を探しに来てる労働者に、同じようなメモ用紙を渡して原発に行かないかっていう、そういう一次 情報はあるし。それからハローワークの公式な情報は、いまんところ北九州が一番多いんですよね。この映画に出てくる炭鉱が閉山した後、筑豊であれ北九州で あれ、当時僕らは社外工って言ってましたけども、実はほとんどが工場やあるいは建設現場の下請け労働者として動員されている。そういう仕組みが九州の中で いっぱいできあがってるんですね。そのつながりの中で原発労働の特殊のネットワークが北九州にできてるんだろうと私は思ってます。
『原発ジプシー』っていう本が70年代に出されたんですけども、そこに内田工業っていう会社の名前が出てます。その会社に今でも携帯で登録している八戸 の労働者が一日13,000円、三ヵ月の仕事だっていう事で声を掛けられて福島原発で働いた。でも、その人は五次下請けの労働者で、その会社の名前は東電 の名簿には全く出てこないんです。で、実際本人が受け取った金額は一日8,000円でしかなかった。彼はやはり暴力団が恐いので表ざたにはしたくないって 事で、それ以上は調査もできないような状態なんですけども。そういう形でポツポツとは、原発労働の情報は入ってきてます。僕らとしては今の状況で原発労働 に行くなとは言えない。8割9割は地元の人だって言われてますね、原発で働いてる人は。でも、立場は寄せ場の労働者と同じなんですよ。昔の言葉で言うと過 剰労働力、労働者としてもういらないよ、お前らは。そういう中で劣悪な労働につかざるをえない。いらないよって言われたって食うためには働くしかないん で。だから釜ヶ崎にしろ何にしろ、原発労働っていうことで金が確実に払われれば、相当数の人間が今でも行くんだと思うんですね。絶対行かないっていうふう にならない。やっぱり仕事ができないこととメシが食えないことと安心した寝場所がないことの辛さがみんな骨身にしみていて。それは福島原発の周辺の地元の 人も同じなんだろうと思うんです。過疎地で仕事がなく、そこで生きていくためには原発で働くしかないっていう現実。そういう矛盾も全部背負って働きに行か ざるをえない。
私なんかはもう相当高齢ですから実は行きたいですよ。原発の中どうなってんのか。チャンスがありゃ行きたいと思ってるんですけど。ともかく働きに行って も自分の命を守れる働き方、あるいはきちんとした、約束された賃金をしっかり取れる方法とか。それから内部被曝の影響ってのは10年後、20年後、30年 後に出てくるわけですから、働いた直後はそれこそ大量の被曝を浴びない限りそうならないわけですよね。普通の下請け労働とは違うわけですね。原発労働の特 殊性っていうか。そういう意味では、いろんなグループ、いろんな「反原発運動」や「脱原発運動」の人達とも手を組んで。例えば東電の直庸化、下請けの労働 者でもきちんと直庸化するとか。あるいは30年位のスパンで健康問題をきちんと国が責任を取らせるとか。そういうことも含めて、今後考えていければいいか なあと思ってます。
原発労働のすさまじさは、最初、海外から英雄視されて、まるで英雄だっていうような情報がどんどん流れて。一転して原発労働の物凄い劣悪な現実が今、報 道されてるわけですけども。原発労働の恐ろしいほどの劣悪さっていうのは、やっぱり東電が経営してるからなんだと思うんです。国策事業であることは確かな んだけども、国が直轄で事業を起こしてる、公共事業はあそこまではできない。民間の東電が経営母体になってるからこそ、あそこまでのひどさで今までやって きたんだろうと思うんですね。この5年位は20万、30万の原発労働者が必要だって国の方は言ってるわけですよね。原発労働者がいろんな矛盾を抱えながら 働いてるわけですから、果たして本当に相談に来てくれるかどうかっていうこともあるんですけども、まあ極端に言えば「一緒に働きに行こうぜ」位の話で、原 発労働の実態をなんとかつかんで、自分としては最後のお勤めだと思って、やっていこうかなあと思ってます。

重層的下請け制度のもとで末端の労働者が使い捨てられる

この間、例えば若い人も派遣労働の問題とか、さまざまな形で取り組み始めてるんですけども、その派遣労働と日雇い労働、これは同じ非正規ですけど雇用形 態が違う。働く形態が違う。パートという雇用形態もある。非正規でもいろんな雇用形態があって、一緒につながることが非常に難しい状態になってるわけで す、働く者同士の中で。だけども、どんな雇用形態であれ、非正規だと大体年金には入れてくれないし、社会保険も付かないし、金も安いですから貯金もできな くて、首切られるともうその場で切羽詰まっちゃう。そういう典型が「日比谷派遣村」、リーマンショックですか。あの2008年の後の時の「日比谷派遣村」 で明らかにできたことなんだと思うんです。ちょっと自慢話ですけど「日比谷派遣村」は山谷から提案した戦術なんですね、実は。「日比谷派遣村」でやった大 御所の労働組合の方々にまず一日体験で山谷の炊き出しをやってもらって、その後「日比谷派遣村」を着手したっていうふうになって。
このさまざまな雇用形態、派遣だとか短期労働もそうですね。一年短期労働とか事務職なんかは相当数多いです。その根っ子にあるシステムが請負制度、日本 の産業の重層的な下請け構造なんだというふうに思ってるんです。非正規の雇用形態の違いで働く層が違いますし、その意識の違いもあるから、それぞれがん ばってやんなきゃいけないけども、やっぱり最後は企業間の日本の請負制度と企業の重層的な下請け制度の構造そのものを変えていかないと、いつまでたっても 下請けで働く労働者は日の目を見ない。仕事が奪われるともう食っていけなくなる。住居も奪われてしまうという現実は変わらないんだと思うんです。
それで、今、失業者300万人と言われてますけども、あれはハローワークに登録した失業者が300万人であって、実際に失業してる人はもう軽く500万 を超えてる。なおかつ1750万の非正規労働者が存在してます。働く人のもう3分の2を軽く超えちゃってるわけですね。朝通勤ラッシュで出会う労働者の3 分の1以上は非正規労働者である事は確実なわけです。寄せ場はもう仕事がなくて、みんな朝の寄せ場に行っても60だとか65歳だとかそういう人達ばっかり です、今、山谷は。でも、山谷から発信したこの請負制度と重層的下請け構造のもとで働かされてる労働者への取り組み、非道な暴力と対抗して命を自分達で守 りながら、搾り取る資本、企業と闘っていくんだっていう。そういうものをどこかで誰かが担えるような母体を作らないと、今後どんどん失業者は増えていく し、非正規労働者は減るわけがないわけです。そういう中で我々の働く環境とか暮らしとかを変える力を作っていかなけりゃいけないと自分としては思っていま す。成果が出るのは、いつになるかわかんないんです。ただ福島の震災支援活動も少しずつ地元の人とのつながりができて、ほとんどの「反原発運動」のグルー プとはつながり始めてます。それから、非正規の取り組みをやってる労働組合とか、そういう人達ともつながり始めたんで、役所主導のようなやり方じゃない、 地域の中でちょっと根を張って本当にそこで原発労働問題も含めて、仕事がない中でどうやって生きていくのか。自分達なりにやれることがないか、考えていき たいと思ってるところです。


10万〜30万の労働者を吸い上げる求人ルートと利権

司会 若干時間があります。質問あるいは聞きたい事がありましたら、どなたかいらっしゃいませんか。はい。
参加者A 仕事が全然ない状況だから、原発に僕らが行けるようなルートを、原発労働、福島第一原発で働けるような状況を作って欲しいんで す、むしろ。もしそういうことで行けたらね、たとえ一日8,000円だとか、5,000円だったとしてもね、それはそれで面白いと思うんだけど。ヤクザが からんでもいいんじゃないかという気もするけど、まあ違ったルートを、地元の人が行ってるようなルート、それを作ったらどうなのかなあと思うんです。
中村 Aさんとは30年くらいの付き合い(笑い)。今考えてるのは、ヤー公から原発労働に行ったら金も貰えない。どんな被曝労働でも厭わ ないような働き方をさせるから、これは撃たなきゃいけない。だから、ここの業者はまあまあ金払いもいいし、そんなに悪い待遇じゃないからなんとか行けるん じゃないかっていうようなところまで調べられたら面白いと思ってる。
参加者A あのね、行きたいです。
中村 俺も行きたい(笑い)。ただね、ちょっと年令制限があって、Aさん。まあギリギリ入れるか入れないかの瀬戸際なんで。被曝労働って のが「反原発運動」やってる人達とか「脱原発運動」やってる人達の間でも、全然実態として明らかにされてないわけですよ。労働運動とか労働組合やってる人 達も全くわからない状態。もう本当に闇に隠されてる。労働者を吸い上げていくルートも全く闇に、本当に箝口令なんですよ。確実にヤクザがからんでんです ね。そこをどういうふうに、こう風穴開けていくかっていうことでやりたい。釜ヶ崎から行った人はだまされて行ったんだけど、前から行ってた会社なんです。 携帯電話登録してるから、「ちょっと仕事があるから行かねえか」って電話が掛かってきて、それで行ってたところなんですよね。だからだまされるとは思わな かった、本人も。あれは前田建設が元請けなんです。それと、実は新聞にも全然出てないんですけど、一次下請けが水谷建設なんです。水谷建設っていうのは皆 さん知ってるか知らないかわかんないけど、小沢一郎に金を一億だっけ、出した会社なんですよ。それがどういうわけか新聞には出ないんですよ。で、その水谷 建設本体じゃないんだけど、その水谷が金を出して作った会社なんです。それが全然出てこないのは不思議だねっていう話になってて。院内集会っていうんです か、議員集めて厚生労働省とか原発保安院とか追及しても、面白いことに民主党の議員も言いたくないっていう感じで、隠されちゃったっていう状態なんです ね。だから利権とか、相当なつながりがあるのと、暴力団がからんでるんで、相当に慎重にやらなきゃいけないんですけど。まあ10から30万の労働者を増や すってのは、物凄い勢いで全国網作んないと、旧来の闇の求人ルートだけでは絶対賄えない人数なんです。だから釜ヶ崎のような所でほころびが出るっていうこ となんだと思うんですね。その辺をちょっと調べていったら面白いと思います。それと、これは知る人ぞ知る、知らないとわからない話かもしれないけど、釜ヶ 崎に渥美、神明っていう二つの大きな飯場があるんです。渥美組と神明。これがもう10年以上前から東京進出して、全国展開してます。東京にいっぱい渥美組 の会社も飯場もあります。この渥美組が仙台にいよいよ飯場を作るっていう事で、無料の求人情報に宮城県内は8,000円、福島県内は13,000円という ような労働者募集を出していて。それで今日あたり飯場見に行ってます。旧来からある建設土木産業の末端の、いわゆる飯場を抱えてる業者がもうすでに全国的 に動き始めたと。渥美、神明ってのは飯場に抱えてる労働者が数千人ですから。そういうところはもう本当に金儲けですよね。これは会長は山口組系って、はっ きりしてんですけども。そういう形でドンドン動き始めてるということが、僕らの旧来のルートからもある程度の情報は入るんで。あと福島現地の中で相談所を 作っちゃって、そこをある意味、駆け込み寺にして。まあそういうところで少し始めたら面白いかなと。ただ僕らは全然力ないんで、手足もないし金もないん で。ネットワークっていうか、まあ今、流行りなんですけれど、個人参加でそういう事に興味がある、やってみたいっていう人をドンドン引き入れるような母体 を作ってやってみようというようなイメージです。また面白い事があったら報告したいですね。Aさんもぜひ。
参加者A やろうか(笑い)。
参加者B 先程、釜ヶ崎から福島に送られたTさんのお話ですけど、現地で働いてる人が8割9割で、残りの一割二割は釜ヶ崎からなのか、そ れとも全国の飯場のような所から手配師が手配してくるのかということがひとつ、もうひとつはその現地で働く人は過疎地で仕事がない人という話でしたけれど も、そこには手配師などのそういう人達を集めるような独自の仕組みというのがあるのかどうか、もしおわかりでしたら教えていただきたいんですけど。
中村 釜ヶ崎に求人が来たっていうのは、はっきり言うと異例中の異例だと思います。先程言ったように前田、水谷のグループは旧来からある 釜ヶ崎求人ルートなんです。ただ前田建設、水谷建設は福島原発の仕事をやってますし、原発の仕事に相当かんでますから、原発を作ったり原発が稼働する前 に、そういう仕事は結構、旧来寄せ場から出てたんです。だけど作った後、内部に入って被曝労働するっていうのは全く別のルートができてるっていうことで。 そこからは基本的に釜ヶ崎は外れてんじゃないかと思う。ただ今4,000人は軽く超えてますから、福島原発で働いてる人は。これはもう圧倒的に足らないわ けです。そういう中で急遽っていう事だと思いますね。でも、あの問題が起きて、釜ヶ崎では一切原発の求人はない、もう全くない。完全に闇に入っちゃった。 それで現地の人達が言うには、これは聞いた話ですけど、4軒に一軒は原発関連の仕事をしてると。まあ町で4軒家があったらその内一軒は原発関連の仕事。そ れくらい原発労働に頼ってると。この近所の小さな工務店が福島原発専門の仕事に入ってるようなもんなんですよ。だから放射能の問題とか何も知らない、ほと んど何もわからない人が下請けで働いてる。地元の人はそこらにいるおっさん、にいちゃん、ねえちゃんが普通に今までそれこそ安全神話の中で働いてて、その 人達が事故後もそれしか仕事がないから被曝覚悟で働かざるをえないってのが実情なんだと思いますよ。だから人災って言うけど、正直に言うとあそこまでなる とは誰も予想してなかったでしょ。そういう意味では自分達もある種無関心だったし。被曝労働っていうのが深刻な問題だとは思わなかったし。原発が事故った ら何十万とか、あの福島、郡山60キロ離れてるわけですから、あの一帯が農業も漁業も工場もほとんど全滅っていうほどの被害になるっていうのは僕ら自身も 考えてこなかったと思うんですね。なんていうかなあ、うーん、できてこなかったことがたくさんあったなと。下請けでね、動員されて声を出せない。もう明ら かに被曝してるのわかってるのに、本人達が一番わかってるわけじゃないですか。でも声を上げられない労働者が、まあ今4,000人って言われてますけど、 これが30万人って形でこの5年後作られると思うと、俺達は今まで何をやってきたんだっていう思いがありますよ。まあそんなところでみんなが少しそれぞれ のやれる事でつながっていければいいんじゃないのかなって思ってます。

全国から原発労働者がかり集められる

参加者C 原発労働の問題なんですけど、釜ヶ崎などから東北に持っていかれる人っていうのは手配師が中心であって、例えばグッドウィルとかフルキャストとか、そういう派遣から東北に送られるっていう方はいるんでしょうか。
中村 一時、清掃会社が求人募集を出してましたよ。清掃っていう事で。それは旧来、特に70年代、80年代までは物凄くいっぱいあったら しいですね。ビルメンテナンスの清掃ですね。そういう業者が五次下請け、六次下請けくらいに入って。もう亡くなっちゃったんですけど、新宿で野宿してた マッチャンっていう人が自分の原発労働の体験を話してくれました。ようするに雑巾で床拭くんですよ。それが除染、放射能を拭く。そういう仕事の仕方で当時 はやられてた。これはまだ90年代ですよ、彼が行ったのは。電工、配管工、それからコンクリートの穴を開ける仕事、それは何かというと配管を壁突き抜けて 外に這わせてという仕事があったらしくて、そういう具体的な職人を中心にして呼ばれてる。釜ヶ崎のTさんはもともとはトラックの運転手とか重機の運転もで きる方だったんですが、実際やったのは注水作業だって言ってましたけども。今はそれほどじゃないけど、がれき片付けの段階になったら、普通にこの辺で土方 工事やってるおっちゃん連中とか、それこそ派遣で働いてる人達が使われる。フルキャストが派遣やめて下請け会社になった、請け負い会社に衣替えして、また 求人募集やってんですね。そういう所がドンドン連れて行く可能性はあるんじゃないかと思います。まるっきり機械ではできない状況も出てくるんで。もうひと つは福島だけじゃなくて、ここまで被害が大きくなって、「脱原発」「反原発」って声が大きくなると、今ストップしてる原発がいっぱいあるじゃないですか。 普段は労働者は少ないんですけど、定期点検の時にワァーっと人を入れて点検作業をやるわけです。その時に被曝するんですね。その仕事が福島だけじゃなく、 今後圧倒的に増えていくんで、原発労働者が全国からかり集められるんじゃないかと思ってます。今んところ労働組合の動きはほとんどない状態ですが、なんと か気運を高めて原発労働の特殊性、被曝労働っていう特殊性をとらえて、それと先程言った請負制度、重層的下請け制度の中で末端の労働者が使い捨てられてい る状況を変えないと、日本の働く環境はいつまでたってもよくならず、それどころかますます悪くなる一方なんじゃないか。そういう二つの観点からいろんな方 と協力関係を作れたらいいなと思ってます。

労働者が声を上げてこそ従属的構造が変わる

参加者D 環境を変えるというような話をずうっとされてると思うんです。今までは、原発であれば国と地方自治体の政治的な取引とかがあっ て誘致されてるような側面があって、それが民間に落とされ、その中で重層的な構造ができあがってるのかなって想像するんです。今回の復興に関しても、原発 以外の部分でも、例えば漁業に民間が入ってくるかもしれない。経済特区みたいなものを設けていくかもしれない。結局はそれも国、自治体がからんで全体の構 造を作りながら、それを民間が受けていくっていう形になるんじゃないか。仙台にも新しいドヤができるって話ですが、結局また同じようなことが繰り返されそ うで、その重層的な構造を変えるのもなかなか難しいのではと想像してしまうのですが。結局どういう部分を変えていかなきゃいけないのか。今の話を総括して 聞くと、まずはその請け負ってる業者がいいのか悪いのか、そういう所を丹念に調査していくことが必要なのかなと、ちょっと考えたんですけれども。そのあた りは具体的にはどういう所から突っ込んでいくのでしょうか。

中村 特に原発労働については闇に閉ざされちゃってんで、調査っていう部分が物凄く大きいわけです。「俺、原発で働いてて、なんとかして くれ」みたいな相談はまあ滅多にあるわけじゃないけども、もし出た時に引き受ける場がなければしょうがないんで、そういった場を設けて、そういう相談など を通じてコツコツ調べていくしかないってことがある。もうひとつは「派遣村」とか「派遣法」の問題が一時大きく、労働組合なんかが取り上げて、「派遣法」 の抜本改正という形でやってきました。ただやっぱり根っ子は下請け制度や企業の重層下請け、従属的な構造を変えないと、派遣労働者に対する何の改善にもな らないってことですね。大きな労働組合、「連合」だとか「全労連」だとか「全労協」の人達は、「派遣法」抜本改正をやってきたんだけど、もうそれだけでは どうにもならない時代に来ちゃってんじゃないか。その視点なの。ただ僕らは本当に数人のグループですよ。普通の労働組合と違うのは、一緒に働きながらやろ うっていうふうにやってきたんですね。普通の大きな労働組合っていうのは一緒に働くってことはないんですよ。労働組合から給料もらって、常に相談を受ける 側で。相談に来た人を指導する指導員みたいな人ばっかりじゃないですか。でも、そういうんじゃないやり方を広めていかないと労働者は来ないんじゃないか なって気がすんだよね。労働者が声上げなきゃどうにもできないことだから。いくら大きい労働組合だといったって、労働者が声上げない事には何の力にもなら ない。で、声を上げられない仕組みを変えていくっていう事と、労働者の中に入って実態調べをする。やっぱり労働者と一緒に声を上げるみたいな事を考えてい かないと変わんないんだろうなあと。これは、あなたが言うようにそんなことできるかって言われればその通りで。ただ我々としては、夢がないとやってられな いんで。どっかで、ちょっとした風穴でも開けられれば。まあ僕らはもう年なんで、できればそういうことを考えていく若い人達、あるいは新しい母体になるよ うな所につなげていければいいかなあと。僕らはまあ触媒みたいなもんですよ。主役にはなれない。主役になるのは若い人達です。新しくやって下さいってやつ です。で、自分らはこういうことをやってきたんだけど、みんなはどう思うっていう話。だけど、全国に誰でも入れる「非正規ユニオン」「コミニュティーユニ オン」がもう何百とあるんだけど、なかなか力を付けられない。そういう所がもうちょっと力を付けていけるようなことを考えていかないと。「連合」、共産党 系の「全労連」それからちょっと左系の「全労協」って大手の労働組合あるんですけれど、そういうんじゃなくて一人でも入れる「コミニュティーユニオン」み たいな小さいんだけどそういう所が協力しあって、お互いに力を強くして。もっと一緒に働いたり、働いた仲間が立ち寄っていけるような、そういうのを作って いかないと、本当に力付けられないんじゃないかなという感じはしてます。まあ夢みたいなもんですよ。そうじゃないと誰しも20年30年っていうのは難しい 話で。ただ、殺された山岡さんとか佐藤さんもそうですけど、これだけは引けないっていう所がみんなあって。できるかできないかはわかんないけど、これだけ はやっていこうと。それをできるだけ若い人に引き継いでいってもらえれば、本当に最高だっていうことです。
参加者E 活動されている中で、「反原発団体」の方とか、いろんなネットワークから被曝労働の現状や情報を手に入れられてるという話をさ れてたんですけど、そういった今後の情報共有についてどう考えておられるのかと。こういう場を設けることもそうですし、単純に僕が思ったのはインターネッ トとかを使って、今ユーストリームというサービスとかで個人がパソコンを持って行ったり、ネットに接続できる環境があれば、今日の講演もネットで放送がで きるんですよね。そういうのを利用するっていうのもひとつだと思うんですけど。あとはそのリスクですね。先程の映画も媒体をつくることによって殺されてし まったという歴史もありますし。今後もそういうリスクは伴うと思うんですけど、その二点はどうお考えなのか。
中村 うーん、まずリスクの方ですけど、それはあんまり考えたことはない。リスクはいつでも吹き飛ばせみたいな感じでねえ。それと私の世 代はアナログ世代なんで、私、全然駄目なんで。だからこそ若い人に入ってもらって、やってもらうしかないわけ。人間誰しも完全な人っていないじゃないです か。まあ私なんかは悪いところだらけなんですが、みんないいところがあるから、それぞれが補い合ってひとつの事をやれればいいんじゃないかな。ただ、今は 原発労働の問題についてはいろんな人達が取り組み始めてるんで、そのネットワークでそのうち情報は流されていくと思いますよ。ちょっと専門的な内容なんで すけども、「被曝労働マニュアル」っていうのを今仲間が準備してます。どういう構造になってて、どういう事に気を付けなきゃいけないのかっていう、原発に 行く時の注意ですよね。来月の初めには出ると思います。その辺から少しずつみんなに伝えていければと考えてます。
司会 時間も押してるんで、この場はここで。中村光男さんでした。ありがとうございました。それから、ちょっとここでは話し辛い、直接中村さんに聞きた い、あるいは映画の事について話したいという人は、隣の部屋にお酒や飲み物を用意してありますので、時間がある人はどうぞ残ってください。
(2011/6/25 planB)

2011年6月25日

plan B定期上映会

山谷から震災・原発危機状況の福島へ
中村光男(日雇全協・山谷争議団)

現在続けている被災地支援の内容と、原発および被曝労働者を巡る問題を、中村光男さんが得ている最新の情報をもとに、山谷と関連づけてお話しいただきます。
原発労働が土建と同じ重層的下請労働で行われている問題と、声を出せなくされている状況について。山谷の差別抑圧構造が世間から伏せられたまま経済成長が語られていたことと、被曝労働者の現実を隠蔽しながらエネルギー像が語られ大量のエネルギー消費が進められてきたことについて。そして、今の取り組みとしての被曝労働自己防衛マニュアルを用いた被曝労働者への取り組みについて、それぞれお話しいただきます。

実録・山谷「現場闘争」を語る ー 山谷争議団三十年の闘い

三枝明夫&荒木剛 司会・キムチ

山谷争議団――初代代表の三ちゃんといまだ現役の又やん

キムチ コンバンハ、キムチです。通称名ですけど。この名前付けたのは二十歳頃で、すでに38年が経過しました。73年から山谷の現場闘争 委員会で寄せ場の運動に関わることになるのですが、日雇労働者としては、十八のとき高田馬場の朝の寄せ場でデビューして以来40年を迎えます。
さて今日は、山谷争議団が結成されて今年で30年を迎えるということなので、上映委に無理にねじ込んでミニトークの場所を設けてもらいました。ビラでは 「実録・山谷争議団」とされていますが、映画の宣伝ビラの調子で案内状を書いたので、上映委のほうで「実録」を付け加えてくれました。皆さんご承知のよう に「実録」と付けられたものほど、実態からかけ離れたものが多いということで、今回参加した三人の勝手な実録として理解して欲しいと思います。さらにもう 一つ、実は山谷上映委と山谷争議団はあまり仲が良くない。詳細はここでは省きますが、実質的な和解はできていません。それにもかかわらず、30年のテーマ を持ち込ませてもらったのは、ただただ上映委の皆さんの大人の対応だと思っている次第で、私たちはそのことを決して忘れていません。
さて今日は二人の仲間に登場してもらっています。一人は三枝明夫、仲間内では三ちゃんと呼ばれています。彼は私より前に山谷に流れ着き、学生時代は民青 で、山谷では東京日雇労働組合(東日労)で活動していました。東日労というのは72年8月、「悪質業者追放現場闘争委員会(現闘)」の結成前にあった組合 で、委員長は革マル派の人で、書記長には山谷のマンモス交番の警察官を刺殺し、現在30年以上も無期刑で旭川刑務所に服役している磯江洋一さんです。三 ちゃんとは現闘のときから顔は知っており、あいさつ程度の付き合いしかなかったのですが、磯江さんの79年6月9日単身決起があり、それを救援するために 現闘のときの仲間が集まって「6.9闘争の会」を結成したのですが、そのとき彼も参加してきたのです。仲間に慕われ、争議団のときの初代代表です。この映 画にもよく登場し、人パト(「人民パトロール」)での労働者への対応も三ちゃんらしい素朴な対応で、私はこの映画の助演男優賞は三ちゃんだと勝手に思って います。私と三ちゃんは、争議団での活動は87年ぐらいまでで、活動家としては足を洗い、ただただ生活と日雇労働に埋没してきました。私は20年以上どこ にも顔を出さず、6年ほど前から磯江さんの支援の運動の末席に顔を連ねています。三ちゃんは昨年暮れに磯江さんの集まりに25年ぶりに皆の前に出てきてく れて、「磯江通信」の発行を手伝ってもらっています。
そしてもう一人は荒木剛、又やんです。私が84年に山谷に復帰して以来の知り合いです。又やんは山谷に復帰して以来の知り合いです。又やんは争議団結成 前の「6.9闘争の会」の後期に参加しており、私と同い年です。彼は関西で中小企業の労働運動をしていたのですが、仲間からの誘いで山谷に入ってきまし た。本人の弁だと喜び勇んで山谷に入ってきたと言うのですから少し変わり者だと思いますが、少し変わった人間でないと寄せ場での活動はできないので、山谷 の水が合ったのでしょう。最近デモで13年ぶりに逮捕されたらしい。何年か前に又やんとデモに同行したことがあるが、一人で若くないのにワアワアわめく し、動き回って警察官を挑発している。私の記憶ではそんなに暴れる人ではないと感じていたのですが、今どきのデモは若い人たちも静かな対応なので、逆に目 立ったということです。
さて今日は山谷争議団結成30年の節目としての企画であります。話したいことは山ほどありますが、今日は「現場闘争」に的を絞って話を集約していきたい と思います。事件は現場で起きており、会議室ではないと言っていたのは、映画『踊る大捜査線』の青島君ですが、日雇労働者の置かれた状況でも問題の根っこ は、日々の生活-労働過程であると思われます。そこでの問題を明らかにし、変えていく手段も現場で展開されていきます。私は何年か前にテレビのワイド ショーで、湯浅誠が、悪質な貧困ビジネスを現場で追及する場面を見たことがあります。弁護士も同行し交渉する形で闘い方も随分と様変わりしたという印象を 強く持ちました。闘い方は変わっても、この闘いの獲得したものは大きい価値があると思います。
前置きが長くなりました。今日は私が特に話すわけではないので、二人の弁士に席を譲ります。では三ちゃんからお願いします。

現場闘争、弱者の闘い、『電車男』

三枝 ここに居られる荒木さんなんかはそこのまだ現役なんですけども、映画にあるような当時の意味での、山谷争議団とか、日雇全協の運動と いうのは今はもうないわけですね。そういうふうになってしまったというのは僕らの運動の弱さだったんじゃないかなあというふうに思ってます。ようするに、 敵を作って団結するという形しかできてなかったと。自分達の(主体性の)中身でね、寄せ場で再生産構造を作るというか…。映画では、(炭住がなくなって も)炭住の中でそこに生き残ってる人らと子供が出てきたりね、風呂に入って三橋美智也かなんかの歌が流れてるような場面がありましたけども、ああいう感じ がなかったというか(※①)
山さんが遺稿集の中で書いてますけど、寄せ場の周辺には朝鮮人(居住区)とか被差別部落とか売春街とか、そういうのがセットであるわけですよね。山さん もそういうのを、一つ一つ別々の差別とか、そういうふうに問題を立てるんじゃなくて、全体を統一して掬(すく)いだすような視点が必要なんじゃないかとい う風に言ってます。で、僕の場合、歴史の地縁性というか、そういったものの捉え返しが不十分だったんじゃないかなあと。だから今もそういう陣形が作れてな いんじゃないかなと、非常にそういう気がしてて。それで、この映画では「資本主義の近代」から山谷とかを説き起こしてますけども、もっと(遡って、例え ば)古代からの地縁性みたいなものから説き起こして考えていく必要があるんじゃないかなあと。というのは中世なんかでも、奈良とか京都とか都市ではね、 「非人」と呼ばれる人達が食うや食わずでたくさんいて、真言律宗の宗教者なんかが(今と全く同じように)、そういう人達の救恤(きゅうじゅつ)活動をやっ てるわけですよね。そういうのがずうっと今も、又ヤン(荒木さん)達がやってるホームレスの運動なんかにも引き継がれてると思いますし、そういう存在が単 に「資本主義(の近代)」とかいう事だけじゃなくてね、要するに国家の問題としてあるんじゃないかなという気がしています。
それで(ここから「現場闘争」の話に移る)、戦術としての現場闘争って、労働争議としてのね、現場闘争っていうのは今の山谷では行えるような状況ではあ りません。そういうところでは派遣労働者の運動とかに期待したいんですけども。まあそういう今の事は(現役ではないので)、僕は全然知らないんで、過去の 事についての能書きだけ言いたいと思います。
一つは、弱者の闘いだったという事。山さんも(映画の問題として)本の中で自己批判的に書いてるんですけども、僕らも含めて山谷争議団の人間がカッコ良く 映っちゃってるんですよね。あれがやっぱり、僕なんかは、スターリン主義に陥るような落し穴なんじゃないかなって思うわけです。山さんも(この映画では活 動家ではなく)労働者っていうものを撮りたかったんだろうけど、なかなかそれが力不足でできなかったということだと思います。
それで弱者の闘いっていうのをここ(ミニトーク用のレジュメ)でも書いてますけども、どんなことかといったら、テレビでやった『電車男』ってありました よね、ドラマが。あれじゃないかなあって思うんですよ。要するにカッコイイ人がじゃなくて弱い主人公ね。ものすごくオタクくさくて、なんかドジで間抜けで ね。それで(若い女性に暴力的に絡む酔っぱらいのオヤジに)足が震えながら抗議して。そしたら反対に打ちのめされたりするわけですよね。それで(酔っぱら いを)取り押さえたのはカッコイイサラリーマンだったんですけども。伊東美咲の沙織役のね、エルメスさんが――この人の名前だけは、美人で覚えてるんです けども――彼女が惚れたのはそのサラリーマンじゃなくて、カッコワルイ、オタクの主人公の電車男。それでなんでかなと思った時に、やっぱり弱い人間がね、 なんか逡巡しながら、迷いながら立ち上がるっていうのが人の心を一番ゆさぶるんじゃないかと思うんですよ。こないだのチュニジアの「ジャスミン革命」の始 まり(の焼身決起)も、現場闘争とかそういう組織化されたような運動もなんにもないような独裁政治の下にいた人(の行動)ですよね。物凄く苛められて、無 許可で売ってた果物とか取り上げられて、メシが食えなくなるって事で「立ち上がって」行ったと思うんです。それと『電車男』と、無理矢理つなげてるかもし れませんけれども、(電車男の行動も)そういったものだったと思うんです。で、そういうのが、この映画で描き切れてたかといったら、まあ難しいですけど ね、そこら辺が撮り切れてないなあというふうに思います。

寄せ場内部の目線と境界的な目線

そういう事ともう一つは、直接性。それまで、「行政闘争」はたくさん「東日労」などでやってたわけですけれども、「現場闘争委員会」(という組織)が やったのは、行政に文句を言っていくという形じゃなくて、『電車男』が電車の中で文句を言ったような異義申し立ての形とつながると思うんですよ。そこ(電 車の中)で見て見ぬ振りして後で駅員に、「こんな事があったぞ、オマエなんとかしろ」とか言うのが、まあたとえたら行政闘争だと思うんです。現場でやると いう事こそに意味があったんじゃないかと。で、それを組織していくわけですけども、そういう現場の人達が体を張る弱者の闘いっていうものは、後先の事も考 えずに自己犠牲的に自分を投げ出すと――これは「贈与主義」というか「純粋自己贈与」というか、そういうものだと思うんです。そういうものを組織していく 過程で、組織していくって事は政治的にやるっていう事ですから、そこでなんて言うかな、「労働者利用主義」みたいな形が組織の中にできる可能性があると。 そういうのも気をつけていく必要があるんじゃないかなと思います。
それで(現場闘争が)行政闘争なんかとちょっと違うのは、現場で一回性のものだと、ガチンコ勝負。やっぱりプロレスよりもK-1とか、あっちの方がおも しろいのは真剣勝負だからであってね。負けるかもしれないと。そういうところに崇高さというか、そういうものがあらわれて、やっぱり人の心をゆさぶるん じゃないかと。現場闘争っていうのは、(別に)労働過程っていう事に限らなくてもいいと思うんですよ。弱い自分を曝け出して投げ出すというところに大きな 意味があるんじゃないかと、そういうふうに広げて考えれば、別に労働過程の問題だけじゃなくて、いろんな所でいろんな取り組みの中で現場闘争というのはあ り得るというふうに、まあ思うわけです。
そしてそれを作り出したのは、労働者の、寄せ場の中の内部的な目線だけじゃできなかったと思うんです。やっぱりそういう闘争が起こった時代は、暴動など も60年代前後から起こるようになったんですけども、「現闘」(現場闘争委員会)が現場闘争をやりだした時代は、若い人が(寄せ場に)ドンドン来るような 構造があったんですよ。景気が良くなった時代だったと思うんですけれど、そういう新しい人達が境界的な目線を持ってね――内と外の目線を持って、つまり 「活動家的に」という事だと思うんですけども、やり始めたからこそ闘いが起きてきたんで。抑圧されてるから闘いが起こるんだとかただ単に言うのは、あれは なんか嘘だと思うんですよね。奴隷なんかは文句言わないから奴隷が成り立つわけでね。で、奴隷の闘いも、そういう境界者が現われてね、起こっていったんだ と思います。だけど、そういう境界者が本当の外部者になってしまって、その内側の人を利用するような形になると、そこにスターリン主義みたいな形の、落し 穴があるんじゃないかというふうに考えています。

末端・周縁で下層同士が闘わされる

筑豊とかいろいろ映してましたけど、そういう闘い(炭鉱とか寄せ場とかの労働運動)が起こる現場っていうのは、2008年の11月29日のミニトークで 平井玄さんという人が、「都市の壊れ方」というタイトルで話されてるんですけども、「本源的蓄積」っていうのが現われた場なんだというふうに言われてま す。
「本源的蓄積」っていうのはどういう事かと言いますと、マルクスの『資本論』に書いてあるそうですけども、資本主義っていうのは一見公正な商取引みたい な形で思われるんですけども、資本主義がその一番最初にやるのは農民を無理矢理都市に囲い込むような暴力的な仕方であって、その中で労働者が作られていっ て初めて可能になったというようなことです。平井玄さんは、そういうことが最初だけじゃないと、常に資本主義はそういう「本源的蓄積」を繰り返しているん だと、アルチュセールとか難しい人の名前を出して言っておられるんですけども。今のパソコンの言葉で言えばリセットして初期化するんだと、その初期化が 「本源的蓄積」であるというふうに言われてます。だから、今だったら非正規社員雇用とかの問題がそういう「暴力的」な、強制的な「本源的蓄積」の問題にな るんじゃないかと。まさに今の山谷の棄民政策みたいなものもそういう事だと思います。
この「本源的蓄積」が表している(問題)は資本主義だけじゃない。国家そのものの在り方っていうか、国家のはじめの在り方がそういうふうに、暴力を下に 転嫁していくという構造を表しているんだと思います――まあそこらへん(の問題)はちょっと場が違うからあまり言いませんけども――そういう暴力の発生っ ていうのは、(起源は)人身御供とかそういう事だと思ってまして。それで、戦争などの復讐とかいう問題も、人間の文化の「人身御供」とか「生贄」とか、そ ういう事の中から考えていく必要があると思います。それに「本源的蓄積」っていう問題が重なっているんだと僕は思うんですけども。
さっき(映画で)金町一家が出てきましたけども、(国粋会金町一家との闘いの)一番最初の発端となった件に、皇誠会っていう連中が右翼の服着て山谷争議 団に襲ってきた事件があったんです。考えてみたら、その彼ら(先頭に立たされていた黒い制服の若者たち)っていうのは、数年前に山谷で僕らミニ暴動を起こ したんですけれど、その時に一番先頭に立って闘った悪ガキどもじゃないかと。その時、先頭に立った(日雇い労働者)は酔っ払いが多くてね。「こいつら役に 立たんなあ」って思ったのですが、それに比べると、この悪ガキどもはオロナミンCを投げちゃあ引き、投げちゃあ引きって、すごく遊撃的に闘っていて、頼り になるなあって思ったんですよ。その子らが今度は皇誠会として現われる。それから、昔から今も続いてますが、悪ガキによるホームレス殺人事件があります ね。それに対して死んだ山岡監督が「彼らは自分の未来を殺したんだ」という言い方をしたんですね。その時はよく(意味が)分かんなかったんですけども、 (今になると)なるほどなあって思って。要するにそれは「他我殺し」っていう――アルター・エゴ(他我)っていう言い方が、心理学とか人類学であると思う んですけども――自分自身の将来(過去)とか、違った自分を殺すという形。暴力っていうのは(全部)そういうもんじゃないかなと。歴史的にみると、あの、 「金太郎伝説」がありますよね。あれは鬼退治、「酒(しゅ)呑(てん)童子(どうじ)」っていう鬼を退治しに行くんですけども、あの「酒呑童子」に「捨て (すて)童子(どうじ)」伝説――山中に捨てられると強く育ち、やがて英雄になるというような伝説があるんですが、それが(敵対する)「金太郎」とか「四 天王」にもね、纏わり付いてるんです。だから両方とも本当は鬼なんですよね。それを僕は、「オニオニズシキ」(鬼vs鬼図式)っていう言葉を、自分で勝手 に作って言ってるんですけども。(同じ意味を持った言葉に)「夷を持って夷を制する」という言い方があります。蝦夷退治に行った人で阿部氏とか佐伯氏とか は、坂上田村麻呂よりもちょっと前の人なんですけども、そういった将軍も(元々は)蝦夷(の血統)なんですよね。そこら辺は谷川健一の「白鳥伝説」とか菊 池山哉とか読んでもらうとわかるかと思います。
要するに、国家っていうのは、(位階制(ヒエラルキー)の下で)下層の一番末端とか周縁で、同じ階層の者が戦わされていく(機構である)と、例えば今の 戦争でもそうだと思うんですよ。構造は変わらないというか、弾先に立つ人っていうのは食い詰め者の志願兵とか、強制徴用された人とか(※②)、あるいは金 で買われた傭兵だとかね。与謝野晶子の歌に「すめらみことはたたかいに、おおみずからはいでまさね」とかなんとかいう歌があると思うんですけれど、結局戦 わされてるのは下層同士というかね、周縁というか、そういう部分だと思うんですよ。そういう(国家の罠である)暴力の図式っていうのを越えてく必要がある んじゃないかなと思っています。
ただ、今の民主主義の世の中では(国家の暴力性を隠ぺいしたまま、抑圧されている人だけの)暴力を、いけないというふうに言うわけですよね。それがお説 教として、むしろ(支配の暴力に対する)反撃を抑圧するような形であるんで、そういうお説教にならない形でどうしたらいいのか。結局死刑なんていうのも 「やられたらやりかえせ」ですよね。そういうの(報復暴力=敵討ち)を国家が管理してるだけであって。それについては、ミニトークで丸川さんっていう人 が、「みせしめのポリテクス」というタイトルで言われてるんですけども、(映画で)最後のラストシーンがありましたよね。手配師を段の上で土下座させて謝 らせてる。あれは「公開審判」であるというふうに言われてるんですよね。「公開審判」っていうのはもっとたどると「公開処刑」(公開の死刑)なんですよ。 「公開処刑」をもっとたどると結局「生贄」(※③)なんですよね。そういう形で僕らもやってきたわけですよ。それで山岡さんも映画を撮っていて気付いてい てね。この黒いパンフにも、「未来を予感させるには、現実の貧しさを映さざるをえない。その貧しさからにしか可能性はないのですから。それで、山谷の春闘 に戻ったわけです。今の我々の<やられたらやりかえす>力量だからです」って書いてますけども(※④)
僕の場合、「<やられたらやりかえす>力量」の問題としてより、むしろ、映画のタイトルでもある、<やられたらやりかえせ>というスローガン自体が、深く問い直される時期でもあると考えています。

みんなで作って一緒に食べる――共同炊事を起点として

荒木 ええ、前の話とどう切り結べばいいのかというのが非常にありまして。「現場闘争」という題なので、まあ三ちゃんやキムチなんかが離れ た後の、いわゆる90年代バブルの時期、94年なんですけれども。まあ93年から準備していた山谷労働センター占拠闘争について報告しておきます。野宿者 であっても、現場闘争は成立するというふうに私は考えてます。ある意味では一種の思想である。で、現場にしか解決能力はない、ただそのヒントは現場主義に 陥っている現場だけにはないんじゃないかという事を含めて報告します。いわゆるバブルが崩壊して、野宿者が山谷の周辺で一挙に増えたのが88年、消費税3 パーセントのとき。まあ仲間のみんなの生活が限界賃金に近い、生活のギリギリのところになって、ドヤの値段が上がったんですよ。1,000円が1,200 円とかね。それで一挙にダンボール村というのが隅田川沿いにできたりとかいう、そういう時代です。それでバブルが崩壊して、93年位から労働センターがド ヤ券とかパン券、そういうようなものを出すんですよ。ひと月の内に4日、5日とか何回かパンがもらえると。それでセンターのまわりをみんなグルーっと並ん で待ってるわけですよ。仲間が列を作ってひたすら下向いてずうっと待ってる。それでその前の年から何人かの仲間がこういうのをなんとかしなくちゃアカンと いうことで、共同学習みたいなことをして、93年の夏祭りには共同炊事ということをやって。活動家が作って、それを労働者が受け取って食べるというような 形をぶちこわしたいという事で。みんなで作ろう、仲間が共に、仲間と共に。みんなで作ってみんなで食べようというようなスタイルを実験的に夏祭りの場で やったりして。それで越年期を終えて94年に入って、センターの列がどんどん伸びて明治通りまで行って、みなさんは地理感覚がないと思うんですけども、そ れがドンドンドンドン伸びていくんですよ。みんなひたすら俯いて待ってる。
  それで他の争議団のメンバーに言ったのは、占拠闘争はできると。もう包囲、突入、占拠と進んでいって、包囲は労働者の形で、あとは俯いてじっと待ってるの がね、上向いてね、拳でも振り上げればこれはもう占拠になっちゃう。そして活動家が一緒にやるというスタイルで集団野営、共同炊事。センター前にみんなふ とん敷いて夜は寝て。共同炊事というのはテキ屋さんが街頭でやってるような十字の形の入れ子のもので台作って、そこで物を販売してるというのをね。これを 発想したのはみんな若い仲間でね。わしらが別に考えたわけじゃなくて。そういうのを含めて、台をずうっとセンター前の道に並べて、かまどで火炊いて。た だ、米を研いでね、それでもうかまどにかけて後はくべるだけというのだと、みんなが参加できるというのにはほど遠い。で、パレットを壊す人とか。パレッ トっていうのは焚き火の材料です。材木をね。それとテーブルの上で、みんなで小麦粉に水をちょっと入れて団子作って。昔の、今の若い人はほとんど知らな い、すいとん。団子を作って、野菜を切って。そうした団子作りならね、みんなでテーブルを囲んで一緒にやれると。ところが仲間は野宿している人が多いです から、みんな荷物持ってるんですよ。荷物持ってて置いといたら、どっかいっちゃったというのがあるからというので、作業時間帯はまあ会館で荷物は預かりま すよと。山岡さんが亡くなった事をうけて支援の人を含めてみんなで労働者会館というのを建ててましたんでね。夜みんながあそこでどうやったかとか、あそこ で野宿したとか、俺は仕事行ってるぞとかね、そんな話をしながらテーブルで団子作り、すいとん作りをするんですね。まあ3,400人いたら3,400杯分 作って。これが最後に750とか800位になってきてね。もう帰山(かつての山谷のボス)の家を越しちゃって裏までテーブルを出さなきゃならなくなって。 全体が全然見通せなくなるような形になるんですけども、一緒に作って、みんなで一斉に食べるというのはできた。

200名の仲間が山谷労働センターを占拠

夜そのセンター前で寝る仲間は、常時では40人位なんですけどね。正確には2月の頭から始めたのかな。それで2月の14日に新宿で一斉にみんな追い出さ れた件があったんですよ。96年の強制排除の前に94年2月17日。それでそこに行ってた争議団メンバーから2名がすぐさま新宿に飛ぶ。そういう気運は あったんですよ。みんなで一つのものつくっていこうというね。それで釜ヶ崎から勝利号というバスを空のまま借りて。昼間は40人位が寝て、炊事作業の中心 になって動いてくれる仲間と一緒に、昼間は新宿に行ったり、あるいは池袋に行ったりして仲間に出会うのと、あとカンパ活動。ふとんとか毛布とか手に入れた りね。そういうのをやってる中で、5月連休中。公共投資のサイクルで寄せ場の仕事が決まっててね。現場の役人なんかもみんな知ってるんですよ。5月期は全 然仕事がないのをね。ところが東京都なんか硬直してるからね。年末年始、3月位まで、12月から3月位まではあるんですけど5月ってないんですよね。これ は相当議論になりました。私も蜂起派というブント系の活動家なんですけども、他の党派の人なんか「そんな無茶な方針」と言って。無茶な方針といっても労働 者はそこでとにかく占拠に向かって、包囲はしてんだよと。それに答えるか答えないかだけやというような形で、論争もしながら気運は盛り上がっていって。そ れで5月の3日だったかな、200人、常時夜寝てたのが40~50名で、前日か、その前あたり1週間位はもう90名位寝るようになったけどね。200名近 い仲間が一晩占拠して。それで向こうの方は、東京都の方はてんやわんやしたけども所長が出て来て、土下座して。とにかく東京都に自分が責任持って請負っ て、ちゃんとやりますと。仕事とかパン券とかドヤ券などの改善をはかりますという形で、1日の占拠ではあったんですけどね。
ただこの途中に、わしらにとって一番大きかったのが94年の1月1日。この94年、94年1月1日って何か思いません? ない? いわゆる「新自由主 義」という言葉が初めて自分の頭の中に入ってきた。この1月1日にメキシコのチアパスという所でサパティスタというのが武装蜂起したと。で日本の現実じゃ なかなかこれが伝わらないんですけども。世界の基準で言えば伝わるものがあるんです。サパティスタは権力奪取を目指すんじゃなくて先住民の当然の権利、公 正で平等な権利の為に、それを訴える為には武器、銃を。もっとも大半は銃の形をした木のやつですよ。それでたちあがったんですよ。自分達は軍であると。暴 力の問題を出ました。自分達は、自分達の存在が一刻も早く消滅するように軍に志願したものであると。で、これはいわゆる「釜共」「現闘」の先輩方から教え られていた問題の先取りしたものだろうと。そんな情報が伝わってきたのは2月とか3月の時期です。その先輩方というのは、船本さんとか、磯江さんとか、あ るいは殺された佐藤さん、山岡さんとか、そういう仲間の事を含めたものですけども。チュニジアの彼は尊厳をかけて焼身決起したんですよ。それでイスラム世 界での宗教的な最大の課題である、自分の恐怖心を克服する、そういうのを突破したわけです。「新自由主義時代」の中での民衆が革命までいっちゃった、ほん とに。まあそういうようなことが同時代にあったんですよ。
そういう気運の中で新宿に飛んで。96年のことを多くの方はあまり知らないと思うんですけども、新宿での野宿者の闘いが始まったんです。その中で94年 には占拠闘争っていうのがありまして。センターは、そうやって一晩占拠されて、所長が出てきて、東京都と掛け合ってという事については一切マスコミは伝え ません。確か、その時マスコミにも伝えたはずなんですよ。けれども取り上げてません。なんか夕刊紙が一つ、ちょっと窓口が混乱したみたいな形で。というの は、センターの方が占拠された事を認めてないという形になってるんですよ。毎年発表する事業概要でも、窓口が混乱したみたいな形で。生存の淵にさらされた 野宿者が占拠するというのは、ちょうどこの94年の5月なんですけども、同時期だよな。フランスでドラワゴン街の占拠闘争というのが同時代性としてあった んです。ただ日本ではないという形にされている。現場の力が発揮できない形の、最大のものと思いますね。ああやっぱり日本の常識というのは外から見て、相 対化して、あまりにも非常識な事が多過ぎる。それ以降、2000年代入ってからは、持たざる者、ノードックスという連帯行動をやらしてもらいますという形 できましたけども。去年位からまた現場に復帰せざるをえなくなったというような、いわゆる混迷よりも苦難な時にあります。ただ今の94年の話の中にその現 場闘争のポリシーというのがあらわれていると思います。それで、わしらは仲間が思いっきり、当事者が思いっきり立ち上がる為の条件を組織すればいいんだ と。別段占拠とか、包囲とか、突入とかいう声をかけなくても、立ち上がる条件を組織したら、もうなっちゃうというのを実体験したという事です。

流動的下層労働者と日雇い派遣と野宿者

キムチ ああ、どうもごくろうさん。予定時間あと数分しかないんですよね。それで、今日初めて観る人達が二人の話を聞いてどういうふうに感じたのか。何かわからない事がありましたら、質問を受け付けます。知ってる人の質問はなし。はい。
参加者A 今日は茨城から来ました。あまりこむずかしい事は僕はよくわかんないんですが、マルクスの「資本論」を読もうとしたんだけど、難 しすぎてちょっと挫折しまして。今、僕は35なんですけども、若い人の就職が難しいとか職がないとか、そういう話題になってますけど、それについては持論 はあるんですけど、いろんな仕事やってきたから。それについてどう思いますか。まあ日雇いとかじゃないかもしれないけど、例えば大学生が就職難とか、途中 で辞めた人がまた別な仕事に移っても続かないとか。派遣切りされるとかで結局仕事がないとか。若い人でも生活保護を受けてる人もいるんですよね。テレビで 特集していたけど、その生活保護費でゲームしていて働かないと。まあそういう、現代の若者像を見てどう思いますか。
キムチ 私自身、日雇いを長く続けてるんですけれど、この20年間位の職場の関係、労働現場っていうのは、確かに日雇い労働っていうのは 3Kでキタナイ、キツイ、あともう一つはキケンか。危険だよなあ。鳶職やってたからねえ。キタナイ、キツイ、キケンっていう形でやってたんですけれど、私 はそんなに悲惨だとは思った事はないんですよ。どんな仕事であってもキタナイ事を片付けるのは労働過程の中で必要なわけですよ。キケンな事も必要な仕事の 一過程だから。一番上に立ってる人も一番下にいる人も仕事の過程としては一つだと。私は一番下で働いている者として、そういうふうに考えてきました。そう いった意味で、今の若い人達の仕事がない、生きるのが辛いということを聞いた時にね。確かにひどい状況だと思います。ただ、私自身が現場で経験してきた事 は、時代が違うと言われると思いますけれど、その日、お金がなくても余裕を持ってて。明日また仕事行けるとかね。その日、金がなくてもいいというような形 で生活、労働してきた者としては、若い人達のその辺の苦労がなかなか実感としてわかんないんですよ。仕事自体はいっぱいあると思うし。どんな仕事やっても 基本的には生産過程の一つだと思うわけですよ。確かに今の時代、仕事は少なくなってきているし、若い人達には仕事がないと思いますけれど。
荒木 70年代前半や60年代後半、今の人はわからないと思うんですけど、臨時工、社外工というのがあったんですよ、昔から、戦後から。そ の社外工のもとに必要になった時に組夫という形で、臨時的に動員されるのが「釜共」「現闘」が言っていた「流動的下層労働者」だと思ってます。現在で言え ばいわゆる派遣。日雇い派遣と言われるようなのが一番まあ近いだろうなと。今、野宿者に多くの仲間がなってるわけです。高齢化して仕事できなくて。そうし た時に、世間が言うところのいわゆる「乞食」「浮浪者」も含めて、我々の範疇に入ってきていて。今回、帰宅難民ということで、公共施設をすぐさま解放しま したけども。野宿者に関しては、公共地から排除します。人権問題で生存の危機にある人を、どこの国でも対策の最初にやる事は公共地を夜間解放するんです ね。だから日本は逆方向ですよね。そういう現状をふまえれば、私は若い人の方が困難があると思ってます。私達は高度経済成長期の中で自分で好きでおりて いったんですよ。そういう事もできる時代だった。今はそういうことはなにもできなくなっているという意味で困難な時代ですね。もっと大胆に働かないぞとい う形、高円寺の「素人の乱」みたいなね。自分達でリサイクル店をやったりとか。もっともっとああいうようなことが増えるべきだと思ってます。労働倫理が日 本では強すぎる。私も、正直に言えば働くのなんか全く好きじゃないし、昔は全く働かなかった。今はずうっと働いてるんですけどね。とにかくもっと分け合っ た方がいいと思いますし、若い人はこういう世の中、社会、日本の非常識な現実に対して、自分らで生存できる、そのためには群れをつくらなきゃだめなんです よ。それが今は分断されてる。

日雇い労働者と労働基準法

参加者B 日雇い労働者も労働三権というのは認められてますよね。団結権、団体交渉権、団体行動権というね。だけど、特にこういう不況な時 期には、日雇い労働者っていうと不利な扱いを受けやすいんですよね。それで、いくら日雇い労働者だからといってもね、不当な扱いだけは許さないように闘っ ていかなきゃならないと思うんです。以上です。
三枝 あなたは日雇い労働者ですか?
参加者B 違います。
キムチ その意見にどう答えたらいいのか。10年位前にこのプランBで山谷労働会館の館長の小田原さんが講演をしてます。その時に言ったキ ツイ言葉があります。金町戦が終わって5年位経ってからなんですけれど。「今の日雇い労働者の置かれている状況はいっそう厳しくなっている。それに対して 山谷争議団と全協は何をやってるのか」というキツイ意見が出たんですよ。それに対して答えられてないという事が、その当時でもあるし、現状でもあると思い ます。あの労働三権っていうような形では当然だよねえ。でも、私達は労働三権に則っての闘いはあまりできてなかったんですよね。
三枝 ああいうのって、要するに労働基準局とかに行って、俺も相談に行った事があるんですけれども「ああそうですか」で大体終わっちゃう。 そういう意味では、この映画の中でやってるように、自分らで何だかんだって言いながら、理屈こねながらやらないとできないんだと思う。力だと思うよ。
荒木 だから労働三権っていうのは、団結権、団体交渉権、争議権、これが三権なの。労働基準法で言えば、日雇いの条項で一般の人と一緒なの は年休、前年に働いた日数の総計で割り振りされるっていう位で。日雇いは普通の常雇用の形とは全く違います。同じ条件じゃありません。それで、労働基準法 では、有給休暇の件はある程度ありますけれども。
三枝 細かすぎる。
荒木 だからないっていう事。世界では、日雇という雇用形態が認められてるのも普通じゃないんですからね。原則禁止という国もたくさんある。ただそこで闇労働というような違う問題が出てくる。それでやっぱり権利の問題。そこらは、わしらは弱かったというふうに思ってます。
キムチ まあ私も40年間やってきて失業保険も貰った事ないし、有給休暇も貰った事ないし、何も貰った事ないんですよね。だからまあ税金も 収めなくてもよかった時もあったけれど。まあ労働基準局とかにはほとんど頼りにした事ないんですよね。実際、今もね、労働基準局を頼りにしていいのかって いう事になると、そこまで動いてくれるのかなあって思うんだけれどね。その辺はTさんがよく知ってんでしょ。
T氏 俺が思うのは、ブルジョワ労働基準監督署の方もブルジョア法という事で否定的だったんです。だから俺達の暴力、まあ俺達の闘いで決め てくと。だから労働基準法も関係ない。ただ、今の「フリーター労組」や、どこの労働組合も労基法を基準に運動やってると思うんですけど。当時は、もう労基 法じゃなくて自分達の実力で決めていくっていう作風だったんですよ。労働基準法じゃなくて自分達の実力で決めていくっていうのが本来の労働運動だと思うん ですよ。今はちょっと力関係ではなかなか難しいと思うから、まあ法律を武器にするのはいいと思うんですよ。
荒木 90年代は、昔の押しかけ争議の形でやって。その結果を労働基準局が所轄してるのに、こういう事があったぞ、お前らちゃんとやれとい うのんでやれてたんですよ。2000年代はアサヒ建設争議以外は、そういうダイナミックな押しかけ争議、あるいは呼び出し団交というのが私達の力量低下で やれてない。とりわけ90年代以降、労働基準監督官、役人もずいぶん変わっちゃった。昔は自分の仕事に誇り持っていて。労働基準法を厳密に適用すれば、不 利益労働者、被害労働者の利益にあまりならないんですよ。法律に違反した企業に罰金をかけたりしても、あるいは改善指導したりしても、その罰金は国庫、国 に入るんですよ。それで昔の労働基準監督官はね、不利益労働者の不利益回復で、法律の厳密な適用じゃなくて、オヤジに「やっぱりちゃんとしなきゃあかん よ」というふうな話も含めてやってた。今は、2000年代に入って、労働基準監督署も自分の仕事にプライドも誇りも持ってない。企業に罰金を課して、改善 の報告書を提出させるという、そういう形。それしかやらない。それもケツ叩かなきゃ、やらないような実情で。日本は内部から崩壊してると。役人の世界も崩 壊してると。経験主義ですけどね。

野宿者に対する排斥が広がっている

キムチ はい、もう一人。どうぞ。
参加者C 映画を撮られた当時と今と、山谷の人をめぐる周囲の人の見方っていうのは変わってますか。悪くなったとか、良くなったとかちょっとそのあたりが聞きたいんですけれども。
三枝 映画の当時は結構囲い込まれているというか、山谷っていうのが寄せ場、寄せ場してるっていう感じがあったんですけども。昔の話聞く と、全体が山谷っていう形がもっとあって。釜ヶ崎なんかは地域みたいな形でまだちょっと残ってますけども。今はどうなんですかねえ、ホームレス差別みたい な感じでしょ。昔で言ったら「非人」差別みたいな感じ。程度はわからないですけども本質的なところは変わらないと思います。
荒木 ただ、ドヤも数が少なくなってます。ドヤっていうのは泊まる所ね。3代目、4代目が廃業して民家になる。新しく建て替えて、バック パッカーの泊まる所になるというのが混在してきて。そういう中で、野宿者に対する排斥がすごいです。それが外に広がってますからね。例えば蔵前とか隅田川 の向こうの方で、江東区の方で炊き出ししてたら、「ここでやらんといてくれ」と。「山谷でやってくれ」と言われて。どうすりゃいいんだっていう、これはも う日本の現状は全く変わってません。昔は暴動がある危険な地域だということだったんですが、今は野宿者への差別です。
三枝 明治の時にね、下谷万年町というスラム街ができるんですよ。まあそこらじゅうに東京にはスラム街ができたんですけども。そこに都市雑 業貧民っていう、まあルンプロっていわれるような感じの人達がたくさん集まってたと思うんです。そういう「浮浪者」みたいな人の中から、その子弟がプロレ タリアートっていうか、労働者になっていく過程があるんでね。そこら辺は時代と共にいろいろ収縮したりして。寄せ場も、山谷みたいなところが赤羽にあった り、いろんな所にあったんですよ。小さいですけど。それがほぼなくなっていったんです。そういう事情はあります。
キムチ そろそろ時間なので、ちょっと一つだけ。ビラがみなさんのところにまわってると思います。これは最近出た「新宿連絡会」のビラなんです。
荒木 元争議団のメンバーが中心になっている。
キムチ ああそうなの。これは路上で拾ったんです。路上で拾ってちょっと読んで、非常に感心したんですよ。震災が起きたと。その事に対して 私達は何をするのかという事が書かれてるんです。それで大きな字で「静かな祈り」と出ていて。あの震災が起きても地道にホームレスの支援運動を毎日コツコ ツとやっていこうという事なんです。一つは衣類のカンパを今は自粛してるという事です。これは、ホームレス向けの衣類を災害者の方に向けてくれという事 で、「新宿連絡会」としては衣類を今は受け付けを断ってると。それともう一つは、静かな祈りで一人で花見はやりましょうと。もう一つは災害で東京にも流れ てくる人がいるという事ですから、もしそういうホームレスの人達を見付けたら「新宿連絡会」とか「山谷労働会館」とか「争議団」とかに連絡するように。そ してそれぞれが自分の経験に照らして、そういう人がいたらば声をかけてみましょうと。ああそういった事まで目を向けているという事で、私達の作っていた運 動から比べると感心するなあと思った次第です。とりあえず、ここらで終わりにします。ありがとうございます。
(2011.3.26 planB)

(三枝・脚注)
※①人間は、共通の敵を発見した時、「団結」することができる。しかし、こうした団結は、常に新鮮な敵を探し続け、その新鮮さの中で、過去の倦んだ「団 結」を更新し続けなければならない。またそれは、味方の中に、常に敵を発見し続けることでもある。なぜならこういった「団結」は、共通の敵という媒介を持 たないときは、「万人の万人対する闘争」(ホッブス)という関係を基盤としているからである。そうした関係性を克服するために、媒介性の薄い、直接的関係 性(共感的関係性)=「共同体的関係性(?)」(政治よりも情念に依拠した)の中で、次代の担い手を育て上げていくことができないだろうか。炭住には寄せ 場よりそういった「再生産性」があったと思うが、しかしそれも、国家の産業構造・エネルギー政策の転換の中で、殆ど消えて行ってしまっている。
※②その一つの象徴が、第二次世界大戦における、朝鮮人、台湾人のBC級戦犯である。彼らは必ずしも「強制」で徴用されたのではないかもしれないが、当時、朝鮮と台湾が日本の植民地であったことを考慮すれば、たとえ「志願」でも「強制」と同等の徴用であったと言える。
※③見せしめの公開処刑(死刑)であり、かつ供犠(人身御供)であったような殺人の起源こそ、ゴルゴダの丘のイエスの、救世主(キリスト)創出の処刑であ る。もちろんそれは、意味として象徴的に起源的であるのであって、それに先立つ供犠なる死刑は無限に遡ることができる。すべての神々は供犠の負い目で作ら れたのである。阿部謹也(『刑吏の社会史』)は、ヨーロッパ中世の死刑が、古代の供犠の様式の痕跡を、色濃く残したものであったことを具体的に述べてい る。
※④山岡がそれをどういった意味で、我々の「現実の貧しさ」と言ったのかは、意見の分かれるところであろう。しかしあの映画を見た多くの人たちが、むしろ 吊るし上げられる手配師にこそ同情を抱いたのではないだろうか。それをどう捉えかえすか、それが山岡が我々に残した宿題でもある。

2011年3月26日

plan B定期上映会

● 実録・山谷「現場闘争」を語る――山谷争議団三十年の闘い

三枝明夫(山谷争議団結成メンバー)&荒木剛(現・山谷争議団)
司会・キムチ(金町戦元行動隊長)

1981年10月4日、山谷争議団が結成されてからはや三十年を迎えようとしている。
映画は、83年秋からのヤクザ金町一家と争議団・日雇全協の、山谷を舞台にした攻防の只中で撮影されていった。撮影の中で二人の監督を亡くしたが、画面に登場する日雇全協派遣団や争議団のメンバーも、その後十名以上が他界している。生き残った者たちも老人化し、きつい肉体労働に体がついて行かなくなり、土建現場からの撤退を余儀なくされつつある。
今回は、そのオヤジたちの重い口を開けさせたいと思う。彼らが何を伝えたいのか、さあ、ご期待というところだが、現場の闘いから離れ「活動家」を引退したものが、過去のこととは言え、皆の前で語ることは、恥の上塗りになるかもしれない。誇れる(?)ものは十数回に及ぶ逮捕歴しかない者達だが、そのこと自体が失敗や敗北の経験の多さでしかない。しかしそこから豊富な教訓も引き出せる可能性もあるということだ。
司会は対金町戦元行動隊長のキムチ。弁士は、山谷争議団と日雇全協の結成メンバーで、止めた後、二十数年ぶりにこういった場に顔を出すようになった三枝明夫、今も現役として争議団を守り抜く荒木剛の二人。
話したいことは山程あっても短い時間の中で、今回は映画の中でも出てくる「現場闘争」について焦点を当て、オヤジたちの「昔はこうだった」という戯言の中に、今に繋がるヒントが、何か一つでも隠れていればと祈るような気持ちで、しかし、一世を風靡した、少し古いが大川橋蔵や中村錦之助、あるいはもっと古ければ、ハンフリー・ボガードやゲイリー・クーパーにも劣らぬ顔ぶれを気負って、登場しようと目論んでいる次第です。乞うご期待。

流動する集団身体

東琢磨(音楽批評)

東と申します。まず初めにお断わりしておきたいのは、僕はこの「山谷」の上映会、それから『山谷-やられたらやりかえせ』という映画に直接関わってきた わけでもありませんので、作品について直接の制作された状況とか、あるいはどういう思いで作られたのかということを代弁することは一切できないということ です。
ただ、僕は1964年生まれです。で、東京に出て来て、そして大学を中退してブラブラしている頃だったか、四谷公会堂という所で、上映会を初めて経験し て。その時は本当にすごく観客も多かったし、入口が機動隊員で固められているような状態の中で観ました。その後に僕もいろいろあって、音楽関係の仕事をす るようになって。今日、そこの入口でも売ってますけどサントラですねえ、「蠱的態」という名前の。大熊ワタルさんや篠田昌已さんと仕事を介して出会うよう になったりして。で、その過程で映画を何度か観直したりしてきました。それでその間いろいろなことがありました。実は、2005年までは僕はこのすぐ近所 の、歩いてもすぐの西新宿に20年くらい住んでたもので、このplanBという所も、二十歳前だったと思うんですけど、1980年代初めに田中泯さんのダ ンスを観に来たんですね。で、考えてみると、このplanBや、『山谷-やられたらやりかえせ』とのつきあいは、断続的にではありますが、もう二十数年間 になります。

高速バスの中のジェンダー・階級

昨年末に広島でのイベントがあった時に、上映委員会の池内さんからいきなり東京の上映会で喋れと言われて、じゃあ、これからいろんな世代が続いていく時 に直接の経験者あるいは当事者ではない僕のような人間がどのようにすれば……80年代の初めにまだ若者、若者だったですねえ当時は、今年もうじき47にな りますけど。それで、その間にどういうふうに観ているのか。今、自分は東京から広島に帰っていろいろな活動をしながら、頻繁に移動してるんですね、いろん な仕事があるんで。2005年に帰ってからほとんど毎月のようにどこかに行かないといけない。沖縄にもしょっちゅう行きますし、福岡、関西、東京にも結構 行きます。それでいろんな動き方があると思うんですが、もうほとんど夜行バス、高速バスなんですよね。
それで、もう新幹線なんか使ってられないです。ドンドン支払いも悪くなってるから。僕はずっとフリー、もう1997年からフリーでやってますんで、会社 から旅費をもらうわけでもない。どこかの大学やいろんな所からシンポジウムや講演や講義で来て下さいと言われても、まだバブルが過ぎてしばらくは、 1990年代末までは、いわゆるトッパライで、とりあえず行ったら現金でくれるっていうのだったけれど、もう今やどんどんひどくなってきていて。来て下さ いって人を呼び付けても交通費は二か月後とか、ひどい所は領収書を出さないと旅費出さないとかっていう所もいっぱいあるんで。それでは生活はできない。 で、もうほとんど高速バスを使うしかなくなって。ただ、これが面白いんですよね。どういうふうに面白いのかっていうと、新幹線とバスではあからさまにジェ ンダー、階級の違いは明確に出てくるんですよね。今でもたまに新幹線を急ぎで乗ることはありますけど、ほとんどスーツ姿の人、オヤジさん。
バスですと、若い人達ばっかり。ここ数年間を見ると、まず若い女性が圧倒的です。あとは男の子でも就活風、あるいは僕らのような人間、まああきらかにサ ラリーマンじゃない人達だったですね。ところが、この二年間くらいに急速にまず僕の、もう父はいないですけど母くらいの、70代、80代の人とか、あと スーツ姿のサラリーマンとかも増えてきて。これは、スーツ姿のサラリーマンでいえば出張経費の削減とかもあるでしょう。まあ、そういう変化もドンドン起き ているんです。
なんで、これだけ若い女性が移動しているんだろうか。いろいろ観察をしてみると、例えばディズニーランドに遊びに行くとか、USJを見に行くとか、ある いはライブの追っ掛けとかっていう女の子達も多そうなんですけど、何か違うなあと。で、ちょっといろんな人に話を聞いてみると、夜の街の労働らしいんです ね、少なくない人が。
例えば二か月間中洲で働いて、その後に夜行バスで移動をして、それで広島の流川っていう所で働いた後に、今度は大阪のミナミに流れる。あるいは名古屋の 栄町に流れるっていう人達が頻繁に移動していると。こういう人達は同時に介護職もやったりするんで、夜昼ともにいわゆるケア労働ですよね。新幹線に乗って 移動している、あるいは飛行機に乗っているサラリーマン達を夜ケアし、昼はそのサラリーマン達が置いていった両親達をケアする、そういう労働で動いている と。これはいったいどういうことが起きているんだろうって感じ始めています。

地方都市のある種の異常な状況

『山谷-やられたらやりかえせ』ではいろんな問題が提示されています。僕は何度も観てますけれど、そのたびにいろんな問題を新しく発見できます。まず大 きな問題としては雇用の問題、国家が管理していたものを闇でヤクザがやっているっていうような話だったのが、今は大っぴらに派遣業の人達ですよねえ。それ どころかテレビで、ほんとにクソくだらない政治討論みたいな番組に派遣業の会社の社長とかが出てきて、なんかわけのわからないことを言ってる。それはもと もとヤクザがやってた仕事だろうっていうことなのに、なんかすごく居丈高に言い始める。僕も実は1980年代の末から90年代の終わりまで10年間サラ リーマンをやってたことがあるんですが、その時に雇用の流動性とかっていう言い方を使い始めて。雇用の流動性がその派遣労働の方に切り替わっていくんです が。
一方で、ここ数年は講義があるんで大学生とも付き合うことも多いいんですが、フリーターというかニートというか、もうどうなっていくかわからない状況の 中で、大学生の方が雇用の流動性を確保しないといけないっていうか、お前が流動性になっちゃうだろうっていう(笑)、倒錯現象が生まれてくるんですねえ。 今そこらの問題がすごく複雑になってきています。  東京や関西などの大都市圏の大学生や若い人であれば、いろんな違う生き方を選ぼうという動きがある程度できるけれども、地方の若い人達って本当にただで さえダメなはずなのに常にマネージメントの視線しかできなくなっているっていうおそろしさがあって。体制側の考えること、権力側、資本側の考えることを、 一番切り捨てられる側があたかも管理職のように体得していかないといけない。で、すぐに言葉でガバナンスであるとかマネージメントであるとかレギュレー ションとかっていう言葉ばかりを振りかざして。だけど、その内側では自分がいつ切り捨てられるかわからないっていう恐怖の念を持って生きているんだってす ごく感じます。これはほんとに広島というような地方都市にいるとかなり深刻で、まあ東京でもたぶんそうかなと思うんですが。ただ、僕が2005年くらいま でいた時にあった東京の息苦しさは、ここ数年変わってきてるんじゃないかと。やっぱり行き着く所まで東京は来てしまって、そこで若い層の人達はなんとかも う一つ工夫をしているっていう可能性が都市部、大都市であるからあるのかなと。けれでも、じゃあ地方や地方都市はどうなんだろうかっていうことをよく考え るんですね。で、その一つの可能性として、可能性であると同時に非常に苛酷なことでもありますが、深夜バス、夜行バスで移動している、まったくカウントさ れない女性労働者達とどういうふうに接点を持ち得るんだろうかということを考えたりしています。
今、広島に帰って僕は実家で母親と二人なんですよ。それと高校生二人が下宿しているんですね。広島県って非常にでかい所で、ほとんど都市がないので広島 の山ん中や島の方からうちの近所の県立の工業高校なんですが、そこに来る子達が下宿しています。それで彼らを見ていると、もう本当に大変なんですよね。
スポーツで入って来る子も多いですから、これは近年の不況とはまた別の問題で、日本のある種すさまじい現実を見させられるんですね。スポーツで高校に入って来てレギュラーになれなかった子達とか。
一方で「山谷」の映画であったように今まではある程度みんながなんとか食い詰めても山谷に行って、それで非常に厳しい状況であってもまだ団結できる可能 性があったにもかかわらず、もうドンドン追い込まれていく。で、ドンドン追い込まれていくのが端的な形で表れたのが年間3万4千人の自殺者という数字。 ひょっとすれば山谷や釜ヶ崎や寿町に辿り着いていれば一人で死ななくてもよかったかもしれない人達が、もう年間3万4千人も死んでいる。そういう分断の状 況をどういうふうに考えるか。
ところが、じゃあその問題をどういうふうに広島の内部で考えるかっていうことを、広島の大学生と一緒に話をしようと思っても、ここでまた一つの分断が生 まれてくるのは、広島というのは原爆が落ちて、国際平和文化都市と言われて、町にも地方公共団体にも市民運動にも広島大学にもいくらでも金が落ちてくるわ けです。で、そこの広島大学の大学生達が「難民映画祭」というのをやる。へえ、それはすばらしいと思って、まあ新聞報道を読んでいたんです。ところがその 記事ですが、外務省と国連と協力して世界中の本当の難民をネットカフェ難民とか言ってる連中に教えてやるとか平気で記者会見で言ってるんですね。広島大学 と外務省と国連と共同して「難民映画祭」をやる子達というのは、自分達はそういう貧困の問題や平和の問題に関わる以上は、きちんとした地位と収入を得られ なければ関わらないって言い出してるみたいで。どういうことかというと、まあNPOもだいぶ問題はあると思いますけど、市民運動レベルでは参加しないと。 だから大学院の修士課程で国際政治学をやったり、その間でインターンで国連に行って、アメリカの大学でPh.Dを取って、それで国連職員になるというえさ をぶら下げられるわけですね。そのえさをぶら下げられて動いてる間に、もう就職もなにもドンドンなくなっていく。またそれでドンドンこじれていく。じゃあ 早めに動こうよって言っても、もう動けないんですね。先に少し話したような大学生たちが管理者の視線でしかものを考えなくなっているという話とも同じです から、東京でもそういうのがたくさんあると思うんですけれど、一方で少なくとも、僕が東京にいる時には、いろんな運動に関わってもそういう人達と付き合う ことはなかったですね。地方都市の中でのある種の異常な状態、まあこれは広島が特殊なんだろうかなあと思うんですけれども。そういうのを感じます。
そういうのをいろいろ考えている時に、何度も『山谷-やられたらやりかえせ』という映画を観ていると、発見があるんですよね。現実は何にも変わっていな いのに、それがすごくきれいらしく作られて、本質が誤魔化されていると。それでその本質を誤魔化されている時に、今日も若い人がたくさん観に来ているよう ですが、どういうふうにみえるんだろうなあと。剝き出しの暴力ではない、もっと陰湿に囲い込まれて。ところが、マスメディアや消費文化的には非常にキラキ ラしたものだけになっているから余計影が見えなくなっている。で、その影がより一層濃くなっていて、そこから目を背けるというか、もう気付かないようにし なければ、社会から外れてしまうっていう無意識の恐怖、不安のようなものがドンドン人を取り込んでいく。そういう中で、どういうことができるんだろうな あって考えています。

ベンヤミンの「流動する集団身体」

それで今日のトークのテーマというか、タイトルにした「流動する集団身体」という言葉ですが……これはヴァルター・ベンヤミンという思想家、ドイツのユ ダヤ人で1940年にナチスから逃れてフランスとスペインの国境で自殺した人です。彼が1920年代か30年代に書いた『シュールレアリズム』という論文 の中で最後の方に出てくる言葉で、いろんなふうに日本語には訳されているんですね。集合的身体とか集合身体とか。
ちょっと説明なし読んでしまうとわかりにくいかもしれませんが、ずばりのところだけ読んでみると、「集団もまた身体的である。技術の中で組織される集団 の肉体がその政治的、具体的な現実性の全てを備えた姿で生み出されるのは、あのイメージ空間……」イメージ空間とはまあ映画とかいろんなものをここでベン ヤミンは指しています。「……イメージ空間、世俗的啓示のおかげで私達が住み着くことのできるあの空間の中においてでしかありえない。世俗的啓示において 身体とイメージ空間とが深く相互浸透し、その結果、革命のあらゆる緊張が身体的、集団的な神経刺激となり、集団におけるあらゆる身体的な神経刺激が革命の 内で放電されるならば、その時初めて現実に『共産党宣言』が要求している程度にまで自分自身を乗り越えたことになる。この宣言が現在何をするよう命じてい るのか。それを把握している人間は目下のところシュールレアリスト達だけである。彼らはそれぞれに表情による黙劇を演じている、毎分ごとに60秒間ベルを 鳴らす目覚まし時計の文字盤になりかわって」こういうふうに言っているんですね。
これは、シュールレアリズムが出てきた同時代に書かれた批評です。ですから、この論文と一緒にブレヒトであるとか、あのベルトルト・ブレヒト論であると か、『複製技術の時代における芸術作品』って映画論、それも読む必要があるんですが、この集団身体、集合的な身体、それと神経刺激とはいったいどういうこ となんだろうというのを考えるんですね。  2000年代の初めに東京でいろいろモゾモゾしている時に、9・11が起きて反戦運動のようなものがひろがった時に、あのマスコミとかマスメディアの話 になると、もう全く何の意味もないと。それを非常に感じたのが9・11以降の反戦運動の広がり、特に反報復ですね。アメリカの内部から、9・11に対して ブッシュが報復する可能性があるので、もうみんなで止めてくれと。世界中のみんなが止めてくれっていうのを、まさにニューヨークのWTCの近くのイースト ヴィレッジやロアーイーストサイドのアーティスト達から真っ先に、本当にその日のうちにメールが着きだして。それに対して、まざまざと思い出すのは日本の マスメディア、大新聞の全く何の意味もなさない報道ばかり。世界的なインターネットでの反戦運動のひろがりをせいぜい後追いをするかのように報道を始める くらいなものでした。
先程、例を出した夜行バス、あるいは高速バスで移動する、国内ですとそうですよねえ。今はもう急速な勢いで始まっているようですが、そのうち成田−上海 は5,000円くらいで立ち乗りの飛行機になると言われてますよね(笑)。実は、それは1990年代の半ばでもそうでした。香港−成田−ニューヨーク便っ ていうのがあって、この中はほとんどチャイナタウンのような状態だったんです。そういうふうに非常に活発に人が移動しています。
それで、先程の『山谷-やられたらやりかえせ』の両義的な空間、あるいはまさに一つの場所で身体が集合する可能性を断ち切っている雇用システムを、一方 でインターネットであったり、インターネットを利用することで日本国内の様々な都市を労働者が個別に分断された形で、格安バスで移動するというふうにも なっています。この両義的な空間っていうのがすでにもう人々が集まれる空間ではない。
これはあるパレスチナの研究者が一つのキーワードとして言ってる「スパシオサイド」、空間殺しですね。空間を殺して人が集まれないようにする。だけれど も、一方でインターネットが全然違う人達を結びつける可能性もある。分断しながら結びつけていく。同時に、いろんな身体が動き回っている。そこで、ベンヤ ミンがシュールレアリズムや映画を観ながら1920年代から40年代にかけて、彼自身の身体や感受性や思考をふるわせていたものを、今の段階でどのように 考えることができるのか。ただ、このベンヤミンという人は圧倒的に厭世的でペシミスティックな人でしたから、今それこそ僕らももう一度徹底的に絶望するし かない。現実は本当に絶望しきっているわけですよねえ。
僕が東京に住んでいる時、この近所のよく飲みに行った飲み屋さんで、当時高校生の女の子、もう大学生か、働いているか、それとも夜の女になっているかも しれないですけど、「もう夢も希望もないよ」とか言ってました。「楽しいことはディズニーランドに行くことだけ」って言ってましたけど。そういうのをふま えた上で、もう一度何を考えることができるのか。そばにいる人もそうだし、夜行バスに乗って隣に座ってる人は何をしているんだろう、どこに行くんだろうと か。あるいはインターネットをやっていて、会ったこともない人と友達になるかもしれないけれど、意見が合う人、合わない人とか関係なく、どういうふうに対 話ができるんだろう。それを今回の「流動する集団身体」ということでちょっと言ってみたかった。

移動する人と閉じこもる人

それと移動をしている人びとが数多くいる一方で、もう全く引きこもっている人達もいるでしょう。また、移動を常に繰り返している労働者達と、労働者の中 でも移動が全くできない、本当に閉じ込められているような工場の労働者とか、あるいはショッピングモールの労働者などの、そういう人達とどうつながってい けるのか。
昨年の夏なんですけども、ちょっといろんな所に呼び出されて行かないといけなくなって、久しぶりに二十数年ぶりに青春18きっぷを買って、コトコトして たんですね。たまたま関西学院大学に講義に行った時に、伊賀上野の出身の子がいて、それで彼に伊賀上野へはどうやって行くのって訊いたら、「関西本線って いうのがあるんですよ」と。東海道本線がありますよね、名古屋からいっぺん琵琶湖の方に上がっていって、京都に下りる。それは東海道新幹線も走っているや つです。関西本線はそれができるまでに三重、名古屋から奈良、それからこの間事故のあった福知山線につながる線路だったんですね。福知山から名古屋までつ ながっている、三重や奈良の方を走るのが関西本線。今、関西線って言ってますが、東海道線に東海道新幹線が走るまでは、この関西本線が一つの大きな基幹線 路だったらしいんですね。伊賀上野は、戦国時代からある忍者の所です。その近くに、亀山城で有名な亀山という所があります。ここにはシャープの液晶の巨大 な工場があります。ほんの二、三週間前、去年の年末にその工場に行く外国人労働者が乗ったバンが事故を起こして何人か亡くなった所です。
で、そこに行ってみようと思って。尼崎から紀伊本線かな。奈良大和路線っていうのがあるんですよ。それで奈良の方を通って、奈良から関西本線に入ってい くんですけどね。亀山にしても伊賀上野にしても昔からある町だし、歴史を知っていれば聞いたことがある町です。でも、夕方通るんで時刻表を見たら奈良から それを抜けて名古屋に行くまでに5、6時間かかるんですよ。東海道線を乗るより時間がかかるんだけど、まあ行ってみようかと思って。亀山でも伊賀上野でも コンビニの一つくらいあるだろうと思って行ったんですね。
ところが単線で本当にずっと真っ暗なんです。電車一両の中にいろんな外国人が乗って来て、途中でバンっていきなり電車が止まったら「現在、小動物が衝突 しましたので、しばらくお待ち下さい」と。だんだん不安になってきて。青春18きっぷで鈍行で行くと二時間くらいです。200キロ走ると大体30分くらい 乗り換え時間があって、まあ亀山でも伊賀上野でも晩飯食えるだろうと。でも、本当になんにもないんですよ。亀山に降りてみたら、そのシャープの巨大な工場 に行くバス、労働者達を運ぶバスは駅の前に止まっているんだけど、もうなんにもない。本当になんにもなくて。これは一体どういうことなんだろうと、考えざ るをえなくなるような所で。やっぱり閉じ込められているんですよねえ。同じような例として、琵琶湖の周辺でいえば大津の方が今、工場街になっていて。で、 そこに嫁いだ中国人の女性が本当に孤立して、自分の子供と同級生の幼稚園児を殺してしまったりというような事件も起きています。それは本当に行ってみない とわからないくらい閉鎖的な空間で。

広島・シャリバリ地下大学

広島でシャリバリ地下大学という、まあ変なことをやってるんですが、そこで学長を務めている行友太郎君という人がいます。この行友君はしばらく早稲田で こっちでいろいろ運動をやって、広島に僕より先に帰って。今はある工場で働いています。彼に聞いたのかどうかはちょっとさだかではないのですが、今、瀬戸 内海周りのいろいろな工場で働いてる人達の多くは渡り職人的にいろいろの工場の期間工として働いて、全く外に出ることのないような人もいるっていう話で す。あとショッピングモールの労働者もそうですよねえ。ショッピングモールも本当に擬似的な町の中にできあがっています。ショッピングモールってたかだか スーパーの延長と思うんですよ。入っているお店はほぼ全国チェーンだったり、あるいは世界的なチェーンだったりするんで、現地採用の人もいますが、ほとん どのお店の管理職はいろんな日本中のショッピングモールを何年か単位でまわされているんですよねえ。ほとんどその町に親しむ間もなく移動していると。しば らくその町に住んで、毎朝ショッピングモールに通って、二年たったら今まで広島にいたのが今度は名古屋に行ってくれとかって移動していくそうです。一方で その下のいわゆるアルバイトの人達とか派遣社員の人達は地元ですよねえ。この構図は、今までの大手の大企業がやってきたのとほとんど同じ、あるいは国家公 務員でいうキャリアとかと全然変わらないやり方なわけですね。そういう中で、もう一度どういうふうにできればいいのかを、ここのところいろいろ移動したり して、あるいは広島の中でいろんな人と会うたびに考えます。
それで、このシャリバリ地下大学に、今、大体20人から多い時は50人くらいが来るんですけれども、まあいろんな人達が来ます。大学生も来るし、あとフ リーターとか派遣社員とか、60過ぎて反原発の運動をやっている人も来るし。我々は何もくくりをしてないし、学費も取らないし、もう誰が来てもいいよとい うふうにはしているんですが、やっぱり正規雇用をされている人は一切来ないんですよね。大学の先生は別ですが。普通にサラリーマンやってますよ、公務員 やってますよっていう人は全く来ないんです。30、40でずうっと派遣社員の人であるとか、あるいはポスドクってやつ、大学院博士課程まで出てて非常勤講 師だけで食っている人達とか。
その辺のいろんな話を聞くと、特に派遣社員を続けている人達を待ち受ける罠っていうのはすごくあるみたいで。派遣社員の人達を次の段階で搾取するのは自 己啓発セミナーなんですね。これは正規雇用の人もそうだと思うんですが。先程の外務省とか国連であるとか、あるいは防衛省とくっついた平和構築みたいなも の、平和活動を派遣社員を続けながらやっているような人も来ていて、それでいろんな話を聞くと、平和活動家のための非暴力運動の基礎になる自己啓発セミ ナーなんてのがあるんだそうです。これはでも恐ろしい話で、10日間寺に閉じ込められて罵詈雑言を浴びせられて、それに耐えるのが非暴力運動ワークショッ プだとかいって。逃げ出してきたって言ってましたけど。なんとか抜け出そう、あるいは抜け出すだけじゃなくて、ある種自己実現的に社会に関わっていこうと する人達を取り巻く罠っていうのが何重にもなっているんですよねえ。基本的な構造は『山谷-やられたらやりかえせ』の中で描かれたものと全く変わらない。 そして、一見身体的な暴力や脅しの言葉がなくて、口当たりのいい言葉を使いながら、すごく高度な次元で人を抑圧する構造がドンドン複雑化しているっていう ことなんでしょうね。

いま一度、『山谷-やられたらやりかえせ』

そこで、もう一度『山谷-やられたらやりかえせ』を観ると、いろいろ考えてちょっと複雑な気持ちになってしまいます。どういうふうにしたら、こういう形 で具体的に一つの場所でみんなが一緒にいられるのか、そしてそんな場所が今作れるのか。もしそれが徹底的につぶされているのであれば、先程言ったような実 際に移動している人、あるいは移動はできないまま閉じこもっている人、その情報を分断したままつなげているネットのようなものをどのように今使うことがで きるのか。そのネットの問題性も含めて何ができるのか。で、そういう意味で先程ちょっと読んだような集団的あるいは集合的な身体、それをもう一度連結し直 していくようなうねりを、神経刺激的なものをどのように僕らが作り得るのか。それはどのような表現であるのかっていうことですね。
この間も、1月13日に広島でこの映画を観ながら、若い人も、広島の大学生達も来てくれていろいろ話をしてきたんですけど。まず出てくる人達の、どうい う言い方をしてたか忘れましたけれど、存在感がもう全然今とは違うって言っていて。それで、それをどういうふうに感じるのかなあと。
それと、「ヒロシマ平和映画祭」というのの事務局長をやったりしたんですが、白黒、モノクロ映画自体についていけないっていう若い人も多いんですよね。 今、僕は大衆文化の批評とかをやるのである程度アニメも観ますけれども、非常に複雑にはなっているんですよね。例えばアメリカのテレビドラマの『24』と かを観ても何が何だかわからない。主人公が何の為に動いてるのかわからないのに、やたら刺激的なシーンが多くて。で、なおかつシュチュエーションだけはす ごく複雑になってる。そういうものを見慣れていると、モノクロの映像を観るとか、あるいはこの『山谷-やられたらやりかえせ』を……ああそうだ。学生が 言ってたのは「言ってること、ほとんどわからない」と。確かに音声の問題とか、ちょっと上映環境の問題もあったと思うんですが、「ほとんど言ってることは わからないんだけど、何かすごい勢いを感じる」と。で、そういったものと、今の刺激をどういうふうにつなげて考えるのか。あるいはその差異をどう考えてい くのか。そういうことが、今すごく重要なのかなあと思っています。
僕は音楽批評から最近はいろんなことをやらされて、映画や写真や演劇まで書かされたりするんですけれども、さっきのアニメの例で言えば、すごく短いスパ ンの中で大量な表現が生まれて、それをマニアックに追っていくことによって一切の歴史性に近付けないという事態が生まれていると。例えば、音楽で言えば、 いろんなリミックスのバージョンが生まれるんだけど、じゃあそれを消化するだけで、この音楽がどういうルーツがあるんだろうかっていうところにいかない。 そういう意味で、非常に歴史が排除されていく。あるいは非歴史というか脱歴史化されてくる。そこで、もう一度時間や空間や記憶や、人々のいろんな交流を、 俯瞰的ではなく上からではなく、自分が常に動きながら、あるいは立ち止まっててもいいんですけれども、どういうふうに具体的に広がりを持って見ていくこと ができるのか。今の段階では僕はそういうふうに感じています。
その辺のことも含めて今日いらしている皆さんが、僕に質問をされても何も答えられないので、むしろ皆さんが勝手に喋っていただければと思います。今日僕 がぐずぐずと喋ってきましたけれども、その為のヒントのような話をできたのなら、広島から夜行バスで来た甲斐があったかなと思っています。

[2011.1.22 planB]

2010年11月13日

plan B定期上映会

北京郊外「農民工」居住区・皮村――北京テント芝居の旗揚げ公演と映画「山谷」上映会
講演者:桜井大造(中国「北京・臨テント劇社」・日本「野戦之月海筆子」・台湾「海筆子」所属)

2007年9月日本の「野戦之月海筆子」と台湾の「台湾海筆子」は共同して、北京の2カ所にテントを建て、「変幻カサブタ城」という芝居を同一台本・同一舞台の日本語版と中国語版にて日替わり公演した。
1カ所は北京の中心部、朝陽文化館とマクドナルド朝陽店の前の五輪広場で、無許可での公演であった。もう1カ所は北京の飛行場そばにある「皮村」という農民工(打工)の集住地区であり、こちらも無許可ではあったが、農民工の芸術団体が活動する打工博物館の前庭での公演であった。
今年の8月、3年前に北京のテント公演を企画制作した北京メンバーが中心となって、中国では初のテント演劇グループが旗揚げした。 テントが建ったのは3年前と同じ農民工の街「皮村」である。皮村は3年前より農民工の数も増え(現在2万人ほど)、いたるところから子供たちの歓声が聞こえる活気に満ちた場所となっていた。しかし、この街はもうすぐ跡形もなく消えていくのだ――。
今年夏の皮村のテント演劇と、翌月9月に行われた「農民工芸術祭」の「山谷」上映の件について報告します。

監獄(刑務所)のことも考えて下さい、とりわけ「医療」について 

中川孝志(元・山谷悪質業者追放現場闘争委員会)

今晩は、中川と言います。まず自己紹介からします。生まれは1949年です。今年61歳です。北海道生まれです。山岡強一さんも北海道生まれでした、私 は1968年に北海道から広島の大学行ったんですけども。で、その半年後には山谷にいたんですね。68年の11月に初めて山谷に行きました。この映画の監 督の山岡さんとは72年からの付き合いなんですけども、その前に船本洲治っていう名前はご存じかどうかわかりませんけれど、1975年に沖縄の嘉手納基地 で自決した船本洲治。それから次の年、1976年に大阪の拘置所で殺された鈴木国男。広島大学から山谷で活動をしていた数人のグループがいるんですけど も、私は一番若かったけど、そのグループの一員でした。船本、鈴木も死んでしまいましたし、残っているのはわずかです。一人広島に、わりと東京によく出て 来るんですけども中山さんという方がおりまして。彼も同じ大学です。

本当にわずかな仮釈放
今日は山谷の事ではなくて刑務所の話をぜひ知ってもらいたいと思いまして、この場を用意してもらいました。資料をお渡ししましたけれど、その前に簡単に 言いますと今無期刑囚というのが、これは2008年段階の統計ですけども1,711人おります。その内、この10年間の統計なんですけれども、仮釈放に なった人数が68人になってますね。これは平成11年、つまり1999年から2008年の間の10年間の統計なんですけれども。68人が仮釈放になりまし たが、しかし同じ時期に獄死した人間が121人になってます。数年前にいわゆる刑法改正で有期刑の上限が30年になったんですね。そうすると30年という 有期刑があって無期刑囚がいるという事は、30年を過ぎなければ、無期刑囚は仮釈放になるという事はないというような状態なんですね。実際問題としてこの 数年間みても仮釈になって出てきてる人は数名です。仮釈になる可能性っていうのは本当にわずかなものでしかないという状態が続いてます。その統計をとった 前の日にも無期刑を宣告された人がいますから、無期刑一年目っていう人を含めてですけども、1,711人の人数の中で20年以上というのが400人もおり ます。ですから年齢的には、20年以上いるということは、多くは60代をもう超えてるような年齢ですね。これから考えても、ほとんどの人が獄死せざるをえ ないような状況であるというのが今の実態なわけですね。

厳正独居13年間の磯江洋一さん
その中で、具体的な例として磯江洋一さんという、今旭川刑務所にいる方がいます。彼は1979年に、山谷のマンモス交番の警察官を刺殺したという事で 1981年から旭川刑務所にいます。今年で受刑生活は29年目になります。その彼の事を若干話をしたいと思います。磯江洋一さんは、逮捕されて以降徹底し て反権力と言いますか、例えば東京拘置所にいる間でも例えば一か月間の断食闘争をやるとか、徹底的な反権力闘争を獄中においてやってきたわけですけども。 その彼は旭川に入って以降13年数か月の間「厳正独居」という処遇にあってきました。「厳正独居」というのは簡単に言えば、刑務所に入った段階で処遇が分 けられるわけです。雑居房に入る人、それから労役で工場には出るけども夜間になって独居に行く人、それからもう一つは昼も夜も独居房にいる人というふうに 分類されるんですね。いわゆる「昼夜間独居」と言ってますけども、「厳正独居」というのは、言ってみればずうっと懲罰を掛けられているというに等しい処遇 です。
実は私も1984年から86年の間府中刑務所におりまして、その半分は「厳正独居」という処遇でした。残り半分は工場に出ましたけど。それで「厳正独 居」、昼夜間独居がどういうものであるかは身に染みてわかっているつもりです。一日中口をきくという機会はないですね。唯一、看守と一言二言言葉を交わす 機会があるかどうかというような事です。ほとんど、例えば運動の時間もそれから風呂に入る時も全て一人というのが昼夜間独居で、ずうっと部屋にこもりっぱ なしで一人で作業をしている。府中では、私がいた頃には東芝の買物袋、紙袋を作る作業でした。それをずうっとやり続けるわけですね。ほとんど口をきく機会 がない。私の例で言えば、半年経って工場に出ることが出来ましたが、その時には解放感といいますか、それは人の動きが見えるとか、休み時間に同じ工場の人 間と話しが出来るとかいうような事がすごい解放感でした。そういう意味で言えば、昼夜間独居というのは非常に懲罰的な意味が大きいという事です。工場の中 で、例えば看守に対して何か逆らったりすると、懲罰にならなくても「厳正独居にするぞ」という事が脅しになるわけですよね。そういうような処遇です。
その処遇を磯江さんは13年間掛けられていました。それで裁判を起こしたんですね。「厳正独居処遇」は基本的人権を無視した憲法違反であると。結果的に は負けましたけども、判決が出る前に工場に出る事が出来ました。当局は、裁判の結果を恐れたのだと思います。しかし13年間の「厳正独居」っていうのは、 全く特殊でもないんですね。ずうっと「厳正独居」にいる人もいる。それはいわゆる工場に出て、当局の言い分としては、「集団生活に馴染まない」という言い 方をするわけですけれどもね。しかしながら、その馴染まないどころが馴染むようにするのが刑務所の役割なはずなんですね、社会復帰する為に。だけど、そう いう道を実際には閉ざしているというのが現実の姿です。
磯江さんは今年で66歳になります。この間はずうっと腰痛、腰だけではなくてずうっと足の方に痺れがきてるという事で、運動が全く出来ないような状態で す。運動場は、一周200メートル位のがあるんですけども、それを一周する位で足や腰が痛くなって動けなくなるというような状態なんですね。それに加えて 「過敏性腸症候群」という、かなり神経的な問題も大きくあるんですけれど、ようするに腸の病気です。排便が非常に苦しい。下痢と便秘の繰り返しみたいなも のですよね。それをずうっと繰り返しているというので、健康面がかなり悪い状態にあります。それで私はなんとかして刑務所で必要な治療を受けられるように する、それにはどうしたらいいのかというのを追求したいという気持ちでいます。
お配りしたビラに書いてあるとおり、去年やっと6月6日に「6・9決起 30年」という集会をやりました。130人位の方に来て頂いて、これは予想を上 回る数でした。集会のサブタイトルは「寄せ場・監獄・貧困を考える」としました。寄せ場と監獄、それから貧困という問題は、ずうっと結びついてあるわけで す。刑務所の問題、監獄の問題というのは入った人間でなければなかなか関心を持てないでしょう。実際に本当に少数、非常にマイナーな問題です。しかし、人 の命に関わる問題ですから、これは社会的な問題に関心を持つ人はぜひとも関心を持って頂きたいと思ってます。ちなみに誰が言ったかわかりませんけども「監 獄の姿がその時代の社会の姿を映し出している」というような言葉があるわけです。監獄の状態が悪いという事は人間を大切にしない社会の在り方につながる事 だと思います。磯江さんに関しては、なんとか実際に治療が受けられるような処遇を勝ち取るにはどうしたらいいかという事で、少しでも実態を知って頂きたい というような事で話しました。
磯江さんは、仮釈放というのは権力の恩恵にすがるものであるとして、それを「拒否する」という考えに立っています。「仮釈放」の具体的な要件として、事件 に対する反省であるというのがまず第一の条件になります。それから次ぎに受刑生活が模範囚でなければいけないという条件があります。これは、刑務所の秩序 に従順であれ、ということです。加えて出所した時に住みかがある、仕事もあるという状態でなければ仮釈放の条件にはならないわけです。最初の、自分が起こ した事件を反省するという事がまず第一の要件ですから、磯江さんはそれに対しては「そのようにするつもりはない」という考えです。彼は「自分は仮釈放は拒 否する」というような姿勢を貫いています。

命が危険でも「刑の執行停止」はせず――丸岡修さん
それからもう一人、これは本当に命の危険にある人についてお話します。もう一枚のチラシを見て下さい。宮城刑務所の丸岡修さんという人です。彼は旧日本 赤軍で二件のハイジャックをやったという事で1987年に国内で、日本で逮捕されました。逮捕されてからしばらく東京拘置所にいたわけですけれど、その時 に肺炎にかかりましてその時の治療が非常にまずくて、東京拘置所で二週間近く本当に生死の境をさまようような状態になりました。意識が全くないような状態 で、その時には毎日弁護士に行ってもらいました。その後宮城刑務所に移監されて、今現在「拡張型心筋症」という、これはいわゆる難病指定されている病気な んですが、非常に危険な状態であります。「拡張型心筋症」というのは、とにかく心臓を移植するか、人工心臓を付けるしかやりようがないんですね。必ず、 徐々に悪くなるしかないという病気なんです。それに対して丸岡さんの弁護団は今年の3月、「刑の執行停止」の申し入れ、つまり刑務所にいるという状態に耐 えられる病状ではないというので、「刑の執行を停止してしかるべく入院治療させよ」というような申し入れをしました。今年の3月にやったのが4回目です。 全て検事からそれを拒否されました。「拡張型心筋症」、「循環器系」の専門医が4人、病状のデータを読んでもらって、その4人の医者いずれもが「速やかな 入院治療が必要である」という診断を下しています。加えてその中の一人の医師の病院に「入院する事を許可する」という、入院して頂いてかまいませんという ような承諾書ももらっています。それにもかかわらず検察はそれを拒否してきたという事は、遠からず内に死んでもよろしいという事と同じであると思っていま す。
その執行停止の申し入れを4回も拒否されて、その後に今年の6月ですけれども裁判を起こしました。二つあります。一つは「義務付け訴訟」と言うんですけ れども。内容は「執行停止を速やかにさせよ」と。そのようにする義務が管理側、つまり刑務所側それから検察側にはあるというのが一つ。それからもう一つは それに加えて「国賠訴訟」です。このような病状が悪化したのは刑務所側が十分な治療をしてこなかったという事であるから、それに対し、国家賠償を請求する というような訴訟を提起したんです。ところがその提起してから二週間位経って、最初の「義務付け訴訟」、入院治療させよという方は門前払いになりました。 今「国賠訴訟」だけは続けてはいるんですけれど、目的は入院治療を実現させることです。いかに命を生き延びさせるかという事ですから、そういう意味で言え ば今現在法的な手段として「刑の執行停止」を実現するという道はほぼ閉ざされてしまったという状態です。それに対してとにかく何が他に出来るんだろうかと いうと、ひとつは政治力を使う。あるいはマスコミ、つまり世論にどれだけ訴えるかという事しかない。あと、国際世論としてはアムネスティに緊急行動提起を してもらうというような道がありますけれども、それは今準備しています。
とにかく「刑の執行停止」というのは非常にハードルが高くて、今までの例から言ってもほとんど、例えばガンで余命何か月というふうに宣告されたというよ うな事でほぼもう死ぬのがわかってるという状態でなければ「刑の執行停止」をしないというのが、実際の今までの姿です。医者の能力も必要な設備もない、現 在の刑務所の医療では遠からず命が失われるという状態に対して、必要な医師と設備のある外部病院で治療させよ、という当たり前の要求に対し、それをしない という理由がいったいどこにあるんだろうかという事です。「刑の執行停止」という基準そのものを法務省、検察がどのように考えているのかという事を明らか にしなければいけないと思ってます。これからがギリギリの勝負であると思います。ガンの余命何か月というのと違って「拡張型心筋症」というのは、それこそ 極端に言えば明日病状が急変して死ぬかもわからないというような状態なわけです。丸岡さんは本当に日々命の危険の中にいるのです。

些細なことで仮釈放の条件を剥奪――泉水博さん
それからもう一人、岐阜刑務所にいる泉水博さんという名前はご存じでしょうか。今、私が持ってきた本は、もう亡くなりましたけど松下竜一さんという九州 の作家の方が書いた『怒りていう、逃亡には非ず―日本赤軍コマンド泉水博の流転-』という本です。これは河出書房新社から出ています。1977年に日本赤 軍のダッカ闘争というのがありまして、泉水さんはその時に指名されて、彼は航空機の中で人質になってる人が、自分が行く事によって助かるのであれば行きま しょうという事で行ったわけですね。その11年後、1988年にフィリピンで逮捕されました。1988年以降岐阜刑務所におります。そのずっと前の話なん ですけども、泉水さんという人は1960年頃に、ヤクザまがいの事をやってた事があるんですね。その仲間と共謀して、中身は具体的にはこれ読んで頂ければ わかるんですけども。強盗殺人という事で、彼自身が手を掛けたわけじゃないんですけども、共謀したという事で1964年ころに無期刑に処せられた人なんで す。その彼が確か1974年ころだったと思いますが、千葉刑務所にいた時に、もうあと一年経てば仮釈放になるという事が言い渡されていたんですね。ところ が雑居房の中の仲間が重い病にかかっていて、何とかその仲間に治療を受けさせたいと言ったんだけども、刑務所側に拒否され続けたんです。彼は、その同囚を 助けんが為に、助けたいという一心で看守を人質にして「治療を受けさせよ」という事をやっちゃったんですよね。それが74年か75年だと思います。あと一 年経てば仮釈放になっていたのです。私は、彼がその千葉刑務所で決起した時の裁判に行った記憶あります。それで看守に対する暴行で二年半くらった。それで 旭川刑務所に行ったんですよ。
そして、1977年のダッカ闘争で奪還の指名を受けて、いわゆる「超法規的処置」によって、アラブに行ったという人なんですね。通算してみたら、 1960年位に逮捕されて、1977年まで、それから1987年から今現在までという事で、人生の三分の二は刑務所暮らしをしてるという事ですね。非常に 「義侠心」に厚い人で、仲間を大切にする人だと思います。今泉水さんは無期囚で、年齢は72歳か73歳ですね。幸いな事に健康なんです。しばらく前から受 刑者に対する面会が緩和されまして、手紙も誰にも書けるんですね。面会は制限がありますけれど。昔は親族か弁護士、身柄引受人しか会えなかったんですね。 それがまあ会えるようになって。今岐阜刑務所にいて、岐阜に支援の何人かの人がおりますので、月に一回二回は面会に行ってもらっていて、非常にこう意気盛 ん、元気なんですね。それはまあ嬉しいんですけども。
ただ問題は、彼は無期囚であるわけです。そしてもう一つ、フィリピンで逮捕された時に「旅券法違反」がありまして、これが二年なんですね。二つの刑を 持っている場合一般的には長い方からやるという決まりがあるんですよ。例えば10年と3年があったら、10年をやってから3年に移るというような決まりが ある。ところが泉水さんは無期囚ですから、無期と二年なんですね。現在、無期刑で服役しています。そして二年の刑が残っているわけです。この二年の刑が 残っているうちはいつまでたっても仮釈放の条件が出てこないんです。それで今、当面の一番の獲得目標としては「刑の順序変更」といいますが、つまり現在無 期刑をやってるけれども、二年の刑を先にやること。それを済ませて、それから無期刑に返っていく。これをなんとかしないうちは「仮釈」は話にならないとい う状態なんですね。加えて、岐阜刑務所だけではないんですけれども、受刑生活の中で一年間懲罰にあわなければ、「無事故賞」と言う――「懲罰」になるのを 「事故」と言うんです。「無事故賞」というのは、一年なら一本というふうに言うんですけれども、それが「無事故賞」5本無ければ、つまり、5年間「懲罰」 にならなければ、岐阜刑務所の内規として「刑の順変」もしないし、もちろん仮釈対象にもならない。これはどういう法律に基づいているかを問えば、おそらく 何もないと思うんですが。
それで彼は三年間三本の「無事故賞」を持っていたんですね。それがほんのちょっとした事で、まったく些細なことで、懲罰になってしまいました。それで三 年間続いてきた「無事故賞」を?脱されてしまったのです。懲罰では、だいたい一週間とか10日の「軽塀禁」をくらうわけです。加えて「無事故賞」の剥奪で す。これは考えてみたら、3年間の刑が加算されたと同じ事なんです。それがなければ仮釈放の対象になりえたのに、その一言で「無事故賞」が全て剥奪されて しまった。そんな理不尽な事があるのかというような事で、彼は気持ちとしては裁判に訴えたいと考えています。もっともなことだと思います。これはもう自分 の問題だけではなくて、そのように苦しんでいる人間がたくさんいるという事で、なんとかこういった実態を明らかにしたいという事で裁判に訴えたいというふ うな事を今現在言っております。私としては今の泉水さんの「刑の順序変更」これをなんとかしてやりたいと考えています。この権限を持ってるのは検事なんで すね、担当検事は岐阜地方検察庁の検事です。その検事が「うん」と言えばいいだけの話なんです。それをとにかくやりたいという事、私の強い想いです。

徳島刑務所の暴動――肛門に指を突っ込む医者の蛮行
それから話を戻しますけれども、さっきの丸岡さんのことです。刑務所の管轄は法務省ですよね。法務省矯正局です。医療もすべてそうなんです。ですから今 弁護士会なんかが要求しているのは、改正の一つの方法として医療は厚生労働省に移せということです。受刑者の医療を、ちゃんと医者の立場としてみる為には 厚生労働省に移さなければ駄目であると。法務省っていうのは、いかに受刑者を管理するかという事が中心課題であり、すべてがそこを中心に回っているわけで す。そういう所だから、刑務所医療が医療の名に値するものではないわけです。実際に磯江さんの例で言っても、診察の申し込みをする。それも毎回出来るわけ じゃないですね。その前に看護助手というのがいて、医者にまで辿り着けないわけですね。なんとか辿り着いたとしても、彼の手紙に書いてあるんですけれど も、医者は一言も口をきかないっていうんです。普通であれば「どこが痛い」とか「ここが痛いのか」「どうなんだ」と、問診をするのが当たり前です。にも関 わらず一切口きかないっていうんですね。それでカルテだけを見て、看護助手に投薬だけを指示するという事です。そういった刑務所の医者の基本的な認識とし て、まず、この受刑者が嘘を言ってるのではないのかという事を考える。詐病ではないのか。つまり嘘を言って懲役労働から逃れて、病舎に移りたいが為に、つ まりサボリたい為に嘘を言ってるんではないかと。まず第一に疑うというのが、ずうっと続いてきた刑務所医療の実態なんです。そういったものを変えなけれ ば、受刑者が当たり前の医療さえも受けられない。そういった問題について、いろいろ取り組んでるのは今現在「監獄人権センター」、「CPR」と呼んでます が、そことあとは「救援連絡センター」です。
「監獄人権センター」の話を若干させてもらいますけれど、設立15年になります。今現在で言えば獄中者からの手紙が年に1,300通位来ます。前はそん な事なかったんですね。何でそんなに増えたかというと、2002年にあった「名古屋刑務所事件」をご存じでしょうか。名古屋刑務所で革手錠をされて、懲罰 ですね。後革手錠。それで放水を肛門にされました。ものすごい圧力がかかってる放水です。それで二名の受刑者が殺されたという事件がありました。その事件 をきっかけにして「行政改革会議」っていうのが出来まして、その中でいろんな改革の提案がされました。その「名古屋刑務所事件」が2002年でした。その 後に、2007年に徳島刑務所で暴動が起こりました。暴動の原因は何かというと……。2005年位から「監獄人権センター」に対して何通も徳島刑務所の受 刑者から手紙が来てたんです。徳島刑務所の医者が、例えば「頭が痛い」「風邪ひいてる」というような事でも、まず何をやるかというと、肛門に指を突っ込 む、それからつねるという事をやるわけです。それはもう本当に何人もの受刑者から「監獄人権センター」に訴えがあったのです。とにかく医者の治療などとは 全く違う、いわば拷問です。
そして、その実態を解明しようという事で弁護士会が動きました。弁護士会がかなり綿密に聞き取り調査をやりました。それが「刑務所医療改革に関する提案 シンポジウム」というパンフレットにまとめられたのです。これは画期的な事だと思います。それで、「名古屋刑務所事件」から始まって徳島刑務所というかな り象徴的な事があって、獄中者からの手紙がドーンと増えたんですね。実際に自分がどういう事で苦しんでいるのか、どういう医療がされていたのか。あるいは 看守にどういう暴行を受けたのか。諸々の相談が来ます。それが年間で1,300通位になってます。刑務所の実態が明らかにされるのは、ほとんどこういうか たちで、獄中者と、「監獄人権センター」や「救援連絡センター」が直接手紙でやりとりするという事によるんです。その相談の5割位は医療問題です。まっと うな治療を受けたいという医療問題です。
ただ、先ほど言いましたように医療といってもいろいろ幅があると思います。丸岡さんの例に端的に表れているように、刑務所の基本的な姿勢は管理ですか ら。医療つまり医者という面からみるという事は刑務所側としてはないわけですね。その実態を動かさなければいけない。なんとかして当たり前の事として「刑 の執行停止」が必要な人には必要な入院加療を出来るようにしたいという事です。刑務所問題、とりわけその中でも医療問題っていうのは非常にマイナーなの が、残念ながら現実です。「刑務所問題」で集まりをやっても本当に専門的なところで関心を持ってる人以外はあまり来ないんですね。だけども、やはり命の問 題として考えた場合には、先程も言いましたように監獄がこの社会を映す鏡であると考えますと、社会がどうなっているのかという事が監獄の実態によって、側 面からみて明らかになるだろうと思います。
非常に難しい問題ですけども監獄問題、処遇問題と医療問題に関わり続けていきたいと思っております。皆さんになんとか少しでもニュースを発信するようにしたいと思いますので、その時にはぜひ関心を持って見て頂きたいと思います。

質疑応答から
司会 中川さん、どうもありがとうございます。刑務所の話を聞けば聞く程とても常識でははかれないような事がおこなわれていて、本当に驚き です。あまり時間がありませんが、もし質問がありましたら、一人か二人位なら受け答えができると思います。どなたかありませんか。びっくりするような事柄 で、質問もしづらいかもしれませんけれど。
参加者A ひとつ疑問に思う事があります。磯江無期囚にしても泉水無期囚にしても、犯罪を犯して傷つけた被害者がいると思うんです。そうす ると、監獄に入っていても償いごととか、被害者の人権とか命について内省的にでも反省してると思うんですけれども。殺された人達にも人権がありますから、 その辺の問題については磯江無期囚なり泉水無期囚なりはどのようにとらえているのかというのをお聞きしたいんですけれども。
中川 その事については、なかなか本人になり代わって言う事は出来ないんですね。磯江さん自身は、言葉としては反省の弁は述べてないです。 私はその事に対しては、やはり彼自身がそこに突っ込んで考えるというのは、あるべき事だとは思ってます。でも、それは本人がどのように考えるかという事で す。それからもう一つ泉水さんの件ですけども、この本(『怒りていう、逃亡には非ず』松下竜一著)を読んで頂ければいいんですけども。最初の彼のいわゆる 「強盗殺人」、その共犯にされたわけですが……。その件に関してはこの中に書いてあります。裁判の過程での彼自身の主張とそれから責任については書いてあ ります。私がなり代わって言えませんので、ぜひこの本を読んで頂きたいと思います。
参加者B はい。今あちらの方がね、たぶんおっしゃりたい事は、犯罪を犯した人なんだから、そういった刑務所の医療や人権をことさら取り上げて問題にしなくてもいいんじゃないか、そういう事でしょう?
参加者A いや、もちろん刑務所の中での医療の問題とか人権の問題は確かに深刻かもしれませんけれども、一方でやはり無期囚の人達は傷つけた人の立場も考えるべきではないかという。まあ常識的な意見ですけど。
参加者B 僕も、常識的に思うんですけど、今ずっと話を聞いてすごく刑務所に対する怒りがわいてきたんですよね。どんな人であっても人権は あるわけだし、刑はいわゆる無期だったりなんだったりで、今ある程度償いをしている、刑務所の中に入ってるんだから。その人に例えばけつの穴に指を突っ込 んでもいいのかっていうと、それはありえない、それは怒らないといけないと僕は思うんですね。
参加者A そういう無期囚が、例えば起こした事件について反省の弁を述べたりすれば、処遇っていうか扱いもゆるやかになったり改善もみられたんじゃないかって推測するんですけれど。
中川 それは別の事だと思います。磯江さん自身が主張しているのは、実際の彼の内心は計り知れませんけれども、正しい事をやったと主張しています。言葉としてはね。ですけど、そういう事と今私が言った医療問題とか獄中の処遇問題っていうのは直結はしないと思います。
参加者A 何で直結しないんでしょうか。
中川 それは、やはり制度の問題だからですよ。簡単にいえば、刑務所に入って事件に対する反省もし、看守の言う事をそのまま聞いていれば、 じゃあ医療問題がいいように扱われるのかというと、そうではないんです。医療問題は刑務所側の制度として決めているわけですから。制度を動かさない限りは 駄目なんですよ。反省している人間がまっとうな医療を受けられるか、反省してない人間はその理由によってそうではないのかっていう問題では全くないと思い ます。実際に、刑務所の中から来た手紙を読み、そして医療に関するアンケートを読むと、そのように考えるしかないだろうなあと思います。刑務所の設備の問 題、医者の質の問題、医者の数の問題。それは全く足りないわけですよ。例えば歯科治療ですが、一年二年待つのは当たり前という状態。一年経って順番が来た ら「おお早かったな」というふうに言われる。医療の問題というのは、その施設に入っている人間に対して全体の問題としてあるわけですから。
参加者C 一つだけ思うのは、裁判所だとか検察だとか、まあ身近なところで言えば警察なんかは、前提として公平だという。罪を犯した人間に 対しても、被害者に対しても、どっちにも公平であるっていう幻想をね、僕らは持たされてるんじゃないかという気がすごくしてるんです。実際、身近な警察で さえ僕はちょっと疑わしいなって思った事なんべんもあるし。いや僕は警察に捕まった事はないですよ。ただ、そういうふうに思った事がすごくあるのに。それ でも、そういう所は公平にやってるんだみたいな感じがやっぱり自分の中にもあるのじゃないか。ちょっとこれは見方を変えてもいいのではないかと最近すごく 考えているんです。どっちが正しいとか正しくないとかわかんないんですけど、今話を聞いていて、そういうふうに考えた方がいいのではないかという感想を持 ちました。
司会 なるほど。それで、また蒸し返すようですけど、処遇というのは本来は犯した罪が重かろうが軽微だろうが、平等に受けられるっていうの が基本的なものでしょう。ですから、それがなされていないという事が問題なわけです。その具体例として磯江さんや丸岡さんのことが出されました。あと事件 に対して、被害者に対してどう思い、深い反省をしているのか、してないのかっていうのは別の問題で、また別のところで問われる事かもしれない。まあ裁判で は反省している人は罪軽くなったりしますよ。そういう事はあるかもしれませんけれど、こと医療や刑務所における日々の処遇に関しては基本的には平等でなけ ればならない。いわゆる権利としても。反省してない人はひどい処遇をされて、反省してる人はいい処遇を受けるというのは本来あってはいけないわけですよ ね。という事で、時間もありますので、この場はこの辺でお開きにしたいと思います。
中川 「監獄法」っていうのが100年間続いたんですね。その後に、さっき話した事件などがあって新法「受刑者処遇法」というふうになった んです。で、その中でやっと受刑者の医療はいわゆる社会一般並みのを受ける権利があるという事が書かれました。だけど、以前と変わってないんです。実態は 全く変わっていません。
[2010年・8月7日 planB]

関連書籍(パンフレット)の紹介

集会報告集
無期囚 磯江洋一さん 6・9決起30年 問われ続ける寄せ場・監獄・貧困..

主な内容
●磯江洋一さんからのメッセージ
●6・9闘争と寄せ場の闘い 松沢哲成
●磯江さんを支えて30年 丸山康男
●6・9以降の山谷の闘い 荒木剛
●厳罰化の流れの中での無期囚 山際永三
●獄中の処遇、医療について 永井迅
●「貧困」とは何か 加名義泳逸
●新人の弁護士として6・9事件の裁判を担って 内藤隆
●旭川刑務所の磯江さんとの25年の付き合いを通じて 八重樫和裕
●山谷からの報告 中島和之
●従兄弟として付き合って思うこと 橋井宣二
●アピール 宮下公園のナイキ化計画阻止へ
●会場からの発言
●有志による座談会
●クロニクル
●磯江さんの現在の健康状態と獄中医療問題について

103ページ 1200円
*購入希望の方はお問い合わせページから、連絡をおねがいします。

「見せしめ」のポリティクス

丸川哲史(台湾文学・東アジア文化論)

今晩は、丸川と申します。今、私の専門を紹介して頂いたんですけど、台湾文学というジャンルだけでは狭いので、大学では中国文学、中国映画、それから中 国の現代史、そういうものも教えております。話しながら自分がどういう人間かっていうことを紹介していった方がいいと思うんですけど…。司会の池内さんと は、実は劇団関係で知り合うようになっていたのでした。まず1984年ことです。この映画の舞台になっている年代に私は大学に入学しています。この映画 『やられたらやりかえせ』の最後のクレジットにも載っていましたけど、「風の旅団」という劇団がありまして、1985年、86年くらいにそのテント劇公演 を観に行った経験があったんです。そういう人間関係、グループ関係がありまして、この映画を観るのもおそらく4回目か5回目くらいということにはなりま す。あともう一つこの映画との因果を申し上げますと、身近に知っている人も出ているのですね。林歳徳さんという方がいらっしゃっていましたけど、あの方は 台湾出身の方で、明治大学の守衛さんだったんですね。私が入った頃、ちょうど守衛を辞める時期だったんですけども。その当時、いわゆる在日外国人の指紋押 捺拒否の運動をされていて、私もちょっと彼のお手伝いした経験があります。それで、守衛であった林歳徳さんは大変良い方で、我々の側と言うか、学生運動す る側がストライキやる時にですね、すぐに鍵を学生側に引き渡してくれるんです(笑)。そういう良い方だったんです、非常に協力的で。かつての大学では、そ ういう良き時代もあったのですね。しかしそれが崩れてしまって、で今私はそこの大学で教えているという、ちょっと妙な感じでいます。この映画を今この現時 点で観る時に、司会の池内さんから私に振られた話として、私が大学でアジアのことを教えていたり、アジアをネタにしてものを書いているということがあっ て、「アジア」とくっつけてこの『やられたらやりかえせ』にもう一度別の光を当てて語ることが出来ないかということでした。
私 は、あとは立教大学で映画史を教えていまして、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)という映画監督が中国にいるんですけども、その映画を観せていろいろ論評すると いうこともしています。それで何故か彼の作った作品と似た感覚を持つんですよね。何となく、共通の肌触りみたいなものがあるんです。どういうことかという と、例えば、『やられたらやりかえせ』の一番最後。争議団がある悪徳手配師を囲んで彼のやって来た罪状を白状させるシーンがありますね。その周りを労働者 のおっちゃん、おばちゃんが取り囲んで見ている。要するに、「見せしめ」ですね、その場面が映っていますね。ジャ・ジャンクーの第一作と言われている作品 で日本語の題名は『一瞬の夢』という映画があります。その映画の最後のシーンも、スリであるシャオ・ウーが捕まって、警察によってどっかに引っ張られて行 くんだけど、街中でお前ちょっと待っていろと言われ、手錠で腕を電柱かなんかに掛けられ放置されるシーンが出て来ます。しばらくそのシャオ・ウーをカメラ は映しているんですけども、そのうちにワラワラと集まって来るストリートの人間がファインダーに入って来る。そうすると結局、この映画を観ている観客が見 られていると言うか、観客がスリとして捕まった人間の位置に転換し、街の人々の視線を浴びるっていう構図になるんです。こういうことは、ある種普遍的と言 いますか、「アジア」的とも言える光景だと思うんです。もちろん、普遍性と言ってもいろいろな普遍性があると思うのですが…。『やられたらやりかえせ』で も最初のナレーションで、つまりヤマという土地が江戸時代には死刑執行人が死刑を執行し、そして死体を処理する、そういう刑場から発展したものだ、という 具合に街の由来が説き起こされていますね。権力と人間の死に関わる歴史的因縁があった、という前振りです。その連鎖として、この映画は、ヤマという土地を 表象しようとしている、という繋がりになっている。
私は、大陸中国には一年間いた経験がありまして、それから台湾にも三年いた経験があります。そういう経験の中で、処刑される身体、あるいは審判される身 体に出会わざるを得ませんでした。例えば台湾にいた頃のことですが、テレビのニュースの一部ですけども、重大な強盗殺人を犯した人間が処刑されるまでの様 子がずっとテレビで中継されるということがあるわけです。最後に手錠を掛けられた死刑囚が、「私は国家に対してすまない」とかって大声で叫んで刑場(屋 内)の中に入って行って、ズドーンって銃声が聞こえる――それを中継していました。これは1991年のことでしたから1990年代までそういう「見せし め」が通常のことであったわけです。それで大陸の方でも、2000年代に入ると公開の処刑はなくなりますが、公開審判というものがまだある。つまり広場の ような所に連れて来られて、裁判官が、お前はこういうことをおこなってうんぬん――そのようなプロセスがネット新聞などに載っているわけです。また、重大 な審判が下される法廷の様子はテレビで中継されるんです。いわゆる囚人といいますか犯人が、「はい、そうです」とか、「いや、そうではない」とか、弁明の 機会のようものも設定されています、そういうシーンを見る、とはどういうことなのか。つまりこれはヒューマニズムっていう言葉で簡単に批判できることなの か? 日本ではそういう習慣は基本的には既にありませんね。公権力によって、また公権力が自分自身の権能を全く隠してしまっている、ということです。そこでもう 一度考えたいのは、この『やられたらやりかえせ』が有する、いわゆる記録性というものです。1980年代の寄せ場というところで出てきたいろんな闘争と言 いますか、やっぱりこれは政治闘争記録なのだと思うのですけども、そういうものがきちんと記録されていて、それを私達が知ることが出来るという、根本的な 意味での記録性です。
さて、私が言いたい普遍というのはこういうことです。ミシェル・フーコーという人が『監獄の誕生』という本を書いた。この本には「監視と処罰」という副 題が付いています。この第1章と第2章の中でかつての「身体刑」のエピソードが出てくる。つまり処刑する時に身体そのものに打撃を与えて死なせて行く。そ して大衆は、それをずっと見守るわけです。骨を砕いたり、馬を使って身体を引き裂いたり。また、熱い鉛を身体にかけたりとか。またその際に、キリスト教の 導師がいちいちその囚人に向かって聞くわけです。「お前は、悔い改めているか」とかですね。そしたらその囚人が、「神のご加護を」と言うのか、あるいは神 に唾するような何かを言うのか、というようなことを大衆が見守る。どんどん刑が進行していって、最後その人間が絶命するまで見届けるわけですね。しかし、 そのような身体刑は手順がきちんと決まっている。ある種の作法に則ってやっていることですから、それに反したり失敗すると執行する側も後で処罰されること になっていた。しかし時代が下って来ますと、その身体刑が消えていくわけです。次に何に変わっていくかというと絞首刑なりギロチンになっていくわけです。 この時にフーコーが言っているのは面白くて、つまりギロチンになったのは「ヒューマニズム」が浸透したからだ、と言うのです。つまり苦痛の時間を出来るだ け縮減するためなんだという、こういう考え方が出て来る。つまりそれまでは、完全なる祝祭空間がそこで機能していたわけですが、それが「残酷なものであ る」ということになって、その苦痛の時間をどんどん縮減し、ギロチンになって、さらに密室の瞬間の死刑になって行く。そして最後に、フランスの場合には死 刑を廃止するという、こういう順番になって行くわけです。このような死刑に関わる人類史からすると、フランスという国はつまり「進歩」の国ですから、最後 には死刑廃止にまで突き抜けていく。しかしその間にあるプロセスにおける「進歩」の内実は、実は私たち東洋人にとって必ずしも自明なものではない。こうい うプロセスは、そのままアジアの国で「実現」するかというと、多分そういうふうにはなかなかいかない。もちろん私は、死刑廃止賛成派であるわけですけれど も。しかしこういった人間の死というもの、つまり権力がある人間に対して加える死というものをどのように考えるか、という際に、フーコーが企図したような 記録は決定的であるように思います。
これまでフランスの話をしましたけども、中国の場合には次のようなことがあったんです。みなさんご存じでおそらく読んだことあると思うんですけども、魯 迅という人の小説に『阿Q正伝』というのがあります。最後はやっぱり処刑のシーンですよ。で、それからまた別の魯迅の自伝的な小説で『藤野先生』という小 説にも処刑のシーンが出て来ます。つまり自分の同胞が処刑される幻燈(スライド)のシーンを観て、仙台医科専科学校にいた魯迅はそのショックのために、医 学をやめて文学を志すという、ある意味では神話化された有名な話ですね。いずれにせよ、魯迅という人は処刑に非常に敏感に反応していた作家であるわけで す。魯迅は処刑を記録し続けていた、と言えるでしょう。『阿Q正伝』が書かれたのは1921年前後なんですけども、この時に魯迅はこういうふうに言いま す。阿Qが処刑されている時の観客は「狼の目」だって。つまり残酷な眼差しだという感覚です。これが阿Qの滑稽さとかも含めて、魯迅の1920年代前半に おける処刑と人間に対する観方だった。しかしその後魯迅はこの処刑という問題について別の記録を遺します。それは、1936年で魯迅が死ぬ直前のことで す。魯迅の書いた有名なエッセーとして「深夜に記す」があるんですけども、この中で魯迅はこのように言っております。自分はかつて公開処刑というものは残 酷なもので、非常に不快なものだ思っていた。しかし私は少し考え方を変えたい、と言ったわけです。その間に何が入っているのかというと、国家権力による大 量虐殺が起きています。それからもう一つ重大な出来事は、1931年満州事変が起こる年ですけども、自分の弟子達が反動政府によって闇で処刑されるという 出来事が置きます。捕まって密室で処刑されたわけです。どこで死んだのかも年月もはっきりわからないまま自分の弟子、一番愛していた弟子達が殺されること になりました。で、魯迅は先ほどの「深夜に記す」というエッセイの中で、要するに、「密室の死の方がよほど寂しい」と言っているのです。中国語で「寂莫」 という字で「ジーモウ」と発音しますけども。よほど恐ろしいことなんだ、と言ったわけです。その前提として、国家権力が人間の死をどのように演出するの か、その手法が激変していたわけです。それは虐殺であり、また密室の処刑です。そうすると文学者たる魯迅も、それに対して「態度」を変えなくてはいけない ということになった。
しかし魯迅に即して考えますと、公開の処刑の方がよっぽど良いというような結論ではない。つまり時間を逆戻りにすることはおそらく出来ないということで す。しかし人類史的に言うと、権力が与える人間の死の光景が大衆によって欲望され享受されてきた歴史が厳然としてある。フーコーが言っているのは、大衆は そこで何を聞きたいのかというと、「真実」の声を聞きたいという欲望です。身体の上に課せられる刑罰によって絞り出される声、それを聞くことによって「真 実」が開示される、と信じていたということです。しかし、そういうことをやめさせたわけですね。なぜやめさせたか、様々な観方があるわけですが、一つに、 囚人が実は潔白である可能性があるということになると、刑を執行する権力に対して大衆は逆に反逆するという事件が起きてくるわけです。最終的にフランス革 命では、死刑を執行していた側がギロチンによって斬首せられる、ということになる。つまり、処刑する/されるの関係がひっくりがえるわけです。元々は権力 の強さを見せつけるために「身体刑」を施していたわけですが、やればやるほど権力主体の疑わしさも露呈され、最終的には大衆の反乱が懸念されるようになっ た――その関係の反転を禁ずるということが処刑の秘匿化であった、ということになる。こう言った観点から観るならば、実に中国や台湾という社会は、さきほ ど言った「真実」の声を聞きたいという欲望がまだ禁圧され切っていない社会、ということにもなります。いわずもがなのことですが、何が理想的な社会状態 か、ということは私は申し上げていません。ただいずれにせよ、私たちは、そのような中国や台湾と同時代史的に生きている、ということです。
その意味でも、ジャ・ジャンクーの『一瞬の夢』の最後のシーンがやっぱりものすごく面白い、爆発的に面白い。つまり大衆が罪を帯びていると考えられる人 間をストリートから観るということ、またその罪人を観ている民衆を見返すということは、どういうことか。それはつまり、何千年もの歴史の堆積を堆積として 受け止めつつ、それを反転した結果であるわけです。で、こういうことが「アジア」的と言っていいのかどうかわかりませんけども、私が言いたい問題の磁場で す。またちなみに、農民人口がまだ55パーセントから60パーセントある中国においては、田舎町に行けばそういうような感覚を持った人間がまだ大勢いると いうことです。多数派だと思うんです。そういうものと私達の社会は実は地続きなのです。中国社会で生産されているモノを食べ、それらを購入して生きている のですから。そういう地続きである中国において農民暴動とか、工場における争議とか、そういうことがまさに巻き起こっている。1984年、85年に撮られ 『やられたらやりかえせ』のような現場は今の中国に地続きにある、というふうに考えていいと思うんです。で、そういうことの中にあって一番つまらないの は、「日本社会と違っていまだに野蛮なことが行なわれているんですね」という反応です。はじめに魯迅が1921年段階で書いたようなことですけども、その 次に魯迅が1936年に書いたことを見せて、それを引っくり返すというのが私の大学での授業なんです。
そこで、1920年代から30年代にかけてどのような変化があったのか、もう少し補充した方が良いようにもいます。先ほど言いましたように、それ自体、 中国における戦争と革命過程が深化して行きまして、国家権力は、死刑を密室化していくという傾向を帯びるわけです。これは世界的な同時代性としても考察で きることです。国民党政権というのは1930年にですけど、かなり強い体制を確立したわけですが、その30年代の模倣モデルは実はドイツなんです。 1937年くらいまではドイツと非常に蜜月期にありました。蒋介石という人はある時期まで非常にヒトラーの物真似みたいな服を着てですね、ちょび髭も生や していました。それ以前の中国は、孫文と共産党による合作期ですから、ソ連がモデルなのでした。いずれにせよ、その時に考えるべきことは、中国は、中世的 な残酷さを残しながらも、国家の「進歩」にあった、ということです。しかしそれは魯迅が遺した言葉で言うと、以前の地獄に対してより強烈な地獄、昔の地獄 を覆い隠すような地獄がやって来ているんだ、という知見に繋がります。そこで向かいの地獄が懐かしい、美しいイメージになってしまう、と述べていました。 「失われたよい地獄」というエッセーが、『野草』という短篇小説集に書かれています。つまり魯迅の意図したものは、そのような意味での「進歩」の観念を壊 していくということでした。そういうのがおそらく、「アジア」的な批評なのだ、と思います。
で、日本の場合にはみなさんご存じのように、死刑囚といわれている人々は親類以外の接見を禁止されるわけです。まさに新しい地獄ですね。権力が人間に与 える死を極限にまで匿秘化しようとしているわけです。こういうふうに考えてくると、こういう映画、つまり『やられたらやりかえせ』のあのラストのシーン ――公開審判という形でその場を、政治的な場を構成するという民衆の力ですけれども――こういう政治の磁場がきちんと記録されていた、ということです。こ れは本当に素晴らしいことだ、と私は思います。で、こういうことを今どのように実現するのかということで、イメージでこういうものだ、とは中々言えないわ けですが。やはり例えばテント演劇ですね。テント演劇の中で試みられていることとは、つまりこの『やられたらやりかえせ』でやっていた、「見せしめ」とい う名のコミュニケーションの再現動化であるわけです。ある「電圧」をかけられた身体、その身体から絞り出される声に「真実」を見たい、あるいは見せたい、 という欲望。そういう欲望は、やはり人類史の中から、私たちの中から消えないと思うのです。それをまた花開かせて革命に持っていきたいのか、と言われた ら、それはちょっと自信持って言えませんけども。だけどもそういうものが社会の中から消えないのは、つまりテント演劇みたいなものを観たいという欲望が社 会の中に、まだあるからです。で、そういうことがおそらく「アジア」的なものなのだと思います。

司会 どうもありがとうございます。最後テント演劇ってさっぱりわからないかもしれないんですけども、僕とか何人かがテントで芝居をやって いるっていう経験、最初に丸川さんがおっしゃった80年代に「風の旅団」というテントでの芝居をご覧になったということに結びつくという話でした。時間が そんなにはないのですけど、みなさんのご都合によりますけど、何か今の丸川さんのお話に関してご質問があったら。じゃあどうぞ。
参加者A 大変興味深いお話でありがとうございました。権力と人間の死ということを人類史的問題として捉えるという視角はとても興味深かっ たんですけれども。こういう人類史的な問題ということになると釈迦に説法になってしまって恐縮なんですが、ヘーゲル経由でマルクスが「人類史のアジア的な 段階」ということを言っていて。それが吉本隆明なんかは特別の意味合いを込めて重視しているというようなことがあるわけなんですけれども。あと公開審判っ ていうのが今でも残存しているということにおいては、まあ吉本風の言い方にしちゃうと、共同幻想の中に残っている「幻のアジア」みたいなことになるんじゃ ないかと思うんですが。そういう点で、「アジア」的なものというのは貫徹されているのかどうか。だから丸川さんは批評をする立場としての「アジア」的とい うことをおっしゃったんですけれども、制度の側にその「アジア」的な問題っていうのは残存しているのかどうか。そこにおいて日本というのは異質なものとし てあるのかどうかという点をおうかがいしたいと思います。
司会 かなりハードな質問ですね。
丸川 高度な質問でびっくりしましたけど。そうですね、「アジア」というのはやっぱり多様なので、半島のアジアと、列島のアジアと、大陸の アジアとかいろいろあるとは思うのですけれど。中国だけに視点を移しますと、皇帝権力的なもの、ずっとこう、毛沢東もそういうものの化身として考えられる というようなことはまあよく言われておりますけれども。わりとヘーゲルが定式化したような考え方からすると、中国の場合すごく面積が広くて、また河が長い ですね。そうすると、ぜひとも、農業社会を成立させるために潅漑工事をやらなくてはいけない。その長い河を管理するためにどうしても広域権力が必要だとい うことになります。それが皇帝型権力の起源にある。ヘーゲルが言ったように、だからギリシャとかそういう入り組んだ海岸線のある土地はそういう社会形態は 採り得ないんです。皇帝権力ではなくて都市国家という形で、ポリスという形で政治がおこなわれる。いわゆる西洋によって理想化されるシティズンがその都市 国家から生まれる、というストーリーになりますね(しかしその代りに、シティズンではない奴隷が必要にもなる)。谷川雁という人は、中国との対比におい て、日本社会の特色を言おうとしていました。日本の社会の二重性というコンセプトですね。建前としての国家と実体としての共同体社会の二重性がそこから生 まれる、などと言ってました。一方、常に私の大学での授業でもそうですけれど、学生は得てしてつまらない比較論にはまってしまう。それは日本内部のどうし ようもないぬるい空気の反映にすぎないのですが。その時に例えば先ほど言いましたけれども、ヨーロッパからの補助線を引いて、例えばフランスでなぜギロチ ンに到ったというと、それは「ヒューマニズム」だったというような刺激的な言い方をわざわざして、物事を分からなくさせる、という手段を講じています。ま たさらに逆のことを言いますと、中国の方がいわゆる西洋型のいろいろなものを取り入れて、それを革命に転化してきた歴史があります。つまり、西洋の文脈を 逆なでしながら、マルクス主義国家を新たに作ったわけです。ただ一見すると、あきらかに中国の方が頑固に自分自身の何かをずっと保存しているという傾向も 見受けられるわけです。そこで中国現代史は、結果的に「進歩」の幻想から逃れることによって自身に回帰した、という言い方が成り立つのだと思います。そう いった特色が最も色濃く出ている思想が魯迅にはありますね。
少し話題がズレますが、日本においても、いわゆるアムネスティ・インターナショナルなどという組織の支部があって、フランス型の運動を行っているわけで す。死刑制度廃止も含めて。しかし忘れてはならないのは、死刑にかかわる問いは1970年代における東アジア反日武装戦線といわれている人達のある種の一 連の行動を受けたところから出てきた思想として取り扱わなければ意味がないように思います。人を殺傷してしまった、爆弾で。そのことを反省しながら、しか しまた死刑に反対する。記録するに足りると言ったら変だけど、今でもその運動は続いているわけです。そして、まだ生きているのです、監獄の中で彼らや彼女 らは。先ほど私が言いましたけども、独特の反応の仕方で権力と死の問題を捉まえて、それをずっと表現してきた歴史が1970年代からずっとある、ってこと だと思うんです。『やられたらやりかえせ』もその途中で出て来た一つの作品(記録)であるわけです。こういったことが、つまり「アジア」的な主題である、 と私は思うわけです。さらに遡れば、どこから始まるかっていうと1910/11年の大逆事件です。その大逆事件と繋がっているのは、まさに韓国併合という 暴力であるわけです。こういうことを前提にして考えるということが、やはり「アジア」的な批評なのだと思います。
司会 大逆事件からちょうど百年ということで。
丸川 そうですね。
司会 東アジア反日武装戦線、75年にパクられてますんで、35年という時間軸の中で今話されました。ただ、ちょうどこの場は時間というこ とで、今日はここでいったん終わらせて頂きます。ですが、時間のある方は隣に移って具体的な話を丸川さんを交えて話したいと思います。それから、ここに NDUの井上さんがいらっしゃっていますが、明日はこのシリーズの最後で『出草之歌』を上映して、井上さんご自身が登場して何かをやります。『出草之 歌』、ご覧になってない方は、これは絶対に必見ということでぜひお薦めしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

plan B映像週間第1弾「NDUの軌跡」&『山谷やられたらやりかえせ』

NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)は、「早大150日間ストライキ」を担った早大中退者を中心に1968年に結成された映像集団である。その映画 づくりは小川プロ、土本典昭らと同時代にあって学生運動高揚期から長期にわたって闘争の現場を撮り続けてきた。その視線は労働者・学生運動とベトナム反戦 でもりあがる新宿から、沖縄―先島諸島―台湾―朝鮮半島へと歩を進め、国境をまたいで流浪する労働者の姿を追い続け、「“アジア”への視点」を独特の地平 から切り開いていった。


■日時:6月1日(火)〜6月6日(日)PM7:00〜(上映後、ゲストのトーク)
6/1【火】「出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦」(2005年/112分)
ゲスト:桜井大造(野戦之月海筆子)
6/2【水】「鬼ッ子 闘う青年労働者の記録」(1969年/78分)
「倭奴へ・在韓被爆者無告の二十六年」(1971年/52分)
ゲスト:土屋トカチ(映像作家『フツーの仕事がしたい』監督)
6/3【木】「沖縄エロス外伝・モトシンカカランヌー」(1971年/87分)
ゲスト:小野沢稔彦(映像作家・批評家)
6/4【金】「アジアはひとつ」(1973年/100分)
ゲスト:平井玄(音楽批評)
6/5【土】〈特別上映〉「山谷─やられたらやりかえせ」監督 佐藤満夫・山岡強一(1985年/110分)
ゲスト:丸川哲史(台湾文学・東アジア文化論)
6/6【日】「出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦」(2005年/112分)
ゲスト:井上修(NDU)
■場所:plan-B:地下鉄方南町線(丸の内線)中野富士見町駅下車5分
東京都中野区弥生町4-26-20モナーク中野(地下1階) 03-3384-2051
■『山谷─やられたらやりかえせ』(監督:佐藤満夫・山岡強一)以外の5作品は企画・制作/NDU
■料金:1日券1000円、通し券3000円